インデックスに戻る。

Temporary !

# のんびりと書いていますので、もし、ご意見があれば、お寄せください。
# なんか、料理についての自分史になりつつあるようです。読みにくければ読まないでね。

 七輪については、まことに小規模ながら、仲間が出来つつあります。私のHPをご覧になってメイルをいただいたのがご縁の方もありますが、七輪通信のページ の杉山さんが、それらをまとめつつあります。

 炭火を使うかどうかはライフスタイルでありますから、それがブームになるのはおかしいので、事実、ブームにはなっていません。が、なんとか世にもっと広まらないかなと思っています。

 

 さて、七輪である。

 現代では様々で便利な炊事用の熱源がある。ガス(コンロ・オーブン・グリル)、電気(電熱器・電磁調理器・オーブン・レンジ・グリル)である。
 今となっては信じられないことに、昔は、食物を煮炊きする手段としては、もっぱら木を燃やした火を使うしか無かったのである。
 炊事用の木をとくに薪(まき・たきぎ)と言った。薪を焚いた使い残りの火(熾き火:燃えている炭)は、酸素を遮断して炭にする。これを消し炭と言った。

 薪を使って炊事をするには、「かまど:竈」という設備が要り、費用と場所が伴う。建物の2階ではまず無理である。つまりはコンパクトな焚き火をするわけであるから、そんな空間に恵まれるには日本は狭すぎる。

 これを解決して、簡便に炊事に使える熱源としたのが、七輪であった。

 人間は火を積極的に使いこなす唯一の動物である。
 というか、火は人間の気持ちの奥底に何かを呼び起こすとしか思えない。

 すべての物質は温度が高くなるにつれ、600度くらいから青い色(青熱)を発し始め、800度くらいから赤くなり(赤熱)、ついで橙色になり、1000度を超すと白い色に近づいていく。炭や石炭など固形燃料は、みずから燃えることでこれらの火と炎を作りだす。
 (なお、青熱は金属などを加熱すると観察される)

 というところで、いよいよ、七輪である。
 筆者は日常で七輪を使っている(コーヒーの焙煎が週に3日ほどと、あと、気が向いたときに魚を焼く)。
 そして、現在、次の七輪を保有している(これ以外に昨年2台を友人に進呈した)。
(1) 直径24cm円筒形コンロ  :肉・魚用
(2) 直径23cm切り出し円筒形コンロ :コーヒーの焙煎用
(3) 直径23cm切り出し円筒形コンロ :予備
(4) 直径30cm円筒形コンロ :遊軍
(5) 23cm×31cmバーベキューコンロ :鍵主工業製BQ8F
(6) 直径24cm円筒形コンロ     :予備
 七輪という商品は、津山市でもホームセンターの棚に、数は少ないながらも常時置かれている。ということは、買う人がいるのであろう。
 七輪のメーカーはそんなに多くないようである。鍵主工業は、そのうちの一社である。

 七輪が雑誌などのマスコミに取り上げられるとか、マンガのネタになるなど、メディアに登場することは、まず、ない。
 忘れられたのか、あるいは当たり前すぎるのか、実に不思議である。
 (いつだったか、TVの番組で、七輪の焼き網に、ガスコンロ用の白いセラミックスが付いたまま使われていた。関係者一同の誰も気がつかなかったのであろう)。

 七輪は、失われた文化と言ってもいいと思う(バーベキューは相変わらず潜在的に、かつ気紛れに愛好され続けているようであるが、日常の食生活ではない)。

 ここで、ひとくちに言い切ってしまうと語弊があるが、「自然に返れ」のトレンドは、昭和50年頃から世相に浮かび上がり(筆者の体感ではオイルショックを契機として)、脈々として流れ続けている。「自然に返れ」を食品で言えば、代表的なものは卵、塩、酒であろう。
 今では「減農薬野菜」「有機栽培」、はては「オーガニックコーヒー(有機栽培のコーヒー)」やら「オーガニックワイン」までがある。これらは時流に乗っているが、近年になって突然現れたものではない。関係者の地道な情熱と信念があったはずである。

 が、それだけなのか。これらは食材である。食べるための加工技術について、これの根源を探るのは、また、別の話である。

 筆者としては、七輪という調理技術を、なぜ日本人が見失っているか、不思議でしかたがない。
 七輪愛好友の会を作りたい気分である。サイレント・マイノリティーとして。

文書内からをClickすると、ここにいつでも戻れます。
 

0.前置き
   どうして、七輪に?
1.要約
   筆者の原体験と今日
2.火と炎の話
   火は原始の記憶である?
3.備前焼の登り窯
   1200度で燃える炭火の眩しさ
4.邯鄲の夢
   飯を炊くという行為の意味
5.七輪実践編
   では、七輪を我がものにしよう!
6.七厘の文化
   七厘は、本当は豊かさを顕わしているのではないか。
 

前置き


 いま、どうして七輪に?

