戻る  ホーム
1987・7・5  芦溝橋事件五〇周年記念講演 草稿

[ 1 ]
今日、蘆溝橋事件50周年を記念して、漱石と魯迅についてお話するのは大変感
慨深いものがあります。大変不幸なことではありますが、私が中国について知った
のは、殆どすべてあの蘆溝橋以後のことであり、戦争を通じてでありました。私は
私より若い方々に比べれば多分中国の地名をたくさん知っていると思いますが、そ
の大部分は戦争中に新聞やラジオのニュースを通じて知ったのであります。つまり
不幸な戦争の記念という訳であります。

ですから、私にとってあの戦争の問題を抜きにして、中国について考えることは
出来ないのであります。このため私の中国についての認識はどうしてもある偏りを
免れないと思います。

これは私だけの問題ではなくて日本人の中国認識一般の問題であるように思いま
す。そのことをこの前一年間中国でくらしてみて強く感じさせられました。



私などはあの戦争にもしかしたら必要以上にこだわりすぎて、そのために日常的
な中国人との交際をぎこちなくしたかも知れません。そして一方にはあの戦争のこ
となど全然なかったかのように振る舞う人々も次第に増えてきているのであります。
厭な記憶は忘れてしまいたいというのも無理のないことなのでしょう。日本民族の
過去を美化したいというのも自然といえばいえるでしょう。

このごろでは歴史の教科書などからも、出来るだけあの戦争の痕跡をなくしてしま
おうとする企てがなされていることはご承知の通りであります。しかし、過去を忘
れること、過去を美化することが過去を繰り返す危険につながり易いことも否定で
きないと思います。まして侵略者は侵略の事実についての自覚に乏しいものであり
ます。侵略者は過去の事を忘れても、侵略された者は容易に忘れ難いに違いないの
です。
中国人はしばしば過去のことは忘れようと言います。しかし、あの戦争でたくさ
んの犠牲者を出した中国人があの戦争を容易に忘れることが出来ないのは当然であ
ります。ふとしたときにそれが激しく噴出することは免れません。

私が中国に滞在したのは1985年から1986年にかけてのことでありますが
、それはちょうど、抗日戦争勝利40周年記念の年でありました。

中国ではそれを「偉大なる反ファッシスト戦争勝利40周年記念」と呼び、テレ
ビやラジオでは連日これと関連のある番組が放送されていました。老舎の「四世同
堂」が連日長時間にわたって放映されていました。

その他のドラマでも抗日戦争を描いた作品が数多く放映された外、ニュースでも
全国各地で行われた記念行事が伝えられます。その多くが日本ファシスト軍隊によ
ってどんなにひどい目にあったかを告発するのが内容であります。

それが8・15一日だけというのではなく、8・15を頂点に、7・7にもやる。
9・18にもやる。12月の南京事件のときもやるといった具合でほぼ一年間にわ
たってぶっ通しでやったのです。



私が住んでいたのは人口四五十万の地方都市でしたが、そこでもこの40周年を記
念する展示会が催されていました。つまりテレビ・ラジオのほかに全国各地ではそ
れぞれその地方に関係の深い物を取りあげて抗日戦争展示会を催していたのであり
ます。

 こうした長期に亙る全国的な壮大なカンパニアの真っ最中に中曽根の靖国神社公
式参拝や教科書検定問題が起こったのですからたまらない。
 その前の年は日中青年友好の年ということで3000人の大交流などで沸き立っ
たようですが、私の暮らした一年はそれとはまた打って変わった雰囲気の一年だっ
た訳です。

 それでも私はこの厳しい年に中国でくらしたことをよかったと思っています。中
国の日本に対する態度の複雑さを理解するのに役立つと思うからです。日本に対す
る中国の態度は決して単純ではあることが出来ない。そのことを何よりも深く理解
しなければ、今後の日中関係を本当に深めていくことは出来ないと思います。

