韓国漱石研究会講演                           一覧 ホーム
            夏目漱石の前期三部作と過去  
                               
 アンヨン ハシムニカ
 皆さん今日は。生まれてはじめて韓国語を使いました。そして、私の知っている韓国語はこれだけであります。
 恥ずかしいと思います。

 日本人は、かつて韓国を三十六年間支配してきました。不幸な関係ではありますが、きわめて密接な関係を持っていたわけであります。しかも、日本人で韓国語ができる人はきわめて少ない。

 言葉を知らぬということは、その国の人民の風俗・文化、その心を知らぬということであります。日本人は何も知らずに韓国・朝鮮を支配したのであります。その支配が結局はひたすら武力に依存する暴力的なものになったのは当然であります。
そのことに気づき、私も何度かハングルを学ぼうとしたのですが、すでに、七十歳になっていてはなかなか困難で、そのたびに挫折したのであります。

 私が韓国を訪問するのは、どうしてかとお思いでしょうが、これが初めてであります。本来なら、すでに何度も来ていなければならないのですが、機会をうしなってしまいました。

 実は、私はいまから三十年くらい前に北朝鮮を訪問したことがあるのです。祖国自由往来とか帰還運動とかいうのがあって、私はそれを支持する運動の片隅に連なっていました。そのため、神奈川県の学者グループの一員として招待されたのであります。神奈川県は在日韓国・朝鮮人がもっとも多く居住する県の一つであります。

 その後、金大中の拉致事件があり、私は在日韓国人のグループとともに、その救出支援活動というのに、これもまあ尻尾について参加しました。当時は金芝河も徐兄弟も獄中にありました。

 こんなわけで、私は韓国を訪問できなかったのです。韓国総領事館というところから、なにかものものしい年賀状をもらったりしました。それは、私たちはお前のことはちゃんと登録しているからな、というシグナルのように思われました。

 その後、金大中さん、盧武鉉さんが大統領になりました。私はその南北融和政策、さらには東北アジアの共同体構想に強く共感しています。

 日本と韓国の関係は戦後も緊張があったと思いますが、最近は「冬のソナタ」の異常な人気に見られるように急速に好転していると思います。

 かつては韓国の日本文学研究者も日本の作家と作品に対して、その帝国主義的側面を強調して、個々の作家、個々の作品をその内面に立ち入って精密に検討するということはなかったと思います。

 しかし、最近はそうではないということを、インターネットで知り合った金正勲さんなどを通して知りました。金さんが編集された漱石の評論・講演集は、韓国の現実にもかかわりのある評論・講演を集め、とくに、「点頭録」を収録している点で、私にはきわめてすぐれた編集だと思われます。

「点頭録」は漱石が死んだ年の新年に発表した文章で、自分の生涯をふりかえり、自分の一生はまるで夢のようで、無とも思われるが、しかし、またそれはたしかに存在したのであり、私は自分の生存に責任を持たなければならない。それはいわば無でもあり、有でもあるのだ。自分はこの一体二様の見解を抱いて、一年命が延びたことにあらゆる意味での感謝をして、羸弱なら羸弱なりに、自己の天分の有りたけをつくそうと決意したと述べています。

 そして、当時は第一次世界大戦の最中だったのですが、この世界大戦を論じ、軍国主義とその源流となったトライチケについて、新聞連載の八回をついやして論じているのです。これは、漱石がどれほど深く戦争の現実を見つめ、それについて考えていたかを示す文章で、きわめて意味深いものだと思われるのです。この漱石の最後の大事なエッセイが、日本では一般に手に入れやすい形では出版されていません。それは日本の漱石研究者が、漱石の時代に対する鋭く深い関心を軽視している、あるいは排除していることの現れであります。このような日本の一般的な漱石観に対して、金さんのこの漱石評論集ははっきりと対立し、一貫して漱石の時代と社会に対する強い関心に焦点をあてて編集されているのであります。

 すでに韓国の漱石研究者は尹相仁さんの「世紀末と漱石」をはじめ、日本の漱石研究に新しい独自の見地を開くすぐれた漱石論がでておりますが、私は韓国の漱石研究が漱石を深く学びながら、日本の一般的な漱石研究の世界に対して、独自の漱石研究を切り開いていることに深い敬意を表するものであります。ここに韓国の日本文化研究の新段階があると思います。

 私は韓国の漱石研究者に会っていろいろ話したいと思っていましたが、今日、その機会をあたえられ、大変うれしく思っています。ただ、あまりに急なことで、何の準備もできず、きわめて粗雑な報告しかできないのは大変残念なことであります。

