漱石とプロレタリア文学      ホーム 一覧

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漱石がこの世を去ったのは一九一六年十二月九日のことである。最後の大作『明暗』はその結末を目前にしながら、ついに完結を見ることなく終わった。一九一四年、『こゝろ』連載中に始まった第一次世界大戦は継続中で、英独仏露をはじめ、ヨーロッパ諸国民は未曾有の戦禍に苦しんでいた。ロシア革命を契機に、世界が革命の嵐にはげしく揺れ動くのは漱石の死後間もなくのことであった。
死亡の年の新年に、漱石は「点頭録」を朝日新聞に連載し、第一次世界大戦でドイツばかりでなく、自由主義を標榜する英仏をも支配するにいたった軍国主義を批判した。また、ドイツ軍国主義に大きな思想的影響を与えたトライチケを論じ、軍国主義が世界を支配することになる危険を指摘した。また、日本においては政治と思想の関係が、政府による言論弾圧の形でしかないことを指摘している。日本のような国家主義的傾向が顕著な国では、軍国主義の危険が危険が一層大きいことを憂えたのである。

修善寺の大患以来年々病気に苦しみ、晩年の諸作品は、病気と病気の間に辛うじて書いたといってもいいくらいであった。『こころ』「硝子戸の中』『道草』『明暗』などは、目前に迫る死を直視しながら、自己の生涯の総決算として書き続けた作品である。とりわけ「点頭録」は、自己の死を直視する漱石が世界の未来に眼を向け 、日本の前途を危ぶんで、切実な自己の思いを書き綴った貴重な文章である。
冒頭の「また正月がきた」には新年を迎えた感慨を語り、自己の生涯を振り返って、過去はすべて夢のようで、人生はついに夢のようにはかなく空しいものかも知れないと述べている。しかし一方で、現実の人間としての自己の責任について述べ、趙州という唐僧が六十一になって道に志し、二十年間修行を継続し、百二十まで生きて衆生の救済につくしたことを語っている。「寿命は自分の極キ めるものでないから、固モトより予測は出来ない」と漱石は言う。しかし「たとい百二十まで生きないにしても、力の続く間、努力すればまだ少しは何か出来る様に思う。それで私は天寿の許す限り趙州の顰ヒソミ にならって奮励する心組でいる」と述べているのである。

「わが全生活を、大正五年の潮流に任せる覚悟」で、「羸弱なら羸弱なりに」「自己の天分のあり丈を尽そうと思う」と漱石は言い、「自分は点頭録の最初に是丈コレダケの事を云って置かないと気が済まなくなった」と記している。「点頭録」はこのような覚悟で書き始められたが、十分な展開を見ないまま、僅か九回で打ち切られた。リューマチのため、執筆がままならぬことを訴えていたのが原因かも知れないが、残念なことである。

この後、リューマチ治療のため湯河原の天野屋に約一カ月滞在し、四月から糖尿病の治療を約三カ月受けている。五月には胃の具合が悪くて寝込んだが、同二六日から『明暗』を朝日新聞に連載している。「天が自分に又一年の寿命を借して呉ク れた事は、何ド の位の幸福になるか分らない。自分は出来る丈余命のあらん限りを最善に利用したいと心掛けている」と「点頭録」に述べた漱石が、死の直前の時期に、相次ぐ病気に苦しみ、死の時期の切迫を予感しながら、最後の力をふりしぼって書き綴ったのが『明暗』である。
『明暗』の根底には、いつどう変わるか分からない激動する世界があり、不安な日本の未来がある。冒頭で津田を診察した医者は穴が腸まで続いていると言う。この前は途中に瘢痕ハンコンの隆起があったので、そこが行き止まりと思ったが、まだ奥があったというのである。「気の毒だが事実だから仕方がない」といっているように見える医者は、根本的の手術を一思いに遣ヤ るより外に仕方がないと言う。結核性ならいくら手術しても駄目だが、津田のは結核性ではないというのである。

この診断は人々の予測を超えて展開する世界の現実に対する漱石の認識であり、日本の現実に対する診断であった。漱石の文学は個人の事件や運命を描いた小説でも、常に世界と日本の運命を見つめ、現代の社会と文明を批判する精神に貫かれていた。個人の運命に現代社会の運命が仮託されることもしばしばあった。

