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2006/12/03 - その他のオリジナル・ゲーム前回ご紹介した“スペースインベーダー・ゲームもどき”のプログラムを自作することと前後して、他にもゲームを自作したことを覚えています。 1つは、その当時テレビゲームとして一般的だった「テニス・ゲーム」です。電子工作関連の雑誌に、テニス・ゲーム専用のLSIを使用した自作記事などが出ていましたので、それを自作しようかどうか迷っていた時期もありました。しかし、テレビ画面に文字を表示できるマイコンが手元にあるわけですから、それを活用してテニス・ゲームを自作してみようと考えるのは“自作派”の人間なら当然かもしれませんね。 これは2人でプレイするゲームで、各人がキーボードの「上に移動」「下に移動」に割り当てられたキーを押して“ラケット”に相当する表示(確か「|」を縦に3個並べたもの)を上下に移動させながら、ボールを相手に打ち返します。 プログラミングで苦労した点としては、ボールがラケットに当たったとき、いつも45度の角度でボールが跳ね返るようにするとボールの動きが単純になってしまい、ゲームの面白味が出ません。そこで、ラケットのどこにボールが当たったかに応じてボールが跳ね返る角度を変えるようにプログラミングしました。また、乱数を使うなどして、跳ね返った後のボールの速度も変わるようにした覚えがあります。こうして、なかなか熱中できるゲームとなりました。 自作したゲームのうち、1人で楽しめるものとして結構面白かったのは「自動車レース・ゲーム」です。これは、下記のような表示で画面に「レーシング・コース」が表示され、その表示が乱数によって変化するので、ちょうど左右に様々に曲がるレーシング・コースのような雰囲気になります。レーシングカーは確か「H」で表示したと思います。
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*** H ***
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このゲームでは、ハンドルに相当するキーでレーシングカーの左右の位置を動かし、アクセルに相当するキーでレーシングカーの速度を増減します(実際にはレーシング・コースが画面上を下から上へとスクロールする速度が変化します)。 速度が速いとカーブでのハンドル操作が間に合わずに“コースを外れる”ことがあり、その時点でゲーム終了です。所定のレース時間が決めてあって、その時間内に移動できた距離に応じて得点が出るようになっていたと覚えています。 これは、片手でハンドル、もう一方の手でアクセルを操作しますので、なかなか楽しめるゲームでした。友人と交代でプレイし、得点を競うことができます。 ちなみに、ここでご紹介したどちらのゲームでも、音を鳴らすことにより、いっそう楽しい雰囲気が醸し出されました。 そのほかにもゲームをいくつか自作したような覚えがあるのですが、残念ながら忘れてしまいました。とはいえ、画面に文字を表示できるようになったことで、バラエティーに富んだゲームを自作できて、しかも音が出ますので、“万能テレビ・ゲーム装置”を手に入れたような気分になりました。もちろん、ゲームの構成や遊び方を考え、それを実際に機械語でプログラミングする過程も存分に楽しめたことは言うまでもありません(この過程が実はいちばん楽しかったかも…)。 今回で「電子工作の思い出 − 小中学生編」を終わります。今の雑記帳がかなり長くなってきましたので、次回の更新では2つめの「雑記帳 − 電子工作」を新たに作成し、高校生以降での電子工作の思い出を綴っていきたいと思います。お楽しみに。 2006/11/25 - スペースインベーダー・ゲーム“もどき”私が「スペースインベーダー」ゲームの本物を初めて目にしたのは、1978年の夏に家族旅行で行った先の旅館でした。ゲーム・コーナーにテーブルタイプの「スペースインベーダー」が置いてありましたので「これが今 流行っているゲームか!」と思って少しだけ遊んでみました。100円玉1枚で1ゲームですが、自機を動かしながら必死にミサイル攻撃ボタンを押したのですが、すぐに3台の自機を敵に撃破されてしまい、結局300円ほど遊んだだけでした。 その後、マイコン関連雑誌にスペースインベーダー・ゲームの解説記事などが載りましたので、ゲームの全容をだいたい把握できました。そこで、これと同じようなゲームを自分の「デスクトップ・マイコン」で使えるように自作してみようと思いたったのです。機械語のハンド・アセンブルで作りました。プログラミングやデバッグにかなり時間が掛かっただろうと思います。 参考サイト: スペースインベーダーの詳細解説 私のマイコン画面に表示できるのは英数字と記号とカタカナだけでしたので、本物と全く同じキャラクターを表示するのは無理です。そこで、各キャラクターをいちばん似ていると思える文字で表現しました。確かインベーダーは「&」、自機は「A」、防御ブロックは「ロ」(カタカナの「ろ」)、ミサイルは「!」でした。それに時おり画面の最上部を通過するUFOも何かの文字3つで表現しました。イメージとしては下図のような感じです。
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!
ロロロロ ロロロロ ロロロロ
ロロロロ ! ロロロロ ロロロロ
ロ ロ ロ ロ ロ ロ
A
ミサイル発射、ミサイル命中、UFOの出現と移動、自機の破壊などの時点で、内蔵スピーカーから音が出ます。この音は、CPUでシリアルポートの1ビット分の「0」と「1」を一定間隔で反転させることで鳴らしていましたので、音が出ている間は画面上のキャラクターの移動は一時停止状態になります。今のパソコンのように「マルチ・スレッド」ではありませんでしたので、当然ですね。でも、音が鳴っている時間は短いので、ゲームに熱中していると、画面の一時停止はさほど気にならない程度だったと思います。 本物のゲームと同じように、時おりUFOが出現して画面の最上部を移動し、これにミサイルを命中させるとボーナス・ポイントが加算されます。また、インベーダーの残り数が少なくなるに連れてインベーダーの移動速度が速くなるところも、本物を真似しました。これは非常に楽しいゲームで、しかも「無料」でプレイできましたから、非常に熱中したことを覚えています。 それにしても中2の時代にこれほど複雑なゲームをプログラミングして音まで出したというのは、今自分で思い出してみても驚きですね。今「同じモノを作れ」と言われても、頭の回転が落ちてきた40代の私にはとても無理です。 これを完成させた後の1979年5月(私は中3)、父が東京大学の5月祭に私を連れて行ってくれました。私がマイコンや電気関係のものが好きなことを父は知っていましたから、主として工学部の展示室を見て回ったように記憶しています。すると、やはりありました、スペースインベーダーをマイコンで自作してデモンストレーションしている部屋が。アレほど大流行したゲームですから、東大工学部の学生が自作に挑戦しないはずはありませんよね。そのゲームは確か大きなスクリーンに投影されていて、本物に近いグラフィックス表示になっていたと思います。私のマイコンのような文字表示タイプのディスプレイではなく、画面上に小さな四角を表示できるディスプレイを学生が自作したものだと思います。音も出ていたと思いますが、記憶が定かではありません。 そのデモンストレーションを見ながら、私は父に「これと同じようなのをボクのマイコンで作って遊んでるよ」と言いました。父(東大法学部卒)は自分の感情を余り口に出さない人ですから、中3の私が大学生並のことを自力でやっていたとを知って「さすが我が子」と思ったかどうか定かではありません。あるいは、何のことやらよく分からなかったかもしれません。機械関係は苦手な父ですので。 私のマイコンでは、そのほかにも何種類かのゲームを自作しました。次回はそのあたりの話を書こうと思います。 2006/11/18 - BASIC言語の導入と拡張あるとき、何かのマイコン関連誌に、2Kバイトのメモリー内に収容可能な Tiny BASIC 言語の機械語プログラム・データが掲載されました。そこで、さっそくそれを“デスクトップ版 TK-80”に導入しました。確か、キーボード入力や画面出力などの「I/O関連の基本ルーチン」は、自分のコンピュータ環境に合わせて作成する必要がありましたので、ハンド・アセンブルで自作した覚えがあります。 その後、音を鳴らす命令文をBASIC言語に追加して拡張したことも覚えています。BASICインタープリタの機械語ニーモニック・プログラムのリストを見ながら命令文を解析する仕組みを解明し、新たに自分で命令を追加するという作業、中学2年生だった当時そんな高度なことをやっていたとは驚きです。やはり子どもの頭は柔軟なんですね。 このBASICでは、雑誌に出ているプログラム(ごく簡易版の「スタートレック」ゲームなど)を実行して楽しんだり、切符に印字された4桁の数字を加減乗除することで「10」にする方法を割り出すプログラムを組んだりしました。 ただ、BASICのプログラムを実行するには、まずコンピュータにBASICインタープリタのプログラムをテープから読み込み、次にBASICプログラムのデータをテープから読み込むという2段階の操作が必要なため、結局あまり使わなくなりました。このあたり記憶が定かではないのですが、当時はメモリーICが非常に高価でしたので、最初の頃はメモリー容量が少なく、あまり大規模なBASICプログラムを組めなかったことも原因だったかもしれません。 そんなわけで、本格的なゲームは依然としてアセンブラ言語で作成してハンド・アセンブルしていたように思います。その方が高速に実行できるというのも魅力的だったのだろうと思います。 また、手元に残っている過去の資料を調べていたら、やはり何かの雑誌に載っていた「Lispインタープリタ」言語という特殊なプログラミング言語も使えるようにしたようです。そのための入出力ルーチンも、やはりハンド・アセンブルで作成した手書きのデータが残っていました。このLispという言語は、概念を理解するのが私にとっては難しすぎることや、実行時に大量のメモリーを必要としてすぐにメモリー満杯エラーが出ることなどから、結局ほとんど習得できませんでした。 さて、次回は、1978年に登場して大人気を博したTVゲームを真似た「スペースインベーダー・ゲームもどき」を自分のコンピュータで使えるようにプログラミングした話を書こうと思います。 2006/11/11 - フルキーボード搭載デスクトップ・マイコンまずは、私にとってたいへん貴重な資料が残っていましたので、ご紹介します。