 近年では「アウトドアブーム」と「木炭の効用」の二つに関連して、七輪の売れ行きは漸増の傾向にあると、前述の鍵主工業は言っている。

 アウトドア指向は、別に最近の現象ではない。
 これに使う車(RV:レクレーショナル・ビークル)を通勤にも使いだして、たしかに乗用車ですれ違うと威圧感があるので、”儂も真似してみべえ”とRVがファッションになったのだが、ホンダはうまく時流を追いかけ、日産が乗り遅れたので、経済界で話題になっているだけである。昔から作っていた三菱とトヨタは、知らん顔をしている。
 三菱のパジェロとトヨタのランドクルーザーは、以前から結構売れていた。これらを中近東に輸出したものは、その国で機関銃を積んで砂漠を走り回ったという。この輸出は生産台数を稼ぎ、コストの低減に寄与したに違いない。


 RVとワンボックスカーはますます売れているようで、セダンにこだわるのが肩身が狭くなるような気がする(筆者の名誉のために付け加えれば、”アメリカはステーションワゴンが主流である、それがカーライフである”との論調を真に受けて(20年前の話です)、ステーションワゴンではないが、ライトエースに乗っていた時期がある)。

 で、近年のRVの氾濫を見て、「真のアウトドア指向者」と、「RVの購入者」の層は、別の階層である(相関はあるが、かなりずれている)と、筆者は考えている。


 まことに、日本人は、いつでもそうであったし、これからもそうであり続けるのであろう。
 このように、アウトドアと七輪とは直接には関係ないのであるが、野外で肉を焼いて食べるのは、誰しもしてみたいことではある。


 話は飛躍するが、木炭の加熱調理以外の効用は、これも、実は密かに語り継がれてきたものである。同様に、遠赤外線効果も知っている人には、目新しいことではない。

 ついでに言えば、次のトレンドは「薬膳料理」であると思う。
 アクエリアスの予感とオイルショックのあった20年前くらいから、薬膳は一部の人の関心を集めてきた。ただし、薬膳そのものは、古い古い古い歴史を持っている。
 これが近頃は、飲食業として成り立ちつつある。



 ここで言いたいのは、アウトドア、木炭、遠赤外線(加熱調理の場合は近赤外線)、薬膳にしても、これらはまさに経済ベースに乗ろうとする際に、世間(メディア)で話題になるのであり、畢竟、それだけに過ぎない。踊る人は踊ればいい。

 七輪を使う私たちの生活は、メディアに踊りはしない。


 七輪は、畢竟(つまるところ)、炭火を使った、ちまちまとした調理手段でしかない。
 それは、それでいいではないか。が、現代において、七輪には自分で料理のすべてを制御し、見届ける安心と、食欲の原点があると思い、これは筆者のバックボーンである。と、言わなければならない、です。

 


 

1.要約
 七輪は、食物を煮炊きするのに用いる簡便な手段として、昔の「七厘」程度の炭で調理が出来たのが、名前の意味であるという説(阿部研一氏のH.P.)がある。

 火と炎が人の心になにかの揺さぶりをかけるのは、誰しも認めるであろう。
 火には次の3つの働きがある。

 「調理の熱源」
 「暖をとる」
 「火を恐れる敵から自分を守る」

 このうち、後のふたつは現代の生活から消えてしまっている。そこで、「調理の熱源」としての火だけが、身近にあるわけで、これのひとつの形が七輪である。

 火は熱を伴うが、熱は火を伴うとは限らない。
 
 

2.火と炎の話
 筆者の幼年時代は、風呂焚きと炊事が仕事であった。

 百姓の、女手のない家で、小学生の筆者は朝の6時から「くど(かまど)」で飯を炊いた。夜は、その「くど」と、当時普及し始めたプロパンガスのコンロと七輪とで、晩飯を作った。

 食材といえば、「にわ(庭)」で育てる野菜と、村に一軒しかない雑貨屋で売っているもの、それと行商の魚であった。
 「にわ」とは畑のことであるが、家の表の庭の他に、家の後ろに垣根に囲まれた「隠し畑(かくしばた)」があった。ここには、人様に見られたくないものを植えるのだと言われていた。時に鶏を処理する場所でもあり、小さな羽根がいつまでも散らばっていた。


