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恵麻の物語


Chap.28
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−第二十八章 −恵麻のマンション−

月曜日の朝。

ふたりが電車を降りた恵麻のマンションの最寄り駅の前は、いかにもベッドタウンという風景が広がっていた。
そんななか、ふたりは、通勤や通学の人の流れに逆らって歩き、恵麻のマンションに到着した。

恵麻のマンションは、同じマンションという名前であっても、仁と玲愛の住むワンルームマンションとは、かなり様子が異なっていた。
ふたりの住むマンションは、その性格上、ほとんどの住民は、あまりお金のない学生や独身者、あるいは、ふたり暮らしの若者だった。
それに対し恵麻のマンションの住民は、その多くが世帯持ちで、恵麻のようにひとりで住んでいる人は少数派のようだった。

ふたりがマンションの敷地に入っていくと、ちょうど夫や子供達を職場や学校に送り出した主婦達が、マンションのエントランス前の木陰で何人かに分かれて、その日の1回目の井戸端会議を開催していた。
そして、その横をふたりが歩いていくと、玲愛の金髪と容姿が非常に人目を引いたようで、会議は次々と休会になり、一斉に視線が玲愛に集中した。


玲愛の美しい金髪と日本人離れした容姿は、街中を歩いていると、ずいぶん目立った。
そのため、じろじろ見られることも少なからずあったが、そのことで以前、一緒に歩いていた仁に漏らしたことがあった。

「これって、どうしても慣れないんだよね」
「じろじろ見られることか?」
「そう。だから、ひとりだと、ついつい外を出歩かなくなっちゃうんだ」
「ふーん」
「まあ、瑞奈とかと一緒だと、わりと平気だったんだけどね」
「俺と一緒のときは?」
「・・・見られると、嬉しかったり・・・」
「はあ?」
「なんでもない!」
「な、なんだよ。なに怒ってんだよ」
「まあ、ほら、どちらかというと、若い人はそうでもないんだけどね。小さな子供とか、おばさんとかだとね・・・」
「わかるわかる。そのくらいの年代って、遠慮ってものを知らないからなあ」


そしてここ、恵麻のマンションの前では、井戸端会議中の主婦達の前で、玲愛はほとんど、狼の群れの中の子羊状態だった。
仁は、玲愛の手を握る右手に少しだけちからを入れると、できるだけ何食わぬ顔でちょっと歩みを早くした。

そして、ふたりがエントランスに逃げ込もうとした、そのとき。一番エントランスに近い場所で井戸端会議を開催していた主婦のひとりが、急に声を上げた。

「あら。あなた、杉澤さんのお店で働いている人じゃない?」
「・・・え?」

思わずふたりが足を止め、声の主を見ると、その主婦は、ふたりのほうに小走りで近寄ってきた。もちろん、残りの会議のメンバーも、その主婦に続いた。

「やっぱり。あなた、ブリックモールで働いてる人でしょ」
「え、ええ・・・」
「・・・あら、そっちのあなた・・・杉澤さんの弟さん?」

そう言われて、仁は改めてその主婦を眺め、ようやく記憶の中から正体を取り出した。

「あ、どうも。姉がいつもお世話になってます。玲愛。こちら、姉さんの隣の部屋の・・・」
「安田です。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」

紹介されて玲愛が深々と頭を下げると、安田さんの奥さんは満足したようにニッコリ笑って、仁に向き直った。

「で、今日はおそろいで、どうしたの?」
「ええ、いえ。大したことじゃないんですけど、その、ちょっと姉さんの部屋に・・・」

曖昧にごまかそうとした仁だったが、その仁の態度に事件のにおいを嗅ぎ取った主婦達の追求は厳しかった。
別の主婦が、玲愛を横目に見ながら、仁に迫った。

「あら。でも、今日はブリックモールは、お休みじゃないでしょ?」
「あ、いえ、その、ブリックモールは先週から工事しててお休みで・・・」
「ああ、そうだったの」
「あら。でも、わたし、きのう子供達とブリックモールに行ったわよ?杉澤さんのお店でお買い物もしたし」
「え?いえ、それは、ほら・・・その、あぅ・・・」

最後の「あぅ・・・」は、半歩だけ前に出た玲愛が、さりげなく仁の足を踏んだための声だった。

「あ、もちろんブリックモールは営業してますけど、うちのお店だけキッチンの工事でお休みなんです」
「ああ。そう言うことなの」
「はい」

玲愛の言葉に、主婦達は納得して大きくうなずいたが、安田さんの奥さんだけがちょっと首をかしげた。

「あら・・・先週からじゃないの?」
「え?」

玲愛が聞き返すと、安田さんの奥さんが続けた。

「杉澤さん、先週の木曜日か金曜日だったかしら。エレベーターでばったり会ったとき、大きな荷物持ってて、聞いたら旅行に行くって言ってらしたわよ。だから、ブリックモールもお休みなんだと思ってたわ」
「えっ」

一瞬、仁と顔を見合わせた玲愛は、すぐに安田さんの奥さんに向き直った。

「ええ、恵麻さん、ここのところお休みがとれなかったんで、いい機会だから早めにお休みに入ってもらったんです」
「まあ、そういうことだったの」
「はい。ところで、その、恵麻さん、どこに行くか言ってませんでしたか?」
「そうねえ。なんでも、ご主人に会いに行くって、おっしゃってたわよ」

「あら、杉澤さんって、ご結婚されてたのねえ」
「そうよねえ。杉澤さん、お美しいから、結婚されてても当然といえば当然よね」
「そうしたら、ご主人は単身赴任か何かなのかしら?」

井戸端会議は議題を変更して再開されたが、仁と玲愛の耳には、その内容はほとんど届いていなかった。


ようやくエントランスにたどり着き、エレベーターを待っているあいだも、ふたりは黙ったままだった。
そしてエレベーターに乗り込み、ふたりだけになったところで、玲愛が小さな声で言った。

「あの・・・さ。あの・・・ひとしのお兄さんって・・・その、会いに行くって、まさか・・・」
「・・・」
「・・・ごめん。なんでもない」

「・・・大丈夫だよ。姉さんに限って、そんなこと・・・」
「うん。そうだよね」

それきり、ふたりは黙り込んだまま、エレベーターが止まるのを待った。
そして、エレベーターが止まると、ふたりは開き始めたドアの隙間から飛び出すようにして恵麻の部屋に向かった。


Chap.29
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−第二十九章 −恵麻の行方−

恵麻の部屋は、カーテンがキッチリおろされ、まるで梅雨の湿気を閉じこめたように、薄暗くて息が詰まるようだった。

「ねえ、窓開けてもいい?」
「ああ」

玲愛がカーテンを開け、いくつか窓を開けている間、仁は部屋の中を見て回った。

恵麻の部屋のファックス付き電話機は、赤いランプが点滅していて、留守録の存在を示していた。
仁が再生ボタンを押すと、「ヨウケン ハ ナナケン デス」という合成音のあと、ピッと音がして、伝言の再生が始まった。だが、仁、明日香、由飛の他は、友人らしい女性の電話が2件と、あとは電話セールスのたぐいと思われる電話だけだった。
仁は、ちょっとため息をつくと、ふたたび部屋の中を調べはじめた。

部屋の中は、いつもどおりに片付いていて、特に変わったところは無かった。ただ、旅行用のトランクを出したのだろう。壁の造り付けのクローゼットが開けられ、そのままになっていた。


「あ・・・」

突然、、仁が小さく声を上げた。

「どうかしたの?」
「兄さんの位牌が・・・無い」
「え?」

思わず玲愛が振り返ると、いつもなら焼けこげた木片が3つ並べられている台の上は、真ん中の1つが無くなっていて、2つの木片が並んでいるだけだった。

「・・・」

一瞬、ふたりは顔を見合わせていたが、やがて仁が、頭に浮かんだ「最悪の結末」を振り払うように頭を振ると、努めて明るい声で言った。

「さて・・・と。どうしたもんかな」
「うん・・・とりあえず、メモか何か、残ってない?」
「そうだな・・・」

そう言いながら、ふたりは部屋の中の机や引き出しを、ざっと見てみた。

「何もないな・・・こことか・・・」

そう言って、仁はゴミ箱をのぞき込んだ。

「何かある?」
「いや・・・」
「こっちの燃えるゴミの袋に入れちゃったとか」
「いや。それ、俺が先週泊まったとき、ゴミを片付けた時のままだから。それからはゴミは入れてないみたいだな」
「ひとし・・・恵麻さんの部屋に泊まって、そんなことまでしてたの?」
「い、いや。だから、朝ちょっと時間があったから、片付けただけだって。・・・そんなことより、他に手がかりは無いのか」
「うん・・・これとか」

そう言いながら、玲愛は部屋のファックス兼用電話機が置かれた台に近づき、そこに置かれたメモ帳を取り上げた。

「ほら、良くあるじゃない。鉛筆でこすると、ボールペンで書かれた文章の跡が読めるとか」
「ああ・・・何かわかるか?」
「うん・・・ダメ。ぜんぜんわからない」
「そっか・・・」

そう言いながら仁は、メモ帳を玲愛から受け取ると、自分でも光にかざしたりして見ていた。そんな仁に、玲愛が言った。

「あの・・・さ。それ・・・見てみる?」

そう言って玲愛が指さしたのは、電話機の横に置かれた、A4を縦に2つに切ったくらいの大きさの電話帳だった。
それは、厚紙で五十音のインデックスの付いた、どこの文具屋でも見かけるような、ありがちなものだった。

「でも、恵麻さんのプライバシーをのぞき見してることになるかな?」
「かまわないさ。もとを正せば、姉さんの無断欠勤が原因なんだから」
「そう?」

ふたりはリビングにそれを持ってくると、座卓の上でそれを広げ、一緒にのぞき込んだ。
中には、ちょっと丸みがかった恵麻の字が、あまり記入欄を守らずに踊っていた。

ページをパラパラめくっていた玲愛が言った。

「あまり・・・書いてないね」

最初のページこそ、行きつけらしいヘアサロンや病院などの電話番号、以前勤めていた保険会社の関係の電話番号、そして親戚などの住所と電話番号などが、ページの半分くらい、ぎっしり書かれていたが、その後のページは、1ページに数件くらいしか書かれていなかった。

「そうだな・・・まあ、姉さん、こういう事には、あまりこだわらない人だからなあ」
「それに、ほら、わたしもそうだけど、最近はみんな携帯に入れちゃうから・・・」
「ああ・・・」
「どうする?」
「とりあえず他に手がかりも無いからな。片端から電話してみるか」
「そうだね・・・あっ」
「どうした?」
「う、うん・・・これ・・・」

ちょっと言いにくそうにしながら、玲愛があるページを指さした。そこには「伊達 正臣」と書かれてあった。

「あの・・・他は、ほとんど女性の名前ばかりなのに、その・・・このひとだけ、住所もちゃんと書いてあるし・・・」
「伊達・・・ああ。まさ兄か」
「まさにい?ひとし知ってるひと?」
「ああ。兄さんの大学時代の友だちで、大学を卒業した後も、ちょくちょく家に遊びに来たりしてたんだ」
「ふーん」
「確か、実家がこの近くで不動産屋さんをやってるとか言ってたな。いいとこの坊ちゃんなんだけど、本人は全然気にかけて無くて、そんなところで兄さんとも気が合ったみたいでね」
「そうなんだ」

