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2001-04-17 カサブランカ

以下は、識者よりいただいたものです。

As Time Goes By といえば・・・、「Play it again, Sam.」。イルザが、あの落ち着いて暖かな声で囁く。ドゥリー・ウィルソンのサムが、ちょっとためらいながら、黒い指を鍵盤に走らせ、歌いだす。「You must remember this・・・」。リックが不機嫌な顔で現れる。「その曲は弾くなと言った筈だ」。そして、そこに立っているイルザに気がつく
・・・。
♪ You must remember this
A kiss is still a kiss
A sigh is just a sigh
The fundamental things apply
As time goes by
And when two lovers woo
They still say I love you
On that you can rely
No matter what the future brings
As time goes by ... ♪

<忘れないでね。
 私たちが交したほんのひとときの口づけも、
 ふと漏らした溜息も、 
 それはなんでもないことのようだったけど、
 時が過ぎていくにつれて、
 とても大切なものになっていくのね。
 この先、私たちはどんな風になっていくのか、
 それは誰にもわからないけど、
 好き − 人の世で、
 すがることができるのは、
 それだけなのよ・・・>

和田誠『お楽しみはこれからだ』とバーグマン主演「カサブランカ」に関する肩のこらないコラムを:「*映画ベスト・テン・・・
 和田誠さんの新著『お楽しみはこれからだ』(文藝春秋刊)を読む。もちろん絵入り。絵がうまいのは当たり前だが、文章もなかなかの腕前。感心しました。もっともわたしは和田さんほどの映画すきぢやない。だから、この、外国映画の名台詞についての本を読んでも、見た映画の話はほんのすこししかない。それでもやはりおもしろいんですね。読書の喜びはその本の主題を実地に体験したことがあるかどうかには関係がない。だからこそわれわれは犯罪小説なんてものを読むことができるのである。しかしそれはともかく、さいはひなことに、彼がいちばん引合いに出す映画は、わたしが見たことのあるものだった。『カサブランカ』である。和田さんは何度も何度も実に情熱的にこの映画のことを語ってゐるのだ。まるで『カサブランカ』が映画の原型でもあるかのやうに。あるいはまた、映画ベスト・テンの第一位は断じて『カサブランカ』であるかのやうに。ただし和田さんは、「ぼくが見た映画のベストワン」として『サンセット大通り』をあげてゐるけれど。」− 丸谷才一『男のポケット』(新潮文庫) −
それでは、主演したIngrid Bergman(我々はバーグマンと書き、発音しているが、スウェーデン人だからベイルマンと言うのでしょうか)の晩年を例の奇書から・・・。(他の人に対する記述よりもどことなく暖かさが感じられる。風太郎さんもバーグマンのファンだっだのかしら?)

「六十七歳で死んだ人々 イングリッド・バーグマン[一九一五−一九八二]
  映画「カサブランカ」「ガス燈」「誰がために鐘は鳴る」など、気品にみちた知性的な美貌で、戦後の日本人にも数多くの讃美者を生んだスウェーデン生まれのイングリッド・バーグマンは、一九七四年、五十九歳のとき、ニューヨークで芝居に出演中、偶然新聞で乳ガンについての記事を見た。
 「わたしも新聞の記事を読みながら無意識のうちに胸にさわっていた。やがて手がぴたりと止まった。ああ、まさか! わたしに限ってそんなはずはない!」 と、彼女は自伝『マイ・ストーリー』で書く。乳房にシコリがあったのだ。 しかし、医者にかかるのはきらいで、芝居が終わって、数ヶ月ののち、ロンドンで手術を受け、一方の乳房を切除された。そのあと、放射線治療をつづけながら、アガサ・クリスティ原作の「オリエント急行殺人事件」に出演して、オスカー賞を受賞した。
 四年後の一九七八年、祖国を共にする名監督ベルイマンが演出し、彼女の最高作といわれる「秋のソナタ」の撮影がほぼ終わってから、二度目の手術を受ける羽目になり、もう一方の乳房も切除された。
 さらに四年後の一九八二年一月、テレビ映画「ゴルダという女」で、ガンと十二年間たたかって死んだイスラエルの元首相ゴルダ・メイアに扮して出演したときは、もうメーキャップもいらないほどの衰弱振りを見せていた。
 彼女は自伝の終りに書く。「わたしはかねがね命あるかぎりいつまでも演技を続けようと思っていた。・・・わたしは生涯の終りにあっても、いつでも演技をする用意だけはできている」
 そしてバーグマンは、その年の八月二十九日、ちょうど六十七歳の誕生日に、ロンドンの自邸で死去した。彼女は三度結婚したが、死ぬときは独身であった。」 −山田風太郎『人間臨終図巻』(徳間書店)−