私は中国で戦前もしくは戦争中に日本に留学した人達とだいぶん親しく付き合い
ましたが、その人達の日本在留中の事について、本当のことはなかなか知ることが
できないような気がします。

 しかし、それぞれに何人かは今も忘れることのできない日本人の記憶があるよう
で、あの全体として暗い日中関係の中にともる微かな灯といったものを感じさせま
す。

 それは例えば汽車の中で偶然会っただけの中国人からも感じることが出来ました。
40年前に習ったという日本語で話し掛けてきたのですが、その人に日本人に対す
る懐かしさのようなものが感じられました。
 中国人は悪いのは日本帝国主義で日本人民は中国人民とともにその犠牲者なのだ
ということをよく言いますが、もしかしたら、それは単なる外交辞令に過ぎないの
ではなくて、本当にそう思っているのかも知れないという気がします。それほど彼
らは悪気のない親しみや好奇心を持って私達に近付いてくるのです。

 多くの国々と境を接し、広大な国土に多様な民族が共存している大陸国民の、島
国の人間とは違うおおらかさなのかも知れません。私はあの苛酷な10年20年に
亙る戦争の時代に、そして、それいぜんの明治以来の日中交流の歴史の中に、悪い
日本人も多かったけれど、いい日本人もやはりすくなからず居たのだということを
改めて考えました。

 そして、これは直接今日のテーマにかかわって来るのですが、中国人民を抑圧し、
殺りくしたのは日本軍だけではないということであります。

 民族の問題がすべてなのではなくて、階級の問題がある。革命と反革命の問題が
ある。民族革命と民族解放の問題を同時に捉える視点が一般的にかなり明確にされ
ているのではないだろうか。

 日本人は勿論大きな敵であったが、しかし、部分的には味方であるということも
あったのだと思います。その点、私などはやはりかなり単純に、民族的な問題を優
越させて考えていすぎたのではないかという気がします。

勿論そういうことで、民族的責任を無視する積もりはありません。それはまた到底
許されるべきことでも無いでしょう。

 私は日本国民が自らの手であの軍国主義支配を打ち倒すことができなかったこと
を自分自身の問題として追及しなけばならないと思います。

 しかし、それは私達日本国民自身の問題としてそうなのであって、中国人民に対
する申し訳というようなものでないことは明らかであります。

 私達がこの日本帝国主義と激しく戦った人々の戦いを受け継ぐ立場に自分自身を
置くならば、私達は決して中国人民の敵であったということは出来ないと思います。
私達が戦争の問題を考え、民族の問題を考えるとき、ともすれば階級の問題を見落
とし勝ちになるのではないだろうかと思います。

 今度漱石と魯迅についてお話をするために魯迅についていろいろ考えているうち
に、あらためてこのことを強く感じさせられました。

 つまり今南京の虐殺について隠蔽しようとする勢力との戦いは私達の中国人民に
対する関係からだけ出てくるというのではなくて、まさに日本人民自身の問題であ
る訳です。

[ 2 ]

私は魯迅が最後のときまで内山完造氏と日本人医師須藤氏を信頼し、彼らに守ら
れて死んで行ったことを日本人として誇りにしたいと思います。

 私は上海の租界内の魯迅の旧居を訪ね、死の間際の内山氏宛の手紙を見たとき、
強くそのことを感じました。死の時まで魯迅の枕元には藤野先生の写真が貼ってあ
った。これを見たとき私は日中関係を決して一面的に見る事は出来ないという事を
痛感しました。

 一九三三年小林多喜二が警察権力の手で殺されたとき、魯迅は「同志小林の死を
聞いて」という文章を日本語で書いて送ってきました。

「日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだまして其の血で
界を描いた、又描きつつある。/しかし無産階級と其の先駆達は血でそれを洗って
いる。/同志小林の死は其の実証の一つだ。/我々は知っている、我々は忘れない。
/我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ。」