「兄さんが亡くなったときも、お葬式に来てくれてさ。そう言えば、ファミーユの本店が火事になった後も、いろいろ助けてくれたらしいよ」
「らしいって?」
「うん。ほら、俺は姉さんに付きっきりだったから」
「あ・・・そう」
「それで父さんから聞いたんだけど、やっぱり父さんも、もちろんあんな事は初めてだったから、どうしたらいいか困ってたらしいんだ。そうしたら、まさ兄が来てくれて、保険会社の手続きとか消防署や警察の対応とか、いろいろ手伝ってくれたらしいんだ」
「ふうん」
「そうか・・・姉さん、まさ兄と連絡取ってたのか・・・知らなかった」
「どうする?電話してみる?」
「え?ああ・・・そうだな」

そう言うと、仁は自分の携帯を取りだし、電話帳に書かれた番号を押していった。だが、番号を押し終わって携帯を耳に当てた仁は、すぐにそれを耳から離してしまった。

「どうしたの?」
「現在使われていません、だって。・・・俺、番号間違えた?」

仁は、携帯のディスプレイに再度番号を呼び出して、玲愛と一緒に電話帳と見比べたが、番号に間違いは無いようだった。

「この番号・・・古いのか?」
「そうだね・・・あ、やっぱり、最近は更新してないみたいだよ。ほら、かすりさんの電話番号、昔のアパートのじゃない?これ」
「はあ・・・まあ、とりあえず、ア行から掛けていってみるか・・・電話番号、読んでくれるか?」
「うん、わかった」

そして仁は、玲愛の読み上げる電話番号を、次々と自分の携帯に入れていった。



Chap.30
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−第三十章 −手掛かり−

『現在出かけております。ご用の方はピッと言う音の後にご用件をおっしゃってください』

ピッ

「もしもし、わたし、杉澤恵麻の弟の高村仁と言います。大至急、姉さんに連絡を取りたいのですが、もしそちらに姉さんがお伺いしたら、ご連絡をいただけませんでしょうか。番号は・・・」

仁は自分の携帯の番号を言うと、携帯を切って大きくため息をついた。

「ふう・・・」
「やっぱり、このひとも留守だね」
「まあ、平日のこんな時間だからなあ・・・」
「うん。じゃあ、次行くよ」
「おう」

玲愛は、リビングの座卓の上に広げた恵麻の電話帳の次のページをめくり、最初の行に書かれている電話番号を読み上げはじめた。
そして、玲愛の横であぐらをかいて座っている仁が、玲愛の言うとおりに携帯電話の番号ボタンを押しはじめた、その瞬間、突然「ピピッ」という音がしたと思うと、仁の持っている携帯の画面が点滅をはじめた。

「ありゃー、電池切れだ・・・」

それを見て玲愛は、ポシェットから自分の携帯を取りだしたが、仁はそれに軽く手を振って言った。

「いや、いいよ。続きは姉さんの電話、使おう」

そう言うと仁は座卓から立ち上がり、電話台に置かれたファックス兼用の電話機に向かった。

「あ、おまえはそこに座ってていいぞ。そこで読み上げてくれればいいからさ」

仁が言ったが、玲愛も仁に続いて立ち上がると、恵麻の電話帳を持ったまま電話台の横まで来てしまった。

「いいじゃない。横で読み上げた方が、間違いがないでしょ?」
「そうか、じゃ、たのむ」
「うん」

そう返事をした玲愛だったが、電話帳を開いたところで、ふと電話機に目を留め、考え込んでしまった。
電話番号を押そうとしていた仁は、いつまでたっても玲愛が番号を読み上げないため、玲愛に向かって顔を上げた。

「玲愛?どうかしたか?」
「・・・ねえ、この電話機、ファックス兼用だよね」
「そうだな」
「これ・・・電話かけた相手の電話番号とか、印刷できないかな?」
「確かに、それが分かれば手がかりになるな。・・・でも、ファックスの送信記録は印刷できるかもしれないけど、通話先ってのはどうかなあ」
「じゃ、送信記録だけでも印刷してみようよ」
「そうだな。えーと・・・そこらへんに、マニュアル置いてないか?」

「・・・ねえ、ひとし。最後にかけた相手なら、すぐわかるよね?」
「リダイアルか」
「うん」

玲愛がうなずくと、仁はすぐにオンフックボタンを押し、発信音がスピーカーから聞こえてきたところでリダイアルボタンを押した。
少しの間のあと、スピーカーから呼び出し音が聞こえてきた。それを確認した玲愛は、電話機の液晶画面に表示された10桁の番号を素早くメモした。

3回、4回、呼び出し音が続いた。

「ダメか・・・」

呼び出し音が何回か続いたあと、仁があきらめて再度オンフックボタンを押して電話を切ろうとした、そのとき。
スピーカーから流れていた呼び出し音が途切れ、ブツンという音と共に、男性の声が聞こえてきた。

『はい。ペンションファミーユです』

その声を聞いた瞬間、仁と玲愛は顔を見合わせ、しばらくそのまま動くことができなかった。

『もしもし。ペンションファミーユですが、何かご用ですか?』

それを聞いて、あわてて仁が受話器を取り上げた。

「あ、あの、もしもし。わたし、高村仁といいますが、あの、姉さんがそちらにいませんか?」
『はあ?』
「あ、す、すみません。あの、姉の杉澤恵麻は、そちらに泊まってませんか?」
『・・・えーと・・・失礼ですが、どういったご関係で・・・』
「だから!姉さんだって言ってるでしょう!結婚して名字が変わったんです!」

半分怒鳴るように話す仁から、玲愛はあわてて引ったくるように受話器を取り上げた。

「失礼しました。あの、わたし、杉澤恵麻の妹なんですが、姉が先週の金曜日くらいから、そちらにご厄介になっていないかと思いまして、お電話差し上げたのですが」
『はあ』
「えーと、姉が、そちらの連絡先残していったんですが、どうも電話番号が間違っていたみたいで、それで確認させていただいたんです」
『そう・・・ですか』

「はい。本当は、わたし達は都合が悪くて、姉がひとりで旅行する予定だったんですけど、わたし達も急に都合が付きましたので、姉と合流しようかと思いまして」
『なるほど。そう言うご事情でしたか。そう言うことでしたら、確かに杉澤さんは先週からご宿泊されてますよ』

それを聞いて、玲愛と仁は一瞬顔を見合わせ、そしてお互いに小さくうなずいた。そして玲愛は、ひとつ深呼吸をして続けた。

「あ、そうですか。そうしましたら、あの、今夜なんですが、お部屋空いてませんでしょうか」
『ええ、大丈夫ですよ。何人様ですか?』
「えっと、ふたり、お願いします」
『ご一緒の部屋でよろしいですか?』
「はい」
『わかりました。それで、ご利用になる方のお名前をいただけますか?』
「はい。高村仁と、えっと・・・高村玲愛・・・」
『高村仁様と、高村玲愛様ですね?わかりました。では、お部屋をご用意させていただきます。それで、うちのペンションの場所は、お分かりになりますか?』
「いえ、ちょっとわからないんですけど」
『そうしましたら・・・・』

ペンションの場所の説明を聞きながら、玲愛は素早くメモを取り、仁に渡した。

『それから、高村様は、これからそちらをお発ちになるわけですね?』
「はい」
『そうしますと、到着がちょっと遅くなると思いますので、申し訳ありませんが夕食を済ませてきていただきたいのですが』
「はい。わかりました」
『では、お待ちしております』
「あ、それで、ちょっとお願いがあるんですが」
『はい?』

「あの、姉には、わたし達が行くっていうことを黙っていてほしいんです。突然行って、驚かせたいんで」
『ああ、そう言うことですね。わかりました。お任せ下さい』
「あ、それから、もうひとつ、お願いなんですが」
『はい、なんですか?』
「あの、お部屋なんですが、できるだけ安い部屋をお願いします」



玲愛は、受話器を戻すと、大きくひとつ、ため息をついた。

「ねえ。これで・・・よかったのかな?」
「ああ、バッチリだ。さすが、玲愛だよ」
「そうだった?」
「もちろんだよ。俺だけだったら、思いっきり不審に思われて、姉さんが居ること教えてもらえなかっただろうな」
「あはは。やっぱり、いきなり男が聞いてくると、宿の人も警戒するんじゃない?わたしが女だから教えてもらえたんだよ」
「いや・・・おまえが冷静に対応してくれたからだよ。ありがとう、玲愛」

それだけ言うと、いきなり仁は玲愛を抱きしめた。

「ひと・・・し・・・」
「ありがとう・・・おまえが俺の彼女で、本当によかった・・・」
「うん・・・あ、でも、よかったね。恵麻さんが無事で・・・」
「ああ・・・そうだな」
「うん」

「だけどさあ。おまえ、ほんっとに嘘付くのが上手いな」
「・・・何よ。それ」
「急に都合が付いたから。とか言ってさ」
「ちょっと!ほかに突っ込むところ、あるでしょ!」
「はあ?」
「・・・もういい!この、鈍感!」
「な、なんだよ」

「ほら。これから忙しくなるんだから。とりあえず一度戻るわよ。旅行の準備もしないといけないし」
「そうだな」

そう言うと仁は微笑んで、自分の手を広げ玲愛の前に突き出した。すぐに玲愛も微笑むと、同じように手を突き出し、お互いの手のひらを拍手するように、ちょっと強めにぶつけた。

パシン

鋭い音が響いた。

「よーし。いよいよラスボスとの対決だな」
「なによ、それ。自分の姉さんをラスボス呼ばわりするの?」
「ああ、それも、かなり強力なやつだな」
「あはは。がんばってね。わたしの、英雄さま!」

「よし、じゃあ、そっちの窓とカーテン閉めてくれ。俺はこっちの戸締まりするから」
「わかった。・・・ねえ、ひとし」
「うん?」
「がんばろうね」
「おう」


Chap.31
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−第三十一章 −ペンション・ファミーユ−

タクシーを降りた仁と玲愛は、その建物が予想以上に大きいことに驚いた。

「すごい・・・3階まであるよ」
「ああ・・・とりあえず入ろうか」

仁が入り口を開けると、ドアに付けられた大きなベルが、静まりかえったロビーにガラガラと大きな音を立てた。
そして、ふたりが玄関でキョロキョロ周囲を見回していると、すぐにカウンターの奥から人の良さそうな初老の男性が出てきた。

