自家焙煎雑感
[コーヒーのうんちく(新版)](改題)
てんぽらりーですよ!


インデックスに戻る



趣味のページの表紙に戻る



改訂にあたって(1998.06.09)

 「コーヒーのうんちく(旧版)」なるものをUPしてから、2年になる。その頃はH.P.を開設しているだけである種のステイタス(?)があったから、中身は推敲していなかった。

 この記事は、かつて自家焙煎珈琲店を開業していた頃によく来ていた、後輩の宮田君と枝松君のリクエストによるものであった。

 うんちくなどと気恥ずかしい言葉を、枝松君に言われるままに使ってしまって後悔しているので、新版ではタイトルを変えた。リンクを張って下さっている方には特別に連絡していないが、ま、いいだろう。



再改訂にあたって(1999.07.01)
 インターネットマガジン 1999.1月号に紹介された。
 珈琲に関する11のホームページのひとつに選ばれたのは名誉である。
 
 紹介文には、「こだわり」とあったが、もちろん、単純にそれだけの話ではない。筆者の場合は、子供の頃から火に親しんでいたことがひとつ。つぎに、金属工学を学んだので物質の変成を化学的に考えることも身につけていたことがある。
 B型気質もたぶんに影響しているだろう。が、世の焙煎技術者のすべてがB型というわけでもない(この辺りは能見正比古氏の本に詳しい)。
 
 「こだわり」という単語は何気なく使わているが、筆者の例で言うと、こだわりとは、主観と客観(対象)が一体になってしまう状態のことである。
 コーヒーの焙煎中には、自分が煎っているのではなく、コーヒーが煎られている。コーヒーをどうにかしてやろうと思っている段階は、「こだわり」ではない。

 いや、その段階を世間ではこだわりと表現するのだよ、と言われるのであれば、筆者はその段階を超えていると思う。


 旧版をUPしているあいだ、当初は反響が他のページに較べてそれほどないこともあり、読みにくい記事を承知でほったらかしであった。

 そんなとき、gooで「珪藻土」をキーワードとして検索し、私のページを見つけた七輪メーカーの鍵主工業からメイルをいただいた。
 これで検索エンジン:gooの存在を知り、「自家焙煎」をキーワードとして検索してみると、コーヒーに関するH.P.の多いのに驚かされた。
 これらを探していて、永田珈琲店が目にとまり、メイルを送ったところ、私のページについてていねいな感想をいただいた。これが励みになり、再び、自分のコーヒーを世に問う気になった。
 

 ちょうどその頃、やはりgooで見つけたといって、旦部さん(後述)という人からリンクの申し出があった。この人のH.P.を読んでみると、整然として全貌を把握している点で、脱帽という気がした。

 近頃になって、リンクのおかげか、未知の人からメイルをもらうことが多くなった。

 ということで、自分の珈琲についての見識をまとめてみるのも、大海のゴミ以上の値打ちはあるかも知れないと思うようになった。これが、改訂の動機である。


 私に言わせれば、コーヒーはたかがコーヒーである。
 「されどコーヒー」という言い方もあるが、しかし、それをいうなら、世の中は「されど」ばかりなのである。
 コーヒーを「されど」というのは、等閑にはできない筈である。「たかが」というのは、もっとできない。本質を追究するにはいくばくかの年月がかかるものである。
 しかも、世の他の事象と同じく、追求には終わりがない。終わりがあるのは、追求をやめた人にだけである。


 振り返ってみるに、私はコーヒーに特に深く魅せられていたわけではない。「それが無くてはならない」という点では、酒にはるかに順位を譲る。私のe-mailの署名には、
「コーヒーが2番目に好きっ」 と書いている。
 (この洒落が解らない人は、このリンクに飛んでください)

 「ものを作る」ことは、47歳の今、振り返れば人生の座標軸であった。「子どもを作ること以外の、ものを作ることはすべて好きだ」とは、筆者が好んで使うフレーズである。


 珈琲を焙煎・配合するのは、とにかく大変な仕事であるが、この意味で、コーヒーを焙煎して多くの人たちに喜んでもらったのは、私にとって幸いであったというべきであろう。
 人にはふたつの矛盾する本能があり、ひとつは「他の人の役に立ちたい」で、もうひとつは「自分の領域を守りたい」であるというのが、筆者の根本認識である。