これは、中学2年生の終わりにクラスで作成した文集に私が載せたページの下半分です。マイコンの楽しさを語りつつ、左側に小さな絵が書いてありますよね。そう、中2の終わりまでには、TK-80のボード型マイコンがフルキーボード搭載デスクトップタイプのコンピュータにまで拡張されていたんです! 多分、中2の夏休みに仕上げたのではないかと思います。1978年8月のことです。外枠はラワン合板、パネル面とキーボードを設置した面は白色で2mm厚のアクリル板でした。サイズは、幅60cm、奥行き50cm、高さ25cm程度ではなかったかと記憶しています。 NECがTK-80BSというTK-80に追加接続してBASIC言語を使えるようにする装置を発売したのが1977年12月、その後それらを一体化した完成品としてCOMPO BS/80を発売したのが1979年4月だそうですから、それより前にCOMPO/BS-80相当のコンピュータを自作したという快挙です。
上の文集の小さな絵の脇にこちょこちょと書き込んである文字を判読してみると「TK-80、TVD-02、ADB-006、電源、フルキーボード」と書いてあります。「TVD-02」は、前回ご紹介したとおり、キャラクタ・ディスプレイ・ボードです。「ADB-006」というのは、Web調査でも判明しなかったのですが、おそらくRAMメモリーを増設するボードだったと思います。最終的には16KBまで増設したはずです。それに電源。これは、当時2万円弱でスイッチング式の電源が販売されていましたが、私は右の写真のような巨大で重量感のあるトランス(大きさ: W9cm×D9cm×H8cm 重さ: 2Kg)を購入し、三端子レギュレーターに最大コレクタ電流の大きいトランジスタを大きなヒートシンクに取り付けたものを組み合わせて「5V 10A」の電源を自作して内蔵させました。12Vの電源も自作しました。もしこの「デスクトップ・マイコン」の現物がまだ残っていれば“博物館モノ級(?)”ではないかと思うのですが、実家を建て直すときに残念無念、惜別の思いで処分しました。トランスだけは、将来何かに使えるかもしれないと思って保管しておいたため、この雑記帳に載せるために写真を撮ったというわけです。 そのほか、NECのCOMPO BS/80にはない機能として、スピーカー内蔵という点があります。これは、雑誌の記事か何かで知った技法で音を出すプログラムを使って「ピー」とか「プー」とか任意の音程の音を任意の長さだけ鳴らすために使います。波形は方形波のはずです。でも、これが有るのと無いのとではゲームの楽しさが全く違いますね。その後のゲーム・プログラミングで大活躍しました。 キーボードの部分にはフルキーボートとTK-80の16進キーボードを配置し、7セグメントLED8桁は、TK-80に付いていたものより大きいものを別途購入してパネル面に取り付けました。もちろん、データをカセットテープに出力するためのジャックもパネル面に装備しています。数年後には、マイク用ジャックも取り付けることになりました(何に使ったのかは、また後日)。このマイコンには、その後もいろいろと拡張を加えていったのですが、それは追々ご紹介していきます。 次回は、メモリーを増設することで可能になったBASICインタープリタ言語の導入についてご紹介しようと思います。 2006/11/04 - キャラクタ・ディスプレイ・ボード、その他Web上の資料などを見ると、1978年12月に「TK-80BS」という拡張装置が発売されたとのことです。これは、TK-80にキャラクタ・ディスプレイ機能を追加し、メモリーを増設し、カセットテープに300ビット/秒でデータを記録する機能を追加すると共に、最大のメリットはBASIC言語を利用できるようになるという装置です。ただ、価格が\128,000で、当時中学2年生だった私が父に頼んで買ってもらうにはあまりにも高価に思えて諦めていました。。
その装置が登場するより前に、「キャラクター・ディスプレイ・ユニット TVD-02」という完成品のCRTディスプレイ・ボードが発売されました。これは、英数字やカタカナ128文字を、32桁×16行で普通のテレビに表示できる増設ボードです。ボード上にRAMを搭載していて、そのRAMに16進データを書き込むと該当する文字が表示されるという仕組みでした。 これは\37,000で、TK-80とつなぐにはハードウェアやソフトウェアの知識がそれなりに必要でしたが、自作派の私としてはぜひ手に入れたいと思い、購入しました。 その頃の詳しい進展は忘れてしまったのですが、最初はとりあえずそのCRTディスプレイボードをTK-80に接続して文字を表示できるようにしたのだと思います。プログラムを収容できるRAMは相変わらず1024バイトでしたから、あまり大規模なプログラムは作れなかったでしょうが、テレビに文字を表示できるというのは実に楽しいことだっただろうと想像できます。 ディスプレイ用のテレビは、歩いて20分くらいのところにある安売り電気店(確か城南電気)で\15,000ほどの白黒テレビ(12インチかそれ以下)を買い、手で持って一生懸命歩いて帰りました。立方体の箱というのは持ちにくいので、かなり苦労しました。何度も右手と左手を持ち替え、時には両手で抱えたりしながら、四苦八苦して帰ったことを覚えています。 その後、安価なフルキーボードのキットも購入しました。これはキーボードだけで、マイコンとのインターフェースは自分で作るというものです。最初は雑誌か何かの記事を見てハードウェアでキーボードのエンコード(どのキーが押されたかを16進データで出力すること)を行なう装置を自作したのですが、どうしても正しく動いてくれず、苦労しました。最終的には、ハードウェアによるエンコードを諦めて、TK-80の16進キーボードと同じようにソフトウェアでスキャンしてどのキーが押されたかを判別して16進データを取得するというソフトウェア方式でフルキーボードを使えるようにしました。 その後、いよいよ本格的な「デスクトップ・マイコン」へと拡張していくのですが、そのあたりの話は次回にご紹介します。 2006/10/28 - ゲーム用補助ボード
現状のTK-80でゲームを作る場合、まず音が出ないのが寂しいと思いました。また、サイコロの代わりになるようなものがあると面白そうだとも思いました。そこで右のような感じのゲーム用補助ボードをユニバーサル基板を使って自作しました。 ルーレットのどのLEDを点灯させるかはTK-80から指示できます。また、何種類かの音程の音が出るようになっていて、どの音をどのくらいの長さ鳴らすかもTK-80から指示できます。これだけあれば随分楽しいゲームを作れそうですね。 どんなゲーム・プログラムを自作したかすべては思い出せないのですが、いちばんの傑作として妹と2人で盛んに遊んだゲームは、野球ゲームです。 TK-80の8桁の7セグメントLEDは、どのセグメント(棒)やピリオドを点灯させるかをプログラムから完全に制御することができます。つまり、単に数字を表示できるだけではないわけです。そこで、左から右に横棒のセグメントを順次点灯させていくと、例えばピッチャーの投げたボールの球筋を下図のようにして表現できます。 ― ― ― ― ―  ̄  ̄  ̄ (左から右に順次点灯していく) あるいは、こんなのもできます。  ̄  ̄  ̄ ― ― ― _ _ この球筋は、TK-80の16進キーボードの左端の数字キーで操作します。たしか、球が1桁移動するごとに「ピッ」「ピッ」と音を鳴らしたと思います。 バッターの方は、最後に光った棒の位置に相当する数字キー(16進キーボードの右端)をタイミングを見計らって打ちます。棒の位置と違うキーを打てば空振り、同じ位置のキーを打てばボールが飛びます。ボールがどこまで飛ぶかは、ルーレットで決まります。やはり「ピピピ」と音を鳴らしながらルーレットが回り、アウト、ヒット、二塁打、三塁打、ホームランなどが(確か乱数で)決まります。 すると、7セグメントLEDの確か右端の桁でランナーの居る位置が点灯します。7セグメントLEDの左側の方には、アウトカウントとか、ボール/ストライクの数とか、何回の表/裏かが表示されます。 こんな単純なゲームですが、小さなキーボードに2人が手を乗せて、相手に見えないようにキーボードを手で隠しながらピッチャーの球筋を変化させるなど、なかなか面白いゲームでした。かなり熱中しましたね。 確かRAMは最大の1024バイトまで増設してあったと思いますが、プログラムの内容が複雑に思えるゲームでも、機械語でプログラミングすればそのメモリー内に収まるほど小さく作れたわけです。プログラムの作成方法は、前回ご紹介したとおり、まず機械語のニーモニックを紙に書き、紙上でハンド・アセンブルし、出来上がった16進データをTK-80のキーボードからメモリーに書き込むという手順でした。そして、次回に遊ぶときのためにメモリーの内容をテープに録音(保管)しておくという具合です。 そのテープや、その当時作ったプログラム類の手書きのデータを捨ててしまったのが如何にも惜しいのですが、こんなプログラムを結構たくさん作って楽しんでいました。小6から中1くらいまでの間(1976〜1977年)のことです。 その後、TK-80用の周辺ボード類が発売されるようになり、私がいちばん興味を示したのは文字をテレビ画面上に表示できる「キャラクタ・ディスプレイ・ボード」です。次回以降はそのボードを接続し、最終的には今で言うところの「デスクトップPC」に近いものまで作り上げていった過程をご紹介します。 2006/10/21 - 機械語のハンド・アセンブルTK-80の "TK" とは "Training Kit" の略だそうです。マイコンを使いこなすためのトレーニング用というわけですから、TK-80で何かのプログラムを自作し、実行するには、それなりの努力が必要でした。 その当時、マイコンの分野で統一された "BIOS (Basic Input/Output System)" のようなものはなく、TK-80以後に各社からいくつか発売された同様のキット類も含め、それぞれ独自の BIOS のようなもの(システム・プログラムと呼ばれていた)を搭載していました。 ただ、BIOS といっても、TK-80の場合にはシステムROMの容量が僅か768バイト(Shift-JISで全角文字を格納したら384文字しか入らない!)でしたから、必要最小限の機能しか備えていません。しかし、たいへん上手に作られており、機械語でのプログラミングの基本技術を学べる立派な教材となる出来栄えでした。特定のRAMアドレスを指定してバイトデータを16進数で入力する機能、特定のRAMアドレスに入っているバイトデータを16進数で表示する機能、特定のアドレスから始まるプログラムを実行する機能、プログラムを1ステップずつ実行する機能などがあります。内容が公開されていましたから、例えばキー入力ルーチンなど、システムプログラムの一部を自作プログラムの中で利用することも可能でした。 プログラミング言語は当然ながら「機械語(マシン語)」です。そして、アセンブラーなどといった便利なプログラミングツールはありませんでしたので、まずは「MOV A, B」「ADD B」「JMP (飛び先のアドレス)」といったニーモニック表記でプログラムを作成した後、下の写真にあるような「機械語⇔ニーモニック 対照表」を見ながら自分自身で機械語の16進データに変換する必要がありました。いわゆる「ハンド・アセンブル」です。