「やあ、いらっしゃい」

その男性に声をかけられ、あわてて仁が頭をペコペコ下げながら言った。

「あ、どうも。夜分遅くすみません。わたし、けさお電話した高村ですが」
「ああ、高村さん。お待ちしてましたよ。遠くからよくおいで下さいました。疲れたでしょう」
「いえ。本当にすみません。遅くなって」
「いやいや。で、お連れさんは・・・そちらの外国の女性のかた?」
「え?あ、えっと、わたし日本人です。フランス人の血が入ってますけど」
「ああ、お電話でお話した方ですね。そうだったんですか。これは失礼。気を悪くしないでくださいよ」
「はあ・・・」

「ところで、安い部屋ということでしたが、うちの一番安い部屋っていうと、スキー合宿の皆さん向けの部屋になるんですけどねえ。二段ベッドの4人部屋で、シャワーとトイレは共同になるんだけど。それでもいいですか?」
「いいよね?ひとし」
「ああ。俺はかまわないよ」
「じゃあ、その部屋でお願いします」
「そうですか。まあ、こっちの部屋は今日は他にお客さんは居ないからねえ。いつもは男女別なんだけど、今日は一部屋、2人だけの貸し切りにしちゃいますけどね」
「そうですか。ありがとうございます」

「それから朝食はどうされますか?うちの自慢の手作りパンだから、ぜひ食べていってほしいんだけど」
「ええ、お願いします」
「そうですか。じゃあ、おふたりでこっちの部屋で、税金が入って、平日のオフシーズンだからちょっとオマケして・・・お会計はこれで」

そう言いながら、ペンションの主人は玲愛に電卓を見せた。それを見て玲愛は小さくうなずき、サイフから何枚かの紙幣を取り出した。
玲愛からお金を受け取ると、主人は軽く頭を下げて言った。

「ありがとうございます。じゃあ、ちょっとお釣りを持ってきますから。そのあいだに、こちらの宿泊カードお願いできますか?」
「あ、はい」

主人は、ふたりに一枚ずつ宿泊カードとボールペンを渡すと、カウンターの奥に引っ込んでいった。

仁は、すぐに宿泊カードに住所と氏名を書き終えると、何気なく、まだ書きかけの玲愛のカードをのぞき込んだ。それに気付いた玲愛は、あわてて自分のカードを隠した。

「なによ!のぞきこまないでよ!」
「なんだよ。怒らなくてもいいだろ」
「うるさいわね!ほら、書き終わったのなら、そのカードこっちに渡しなさいよ!」
「な、なんだよ」
「あっち向いてなさいよ!まったく、この鈍感!」

玲愛が、ちょっと顔を赤くしながら手元を半分隠すようにして宿泊カードを書き終えたのとほぼ同時に、主人が釣り銭と部屋の鍵を持って戻ってきた。

「お待たせしました。お釣りと、これが部屋のカギです」
「あ、はい」
「それで部屋なんだけど、こっちの通路を行ったところに同じような部屋が4つあるんで、突き当たりの奥の部屋を使ってください。部屋からの景色が一番いいんで」
「はい、ありがとうございます」

「それから、トイレとシャワーは、部屋の通路を隔てた反対側になります。シャワーはいつでも使えますから。もちろん朝もご利用いただけます。で、もしお風呂に入りたいようでしたら、そこを真っ直ぐ行ったところに露天風呂がありますから、よかったら使ってくださいね。こっちも一晩中、入れますので」
「はい」

「えーと、あと非常口は、そこの裏口になります。ここのドアは一晩中カギを掛けませんから、もし夜中にコンビニとかに行かれるようでしたら、ここを使ってください。あ、でも高村さんは車じゃなかったんでしたっけ?」
「ええ、タクシーで来ました」
「あー、それじゃ、来る途中に見たと思うけど、ちょっと遠いかもしれないねえ、コンビニ」
「ええ。そうですね」
「まあ、とりあえず、そこに自販機もあるし、それから水割り用の氷は、そっちの製氷器から自由に持って行ってもらえますから。・・・だいたい、そんなところかな。あと、なにか困ったことがあったら、遠慮無くフロントに電話くださいね」
「わかりました。あの、それで・・・」
「はい?」

「あの、恵麻さん・・・えっと、姉の部屋は、どちらに・・・」
「ああ。杉澤さんのお部屋は、3階のペントハウスになりますよ。そこのエレベーターで上がっていってください。杉澤さんは、3部屋あるうちの、いちばん奥のお部屋に泊まって見えます。エレベーター降りてすぐの部屋は別のお客さんが泊まってみえますので、間違えないでくださいね」
「わかりました」

「あ、それから。もちろん杉澤さんには、おふたりがお見えになることは秘密にしてありますから、ご安心を」




安いだけあって、その部屋は狭いと言ってもよいものであったが、ほのかに木の香りの漂う室内は綺麗に掃除されていた。そして、カーテン付きのベッドは十分に広く、寝るだけだったら問題無さそうだった。
そして、廊下を挟んだ反対側には、男女別になった入り口があり、そこを入ると、いくつかのトイレとシャワールーム、洗面所があった。

仁は、ふたり分の荷物の入ったボストンバッグを部屋の造り付けのテーブルの上に置くと、あとから入ってきた玲愛に言った。

「はあ・・・さすがに疲れたな。おまえも疲れたろ」
「正直、ちょっとね」
「じゃあ今夜はもう遅いから、姉さんのところは明日にしよう」
「うん。わかった」
「よし。じゃ、とりあえずシャワー浴びてくるか」
「そうだね。あ、わたしのほうが時間かかると思うから、部屋のカギはひとしが持って行って」
「そうだな」


シャワーを終えた玲愛が、最近の寝るときの衣装、すなわち、仁のお古のTシャツにジャージのハーフパンツというスタイルで部屋に戻ると、すでにシャワーを終えて戻っていた仁が、同じような衣装で二段ベッドの下段に寝転がっていた。そして、玲愛が部屋に入っていくと、むっくりと起き上がった。

「なあ、考えたんだけどさ。やっぱり、これから姉さんの部屋に行ってみないか?」
「え?」
「ほら、姉さんって、朝はあまり機嫌が良くないから、どちらかって言うと夜のほうがいいかなあって」
「でも、こんな時間だよ?」
「まあ、寝てるみたいだったら明日にすればいいからさ」
「そう・・・じゃあ、すぐに着替えるから。ちょっと待ってて」
「いいよいいよ、そのままで」

「え?だって、こんな格好じゃ・・・」
「気にするなって。こんな時間だから、誰にも会やしないさ」
「そうじゃなくて、恵麻さんに失礼じゃない?こんな格好って・・・」
「姉さんはそんなこと気にしないって。ほら、行くぞ」

「ちょ、ちょっと!わたしブラも付けてないし・・・」
「いいからいいから。ほらほら」
「わ、わかったから、引っ張らないでってば!もう・・・。ポシェットだけ持ってくるから。ちょっと待ってて」



Chap.32
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−第三十二章 −ペントハウス−

ゆかた姿の恵麻は、ドアを開けて顔だけ出し、「じんくん・・・玲愛ちゃん・・・」と言ったきり、しばらく固まってしまった。

「こんばんは。姉さん」
「・・・どうしたのよ、ふたりでそろって・・・」
「姉さんを迎えにきた」
「私を迎えにって・・・ちょっと、じんくん。お店はどうしたのよ」
「あのねえ・・・その言葉、そっくりお返しするよ」
「それは・・・」

「姉さんが居なくなってから、かすりさんが本当にがんばってくれてるけど、かすりさんキュリオの仕事も抱えてて、だから日曜日に過労で倒れたんだよ」
「えっ!」
「まあ、一晩ぐっすり寝たら元気になったみたいだけどさ」
「そう・・・よかった・・・」
「でも、キュリオにもずいぶん迷惑かけちゃってるんだ。だから板橋店長に頼んでファミーユを臨時休業にさせてもらってきたんだよ。姉さんを連れ帰るために」
「・・・」

「頼むよ、姉さん。その・・・玲愛のことは、またゆっくり相談させてもらうからさ。とりあえず、一緒にブリックモールに戻ってくれよ」
「じんくん・・・」

恵麻は、それだけ言うと黙ったまま少しうつむいたが、すぐに顔を上げて、いつものように微笑んだ。

「・・・ねえ。ここで立ち話も何だから、部屋に入らない?ふたりとも」




「ずいぶん広い部屋だな・・・」

部屋に入った仁が、思わずつぶやいた。

恵麻の泊まっている部屋は、ふたりの住んでいるワンルームマンションの部屋の倍くらいの広さがありそうだった。
ドアから入ると、すぐに短い廊下になっていて、入り口にはスキー用具を置くための大きな棚があった。そして突き当たりに小さなシンクと冷蔵庫があり、右側がユニットバスの入り口、左側が寝室の入り口になっていた。
左側の寝室に入ると、中はずいぶん広く、奥には、シングルベッドとはいえ、ベッドが2つ並んで置かれていたが、それでも余裕があった。そして、どちらのベッドも、まだきちんとベッドメイクされたままになっていた。
部屋の手前の部分も贅沢にスペースが取ってあり、低いテーブルがひとつと、応接セットのような立派なイスが2脚、テーブルを挟むように置かれていた。

そして、テーブルの上には、何本かの地酒のビンとワインのビン、いくつかのおつまみが並んでいた。そのテーブルの両端にはグラスがひとつずつ置かれていて、一方のグラスは恵麻の飲みかけだろう。中身がほとんど空になっていた。そして、もう一方のグラスは、中身がほとんど減っていなかった。
その、中身の減っていないグラスの横に置かれた、焼け焦げた位牌を見て、仁が言った。

「兄さんと・・・飲んでたんだ」
「え?ああ、これね」

それだけ言うと、3人とも黙りこくってしまった。
しばらくして、恵麻が努めて明るく言った。

「さてっと。ねえ、ふたりとも。ちょっと飲まない?これ、地元で作ってるワインなんだけど、結構いけるのよ」
「・・・姉さん」
「あ、でも、イスが2人分しかないのよねえ・・・じゃあ、これ、片付けちゃおうか」
「ちょっと、姉さん!」
「玲愛ちゃん、テーブルのそっち持ってくれない?じんくんはイスをお願いね」

恵麻がテーブルを持ち上げようとしているのに気付き、玲愛があわててテーブルの反対側を持ち、ふたりでテーブルを部屋の隅に運んでいった。
仁は、それを見て小さくため息をつくと、あきらめたようにイスを片付けはじめた。

やがて、イスとテーブルの無くなったカーペットの上に、3人が車座になった。

「ごめんね、ふたりとも。この部屋、グラスが2つしかないから、あなた達はコップになっちゃって」
「いえ。そんなことは・・・」
「じゃあ、乾杯」
「だから、姉さん!そうじゃなくて、俺たちは姉さんに話があって・・・」
「ダメダメ。まずは乾杯しなくちゃ。ほら、かんぱーい」

強引に自分のグラスを近付ける恵麻に、仁と玲愛は顔を見合わせると、仕方なくコップを持ち上げ、軽くぶつけた。

こうして、2回目の、奇妙な「3人の飲み会」が始まった。



Chap.33
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−第三十三章 −奇妙な宴会−

「ねえ、この地酒、わりといけるでしょ。ちょっと高価かったのよー。ほらぁ、じんくーん。さっきから全然飲んでないじゃない」
「姉さん!だから、さっきも言ったけど、俺たちは姉さんを連れ帰るようにって・・・」

