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2001-11-29 ジョージ・ハリソン死去

ジョージ・ハリソンが、なくなったのニュース、以下、米国、英国、仏国、ドイツの新聞の扱いをチェックしました。生真面目な人であったのでしょう。
来日は1966年でしたが、その時点では内部はばらばらだったようです。

01-12-01 リベラシオン(AFP電)
「ビートルズの年表」
1940-7-7 Ringo StarrがRichard Starkeyとして生まれる
1940-10-9 John Lennon生まれる
1942-7-18 Paul McCartney生まれる
1943-2-25 George Harrison生まれる
1957.7 ポールはジョンに出会い、ギター技術に感銘
1958.2 ポールがジョージをジョンに紹介。Stu Sutcliffeがベースとして参加、The Silver Beetlesとグループを命名
1960.7 The Beatlesと改名
1961. リンゴがビートルズに参加して、創成ドラマーPeter Bestと入れ替わる
1962.2 Brian Epstainがビートルズのマネージャーとなる
1962.10 最初の45回転盤 Love Me Doを発売
1965 Yesterday、ポールが歌いもっとラジオで流されている。
1966 アルバムRevolver発売
1966.2 ジョンがビートルズをキリストよりポピュラーと発言
1966.8.30 シスコのキャンドルステッィク・パークで最後のパブリック公演
1967.7 Sergent Pepper's Lonely Hearts' Club Band発売
1969.1.30 ロンドンのアップル社の屋上での即興コンサート
1969.8.22 4名が最後に一緒に写真をとるセッションをアスコットで。
1970.4.10 ポールがビートルズが一緒に行動しないと発表
1980.12.8 ジョンがNYで殺害


1)2001-12-01 NYTニューヨーク・タイムズ
「ジョージ・ハリソン、静かなビートル、リード・ギタリストが58歳で死亡」

2)2001-12-01 The Time(ロンドン)
「クイーンはビートル・ジョージを追悼する」

3)2001-12-01 ガーディアン(英国紙)
「ジョージ・ハリソン追悼記事」

4)2001-12-01 リベラシオン(仏国紙)
「ジョージはスカイでレノンと共に、George in the sky with Lennon」

5)2001-12-01 ルモンド(仏国紙)
「世紀の4人のガルソン,ビートルズの賢人が死去」

6)2001-12-01 シュピーゲル(ドイツ紙)
「灰をインドに運ぶように」

7)01-12-01 ガーディアン
「George Harrison 1943-2001」

8)2001-11-30 The Time(ロンドン)
「Q&A; David Sinclairがジョージ・ハリソンについて」
(タイムス紙の音楽評論家が語る)

1)2001-12-01 NYTニューヨーク・タイムズ
「ジョージ・ハリソン、静かなビートル、リード・ギタリストが58歳で死亡」
(1964年2月9日のエドサリバン・ショーに出演の写真が添付)
ビートルズの最も若い、メンバーであったジョージ・ハリソンは1998年以来、わずわっていたガンのためのLAの友人の家で11/29日に死去した。
彼の作曲したWhile My Guitar Gently Weeps及びSomethingは内面的な美しさを持っていたが、Taxman, Piggiesは余りにも平凡であった。
1962年にビートルズがEMIで最初のアルバムを作成した時は19歳であったが、最初から強烈な真面目さがあった。彼がステージ・コンサートは聴衆が騒ぐので演奏する意味はないとして最初に言い始め、1966年にスタジオ・レコーディングにグループは転換した。有名になる前のクラブでの演奏が楽しかった、有名になってからは同じ馬鹿なトーンで繰り返すばかりであったと語った。
1943年2月25日にリバプールに4人兄弟の末子として生まれた。14歳の時にポールと出会い、Rebelsというバンドを作った。ポールは、ジョンのQuarry Men(石切り工)に参加したばかりであった。ジョージも参加することになった。1959年10月から本格的に活動をQuarry Menで開始し、ジョンが1960年にBeatlesと改名した。
1965年の終わりにはsitarをアルバムに用い、Shankarから本格的に楽器を習い始めた。Maharishi Mahesh Yogi技術の瞑想に惹かれインドで勉強した。
「誰もが有名にまた金持ちになりたがるが、そうなってしまえば、これは求めたものではない、心が幸せでないと金も財産も意味がない」と述べている。他のメンバーが東洋思想にすぐ飽きた後にもハリソンはKrishnaの信奉者であった。
1969年夏にはAbbey Roadをレコードし、彼のビートルズ時代で最もすぐれたSomething, Here Comes the Sunが含まれていた。1970年1月にLet It Beアルバムが出されて、その3ヶ月後にグループは解散した。
(略)ハリソンは以下のように語ったことがある、「私は、ギターを抱え作曲しアルバムも作った。しかし自分を本当のミュージッシャンと考えたことはない。おかしく思うかもしれないが、作詞、作曲をしたが私は、偉大な作詞家でも作曲家でもプロデユーサーでもなかった。これらの各部分全てを合わせたものが自分を作っている」

