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2001-04-22 NHK archive
昨日、日曜日の深夜、NHKアーカイブを2本見ました。大体、30年位前のドキュメ番組を1時間くらい放送するもので、NHK臭がふんぷんとしているのですが、なかには30年の風雪にたえる力作もあります。
版画の「棟方志功」1970年製作、本人がでてきて、木訥かつエネルギッシュに喋る姿が写っていました。音楽は高橋竹山での熱気の伝わる労作でした。片目は失明、残りも殆ど見えないなかた板を削る姿は鬼気せまるものでした。
ゴッホに憧れ苦労しながら、東京に出て油絵で身を立てようとするものも、成功せず、版画(板画)に転向して、そこで外国で賞を得て、日本で注目を浴びるという展開。これは池田満寿夫(1934-97)と同じ経歴でした。ねぶたがエネルギーの根源に見えました。
続いて岡田嘉子(1902-92)、これは1972年の番組で、ソ連から日本に一時帰国する直前のインタビュー、かなりの有名人ですが、帰国前のインタビューというのが興味深いところでした。水谷八重子と人気を争ったというのですから相当のスターです。
1938年の樺太での杉本良吉との越境、長い空白の時間をへて、戦後、直ににモスクワに移住、モスクワ放送のアナウンサー、一時帰国で、かなり日本で活躍、ソ連崩壊で、ロシアに帰国して死去と波乱に満ちた生涯でした。越境後の肝心なことには沈黙を守ったのですが、戦時下のラーゲリで生き延びるためには、相当のことがあったと想像されます。
NHKの質問者が越境は、日本共産党史では、コミンテルンへの使者と書かれていると尋ねられ、「杉本はそういう事について知っていたかもしれないが、自分は何も知らない」とかなり平然とインタビューに応じているのは役者という感じでした。
さっと本件をインターネットで調べて見ると、一橋大学・社会学部教授・加藤哲郎氏(初めて見た名前)がよく当時の状況を、最近の旧ソ連公開情報をもとに調べていました。当時は、日本共産党内部は皆がスパイではないかと疑心暗鬼の状態、密告が横行していたとのこと、いまでは野坂参三まで現主流派からスパイ指名、ようは皆なスパイだっというブラックジョークの世界です。
杉本・岡田はその被害者らしい(加藤哲郎が日本からスパイ説が流されたのではと暗示)のですが、真相は分からないようです。岡田嘉子はこの番組では何も喋らないのですが、それは当時の政治情勢からは当然ですが、ソ連が崩壊してからも喋らないというのは、自分が信じたものに手厳しく裏切られたのですから、言いたくなかったのでしょうが一徹という感じの人でした。

<加藤哲郎氏のHPから>
「近現代史」では、「事実」の収録・確定自体が難しい。南京大虐殺の例なら、私なら岡田嘉子・杉本良吉の樺太越境との同時性に想いをめぐらす。1938年正月の、当時のトップ女優岡田嘉子と日本共産党員で演出家の杉本良吉の旧ソ連への越境は、「恋の逃避行」とも「コミンテルンヘの密使」とも言われた。その「事実」を解釈できる資料は、ここ2−3年でようやく集積されてきた。二人ともソ連越境直後に逮捕され、二度と一緒になることはなかった。「日本のスパイ」として杉本は1939年10月20日に銃殺され、岡田は10年のラーゲリ(強制収容所)生活を強いられた。
 二人が「労働者の天国」ソ連にあこがれたのは事実である。それは幻想だった。二人共配偶者のある身で恋仲になり、今風に言えば不倫を許さない「世間」の現実から逃避した。最近発見された旧ソ連検察局の秘密資料には、二人の越境後の供述が残されている(名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』中公新書、1994年)。
 それらを解析すると、岡田嘉子は「軍国主義のお先棒をかつがされる芝居に出なければならない」ことがたまらなかった。杉本にソ連越境を持ちかけたのは1937年12月の半ぱ、ちょうど『東京日日新聞』が南京日本軍の「百人斬り競争」を報じた頃である。そこから1937年当時の日本と中国とソ連の歴史に想いをはせる。軍部の横暴と自由の欠如、侵略と戦争、スターリン粛清――いずれの歴史も悲惨である。そこから「コミンテルン史観」や「大東亜戦争肯定史観」を拒否するのは容易である。