 「食は3代」などと言う。中国の諺だったか、丘永漢の言葉であったか、が、この言い方は西洋にもある。いわく、「ホルンは3代」。
 ヨーロッバ大陸には、貧しいながらも子孫を育てるだけの余裕があり、その文化を伝承するだけの情熱を残す余裕があったと思う。麦しか産まない土地ではあっても、それが何百年も変わらないのであれば、そういう秩序はできるのが当然であったであろう。

 3才で父を失った私は、祖母の「おまえのお父さんは料理がうまかった」とのひとつ言葉に、記憶にない父の足跡をたどろうとしていた。祖母も料理は上手であった。祖父も長い間、朝鮮と満州で事業をしていて、結構旨いものを食べていたようで、美食はできないまでも味には厳格(?)であったように今でも思う。

 祖母について、印象的な記憶がある。
 こつこつと内職をして貯めた自分の金で(百姓の事業収入は、もちろん経営者たる祖父が握っていた。日常の支出は「ツケ:節季払い」であるから主婦は現金にさわれないのであった)、電気炊飯器を買った。

 その頃、近所ではそのようなものを導入している家はなかったと思う。
 それでたった一日だけ、飯を炊いた。祖父が「こんな飯が食えるか」と言い、その場で、炊飯器はお蔵入りとなった。
 この日の情景は覚えにあるけれども、それについて祖父と祖母とがやりとりを交わした記憶はない。対話のない夫婦ではあったし、祖母はいわゆる「虐げられた立場」であったけれども、しかし、祖母自身も電気炊飯器の不味さは判ったのではあったであろうか。

 祖母が心臓病で入院した時期と(マムシに噛まれた後遺症と言われていた)、この世を去ってからは、春から夏にかけて祖父が早朝より牛の餌を刈りに出掛ける時期は、筆者が朝飯を作った。


 前夜に研いでおいた羽釜の米を、クド(かまど)で割り木を焚くわけである。
 この火加減を「始めチョロチョロ、中ぱっぱ、赤子泣いても蓋取るな」と言い、筆者がこの言葉を活字で最後に目にしたのは、10数年前、御厨さと美の「裂けたパスポート」であった。

 割り木の火加減は思うようにできないが、失敗するとしたら、その日一日は飯でなく、「餌」を摂取することになる。しかし、不思議に失敗はしなかった。
 どうして小学生の私が失敗しなかったかは、不思議である。
 羽釜で飯を炊いたくらいの体験で大げさではあるが、食は3代にあり、の一例ではなかろうか。祖父も祖母も、由緒ある百姓の家系で、筆者の知らない先祖に教えを言い伝えられてきた筈である。(祖父の死後、整理していたら「寺に米何俵を寄進したから、永代居士の称を与える、という証文が、時代を隔てて2通出てきた。」)
 農繁期(6月の田植えと10月の稲刈りの時期)が来ると、小学校は「農繁休暇」になった。農繁期なる言葉は(漢字一発変換されるが)、それを知っているのは今の40代後半が終わりである。
 
 こののち、次第に機械化・農薬漬け・化学肥料多用・省力化に並行して、「米作りだけでは生活して行けない」という、いわゆる資本主義による変容が進む。
 別に資本主義が悪いとは言わない。増え続ける日本の人口に対処するには、悪い選択ではなかったであろうし、質の悪い米が生産されたわけではない。
 ただ、「食べ物を、買って食べるのが普通のライフスタイルである」という時代の到来が、筆者には気に掛かる。
 
 ファミリーレストラン・ファストフード・デリカテッセンが商売として成り立ったのは、筆者が喫茶店を開業した頃の、既に20年前の話である。
 ということは、生まれながらにそれらに馴染んだ人たち(「きょうは面倒だから外で食べよう・総菜を買ってきてすませよう」、といった親に育てられた人たち)が、次の世代の子供を育てているのである。
 