<百科辞典> バーグマン Ingrid Bergman (1915―82)
スウェーデン出身の女優。ストックホルムに生まれ、王立演劇学校卒業後、1934年から数本の映画に主演した。製作者デイビッド・O・セルズニックに招かれて渡米、『別離』(1939)に主演。40年代には『カサブランカ』(1942)、『誰(た)が為(ため)に鐘は鳴る』(1943)、『ガス燈(とう)』(1944。アカデミー主演女優賞)、『汚名』(1946)と、作品にも恵まれ、情熱的な演技と美貌(びぼう)でトップスターの座についた。しかし、イタリアのロベルト・ロッセリーニ監督の映画に感動し、50年に夫と一女を捨てて彼のもとに走り『ストロンボリ』に主演し、結婚。この事件でアメリカ映画界から締め出されたが、56年の『追想』でカムバックし、再度アカデミー主演女優賞を受けた。58年に演劇プロデューサー、ラース・シュミットと結婚。晩年は癌(がん)と闘いながら、舞台を主に、『オリエント急行殺人事件』(1975。アカデミー助演女優賞)、『秋のソナタ』(1976)などに出演を続け、ロンドンに没した。自伝『マイ・ストーリー』(1980)がある。〈畑 暉男〉【本】I・バーグマン、A・バージェス共著、永井淳訳『イングリッド・バーグマンマイ・ストーリー』(1982・新潮社)

<百科事典より>
火宅 かたく煩悩(ぼんのう)や苦しみに悩まされて安らかにできないことを、火災にあった家屋に例えたもの。『法華経(ほけきよう)』「譬喩品(ひゆほん)」に基づく。法華(ほつけ)七喩 (しちゆ)の一つ。教理的には「火宅三車の喩(たとえ)」ともいう。この世で苦しんでいても、苦しんでいることすら知らない人々を、焼けている家屋の中で迫りくる危難を知らないで戯れ遊んでいる子供に例えたところから出たもの。また、子供に羊、鹿(しか )、牛の三車を与えるといって火宅から逃れさせ、それぞれに大白牛車(だいびやくごしや)を与えたとあり、三車を三乗(さんじよう)の教えに例える。〈石上善應〉

三乗 さんじょう仏教の教理用語。サンスクリット語ではトリーニ・ヤーナーニあるいはヤーナ・トラヤy%\na-trayaといい、いずれも「三つの乗り物」の意を表す。「乗」(乗り物)は、人々を乗せて仏教の悟りに至らしめる教えを譬(たと)えていったもので、大乗仏教ではそれに声聞(しようもん)乗(仏弟子の乗り物)、縁覚(えんがく)乗(ひとりで悟った者の乗り物)、菩薩(ぼさつ)乗(大乗の求道(ぐどう)者の乗り物)の三つがあるとする。ただし、部派仏教(いわゆる小乗仏教)ではこのうちの菩薩乗を説かず、かわりに仏乗(仏の乗り物)をたてる。初期大乗経典の『法華経(ほけきよう)』では、三乗は一乗(仏乗、一仏乗ともいう)に導くための方便であり、真実なる一乗によってすべてのものが等しく仏になると説いている。〈藤田宏達〉