医者から帰る電車の中で、津田は何の予告もなしに突如として襲った激痛を思い出し、「この肉体はいつ何時どんな変に会わないとも限らない。それどころか、今現にどんな変が肉体のうちに起こりつつあるかも知れない。そうして自分はまったく知らずにいる。恐ろしいことだ」と考え、「精神界も同じことだ。精神界もまったく同じことだ。何時どう変わるか分からない」と心の中に叫ぶ。そして、偶然というのは、原因があまりに複雑すぎてちょっと見当がつかない時にいうことだというポアンカレの説を思い出す。津田は自分は自分の行動について他からの牽制を受けた覚えがなく、自分の力で行動し、自分の力で言ったと思っているが、実は何か暗い力に支配されていながら、それに気がつかぬだけではないかと考えるのである。

この冒頭の所に、この作品の主題は鮮明に提示されている。人間は自分の意志や意識とは独立な、自分の内部と外部にあって自分を支配する暗い力を知ることができずに、自分は自由だとばかり思って、自己をたのみ自己を誇って勝手なことをしているが、この暗い力は思いがけない時に突如としてその姿を現して、彼を大地に打ち倒すのである。

津田の妻のお延は利口な女である。自己を誇り、自己をたのんで、自分の腕の力だけで幸福になろうと、けなげに奮闘する可憐な女である。彼女は自分を陥れようとする周囲と全力をあげて戦う。 「それは彼女の自然であった」と作者は言う。しかし、「不幸なことに自然全体は彼女よりも大きかった。彼女の遥ハルか上にも続いていた。公平な光を放って、彼女を殺そうとしてさえ憚ハバからなかった」のである。

お延は、自分は人に厭がられるために生きているんだという小林の言葉に驚く。「まるで別世界に生まれた人の心理状態」であった。お延は誰からも愛されたいと思い、それは例外なく世界中の誰にでもあてはまると信じ切っていたのである。小林は「奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中には色々の人がありますからね」と言う。「まるで別世界に生まれた人」の出現によって、小市民的な世界に生まれ育ち、そこで養われた自分の考えを絶対のものとするお延の考えは打ち砕かれる。お延の知らぬ、お延の意識を超えた現実があり、この意識の彼方の暗い部分から立ち現れた現実は、お延の意識、人間観と世界観、そして、その生活を破壊しようとしてやまぬ。

津田もまた、小林に示された手紙に衝撃を受ける。その芸術志望の青年の不幸な生活は「まるで別世界の出来事としか受け取れない位、彼の位置及び境遇とは懸け離れた」ものであった。しかし、 「今まで前の方ばかり眺めて、此所ココに世の中があるのだと極キ めて掛った彼は、急に後ウシロ を振り返らされた。そうして自分とは反対な存在を注視すべく立ち留まった。するとああああこれも人間だという心持が、今日までまだ会った事もない幽霊のようなものを見詰めているうちに起った。極めて縁の遠いものは却カエって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に彼の眼前に現われた」と作者は述べる。

津田は大学を出て、お延の叔父の岡本と親友の吉川の会社で働いている。岡本と吉川は同じ時期に西洋に留学したことがあり、官吏を止めて京都で悠々自適の生活を送る津田の父親も、大学時代の友人である。津田は吉川夫人からもかわいがられて、将来を約束されていて、他に対する優越感と自信を保つために、直接自分の仕事には関係のないドイツ語の経済学の分厚い原書を読もうとするような男である。背丈も高く、容貌も優れていて、自己の肉体と頭脳に誇りを抱いており、岡本から「日本中の女がみんな自分に惚れなくっちゃならないような顔付をしている」と批評される。既に結婚した清子がこだわりのない調子で夫の話をするのに不満を感じるのは、津田が自分を「特殊な人」だと思っていたからである。「特殊な人」とは「素人シロウトに対する黒人クロウトであった。無知者に対する有識者であった。もしくは俗人に対する専門家であった。だから通り一遍のものより余計に口を利キ く権利を有モ っているとしか、彼には思えなかった」と作者は言う。

津田はどこまでも高い位置を得ようとし、生活も贅沢で、常に利害の計算を忘れることができない。お延に対しても、吉川の親友の岡本の姪という打算がともない、お延の歓心を得るために、父の金を無理に引き出したりするのである。津田はどこまでも上昇して行こうとするために無理を重ねており、藤井の叔母は贅沢すぎると言う。服装や食物ばかりでなく「心が派出ハデで贅沢に出来上ってる」から、「始終御馳走はないかないかって、きょろきょろ其所ソコいらを見廻してる人」のようだと言うのである。

津田は「じゃ贅沢どころかまるで乞食じゃありませんか」と言うが、「乞食」はこの作品で繰り返される重要なイメージである。吉川家からの帰途、橋の所にうずくまる乞食を見た津田について、作者は「乞食と彼との懸隔は今の彼の眼中には殆ど入ハイる余地がなかった。彼は窮した人のように感じた」と述べている。最後に近く山の中の温泉の浴場の場面でも、 「温泉烟ユケムリの中に乞食の如く蹲踞ウズクマる津田の裸体姿ハダカスガタ」と書いている。