 という次第で、私のコーヒーのうんちくは、テンポラリーながら延々と続く。

 前置きがあまりにも長くなったので、お疲れと存じます。ブラジルのハチドリさんから送られてきた2001年2月のコーヒーの実の写真を載せます。
 ブラジルはまだ夏の終わりなので、熟していないところに注目してください。


文書内からをClickすると、ここにいつでも戻れます。


0.モノローグ
1.コーヒーの楽しみ方
2.コーヒーの味覚
3.炭火焙煎
4.喫茶店の文化
5.プロフェッショナルとアマチュア
6.あとがき



0.モノローグ

 昭和47年、学校を卒業して就職すると、勤務先は尼崎の臨海地域にある工場であった。地面は海面より2mほど低く、排水はポンプで海に汲み出していた。

 まだ公害規制は効果を上げていなく(公害対策基本法の制定は、昭和42年である)、国道43号線から海側の工場に向けて歩いていると、今は死語となった“スモッグ”でどんよりと濁っていた。
 仕事は面白く、会社に不満はなかったが、生産技術課で公害行政と関わりを持ち、その周辺の知識が増えるにつれ、「このまま一生、都会に住むのが自分にとっていいことなのか」という疑念が湧いてきた。

 新生児における奇形児の比率が高まり、それは環境汚染に原因があるのではないかと言われていた(近頃になって、これらの問題がマスコミに取り上げられているらしい。実に1世代が経過している)。

 ニクソンショックから、2次にわたるオイルショックの不況で、会社は希望退職を募集し、それを機会に田舎に帰ることとした。
 たまたま筆者の成長期と重なっているからそのように思うのかもしれないが、この時期は人間の歴史の変曲点であったかもしれない。
 なぜかというと、ミュージカルの“Hair”に代表されるように、アクエリアス(水瓶座)の時代にこれから移るからである。



 退職して津山に帰るとしても、地場産業に勤める気はなかった。
 当時は喫茶店ブームであって、見渡してみると、津山にはたいした店がないように思えた。「これなら、ちょっと頑張れば一流になれる」と感じた。
 10年に近い間、店を構えなんとかやったので、それは正解であったと今では言える。



 喫茶店のノウハウは、大阪の喫茶経営学院で学んだ。見よう見まねで開業する人がほとんどの業界で、これは誇ってもいいと思う。短期間のコースではあったが、示唆に富んだ多くのものを学んだ。

 この学校は、趣味で受講する人もいて、そういう人が多い時は、カルチュアスクール的雰囲気になったらしい。筆者の受講した時は開業希望者が多く、たとえばカリタで入れる実習では、一口、味見をしたら、すぐさま残りは捨ててしまってまた入れてみる、といった具合であった。
 ここで教わって印象に残っている言葉を掲げてみる(この学校は今はない)。

 コーヒーの嗜好はさまざまであるから、いちいち驚いてはいけない。前日の残りである脂のギラギラ浮いたコーヒーを好む人もいる。
 モーニングサービスは、忙しくて儲かるのがいいか、楽して儲からないのがいいか、よく考えてすること。
 税金をごまかすことを考える暇があるなら、売り上げを伸ばすことを考えろ。
 地域に10店があるとしたとき、繁盛するのは2店だけである。
 プロは他人のコーヒーについて、とやかく言わない。
 開業すると悪口はあれこれ言われるものである。しかし他の店の悪口は言うな。自店を繁盛させて、そういう店は潰せ。
 自家焙煎には、手を出すな。

 コーヒーの講座の最後に、講師がコーヒーを入れて、その銘柄を当てるというものがあった。
 それまでにストレートのコーヒーをあれこれ入れて、違いが判ったような気がしていた。他の受講者も口々にコロンビアやらモカなど、色々な銘柄を言った。
 ここで講師の入れる銘柄は、いつも必ずサントスであることは、私はあらかじめ知っていたのである。その話は有名であった。にもかかわらず、別のコーヒーに思えた。

 「これで、ブルマンが品切れになっていても慌てることはない」と、講師は締めくくった。それまで短期間でコーヒーが判ったような気がしていた自分が、全部振り出しに戻ってしまった。