 私は漱石の文学にとって、「過去」の問題がきわめて重要な、一つの中心的な問題であると考えるようになっていましたので、今度の研究大会が三部作をテーマにすると聞き、深く考えることもなしに、「漱石の三部作と過去」という題で話そうと決めたのであります。この問題について、私のはっきりした考えがあって決めたのではない、きわめてあやふやな決め方でした。

 しかし、韓国に来て考えてみると、これは大変なテーマだと思われて来ました。もちろん、日本と韓国の過去について考えなければならないからであります。そして「過去」という言葉に注目して漱石の文学を考えると、この言葉に対して「昔」という言葉が浮かびあがってきます。

 私は韓国に着くとすぐから、思い出すのが辛い両国関係の過去について思わないわけにはいきませんでした。釜山といえば関釜連絡船のこと、昔、私が強い関心を持った金達寿の「玄海灘」のことを思い出さずにはいられませんでした。この釜山から多くの韓国人が日本にわたって行ったのでした。彼らはどんな思いで日本に渡って行ったのでしょうか。そして、多くの日本人がやはり、この海峡を渡ってやって来たのであります。彼らのなかにはサーベルを下げた人々も多かった。当時は、学校の先生もサーベルを下げていたと聞いたことがあります。

 それはもう「昔」のことだという人があります。
 しかし、それが両国間の忘れることのできない「過去」だということもできます。
 このように「過去」と「昔」をならべてみれば、「過去」はいまとの連続性が意識され、「昔」はいまとの断絶、対照性が意識されていると思います。

「それはもう過去のことだ」という場合は、連続を意識しながら、それを切断しているのだと思います。
 あの三十六年はすでに「昔」のことで、単に回想の対象に過ぎないのか。それとも、いまにつづく重大な「過去」で、いまの問題なのかが、いま、問題なのだと思います。

「三部作における『過去』」を考えようとして、「過去」と「昔」という二つの言葉の差異について考えさせられましたので、申し上げました。言語学的には明確な説明がされることだと思いますが、私は怠け者でその方面には不案内なので、ただ、感覚的に考えてみました。皆さんの方がこういう問題にはおくわしいことと思います。

 漱石の文学にとって「過去」の問題は重大なテーマだったと申しましたが、初期の作品では、これはほとんど問題にならず、中期から後期にかけて、次第に抜き差しならぬ問題になって来たのです。

「吾輩は猫である」の猫は生まれて一年くらいで死んでしまうのですから、過去は問題になりません。主人にしても迷亭、独仙にしても、「昔」の学生時代のことは話題になるが、彼らの現在にかかわりのあるものとしての「過去」は問題にならないのです。
「草枕」も「余」はどこから来てどこへ行くのかわからない。那美さんの「過去」は語られるが、それは那美さんに意識されることがないのです。

「野分」の高柳君には父親が公金費消の罪で拘引され、獄中で死亡するという過去があり、そのために悩んでいるが、それは父の罪で、高柳君自身の過去ではない。白井道也は「それは切ないに違いない。しかし忘れなくっちゃいけない」と言います。「あなたの生涯は過去にあるんですか未来にあるんですか。君はこれから花が咲く身ですよ」と言うのです。未来に向かって前進する精神が中心で、過去は切り捨てるべきものでした。

 漱石の文学で「過去」が、大きな意味を持ち、作品の中心的主題になるのは、『朝日』入社直後の「虞美人草」からでした。
 「過去」という語の使用頻度は「吾輩は猫である」2件、「坊っちゃん」0件、「草枕」1件でした。「野分」は10件ありますが、その用法は前述の通りでした。ところが、「虞美人草」になると31件で、たとえば、次のように使われています。


 小野さんは子供のときから養い育ててくれた井上親子のことを忘れて、東京で富裕な外交官の娘と結婚したいと夢見ている。井上老人は、娘と小野さんが結婚することと信じて、小野さんをたよって上京して来たのです。
 忘れたい「過去」が追いかけてきて、小野さんの「現在」と「未来」をおびやかす。このテーマはさまざまに変形されて、「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こころ」「道草」「明暗」とこの後の漱石文学の中心的主題となります。