2)2001-12-01 The Time(ロンドン)
「クイーンはビートル・ジョージを追悼する」
木曜日に友人Gavin de Becker宅にて妻オリビエ(51歳)等に看取られて死亡する。家族は「彼はこの世を去った。神の存在を信じ、死を恐れず、平和のうちに」と述べた。インド宗教を信じたハリソンが既に火葬されたかは不明であるが、彼の遺言では遺灰は聖なる河にに流されることであると考えられる。
世界のラジオ局はバンドの最初のヒット1962年のLove Me Doから本年10月のレコードA Horse to Waterをかけている。
1964年にA Hard Day's Nightの映画でPatti Boydに会い、1966年に結婚し、1977年に離婚し、1978年にOlivia Ariasと結婚した。遺産は1.2億ポンド(200億円)と推定される。

3)2001-12-01 ガーディアン(英国紙)
「ジョージ・ハリソン追悼記事」
ビートルズが最初のNo.1ヒット, Please Please Meを1963年2月に出しITVの番組に出たときは、他の3名は明確な個性を持っていた。ジョン・レノンが最も辛辣で、リンゴ・スターはジョーカー、ポール・マカートニーはpublic relation manであった。ハリソンは最も静かでピエールカルダン製のカラーのないジャッケットが似合いこざっぱりしていた。リバプールで、リンゴより3年、レノンから2年、ポールから8ヶ月遅れて生まれた。学校でポールと友達となり、1957年にレノンのQuarrymenにマーカトニが参加し、1959年にはQuarrymenはSilver Beatlesと名前を変えたものにハリソンは本格的に参加、それから引き続く年に名前がBeatlesと変わり、HamburgのクラブReeperbahnで4ヶ月演奏した。
ハリソンは17歳であるのが発覚して、中断された。
その時には5人組(ドラムPete Best、ギターStuart Sutcliffe)であった。1962年になりグループはBrian Epsteinにマネージされることとなった。

4)2001-12-01 リベラシオン(仏国紙)
「ジョージはスカイでレノンと共に、George in the sky with Lennon」
ハリソンは自伝I,Me,Mineにおいて、「ポールと会ったのは自分が13歳、彼が14歳であった。我々は気があった。20分自転車に乗るだけで家に来れた。我々は共にギターをひいた」と述べている。父親がJimmie Rodgers, Hank Williamsのファンでジョージは12歳頃にはChet Atkins, Eddie Cochranらのskiffleを必死に聞いていた。兄弟たちとRebelsというグループを作っていた。
○殴り合い
1980年に殺害されたレノンとは関係は愛憎関係とも言える複雑さがあった。3歳の年齢差があり、1968年にレノンがヨーコオノと共に行動するようになり、Maharishi MaheshYogiをセックスの暴走と非難して、仲が険悪となった。
1969年にはLet It Beのアルバム作成中にジョンと喧嘩して、短期間、グループを脱退した。1974年にはレノンから仲直りを持ち掛けホテルで会ったが、殴り合い寸前で終った。その後、完全に仲直りは出来なかった。
マーカートニーとの関係についても、どっちつかずであった。インタビューでは尊敬していると述べていたが、実はマカートニのショー優先主義を軽蔑していた。60年代末にボブディランに会ってから、その精神的な方向に導かれた、ビートルズの繭を捨てることが出来た。

5)2001-12-01 ルモンド
「世紀の4人のガルソン,ビートルズの賢人が死去」
マルクス・ブラザー(レノンはグルーチョの信奉者であった)のように、ビートルズもメンバーはそれぞれ役割が異なっていた。
ジョンは皮はぎ職人、ポールはプレイボーイ、リンゴはひょうきんもの(rigolo)であった。ジョージは賢者であり、また最年少者、末子でもあった。
グループは解散して、ジョンとポールは意気消沈し、リンゴはアルコールに溺れ、ジョージは秘密の隠者のような生活に入り、58歳の死までその傾向は変わらなかった。
skiffle、rockabilly, choc Presleyより音楽的な影響を受けて1957年には、レノン・マカートニーのQuarrymenに出会った。
○ハンブルグ;この初期の時代はきわどく面白い。ボヘミア的であり、ビートルズは汚れ、アンフェタミンの影響を受け、底無しに飲み、売春宿やストリップ小屋をしばしば訪れていた。Sir Paul McCartneyはそのfrenesiesexuelleについてなまなましく語っている(低い時代と彼は述べている)
○ドラッグ;ストレスに対抗するために、リボルバーの後にボブディランと3名がLSDを吸った。