 この学校では、タイアップしていた焙煎業者のブレンドを受講者に売っていて、これは安く、かつ新鮮であった。
 家で何度も抽出の練習をしてみて、それまで喫茶店のコーヒーをあちこち飲んだり、買ってみたつもりであったが、この珈琲は、それらとはまったく次元が異なるものであった。
 新鮮な豆の、入れたてはこんなにおいしいものかと思った(新鮮であるかどうかは、粉の膨らみで判る。ただし、深煎りと浅煎りの膨らみの違いは、まだ知らなかった)。
 当時、夢を見るどころか、目を開けていても、目の前にドリッパーの中でモクモクと涌くコーヒーがちらついたものである。


 まるきりの借金で開業すると、なりふり構わずに働いた。
 売り上げを上げるため、カレー・焼きめし・焼きそば・スパゲティを作った。中華鍋で、手のひらにタコができた。
 中華鍋で作った焼きそばは大好評であった。

 しかし、コーヒーだけは注文を受けてからカリタで入れた。これだけは絶対であった。
 モーニングサービスの時間帯くらいは、コーヒーをまとめて入れようと、何度、何度、^ 思ったかも知れない。が、とうとうできなかった。

 借金を返してしまうと、喫茶経営学院の「忙しくて儲かるのがいいか、楽をして儲からないのがいいか、よく考えること」という指針がよみがえった。

 たまたまコーヒーの生豆を手に入れ、これがきっかけで自家焙煎に移ることになる。

 しかし、筆者が開業したころの柴田書店の月刊「喫茶店経営」には、「いまや自家焙煎だけでは客が呼べない」とあった。昭和53年である。


 では、筆者がどうして喫茶店を廃業したか。それは、この全編が答えになると思う。

 廃業にあたり、流行らなくなってやめたと思われるのはプライドが許さないので、看板屋に畳1枚の閉店の口上を書いてもらい、きっかり1年間、店の前に立て掛けて置いた。それを眺めに何度も来たという音大の講師がいた。名を高見さんという。今も友達である。



1.コーヒーの楽しみ方

 始めに述べたように、コーヒーについて語ることにやぶさかではないのであるが、すでに多くの人がすぐれたH.P.を開設している。
 したがって、ここではリンクを張っていただいていることに感謝する意味もあって、旦部さんのページを紹介する。

百珈苑
 このH.P.はとても整然と述べられている。アマチュア(職業として従事していない人)の人であり、職業として従事しているのをプロと称するならば、その立場からは多少の異論(別の視点)を唱えたくなる記述もあるが、それはとりもなおさず、この人がコーヒーの本質を論じているからに他ならない。


 このページのもう一つの特徴は、リンク集であって、私が既に目を留めていた人のものがちゃんと載せられている。

 このリンク集から、さらに他のリンク集をたどっていけば、コーヒーに関する一般的知識については、すべてを入手できるであろう。

 まことに、インターネットの情報公開機能はすごいものである。


 コーヒーに関してここ50年間に200冊を上回る書物が発行されている(柴田書店編「コーヒーがわかる本」のリストによる)。しかし、実際には紀伊国屋書店の梅田店でも、たちどころには数冊の書物しか、入手できない。
 それから思えば、インターネットの情報量と入手の容易性はすごい。ただ、惜しむらくは、CRTを媒介しているためであろうか、どのH.P.にも記述に「深み」がない。
 それは、このページとて例外ではありえないであろう(そのように思うのは、古いメディアに育ったせいであろうか)。


 2.コーヒーの味覚


 さて、コーヒーの味覚である。

 味覚には甘味・塩味・苦味・酸味の4つの要素があるが、コーヒーの大きな特徴は、苦味と酸味のどちらも含まれていることである。
 また、コーヒーを特徴づける味と香りの成分は、数十種類とも数百種類とも言われている。