 魯迅の死は1936年10月19日午前5時25分でありました。民国25年昭
和11年、魯迅56歳でありました。芦溝橋事件の前年のことであります。 

さて今日は漱石と魯迅というテーマであります。

 私は中国で暮らした1年間、出来るだけ中国の実状を知りたいと思い、観察に努
めたのでありますが、中国を知ろうとすると、どうしても日本のことが色々に思い
合わされて、実は日本のことばかり考える結果になりました。

 魯迅の場合も同様であります。魯迅について考えることは日本文学について考え
る事であると、日本の近代文学の研究者である私には思われるのであります。

 魯迅と漱石には直接の関係は殆どない。ただこれは全く偶然のことだけれど、明
治39年12月から40年9月まで漱石が住んでいた本郷西片町の同じ家に、漱石
がその後死ぬまで住んだ早稲田に移転して後、魯迅が弟周作人及び何人かの友人と
共に住んだということがあります。

 これは何とも不思議な縁というほかはありません。

この時期、『我が輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』などを発表した漱石は、大学
をやめ、朝日新聞に入社して第一作『虞美人草』を発表した前後のことであります。

 魯迅は1909年(明治42年)6月に帰国しますが、これは 『それから』の『朝
日新聞』連載中にあたります。

 魯迅はこの頃までの漱石の作品は熱心に読んでいたということであります。後に魯
迅は周作人と共に編集した『現代日本小説集』(1923年刊)に、 漱石が『永日小品』
におさめたエッセ イを二篇訳して、簡単な紹介を付けています。

「夏目の著作は想像が豊富で、文詞が精美だと言われている。」

といい、『坊ちゃん』 『我が輩は猫である』などについて、

「軽快洒脱で機知に富み、明治文壇上では新江戸芸術の主流として当代に 比べるも
のがない」

と評しています。

魯迅は漱石の初期の作品の批評性、ユーモアや機知に興味を持ったようです。強いて
言えば、それは『阿Q正伝』等に影響があるといえないこともないでしょう。

 しかし、魯迅の帰国後に漱石が書いた後期の作品には全く関心を示していないよう
であります。漱石は1916年12月、第一次世界大戦の最中、ロシア革命の前夜に
亡くなりました。

魯迅は帰国後すぐ辛亥革命にあい、その後、革命と反革命の渦の中で、激動の生涯を
送りました。小説を書き、文学者として活動を始めたのは、1918年『新青年』に「狂
人日記」を発表してからであります。

 魯迅と漱石の生きた国と時代の違いと いうものを思わない訳にはいきません。 し
かし、その文学を支える根本の精神 においては、勿論漱石は魯迅を知らず、魯迅は
それに気付いていなかったけれども、一つの共通するものがあったと思います。

[ 3 ]

魯迅は1902年明治35年2月、22歳で日本に留学し、まず1年半日本語の教育を受け、
1904年明治37年8月、24歳で仙台医学専門学校に入学しています。

  魯迅はは じめから文学を志望したのではなかったことが、まず注目されます。

 何故医学を選んだかについて、また何故文学に転じたかについては、最初の作品集
『吶喊』の序文に記されており、また、仙台医学専門学校時代のことを、生涯忘れる
ことの なかった解剖学教授藤野先生の思い出を中心に描いた『藤野先生』に書かれて
いて有名であります。

医学を学ぼうとしたことについて、魯迅は日本の明治維新が西洋医学を学んだ蘭学
者の力による所が大きいということが、その理由の一つであったといいます。

 勿論、父の病気の時、むやみな処方をして、一家を窮乏のどん底に追い込んだイン
チキな漢方医に対する恨みがあり、医学の革新が国民にどれほどの幸福を齎すかと考
えたという個人的な動機が大きいことは否定出来ませんが、いずれ にしても若き魯
迅が自己の未来を国の未来、国民の幸福に結び付けないではい られなかったことは
確かなことです。

文学に志望を変えたことについてもこの態度は貫かれていました。

 魯迅が仙台の医専在学当時は日露戦争戦争の時代で、魯迅は日本軍によって銃殺さ
れる中国人を取り巻いて見ている中国人を幻灯(スライド)でみて衝撃を受けたのが
直接の原因だと言っています。