 この言葉は、「道草」の世界が「虞美人草」の世界と重なり合うのがあることを示しています。子供のころ世話になった島田が突然あらわれて、そこからこの作品は展開されるのです。健三は過去を忘れていた。その過去が突然よみがえり、現在の問題になります。健三はうらぶれた島田に対して嫌悪の情を覚える自分に罪を感じていたのではないでしょうか。
「道草」の直前のエッセイ「硝子戸の中」でも、当時の世界大戦と自分の病気を関連させて、「継続中」ということを言っています。ヨーロッパの戦争と同様に自分の病気は「継続中」なのだ。しかし、「継続中」のものは自分の病気だけではないだろう、だれの心の奥にも「私の知らない、また自分達さえ気のつかない、継続中のものがいくらでも潜んでいる」のではないか。もしそれが、彼らの胸に響くような大きな音で一度に破裂したらどうだろう。

と漱石は書いています。

 遠い過去からいまにつづき、そして未来につづく連鎖のなかに自分はいて、自分はその過去の罪過を忘れているが、それが突然いまの問題としてつきつけられる。「夢十夜」の第三夜、背中に背負った子供が急に重くなり、「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」と言う夢の話は、漱石の作品に形を変えてくりかえされるのであります。

 この問題はアジアに対する日本の問題だと考えることが出来ます。英国留学中、三月十五日の日記に次のような言葉があります。

 また、おなじ頃の断片には次のように記しています。

 すこし後の文章でありますが、1911年に発表した「マードック先生の『日本歴史』」には次のように書いています。

 漱石は日本がアジアの一員として、中国文化の恩恵を受けて発展してきた過去があるにもかかわらず、これを忘れ、ひたすら西洋を模倣し、中国を馬鹿にし、中国と戦って、近代国家として発展し、それを誇りにしている。しかし、その内実は軍備に追われて悲惨なものだと言っているのであります。

「虞美人草」の小野さん、「道草」の健三の問題はこの日本の近代化の問題と重なり合うものがあるのではないでしょうか。それは漱石自身の問題であると同時に、日本の近代化の矛盾を示すものでもあったのです。そして、日本はどこへ行くか。

 漱石の小説の主人公たちは、よみがえる過去と出会って自分自身を発見し直すのですが、日本は過去をふりかえる余裕もなしに、ひたすら、前へ前へと突き進んでいる。その日本の未来を、漱石は憂慮と不安をもって見つめ、「危ない、日本は危ない」と警告を発しているのです。

 さて、「虞美人草」のあとにつづく所謂前期三部作でありますが、「三四郎」は過去を見捨てて未来の夢を見る青年たちを描いています。

 政治の自由を説いたのは昔の事である。言論の自由を説いたのも過去の事である。自由とは単にこれ等の表面にあらわれ易い事実の為めに専有されべき言葉ではない。吾等新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会したと信ずる。

 与次郎の言説は過去との断絶を説き、たいへんな大気炎ですが、内実がありません。抽象的な、歯の浮くような美辞麗句の羅列でした。広田先生からは「例えば田の中を流れている小川の様なものと思っていれば間違はない。浅くて狭い。しかし水だけは始終変わっている」と評されますが、「こころ」の先生の言葉を借りれば「背景がない」のです。「背景がない」とは、「過去」がない、「過去」の体験に裏づけられていない、自己がないということなのでしょう。当時の先端的な流行思想を生かじりにして、あれこれと声高に語っているのです。

 三四郎も与次郎と同年齢くらいの青年で、「過去を脱ぎ棄て」て、田舎から上京して来たたばかり、田舎=過去の匂いを残しています。与次郎ほど「新時代の青年」ではありません。

三四郎には三つの世界が出来た。一つは遠くにある。与次郎の所謂明治十五年以前の香がする。凡てが平穏である代りに凡てが寐坊気ている。尤も帰るに世話はいらない。戻ろうとすれば、すぐに戻れる。ただいざとならない以上は戻る気がしない。云わば立退場の様なものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さえ此処に葬ったかと思うと、急に勿体なくなる。そこで手紙が来た時だけは、暫くこの世界に洲徊(ていかい)して旧歓を温める。

 この作品は新時代と旧時代、いまと昔が対照的に扱われていて、「過去」との対決がありません。この作品の「過去」という語の頻出度は5件で、「昔」は22件であります。「昔」という語は、主として与次郎が新時代と比較して、嘲笑するために使われており、また、広田先生が今と昔を比較論評するために使われています。

 新時代の若者はひたすら過去を否定して、新を求めるのですが、ひたすら過去を否定する彼らには自己がなく、思想や生活の根がありません。「新時代」を浮遊するばかりで、それぞれにstray sheepであることをまぬがれないのです。