 甘味と塩味が生理的な味覚と言われるのに対し、苦味と酸味は、精神的な味覚と言われている。そのため、コーヒーへの嗜好は思春期から始まる。

 精神的なストレスは、コーヒーへの嗜好の要素である。のんびりと暮らしていれば、そんなにコーヒーを求めないと思う。

 苦味というのは、そういうわけで大人の味覚といえる。
 疲れているときは、甘味への欲求もあるから、砂糖をいれて飲まれることが多いが、精神的なストレスのはけ口でコーヒーを求める人には、砂糖の甘味は邪魔なはずである。
 酸味も同様で、コーヒーの複雑な酸味に代わる味は、ワインを除いて他に見あたらない(日本酒の酸味も味わい深いがちょっと違う。有機酸の成分と割合のせいだろうか)。

 コーヒーの一般的な好みは、苦みと酸味の割合が6:4であると私は習った。近年では、これと逆の割合かも知れない。もっとも、苦み、酸味と言ったって、2種類の味しかないわけではなくて、味覚の実体は複雑で、筆者には到底説明できない。
 苦みだけ、あるいは酸味だけの珈琲もいい。焙煎のやり方で、そのような珈琲もちゃんと存在している。が、ひとつだけ選べと言われれば、苦みと酸味がバランスした珈琲がいいと思う。
 ついでにいえば、私はコーヒーに砂糖を入れるのを必ずしも否とはしない。
 昔は、砂糖はコーヒーの粉の重量と同じ重量を入れるのが適当とされていた。これは現代の感覚ではかなり甘くなるが、当時の濃いコーヒーでは、自分の経験と一致していた。

 近年では、コーヒーと同重量の砂糖ではなく、0.8倍くらいがいいであろう。
 しかし、一方では、耳掻き程度のわずかな量しか入れない人がいるのは、どういうものか。そのような人は、コーヒーの味覚を正しく理解していないとしか、私には思われない。
 もちろん、味覚はさまざまであるから、その人がコーヒーを愛好するのは嘘ではないのであろう。が、他の食の嗜好を聞いてみたいものである。

 それと、「何がなんでもコーヒーには砂糖をいれない」というポリシーの人が結構多いのに驚く。
 明らかにまずかったり、とんでもなく古いのに、頑として砂糖を入れない。コーヒー好きを自称する人に多いような気がする。とくに女性である。問わず語りに「私はいつも入れないの」との言葉を何度聞いたであろうか(ダイエットの意味があるのかも知れないが、コーヒーに入れる砂糖など、ケーキのひとかぶりなのである)。

 珈琲屋として商売していれば、砂糖を入れずに飲んでいただけることは、他店との違いを判らせるチャンスではある。が、「砂糖を入れない」ことと、「味の違いが判る」とは、イコールではないと思う。



 コーヒーは、生豆を煎って、その熱による化学変化で味の成分が生成される。
 したがって生豆の品質が非常に重要であって、すぐれた焙煎技術も、無い成分を生じることはできないし、既に存在する悪い成分を消すこともできない。

 それと同じ事情で、すぐれた抽出技術も、無い味を引き出したり、ある味を消してしまうことはできない。
 ただ、やり方によって引き出される味はおおきく異なる。ここが面白さである。



 後述の焙煎の項で述べる内容と矛盾するようだが、良質の煎り豆の新鮮な場合においては、抽出技術はさほど重要ではない。どのような抽出方法でも、ある一定以上の品質は実現できる。また逆にいえば、これが良質の定義である。

 品質の低い、普通に入手できるコーヒーでは、喫茶店に卸されている業務用を含めて、抽出の巧拙がおおいにものを云う。
 その理由は、コーヒーの煎り豆に含まれている成分は、うまくない成分が多分にあるからである。

 質の悪いコーヒーには、当然、うまくない成分が多い。また、焙煎してから時間が経ったコーヒーは、湯を差した時に膨らみが悪く、抽出がうまく行かない。このため、抽出に比重がかかるのである。

 もしかしたら、どれだけ良質でどれだけ素晴らしい焙煎をしたとしても、そうかも知れない。お前がそういうコーヒーに行き当たってないだけだと言われそうであるが、なにかこの辺りがひっかかり続けている。
 
 それはそれとして、どうもコーヒーの成分には、動物としての人間が忌避する成分が含まれているような気がする。
 これは私の直感である。
 では、飲まなければいいのではないか。

 案外にそれが正解かも知れない。



 3.炭火焙煎

3.1自家焙煎

 前述の喫茶経営学院で、「自家焙煎には手をだすな」と言われていた。
 喫茶店は儲からなくては経営の意味がなく、自家焙煎に時間と労力をつぎ込んでも、大抵の人には成果を期待するのが無理であるというのがその意味であろう。