当時6年生だった私は、まだ頭が柔軟で新しい知識を吸収しやすかったこともあり、雑誌の記事やシステム・プログラムを読みながら機械語でのプログラミングを独学で徐々に習得し、いろいろなプログラムを自作したことを覚えています。そのプログラムのニーモニック表記と機械語16進表記を書き記したルーズリーフ用紙をファイルに綴じておいた記憶がありますが、残念ながら何度か転居していくうちに廃棄してしまったようです(惜しい!)。 ただ、TK-80を利用し始めてから数年後の自作プログラムが少しだけ残っていましたので、その一部をご紹介しておきます。下の写真のような形式でプログラミングしていました。
もちろんこの紙に機械語の命令を書き並べていく前に、フローチャートなどを使ってプログラムの全体構造を組み立て、機械語の羅列を下書きし、紙の上でプログラムの流れを思い描いてデバッグします。そのあと初めて、この用紙の左欄に機械語ニーモニックを書き込みます(この時点で再度、頭の中でデバッグ)。その後、「機械語⇔ニーモニック 対照表」を見ながら16進数の機械語プログラム・データを右側の欄に書き込んでいきます。出来上がったプログラムは、TK-80の16進キーボードから手で打ち込んでいき、これで完成です。 さて、当時は子供でしたから、マイコンでゲームを作ることを楽しみました。確か、LED表示部に2組の数字を表示させ、その2つを足し算した数値を一定時間内にキーボードから入力するゲームを作った記憶があります。今で言う「100マス計算」のマイコン版といったところでしょうか。 またその頃はちょうど「TVゲーム」が登場し始めた時期で、当時の電子工作系の雑誌「初歩のラジオ」や「ラジオの製作」には、ゲーム用LSIを利用してテニスゲームなどを作る記事が載っていました。それを自作してみたいと何度も思いましたが、「せっかくマイコンがあるのだから、このマイコンでもっと楽しめるゲームを作ろう」と私はチャレンジしました。そのためにゲーム用の補助ボードを自作した話を次回ご紹介しようと思います。 2006/10/14 - NEC TK-80の製作雑誌広告を見せながらTK-80のことを父に話すと「それを買ってやろう」ということになり、秋葉原の「Bit-INN」というNECのショップで買ってもらいました。1976年の秋だったと思います。そのとき既にNECではTK-80をCRTディスプレイに接続する装置を作ってジャンケン・ゲームができるデモ機などが展示されていたと記憶しています。小学6年生が買ってもらう品物にしてはずいぶん高価ですが、その投資は決して無駄ではなく、後にコンピュータ関係の技術翻訳をする上で大いに役立ちました。何しろ、頭が柔軟な子供のうちにコンピュータのハードウェアとソフトウェアの基礎を自然に身に着けることができたのですから。 実はこのキットには電源が付属しておらず、5V 1.1A以上と12V 0.15A以上を取り出せる外付けの電源装置を用意する必要がありました。そのころまでには電子工作やケース加工(ハンド・ドリルを使用)の腕も上がっていましたので、父と一緒に秋葉原のパーツ店を回ってケースやトランスや三端子レギュレータなど、必要なもの一式を購入しました。 残念ながらこのボードコンピュータはもう廃棄してしまいました。そこで、写真などが載っているサイトをご紹介します:
TK80シリーズ 写真を見ると分かるとおり、多数のデジタルIC基板に直にハンダ付け、CPUとPROMとRAMのみICソケットを使用というキットで、その他のパーツもかなり多くをハンダ付けする必要がありましたが、何しろマイコンを完全自作しようとしたことによって半田付けに関しては十分な腕前を体得していましたので、夢中でハンダ付けを行ない、一発で完成させることができました。 何かの雑誌に、ライターの人がTK-80の自作に挑戦して、最初は失敗。パーツを全部取り外し、ハンダ付けする銅箔部分をきれいにクリーニングしてから再挑戦し、ようやく完成という体験レポートが出ていました(その根気強さには脱帽)。 付属のマニュアルにいくつかのプログラム例が載っていましたので、16進キーボードから打ち込んで電卓などを楽しんで操作していた記憶があります。
このボードコンピュータ、CPUの動作クロックは2MHz、システムROMは768バイト、標準搭載のRAMは512バイト(1Kバイトまで増設機能)、パラレルI/Oポートが8ビット×3個という構成です。今ではPICと呼ばれる1チップ・マイコンLSIが市販され、産業分野ではもちろん、ロボット制御などのホビーでも使用されています。たとえば、私がNS工房のNS-1/NS-3用に購入している「わたなべ企画」さんの「赤外線リモコン用マイコン」は、プログラム用のメモリー容量が1024ワード、I/Oポートは8ビット×2個で、TK-80にかなり近い構成のマイコンチップです(ただし動作クロック数は最大20MHzと大幅に性能アップ)。でも、その大きさを比べてみると、右図のようになります(PICにはキーボードや表示装置がないので、TK-80の写真はそれらを除いたものです。また表示サイズは実寸ではなく相対的な大きさを比べたものです)。占有面積は約300分の1になりました。 30年近い年月を経た技術革新の証しを見るような思いがします。 当時はまだフロッピーディスクを個人が家庭で使える時代ではなく、外部記録媒体はカセットテープでした。このあたりは記憶が定かではないのですが、TK-80キットを購入する際に、カセットテープにデータを録音するためのインターフェースも一緒に購入したようです(ちょうど今のFAXのように「ピーヒョロヒョロ〜」という電子音としてデータを記録)。TK-80のボードにはユニバーサル基板になっている部分があり、そこにカセットテープ・インターフェース回路を組み込んで使用していました。確か110ビット/秒という低速でしたが、しばらく後に雑誌の記事に1000ビット/秒程度に高速化する記事が載ったので、そのようにアップグレードしました。 このTK-80ボードコンピュータは、その後7年ほど、つまり高校を卒業するころまで、まさに「骨までしゃぶるように」して使い尽くしました。次回以降、その様子をご紹介していこうと思います。 2006/10/07 - 作り始めたのはいいけれど…
とにかく、作り始めました。1枚に12個の汎用デジタルICを装着できる端子付きの基板を使います。回路図を見ながら、どの部分を1枚に収納するかを決め、必要なICを基板にハンダ付けします。回路図は雑誌のページをコピーし、各ロジック素子のピン番号を、デジタルICの参考書に載っている内部結線図を見ながらそのコピーに書き込みます。そして、回路図に従ってピン間の配線をリード線で行ない、配線が終わった回路図上の線を色鉛筆で塗りつぶします。ひたすらこの繰り返しです。 その当時の“ワイヤ・ストリッパー”(リード線の被覆を剥く工具)は、いかにも子供ですね、何と自分の歯。リード線の先を歯で挟んで被覆を剥き、ペッと吐き出していました。 デジタルICと基板は、雑誌で見つけた通販ショップに現金書留で送金して取り寄せていたように覚えています。でも、肝心のCPU「8008」とメモリLSIはどこで入手できるのかはまだ分かっていませんでした。まぁ、秋葉原に行けばどこかで買えるだろうなどと、いかにも子供っぽい楽観的な思い込みで、とにかく周辺回路の基板を作っていました。 よく覚えていませんが、10枚ぐらいはそんな基板を作ったでしょうね。でも、結局完成には至りませんでした。途中で日本初のボード型マイコン「TK-80」が発売されたので、そちらの方に気が移ってしまったんです。 それまでに費やしたパーツ代は数万円。でも、それが全く無駄になったわけではなく、ハンダ付けの技術を磨き、配線がどんなに複雑でもデジタルICのピン間を正確にリード線で接続してゆく根気強さを培うことができ、それ以後の電子工作でその腕前が大いに役立ちました。それにしても高い授業料ですね。それでも、友人たちがピアノやソロバンや書道など様々な習い事をしていたり、中学受験を目指して塾に通ったりしている中で、私はひたすら自分の趣味に没頭していましたので(といっても、部屋に閉じこもってばかりではなく、学校の休み時間や放課後には様々なボール遊びに興じるなど、'70年代のごく普通の子供でした)、習い事や塾の月謝の代わりに親にパーツ代を払ってもらったと考えれば「まぁいいかぁ」という気もします。そして、そのころ覚えたデジタル回路の設計/製作技術が30年も経ってから「NS工房」を創業するのに役立ったというのは驚きでした。 次回はいよいよTK-80の製作に話を進めます。 2006/09/30 - マイコンとの出会いここで2年ほど時代をさかのぼります(前回までの話題だったBCLでクーガー2200を使い始めたのは小学6年生の冬からで、その後中学2年生くらいまでベリカード集めをしていたと記憶しています)。小学6年生のころ(1976年です)、いつもアメリカの経済雑誌を読んで仕事のために情報収集をしていた父が「アメリカで“マイコン”というものが流行っているそうだ。やってみたらどうか?」と言ってくれました。