 勿論、日本人の学生は喜んで見ていたのでありましょうが、その中で魯迅は深い孤
独を感じ、民族に対する新しい自覚に目覚めたのであります。

『吶喊』の序文に魯迅はそのことを書いています。

 中国の人民にとって、身体の健康よりも精神の改変の方が緊急に必要だと考え、医
学から文学へと志望を転じたというのであります。

 魯迅の中国及び中国人民に対する愛は、中国及び中国人民の現実が悲惨であればあ
るほど深く切実であった。それは中国及び中国人民に対する希望となり、絶望となり、
厳しい批判となった。

 この激しい心は1907年(明治40年)にに日本で書いた「文化偏至論」「摩羅
詩力説」にはっきりと現れています。

「文化偏至論」において魯迅は日本に留学したものが「軍備こそ国家第一の大事」だ
と主張するのに反対して、

「なぜ人の知識を開発し、その霊性を呼び覚まして、網や鉾はせいぜい山犬や虎を防
ぐための道具に過ぎないことを教えないのか。そして逆に白人の狩猟精神を、世界文
明の極致だなどといってほめそやすのはどういう料簡なのか」

と いい、

「物質を廃して、精神を重んじ、個人を尊重して、多数を排斥すべきであ る。人間の
精神が作興して発溂となりさえすれば、国家も従って興起するのである」

と主張しました。

 中国は軍閥が割拠し、帝国主義列強に多くの権益をもぎ取られ、国民は奴隷的な貧困
と屈従を強いられている。中国を支配するものは保守的な、事大主義的な、奴隷的な精
神であって、この現実に反対するものは多数をたのむ保守的な勢力によって、弾圧され、
抹殺される。

 国民から絞り取った金でいくら新しい武器を買っても、国民が自己に目覚め、人間に
目覚め、奴隷的精神を脱却しなければ、売り手の西洋諸国を富ませ、国民を弾圧する力
を増すだけで、国民を少しも幸福にするものではない。

 魯迅は現実に抗し、旧習に抗し、権力に抗し、大衆に抗して、中国のために、中国の
大衆のために戦う「先駆者」、「精神界の戦士」を求めた。

 大衆のために、大衆に抗して戦うというところに魯迅の精神はあった。

「ひとりのソクラテス、それを多数のギリシャ人が毒殺した。一人のイエス・ キリスト、
それを多数のユダヤ人が磔(はりつけ)にした。」

「多数が党派を作ると、仁義の道も、是非の尺度も、めちゃくちゃに混乱し、常識的な
ことは分かるが、深い意義に就いてはさっぱりである。 」

魯迅は個人の目覚めと個人の自覚に基づく戦いを重視した。それは中国の保守主義、
事大主義と戦う極めて困難な戦いであった。

「個人」という言葉を罵倒の言葉と考え、もしも個人主義者だなどと言われると、「民
の賊」と言われたのと同じくらいに思っている」と魯迅は述べている。

『摩羅詩力説』においても、魯迅はこの観点から悪魔派とよばれるバイロン以下の詩人
達の戦いを高く評価して紹介した。

「ここでは、あらゆる詩人のうち、反抗と行動に根本義を認め、世間から余り喜ばれなか
った人達は、すべてこの類に入れ、その言行、思想、及び派別、影響について、始祖のバ
イロンから、マジャール(ハンガリー)の文学者まで述べたい」

と魯迅はいい、

「エデンにおけるアダムは篭の鳥と代わらない。無知無識で、ただ天帝の命のままになり、
もし悪魔の誘惑が無ければ、人類はついに生まれることがなかったであろう。」

「即ちいずれも剛毅不屈、あくまで真実を守り通した。大衆に媚びて旧習に随順するよう
なことをしなかった。雄叫びをあげて、その国民に生気を吹き込んで立ち上がらせ、その
国威を世界に輝かせた。」