 食品など、官能で評価される商品を作るには、作り手は、ユーザーの評価能力よりはるかに優れたものを持っていなければならない。
 ちょっと考えれば当たり前の話である。
 が、これが大抵にはわからないのである。


 たとえばある人が趣味程度にピアノが弾けたとする。とてもプロの演奏家ではないのであるが、なにかのはずみでリサイタルを計画したとしよう。チケットを買ってくれるのは、親戚・友人・義理のたぐいでしかない。間違っても、聴衆がプロのピアニストで埋め尽くされることはない。

 
 自家焙煎に取り組むのは誰でもできるが、誰でもが、珈琲を評価するための充分な味覚を有し、誰でもが、教科書もない焙煎技術が修得できるわけではない。
 音楽大学に入学したからとて、みんながプロレベルに到達しないのと同じである。

 私は積極的には喫茶店に行かないのであるが、それでも数軒の(開業10年以内の)自家焙煎珈琲店には行き当たっている。その全部が、ひどいコーヒーであった。
 念のために付け加えるが、自分の嗜好と合う合わないではない。

 数軒の印象で、自家焙煎珈琲店のすべてを論じるのは乱暴に過ぎるが、自家焙煎の看板を掲げる店の多くは、そのレベルであろうと想像する。たぶん、間違っていないはずである。

 理由は、次の通りである。名を成した同業者(飲食業)であれば、きっと賛同するに違いない。

 珈琲が好きというのは、必要条件である。珈琲から感動を受けることなくして、より高いレベルに上がる衝動は生まれない。
 しかし、あるレベルから、好きであることが障害になる。

 「好き」とは主観であって、意思である。この主観が珈琲という客観を従属させているうちは、珈琲を事象として認識できない。
 ここで哲学的に表現しようとしているが、私の語彙ではうまく表現できない。
 世俗的(宗教的?)に言えば、「好き」などではなく、「取り憑かれている」くらいの状態になって、初めて珈琲が解る。
 これは、その状態になった人にしか理解できないであろう。この状態では、自分(主観)の意識と、珈琲(客観)とが、同じ地平で一体になり、かつ分離している。

 別に私は焙煎の神秘性を述べているのではない。このような状態は、現代の科学技術社会・工業界ではざらである。優れたものを作るとは、つまりはそういうことなのである。
 敢えて言えば、自家焙煎を試みる人たちの多くは、人生体験において、その事実を知らないと思う。
 また、先達がいなくて、かつ、お互いの技量を評価する共通の場所がないから、それを知る機会も少ないと思う。
 さらに、別の言い方をすれば、珈琲自体が捕らえどころのない、他人と評価の尺度を共有化できない対象であるために、珈琲と自分を一体化することに、戸惑いを覚えるのだと思う。



 自家焙煎の看板をあげても良質の珈琲を作り出せないのは、独りよがりに過ぎるか、お客さんの評価を気にしすぎているかのどちらかである。
 私には経験がないが、ある飲食店で感じたことで、店主が自分の製品への意見をお客に求めるのはどうかと思う(反応を探るのは別である)。

 喫茶店の素人のお客さんで、味が判っている人はそんなに多くない。うまいかまずいかの二値判断の水準がほとんどである。
 ましてや、味を峻別し、分類して、自分の判断体系に組み込んで検証するなど(これが評価という定義であろう)、焙煎を経験したことのない人にできるわけがない。ただし、家庭で焙煎した経験のある素人は、その簡素な体験を通じて、その故に大筋を見通していることはあり得る。が、そんな人が店の常連になることは考えにくい。

 味を評価するお客と、味についてとくとくとしゃべるお客とは、まったく別である。
 「後者のお客さんが店を育ててくれた」などという店主は、いないはずである。いたとすれば、ものを売るプロではあっても、ものを作るプロではない。