小林は贅沢な津田と余裕のない自分を比較して、「何方ドッチ が窮屈で、何方が自由だか。何方が幸福で、何方が束縛を余計感じているか。何方が太平で何方が動揺しているか。僕から見ると、君の腰は始終ぐらついてるよ。度胸が坐スワってないよ」と批判する。

『明暗』を論ずる者は誰でも津田やお延の虚栄と虚偽に満ちた俗物性を批判する。しかし、津田やお延の俗物性は彼らの「自然」であった。そして、それは自己を誇り、たえず上昇を志向する、漱石自身をも含む小市民階級の姿であった。また、それは無理に無理を重ねて近代化を進め、資本主義の発展に努めて、世界帝国主義諸国の一員となり、世界の一等国であると自認するに至った日本の姿でもあるだろう。資本主義近代の論理は津田やお延を貫き、そして明治以来の近代日本を貫いている。それは絶え間なき自己拡張と発展の道であり、「前の方ばかり眺めて」ひたすら上昇の道を歩きながら、自己の内部に恐るべき空洞と病気を発展させて、それに気がつかぬ。プロレタリアを踏みつけ、アジア諸民族を侵略しながら、それを「別世界」のこととして、顧みようとしないのである。

小林は日本国内で行きづまり、朝鮮に生きる道を求める落ちぶれたインテリである。自分は何一つあなたに悪いことをした覚えがなく、厭がらせをされる理由がないというお延に、「僕は世の中から無籍もの扱いされている人間ですよ」という。お延にはそれが津田や自分と何の関係もないことに思われた。しかし、小林は「あなた方から見たら大方ないでしょう。然し僕から見れば、あり過スギる位あるんです」と言う。小林にとってこの「世の中」が敵であり、この「世の中」で幸福な者はすべて敵であった。お延の意識を超えて世界は広がり、お延の主観的意図の如何に拘わらず、彼女を憎み、彼女を敵視するものが存在する。抑圧者は自分が抑圧者であるという事実を自覚しない。そこに搾取と被搾取の階級の問題があり、侵略と被侵略の民族問題がある。漱石は個人の意識を徹底して追究しながら、個人の主観を超えた世界として現実を描いた。ここに『明暗』が到達したリアリズムの高さがある。

もとより小林はプロレタリアではない。社会の変革を目指すものでもない。現代社会からはみ出し落ちぶれて、社会に怨恨を抱き、ゆすりや厭がらせをして復讐しようとするやくざな男に過ぎない。しかし、この現代社会から落ちこぼれ、下層社会との境界に立つ小林によって提示される「別世界」の現実によって、津田やお延の世界は揺り動かされ、資本主義近代の矛盾が露出される。漱石はこの作品の冒頭から、個人の意識を超えた現実、個人の主観的な願望や意図を打ち砕く事実というものを強調した。小林は津田に「よろしい、何方ドッチ が勝つかまあ見ていろ。小林に啓発されるより、事実その物に戒飭カイチョク される方が、遥ハルかに覿面テキメンで切実で可いだろう」と言うのである。

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「点頭録」の漱石は、わが全生活を「大正五年の潮流」に任せて、「自己の天分のあり丈を尽くそうと思う」と述べたが、世界大戦継続中の大正五年前後は、人道主義が強調され、デモクラシーの運動が大きな高まりを見せていた。漱石が指摘したように、ドイツに始まり英仏に及んだ軍国主義の潮流は日本にも及び、岩野泡鳴の新日本主義や三井甲之の伝統主義の主張などが現れたが、直接戦争に参加する度合が少なかったこともあって、文学界や思想界では自由、平和、人道が強調され、白樺派が文壇の主流の位置を占めた。

この年一月の『中央公論』では、吉野作造が「憲政の本義を説いてその有終の美をなすの途を論ず」を発表して民本主義を説き、『早稲田文学』八月号には本間久雄の「民衆芸術の意義及び価値」が発表された。本間の民衆芸術論は「一般平民乃至労働者階級の教化運動の機関乃至様式としての所謂民衆芸術の意義」を説いた啓蒙的色彩の強いもので、この後すぐ、安成貞雄が「君は貴族か平民か」を書いて反論した。それでも本間の論は、世界大戦を背景に急速に資本主義が発達し、労働者階級が拡大成長した事実を背景に出てきたのであり、これを契機に大杉栄、加藤一夫、川路柳虹などの民衆芸術論が相次いで現れ、やがてプロレタリア文学の主張へと発展することになった。