6)2001-12-01 シュピーゲル(ドイツ紙)
「灰をインドに運ぶように」
ビートルズ時代からヒンズー教に帰依していたハリソンは、遺灰をインドに運ぶように願い、死の直後にはKrishnaの儀式が短く執り行われた。
リンゴとポールは死の2週間前にハリソンの病床を訪れていた。1962年にハンブルグのStar Clubでグループの活動をスタートしていた。
1997年に喉頭ガンが発見された、肺にも転移した。この6月にはスイスで照射治療を行い状態は改善されていた。その後、英国のJool Hollandと最後のレコードを作成した。その後、脳に腫瘍が出来、手術出来ない箇所であり、ロスアンジェルスに移りガンの実験的な治療を受けていた。

7)01-12-01 ガーディアン
「George Harrison 1943-2001」
1964年の始めにパリにおいて、ハリソンがボブディランのFreeWheelin'のレコードを持ち込み、その後のビートルズの音楽を変えた。ある意味では、ハリソンは、普通のポップ・スターと似たものがあった。ビートルズが有名になり、金持ちになってくるにつれて、スポーツカーを好きになり、A Hard Day's Nightのセットで会ったブロンド・モデルPatti Boydと結婚し、ナイトクラブSibyllaの後援者となり、Surrey, Esher近くの国立公園のバンガローに住んだ。21歳の誕生日には3万通のカードとプレゼントが届いた。
(略)4人の中ではハリソンがブライアン・エプスタインの死後、仕事をマネージするために設立されたアップルに労力を注いだ。彼のユートピア思想は、アップルの本部にHare KrishnaやカルフォルニアのHell's Angelsを呼んだりしており、混乱を招き失敗に終った。
しかし、ユートピア思想はめげず、ビートルズ崩壊まもなくの1971年には、NYのマジソン・スケアガーディンでバングラディッシュ救援のコンサートを開催した。Dylan, Eric Clapton, Leon Russell, Billy Prestonらと演奏し、これがその後のLive Aidのひな型となった。この10月に行われたWTC犠牲者家族救援コンサートにはMcCartney, Clapton,Mick Jagger, Whoが参加している。shyでsuspiciousな性格ではあったが、逆に人を集めるの最も成功した。マカートニーが自分の家族らでWingsを作り、レノンが街頭芸人David Peelからスーパー・スターDavid Bowieと組んだのに対して、ハリソンは友人のミュージシャンとの友情が永く続いた。これは、ビートルズの創造的なセンターから除外されているとの意識の補償行為であったと推測される。
彼と友人のギタリストEric Claptonは互いのレコードで演奏し、Patti Harrisonの有名な三角関係が、ハリソンを捨ててクラプトンに走っても2人の繋がりは保たれた。
ハリソンは彼女のために、Somethingを書き、クラプトンはLaylaで彼女を誘惑しWonderful nightでパティと共にセレナーデを歌った。
彼は音楽ビジネスを軽蔑していた。何故なら、ビートルズの周りにはおべっかい、無能者、泥棒が集まっていたからだ。エプスタインでさえも彼らを、ビートル・かつら、ビートル・ギタービートル・靴を売りたいものから守ることは出来なかった。
彼は自分の信念に従って、故郷の古い映画館の取り壊し反対デモに参加した。自動車レースには興味を持ち続け、映画ビジネスも手掛けた。4人の中では、有名であることに最も違和感を感じていた。1995年には、「私は実際はビートル・ジョージではない。ビートル・ジョージは時々着ていたスーツやシャツのようなものである。私の人生の終わりまで、人々はそのシャツを見て私であると勘違いするであろう」と述べた。