 もうひとつ。

 「業務用の焙煎器を買って、ブースを作ってしまった。いまさらどうしようもない。初めに試みたおもちゃの焙煎器ではうまくいったような気がしたのに」。

 
 コーヒーの味の鍵は、生豆の品質と焙煎と抽出である。
 普通のユーザーが自由になるのは、最後の段階の抽出段階だけである。

 焙煎というものは、高いレベルで言えば、ブレンド(配合)と抽出方法を前提としておこなわれたときに、真価を発揮するものである。

 これは、焙煎とブレンドと抽出とが、同じ手(同じ思想)によってなされる場合にのみ、実現される。自家焙煎珈琲店に存在価値があるとすれば、ここにしかない。

 わかりやすいレベルで例えれば、焙煎する人が違えば、サントスのミディアムローストとコロンビアのミディアムローストを3:2にブレンドしたとしても、ある人の焙煎では豊潤な余韻のある珈琲となり、別の場合では、おいしくはあるがまとまりのない珈琲になるであろう(同じことは、私の場合に生じた)。
 仮に、同じ生豆を同じ釜で別の人が焙煎したとしても、そうなると思う。焙煎の巧拙は別の話である。
 この事情を知らずしてコーヒーの本質を知ろうとするのは、一人で目をつむって象をなでようとするものである。



 4.プロフェッショナルとアマチュア

 焙煎をプロとしてするのは、もちろん難しい。
 自分が焙煎を生業といているときは、他人のコーヒーに気を取られている暇はないが、いったん業界から出てみると、どう評価しても上等とは認められない商品で、自家焙煎の看板を挙げている店が多いことに気がついた。
 それについては、前項で「哲学的?」記述で試みた。

 それは営業方針であろうから、それ自体を非難するわけではないが、焙煎業者から購入するよりも上質のコーヒーが提供できてこそ、自家焙煎の名に値するはずである。
 でなければ、1kg1000円の生豆を仕入れて、1kg3500円(加熱減量は無視)に加工しているという事実があるしかない。

 手作り、というキャッチフレーズが喜ばれる世の中である。いくら、事実として「手作り」であっても、機械作り(均質性、再現性に富む)に劣るのであれば、それは客の思いこみを逆手にとるか、ないしは鑑別能力のない客につけいろうとするものであろう。そういう姿勢は、筆者は好まない。





 プロとアマの違いはどんな業界にもあって、その違いは厳然としている。

 コーヒーで言えば、第一に品質の安定である。

 コーヒーを煎ると、一回毎に仕上がりが微妙に違う。鰻を焼くのとどちらが難しいか知らないが、同じようなレベルであろう。
 どこまで行っても難しかった。これでいい、と思う時はなかったと憶えている。
 そのような心境を「プロのこだわり」と普通はいうらしいが、正確な表現ではない。こだわるという感情はなくて、押しやられる感じである。

 あるレベルに到達したプロは、こだわりや難しさは敢えて口にしないように思う。テレビやマンガでは、「こだわり」がステレオタイプとして強調されることが多いであるが。
 


 焙煎の次は、仕上がりの微妙に変化する数種類の豆をブレンドして、同じ味に仕上げるのであるが、これも難しい。
 店にとっては、多くの中のひとつであっても、お客さんにとっては、1日のうちのたった一杯であったり、これから2週間にわたって飲むコーヒーである。
 もっとも、正直に言えば、適当にやっていた時もあった。

 焙煎やブレンドと比較すれば、コーヒーをいれること(抽出)は、難しくない。

 同じコーヒーを使うとして、粉の量・メッシュと湯の量・温度を一定とすれば、残るパラメータ(変数)は、湯の注ぎ方だけである。しかもそれは目に見える。
 このように、コーヒーから熱水を溶媒として抽出する現象について、現象にかかる要素:変数を整理し、そのひとつを除いて他のものを一定にすれば、現象の解析はうんと容易になる。
 これが、科学的手法というものであるが、ただし、この場合は変数が互いに独立であることを前提としている。

 たまたま、筆者はそういう解析手法(思考)を身につけていたので、抽出技術の習得は早かったと思う。名人はそのような理屈は知らなくとも、実際には多くのコーヒーをいれることで、同じ数学で体得していると思う。
 アマチュアは一日にせいぜい2,3杯の抽出だけであるから、やみくもに手を出していたのでは、いつまでたっても堂々巡りが続くであろう。それを、「体得するのに10年掛かった」と言っても自慢にはならないと思う。