「ねえ、じんくん・・・もうちょっと、もうすこし、姉ちゃんに時間、くれないかな?」
「・・・時間って・・・いつまでなんだよ」
「だから・・・もうちょっと」
「無理だよ!かすりさんも、もう限界なんだ。姉さんが帰ってきてくれなかったら、ファミーユはブリックモールから出て行くしかないよ」
「・・・いいじゃない。それでも」
「はあ?なに言うんだよ!姉さん!」

「ファミーユが無くなれば、じんくんだって大学に復学できるんだし」
「ねえさんっ!怒るよ!」
「・・・ねえ、じんくん。ファミーユを再開したのって、姉ちゃんのため。じゃなかったの?」
「それは・・・」
「・・・じんくん?」

「・・・本当は、俺のためだったんだ」
「え?」
「俺、ケーキ作ってるときの姉ちゃんを見るのが大好きだった。それに、かすりさんや明日香ちゃん、里伽子が居て、本当にファミリーみたいで、暖かくて。そんな場所を取り戻したかったんだよ」
「・・・」
「それに・・・いまの俺にとっては、それ以上に大切な場所なんだ」

それだけ言って黙ったまま少しうつむいている仁を、恵麻は少しのあいだ見つめていたが、やがて小さくため息をつくと、グラスの地酒を一気に飲み干した。

「・・・そう・・・なの」

恵麻は、しばらく空のグラスを眺めていたが、やがて突然言った。

「ふう。なんだか暑いわねえ。酔っちゃったかしら」

そう言うと恵麻は、いきなりゆかたの胸のあたりをはだけ、胸元に風を入れるように扇ぎはじめた。

「ちょ、ちょっと!姉さん!なにするんだよ!」
「うん?なに?どうかした?」
「なにって・・・その・・・見えるって」
「え?」
「だから!谷間が見えてるっていうの!」
「んー?いいじゃない。姉弟なんだし」
「あのねえ!いくら姉弟でも・・・」
「姉ちゃんのお風呂、いっつものぞいてたくせに」
「なっ、なにを・・・」

「ひとし」

「ば、ばか。大昔の話だって」
「・・・本当にのぞいてたの?ひ・と・し?」
「い、いや、だからだなあ・・・」

グラスを持ったまま上目遣いでにらむ玲愛に向き直って、仁が苦しい言い訳をしていると、恵麻がちょっと笑いながら言った。

「ふーん。じんくん、姉ちゃんの胸でも興奮するんだ」
「な、なに言ってるんだよ!」
「ふーん。そうなんだ」

そう言うと恵麻は、床に座ったまま、にじり寄るようにして仁に近づいてきた。

前かがみになったまま近づいてくるため、恵麻のはだけたままのゆかたの胸元からは、こぼれんばかりの胸が見えていた。そして、恵麻が仁に向かって立ち膝のまま寄っていくにつれ、ゆかたの裾も乱れ、白い脚があらわになってきた。

「ね、姉さん!なにするんだよ!」

思わず後ずさりしようとする仁に、恵麻はなおも近づくと、仁の腕を取って言った。

「ねえ、見てるだけじゃわからないでしょ。姉ちゃんの胸って、とっても柔らかいのよ」

そう言いながら恵麻は、仁の腕を引き寄せるようにして自分の胸に押し当てた。

あっけにとられた玲愛は、一瞬ふたりの様子をポカンとして見ていたが、我に返るとあわてて仁の反対側の腕を取って自分の方に引き寄せ、すごい形相で恵麻をにらみつけた。

「ひとしっ!なにしてるのよ!」
「な、なにって、おっ、おまえ・・・」

「・・・ちょっと、ひとしっ!なにそれ!信じられない!自分の姉に反応してるなんて!」
「ば、ば、ばか!これは男の生理現象なんだ!しかたないんだよ!」
「んふふー。じんくん、ねえちゃん嬉しい。ねえ、こっちも触っていいんだよ?」
「ひとし!いつまで恵麻さんの胸に腕を押し当ててるのよ!」
「なっ!おまえだって自分の胸を俺の腕に押し当ててるじゃんか!」

恵麻と玲愛に挟まれ、ふたりに競うようにぐいぐいと体を密着されていた仁は、ついにふたりを振りほどくようにして立ち上がった。

「だーっ!ふたりとも!いい加減にしろよっ!!」

そう言うと仁は、前かがみになったままの姿勢で立ち上がり、寝室から出て行こうとした。

「じんくん、どこ行くの?」
「顔洗ってくるんだよ!」

怒鳴るように言って、ドアを開け放したまま仁が部屋から出ていき、すぐにユニットバスの入り口のドアが開く音がして、続いてばしゃばしゃと顔を洗う水音が聞こえてきた。
そして、しばらく水音がしていたが、それが止むと、ふたたび仁が寝室に入ってきた。

「玲愛、サイフ貸してくれ」
「いいけど・・・どうするの?」
「ちょっとコンビニ行ってくる」
「え?あの、来る途中にあったお店?」
「ああ」
「あそこって・・・歩いていったら往復で30分はかかるよ?」
「いいよ。ちょっと頭、冷やしたいから。おまえは先に部屋に戻っててくれ」
「う、うん・・・わかった」

「じゃあ、姉さん。今日のところはお開きにしよう。またあした、改めて話しに来るから」

そう言うと仁は、部屋の片隅に置かれた玲愛のポシェットからサイフを取り出すと、不機嫌な表情のまま、ふたりに軽く手を振って部屋から出て行った。


仁が居なくなった部屋では、恵麻と玲愛が、しばらくのあいだ、そのままの姿勢で黙ったまま並んで座っていた。
玲愛はチラチラと恵麻の様子を盗み見していたが、恵麻は少しうつむいてグラスをじっと見つめたまま微動だにしなかった。

やがて、玲愛が小さな声で言った。

「あの、じゃあ、恵麻さん。またあした・・・」

そして玲愛が、もぞもぞと立ち上がろうとして、右手を床に着いた、その瞬間。
いきなり恵麻が、その手を引っ張った。

ちょうど体重をかけようとした手を引っ張られたため、玲愛はそのまま床に転がるように倒れた。

「きゃっ!恵麻さん!な、何を・・・」

あわてて起き上がろうとして仰向けになった玲愛の上に、恵麻が馬乗りになるように覆い被さった。

「え、恵麻さんっ!」

玲愛は、馬乗りになった恵麻を下から見上げながら、それだけ言うのが精一杯だった。

下から見上げると、馬乗りになった恵麻は驚くほど妖艶だった。胸元のはだけたゆかたからは、恵麻の豊かな胸が、ほとんど丸見えになっていた。そして、馬乗りになったときに、ゆかたの裾もほとんどめくれ上がり、恵麻の白い太ももが玲愛のお腹の上で目の前にさらされていた。
驚きのあまり固まっている玲愛に、恵麻はいつもどおりの微笑みを浮かべながら言った。

「んふふ。玲愛ちゃんって、本当にかわいいわね」

そう言うと恵麻は、左手で玲愛の肩を押さえつけたまま、右手を玲愛の頬からアゴへ、愛おしむように滑らせた。

「本当にお人形さんみたいね。玲愛ちゃん」
「え、恵麻さん!いい加減に、やめてください!」

玲愛の抗議の声を聞き流し、微笑んだままの恵麻は、右手を玲愛のアゴから首筋、そして胸元まで、ゆっくりと走らせた。
そして恵麻は、いつもどおりの笑顔のまま、玲愛の着ているTシャツのエリに胸元から手をかけ、そのまま一気に下方向におろした。

玲愛の着ているTシャツは決して高級なものではなく、スーパーで買ってきた安物だった。それに、もともと仁のTシャツだっただけあって、玲愛にはかなりオーバーサイズだった。
おまけに長いこと仁が着ていたため、エリの部分も、ずいぶんくたびれていた。

そのため、恵麻がエリを引っ張ると、さすがに破れることはなかったが、エリは面白いように伸び、玲愛の胸骨の下あたりまで達してしまった。

「きゃっ!いやっ!」

玲愛が小さく悲鳴を上げ、恵麻の手を振りほどこうとしたが、恵麻はそれを気にすることなく、あいかわらず微笑みを浮かべたまま言った。

「玲愛ちゃんの胸って、大きくないけど綺麗よね。本当に・・・」

そう言うと恵麻は、あいかわらず微笑みを浮かべ、左手で玲愛の肩を押さえつけたまま、少しのあいだ、むき出しになった玲愛の胸に優しく右手を滑らせていたが、いきなりその胸をわしづかみにした。



Chap.34
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−第三十四章 −恵麻と玲愛 その1−

玲愛がキュリオ本店のアルバイトから正社員になったとき、現場研修ということで何日間か厨房で働いたことがあった。そのとき、玲愛がつくづく思ったのは、ケーキ作りは体力勝負である。と言うことだった。
もちろん、玲愛も自宅でケーキを作ったことはあったが、店で作る場合は、全てにおいて量が比べものにならないくらい多かった。それは、もちろん、ケーキの生地においてもだった。

真っ赤な顔をして懸命に生地をこねる玲愛を見て、さやかがクスクス笑いながら言った。

「あ、あの、玲愛ちゃん。そんなに無理しないで・・・」
「いえ!大丈夫です!!」
「ううん。あまりがんばってやると、あした筋肉痛になりますよ?もういいですから、私に代わってくださいな」
「いえ。これも仕事ですから」

「はっはっは。花鳥さん。徐々に慣れていっていただくと言うことで、今日のところは橘さんに替わってもらったほうがいいですよ」
「・・・はい」

榊原さんに諭すように声をかけられ、しぶしぶ玲愛が場所を交代すると、さやかはニッコリ笑って、いとも軽々と生地をこね始めた。
そんなさやかを見て、玲愛は素直に認めた。

「はあ・・・ケーキ作りがこんなに大変だとは思いませんでした」
「ふふ。そうですね。わたしも最初の頃は、榊原さんにずいぶん手伝っていただいたりして、それでも筋肉痛になって大変でしたよ。もう今は慣れちゃいましたけどね」
「そう言えば、そんなこともありましたね。でも今では、橘さん、すっかりたくましくなられて・・・」
「あー、榊原さん、それってひどいですよ」

さやかは、いつものはにかんだような笑顔を浮かべながら、ちょっと顔を赤らめ榊原さんに抗議した。



さやかと恵麻を比べると、恵麻のほうが体格が大きい分だけ腕力は強いようだった。
そのため、恵麻に組み敷かれた玲愛は、ほとんど動くことができなかった。

もちろん、いくら恵麻が腕力があると言っても、それは女性としては、と言う条件が付く。
だから、玲愛が全力を出せば、振りほどくことは可能だろう。
言い換えればそれは、玲愛が恵麻から逃れようとすれば、かなり強引に振りほどく必要があるということになるが、玲愛には、振りほどいた後の恵麻の動きまでコントロールする自信が無かった。