そこで私はさっそく本屋で「つくるコンピュータ」なる本を買ってもらい、むさぼるように読みました。既にデジタルICを使った工作はいくつか経験済みでしたので、この本に書いてある回路図はだいたい読むことができ、「これなら自分でも作れるかも」と思い始めました。 この表紙の中央にある写真はマイクロプロセッサ「8080」のチップ写真だそうです。その周囲にデザインされているのは、その当時のデータ記録媒体として一般的だった紙テープです。 そういえば、大人になってから深夜に再放送されていた初代「スタートレック」を録画して見ていたとき、宇宙船スタートレック号に搭載されたコンピュータは人が話しかければ動き、結果も音声で返してくるものでした。でも、時々スポックがこの種の穴あき紙テープを見ながら何やら情報を得ていた場面もあったりして、なんともアンバランスだなと感じたことを覚えています。 この本には、まず汎用のロジックICとメモリLSIを使用して作るコンピュータが2つ、回路図や動作原理、作り方などと共に紹介されています。 こちらを選べばよかったのに…
この中で「ATOM-8」というのは、比較的コンパクトに作れるもので、まず挑戦するならコレというのが順当なところだっただろうと思います。 回路図も見開き2ページに収まっています。
次の章では、当時出回り始めていたいくつかのマイコンLSIを使用して作るマイクロ・コンピュータが紹介されています。 よりによってこちらを選んだ少年
この中で「TC-2」というのはなかなか本格的なマイクロ・コンピュータでインテル社の「8008」という8ビットCPUを利用するものでした。しかし、見てください、この完成写真の複雑さ。 回路図は「見開き2ページ」×2 という大規模な電子機器です。
それにもかかわらず、私は小学6年生の分際で、何とこの「TC-2」を作ろう! と決めたのでした。「ATOM-8はCPUを使っていないし、実行できる命令の数が少ない。TC-2はCPUを使っているし、実行できる命令も多い」というのがその決定の理由だったと記憶しています。ATOM-8の回路図にも書き込みがしてありましたから、これを作ることも一応考えたようです。それでも、TC-2を選んだ小学6年生の少年。良く言えば「果敢なチャレンジ精神」、第三者から冷静に見れば「分不相応」「無謀な挑戦」。 さぁ、このチャレンジはどのような実を結ぶのでしょうか? 次回、そのあたりの顛末をご紹介します。 2006/09/24 - BCLにはまるこの雑記帳の更新がすっかり途絶えてしまって、申し訳ありませんでした。また少しずつ思い出話を書き込んでいこうと思います。最後に書いた思い出は「2004/11/29 - 周波数マーカー」でした。 BCLの楽しみの1つは「ベリ・カード(Verification Card)」の収集です。これは、外国の短波放送や国内の中波(AM)放送を受信し、何月何日の何時何分から何時何分まで、どの程度の受信状態で、どんな内容の番組を受信したかという「受信報告書」を放送局に送ると、「確かにその受信内容はその放送局の番組でした」という確認のためにカードを送ってくれるというシステムでした(今でも送ってもらえるんでしょうか…)。
いちばん最初に受信報告書を送ったのは、確か、フィリピンのマニラから放送されていた「FEBC」というキリスト教系の放送局の日本語放送だったと記憶しています。日本語放送の場合、受信報告書は日本語で書いて構わないので、当時小学6年生だった私も書くことができました。海外にエアメールを送ったのは、これが初めてでした。しばらくしてベリ・カードが返送されてきたときは、本当に嬉しかったですね。右の写真のようなカードです(表と裏)。 表に書かれているの名前だけで住所がありませんから、おそらくこの葉書がエアメールの封筒に入って送られてきたのだと思います。日付が '76/7/11 となっていますから、私が小学6年生の時に受け取ったものです。
その後、確か「日本BCL連盟」だったと思いますが、BCL愛好家の便宜を図ってくれる団体の会員になってからは、ベリ・カードの収集が非常に容易になりました。よく考えてみると本当は醍醐味をそぐことなのでしょうが、受信報告書をそれぞれの放送局の住所に個別に送るのではなく、日本BCL連盟に何枚かの受信報告書をまとめて送付すると、各放送局のベリ・カードが日本BCL連盟に届き、まとめて自分の住所に送ってくれるサービスを利用するようになったからです。放送局側にとっても、各個人に個別にベリ・カードを送付するよりも、まとめてどさっとBCL連盟に送ればよいので手間が省けるわけで、こんな仕組みが出来上がったのだと思います。 実家の納戸を整理していたらベリカードを入れていたクリア・ファイルが見つかったので懐かしく眺めてみました。海外からのベリ・カードはお国柄豊かなもので、番組表を同封してくれる放送局もありました。日本のAM放送局からのベリ・カードも、北海道から九州まで20枚以上集めていたのには驚きました。これも、地方色豊かな写真や絵が魅力的です。
ところで、この頃に使っていたBCL用ラジオは、クーガー115から、クーガー2200(RF-2200)に代わっていました。ナショナル製で、周波数マーカーを内蔵しており、確か5KHzくらいまでの単位で周波数を直読して合わせることができるというスグレモノです。 このBCLラジオには専用の「アンテナ・カプラー」もオプションで購入できたのですが、自作派の私は、雑誌に載っていたアンテナ・カプラーを、拾ってきた真空管ラジオから取ったバリコンと、ボール紙にエナメル線を巻き、一定間隔でタップを出したコイルで手作りしました。不思議なものですねぇ。ミノムシクリップを接続するタップを換えながらバリコンを回すと、受信感度がグッと良くなるポイントが見つかります。当時のアンテナは、木造2階建ての家の1Fひさし部分を伝わせて取り付けたACコード(1本に切り分けてハンダ付けし、2倍の長さにしたもの)で、一応アースも土に金属棒を突き刺したものを使っていました。こんなヘナチョコ・アンテナでも、アンテナ・カプラーがあると、結構感度が上がるので楽しめました。 さて、次回は、BCLと同時進行していた まったく別の思い出話を書こうと思います。 2005/01/19 - ハンダごての「こて先」真空管アンプ自作サイトの方で製作レポートなどをご紹介しているのですが、このところ真空管アンプを3台ほど製作していたんです。そのこともあって、40Wのハンダごてのこて先がかなり磨耗してきました。現在の鎌倉市に転居する前、5年ほど前に東京のホームセンターでごく普通のハンダごて(太洋電機産業の「goot」ブランド)を購入した、こて先が磨耗しにくい加工になっているタイプです。ICやトランジスタを使用する電子工作には25Wのハンダごてを使っていますが、真空管アンプなど、銀入りハンダ(音質が良くなると言われている)を使う電気工作では40Wでないとハンダが融けにくくて太刀打ちできません。 一昔前の「こて先」といえば、銅だったでしょうか、ごく単純な金属製でしたので、表面が酸化してハンダの乗りが悪くなると、金やすりで削ってからハンダめっきすることで再生して使っていました。自分の好みの形状に削れるので意外と便利でしたよね。 さすがに特殊加工のこて先をやすりで削るのは無理だろうと思って近所のホームセンターに行ったのですが、残念ながらこて先は売っていませんでした。最近できた非常に大きい店なんですけれど…。やはり秋葉原のような電気街にある店でないと常備してはいないんでしょうね。同じハンダごて本体は売っていましたのでパッケージの説明を見てみると、こて先の内部は銅になっているようです。「それなら」ということでやすりで削ってみたのですが、これが大失敗! 表面の特殊加工の部分がかなり厚いため、やすりで削ったところは「段差」や「隙間」ができて上手く使えなくなってしまいました。幸い「反対側」は磨耗が少ないので、今はこて先を回転させてその面を使用しています(最初からそうすればよかった…)。 よく通販を利用する若松通商(東京在住のときは秋葉原の店舗によく行きました)でこて先も在庫を持っているようですので、今度パーツを注文するときに一緒に購入しようと思っています。 今は「大量消費」「使い捨て」の時代。「こて先」をホームセンターに陳列しても採算がとれないんでしょうかね? 2004/12/12 - パーツ集めの昔と今小学生時代: 雑誌や本を見て作りたいものを見つけると、ゴミ置き場から拾ってきたラジオやテレビ(真空管式)が置いてあるガレージに行き、必要な値の抵抗やコンデンサを一生懸命探しました。 その後、確か6年生くらいになってからは、夏休みや冬休みに、父に頼んで秋葉原に連れて行ってもらい(一人で行くことはまだ許してもらえなかった)、いろいろなパーツショップを回るようになりました。それでも、学校が休みでない時期には、相変わらずガレージにパーツを取りに行っていたと思います。 中学生時代: 中学生になってからは一人で秋葉原に行くことを許してもらえたので、夏休み/冬休み/春休みという大きい休みごとに秋葉原に出かけてパーツ集めをしたことを覚えています。具体的にはこれからご紹介することになりますが、この頃にはすっかりデジタル工作やマイコン関連の工作にはまっていましたので、もっぱらデジタルICを利用した作品を自作していました。 高校生時代: 意外にもこの頃の記憶があまり残っていないのですが、引き続き自作マイコンのアップグレードに挑戦していたような記憶があります。専門書の回路を自分なりにカスタマイズしてCRTディスプレイ・ボードを完全自作したのもこの頃でした。秋葉原の亜土電子でデジタルICを大量に買うときには、欲しい型番を書いたメモを店員さんに渡して揃えてもらうのですが、そのリストを見てICを揃えてくれた店員さんが「キャラクタ・ディスプレイを作るんでしょ?」と見抜いてしまったのは驚きでした。 大学時代: 休みの時期などに秋葉原通いを続けていました。4年生になると研究室に配属されて卒論用の研究・実験に明け暮れるのですが、ある実験を自動化するためのオリジナル装置を考案して自作していた時期には、まず秋葉原に寄って部品を買ってから大学に行くなんてこともありました。食品系化学の研究室でしたが、その装置の自作中、私の実験台には半田ごてやオシロスコープなどが並んで、まるで工学部の実験台のような様相でしたねぇ。 社会人になってから: さすがに学生時代とは違って自由な時間が激減し、秋葉原に行く回数も少なくなりました。本格的な真空管アンプ・キットを購入して製作したり、クラシックのCDを集めるようになったりしたのも、この頃からです。結婚してからは、ますます電気工作を楽しむ時間が減りました。もっとも、仕事に使うパソコンにいろいろと周辺機器を増設して機能を高めたりする、仕事だか趣味だか区別のつかないようなことには熱心でした。