ベルリン・オリンピック記録映画について
2001-01-04 今昔物語と虹色
さて、知人より、1)聖徳太子は馬小屋で生まれたと言われる根拠はどうか、2)シドニーオリンピックで日本選手団の着用していた虹色のマントはゲイのシンボルであるが何故、そのようなデザインとなったのかと新春の疑問を投げかけられて調べたところ以下のようでした。
1) 聖徳太子と蘇我馬子は同一人との説が、最近、一部で有力となっていますが、馬子の馬と太子が馬小屋でお生まれになられたと関係があるのかないのか不明です。今昔物語では、種々の点でキリストの降誕とかなり似た内容に思われます。
2) シドニーオリンピックの日本選手団の虹色のマントについては、当方はそれがゲイのシンボルとは気づきませんでした。あのデザインはかの森英恵さんのデザインとTVで報じられたような気(レンボーは種々の人々の結合を表すとTVで報じられたような気がします)がしましたが、インターネットで見ると、それは誤解のようでした。単に森英恵さんは選考委員会の委員長で、雨用に認めただけと言われているようです。やはりこれは失敗で場違いなデザインを使用したということで、レインボーが外国では特定の目的を表すと知らないことに起因しているようです。
<聖徳太子伝説の抜粋>
「用明天皇は異母妹の穴穂部間人皇女を立てて皇后とした。二人の間には四人の皇子が生まれているが。その長子が厩戸皇子、つまり聖徳太子である。『日本書紀』は、臨月の皇后が禁中の諸司をみてまわっているうちに馬小屋の前まで来たとき、にわかに産気づいて生まれたので厩戸皇子というのだと伝えている。『上宮聖徳法王帝説』にしたがえは、敏達天皇三年(574)のことだという。」
「厩戸の名前のいわれは、太子の母后(用明天皇皇后、穴穂部間人皇女・あなほべのはしひとのひめみこ)が、にわかに産気づき、通りかかった馬小屋の前で太子を産みおとしたので、厩戸と言われた。」
「さて、用明天皇の兄、敏達天皇が即位なさった年の正月一日、夫人は宮廷を回っていたが、厩(馬小屋)のあたりにやって来た時に太子が誕生された。」
1)連載 歴代の宮跡(第11回)
第31代 用明天皇 磐余池辺雙槻宮(いわれいけべのなみつきのみや) [桜井市池之内付近]
◎蘇我・物部の決戦前夜
敏達天皇が崩じたのち、皇位は皇子の押坂彦人大兄(おしさかひこひとのおおえ)皇子にはまわらず、天皇の弟である橘豊日尊が即位した。用明天皇である。押坂彦人大兄は皇后の生んだ正嫡でありながら、蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母に持つ叔父に皇位をさらわにれたのだ。蘇我馬子にとって用明天皇は甥に当たる。即位にあたって馬子が強力に推したらしいことがうかがえる。
用明天皇は異母妹の穴穂部間人皇女を立てて皇后とした。二人の間には四人の皇子が生まれているが。その長子が厩戸皇子、つまり聖徳太子である。『日本書紀』は、臨月の皇后が禁中の諸司をみてまわっているうちに馬小屋の前まで来たとき、にわかに産気づいて生まれたので厩戸皇子というのだと伝えている。『上宮聖徳法王帝説』にしたがえは、敏達天皇三年(574)のことだという。
蘇我氏が天皇の外戚になったことによって、情勢は崇仏派に有利となった。折りも折り、即位二年の四月、用明天皇は病いを得た。そこで雙槻宮に群臣を集めた天皇は、仏法にすがろうと思うがどうかとはかった。守屋はもとより反対である。だが馬子は、詔のままに仏法を信ずべきだと主張した。
議論が紛糾したとき、ある者が守屋にひそかに、蘇我氏の息のかかる群臣が退賂を断とうとしていることを告げた。身の危険を感じた守屋は、早々に本拠の阿都(八尾市跡部)に帰って兵を集めはじめた。
こうして物情騒然たるさなかに用明天皇の病いはますます篤く、ついに雙槻宮に崩じた。そして蘇我・物部の決戦はその直後に起こった。
2)佛教談義(ぶっきょうだんぎ)その二十三
聖徳太子、奇跡のしるしを示す話 「日本霊異記」より
聖徳太子は、磐余(いわれ)の池辺の双槻宮(ふたつきのみや)に宇御(あめのしたをおさ)めたまいし橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと・用明天皇)のお子である。小墾田宮(おはりだのみや)に宇御めたまいし推古天皇の御代のとき、皇太子となられた。太子には三つのお名前がある。一つは厩戸豊聰耳(うまやどのとよとみみ)といい、二つは聖徳といい、三つは上宮(じょうぐう)という。
