たかやまです

第311話 誰も書かなかった 発芽玄米の育て方(その5)

2008.05.06
 おいちゃんの話は脱線と枝葉末節が多いと自覚している。
 意図的な脱線はこの数行のように字下げ(長文引用:BLOCKQUOTE)でなるべく区別しているが、主文でも贅肉たっぷりで不要な形容詞が多いのは、自分の楽しみのために書いていて、文筆で名を成そうと思っていないからである。
 とはいえ、これだけ休筆していても1日平均60ページにアクセスを戴いているのは密かな喜びではある(定期的に更新していた時期は300〜500アクセス)
 そんなわけで今回の話はいきなり結論から入っていく。

 発芽玄米は「作る」のではなくて「育てる」ものである。

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 米を作るといい、稲を育てるという。米を育てるとは言わない。
 ところが野菜の場合、トマトを作るとトマトを育てるとはほぼ同じ意味である。これが果実となると大豆を育てると表現したらちょっとニュアンスが変わってくる。分かりにくい例であるが「へちま水」となると育てるとは言わず、へちまを育て、へちま水を採るという。

 では、なぜ発芽玄米を作ると表現して不思議に思わないのであろうか。
 それは、野菜を作る場合、人は自分のためだけを思い、自分を中心に置いた価値観で行動するからである。

 価値観て、そもそも自分中心ではないのかい??

 野菜は野草を人間の生存に適するように人間の都合で改造したものであるから、山菜のワラビやゼンマイを作る、あるいは育てるとは言わない。が、山野を山菜の生産に適するように環境を整えたりした場合には育てるというとしっくりくる(ここで改めて調べてみたら、フキの場合は江戸時代から栽培されているようで、その事実を知っている人にはフキを育てると言っても違和感はないかもしれない。


 さて、おいちゃんは昨年の7月以来、穀菜食(いわゆるベジタリアン)を続けている。
 それはある体験がきっかけで、それについてはいつか書くかもしれない。書かないかも知れない。人様に押し付けるような性質の話ではないからである。ただ、それまでは一年360日は肉を食べていたのに、手の裏を返すように翌日からまったく肉に食指が動かなくなったという事実は明記しておく。

 あとの5日は二日酔いだったのかな。

 半年ほどはメニューの開発と栄養学の勉強に気持ちが一杯であった。なにしろメインディッシュがないから、皿の数を増やすのに知恵と時間を費やしたのであった。それになまじ栄養学を少しかじっていたばかりに、毎日穀物と野菜ばかりを美味しいと感じて飽きもせず食べながら、身体のためにそれでいいのだろうかと思っていた。
 しかし、強調しておきたいのは「肉を食べてはいけない」「野菜を食べなきゃ」との気持ちはまったくなかったことである。

 半年ほど経ってそれも落ち着き、ふと思い至った。
 野菜を食べるのは栄養を摂取するというよりも、野菜の生命を戴くのであると。
 それは我がなるコペルニクス的転回であった。
 もっとも、食事の前に手を合わせるなどはたまにそういう人を見かけるが、そういう育て方をされていないし、手を合わせるのは意味が違うと思うし、むしろ反発を覚えるからやる気はない。
 いただきますと言い、ごちそうさまと言う。思いを込めずして掌を合わせたとて、どれほどの意味があろうか。
良心は道徳を造るかもしれぬ。しかし道徳はいまだかつて良心の良の字も造ったことはない。
(角川文庫 或阿呆の一生・侏儒の言葉 昭和44年9月30日改版初版)
 発芽玄米は玄米に発芽する条件を与えて、その生命活動を動かすのである。これを育てるといわなくてなんと言うのか。黒豆の甘煮とは本質的に異なる。

 でも、納豆を育てるとはいわないだろーな。

 おいちゃんは断言する。発芽玄米を「作る」とタイトルしたとすれば、誰も書かなかったと称するほど独創的ではないかも知れない。
 が、発芽玄米を「育てる」と書けば、これはもう、余人の書かなかったことである。

 その根拠は次の話でさらに明らかになる。


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