 火を熾し、薪の強い火で米を炊き、残り火でおかずを煮るというプロセスは、説明なしには理解してもらえない時代になっている。

 「農繁期」には学校が休みになった。学業を休んで、みな、春には田植え、秋には稲刈りをする。
 これは、手伝うというものではなく、子供も労働力そのものであった。
 暗くなるまで働くのであった。刈り取った稲は、暗くなったからといって放り投げて置くわけにはいかず、「はぜ木」に架けないと品質が落ちる。
 子供の感じる時間は長いから(お前は特別に怠け者であったと言われてもいいが)、暗くなりかけると「いつになったら終わるのかなあ」と思っていた。
 日が落ちて、足下が見えなくなる頃、「先に帰って、風呂と飯の準備をしとけえ」と声が掛かると、ほっとしたものである。
 こうした農繁期には、手伝ってくれるおばさんたちに、日当以外に晩御飯を出すのが常であった。祖母が入院して、やがて亡くなり、女手がいなくなった我が家では、その仕事は小学5年生の私の役割であった。
 しかし、日常のおかずは作れても、人様に供する料理の経験はなかった。ひとりで悩んで考えたすえ、自分でできる唯一のご馳走のつもりで、うどん(乾麺)を作った。
 このうどんを、おばさんたちは「うまい、うまい」と喜び、口々に子供の私を褒めてくれた。
 これは私にはたいへん気恥ずかしく、屈辱感があった。
 しかし、祖父はいつまでも、「あのときみんなが褒めてくれた、雄介はたいしたもんだ」と言っていた。言われる度に、私はどこにも持って行きようのない屈辱感を反芻していた。

 この経験は、私の料理人生における、ひとつの座標である。しかし、長じてのち考えてみるに、あのおばさんたちは、本当に「うまい」と感じたのではなかろうかと思うようになった。

 その頃、素麺については、祖母の初盆にたくさんの素麺が集まったから、何度もやってみて、自分なりに満足のいくものができていた。
 茹でるのに大量の湯と強い火力を使い(これは薪を焚く「くど」と「羽釜」で容易に可能である)、出汁はいりぼしと味の素を使う。醤油は必ず「金虎」であって、あるとき、「銀虎」を買って帰ったら、祖父に怒られたものである。
 うどんについては、「火蒸むし」の技法を知らなかった。が、火蒸むしをしない、歯ごたえのある食感は、稲刈りに疲れたおばさんたちに「食べた気がした」のかもしれない。讃岐うどんにそのような感じを今でも受ける。
 

3.備前焼の登り窯
 筆者の同級生に、鍋島俊道という、備前焼作家がいる。
 備前焼作家を紹介する本の末尾に載っているが、筆者が「末尾に載っていた」と言ったら、「中堅と言ってもらいたい」と返された。
 号でなく、本名で通しているのが、彼らしくて好きである。

 平成9年の春から、ここの初めて窯焚きを手伝っている。
 手伝うといっても、そこは「中堅」の窯であるから、専任者はいなくて、4人ほどの仲間が交代で、それぞれの時間帯を分担して、昼夜を受け持つわけである。
 筆者には、窯焚きは、容易に飲み込めた。電気炉(鋳物工場の低周波誘導炉)の昇温よりは、はるかに神経を使わなくてよかった。ただし、昇温のステップなどは、鍋島先生の指示に従うわけである。

 備前焼の窯焚きは、他の陶器がせいぜい3・4日間であるのと違い、10日間くらい続く。筆者は600度位の頃から参加した。
 1時間に10度くらいの割合になるように、松の割り木を放り込む(くべる)。煙突の煙を見て、時間を見計らい、酸化と還元の雰囲気状態を保つタイミングで、放り込むのである。
 備前焼の窯が焚けたら、世界中、どんな窯でも焚ける、と、鍋島は言う。しかし、その一方で、「右に曲がったら、右なりに。左に曲がったら、左なりに」とも言う。さらに、友人の彫刻作家の話として、「芸術とは綿密に計算されるべきものであって、そういう意味では備前焼は芸術ではない」とも言う。


 火に向かう10日間は長い。徐熱と徐冷が大切であって、信楽などとは違って、土が軟らかいので、割れるらしい(とはいえ、割れた作品は見たことがない)。
 で、徐熱により、鉄分が独特の紫蘇色を出すのだそうである。この紫蘇色の出方が、昇温により違ってきて、くすんだり、浅かったり、光ったりするそうである。




 1000度くらいになると、扉を開けて割り木を差し込んだ途端に、火が点く、ぱぁっ!!と燃え出す。
 一瞬、窯の奥に、白っぽく橙色に輝いている作品が見える。見とれていたいが、その間に冷気が差し込むので、すぐさま、一本だけ、割り木を差し込む。つぎに右、左、真ん中と割り木を差し込む。
 勢いよく放り込むと、割り木が転倒して、奥の作品にぶつかる。ゆっくりと差し込むのであるが、扉の中に手を入れてしまうと、皮手袋でも煙が出るくらいに熱い。

4.邯鄲の夢
 

5.七輪実践編
 

6.七輪の文化
 歴史的な意味では、七輪という道具は、文化(:その現象が他の要素に連携して拡がりを生じる)というほどのものではなかったが、今の世の中では、新しい位置づけができるのではないか。

  



インデックスに戻る。