厩戸の名前のいわれは、太子の母后(用明天皇皇后、穴穂部間人皇女・あなほべのはしひとのひめみこ)が、にわかに産気づき、通りかかった馬小屋の前で太子を産みおとしたので、厩戸と言われた。 また、太子は生まれながら賢くて、十人が同時に訴え、しゃべる話の内容を、一言ももらすことなく聞き分けることができたから、鋭敏な聴力の持ち主というので、豊聰耳というのである。
二つめの呼び名のいわれは、太子の日常、立ち居ふるまいや、威儀よそおいが僧(ほうし)さながらであるばかりか、法華経、維摩経(ゆいまぎょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)の注釈書を作って佛法をお弘めになり、朝廷に仕える官人の功績や手柄を調べて、その冠位をお定めになったので、聖徳とよんで崇めたのである。
3)10人のうったえを一度に聞いた
聖徳太子は、うまやどのおうじや、とよさとみみのおうじともよばれていました。
うまやどとは、馬小屋のそばで生まれたのでそうよばれました。とよさとみみとは、頭がよくてかしこいことからそうよばれました。聖徳太子は、うまれつきかしこくて、10人のうったえを一度に聞いて、1人もまちがえずに答えたと、伝えられています。
4)今昔物語巻十一第一
聖徳太子、日本にて仏法を弘めたまう語
今は昔わが国に聖徳太子と申し上げる聖がおいでになった。用命天皇と申し上げる天皇が、まだ親王でいらっしゃったときに穴穂部真人の娘の腹にお生ませになった御子である。
そのはじめ母である夫人の夢に金色の僧が現れた「わしはこの世の人を救うという誓いを持っている。それでしばらくの間、そなたの御腹に宿ろうと思う」と言う。夫人が「そうおっしゃるあなたはどなたでしょう」と尋ねると、僧は「わしは救世菩薩である。家は西の方にある」とお答えになる。夫人は「わたしの腹は垢じみ汚れております。とてもお宿りになるわけにはまいりません」と言うと、「わしは垢じみ汚れているのをいといはしない」と言うや、夫人の口の中に踊りこんだ、とこう夢を見て目がさめたが、その後、のどの中に何か含んだような気持がして懐妊した。
さて、用明天皇の兄、敏達天皇が即位なさった年の正月一日、夫人は宮廷を回っていたが、厩(馬小屋)のあたりにやって来た時に太子が誕生された。おつきの人が来て太子を抱いて寝殿にはいると、にわかに赤黄色した光りが御殿の内を照らした、また太子のお体はえもいわれぬ香気を放っていた。四ヶ月後にはもうお言葉をはっきり話される。翌年の二月十五日の朝、太子は掌(手のひら)を合わされ東を向いて「南無仏」とおっしやって礼拝なさった。
また、太子が六歳になられた年、百済国から経論を持って僧が渡来した。太子は天皇に、「この経論を見たい」とお願いなさる。天皇は驚き不思議に思われて、そのわけを聞かれる。太子は、「わたくしが、昔、漢の国におりました時、南岳に住んで何年もの間、仏道を修行していました。今度この国に生まれあわせましたので、この経論を見ようと思うのです」とおっしゃったので、天皇はお許しになった。そこで太子は、香を焼き、経論を開き見て天皇に申し上げなさる。「月の八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日を六斎の日と申します。この日には梵天・帝釈天がこの地上の国々の政治をご覧になります。それゆえ、国内のすべての殺生を禁止すべきです」。これを聞かれた天皇は国中に宣旨を下し、この日は殺生を禁じなさった。
また、太子が八歳になられた年の冬、新羅国から仏像をお運びした。太子が、「これは西の国の神聖な釈迦如来の像でありますと天皇に申し上げた。また百済国から日羅という人が渡来した。その身から光明を発している。太子はひそかに破れた衣服を衣服を着て下仕えの童達と交わり、難波の館に行ってそれをご覧らなった。すると日羅は太子を見て不審な面もちをした。太子が驚いてお逃げになると、日羅はひざまずいて掌を合わせて、大使に向かって
敬礼救世観世音 伝灯東方粟散王
(敬います救世観世音よ、仏教を伝える東方の辺土の国王よ)
と申し上げると同時にその身体から光を放つ。すると太子もまた眉間から日光のような光をお放ちになられた。
(後略)
シドニーオリンピックでの日本選手団の服装について
1) http://www.ne.jp/asahi/weekly/review/news925/925-6.htm (週刊朝日のHP)
シドニー五輪開会式で日本選手団が着用した虹色マントのデザインを担当したと伝えられたファッションデザイナーで日本オリンピック委員会(JOC)服装選考委員会委員長の森英恵氏が、マントにはノータッチであのデザインには「驚いた」と話していることが分かった。マントをめぐってはJOCに多くの意見が寄せられているが、賛成よりも反対の意見が圧倒的。担当デザイナー名の公表も伏せられた。