だが、しかし。

玲愛は、恵麻に押さえつけられたまま、顔を背けるようにして素早く部屋の中を見回した。
玲愛の右手側は、今まで三人で飲んでいたワイングラスやガラスのコップ、小皿などが並んでいた。そして左手側にはガラスのはめ込まれた引き戸が有り、その前には先ほど恵麻と一緒に片付けたテーブルが置かれていて、そのテーブルの上には恵麻が飲んでいた日本酒の小さなビンやワインのビンが何本か載っていた。

玲愛が強引に振りほどいたとしたら、恵麻は右側か左側、どちらかに突き飛ばされる事になるだろう。その場合、どちらに転んだとしても、恵麻は多少のケガは覚悟しなくてはならないようだった。それに、もし恵麻がガラス製のコップやビンの上に倒れて、それが割れたとしたら、カスリ傷どころか大怪我をすることは確実だった。そして、その可能性は、かなり高そうだった。

そんな事を考えながら玲愛は、とりあえず自由になる左手で恵麻の右手を振りほどこうとした。

「恵麻さんっ!やめてください!」

だが、左手だけで抵抗する玲愛を見ながら、恵麻は、まるで玲愛の心の中を見透かしたように、いつもの優しい微笑みを浮かべたまま言った。

「玲愛ちゃん、どうして本気で抵抗しないの?」
「・・・え?」
「どうして、こんなにひどい目にあわされているのに、わたしを殴らないの?殴ればいいじゃない。じんくんを殴ったみたいに」
「そ、そんな・・・そんなこと、恵麻さんにできるわけ無いです」
「どうして・・・」

それだけ言ったところで、急に恵麻の顔から微笑みが消え、急にうつむくと、苦しそうに顔をゆがめた。

「どうしてっ!こんなひどいことをされているのに、あなたは、やり返そうとしないのよっ!」
「え、恵麻さん!」
「わたしは、あなたを、憎まなくちゃいけないのよ!わたしから大切なじんくんを奪っていく、あなたを、憎まなくちゃいけないのに、なのに・・・」
「あ、あの・・・」
「どうして・・・こんなひどいことをされているのに、あなたは・・・」

それだけ言ったところで突然、玲愛を押さえつけていた恵麻のちからが、ふっと軽くなった。

「恵麻・・・さん・・・」

「あなたは・・・どうして・・・じんくんの事になると、そんなに一生懸命なのよ・・・」
「・・・」
「どうして、じんくんの好きになる女の子って、みんないい娘ばかりなのよ。・・・これじゃ、認めないわたしが、悪者じゃない・・・」
「・・・え?」

「いっそのこと、じんくんが、ひどい女の子に引っかかれば、そうすればわたしだって、あきらめも付くのに」
「・・・」
「でも、そんなの無理よね。だって、じんくんが好きになった娘なんだから」

それだけ言うと、恵麻はノロノロと体を起こし、立ち上がった。

「恵麻さん!」

玲愛は、あわてて上半身だけ起こすと恵麻に呼びかけたが、恵麻はその言葉を無視して、静かに廊下に出て行った。

ひとり取り残された玲愛は、ちょっとのあいだボンヤリとしながら、恵麻がユニットバスの洗面所で顔を洗う音を聞いていたが、やがて自分のTシャツの伸びきったエリに目をやり、あわててエリを手繰り寄せて胸元を押さえると、ちょっと泣きそうな顔になった。

やがて、まだ少し目の赤い恵麻が、いつもどおりの優しい笑顔を浮かべて部屋に入ってきた。
そして、胸元を押さえたままの玲愛を見ると、ちょっと微笑んで、そのまま部屋の造り付けのタンスを開き、中からゆかたを取りだすと、玲愛に言った。

「玲愛ちゃん。いつまでもそれ着てるわけにはいかないでしょ。これに着替えたら?」
「え?」
「ほら、この部屋って、もともと2人部屋だから、ゆかたも2つ用意されてるのよ。だから、遠慮無く使ってね」
「あ・・・はい」

「あ、そうだ。玲愛ちゃん、どうせ着替えるのなら、いっそのこと、これから一緒に露天風呂に行かない?」



Chap.35
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−第三十五章 −恵麻と玲愛 その2−

「ふぅー。気持ちいいわねー」
「そうですね」

梅雨とは思えない満点の星空を見上げながら恵麻が言うと、玲愛も同じように星空を見上げながら同意した。

露天風呂の湯船の周りに敷き詰められた、平らな石を枕がわりに、恵麻と玲愛は湯船の中に寝転がるように並んで浮かんでいた。
ペンションの初代のオーナーが手作りしたという露天風呂は、決して広いものではなかったが、ふたりが入るには十分だった。

「ねえ、玲愛ちゃん。北極星の見つけ方って知ってる?」
「あ、えーと、確か、北斗七星のひしゃくの部分を延長していって・・・」
「あら、カシオペア座のWを補助線で結んで、それの交点を延長した先じゃなかったかしら?」
「はい。どちらも正解だと思います」
「そう。・・・そうよね。正解って、ひとつだけとは限らないのよね」
「え?」

「あ、そうだ・・・クスクス」
「?」
「ごめんなさい。じんくんがまだうちの子になる前に、みんなで一緒にキャンプに行ったときのことを思い出しちゃって」
「はあ・・・」

「あいにく、ちょっと天気の悪い日でね。本当はテントに泊まる予定だったんだけど、夜になって風も出てきたからロッジに泊まることにしたのよ。でも、じんくんだけは、テントで泊まるんだって、がんばっちゃってね。で、結局、杉澤のおじさんも怒っちゃって、勝手にしろって言って、じんくんだけひとりでテントに泊まることになったのよ。

で、夜になって、ちょっと心配だったから、こっそりテントを見に行ったら、じんくん、風でテントがバサバサあおられるのが怖かったらしくて、テントの外で泣きながら座り込んでいたの。で、わたしの姿を見たら、お姉ちゃんって言いながら抱きついてきてね。

寝る前は空は曇ってたんだけど、そのころにはすっかり晴れてて、風は強かったけど、星がとても綺麗だったわ。だからその夜は、じんくんと一緒にずっと星空を見上げて、星座の名前とか、北極星の見つけ方とか、教えてあげたのよ」
「そうだったんですか」


「ふぅ。ずっと入ってると結構熱いわね。このお風呂」

言いながら恵麻は立ち上がると、足を湯船に入れたまま、湯船のふちの平らな石の上に腰かけた。

「そうですね」

玲愛もそう言うと、恵麻からちょっと離れた平たい石の上に、恵麻と同じように腰を下ろした。


ふたりとも部屋に備え付けのタオルを持ってきていたが、当然のことながら、それはごく普通の大きさのタオルだったため、全身を隠すことはできず、ふたりとも上半身は、心地よい夜風に白い裸身をさらしていた。
湯船のふちに腰かけたまま、玲愛はボンヤリと視線を湯船の中の自分の足に向けて、その足をユラユラと動かしたりしていたが、恵麻は、いつもの優しい笑顔で、玲愛をじっと見つめていた。

しばらくして、恵麻が言った。

「玲愛ちゃんって・・・スレンダーよね」
「はあ?・・・・それは・・・その、恵麻さんに比べたら、ほとんどの女性は、そうだと思いますよ・・・」
「あ、いえ、そう言う意味じゃないのよ」
「そう・・・ですか」

「でも、玲愛ちゃんって、本当に肌が白くて綺麗よね。ちょっと触ってもいい?」
「え?」

玲愛が驚いて顔を上げたときには、恵麻はすでに玲愛に近づいていて、そのまま玲愛の二の腕に優しく触れた。
先ほどの事を思い出し、思わず玲愛は体を硬くしたが、恵麻はそれには気付かないように玲愛の腕を優しく撫で続けた。

「玲愛ちゃんの肌って、スベスベよね。色も白いし。本当にうらやましいわ」
「いえ・・・わたしの場合は色素が薄いだけです」
「あら。そうなの?」
「はい。だから、あまり肌は丈夫じゃないんです。それに油断すると、すぐに日に焼けちゃうし」
「そう」
「だから、夏なんか大変なんですよ。うっかり日に焼けすぎたりなんかすると、熱が出たりして大騒ぎなんです」
「まあ。それは大変ねえ。・・・くすくす」

恵麻が、玲愛の腕から手を離しながら小さな声で笑った。
そんな恵麻を玲愛が不思議そうに見つめると、恵麻はまだクスクス笑いながら言った。

「ごめんなさい。また、じんくんのこと思い出しちゃった」
「はあ・・・」

「さっきの話より、もう少し後だったと思ったんだけどね。そのときも、みんなで海水浴に行ったのよ。で、じんくんったら、はしゃぎ過ぎちゃって、かずとさんがさんざん注意したのに、日に焼け過ぎちゃってね。夜中に熱が出るし、火ぶくれはできるし。体中痛いって大騒ぎで、結局、夜中に病院に連れて行ったのよ」
「はあ・・・」

「そうそう。病院って言えばね、こんなこともあったのよ。ほら、じんくんって、小さい頃はあまり丈夫じゃなかったじゃない。あれは確か・・・」

その後も、恵麻の「じんくんの思い出」の話は、とどまるところを知らなかった。
中には、すでに玲愛がファミーユの更衣室で何回も聞かされたような話もいくつもあったが、玲愛はなにも言わず、静かにじっと耳を傾けた。




しばらくして話が一段落したところで、恵麻はちょっとうつむいて、しばらく黙ったままでいたが、やがて顔を上げると、笑顔を浮かべながら玲愛をまっすぐ見て言った。

「ねえ、玲愛ちゃん。ひとつ、聞いてもいい?」
「はい」
「玲愛ちゃんは、じんくんのどこが好きになったのかしら?」

恵麻の問いに、玲愛はすぐには答えなかった。そして、玲愛は湯船のふちから立ち上がると一歩前に進み、視線を落としたまま、ゆっくり首まで湯船につかった。そんな玲愛を、恵麻は微笑んだまま見つめていた。

しばらくして、玲愛がぽつりと言った。

「ひとしと一緒にいると、とても楽だったんです」
「楽だった?」

「わたし、小さい頃から、周りから浮いた存在だったんです。その、容姿のことで、ひどくいじめられたりしたわけじゃなかったんですけど、でも、ものごころ付いた時には、自分でも、自分の容姿が友だちとは違うってことが分かってましたから。

だから、学校では友だちもあまり居なくて、でも、それに負けないようにって、勉強でも何でも、真面目に一生懸命やる子供になったんです。

だからその頃から、周りには「性格がきつい」とか「可愛気のない子」って言われてたんですけど、その、由飛姉さんが来てから、どうしても姉さんと比較されて、それでますます周囲に対して壁を作ったと言うか、厳しく当たるようになっちゃったんです。わたしには、真面目で一生懸命ってことしかありませんでしたから。

それでも、まあ、同性では瑞奈みたいな友だちもできたんですけど、男性については、その、子供の頃に容姿のことでいじめられたこともあったし、年齢が大きくなったら今度は、金髪の娘と付き合いたいって言うような男しか近づいてこなかったって言うか、それで、どうしても抵抗があったんです。