漱石自身もこのような大きな時代の流れの中にいた。一九一五年(大正四)三月の総選挙に、馬場孤蝶が生田長江、森田草平、安成貞雄、安成二郎、堺利彦らに推されて立候補した時、推薦状の筆頭に名を出し、『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』にも「私の個人主義」を巻頭に掲載している。堺利彦らのような社会主義者からも推薦された孤蝶は、立候補者中もっとも急進的な民主主義の立場を代表し、女子をも含む選挙権の大拡張、軍部大臣武官制の打破、軍備縮小、治安警察法の撤廃、営業税等の悪税廃止などのスローガンを掲げていた。(荒正人編『漱石研究年表』、松尾尊允『民本主義の潮流』による)

かつて漱石は電車賃値上げ反対運動に共感を示し、深田康算に宛てた一九〇六年(明治三九)八月の書簡に「小生もある点に於て社界 原主義故堺枯川( 利彦) と同列に加はりと新聞に出ても毫も驚 ろく事無之候」と書いた。『野分』の白井道也は、社会主義者と間違えられても構わない、国家主義も社会主義もあるものか、ただ正しい道がいいのだと言って電車賃値上げ反対運動の犠牲者救援の演説会に出席し、血を見ぬ修羅場である文明の社会にあって、維新の志士の如き精神で生命を賭して戦う覚悟を説いた。漱石が堺利彦と名を連ねて馬場孤蝶の推薦者になったのは偶然ではなかった。

一九一三年(大正二)出版の講演集に、漱石は『社会と自分』という題をつけた。『社会と自分』は、一九〇七年朝日新聞社入社直後の「文芸の哲学的基礎」「創作家の態度」から、一九一一年夏の関西各地での講演「現代日本の開化」「中味と形式」「文芸と道徳」などに至るまでを収録している。「自己本位」を説き、国民の権利を踏みにじる金力と権力の横暴を批判した「私の個人主義」(一九一四年十一月の学習院での講演)は、この延長線上にあり、そこに一貫する漱石の社会と文学に対する態度が見られる。

「私の個人主義」の漱石が自己の青春を振り返り、暗い体験を語って、その体験の上に「自己本位」の思想を述べたのは、その直前の作品『こゝろ』の先生の遺書の言葉を借りれば、自分の思想が「どう間違っても、私自身のもの」で、「間に合せに借りた損料着」ではないことを示すものであった。それは「自己の本領」を求めて彷徨する血の滲むような日々の苦悩を通じて獲得されたのであり、生涯を一貫するものであった。

しかし、「私の個人主義」の漱石は『野分』の白井道也のように、我に真理ありといわんばかりの昂然たる態度で壇の上に立ってはいない。その反対に暗い気持ちを縷々として語り、迷い悩んだ過去を語ることから始めている。それは、朝日入社直後の「文芸の哲学的基礎」とも著しく異なった話しぶりである。

「文芸の哲学的基礎」では、文芸家は人間としてもっとも高く広い理想をもった人でなければならないと論じた。高い理想をもった人が、自分の理想をこの世に実現しようとしても世の中に理解されず、受け入れられないとき、文章の力をかりて広く読者に訴え、後の世にまで伝えて、これを実現しようとするのが文学だというのである。漱石は作家として出発した当初から文芸の社会的意味を強調したが、文学専門に生きる道を踏み出した直後のこの講演では、とりわけ明確に文芸の理想と人間の理想を説き、文芸の社会的有用性を強調している。「 文学を生命とする者」として、「 維新の志士の如き精神」をもって作家の道を貫こうとする決意が示され、『 野分』の白井道也を思わせるような講演であった。

「文芸の哲学的基礎」と「私の個人主義」の間の漱石の態度の変化は、『野分』と『こゝろ』の間の落差に相当する。そして、『硝子戸の中』から『道草』を経て『明暗』へと進んで行く。漱石はもっぱら自分を見つめ、過去を語り、自己の内部に深く入って行った。従来の漱石論の多くはそこに社会意識の後退を見るが、既に見たように『社会と自分』を刊行し、「私の個人主義」から「点頭録」へと展開する漱石の社会意識は、ますます広がり発展している。そこに漱石文学の本質的な問題がある。

拙著『漱石と天皇制』に述べたので詳述は避けるが、社会主義運動の日露戦争後の高揚と、苛酷な弾圧による分裂後退、そして「大逆」 事件とその後の徹底した言論思想の弾圧が、漱石の思想と文学に顕著な影を落としている。さらに辛亥革命と明治天皇の死去、世界大戦の勃発は、日本の未来に対する危機意識を強め、深刻な自己検討を強いた。社会意識が強まれば強まるほど、時代から孤立し、自閉的になった。この自閉的な自己の暗黒、その卑怯と無力、自己の生存の虚偽と無意味についての徹底した追及と告発が、この時期の漱石の文学の主題となった。『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』と展開する後期三部作は、人間的な生存を求め、真実を追求する故に、自閉的な孤独の世界に陥らなければならない近代日本の知識人の矛盾を徹底して追究している。漱石においては、この自閉的世界の追究は、社会意識の発展と相反的ではなくて、表裏の関係にあった。