檀一雄 だんかずお (1912―76)小説家。明治45年2月3日、父の任地山梨県で生まれる。東京帝国大学経済学部卒業。1 933年(昭和8)『此家(このいえ)の性格』を発表、尾崎一雄らに認められ、太宰治(だざいおさむ)や坂口安吾(あんご)らを知る。また佐藤春夫に師事。35年『日本浪曼(ろうまん)派』に発表した『夕張胡亭塾(ゆうばりこていじゆく)景観』が芥川(あくたがわ) 賞候補となる。37年青春小説『花筐(はながたみ)』を、39年詩集『虚空象嵌(こくうぞうがん)』を刊行。44年から翌年にかけ報道班員として中国大陸を転々として帰国後書いたのが、妻の死を描いた清冽(せいれつ)な秀作『リツ子・その愛』『リツ子・その死』(1948〜50)である。51年(昭和26)、『長恨歌』(1950)、『真説・石川五右衛門 (ごえもん)』(1950〜51)で直木賞を受賞、流行作家として活躍。『ペンギン記』(1 952)、『夕日と拳銃(けんじゆう)』(1955〜56)、『光る道』(1956)、『わが青春の秘密』(1960)、『青い雲』(1969〜70)、『火宅(かたく)の人』(1955〜75)などがある。彼は「天然の旅情」に忠実に奔放な生き方を貫いたため、無頼と称されるが、その根源にあるのは詩心であった。旅や食べ物に関する著作も多い。昭和51年1月2日没。火宅の人 〈沖山明徳〉【本】『檀一雄全集』全八巻(1977〜78・新潮社) ▽『檀一雄全詩集』(1976・皆美社) ▽『檀一雄歌集』(1978・皆美社) ▽『檀一雄句集』(1979・皆美社)

「レベッカ」よりも、キム・ノヴァク主演の「めまい」が好きですね。それ以上に傑作と思うのは、「サイコ」ですが。次に、「鳥」、「北北西に進路を取れ」、「ダイヤルMを回せ!」、「裏窓」・・・、の順ですね。「ブロンドが好きだ」と言う点に関して・・・、
 「ヒッチコック映画の中で記憶にのこる女優の美しさは、実際のところ、共通して冷たさ(クール)−"ヒッチコック風の女"と同義となった要素−−を備えている。どの女優も、たとえば一九四〇年代、五〇年代のエヴァ・ガードナーとかリタ・ヘイワース、或いは一九六〇年代中期以降の女優の俗っぽさがない。ヒッチコック映画そのものがそうであるように、最も意識的に強調された女性の好ましさは−マデリン・キャロル、ジョーン・フォンテーン、イングリッド・バーグマン、グレース・ケリー、ヴェラ・マイルズ、キム・ノヴァク、(そして後の)エバ・マリー・セイント、ティッピ・ヘドレンによって描き出したように−−感情や欲望にこたえるよりも、知性と想像力に訴えるのだ。」
 −『ヒッチコック−映画と生涯』(原題:The Dark Side of Genius - The Life of Alfred Hitchcock)(ドナルド・スポト−著、勝矢桂子・他訳、早川書房、昭和63年6月刊)−
そして、そのブロンド美人に対する行動のdark sideを・・・、
 「そしてついにことは起きた。(1964年)二月末のある日、ヒッチコックは僅かに残っていた威厳と分別をすべてかなぐり捨てたのだ。一日の撮影が終わってヘドレンと二人きりで彼女の控え室にいたとき、彼はあからさまに性的な関係を要求した。それまで彼女は、彼のこのような言動を無視するか、適当に受け流していた。だがこのときはそんなふうにごまかすわけにはいかなかった。ヒッチコックがこのような大胆なふるまいにでたのは、生涯ではじめてだった−−ヘドレンを激しい鳥の攻撃にさらすというような残酷な行為がはじめてだったのと同じだ。そのときまでヘドレンとスタッフは、このような事件が起こらないうちに撮影がすめば、みなが感じていた緊張はすぐにとけると思っていた。ところがヒッチコックはその前に醜悪な結末をつけてしまったのだ。彼女は驚き、動揺したが、彼は執拗にくいさがり、やがて脅迫めいたことまでいいだした。(中略) しかしヘドレンにとっては、こうした仕打ちを受けるほうが彼の要求をのむよりはまだましだった。」 −同書−