だから、ぶっちゃけ言いますと、ひとしと最初に会ったときは、正直、あまり良い印象は無かったんです。あの、キュリオのパクリってのも、その、ありましたし。

でも、ひとしが他の人と違ってたのは、ひとしは、わたしのことを、性格とか容姿じゃなくて、その、花鳥玲愛っていう、ひとりの人間として扱ってくれて、そして、ぶつかってくれました。
今まで、わたしに対して、あんなに馬鹿みたいに、正面からぶつかってくれた人はいませんでしたから、いま考えると、それがとても嬉しかったんだと思うんです。

だから、ひとしと居るときは、安心して裸の自分を、花鳥玲愛っていう人間を、さらけ出すことができたんです」

恵麻は、ぽつりぽつりと話す玲愛の言葉を、ちょっと微笑みながら静かに聞いていた。
話の区切りで視線を上げた玲愛は、そんな恵麻と思わず目を合わせてしまい、あわてて話を続けた。

「あ、もちろん、それだけじゃないです。
ひとしって、とっても、その、馬鹿が付くくらい正直っていうか、お人好しっていうか。わたしと姉さんのことでも、店長なんだから当然だとか言ってましたけど、何とか仲直りさせようって、馬鹿みたいに心配して、がんばってくれたり。

それから、ひとしって、まあ、頼りないところもあるけど、でも、頼りがいのあるところもあると思うんです。
それから・・・」

なおも続けようとする玲愛に、恵麻はすこし吹き出しながら言った。

「ふふ。もういいわよ、玲愛ちゃん」
「あ・・・はい」

玲愛は、ちょっとの間、ばつの悪そうな顔をしていたが、やがてゆっくり立ち上がると、恵麻の座っている反対側の湯船のふちに、恵麻と同じように腰かけた。
そして玲愛は、しばらくのあいだ恵麻の白い裸身にボンヤリとに視線を送っていたが、やがて小さな声で言った。

「あの・・・恵麻さん」
「うん?なに?」
「あの・・・わたしからも聞いていいですか?」
「なにかしら?」

玲愛は、ちょっと躊躇していたが、やがて恵麻をまっすぐ見つめると、静かに言った。

「あの・・・・恵麻さんは、どうして、ひとしのお兄さんと結婚したんですか?」
「・・・それって、じんくんが好きなのに、かずとさんと結婚したのは、おかしいんじゃないか。ってこと?」
「・・・はい」

恵麻は、いつもどおりの優しい笑顔のままで玲愛を見つめていたが、やがて、湯船の真ん中あたりまで歩いていくと、先ほどまで玲愛がやっていたように、肩までお湯につかり、しばらく水面を眺めていた。

そんな恵麻を、玲愛は静かにじっと見つめていた。



Chap.36
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−第三十六章 −恵麻と玲愛 その3−

しばらくして、恵麻がゆっくりと話し始めた。

「もう10年以上も昔の話になるのね。じんくんがうちの子になるっていう話が出たとき、わたしは猛反対したのよ。姉弟になったら結婚できなくなっちゃうって思ってね。そのころは、姉弟でも養子だったら結婚できるなんてこと、全然知らなかったから。

で、ちょうどそのころなんだけど、うちの近くに、わたしより一回りくらい歳の大きな綺麗なお姉さんが居てね。わたしが小さい頃から、ときどき遊んでくれたりしていたのよ。それで、そのお姉さん、早くに結婚して遠くに行ってたんだけど、ちょうどじんくんの養子の話が出るちょっと前に、離婚して家に戻ってきてたの。

でね。ある時、おつかいでそこの家に行ったら、ちょうどそのお姉さんがひとりでクッキー焼いてるところで、一緒にお茶飲んでってって言われて、ごちそうになることになってね。それで、家に上がっていろいろ話をしているうちに、つい、じんくんと結婚できなくなっちゃうってことをポロッと話しちゃったのよ。
そうしたら、そのお姉さん、ちょっと寂しそうな顔をして言ったのよ。結婚するより姉弟でいたほうが幸せかもしれない。なぜなら、結婚は、いつか終わる日が来るかもしれないけど、姉弟なら終わる日は無いから。って。

それを聞いたときに思っちゃったの。じんくんとは良い姉弟で居ようって。

だから、それからは、わたし達、本当に良い姉弟だったと思うわ。そのころのじんくん、とっても弱々しくて、儚げで、何かって言うとわたしを頼ってきて。

でもね、わたしが学園に入って少し経ったころから、じんくん、どんどん身長が伸びて、体も大きくなって、たくましくなっていったの。そんなじんくんに、わたし、大人の男を感じるようになっちゃって。

それでね、ある日、夢に見ちゃったのよ。じんくんに抱かれる夢。

今でも憶えてるわ。その朝、目覚めたときは、なんだかとっても幸せだったんだけど、ふと気がついたら、下着がひどく汚れてるのよね。その下着の汚れが、汚れた自分自身みたいに思えて。
弟と、なんて、許されることじゃないのに。ってね。

それからは大変だったのよ。

じんくんは、もちろんそんなこと知らないから、今までどおりの態度でわたしに接してくるから、わたしも今までどおりにしなくちゃいけないのに。
でも、どうしても、ぎこちなくなっちゃうのよね。心の中では、じんくんに抱かれたいって思ってて、その気持ちを抑えるのに、本当に必死だったわ。

そんなとき、久しぶりに、かずとさんが家に来てね。で、みんなで話してるときに、たまたま話題が、わたしの学園を卒業したあとの進路のことになったのよ。
まあ、そのころのわたしは、特に将来の目標とかってのも無かったし、まだ全然考えてなかったんだけど、そんなわたしに、親のほうが心配して焦っていた所だったのよね。
うちの親は、もちろん、かずとさんを信頼してたから、わたしからの進路の相談に乗ってやってほしいって、かずとさんにお願いして、かずとさんも、もちろん喜んで引き受けてくれたわ。

で、その日の夜、かずとさんといろいろ話をしたの。
わたしにとって、それまでは、かずとさんって、年の離れたお兄さんって感じしか無くて、それどころか、じんくんが杉澤の実家から厄介者扱いされてる原因みたいに思っていたから、どちらかというと煙たい存在だったのよね。

でも、ふたりだけで話してみたら、とっても暖かくて、頼りになる優しい人だったのよ。だから、なんだか安心して、いろいろ話しちゃってね。
で、話している途中で、わたし、突然泣き出しちゃったのよ。そして、泣きながら、じんくんのことを相談したの。

そうしたら、かずとさん、何も言わず、やさしくわたしの肩を抱いてくれたのよ。
あとから聞いたんだけど、かずとさんも、それまではわたしのこと特に何とも思ってなくて、わたしのこと意識しはじめたのは、その時からだったんだって。
まあ、ともかく、そんなわけで、かずとさんの助言もあって、わたしは学園を卒業したらすぐに実家を出たわ。じんくんから逃げるためにね。

そしてそのあと、わたしが専門学校に行っているときも、かずとさん、何かとわたしの心配をしてくれた。
そして、ある時、わたし、かずとさんから泊まりがけでスキーに誘われたの。
最初は、いつも一緒に行ってる、かずとさんのお友達と一緒だと思ってたんだけど、どうも様子がおかしいのよ。で、聞いたら、ふたりだけでって言うから、これは、そう言うことかなって思ってたら、見事にその通りだったの。で、連れてこられたのが、このペンションだったのよ。

あとから聞いたんだけどね。このペンションって、学生さんとかのスキー合宿用に、安い部屋があるのよね。それで、かずとさん、学生の頃は、もちろんそんなにお金ないから、冬になると休みのたびに、お友達を強引に誘って、そのお友達の車に乗せてもらって、ここに泊まってはスキーをやってたらしいのよ。

で、そのころから、このペンションのケーキって評判になってたんですって。
だから、当時、かずとさんの友だちのあいだで言われてた「女の子を口説く必勝パターン」って言うのが、このペンションの一番高い2人部屋で、その娘と一緒に特注のケーキを食べるって言うことだったらしいのよ。

ふふふ。かずとさんって、どこから見てもパーフェクトって感じの人だったけど、こういうことには本当に疎かったのよね。
もちろん、そんな必勝パターン、わたしは知らなかったけど、でも、こういうことって、なんとなく雰囲気で分かるじゃない。

わたしもそのときには、かずとさんのことが本当に好きになっていたから、すぐにでも返事したかった。でもね、やっぱりそのときになると、どうしても、じんくんのことが頭に浮かんで来ちゃうのよね。そうしたら、かずとさん、何て言ったと思う?「仁の代わりでもいいよ」ですって。
だから、さすがにわたしも、ちょっとあきれちゃって、「わたしにプロポーズするんじゃなかったの?」って言ったら、かずとさん、「それがプロポーズの言葉なんだけど」だって。
そのとき、わたし、つくづく思ったのよ。わたしは、かずとさんと結婚するしかないのかなってね。

結局、その夜は返事できなくてね。そうしたら、かずとさん、わたしの手を握って、「急がないから、その気になったら返事くれればいいよ」って言って、結局、それ以上は求めてこなかった。

その、プロポーズされたのが、さっきまでわたし達が飲んでた部屋よ」


玲愛は、それまでじっと恵麻を見つめたまま静かに話を聞いていたが、それを聞いてちょっと視線を落とし、湯船の中でゆらゆら動かしている自分の足に視線を向けた。
そんな玲愛を、恵麻は微笑みながら見つめていたが、やがて話を続けた。

「かずとさんが亡くなったときは、本当に何も考えられなかった。って言うか、何も考えないようにしていた。って言った方が正しいわね。
ともかく、朝から晩までファミーユでケーキを焼いて、自分で自分を忙しくして、何とか考えないようにしていたの。

そんなことしてたから、きっと神様が怒ったんでしょうね。あ、かずとさんが怒ったんじゃないと思うわ。だって、かずとさん、わたしには檄甘だったんだから」

そこまで話すと、恵麻はちょっと目を伏せ、手のひらでお湯をバチャバチャと自分の肩から首筋に、何回か掛けた。そして、しばらくして、ふたたび口を開いた。

「火事のあと、わたし何を考えたと思う?・・・これで、かずとさんが帰ってくる。って。
だって、かずとさんの代わりがファミーユだったんだから、そのファミーユが無くなったのなら、かずとさんが帰ってくるはずだ。ってね。

だから、何日も何日も、かずとさんを待ったの。・・・まあ、本当は、ほんの1日か2日だったんだけどね。
もちろん、かずとさんは帰ってこなかった。でも、わたしが一生懸命に呼んでたら、かずとさん、帰ってきたのよ。だって、かずとさんのにおい・・・タバコのにおいがしたんだから」