というわけで、秋葉原に行く目的が、パーツ集めというより、パソコン関連機器の買出しに変わっていきました。 この1年は: 春にサンバレー「ザ・キット屋」のことを初めて知り、まずは真空管単品、次にSV-2 (2003)、そしてつい最近になってModel 2とTL-51Xを購入し、製作したということは、真空管のサイトの各ページに書いたとおりです。 それがきっかけで「電気工作熱」が高まってきたこと、そして真空管アンプの音質に惚れ直したことなどから、プリアンプも真空管式に変えたくなってきまして、少し前からパーツ集めをしていたんです。それと、この雑記帳に書いた真空管式テルミンのパーツも同時に集めました。真空管回路に利用できるパーツとなると、秋葉原に出かけても、入手できる店がごく限られるのではないかと思います(私が経験した真空管関係の自作は、専らキット製作が中心でしたので、率直なところ、どの店に行ったらいいのか見当が付きません)。 幸い、今はインターネット時代。さまざまなパーツショップがオンラインで通販をしてくれています。そのような通販ショップを利用するメリットは、簡単に価格を比較して「品質の良いものを、より安く」購入できることだと思います。送料がかかりますが、私の住んでいるところから秋葉原に行くと往復で電車賃が1500円以上、時間が3時間ほどかかることを考えると、自ずとオンライン通販を利用した方が「お得」だなということになるんです。そんなわけで、インターネット検索でパーツ集めをしていたところ、今まで知らなかった店が見つかったり、秋葉原でよく通った店が通販をしてくれることが分かったりしました。その結果、かなり格安にパーツを集められたので、たいへん満足しています。新しく知った通販サイトは、このサイトのリンク集(「真空管オーディオ」と「電子工作」)に追加しておきました。 ただ、今は仕事が忙しく、実際に製作できるのは年末あたりからになりそうです。完成したら、製作レポートなどを書こうと思っています。(何を作るのかについてはオーディオの雑記帳に方に詳しく書きました。) 2004/11/29 - 周波数マーカー真空管の短波ラジオのキットを組み立てた話を11/7に書きました。ちょうどその頃、世の中でアマチュア無線(ハム)やBCLがブームになっていたこともあり、小学5年生の私は、超再生方式のラジオで聞ける短波放送では満足できなくなり、もう少し感度の良いラジオが欲しくなりました。何にでもすぐ手を出したがるクセは子供の頃から変わっていません…。 手に入れたのはナショナルの「クーガー115」(RF-1150)というAM/SW/FMを受信できるラジオでした。ずいぶん前に処分してしまって手元にはありませんので、BCLラジオを紹介しているページにリンクさせていただきます(上から2台目に紹介されています)。 BFOも付いていて、近くの電波ならアマチュア無線の交信も聞くことができました。ファイン・チューニングのつまみが便利だったことを覚えています。そして何よりも、AMのバーアンテナを回転できる「ジャイロアンテナ」がユニークでしたね。夜などに遠くのAM局を受信するときにジャイロアンテナをうまく回すと、感度のよい位置を見つけることができます。子供というのは不思議なもので、お気に入りの「おもちゃ」はいつも持って歩きたいんですね。夏休み恒例の家族旅行で箱根に行くときにも、何と、このラジオをカバンに入れて持って行きました。小田急線の特急ロマンスカーの中でも、イヤホンでなにやら放送を聞いていました。もちろん、宿泊先でも…。 そんなころ、雑誌に周波数マーカーの製作記事が載りました。先日お話した「じゃんけんゲーム」でデジタルIC工作の面白さを体験済みでしたので、当然のように好奇心が沸き起こり、自作に挑戦しました。確か10MHzの水晶(クリスタル)発振子で発生させたデジタル信号を、7490というカウンタICで次々に分周していき、1MHz/500KHz/100KHz/50KHzといった周波数を出力するようになっていました。ラジオで受信したときに音として聞こえるように変調回路が付いていたように覚えています。15cm(W)×10cm(D)×4cm(H)くらいのアルミケースに収めて、ロータリースイッチで出力周波数を選ぶようにしました。 実際に使ってみますと、マーカー信号とその他の電波信号を判別するのが難しく、期待したほど上手くは使いこなせなった記憶があります。それでも、この周波数マーカーは、初めて完成させた「実用的なデジタル装置」ということで、思い出に残っています。そういえば、秋葉原に部品を買いに行った時、クリスタルを売っている店を探すのに苦労したような気がします。2cm四方くらいで厚みが1cm近くもあるような大きなものでした。今では実にいろいろな周波数のクリスタルが市販されていますよね。しかも非常に小さいものが。 さて、次回はますますBCLに熱中していった頃の話を書こうと思います。 2004/11/21 - デジタルICを使った工作ある時、デジタルICを使って「じゃんけんゲーム」を作るという製作記事が雑誌に載りまして、これを作ることにしました。グー/チョキ/パーのスイッチを2人が別々に操作してじゃんけんをすると、勝ち/負け/引き分けに相当する3つのLEDのうち1つが点灯するという、論理回路を応用したおもちゃです。ただ、そのとおりに作るのは面白くないということで、勝ち負けの点数をカウントして7セグメントLEDで表示する回路も付けることを考えました。 実は、いろいろな製作記事を見ていてデジタルICに興味を覚えた私は「ディジタルICの基本演習」という本を買って自分なりに勉強していたんです。この本には、TTLデジタルICの基礎から応用回路までいろいろ載っていましたので、雑誌にあるじゃんけんゲームの回路に、本にあるカウンタ回路をつなげばよいと考えたんですね。それにしてもこの本、実家の納戸から出てきたのでパラパラとめくってみたのですが、工業高校で電気・電子を専門にしている人や電気回路設計の技術者向けの本のようです。小学生の私がどこまで理解できていたのやら…。 秋葉原でパーツ集めをするのは、確かこれが初めてではなかったかと思います。結構苦労しました(それまでは、キットを買ったり、廃品からパーツ取りしたりしていましたので)。グー/チョキ/パーのスイッチには「トグル・スイッチ」を使うようになっていましたが、当時は3Pトグルでも\200以上していて、それを6個買うと高いので、1つ\30のスライド・スイッチで我慢しました。アルミ板にスイッチを取り付ける四角い穴を開けるのに苦労した覚えがあります。そういえば、ハンドドリルやドリルの刃を購入してケースの穴あけ作業をしたのもこれが最初だったと思います。 さて、製作の結果はといいますと、半分成功、半分失敗といったところでしょう。雑誌の記事のとおりに作ったじゃんけん回路は動きました。でも、勝ち負けをカウントする回路がうまく動かないんです。それもそのはず、カウンタIC(7490)の動作の仕組みを完全には理解していなかったんですね。7490というカウンタICは、入力端子のクロックの「立下り」の時点で、つまり"1"→"0"と変化する時点でカウントが進みます。それに対して、じゃんけん回路からの出力は、勝ち負けが決まったときに"0"→"1"に変化するデジタル信号が発生して、対応するLEDが点灯する仕組みです。そのデジタル信号をそのままカウンタにつないでいたので、うまく行かなかったわけです。しかも、スイッチのチャタリングを考慮に入れていませんでしたから、妙なタイミングでカウンタが変な風に数字をカウントアップしてしまい、小学生の私にはその現象の意味がチンプンカンプンで、全くお手上げでした。このたびもまた、分をわきまえずに無謀なチャレンジをしてしまったというわけです。まぁ、良い経験になったとは思いますけれど。 さて次回は、BCLで活用したいと思って「周波数マーカー」を自作した思い出をご紹介しようと思います。それでは、また。 2004/11/21(その2) - テルミン改造、苦戦中11/13にご紹介した回路を利用して音量調整用のアンテナを増設しようとしてチャレンジしてみたのですが、どうもうまく動いてくれません。一部分だけ抜き出して作ったのがいけないのか、パーツの相性なのか、音量制御用の電圧が4V程度出るはずなのに、数十mVしか出てくれないんです。いろいろと参考書を見ながら改良を図ってみましたが、トランジスタ回路設計の基本をしっかり理解しているわけではないので、これ以上はちょっと無理そうです。紹介されている回路全体も作ってみるためにパーツを余分に買っておきましたので、今度時間ができたら「そのとおり」に製作してみることにします。 今ちょっと心を惹かれているのは、真空管を使って作るテルミンです。ここに詳しい製作手順が紹介されていて、コイルやバリコンなど入手が難しそうなパーツは通販の購入先にもリンクされています(アメリカですが…)。やっぱり、半導体より音が柔らかだったりするんでしょうかねぇ...。と思っていたら、上記の説明ページで実際に音を聴けるようになっていました。「Introduction」セクションにあります。さっそく聴いてみますと、これがなかなかいいですねぇ。トランジスタで組んだ簡易式の機械よりも微妙にビブラートがかかっていて、ウォーミーな感じです。英語の説明文にも、"温かいトーン・キャラクター"を出す工夫をしてあると書いてあります。うぅ〜、自作熱がまたまた高まりそう。 ちなみに、先日製作したテルミンを真空管アンプにつないで鳴らしてみましたが、典型的な電子音には変わりありませんでした、残念ながら。 2004/11/13 - テルミン続報先日公開した「テルミン製作記」の中で、音量制御用のアンテナ回路を増設したいということを書きました。今回製作したテルミン回路の設計者のサイトにその回路が載っているのですが、かなり特殊なコイルが使用されています。メーカー名と型番が記されていますので、メーカのサイトを調べてみますと、カタログに確かに掲載されています。そこで、エリスネットというパーツ情報検索サイトを通して見積を依頼してみたところ、そのパーツは市販品ではなくカスタム品であることが分かりました。メーカーのカタログにもっとはっきり書いてあればいいのですが…。最低10個から注文可能とのことですが、納期が2ヶ月だそうです。ほんのお遊びで作るものですから、特注するのは大げさだと思い、この回路の採用は見送りとしました。 幸い、別のテルミン回路を公開しているサイトを見つけましたので、その回路にチャレンジしようと思います。