○棟方志功に関する手近な本は:−
棟方志功『板極道』(中公文庫)、棟方志功『板散華』(講談社文藝文庫)、棟方志功『板画 奥の細道』(中公文庫)、長部日出雄『鬼が来た 棟方志功伝』(文春文庫)
例によって、棟方志功の晩年を・・・。
「七十二歳で死んだ人々 棟方志功[一九〇三−一九七五]
 昭和四十九年夏、版画家棟方志功は妻のチヤとともに故郷の青森へゆき、郊外の三内霊園に自分たちの墓地を買い、墓碑銘を作った。「静眠ヒ(ヒは王偏に卑)」という志功独特の造字造語による墓碑銘だった。そのとき集まった旧知の人々に彼はいった。
 「私がこの静眠ヒに入ったら、ほかに何もなくてもいい。白い花一輪とベートーヴェンの第九でも聞かせてください。きみたちとも、また、すぐに会えるよ、魂で、きっと、なあ・・・」
 そして、ネブタ祭に加わった志功は、豆絞りの鉢巻き、浴衣に赤い襷、白足袋裸足の姿で、手に「名誉市民」と書かれた弓張提灯を持って踊りまくった。
 志功はその五年前に、青森市名誉市民第一号に選ばれていた。群集はその彼の姿に拍手した。彼は完全に「酬いられた」芸術家となっていた。
 帰京後も、彼は精力的に描き、旅をした。そして十月には、アメリカで個展をひらくために妻とともに飛んだ。この旅行中、カナダでの飛行機の中で、彼は気持が悪い、といって倒れ、応急処置を受けた。これが死病の最初の徴候であった。
 十一月二十七日、ニューヨーク空港でまた倒れ、サンフランシスコ、ホノルルで休養しつつ、十二月二日に羽田に到着後、直ちに慈恵会医大病院で診察を受けた。肝臓に発生したガンはすでに転移しており、年を越すのは難しいかも知れない、という診断が下された。
 しかし生来頑健な彼は、よく生き通した。そして翌年の九月十三日午前十時五分、チヤ夫人によれば、「線香花火の玉がポトリと落ちるように」息をひきとった。
 十一月、彼の遺骨は青森の墓地に埋葬され、青森市葬が行われ、ベートーヴェンの第九が奏でられ、小中学生らによるネブタ祭の舞踊が演じられた。」
 −山田風太郎『人間臨終図巻』(徳間書店)−

<百科辞典より>
棟方志功 むなかたしこう (1903―75)版画家。明治36年9月5日青森市生まれ。小学校卒業後、家業の鍛冶(かじ)職を手伝い、さらに裁判所の給仕となる。画家を志し、鷹山宇一(たかやまういち)らと洋画グループをつくり、1924年(大正13)上京する。昭和初めから木版画を手がけ、平塚運一(うんいち)の教えを受ける。日本創作版画協会展、春陽会展、国画会展に版画を出品のほか、帝展に油絵を出品。32年(昭和7)日本版画協会会員となる。柳宗悦(むねよし)、河井寛次郎ら民芸派の知遇を得、しだいに仏教的主題が多くなる。37年国画会同人となり、翌年新文展で版画による初の特選となった。第二次世界大戦後は、55年(昭和30)サン・パウロ・ビエンナーレ展で受賞し、翌年ベネチア・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受け、世界的な評価を確立。その間に日本板画院を創立して主宰。国内とアメリカの各地で数多くの展覧会を開き、64年度朝日文化賞のほか、70年には毎日芸術大賞と文化勲章を受けた。縄文的血脈の現代的開花とも評されるその作風は、独特の宗教的表現主義である。日本画の大作も多い。昭和50年9月13日東京で没。木版画の代表作は『大和 (やまと)し美(うるわ)し』『二菩薩釈迦(ぼさつしやか)十大弟子』『湧然(ゆうぜん)する女者達々(によしやたちたち)』『柳緑花紅頌(りゆうりよくかこうしよう)』ほか。なお、63年倉敷市の大原美術館内に棟方板画館、74年鎌倉市に棟方板画美術館、75年11月には郷里の青森市に棟方志功記念館が開設された。〈小倉忠夫〉【本】『棟方志功全集』全12巻(1977〜79・講談社) ▽富永惣一解説『現代日本の美術12 棟方志功』(1975・集英社) ▽海上雅臣著『棟方志功』(保育社・カラーブックス)

池田満寿夫 いけだますお (1934―97)版画家。旧奉天市(現、中国東北の瀋陽(しんよう)市)に生まれる。終戦で長野市に引き揚げ、高校卒業後画家を志して上京。瑛九(えいきゅう)の勧めで銅版画を始め、195 7年(昭和32)の第1回東京国際版画ビエンナーレ展以後出品を続け、文部大臣賞、東京都知事賞、国立近代美術館賞を受ける。エロチシズムと風刺を詩的に昇華した独自の作風により、パリ青年ビエンナーレ展で優秀賞、ベネチア・ビエンナーレ展で国際版画大賞(1966)ほか受賞多数。欧米や日本で版画活動のほか、77年小説『エーゲ海に捧(ささ)ぐ』が芥川賞を受け、翌年これを自ら監督して映画化した。97年(平成9)4月、長野県松代(まつしろ)町に池田満寿夫美術館が開館した。〈小倉忠夫〉

岡田嘉子 おかだよしこ(1902―92)女優。広島県生まれ。東京女子美術学校在学中から舞台に出演、舞台協会の『出家とその弟子』で認められた。1922年(大正11)日活作品『髑髏(どくろ)の舞』で映画にデビュー、以後映画、新派のスターとして名声を得たが、38年(昭和13)演出家杉本良吉と樺太(からふと)(サハリン)の国境を越えて当時のソ連に亡命した。その後市民権を獲得し、ルナチャルスキー演劇大学演出科卒業後はモスクワ放送に勤務したが、74年(昭和49)以降はソ連の「文化使節」として日本に長期滞在し、新劇から商業劇場に及ぶ幅広い活躍をみせた。〈大島 勉〉【本】岡田嘉子著『悔いなき命を』(1973・広済堂出版)