「タバコって・・・そうだったんですか・・・」

思わず独り言のようにつぶやいた玲愛に、恵麻は少し微笑んでうなずいた。

「かずとさんの腕の中で、わたし、ようやく安心して眠れたわ。
でも、目覚めてから気がついたんだけど、かずとさん、とってもじんくんに似てたのよ。で、そのうちに、わたし、かずとさんの腕の中にいるのか、じんくんの腕の中にいるのか、分からなくなってきてね。

そんな日が何日か続いて、ようやく我に返って、自分がどういうことをしていたのか分かったのよ。
そのときほど、自分で自分が嫌になった事はなかった。わたし、かずとさんをじんくんの代わりにして、じんくんをかずとさんの代わりにしてたのよ。

それからは、まあ、さすがに自分が許せなくて、何とかじんくんから距離を置こうと思ってね。
そして、どうにか距離を取れて、普通の仲の良い姉弟になれたかな?って思ってた、そんな時に出てきたのが、ブリックモールの話だったのよ。

わたしがブリックモール出店に反対したのって、もちろん採算とかの事もあったんだけど、じんくんと一緒に働くのが怖かった。ってのもあったの。
でも、じんくん、わたしやリカちゃんに反対されたのに、結局ファミーユを再開しちゃったのよね。それを知ったとき、本当はとっても嬉しかったのよ。じんくんが、わたしのためにファミーユを再開してくれたんだって。そこまでわたしの事を思っててくれたんだって。
でも、本当は、それって単にわたしの思い込みだったみたいだけどね。

で、それからあとは、玲愛ちゃんも知っての通りよ」



Chap.37
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−第三十七章 −恵麻と玲愛 その4−

恵麻の話が終わっても、少しのあいだ、2人とも無言のまま動こうとしなかった。

しばらくして、恵麻が湯船から立ち上がると、玲愛の座っている平らな石の一つ隣の石に、その背中を預けるようにして座り、星空を見つめながら言った。

「ねえ、玲愛ちゃん」
「はい」
「もうひとつだけ、聞いてもいいかしら?」
「ええ」

「玲愛ちゃんって、じんくんのこと、どう思っているのかしら?」
「え?」
「ううん。そうじゃないな。質問を変えるわね。玲愛ちゃんにとって、じんくんって、何なのかな?って」

恵麻の問いに、玲愛は何も言わず、ふたたび肩まで湯船に沈むと、恵麻にならって星空を眺めていたが、やがて、ぽつりと言った。

「・・・空気・・・かな」

その言葉を聞いて、恵麻が意外そうな顔をして玲愛を見つめた。

「空気?」
「・・・はい」
「それって・・・ほめ言葉じゃないわよね?どちらかっていうと、悪く言う言葉じゃない?」
「いえ・・・あの、わたしにとって、ひとしって、意識しなくてもあたりまえに身近に居てくれて、いつもわたしを包んでくれてるんです」
「・・・」

「だから、もし、ひとしが居なかったら、わたし・・・窒息しちゃうんじゃないのかなって」
「ふーん・・・そうなの」
「えっと・・・はい」

そう言うと玲愛は、ちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめ、視線を下げてうつむいてしまった。
恵麻は、そんな玲愛を少し微笑んだまま見つめていたが、やがて、ちょっと寂しそうな表情になると、小さな声で言った。

「玲愛ちゃんが・・・ちょっと、うらやましいかな?」
「え?」
「かずとさんは、空気になる前に、わたしの前から居なくなっちゃったから」
「・・・」

「ふう。すっかり長湯しちゃったわね。そろそろ出よっか」
「あ、はい」



2人は脱衣所に戻ると、お互い背中を向け、黙ったままで衣類を着ていった。

ゆかたを着終わった玲愛が、鏡を見ながらドライヤーで髪を乾かしていると、恵麻が鏡越しに微笑んで玲愛に言った。

「ねえ、玲愛ちゃん」
「はい?」

突然言葉を掛けられた玲愛は、あわててドライヤーのスイッチを切って、恵麻に向き直った。

「あのね、玲愛ちゃん。お願いがあるんだけど」
「はい」

「わたしのことは・・・まだ、お姉さんって呼ばないでほしいの」
「・・・え?」
「あ、誤解しないでね。あなた達ふたりのこと、反対してるわけじゃないのよ。でも・・・もうちょっとだけ、時間が欲しいのよ」
「・・・はい。わかりました」
「ありがとう。玲愛ちゃん・・・いつかは分からないけど、わたしも呼んでもらえるように、努力するから。ね?」

そう言うと恵麻は、玲愛に向かって、とびきりの笑顔で微笑みかけた。

玲愛は、そんな恵麻に小さくうなずいたが、すぐに視線を外した。そして、少しうつむいたまま言った。

「あの・・・さっき恵麻さんの言ってた、ひとしがファミーユを再建した理由ですけど」
「え?」
「ひとしは、ああ言ってましたけど、やっぱり、恵麻さんのために再建したっていうのが大きいんじゃないかって、わたしは思います」

「・・・ありがとう、玲愛ちゃん」




恵麻と玲愛が三階でエレベーターを降りると、薄暗い廊下の奥で、恵麻の部屋の前に座っていた黒い影がモゾモゾと立ち上がった。

「・・・じんくん、よね?どうしたの」
「どうしたのじゃないよ、姉さん。部屋から閉め出しておいてさあ」
「あら。自分の泊まってる部屋に戻るんじゃなかったの?」
「その部屋のカギは、この部屋の中なんだけど」

それを聞いて、恵麻と玲愛は思わず顔を見合わせ、小さな声でクスクス笑い出した。

「あのねえ、ふたりとも。笑い事じゃないよ・・・」
「だってねえ・・・でも、じんくん。どうして、こんなところで待ってたのよ」
「まあ、こんな時間に行く所って言ったら露天風呂くらいかなあって思って、じつはちょっと行ってみたんだよ。そうしたら何だか、ふたりで話し込んでるみたいだったから、そのままこっちに来てたんだけど」
「なーんだ。じんくん、のぞきに来たのなら、一緒に入れば良かったのに」
「人聞きの悪いこと言わないでくださいっ!露天風呂の女湯と男湯は隣だから、様子を見に男湯に行っただけです!だいたい俺に女湯に入れって言うんですか?」
「そんなこと、かまわないわよ。ねえ、玲愛ちゃん」
「弟を恥ずかしい犯罪者にしたいんですかっ!」

「そんなことより、じんくん。その右手に持ってるものは何なのかな?」
「・・・見れば分かるでしょ。缶ビールです」
「んふふー。ねえ、じんくん。姉ちゃん、お風呂に入ってノド乾いちゃったのよ」
「へえ。そうですか」
「もうー、じんくんの、いじわるー。そっちのコンビニ袋の中にも入ってるじゃない」
「まことに残念ながら、ビールは2本しか買ってございません」
「えー?もしかして、姉ちゃんの分って無いの?」
「だからあ!自分たちの部屋に戻るつもりだったから、俺と玲愛の分しか無いの!」
「あっそ。じんくん、冷たいんだから。えーい、こうしてやる!」

言うが早いか、恵麻は仁の手から缶ビールをひょいとかすめ取るように取り上げると、そのまま一気に飲み干した。

「あっ!ちょっと姉さん!何てことするんだよ!」
「んふふー。じんくんと、間接キッス、しちゃった」
「あ、あのねえ」
「あははは。だいじょうぶよ。部屋の中の冷蔵庫に缶ビールの買い置きがあるから。一緒に飲みましょ。ね?玲愛ちゃん」
「え?あ、はい」
「お、おい、まだ飲むのかよ・・・」

恵麻と玲愛を交互に見た仁は、あきれたようにため息をついた。
恵麻は、そんな仁にニッコリ微笑むと、部屋のカギを取り出してドアに差し込もうとしたが、思い直したように仁に向かって振り向いた。

「ねえ、じんくん。ひとつ聞いてもいい?」
「・・・なんだよ」
「じんくんにとって、玲愛ちゃんって何なのかしら?」

それを聞いた瞬間、玲愛が「あっ」と小さな声を上げてアセった顔になったが、仁はそれに気付かず恵麻の問いに答えた。

「俺にとって玲愛は、まあ、空気みたいなものかな。何て言うか、いつでも俺の横にいて、それが、あたりまえって言うか・・・・姉さん。なに爆笑してるんだよ」
「あははは。あー、おかしい」
「はあ?・・・で、玲愛。なんで俺のこと、にらんでるんだ?」
「ふふふ。ほらほら、ふたりとも。入って入って。もう今夜は徹夜で飲むわよ。いいでしょ?」

そう言うと、恵麻はまだクスクス笑いながら部屋のドアを開け、ふたりを招き入れた。



Chap.38
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−第三十八章 −ペンションの朝 恵麻の場合−

翌日。東の空は白み始めているものの、朝と言うにはまだ早い時間。

ペンション・ファミーユの三階、ペントハウスの一室では、板張りの床に敷かれたカーペットの上で、恵麻が静かに身を起こした。
電気の消された部屋の中は、もちろんまだ暗かったが、東向きの窓のカーテンが開け放されていたため、ある程度の明るさは確保されていた。

そんななか、恵麻はゆっくりと立ち上がると、電気はつけずに薄暗い中で部屋を見回した。
部屋の少し壁に寄った、床とカーペットの境界上には、仰向けになったままの仁が、Tシャツのお腹の部分をまくり上げたまま、少し寝息を立てて眠っていた。そして、そのすぐ横には、ゆかた姿の玲愛が、丸まるようにして小さくなったまま、すやすやと寝息を立てていた。

そんなふたりを見て、恵麻は小さくクスッと笑うと、音を立てないように注意しながら部屋のクローゼットを開いた。そして、自分の服とハンドバッグを取り出し、それを持ったまま静かに廊下に出て行った。




ペンション・ファミーユの主人は、自分で焼き上げたばかりの沢山のクロワッサンの中から1つを取り上げると、そのままパクッとかじって満足そうにうなずいた。
そして、お皿にいくつかのクロワッサンを載せ、食堂内のテーブルのうち、いちばん厨房に近いテーブルにそれを持ってきて座り、新聞を読みながらクロワッサンをパクパク食べ始めた。

もちろん、こんな事をしている余裕があるのは、お客さんが少ないからである。スキーシーズンや夏休み期間などは、朝から厨房は戦場になるのだった。
だから、毎日こんな余裕があったら、逆に今度はペンションの経営上大問題になるのだが、彼はこうして焼きたてのクロワッサンを食べながら新聞を読むのが大好きだった。

もともと彼は、都内で製造業関係のサラリーマンをしていたのだが、趣味のケーキ作りが高じて、子供の独立を機会に脱サラし、ここの隣町である奥さんの実家の近くで、パンとケーキの店を開いたのである。
その店は、味が評判になり固定客もそこそこ付いたが、悲しいことに小さな町だったため、売り上げ的には十分でなく、苦しい経営が続いた。
そんななか、ペンション・ファミーユの先代のオーナーが店の評判を聞きつけ、店にパンとケーキを食べに来て、すっかり味に惚れ込んだのであった。そして、彼が店をたたむことを考えている事を知ると、ペンションの厨房に来るように強く誘った。