JR6BIJさんのサイトの「はんだゴテ遊び」というページです。コイルはAMラジオ用のIFTコイルとOSCコイルを使用しています。今となってはこの種のコイルも入手が難しそうですが、サトー電気というパーツ屋さんで通販していることが分かり、今日さっそく注文書を送りました。 せっかくテルミンを1台作りましたので、まずはJR6BIJさんの設計なさった音量制御回路だけを拝借して、今あるテルミンに増設してみようと思います。その後、また時間ができたら「2号機」の製作にチャレンジしたいと思っています。 いゃ〜、すっかりテルミンにハマッてしまいました。クラシック音楽鑑賞を趣味としていますので、電子楽器の音は好きではなく、どちらかといえば苦手なのですが、こと電子工作となりますと、やってみたくなるんですねぇ。そういえば、電子ブロックやマイキットをいじっていた子供時代も、音の出る回路を好んで組んでいたような気がします…。 2004/11/7 - 真空管ラジオキットの製作私が小学生だった30年前、真空管は今ほど珍しいものではありませんでした。「初歩のラジオ」や「ラジオの製作」といった“ラジオ少年”たちが読む雑誌に真空管関連の製作記事がよく載っていましたし、真空管式のテレビやラジオがゴミ置き場に捨ててあったり、実際に自分の家に真空管を使った古いオーディオ機器があったりしました。私の家にも、母が結婚前から使っていたというビクターの真空管ステレオ(スピーカー内蔵の自立式で、AM/MW/FMラジオも付いていた)がありました。このステレオ、その後は私の「部品取り用」として寿命を全うすることになります。 さらには、小学生向けの「科学」「学習」という雑誌の広告だったと思いますが、真空管ラジオキットの広告が載っていて、当然ながら私もたいへん興味をそそられました。イヤホン式のものから「高一中二」(高周波増幅1段、中間周波増幅2段)の本格的なスーパーヘテロダイン方式のラジオまでいろいろある中で、どうせ作るなら「高一中二」かなぁ、などと小学生の分際で無茶なことを考えたりしていましたが、結局いわゆる並四ラジオのキットを買うことに落ち着きました。 科学教材社が発売していたそのラジオシリーズは、「プラグイン・コイル」というユニークな方式で受信するバンドを切り替えられるようになっていました。直径3cmほどのベークライト製のボビンに真空管のような足が付いていて、AMや中波用のコイルが巻かれています。中波は3〜12MHzバンドと15〜28MHzハンド位の2つに分かれていたと記憶しています。好奇心旺盛な私は、もちろんその3種類をすべて買いました。 「並四」といっても、整流管ではなくダイオード整流で、低周波増幅段には複合管の6BM8(今でも活躍していますね)、検波管に6AV6、高周波管に6AU6という真空管3本のラジオです。その頃までにはハンダ付けにもかなり慣れていたので、結構スンナリと完成できたと記憶しています。といっても、真空管ソケットのところにパーツの足や配線がかなり集中しているので、リード線の被覆を焦がしてしまいながらの危なっかしい作業だったはずです。指の火傷もしょっちゅうでした。雑誌か何かで、ハム音を小さくするには電源トランスをシャーシにしっかりネジ止めすること、といった注意書きを読んでいたので、とにかく力いっぱいネジ止めしたことを覚えています(そういえば最近はあまりその手に注意書きを読みませんね)。AC電源を使う電気工作は多分これが初めてで、テストしながら100Vに感電したような記憶も残っています。 それにしても懐かしいですね。バーニア・ダイアルでだいたい周波数を合わせ、豆コンを回してよく聞こえるポイントを探します。こんな受信機でも、長いリード線(ACコードを2つに裂いてつなぎ合わせたもの)をアンテナとしてつなぐと、モスクワ放送や北京放送の日本語番組を受信できました。実は、このラジオを組み立てたことが発端となってBCLを趣味とするようになるのですが、そのあたりの話は少し後にご紹介したいと思っています。 このラジオキットは、その後いろいろなものに改造される運命をたどります。BCL用のラジオを手に入れた後のことだと思いますが、ちょっとしたオーディオアンプに改造しました。当然モノラルですけれど。雑誌か本に載っていた回路を見ながら、12AX7か何かでトーンコントロールを組み込んだ記憶があります。でも、トーンコントロール回路には「Cカーブ」のVRが使われていたんですよね。そんな特殊なVRは手に入らないので、ありふれたBカーブで我慢したのですが、そうするとバスとトレブルを調整できる範囲が狭くてあまり面白くなかったことを覚えています(ほとんどの部品は、前述のビクターのステレオや、拾ってきたテレビやラジオから取りました)。BCLラジオでFMの音楽番組を受信してこのアンプにつなぎ、近くのホームセンターで買って組み立てた16cmフルレンジのスピーカーを鳴らして楽しんでいました。 ちょうどそれと同じ頃、世の中はデジタル時代に突入し、小中学生向けの電子工作雑誌にも汎用デジタルICを使った簡単な製作記事が載るようになりました。何にでも手を出したがる私は、すぐにそちらの方面にも興味を持ちます。真空管とデジタルICではずいぶんと隔たりがありますが、いろいろな素子を手軽に入手できるという意味でなかなか楽しい時代でしたよね、その当時は。そんなわけで次回は、初めてのデジタルIC工作の奮闘記をご紹介しようと思います。それでは、また。 2004/11/3 - 「テルミン製作記」公開!先日予告していた、テルミンの製作レポートが完成しましたので、関心をお持ちの方はご覧になってください。「真空管アンプ自作の醍醐味」サイトの「テルミン製作記」のページです。 少し練習しましたが、さすがにお聞かせできるような曲を演奏するまでには至りませんでしたので、どんな音がするのかをご紹介する目的で「音階もどき」を聞けるようにしました(でも、ひどい音程ですので、嫌な音がするものと覚悟してから聞いてくださいね)。 すません、小学生のときに真空管ラジオのキットを製作した思い出は、また次回に書きますので、もうしばらくお待ちください。 2004/10/31 - テルミンを作ってみました
少し前から作り始めていたテルミンが完成しました。 この雑記帳の10月5日の記事でテルミンの自作について紹介しましたが、その後、SV-2 (2003) の改造計画が持ち上がり、そのためのパーツと一緒に、実はテルミンのパーツも通販で購入してあったんです。 写真を見ると、ロッドアンテナが立っていて、なんだかラジオみたいですよね。チューニングしているときなど、ピィィ〜と変な音がして、まさに通信機やラジオを調整している様子そのものといった感じです。このアンテナに手を近づけたり遠ざけたりすると音程が変化するのですが、その様子を見た妻の一言。「手の動きがなんか怪しい」。そぅ、手のひらの形を微妙に変えたりしながら真剣にこの機械に手をかざしている様子は、手品師か占い師のようなんです。 回路は、基本的に先日ご紹介したpyaさんのサイトのとおりです。pyaさんに倣って「安価に仕上げる」ことを目標にし、ケースは100円ショップで購入した電子レンジ用のタッパーです。格好良く言えば「スケルトン」ですね。pyaさんのオリジナルから変更した点は、ニッケル水素の充電電池を使ったことと、LM386という低電流のパワーアンプICを利用してスピーカー内蔵にしたことです。 音を鳴らしてみますと、典型的な電子音です。これを楽器として演奏しようとすると、相当な熟練が要求されますね。何しろ、音程を決めるには自分の耳だけが頼りですし、ほんの1mmほど指を動かしただけでも音程が変化してしまいます。正式なテルミンには、音程を変化させるアンテナのほかに、音量を変化させるアンテナが付いているそうです。近いうちにもう少し詳しい製作レポートをご紹介しようと思います(もしうまくいったら、簡単な演奏音も載せたいですが、できるかなぁ…)。
参考サイト: テルミンとは
2004/10/24 - トランジスタラジオキットに再挑戦昨晩の新潟県での地震、大惨事でしたね。朝になってヘリコプターから現場の映像が届くようになり、山古志村をはじめ、山沿いの集落で家屋や道路が倒壊している様子を目にして、あそこに住んでいる人たちは大丈夫なんだろうか、救援部隊は行き着けるのだろうかと心配になりました。ショックで亡くなられたお年寄りや赤ちゃんがおられるとのことですから、本当に物凄い揺れ方だったんでしょうね。地震が起きたのが夜で、停電が続いていましたから、テレビも見られず電灯もつかず不安な夜を過ごしましたという被災者の言葉をニュースで聞いて、その恐怖感はどれほどのものだったのだろう、体験した人でないとわからないだろうな、と感じました。 災害に遭ったとき、情報が入ってこないというのは一番不安なことではないかと思います。NHKではニュースや安否情報を放送していますが、停電でテレビを見ることのできない被災地の方々にとっては、電池で動くラジオが貴重な情報源になるのだろうと思います。安否情報はFMで放送されていますので、FM付きの携帯ラジオを用意し、懐中電灯用も含め、予備の電池も十分に備えておくことが大切でしょうね。 さて、トランジスタラジオキットの初挑戦は見事に失敗に終わりましたが、ハンダとハンダごてを手に入れてからは、いろいろと電子工作に手を出すようになっていきました。先日、実家の納戸を整理して、いろいろと懐かしい品物を持ち帰ることができました。大半のものは何度かの引越しのときに処分してしまったのですが、いくつかは残っていましたので、いろいろな機会に写真をご紹介できると思います。まずは、再挑戦して作成した「8石スーパーラジオ」の写真です。