8)2001-11-30 The Time(ロンドン)
「Q&A; David Sinclairがジョージ・ハリソンについて」
(タイムス紙の音楽評論家が語る)
Q;ジョージ・ハリソンに対する印象は?
A;1990年に彼のレコード会社で,彼がアルバムTraveling Wilburysを宣伝している時であった。非常に友好的であったが、すこし構えていて、ビートルズに古い話はしたがらなかった。
彼は皮肉なユーモアのセンスがあった。ビートル時代には14曲のLennon-McCartneyの歌があり、それから私の1曲に集中したと述べたが、彼の才能が、2人の影に隠れていたのは明らかだ。インタビュー後に彼が自分のセキュリティに異常に気遣っているのに気付いた。ドアをあけて数分も道をうかがって安全を確認してから自分の車に乗り込んだ。レノンの死から残りのビートルズのメンバーは各自のセキュリティに大きな不安を持ったのだろう。ハリソンは、有名になるのを望まない、私的な人であった。

Q;彼のキャリアはどのように始まったのか?
A:1950年代のリバプールでは、skiffleが流行していた。彼はどこでも演奏したがる子供のグループの一員であった。ウクレレをひくことも出来た。マカートニーと同じ学校で彼がQuarrymenを結成した時に加わるように要請された。

Q;ビートルズに対して如何にジョージは寄与したのか?
A;彼は静かで過少評価されていたが、グループを結合する役目を持っていた。レノンとマカートニーは名声を求め、歌手で皆の注目を惹きたがっていた。、ハリソンは平和を生み出す役目であり、またギターの技術には傑出したものがあった。

Q;ハリソンの最も優れた歌は?
A;Somethingは最大の傑作とされているが、私はHere Comes the Sun,又はWhile My Guitar Gently Weepsがより優れていると思う。Taxmanも過少評価され過ぎていえるのでは。彼は自作の歌でも、Taxmanはポール、While My Guitar Gently WeepsはEric Claptonに歌ってもらうように頼んだ。彼はライムライトを浴びることを望まなかった。

Q;彼の人生で特記したいとことがあるのか?
A;最初のソロアルバムAll Things Must Passが彼を要約しているのでは。長い髭をたくわえ庭の地の精garden-gnomesに囲まれて、他には誰もいない。満足して平和に見える。1992年にはアルバート・ホールで彼の属したNational Law Partyの支持コンサートに出演した時である。実現不能なことばかり公約していた。例えば、英国民全員にヨガの空中浮遊(yogic flying, a form of levitation)を教えるといったものだった。大部分のポップスターは馬鹿に見えることをやりたがらないものだし、彼はソロコンサートを嫌っていた。このコンサートは彼のナイーブさ(naivety)を示すものであったが、彼の正直さ、オープンさ、理想主義を示すものであった。

Q;彼のビートル以降のキャリアは成功と見なせるのか?
A;直後は大成功であった。All Things Must Passは英米でトップとなった。彼がオーガナイズしたバングラデッシュ・救援コンサートも成功し、ビートルズ時代にこもっていた創造性が発揮されたと思う。その後は、誤りも多くなったが、多くのアルバムを出しTraveling WilburysをRoy Orbison, Bob Dylan,Tom Pettyと結成し、宣伝もしていないが数百万の売上げがある。彼は本人の意志にもかかわらず成功したと言えるのでは。

Q;彼の永続する貢献とは何か?
A;ビートルズのなしたことを過少評価することは出来ない。またビートルズも個人ではなく全体で成し遂げた。ハリソンは精神的な面で記憶されるのでは。
レノン・マカートニー は公的なものを求め、自己中心であったが、彼は異なった。エルビス・プレスリーの後にビートルズが全てを始めた。そのなかにハリソンがいた。誰も彼を陰の存在にすることは出来ない。

Discographie
Chansons ecrites pour les Beatles. Don't Bother Me (1963) ; I Need You, You Like Me Too Much, Think for Yourself, If I Needed Someone (1965) ; Taxman, Love You To, I Want To Tell You (1966) ; Within You Without You, Blue Jay Way (1967) ; The Inner Light, While My Guitar Gently Weeps, Piggies, Long, Long, Long, Savoy Truffle (1968) ; Only a Northern Song, It's All Too Much, Old Brown Shoe, Something, Here Comes the Sun, I Me Mine, For You Blue (1969).

Albums solos. Wonderwall Music (1968) ; Electronic Sound (1969) ; All Things Must Pass (1970) ; Living in the Material World (1973) ; Dark Horse (1974) ; Extra Texture (1975) ; 33& 1/3 (1976) ; George Harrison (1979) ; Somewhere in England (1981) ; Gone Troppo (1982) ; Cloud Nine (1987) ; Live in Japan (1992). Tous ces disques ont ete reedites en CD et publies chez EMI.