そして、この自己の暗黒の徹底した追究が漱石を新しく広い場所に連れ出した。『道草』の健三は、かつて自分には「異様の熱塊」があると信じ、周囲の人々と自分を「魚と獣」ほど違うと思っていた。しかし、やがて彼らのエゴイズムは露骨なだけで、自分もたいして変わらないのだと思うようになり、更には、軽蔑していた姉よりも自分の方が不人情なのかも知れないと思うようになる。高い教育と見識を誇っていた健三は、かえって因習に囚われるために教育を受けたようなものだとさえ思うようになる。

『道草』の漱石は、自己の生涯を振り返り、妻や親戚など、周囲の人々との軋轢を追及することによって、自己の生存の暗黒と無意味を照らし出し、これまでの自分が頼みとし、誇りとしていた教育の高さや文化的優越性を否定して、まったく新しい平等な人間観へと導かれた。この徹底した自己検討の上に、常に少しでも他に優越し、少しでも自己に有利にことを運ぼうとする『明暗』の津田とお延の生活が、自己をも含む小ブルジョアの虚栄に満ちたエゴイズムの世界として鮮明に描き出された。 そして、この小ブルジョアの世界は「別世界」の視線にさらされ、その醜悪と空虚が暴露され、やがて大地に打ち倒されなければやまないのである。

「大正五年の潮流」に身を任せ、「羸弱なら羸弱なりに」「自己の天分のあり丈を尽くそう」とする覚悟を、漱石は『明暗』において実現しようとした。死期の切迫を明瞭に自覚する漱石は、大戦下の世界の現実をしっかりと見つめ、日本の未来に深い憂いを抱きながら、自己のすべてを投入して 『明暗』を書き進めた。『明暗』には「愛の戦争」という言葉があり、「点頭録」で戦争と平和に用いられた「土俵の上」の相撲の比喩が、夫婦の関係に用いられている。お延は四方を敵に囲まれて孤立して戦うのであり、津田の生活もまた戦争の日々であった。漱石は小市民的な夫婦の物語を通して、恐るべき大戦争の渦中にのたうち苦しんでいる現代資本主義社会の根底にある矛盾にメスを入れ、新しい人間再生の可能性を、悲惨な戦争の彼方に探っている。

漱石は平和と人道と自由を求める「大正五年の潮流」にあって、しかし、当時の人道主義の理想主義的な甘さや、自己肯定的、自己主張的な態度とは反対に、自己の暗黒と矛盾を徹底的に追及し、現代社会の病態をあばき、その事によって新しい世界の可能性を探った。そこに小市民的な現実に根をおきながら、小市民的な自己を絶対化する自己主張の文学を超え、小市民的な現実を克服する新しい文学の可能性があった。漱石の文学が今日もなお新鮮な輝きを失わないのはこのためである。

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漱石の『明暗』と同じ一九一六年に、当時まだ十七才の宮本百合子が『貧しき人々の群れ』を発表したことは注目すべきことである。『貧しき人々の群れ』の主人公の少女は、理想主義的人道主義の立場に立ってはいたが、その理想を実践に結びつけ、見事に失敗する。この失敗によって彼女は重い現実を身と心の痛みを通じて思い知り、自己を乗り越えて行こうとする。世間知らすの少女の柔軟な身と心で、大胆に行動し、行動によって現実の認識を深め、新しい文学的世界を切り開く百合子の文学には、これまでの日本文学になかった新しさがあり、苦悩に満ちた『伸子』の世界を経てプロレタリア文学の世界に到達する。そこに新しい時代が生んだ若い生命、新しい精神と文学の胎動がある。 もちろん、既に五十才を迎えようとして、自己の死期の切迫をきびしく自覚しなければならなかった漱石に、このように柔軟で生命感に満ちた飛躍を期待することは出来なかった。漱石はひたすら過去を見つめ、身動きもできぬような自己の現実を直視し続けた。しかし、漱石の精神は柔軟であり、その視野は広かった。決して自分の過去と現在に固定的に自己の精神を縛りつけることなく、絶えず新しい眼で過去と現在をとらえなおし、新しい文学世界を切り開いて行った。