4石ラジオの失敗のすぐ後に作ったのか、その前に雑誌等の記事に出ている簡単な電気装置を作って経験を積んだのか、よく覚えていないのですが、どうも後者の可能性が高いと思います。内部の写真を見ると、CRパーツ類の取り付け方がかなり危なっかしいですよね。コンデンサなど、もっとしっかり基板に差し込んだほうがよいと思います。でも、これは、わざと足を長く残してあるんですね。将来、このラジオから部品を取り外して再利用するとき、足が短いと使いにくいと当時は思っていたわけです。実際、拾ってきた古いラジオや真空管式テレビからパーツを取り外しては、雑誌にある回路を組んでみるということを、小中学生時代にはよくやっていた記憶があります。 でも、このラジオは解体されることなく残りました。むしろ、いろいろと手を加えながら活用した跡が残っています。ラジオ内部の写真の下のほうに、イヤホンジャックとは別にもう1つ3.5mmのジャックが付いているのが見えます。これは、ラジオの低周波増幅回路の入力部分につながっていて、どうやらAUX端子として取り付けたもののようです(何の目的で付けたのか忘れてしまいましたが…)。それから、写真には写っていませんが、ラジオの上面にはロッドアンテナをねじ込む金具が付いています。夜にロッドアンテナをいっぱいに伸ばして遠くの放送局や外国語の放送を聞いたことを覚えています。 今でも鳴るかなと思って電池を入れてみましたが、残念ながら全く音が出ませんでした。機会があったら直してみようかな。 私と同年代の方々の中には、学研の「科学」と「学習」という付録付きの雑誌を定期購読していた方も多いことと思います。確かその雑誌の広告だったと思いますが、電子ブロックやメカモ(いろいろな動物を模した金属製のロボット)やトランシーバーなどの広告を食い入るように見ていたことを思い出します。私は結局、メカモとトランシーバーを手にすることはなかったのですが、科学教材社の広告に載っていた真空管ラジオを買ってもらい、組み立てることができました。次回はその思い出をお話しようと思います。それでは、また。 参考サイト: 学研から復刻発売されているメカモのページ 2004/10/16 - 初めてのトランジスタラジオキットで大失敗9月26日に書いた内容で、駅前に大きな文房具店があり、「顕微鏡セットやラジオキットなど、科学少年の心をくすぐる品物を陳列している商品ケース」があったことを紹介しました。電子ブロックやマイキットで電気回路の面白さにすっかり魅せられてしまった私は、次の段階として「小型ラジオを作ってみたい」と思うようになりました。その商品ケースの中を何度となく見ていましたので、その中にあるゲルマラジオ、1石や2石のラジオ、さらには4石やそれ以上のスピーカ付きのラジオのキットを自分でも作ってみたいと思うようになったのです。キットの箱の中が見えるように展示されていましたから、ボール紙上に並べて梱包してある各種パーツにも興味津々でした。 さてどれを選ぶかということですが、イヤホン式は電子ボードSR-2Aで散々作っていましたし、電子ブロックST-45でスピーカ式のラジオを経験していましたので、スピーカ付きのラジオで一番安いものを買ってもらいました。4石レフレックス方式のラジオです。確か3年生か4年生のときだったと思います。 いゃ〜、買ってもらったときは本当に嬉しかったですね。喜び勇んで説明書を見ながら製作に取り掛かります。プリント基板に順番にトランジスタや抵抗やコンデンサを挿し込んではニッパーで余分な足を切り取り、プリントパターンに沿って足を折り曲げます。リード線なども被服を剥いて接続します。やったぁ、完成! ということで電池を入れてスイッチをオンにしますが、いくらバリコンのダイヤルを回してもスピーカはうんともすんとも言いません。あれぇ、おかしいなぁ。 勘の鋭い皆さんのことですから、この説明を読んで「何か足りないぞ」とお気づきになったかもしれませんね。 私は子供なりに一生懸命考えて「そうか、部品の足がプリント基板にしっかりくっついていないのが駄目なんだ」ということになり、あろうことか取り出したのは「セメダイン」。パーツの足を基板の銅箔面にぎゅっと押し付けてはセメダインで止めていくという手に出たのです。プラモデルをいくつか作った経験がありましたから、「部品をくっつける」といえば「セメダイン」という、なんとも子供らしい発想だったんですね。 でも、正直なところ笑っちゃいますよね、まさかセメダインとは…。 私の周りが文系人間ばかりであることは以前にお話しました。小学校3年か4年でしたから、学校の友だちで電気工作をする人もいませんでした(電子ブロックを持っている人は1人だけいましたけど)。そんなわけで、電気工作の必須アイテム、ハンダごてとハンダの必要性を私は知らなかったんですね。無論、キットを買ってくれたバリバリ文系人間の父もそのことを知っているはずがありません。 おかしいなぁ、と説明書を読み返してみますと、「はんだ」とか「はんだごて」といった言葉にようやく気がつきます。今頃やっと気づくというのが、やはり子供ですよね。そこで父に頼んで二子玉川の東急ハンズ(だったかな?)にバスで連れて行ってもらい、「はんだ」と「はんだごて」なるものを買ってもらいました。もちろん初めて買うのでよく分からず、「はんだ」はチューブに入ったペースト状の不思議なものを買ったと記憶しています。パッケージの説明を読み比べて、それが一番簡単に使えそうに思えたんでしょうね、きっと。
これは余談ですが、子供の頃の私と妹は、週末に父と買い物に行くのが大好きでした。駅前のスーパーや本屋に歩いていったり、隣の駅のスーパーに自転車で出かけたり、バスで15分の二子玉川に出かけたりしたことを懐かしく思い出します。でも、機械が苦手だった父(昭和10年生まれ)も、今ではパソコンでワープロを操作したり、インターネットを閲覧したりしています。入門書を買ってきて必死で操作を覚えた父の努力には脱帽です。)
そのあと果たして4石レフレックスラジオを完成できたのかどうか、残念ながら記憶が定かではありません。一生懸命セメダインを取り除き、そのペースト状のハンダを塗ってはハンダごてでジュッと熱するという作業をした覚えはあります。べったり張り付いてしまったセメダインを子供の不器用な手で十分に取り除けたとは思えませんから、きっと失敗したんだと思います。 それにしても、「半田ごても知らずにラジオキットを作ろうとするとは、何と無茶なことを」と皆さん思われますよね。そこが子供ならではの思慮のなさというか、無謀さというか…。今後の思い出話にもこれに似た「無茶な挑戦」がいくつも登場することになるのですが、私の性格がよく表れているエピソードだと思います。好奇心旺盛で、なんでも自分の手でやってみたくなる。でも人に教わるのは苦手で、本や雑誌を読んだだけでとにかく作り始めてしまう。少しぐらい意味のわからない言葉があっても、そこは読み飛ばすか、自分なりに勝手に解釈してしまう。そんな少年だったんです。 さて次回は、ラジオキットに再挑戦した話を紹介しようと思います。それでは、また。 2004/10/10 - 憧れの電子ブロック「SR-4A DX」4年ほど前、Yahoo!オークションに各種の電子ブロックが出品されていることに気づきました。EXシリーズやFXシリーズなど比較的新しいモデルに混じって、何とあの憧れの「電子ボード SR-4A DX」が出品されているではないですか! 以前にお話したとおり、子供の頃に私が持っていたのは「電子ボード SR-2A」というイヤホン式のものと、「学研電子ブロック ST-45」というアンプ付きスピーカー内蔵のものでした(10月1日にはST-100と書きましたが、Yahoo!オークションの出品物を見てみたらST-45というのがありました。どうも私が持っていたのは45回路のST-45のような気がします)。「SR-4A DX」といえば、トランジスタが4石で、スピーカーが付いていることはもちろん、太陽電池やメーター(本格的な電流計)も付属しています。150回路もの実験ができるスグレモノです。それに何といっても、ブルーのコンソールが子供心に物凄くかっこよく見えたんですね。雑誌の広告を何度も眺めては「欲しいなぁ。でも高いなぁ」と繰り返していた記憶があります。 そんな憧れの品物でしたから、ずいぶん頑張って入札競争をしてしまいました。その当時は今よりもオークションのサーバーの能力が低く、夜10:00を過ぎると過負荷のためにページが表示されないことが多くなります。そんな中、何度もリロードボタンをクリックしながら入札を繰り返し、何とか落札できました(落札金額\10,500)。 品物が届いた後、ようやく時間が空いたある日の午後、4石レフレックスラジオを組んでみました。下の写真がそれです。
ところがどうも音が出ません。何しろ20年以上も前の品物で、パーツブロックや配線金具の接点が何十箇所もあるわけですから、おそらく接触不良が原因でしょう。そこで、オーディオ用の接点復活スプレーをすべての金属端子に吹き付けてはティッシュで拭くという手に出ました。大変でしたが清掃を終え、もう一度組んでみると、ようやく成功です。ラジオの音がスピーカーから聞こえてきました。感激でしたねぇ〜。 今度は電子オルガンを試してみます。電池ボックスを差し込むと、発振が起きてしまって音が鳴りっぱなしです。どうやらトランジスタの経年変化が原因のようです。コンデンサの値を変えてみたところ発振が止まり、電子オルガンとして楽しめるようになりました(もっとも音程は滅茶苦茶ですが…)。 こんな具合に、その日は思いっきり童心に帰って電子ブロックに興じました。でも、やはり「玩具」であることには変わりなく、コレクションすることを自体を趣味とはしない私ですので、ひと通り楽しんだ後は「ちょっと邪魔だな」ということになってしまいました(40cm四方くらいの結構大きい箱なんです)。こういうのを熱しやすく冷めやすいというのでしょうね。 そこで、少し心残りはあったものの、思い切ってオークションに出品することにしました。落札価格は\6,500でした。手元にあった期間は2ヶ月弱でしたが、子供の頃に憧れた電子玩具を手に入れて十分に楽しんだわけですから、差額の\4,000はその代金と考えればよいわけで、決して損ではなかったと思います。(オークション出品時に取った写真を下に載せておきます。最初の写真もオークション用に撮影したものです)