 広田先生には過去があるようですが、過去との葛藤は描かれていません。「新時代」にたいしても、鋭い批評は加えるが、これに働きかけることはしないのです。別世界に住む、観念的な批評家だったといえるでしょう。

「三四郎」は「新時代の青年」たちを描き、その矛盾にも触れていて、新時代に対する批評はありますが、新時代を生きる青年の苦悩を描こうとはしませんでした。

 画家の原口の言葉ですが、「三四郎」は新時代の青年たちの表層を軽やかに描いた作品ですが、過去をにない、時代の暗黒を見つめる広田先生を登場させて、新時代の風俗とその矛盾を批評的に描き出すことに成功したのです。

 三四郎は突然として、始めて池の周囲で美禰子に逢った暑い昔を思い出した。

 三四郎にとって、それはもう、「昔」のことであり、回想の対象であって、自分の生涯を決定するようなものとしては自覚されていません。

 これに反して、「それから」では「過去」が「突然現在に変化し」、代助の「現在」を破壊するものになります。この「過去」と「現在」の葛藤を通じて、現代の苦悩が描き出されたのです。

 代助は二十世紀の先端的な存在として登場します。過去を切断し、現実社会から退避してつくりあげた自分だけの高級な趣味的世界に閉じこもる代助の生活は、「現代的」ではありましたが、空虚でした。その「現在」の虚偽性は三千代という「過去」があらわれることによってあばきだされ、その崩壊によって、現実と対決する場所へと突き出されるのです。

「それから」には「過去」が10件、「昔」が37件使われています。代助は過去の自分から遠ざかり、いまの自分と平岡は、昔の自分と平岡とはまったくちがってしまったと強調します。しかし、三千代は代助を忘れることができませんでした。当時のことは三千代の内部に忘れ得ぬ過去として生き続け、彼女の生活を破壊しました。

代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩う強い香の中に、残りなく自己を放擲した。彼はこの嗅覚の刺激のうちに、三千代の過去を分明に認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟の如く這い纏わっていた。彼はしばらくして、

「わが昔の影」がまつわりつく「三千代の過去」と向き合った代助は、特権的「現在」の虚構の生活を脱し、生まれて始めて「自然の昔」に帰って、「再現の昔」を経験したといいます。ここで注意しなければならないのは、「自然の昔」とか「再現の昔」というのは、かつて代助と三千代が行き来していた昔を指すのではないということです。

 当時の代助は「自己の道念を誇張して、得意に使い回していた。鍍金を金に通用させようとする切ない工面」をしていたのです。だから、三千代に惹きつけられながら、三千代を棄ててかえりみませんでした。この自然にそむき、決して、自由な存在ではなかった過去を否定する現在が、さらに三千代によって否定されて、生まれてはじめて「自然の昔」に帰り、「再現の昔」を経験したのでした。そこで絶対の愛が成立し、「純一無雑に平和な生命」が見だされたのでした。「欲得」も「利害」も「自己を圧迫する道徳」もなく、「雲のような自由と水のような自然があった」と言うのです。

 しかし、それは同時に現実においては罪とされ、特権的な平安をうしない、器械のような社会と戦って生きなければならなくなることでした。

 代助は職業をさがしに行くといって、真っ赤に燃える街のなかを、どこまでも電車に乗っていきました。
 代助は自然にそむき、三千代を見捨てた過去のために、孤独で空虚な現代人の生活をしなければならなかった。その過去を回復し、「自然の昔」にかえり、「再現の昔」を経験したとき、社会から罰せられたのでした。

 これに対して「門」の宗助は、「自然の大風」に吹き倒されたために、友を裏切り、その罪を生涯背負って、ひっそりと、社会の片隅に生きることになりました。 

 一般に「門」は「それから」の続編であると見られているようですが、私は二つの作品を連続的な世界ではなくて並列された対照的な世界であると思います。二人はほとんど同年齢ですが、青春の日に自己の自然にそむいて三千代を見捨てた代助と、「自然の大風」に吹き倒された宗助、この対照的な二人のその後の運命が描かれていると思うのです。

 当時の自分から遠く離れ、すべてを「昔」のこととして葬り去ろうとした代助は、その「過去」に復讐され、苛酷な生存競争の大地を彷徨することになるのですが、宗助はその「過去」をにないつづけ、絶えず「過去」に脅かされながら、社会の下積みとして生きつづけるのです。「それから」から「門」へと、漱石文学において「過去」は次第に重みをまして、宗助夫婦の生活を身動きできないものしていきます。