『道草』で明瞭にその姿を現した人間的平等の世界観は、『明暗』において「別世界」の人間達を登場させ、津田やお延の小市民的世界を根底から揺り動かす。まだ日本の社会に歴史を動かす力としてのプロレタリアは登場していない。しかし、常に自己の暗部と同時に社会の底辺に生きる人々に眼を注ぎ、そのことによって自己の思想と文学を発展させ続けた漱石は、やがて歴史の前面に現れるプロレタリアの予兆の如きものをとらえ、それによって現実を新しい光で照らし出した。

時代を先取りするようなこの漱石の文学は、現実の不合理を鋭く追及し、その克服を目指す生涯を貫く烈しい戦闘の精神によって切り開かれた。漱石は自己の人間として国民として当然の権利を強く主張し、他の権利を犠牲にして顧みない特権者に対しては激しい憎悪を抱いた。漱石の文学の根底には「自己本位」の思想があるが、漱石の「自己本位」は「自己の本領」に生きようとすることで、 「世のため国のため」ということと矛盾するものではなかった。他の生きる権利を奪い、弱者、「たよりのない貧民」を苦しめる金力と権力の横暴に対する憎悪と怒り、必ずこれを打ち倒し「文明の革命」を実現しようとする激しい精神は、『野分』の前の作品である『二百十日』に鮮明に表現されている。この精神が『野分』を書かせ、大学教師の職を辞して、「文学を生命とする」専門作家の道に進ませた。前述の「文芸の哲学的基礎」は明瞭にこのことを語っている。

朝日新聞入社後の第一作である『虞美人草』執筆中の手紙に漱石は、「細民はナマ芋を薄く切って、それに敷割などを食って居る由。芋の薄切は猿と擇エラぶ所なし。残忍なる世の中なり。而して彼等は朝から晩迄真面目に働いている」と書き、「岩崎の徒を見よ!!!」と感嘆符号を三つもつけ、「終日人の事業の妨害をして(否企てゝ)そうして三食に米を食っている奴らもある。漱石子の事業は此等の背徳漢を筆誅するにあり」と記している。

英国留学中の漱石は、「自己本位」の立場を確立するために文学書をしまいこんで、もっぱら哲学や社会学、歴史学、心理学、進化論などの書物を読んだというが、妻の父に宛てた手紙に「欧州今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに起因致候此不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ凍死せしめ若モシくは無教育に終らしめ」と書き、ヨーロッパ近代社会を「失敗の社会」とよんでいる。日本も同様の境遇に向かいつつあると思われるが「かの土方人足の知識文字の発達する未来においては由々しき大事と存候」と言い、「カールマークスの所論の如きは単に純粋の理屈としても欠点有之べくとは存候へども今日の世界に此説の出づるは当然の事と存候」と書いているのである。

漱石は常に社会の暗部に眼を注ぎ、歴史の行方に不安の眼をこらしていた。漱石はプロレタリアの立場に立ち、革命の側に立つ者ではなかった。しかし、金力と権力の横暴は革命を必至にするという認識に立って、絶えず「日本は危ない」という警告を発し、自らもこの横暴と戦おうとした。しかし、どれほど激しく金力と権力の横暴を憎み、罵っても、あるいは主観的にそれと戦っても、個人が個人として孤立したままであるならば、個人はついに無力であることを知っていた。

個人の力で社会を思いのままに動かすことは、桀や紂のような暴君でも出来ないと漱石はいう。漱石は歴史を動かす集合的な社会の力に関心を持ち、自己の理想を現す作品が後世の読者の血肉となり、社会の一部となって歴史を動かす力となることを願った。たしかに漱石の理想は具体的でなく、未来のあるべき姿を示すことも出来なかった。漱石の文学は現実の暗黒を暴き出し、読者の人間と社会に対する認識を深め、発展させることを目指したのである。しかし、漱石は文学のための文学、認識のための認識を否定した。漱石が求めたのは人間の解放であり、社会の変革であった。この新しい人間的社会の実現に役立ってこそ文学はその存在の意味があると、生涯変わらず固く信じていた。

自己の生存の意味を自己に問いつめる『道草』の健三について、作者は「彼は血に飢えた。しかも他ヒトを屠ホフることが出来ないので已むを得ず自分の血を啜ススって満足した」と書いている。漱石は自己の暗黒を追及し、それを暴き出すことによって、読者が人間と社会についての認識を深めることを求め、自分の文学が読者の血肉となり、社会の一部となって歴史を動かす力となることを求めた。 『こゝろ』の先生はその遺書に「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です」と書いている。