 どんな業界でも言えると思うが、一生懸命取り組めば、3年で一人立ち、5年で前後左右の様子が判り、10年で一人前(何処に出ても一応通用する)になるものである。
 なぜなら、どんな人でも人生の現役期間は60年であり、人の技能はおおむね伝承不可能であって、それぞれの人生の繰り返しで世の中は成り立っているからである。
 逆説的にいえば、たとえば60年修行しなければ一人前になれない業界ばかりだとすると、世の中が成り立たない。



集中力

 アマチュアとプロフェッショナルの違いは、それでお金をいただくお客がいるかいないかである。お客という相手の存在は、自分を磨く鏡である。
 たえず真剣さと評価がつきまとうのが、プロの立場である。「それで通用している・商売が成り立っている」と言ってしまえば、そこで終わってしまう。

 作る側の姿勢において、個性的であることと自己満足は違う。個性は主流を見据えることで醸成されるが、自己満足は成長を拒否する過程で生じる。

 プロである第二のポイントは、多くのお客様に認められ、喜んでもらえることである。この意味で「店は客が育てる」。喜んでもらえるのが励みであり、報われる苦労は苦にならない。

 筆者の作るコーヒーは、かなりいい評価を言ってくれる人が多かった。好きな人は各地の名店を訪ねていて、その比較から意見を言ってくれた。音楽大学の学生や講師は感覚が鋭いので、その人たちに気にいられたことは、いい評価を得ていたことであろう。

 「コーヒーは体に合わない、飲めない」と言っていた何人かの人が、「ここのコーヒーだとなんともない、おいしい」と言っていただいたときは嬉しかったものである。本物を作っている、という気がした。

 喫茶店の営業は、コーヒーの味がよければそれだけで繁盛するものではない。いわば、売りもののひとつでしかない。筆者の店では、マンガ雑誌のほうが集客力があったとみていた(実はそうではなかったことは、廃業してずっと後に知った)。
 したがって、コーヒーのうまさを自分から直接に自慢したことはない。








 どうしてその商売を止めたかは、この記事の背景をなすことなので説明しておかなくてはならない。
 本当の理由は、喫茶店商売に慣れると、頭を使わないのでネジが緩んでしまうと思ったからである。しかし、それは個人の信条であるから、これ以上は触れない。

 大きな理由は、コーヒーと喫茶店に将来性がないと感じたからである。
 昨今の喫茶店の状況を見ていると、ソフトドリンク(飲物)の客が少なくなっているようで、読みは当たっていた。新規開業もない。
 いくらなんでも、これからもどんどん儲かるという商売を止めるわけはない。
 もちろん、凋落する業界でもすべての店がたち行かなくなるわけではない。が、それに必要な努力はたいへんなものであろう。もともと、喫茶店商売がたまらなくやりたくて始めたわけではない筆者には、そこまでの根性はなかった。

 小さな理由は、コーヒーの世界の小ささを感じたからである。
 妻の友人のそのまた友人が京都でレストランをしていて、そこを訪ねる際にコーヒーを手みやげに持たせた。評価はかなりよくて「自分も自家焙煎をしたいが、そこまで手が回らない」というコメントであった。
 その人は悪気のない言葉であろうが、筆者には、料理の世界からみれば、コーヒーは小さい世界だと言われた気がして、ギクッとした。内心でそう思っていたからである。
 すでに多少はプロの料理の世界の難しさが解っていたので、コーヒーにしがみついている状態(おいしいコーヒーを提供するために1日のほとんどを費やすという状態)の筆者には、プロの料理人の高みはまぶしかった。

 当時、30代半ばを過ぎていて、進路を変えるには限界の年齢になろうとしていた。
 また、あしかけ10年、なんとか続けたのであれば、いわゆる「尻を割った」とは言われないだろう、という気もあった。






「コーヒーが2番目に好きっ」のあたりに戻る

 これは有名な落語の引用である。
 詳細は若い頃のラジオの記憶であるので忘れたが、手柄をたてた人に殿様が「望みの褒美を取らせるから、言ってみよ」という答えに、「2番目に、酒が好きです」と答えるオチがある。
 私もそう言いたい。言ってみたこともあるのだが、現代社会の戸籍制度の壁は厚いのである。