「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君は漸く気が付いて口を噤んでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、何時の間にか、自分達は自分達の拵えた過去という暗い大きな窖の中に落ちている。

 宗助は過去を振り向いて、事の成行を逆に眺め返しては、この淡泊な挨拶が、如何に自分等の歴史を濃く彩ったかを、胸の中で飽まで味わいつつ、平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐ろしがった。

 宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び蘇生して、自分の眼の前に活動している様な気がしてならなかった。時には、はらはらする事もあった。又苦々しく思う折もあった。

「門」には「過去」が20件、「昔」が26件使われています。

 ところで、この「門」と「それから」の間には「満韓ところどころ」の旅行があります。この旅行が漱石文学の転換点になったことは、否定できない事実でした。中国・朝鮮の旅行は事ごとに日本の「過去」を想起させるものでした。さらに、帰国後間もなく、10月26日にハルビン駅頭で伊藤博文が安重根に暗殺されるという事件が起こったことも衝撃をあたえました。

 熱心に数種類の新聞を読んで真相を知ろうとしたことが、事件直後の『国民新聞』(1913年10月29日)に掲載された「昨日午前の日記」に書かれています。また、「安重根事件公判速記録」も蔵書にあり、この事件に対する関心の深さを示しています。

 そして、この事件に関連する宗助夫婦のやりとりが、翌年発表した「門」に書かれています。
 この事件はまず号外が出て、その後連日新聞紙面を賑わせていたが、宗助は読んでいるのかいないのかわからないほど平気でした。

「どうして、まあ殺されたんでしょう」とお米は聞くが、宗助の弟の小六は「短銃をポンポン連発したのが命中したんです」と見当外れの答えをします。繰り返して同じことを尋ねるお米に、宗助は「やっぱり運命だなあ」と云って、茶碗の茶を旨そうに飲みます。お米は納得できず、「どうしてまた満洲などへ行ったんでしょう」と聞きますが、宗助は「本当にな」と言うばかりで、まともに答えようとはしません。そして、「おれみたような腰弁は、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ」と始めて調子づいた言い方をします。

 宗助は「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」というのですが、ここには前掲の寺田寅彦宛書簡の言葉と通じるものがあります。お米のくりかえされる疑問に対する答えは作品でははぐらかされていますが漱石自身はそれについて考えていたにちがいありません。そして、宗助に「伊藤さんみたような人は、哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ」と言わせているのです。

 当時の日本では安重根を凶悪なテロリストとして非難する声が充満していました。しかし、漱石にはそのような言葉はありません。伊藤は韓国統監府の初代統監となり,韓国の植民地化を推進した人物として、韓国人民の怨嗟、抗議と怒りが集中していました。このような人物が暗殺されるのはむしろ当然ともいえることで、漱石は日韓関係の過去を思い、未来に不安を感じていたのではないでしょうか。

 この夫婦の会話に下積みの人間の政治や歴史に対する無関心を見るのが普通ですが、しかし、このような歴史のなかに、この平凡な夫婦の物語を展開したと考えることもできるのです。小六は「とにかく満洲だの、哈爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持がしてならない」と云います。そして、その満洲からお米の夫だった安井が帰国して来ると聞いて宗助の不安は極度に深刻になります。「過去」がよみがえり、現在の平穏を破壊する。この不安は伊藤博文が暗殺された事件とからまりあって、「門」という作品世界を構成しているのです。

 宗助がおそれた安井との対決は回避されました。勤務先の人員整理もまぬがれ、わずかながら昇給した。心配した小六の身の振り方もつきました。「門」の末尾は、「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って晴れ晴れしい眉を張るお米に、縁に出て長く延びた爪を剪(き)りながら、長く「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答える宗助の言葉で終る。

 この言葉は「道草」末尾の「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」という言葉と対応していることはよく知られていますが、「道草」には養父に百円渡して向後一切の関係を断つという証書を受け取ったことが書かれていますが、これは伊藤の暗殺事件について寺田寅彦に書き送った直前のことだったと推定されています(荒正人「漱石研究年表」)。
「門」の背後には伊藤博文の暗殺と養父との絶縁事件があります。自分の「過去」と日本の「過去」への暗い思いが「門」の世界を成立させており、それは「こころ」を経て「道草」へと展開するのです。「過去」の暗黒、自分の罪を凝視することが漱石の文学と思想は発展させました。

 そのことを、いま、韓国で明らかにすることができたのは、私のよろこびであります。ありがとうございました。

                      韓国漱石研究会(2004年11月27日)の講演に全面的に加筆した。