プロレタリア文学の胎動は漱石の死後間もなく強まり、やがて大きな流れとなった。『明暗』でおぼろげな姿を現して、津田やお延の小市民的な世界の虚偽性を暴き出し、揺り動かした「別世界」に生きる人々は、自分達の声をあげはじめた。人間的生存の権利を主張し、漱石が憎んだ金力と権力の結合による人間と社会の支配に抗議して、それを打倒するための戦いに立ち上がった。この現実に直面した時、漱石の文学はどう変わったか。もちろん私達はそれを知ることができない。しかし、それがこの新しい時代の潮流に揺り動かされ、新しい発展を遂げたにちがいないことは、漱石の現実に生きた文学的生涯から十分知ることができる。

もちろん、プロレタリア文学はプロレタリアの階級的自己主張の文学であり、漱石の文学は、小市民知識人の自己否定的な自己認識であり、それに基づく構造的な社会認識であった。しかし、この小市民知識人の自己認識と社会認識からプロレタリア文学の戦いに参加した文学者も多かったのだし、漱石の切り開いた構造的な社会認識の文学は、プロレタリアの闘争が切り開いた認識によって新しく発展させられる必要があった。しかし、漱石の文学は自己主張的なプロレタリア文学運動において正当に評価されたとは言いがたい。いうまでもなく、プロレタリア文学は苦難の歴史をたどり、未成熟のまま苛酷な国家権力の手で破壊された。この苦難を乗り越え、成熟したリアリズム文学、プロレタリア階級の周囲に国民諸階層を結集する国民的な文学の確立を実現するためには、強烈な自己主張と同時に、絶えず自己を否定し、克服し、自己を超えた大きな世界を構造的に把握する道を切り開いた漱石のリアリズムから学ぶものは少なくなかった筈だと思う。その課題は今日に残されている。

漱石の『明暗』と同じ一九一六年に、当時まだ十七才の宮本百合子が『貧しき人々の群れ』を発表したことは注目すべきことである。『貧しき人々の群れ』の主人公の少女は、理想主義的人道主義の立場に立ってはいたが、その理想を実践に結びつけ、見事に失敗する。この失敗によって彼女は重い現実を、身と心の痛みを通じて思い知らされ、自己を乗り越えて行こうとする。世間知らすの少女の柔軟な身と心で、大胆に行動し、行動によって現実の認識を深め、新しい文学的世界を切り開く百合子の文学は、これまでの日本文学になかった新しさで、苦悩に満ちた『伸子』の世界を経てプロレタリア文学の世界に到達する。そこに新しい時代が生んだ若い生命、新しい精神と文学の胎動がある。 もちろん、既に五十才を迎えようとして、自己の死期の切迫をきびしく自覚しなければならなかった漱石に、このように柔軟で生命感に満ちた飛躍を期待することは出来なかった。漱石はひたすら過去を見つめ、身動きもできぬような自己の現実を直視し続けた。しかし、漱石の精神は柔軟であり、その視野は広かった。決して自分の過去と現在に固定的に自己の精神を縛りつけることなく、絶えず新しい眼で過去と現在をとらえなおし、新しい文学世界を切り開いて行った。

『道草』で明瞭にその姿を現した人間的平等の世界観は、『明暗』において「別世界」の人間達を登場させ、津田やお延の小市民的世界を根底から揺り動かすのである。まだ日本の社会に歴史を動かす力としてのプロレタリアは登場していない。しかし、常に自己の暗部と同時に社会の底辺に生きる人々に眼を注ぎ、そのことによって自己の思想と文学を発展させ続けた漱石は、やがて歴史の前面に現れるプロレタリアの予兆の如きものをとらえ、それによって現実を新しい光で照らし出した。

時代を先取りするようなこの漱石の文学は、現実の不合理を鋭く追及し、その克服を目指す生涯を貫く精神によって切り開かれた。漱石は自己の人間として国民として当然の権利を強く主張し、他の権利を犠牲にして顧みない特権者に対しては激しい憎悪を抱いた。漱石の文学の根底には「自己本位」の思想があるが、漱石の「自己本位」は「自己の本領」に生きようとすることで、「世のため国のため」ということと矛盾するものではなかった。他の生きる権利を奪い、弱者、「たよりのない貧民」を苦しめる金力と権力の横暴に対する憎悪と怒り、必ずこれを打ち倒し「文明の革命」を実現しようとする激しい精神は、『野分』の前の作品である『二百十日』に鮮明に表現されている。この精神が『野分』を書かせ、大学教師の職を辞して、「文学を生命とする」専門作家の道に進ませた。前述の「文芸の哲学的基礎」は明瞭にこのことを語っている。