と述べている。

魯迅は革命の思想を説き、その観点から戦闘の精神を強調した。

「平和というものは、人間の世界には存在しない。強いて平和とよばれているものは、戦
争が終わった直後、あるいは未だ戦争が始まらないときを言うに過ぎない。外見は、平穏
のようだが、そこには常に暗流が潜んで居て、一度時節到来すると、直ちに動きはじめる
のである。」

「平和が破れることによって、人間は向上するのである。しかしながら、そのために、上
は天子から、下は駕篭かき人足に至るまで皆以前の生活を変えなければならない。だから、
彼らが協力して、この芽をおしつぶし、その旧来の生活を永く保持しようと考えるのも、
人情の常だといえよう。旧来の状態が永く保存されているのを、古い国というのである。」

 こうした魯迅の言葉を平和のために戦うという私達はどのように考えたらいいだろうか。

 しかし、私達はすでに「平和のために戦う」と言っているのであります。戦うことなしに
平和を守ることは出来ないのではないでしょうか。

 魯迅は「覇気のない国民は戦闘的な国民よりも、戦争に遭遇する 可能性が、常に多く、
また、死を恐れる国民は、勇敢で死を恐れぬ国民よりも、不慮の死を 遂げる可能性が、常
に多いのである」と述べています。

 そして、ナポレオンにヨーロッパが蹂躙された時、ドイツの詩人テオドール・ケルナーが
職をなげうって従軍し、彼の詩がドイツ人の魂を動かし、奮い立たせたことについて、

「ケルナーの声は、すなわち全ドイツ人の声であり、ケルナーの血は、これまた全ドイツ人
の血であった。」
「ナポレオンを破ったのは、 決して国家でもなければ、皇帝でもなければ、武器でもなく、
実に、国民であったといえる。……実利を尊んで、詩歌を排斥し、あるいは外国の古ぼけた
武器を後生 大事に抱え込んで、その衣食と家族とを守ろうと願っている人々の夢にも考え付
かぬことではあるまいか。」

と述べている。

魯迅は一方で大衆に抗して戦う個人の孤独な戦いを強調し、ソクラテスやキリストを殺し
た民衆について語った。そして今、全ドイツ人の声と血、その戦いを賛美している。

 若き魯迅のこれらの文章は後のものとは全く違って、激しい感情のほとばしりであって、
言葉の矛盾などはあまり気にしていない。しかし、そのことによってかえって、その生涯を
貫く魯迅の問題が露出していると考えることも出来ると思う。

 魯迅は民衆の二面性を見ていた。そこに魯迅の民衆に対する希望と絶望があった。魯迅は
幾度となく民衆に裏切られ、民衆に絶望しなければならなかった。しかし、魯迅は民衆を信
頼し、民衆に期待した。そうでなければ、魯迅が文学をする意味はどこにもないのである。

 中国はなお暗がりの中にいた。中国の民衆はなお暗がりの中に眠っていた。この時期の魯
迅は中国の民衆をその眠りから覚まそうとしていた。魯迅には希望があった。その希望が魯
迅を文学の道に押しやった。

[4]  

さて漱石でありますが、魯迅が日本に留学し、それが医学から文学への転換をもたらした
ように、漱石にとっても英国留学は、その思想と文学にとって、やはり一つの転換をもたら
すものであったということが出来ると思います。

 勿論、魯迅の日本留学は1902年(明治35)2月から1909(明治42)年6月ま
で、22歳から29歳にかけての7年間であり、漱石の英国留学は1900(明治33)年
10月から1902年(明治35)12月まで、33歳から35歳にかけての2年あまりの
ことであった。

 魯迅が日本にやってきた1902年(明治35)の12月にに漱石はロンドンを出発し、
翌年一月に帰国したのであります。

 20歳代の7年間と30歳代の2年間ではその体験の重さが違うことは言うまでもないで
しょう。魯迅にとっての青春時代は日本で過ごされたのであり、その思想形成も主として日
本でなされたのであります。