虹色マントは、JOCから昨年6月に依頼を受けた財団法人日本ユニフォームセンターがデザイン・製作。最終的にJOC服装選考委員会(森委員長)を経て決定した。一部で森氏のデザインと伝えられたが、森氏の事務所では18日「マントは選考委員会に諮られなかったが、7月にパリコレクションから帰国したら、JOCさんと日本ユニフォームセンターさんから『これに決まった』とマントを見せられた。森氏は、正式に入場行進で着るものではなく、悪天候時用の補助的なものと考えていた」と話した。
JOCによると、マントについては放送直後から電話や電子メールで反響が殺到している。「今までの地味な印象を覆す明るいデザインで良い」という賛成意見もあるが「何だあれは」「予想もしていないもので幻滅した」「派手で奇抜すぎて日本らしくない」など「否定的な意見の方が多い」(事業広報部)という。JOCでは、こうした声を内部資料としてまとめる作業を始めた。
これまで長野五輪の日本選手団の公式スーツなどを担当している日本ユニフォームセンターの田川香津子理事はこの日、マントは同センターの5人のデザイナーが共同でデザインしたことを明らかにした。 同センターの役員でもある28歳と35歳のデザイナーも含まれている。しかし、田川理事は「5人の名前は公表しない」としている。田川理事は「これまでの赤と白といった服ではなく、先進的なものにしようと考えていた。昨年の今ごろの季節にシドニーを視察し、現地の人の陽気さ、真っ青な空も見てデザインに生かした」。現地で入場行進を見たという田川理事は「きれいな夜景の中で、マントが選手たちの笑顔のように輝いていて感激した。絵にかいたように美しかった。実況した方も驚いたんじゃないですか」と語り、不評の声については「帰国したばかりで分からない。もし不評なら残念です」と話している。
5色のマントはオーストラリアの人々の失笑をかった。レインボーカラーは地元では、ゲイのシンボルカラー。地元のある男性は「日本選手団が登場した瞬間、全員がゲイ関係者なのかと思った」とショッキングなコメントをしていた。
2)http://www.lares.dti.ne.jp/~my-nichi/0009.htm
2000年9月18日(Mon)
ところでシドニー五輪開会式の日本選手団股旅雨合羽風マントについて賛否両論(と言うか批判意見が圧倒的に多いが)である。デザインした森英恵を国賊呼ばわりする者もある中で、「レインボーカラーはゲイのシンボルだ」というのがあった。確かに豪州ではそのての運動が盛んであるそうだが、何もゲイの専売特許という訳ではあるまい。現に筆者もレインボーフラッグが我々のシンボルだと思った事など一度も無い。何の運動をしようと勝手であるが、何もかも自分本位に結びつけるのは止めて貰いたいものだ。汝奢ることなかれ、虹色を独占しようなどとは僭越の沙汰である。ちなみに書くと、古来日本では虹は不吉の前兆とも考えられたのだよ。
2000年9月15日(Fri)
我が国の祝日に合わせた訳でもないだろうが(だって敬老の日だしね)、シドニーオリンピックが今日開幕した。例によって開会式をテレビで見たが、なんか「やっぱりショーだよね」って思う。開会式に莫大な費用をつぎ込みながら、一部の人気競技を除いては競技施設もお粗末なものなんだそうで、しょせんやはりゼニ儲けの場。日本でも国体や全国植樹祭の形骸化が言われているけど、オリンピックほど俗っぽくはないなと思う。日本選手団は入場行進のとき股旅モノの雨合羽のような七色のマントを羽織っていたので驚いた、似合う似合わないは別として「らしくない」事をあえてやったのは良かったんじゃないかと思う、取りあえず「がんばれニッポン!」
3)追記 2000/09/21) いろいろ検索してみると、記事がありました。「日本赤っ恥!極彩色マントはゲイの色」
その他にも、五輪と関係ない旅行記に、シドニーの町にその手にお店があり、レインボーカラーの旗が立っている話も載っていました。他の国でもレインボーカラーにはそういう意味があるようです。場所によっては紫の場合もあるみたいですが。
ただし、別にゲイのシンボルカラーだから悪いんという話ではありません。「いや、レインボーカラーは俺の国では〜」と自信を持って答えられるなら、ちっとも恥じることはありません。
(追記 2000/09/28) 森英恵デザインというわけではなさそうです。過去、有名デザイナーによるデザインがことごとく不評で、デザイナーにもその評が負担になることから、協会内部でデザインすることに変わったそうです。それで今回、森英恵は協会内のチェックの立場で、本人に言わせると「直前になってあれを見せられ、良くないと思ったが変更するのは無理だし、雨の時だけの服装だというのでOKを出した」とのこと。