朝日新聞入社後の第一作である『虞美人草』執筆中の手紙に漱石は、「細民はナマ芋を薄く切って、それに敷割などを食って居る由。芋の薄切は猿と擇エラぶ所なし。残忍なる世の中なり。而して彼等は朝から晩迄真面目に働いている」と書き、「岩崎の徒を見よ!!!」と感嘆符号を三つもつけ、「終日人の事業の妨害をして(否企てゝ)そうして三食に米を食っている奴らもある。漱石子の事業は此等の背徳漢を筆誅するにあり」と記している。

英国留学中の漱石は、「自己本位」の立場を確立するために文学書をしまいこんで、もっぱら哲学や社会学、歴史学、心理学、進化論などの書物を読んだというが、妻の父に宛てた手紙に「欧州今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに起因致候此不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ凍死せしめ若モシくは無教育に終らしめ」と書き、ヨーロッパ近代社会を「失敗の社会」とよんでいる。日本も同様の境遇に向かいつつあると思われるが「かの土方人足の知識文字の発達する未来においては由々しき大事と存じ候」と言い、「カールマークスの所論の如きは単に純粋の理屈としても欠点有之べくとは存候へども今日の世界に此説の出づるは当然の事と存候」と書いているのである。

漱石は常に社会の暗部に眼を注ぎ、歴史の行方に不安の眼をこらしていた。漱石はプロレタリアの立場に立ち、革命の側に立つ者ではなかった。しかし、金力と権力の横暴は革命を必至にするという認識に立って、絶えず「日本は危ない」という警告を発し、自らもこの横暴と戦おうとした。しかし、どれほど激しく金力と権力の横暴を憎み、罵っても、あるいは主観的にそれと戦っても、個人が個人として孤立したままであるならば、個人はついに無力であることを知っていた。

個人の力で社会を思いのままに動かすことは、桀や紂のような暴君でも出来ないと漱石はいう。漱石は歴史を動かす集合的な社会の力に関心を持ち、自己の理想を現す作品が後世の読者の血肉となり、社会の一部となって歴史を動かす力となることを願った。漱石の理想は具体的でなく、未来のあるべき姿を示すことも出来なかった。漱石の文学は現実の暗黒を暴き出し、読者の人間と社会に対する認識を深め、発展させることを目指した。しかし、漱石は文学のための文学、認識のための認識を否定した。漱石が求めたのは人間の解放であり、社会の変革であった。この新しい人間的社会の実現に役立ってこそ文学はその存在の意味があると固く信じていた。

自己の生存の意味を自己に問いつめる『道草』の健三について、作者は「彼は血に飢えた。しかも他ヒトを屠ホフることが出来ないので已むを得ず自分の血を啜ススって満足した」と書いている。漱石は自己の暗黒を追及し、暴き出すことによって、読者が人間と社会についての認識を深めることを求め、自分の文学が読者の血肉となり、社会の一部となって歴史を動かす力となることを求めた。『こゝろ』の先生はその遺書に「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です」と書いた。

プロレタリア文学の胎動は漱石の死後間もなく強まり、やがて大きな流れとなった。『明暗』でおぼろげな姿を現して、津田やお延の小市民的な世界の虚偽性を暴き出し、揺り動かした「別世界」に生きる人々は自分達の声をあげはじめた。人間的生存の権利を主張し、漱石が憎んだ金力と権力の結合による人間と社会の支配に抗議して、それを打倒するための戦いに立ち上がった。この現実に直面した時、漱石の文学はどう変わったか。もちろん私達はそれを知ることができない。しかし、それがこの新しい時代の潮流に揺り動かされ、新しい発展を遂げたにちがいないことは、漱石の現実に生きた文学的生涯から十分知ることができる。

もちろん、プロレタリア文学はプロレタリアの階級的自己主張の文学であり、漱石の文学は、小市民知識人の自己否定的な自己認識であり、それに基づく構造的な社会認識であった。しかし、この小市民知識人の自己認識からプロレタリア文学の戦いに参加した文学者も多かったのだし、漱石の切り開いた構造的な社会認識の文学は、プロレタリアの闘争が切り開いた認識によって新しく発展させられる必要があった。しかし、漱石の文学は自己主張的なプロレタリア文学運動において正当に評価されたとは言いがたい。いうまでもなく、プロレタリア文学は苦難の歴史をたどり、未成熟のまま苛酷な国家権力の手で破壊された。この苦難を乗り越え、成熟したリアリズム文学、プロレタリア階級の周囲に国民諸階層を結集する国民的な文学の確立を実現するためには、強烈な自己主張と同時に、絶えず自己を否定し、克服し、自己を超えた大きな世界を構造的に把握する道を切り開いた漱石のリアリズムから学ぶものは少なくなかったと思う。

漱石とプロレタリア文学『民主文学』 1990 年12月