今ではYahoo!オークションに「学研電子ブロック」という単独のカテゴリがあるほど取引量が増えています。2年ほど前でしょうか、同じSR-4A DXが2万円かそれ以上で取り引きされたのを見た覚えがあります。電子ブロックの復刻版が発売されたこともあり、程度のよいオリジナル品にはますますプレミアが付いているのかもしれませんね。 さて次にお話しするのはトランジスタラジオのキットに初挑戦した思い出です。果たして結果やいかに? では、また次回。 2004/10/09 - マイキット80また思い出話に戻ります。調べてみると、マイキットというのは1964年(昭和39年)に学研から発売され、発売当初のボディは紙製だったものが、その後、木、プラスチックと変化していったそうです。 私が「マイキット80」を買ってもらったのは1970年代半ばのことで、ボディはプラスチックでした。ご存知のとおりマイキットは、ボディの表面にトランジスタ、抵抗、コンデンサ、バーアンテナ、ポリバリコン、可変抵抗器、スピーカーなどが取り付けてあり、電子パーツの端子はスプリングにつながっています。いろいろな長さのリード線が付属していて、回路集を見ながらスプリングにリード線を挟み込んで配線していくと、いろいろな電子回路が完成するという仕組みです。 面白い電子パーツとしては、ガルバノメーター(方位磁石と直行するようにコイルが巻かれていて、コイルに電流を流すと方位磁石の針が振れるという、電流計の代用品のようなもの)、電磁リレー、太陽電池なども付いていました。 これも私はいろいろと遊んだ記憶があります。電子ブロックと比べると、リード線で配線するというところが本格的で、一般的な「電子工作」に近いですよね。それに、電子ブロック「SR-2A」や「ST-100」には含まれていないガルバノメーター/リレー/太陽電池/可変抵抗器などを使った電子回路を大いに楽しみました。 マイキットについては電気電子工作の部屋というサイトの「電子玩具分室」で非常に詳細に紹介されています。ここを見ながら昔の記憶を引っ張り出してみると、私が買ってもらったのは「学研 マイキット 前期」のページにある「ニューマイキット80」だったようです(このサイトの運営者は他サイトからのリンクに非常に厳しく、リンクフリーなのはトップページだけです。でも、このサイトの情報量は物凄いですね。電子工作好きの方は必見です)。 さて次回は、4年ほど前にYahoo!オークションで昔の電子ブロックを手に入れたエピソードをお話しようと思います。 2004/10/05 - テルミンって自作できるんですね今日は思い出話ではなく、最近知った面白い情報をご紹介します。@niftyの「デイリーポータル」というページでは、毎日面白いサイトが紹介されているのですが、先週の土曜日に「テルミンをとうとう作ってみた」という特集記事が載りました。トランジスタ回路で組んだテルミンの作り方を詳しく説明したサイトを参考にして、女性ライターが自作に挑戦した体験記です。 これを見た私は、久しぶりに“電子工作熱”が高まってきました。テルミンの作り方のサイトを見ると、「予算2500円」と書いてあります。CRパーツ類を安く売っている店で買った場合の値段のようですね(パーツリストに値段まで記載されています)。@niftyのライターさんは、秋葉原のパーツ屋さんで苦労して部品を集めたようで、6000円弱かかったとのことです。私ならもっと安く買える店に行ったと思いますけれど…。 オリジナルでは電池動作で、外部アンプに接続するかヘッドホンなどで聞く仕様になっていますが、ACアダプタを接続できるようにしようかとか、手持ちの小出力パワーアンプICを使ってスピーカを内蔵させてみようかとか、自分なりに手を加える手立てを練り始めています。もし上手く製作できたら、ご報告しようと思います。 皆さんもいかがでしょう? 2004/10/01 - 電子ブロック(ST-100)子ども時代の私は、毎月のお小遣いをもらうのではなく、必要な物/欲しい物があるとそのつど両親に申告し、認められば買ってもらうという生活でした(思い起こしてみると恵まれていましたね)。とはいえ「際限なく買ってもらってはいけない」「買ってもらうとしてもxxx円くらいまで」と子供ながらに自制心を持っていましたので、スピーカー付きの電子ブロックについてもいろいろと悩んだ記憶があります。 SRシリーズの電子ブロック(電子ボード)には「追加ブロック」という別売り商品があり、それを買うとSR-3A → SR-4A → SR-4A DX と順次グレードアップできる仕組みになっていました(参考サイト: 「電子ブロック/電子ボード」のページ。写真が多く掲載されていて楽しいページです)。また、1971年(昭和46年)に「学研電子ブロック」として発売された「STシリーズ」というスピーカー付きの電子ブロックもありました。 詳しい事情は忘れてしまいましたが、いざデパートに出かけてどれを買ってもらうかという段になったとき、ST-100という学研電子ブロックのかっこよさに惹かれて結局それを買ってもらうことになりました(記憶が定かではないのですが、もしかしたらST-100ではなく、その下位機種だったかもしれません。そんなものあったかな?)。 この電子ブロックは、組み換え可能なブロックには2石のトランジスタが付属していましたが、その他に(確か)2石のアンプ回路内蔵スピーカーがケースに付属していて、イヤホンだけでなくスピーカーから音を出すこともできました。それに、携帯用の取っ手も付いたコンパクトなケースになっていて、本当にカッコイイものでした。 いちばん感度のよいラジオを組んで、夜寝床で横になりながら巨人戦のラジオ放送を聞いていたことを思い出します。うっかり電源を切るのを忘れて寝入ってしまうと、朝には006Pの電池(9Vの角型電池。今でもありますけど、なんか懐かしいです)が切れてしまってガッカリしたことが何度もありました。この電池、けっこう値が張るんですよね。 この電子ブロックは、外出や家族旅行のときに持ち歩くなど、存分に楽しみました。それと、このシリーズからはシリコントランジスタが使用されています。時代の流れを感じますね。 さて、その当時は、電子ブロックのほかに学研のマイキットも買ってもらいました。記憶が定かでなく、ST-100とどちらを先に買ってもらったのか忘れてしまったのですが、次回はマイキットのことをお話します。それでは、また。 2004/9/27 - 電子ブロック(SR-2A)父に最初に買ってもらったのは「電子ボード SR-2A」です。残念ながら手元に残っていませんので、電子ブロックのホームページにある SR-2A のページをリンクさせていただきます。この「電子ボード」シリーズは1968年(昭和43年)に発売されたもので、1965年(昭和40年)に発売された「DRシリーズ」のブロックを改良し、低価格化した商品だそうです。 SR-2Aは30回路を組むことができます。トランジスタは高周波用の2SAxx(型番は忘れました)と低周波用2SB56(確かこの型番だったと思います)というゲルマニウムトランジスタ2石が入っていました。ゲルマラジオから始まって、1石で作るラジオ、2石で作るラジオ、電子オルガンなどいろいろ楽しめます。レフレックス方式のラジオは比較的感度がよいので、付属していた3mのリード線をアンテナにすれば、東京の放送をすべて受信できました(当時は東京在住)。ただし、すべてイヤホンで聞きます。クリスタル型のマイクも付いていて、AMワイヤレスマイクも組めました(さすがに到達距離はごく短いですが)。 子供の私にとってこの電子ブロックは本当に楽しめる玩具でした。30回路すべてをとっかえひっかえ組んで楽しんだことはもちろん、抵抗値を変えてみたり、自分なりに何か回路を組んでみたりしました。それに、半透明ブロックの中に見える電子部品が何とまぶしく見えたことか、子ども心にたいへん魅力的に思えました。 皆さんの中にも、この機種や、DRシリーズ/SRシリーズの他の機種、あるいはその後のEX/FXシリーズの電子ブロックで遊んだ経験をお持ちの方もきっとおられることと思います。その世代が子供を持つ親の世代になり、自分の子供に遊ばせたいという機運が高まり、電子ブロックの復刻版が発売されたことは皆さんご存知のとおりです。実は子供より親のほうが楽しんでいたりして…。 子供の好奇心・探究心はどんどん高まるものですね。ほどなくして「イヤホンだけでなくスピーカーの使える電子ブロックが欲しい」などと父にねだるようになりました。その後の話は、また次回に。 2004/9/26 - 乾電池と豆電球私が電気に興味を持ち始めたのは確か小学校2年生くらいのときで、授業で乾電池と豆電球の「並列つなぎ」「直列つなぎ」を勉強したことがきっかけでした(これを勉強するのはもう少し後かな?)。おぼろげながら覚えているのは、自分の落書きノートにいろいろな種類の「強力懐中電灯」なるものの回路図もどきをたくさん書いたことです。実際に懐中電灯を分解してみたこともあったと思います。 これも確か小学2年生のとき、学芸会の劇の役柄で乾電池と豆電球を使った小道具を使うことになりました。木の棒の先に赤色の豆電球がついていて、手元の金具を押すと豆電球が光り、たいまつを使ってどこかに火をつけている様子を演じるものだったと記憶しています。豆電球が大好きでしたから、学芸会の後で先生にお願いしてその小道具をもらって帰りました。 駅前に大きな文房具店があり、プラモデルはもちろん、自分で工作するための電池ボックスとかモーターとか豆電球も売っていました。顕微鏡セットやラジオキットなど、科学少年の心をくすぐる品物を陳列している商品ケースもありました。 ある時その店で電池ボックスと赤・青・黄の豆電球を買ってきて、信号機のようなものを組み立てて遊んだ記憶があります。 そんな様子を見ていた父は、その当時販売されていた「電子ブロック」を買ってくれました。このときから、私の電子工作好きがどんどん高まっていくことになります。そのあたりの話は、また次回に。 2004/9/12 - この雑記帳に何を書くつもりかといいますと…「真空管アンプ自作の醍醐味」トップページに少し書き加えたように、私は小学生のときから電子工作を趣味としていました。その他にも、編み物をしてみたり、クッキーを焼いてみたり、日曜大工をしてみたり、とにかく自分で何かを作るのが大好きな小学生だったんです。父も母もバリバリの文系人間ですし、妹も文系です。そんな中でなぜか私だけ理系人間なんですね。 真空管アンプを作り始めたのも、実は「電気工作好き」であることが始まりです。昔懐かしい真空管モノを作ってみたくなったので作ったところ、その音に魅力を感じ、次第にオーディオ機器に凝るようになっていったというわけです。 この雑記帳には、小学生時代から始めて現在に至るまで、電気工作/電子工作の話題を中心にして、いろいろな「もの作り」の思い出話を綴っていこうと思っています。高校時代のクラブ活動で有機化合物(マツタケの香りの主成分、1-Octen-3-ol と 桂皮酸メチル)を自力で合成した話なんかも書くつもりです(試しに検索したらこんなページがありました)。 「顔も見たことのない男の思い出話など読みたくもない、こんなところに公開するな!」というお叱りの言葉が聞こえてきそうですが、同世代の方々の中には懐かしく思ってくださる人もおられるかもしれません。もし関心をお持ちいただけるようでしたら、お付き合いくださいませ。ちなみに私のプロフィールはトップページ下端にある「T.Natori」リンクをクリックするとご覧いただけます。 |