 しかし、魯迅は「藤野先生」などのほかは日本について書いたものはあまりないようであ
ります。日本留学中の「文化偏至論」等においても専ら西洋を取り上げて中国の前途を論じ
たのであって、日本については殆どまったく触れていないのであります。

 魯迅は日本を媒介として西洋を学んだのであって、日本それ自体は重大な意味を持たなか
ったのでありましょう。

 この点、漱石は「文学論」序文において殆ど憎悪に近いほどの英国及び英国人に対する激
しい嫌厭の情を吐露したのを始め、生涯英国にこだわり続けたのであります。

 魯迅の日本留学が20歳代だったのにたいして、漱石の英国留学が30歳代で既に人格思
想の根幹が形成された後であったということもあったでしょう。

 漱石は勿論一方で英国に学び、英国=西欧文化に圧倒されながら、これと激しく対立する
ことによって日本=東洋を発見し、自己を確立しようとしたのだということが出来ると思い
ます。

[5]

しかし、1923年(大正12年)に刊行された第一創作集『吶喊』の序文を見れば、あ
の文学の道に旅立った27歳の情熱から思うと、43歳の魯迅の心はあまりに暗い。

 魯迅は文学に志して、最初の雑誌を『新生』と名付けて刊行しようとした最初の企てがは
やくも刊行にいたらずして挫折してしまったことを記している。

「私がそれまで経験したことのない無聊を感ずるようになったのはこれ以後である」

と魯迅は書いている。

「およそ一人の主張は、賛同を得られれば、その前進が促され、反対去れれば、その奮闘が
促される。たった一人見知らぬ者の中で叫んで、さっぱり人々に反応がなく、賛同もされず、
また反対もされねば、あたかもはてなき荒野に身を置いたように、手のほどこしようがなく
なってしまう。それはどんなに悲しいことか。かくて私の感ずるものは寂寞となった。
 この寂寞はまた日一日と成長して、大きな毒蛇のように、私の魂にまつわりついた。」

 しかし、魯迅は

「決して憤っていたわけではない」

と言います。

 この経験は魯迅を反省させ、自分が

「臂(ひじ)を振って一声叫べば応ずる者が雲集するといった英雄では決してないこと」

を思い知らせたというのである。

 魯迅は自分の寂寞を駆除するために、種々の方法を用いて自分の魂を麻痺させようとした
という。

「自分を国民の中に埋没させ、自分古代に回帰させようとした」

という。

 もっと寂寞とした、もっと悲しいことも経験したが、すべて思い出したくない。

「ただ私の麻酔法もすでに功を奏していると見えて、もう青年時代のような慷慨激昂の気持
はなくなった」

というのである。

 魯迅の帰国後1911年、辛亥革命が起こった。

 臨時政府が南京に成立し、1912年、魯迅は教育部部員となって南京に出たが、やがて
北洋軍閥の袁世凱が大総統の位置を譲られ、政府が北京に移ったため、魯迅も北京に移った。

 革命は惨めな結果に終わった。軍閥が割拠し、革命の夢は幻滅に終わり、魯迅は古典籍の中
に韜晦した。魯迅は中国に希望を抱くことが出来なかった。

 目覚めかかった少数者を呼び覚ましても、この人々に臨終の苦しみを与えるばかりだ。

『吶喊』序文には、『新青年』の銭玄同に何か書くように勧められた時、こういうことを言っ
て断ったと書かれている。

 しかし、銭玄同は

「だが数人が起きてしまった以上、その鉄の部屋を打ち壊す希望がないとはいえまい」

といったという。

魯迅は

「そうだ、私には私なりの確信があるとはいえ、希望ということになれば、それは抹殺しえな
い。何故なら希望は将来にかかわることであり、私の絶無だという証明をもって、彼のありう
るとする考えを折伏できない。そこで私は文章を書くことを承諾した。それが最初の一篇『狂
人日記』である」

と書いている。