○(『風と共に去りぬ』については、映画監督(セルズニック)や主演女優(ヴィヴィアン・リー)のことだけ話題にして、作者のことも取り上げぬと不公平なので、例の奇書から作者マーガレット・ミッチェルのの晩年を・・・。)
「四十九歳で死んだ人々 マーガレット・ミッチェル[一九〇〇−一九四九]
 地方紙の「アトランタ・ジャーナル」の読物記者という履歴はあるが、小説は書いたことのないマーガレット・ミッチェルが、『風と共に去りぬ』という南北戦争を題材とする壮大な物語を書きはじめたのは一九二七年、二十七歳のときであった。彼女はこの大長編を、なんとラストの部分から書き出した。
 それ以来、病気や怪我や自信喪失や、ジョージア電力に勤める夫との家庭生活の雑用に追われて、一九三五年に至ってもまだ未完成であったが、出来上がった分を読んだ出版社マクミラン社が出版を申し込み、彼女はあわてて冒頭部分の最終稿を書きあげた。
 彼女は五千部も売れてくれればありがたいと考えていたが、一九三六年六月『風と共に去りぬ』が発売されるや記録的なベストセラーとなり、その年の中にアメリカだけで百万部を超え、以後も全世界で無限と思えるほど売れつづけた。
 それ以来彼女と夫ジョンは、映画化権や無断上演、海賊版などのトラブル、ピューリッツア賞受賞の騒ぎ、殺到するインタヴューや講演の依頼、ファンとの応対、さらにはあらぬ中傷や裁判沙汰などに忙殺され、マーガレット自身の言葉によれば「気苦労の多い悪夢のような生活」におちいってしまった。しかし彼女は、むろんただ嘆いていたのではなく、自分の権利を守るために悪戦苦闘し、かつその名声に満足し、愉しんでいた。
 マーガレット・ミッチェルは二度と小説を書く意志を持たず、また書ける状態ではなかったが、なだれこむ巨額の収入は、彼女を『風と共に去りぬ』の上に安楽にあぐらをかかせる結果となった。マーガレットは自分の「版権保護者兼印税取立て主任」としての余生を過した。
 一九四九年八月十一日の夜、マーガレットは夫のジョンとともに、『風と共に去りぬ』執筆時代から住みつづけているアトランタ市の映画館にイギリス映画「カンタベリー物語」を見にゆくために出かけ、八時半ごろ映画館近くの信号機のない交叉点を渡ろうとした。マーガレットは心臓を病む夫に腕をかしていたが、そこへ酔っぱらい運転のタクシーが走って来た。マーガレットは反射的に夫から離れて歩道のほうに逃げ戻ろうとしたが、車は夫を避けようとして、逃げたマーガレットを轢いてしまい、七フィートも引きずった。 マーガレット・ミッチェルはすぐに救急車で病院に運ばれたが、五日後の八月十六日午前十一時五十分に息をひきとった。」 −『人間臨終図巻』(山田風太郎、徳間書店)−
○気分転換にジョナサン・スウィフトの晩年を、我が愛読する例の奇書から
七十八歳で死んだ人々 スウィフト[一六六七−一七四五]
 五十代で『ガリヴァ旅行記』を書いた司祭ジョナサン・スウィフトは、六十代の半ばから、持病のメニエル氏症候群ーめまい、難聴、頭痛などに悩み、厭人癖と孤独感にさいなまれていた。老いたるスウィフトは、散歩中、てっぺんのほうから枯れかかった老木を見て、あれがおれだ、とつぶやいた。一七四二年、七十五歳で彼は完全な痴呆状態におちいり、専門医によって精神鑑定され、もはやすべてにおいて「責任能力なし」と診断された。さらに言語を発することも困難になり、一七四四年の四月のある日、七十七歳の彼は召使いを呼んで何か命じようとしたが言葉が出ず、苦悶ののち、「阿呆だ、おれは」という一語を発したきりになってしまった。
 そして一七四五年十月十九日、枯木のごとく死んだ。彼は、自分が『ガリヴァ旅行記』で描き出した、老醜無残の姿でただいたずらに長生きするラグナグ国の不死人間ストラルドブラグさながらに死んだのである。サッカレーはいう。「なんという怖ろしい崩壊と廃墟。それは大英帝国の没落を思わせる」
 狂気説ないし梅毒説もあって、死後ただちに解剖されたのみならず、のち二度まで掘り出されて調査研究の対象になったが、死因はただ「老衰」であったというのが定説になっている。  −『人間臨終図巻』(山田風太郎、徳間書店)−

○「八十一歳で死んだ人々 ヒッチコック[一八九九−一九八〇]」
 アルフレッド・ヒッチコックは、十歳のころから肥満症に悩んでいた。彼は一生、減量のためにありとあらゆる療法を試みたがだめであった。
 映画監督になってから、彼が自分を自作映画の一シーンに必ず登場させたギャグは、ただのお遊びではなく、ひとから笑われるより先に自分で戯画化するという、彼の映画を成立させているデリケートなバランス感覚から出た心理的必然性によるものであった。
 ヒッチコックは、一九七六年、七十七歳のときの「ファミリー・プロット」の脚本制作中に心臓発作で倒れ、以後ペースメーカー(心臓の拍動を一分間七十回のペースで保つ医療器具)を胸にとりつけて、この映画を完成させた。それから次回作「みじかい夜」の準備にとりかかったが、腎臓病と関節炎も併発して、車椅子によらなければ動くことも不自由となり、ただ脚本をいじりまわしていることを余儀なくされ、本人も自棄的になり、自分のプロダクションの事務所にやって来ると、看護婦の眼を盗んでコニャックをがぶ飲みし、泥酔状態になってかつがれて帰るという毎日になった。
 一九七九年三月七日、AFI(米国映画協会)から功労賞が贈られ、その受章祝賀会で、イングリッド・バーグマン、ケイリ−・グラント、ジェームス・スチュアート、アンソニー・パーキンスなどのスターたちが代る代るお祝いの言葉を述べた。
 ヒッチコックは、一週間前からアルコールを断ってこの日にそなえ、車椅子で出席したが、出席者たちは彼がこのパーティのおしまいまで保つかどうか、ハラハラのし通しであった。彼は車椅子から立ち上がれない状態であったが、ともかくも挨拶をした。その中で彼は、「私は、私の仕事においてだれよりも貢献してくれたある人々の名をあげなければ、これから眠れぬ夜をすごさなければならないでしょう。その一人はシナリオ・ライター、一人は私の映画の編集者、一人はみごとな奇跡をみせてくれた料理人、一人は私の娘の母親で、この四人の名前はひとしくアルマと申します」とのべた。
 彼の妻アルマは、しかし数年前から脳溢血で倒れ、以来病床にあった。ヒッチコックはその妻に先立たれることを極度に怖れていた。
 八月十三日、彼は八十歳の誕生日を迎えたが、そのころの彼について知人は語る。「彼は『みじかい夜』のシナリオを眼の前において、いつもの調子でその中のシーンをどんな風に撮るかあれこれ語ってくれたが、もはや彼自身それが実現するとはまったく信じていないことはあきらかだった」
 彼は、翌一九八〇年四月二十九日にこの世を去った。
  −『人間臨終図巻』(山田風太郎、徳間書店)−(原文は縦書き)

− 五十四歳で死んだ人々− ヴィヴィアン・リー[1913 - 1967]
「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラ役で売り出したとき、二十六歳のヴィヴィアン・リーは、善良な弁護士の夫と幼い一人娘を捨てて、ローレンス・オリヴィエと同棲中であった。その後正式にオリヴィエと結婚し、映画、芝居で共演することが多かったが、俳優としてあまりに偉大なオリヴィエと比較して批評され、少女時代からひたすら大女優になりたいという野心に生きつづけて来た彼女は、しばしばヒステリー状態になった。
 その精神異常は次第に躁鬱病となって現れるようになり、戦争中から発病した肺結核とともに彼女を苦しめた。 抑鬱状態にはいると、だらしなくなり、物を食べなくなり、睡眠薬を飲みふけり、自殺をはかる。突然狂躁状態にはいると、心に浮かんだことを、汚いわいせつな言葉でさけび、物を投げつけ、衣服をひき裂いて裸になり、乗っている車や飛行機から飛び出そうとする。・・・それがさめると彼女は、以前の通りの優等生にしてかつ絶世の美女ヴィヴァン・リーに戻るのだが、この発作が次第に頻繁になり、オリヴィエも持て余すようになり、一九六○年、二人はついに離婚するに至った。
 ヴィヴィアンはその後俳優ジャック・メリヴェールといっしょになったが、一九六七年六月、彼女のあまりのやつれように医者に連れていったところ、結核は両肺にひろがっていて重態であることを告げられ、彼女が入院をいやがったので、自宅で絶対安静を命じられた。七月七日、ジャックが、出演している劇場から夜十一時過ぎに帰ったとき、ヴィヴィアンはベッドの中で眠っていた。ジャックは台所で夜食を作り、十五分後にひき返して見ると、ヴィヴィアンはベッドから床の上に転がり落ちて死んでいた。彼女は喀血し、その血で窒息したのであった。」
− 『人間臨終図巻』(山田風太郎、徳間書店) − (原文;縦書き)