結局、彼は先代の強い説得に負けて、自分の店をたたみ、このペンションで働くようになった。その結果、このペンションはパンとケーキが評判になり、これを目当てにリピーターになったお客さんも数多くいたのだった。
そして、それは近所のペンションでも評判になり、彼のパンとケーキは他所のペンションなどでも売られるようになったのである。

その後、何年か経ったところで、先代のオーナーが「年齢的に厳しいから楽隠居させてくれ」と言いだし、彼にペンションを譲って自分は第一線から退いてしまった。
それ以降、彼はペンション・ファミーユの主人として、このペンションを守ってきたのであった。


その朝、彼は3つ目のクロワッサンに手を伸ばしたところで、静かに食堂に入ってくる人影に気付いた。

「おや、杉澤さん。おはようございます。今日はずいぶん早いですね」
「おはようございます」

恵麻は、微笑んで軽く会釈をすると、主人の座っているテーブルのすぐ横まで歩いてきて言った。

「あの、急な話で申しわけないんですけど、大至急、家に帰らなくてはならなくなりまして」
「え?おや、そうですか」
「はい。本当に申しわけありません」

「そうですか・・・では、前金で頂いている分を急いで精算しますから、ちょっと待っててくださいね」
「いえ、こちらの都合でキャンセルしてご迷惑をお掛けするんですから、前金はお返しいただかなくても結構ですわ」
「いやいや。こんなオフシーズンですから全然迷惑じゃないですよ。すぐに計算しますから」

主人が急いで立ち上がろうとすると、恵麻は軽く手を上げてそれを制した。

「いえ、ごめんなさい。実は、もうタクシー呼んじゃったんです」
「え?あの、杉澤さんのお荷物とかは・・・」
「ええ。あの、弟達が帰るときに持ってこさせますから」
「ああ、そうですか。あ、そうしますと、弟さんと妹さんには、もうお会いになったんですか?」
「ええ、きのうの夜」
「そうでしたか」
「はい。久しぶりに3人で楽しい時を過ごすことができましたわ」
「それは良かったですな」

「あ、それで、ふたりともちょっと飲み過ぎたみたいで、まだ私の部屋で寝ていますので、しばらくそのままにしておいていただけませんか?」
「ええ、かまいませんよ」

「でも、まさかふたりで、ここまで来るなんて思ってなかったから、本当に驚きました」
「あ、いや。なんでも杉澤さんを驚かすんで、ふたりが来ることを黙っていてくれってお願いされてましてねえ。黙っていて、すみませんでした」
「いいえ、ご主人のせいじゃありませんもの。気にしないでください」
「そう言っていただきますと助かりますよ。しかし、良い弟さんと妹さんですな」
「ええ・・・姉の私が言うのもおかしいんですけど、ふたりともよい子なんですよ。本当に」

「そうだ。そうしたら、杉澤さんのお会計の精算、弟さんに持って行っていただきましょうか?」
「え?それは・・・そうですね。それでしたら、お言葉に甘えてお願いしていいですか?」
「わかりました。そう言っていただけますと、私としても気が楽になって助かりますよ」
「すみません。それで、ひとつお願いがあるんですが」
「はい?」
「あの、そのお金、わたしから弟達へのお小遣いということにしてもらえませんか?」
「わかりました。いやー、いいお姉さんを持って、弟さん達は幸せですなあ」
「そんな、本当は全然いい姉じゃないんですよ。わたし・・・」

そう言って少しうつむいた恵麻に、主人はちょっと怪訝そうな表情になったが、すぐに思い直したようにポンと手を叩いて言った。

「あ、そうだ、杉澤さん。せっかくですから、クロワッサン包みましょうか?帰りの道中で召し上がっていってくださいな」
「え?そうですか。それじゃ、お言葉に甘えちゃっていいですか?こんなおいしいクロワッサン、よそでは食べられませんから」

それを聞いて主人は嬉しそうな顔になり、厨房に戻ると、紙のパックに焼きたてのクロワッサンやらモーニングロールやら、付け合わせのクレソンやらを詰め始めた。
主人がバタバタしているのを見ながら、恵麻は自分の携帯を取り出すと、何回かボタンを押して自分の耳に当てた。

「・・・もしもし、朝早くからごめんなさい。恵麻です。ええ。杉澤の。・・・はい。
ええ、この時間なら、まだ家にいるかと思って。・・・ええ。
あの、ごめんなさい。実は、ちょっと無理なお願いをしたいんですけど・・・」

主人が紙パックを2つ持って出てきたのと、恵麻が携帯の話を終えたのは、ほぼ同時だった。

「杉澤さん。これ、朝食用とおやつ用に。良かったら、お持ちください」
「まあ、すみません。何から何までお世話になりました」
「いえいえ、こちらこそ。あの、スキーシーズンと夏休みの時期以外は空いてますから。またぜひ、いらしてくださいね」
「はい。また、ぜひ」

そう言うと、恵麻はニッコリ微笑み、名残を惜しむ主人に小さく手を振って、ペンションのドアを開けた。

外は、梅雨とは思えない青い空が、朝日の中で広がっていた。



Chap.39
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−第三十九章 −ペンションの朝 仁と玲愛の場合 その1−

玲愛が目覚めたときは、太陽はすっかり空高く昇っていた。

玲愛は上半身だけ起き上がると、両手でちょっと目をこすり、小さく伸びをして、何気なく右手で髪を掻き上げ、髪の毛がボサボサになっているのに気付くと、ちょっと顔をしかめた。
そして、手で髪の毛を撫でつけながら、隣でまだぐっすり眠っている仁を見つめ、少し微笑んだ。
そのあと、部屋の中をボンヤリ見回し、窓から強い日光が差し込んでいることに気付き、ちょっとあわてた様子でもう一度部屋の中を見回し、壁に掛かっている時計を見ると、あわてて仁の肩を叩いた。

「ひとし。ひとしってば!」
「うーん・・・んだよ・・・」
「ひとし。おはよ。朝だよ。起きて!」
「うー・・・もう朝か・・・」

「おはよ。ひとし」
「おう。おはよう・・・ふぁーあ」
「ほら、もうこんな時間だよ」
「うー・・・頭いてー・・・」
「なによ。また二日酔い?」
「うー・・・姉さんもおまえも本当に酒強いな・・・あれ?姉さんは?」
「さあ・・・わたしも起きたばかりだから・・・」
「シャワーでも浴びてるのかな?」
「それは無いんじゃない?水の音、聞こえないし」
「そうか・・・うー・・・」
「ねえ、ちょっと洗面所借りていいかな?」
「ああ、かまわないだろ」
「じゃあ、ちょっと借りるね」

そう言うと玲愛は立ち上がり、ポシェットを持って部屋から出て行った。
それを見送った仁は、ドアが閉まるとすぐに床のカーペットの上に突っ伏すように寝転がってしまった。
だが、寝転がった仁がふたたび睡魔の軍門に降ろうとした瞬間、あわてた様子の玲愛がドアから部屋の中に飛び込んできた。

「ひとし!これ見て!」

そう言うと玲愛は、まだボンヤリしている仁の目の前に一枚の紙を突きつけた。

その紙は、昨夜三人で飲んだ地酒の箱を包んでいた包装紙で、その裏面には恵麻の少し丸っこい字がボールペンで書かれていた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−

じんくん、玲愛ちゃん。おはよう。

さっそくだけど、前回の月例会、わたしがメチャクチャにしちゃったから、おわびに今晩、やり直しの月例会をやりたいの。

前回の幹事はじんくんだったから、今回は姉ちゃんが幹事ね。

場所とかはまだ決まってないけど、あとからじんくんの携帯にメールするから。電源入れておいてね。

じゃあね。

恵麻

追伸 姉ちゃん先に帰るから。悪いけど姉ちゃんの荷物、じんくん持ってきてね。お願い。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−


読み終わった仁は、しばらくボーッと紙を見ていたが、やがて玲愛と顔を見合わせると大きくため息をついた。
玲愛が、ちらっと上目遣いに仁を見て、ちょっと遠慮がちに言った。

「これ、そこを出たところに、この部屋のカギと一緒に置いてあったんだ」
「はあ・・・姉さん、なに考えてるんだよ・・・」
「ねえ、どうする?ひとし」
「ああ・・・とりあえず、一度おれたちの部屋に戻ろう。おまえもシャワー浴びたいだろ?」
「うん。わかった」



ふたりが一階でエレベーターを降りると、ちょうどペンションを出発するお客様を主人が送り出しているところだった。
若いカップルらしいお客様が、ドアに付けられた大きなベルをガラガラ鳴らしながら出ていったのを見送って、後ろを振り返った主人は、ふたりに気付くと軽く手を上げて近づいてきて、仁に頭を下げながら言った。

「おはようございます。どうでした。ゆっくりお休みいただけましたか?」
「あ、おはようございます」
「それはそうと、お姉さん残念でしたね。せっかくおふたりが見えたのに、急に用事ができて」
「え?あ、そうですねえ。あ、あはは」
「でも、とっても喜んでおられましたよ。久しぶりに3人で楽しい時を過ごすことができたって」
「そう・・・ですか」
「ええ」

「あ、それで、まだ姉さんの部屋、片付けてないんで、顔を洗ったらすぐに片付けますから」
「いやいや。部屋のほうはチェックアウトの時間に多少遅れてもかまいませんから。そのかわりと言っては何ですが、朝食を先に済ませていただいてよろしいですか?」
「あ、はい」


ふたりが食堂の前を通りかかると、中はガランとしていて、年配の夫婦らしいふたりが出発の準備を終えてお茶を飲んでいるだけだった。

「玲愛。俺たちが最後みたいだから、ご飯済ませちゃおう」
「え?でも、わたし、顔も洗ってないよ」
「だいじょうぶだって。誰も見てないし。それに俺たちが朝食を済ませちゃわないと、厨房の人も待ってなくちゃならないだろ」
「あ・・・うん。そうだね」

食堂に入っていって、入り口で朝食の載ったトレイを渡されたふたりは、手近なテーブルの上にトレイを置くと向かい合わせに座った。

「ねえ、ひとし。月例会って7時ころからだよね」
「ああ。たぶん、そんなもんだろ」
「場所が分からないけど、うちのマンションから月例会の会場まで1時間として・・・」
「まあ、そんなに急がなくてもだいじょうぶだろ。こっちで観光してるほどの余裕は無いけどな」
「問題は仙台までの電車よ。あまり本数が無かったから・・・あっ」

話をしながらクロワッサンをひとくち食べた玲愛が、思わず小さな声を上げた。
同じくクロワッサンをかじった仁が、ぼそっとつぶやいた。

「これ・・・すごく美味いな」
「うん・・・そうだね」

それだけ言うと、ふたりとも黙ったまま食事を続けた。

食事が終わって、ふたりで無言のまま紅茶を飲みながら少しポケッとしていると、封筒を持った主人が食堂に入ってきた。

「おや。おふたりとも、こちらでしたか」
「あ、どうも。ごちそうさまでした」
「あの、すごく美味しかったです。こんな美味しいクロワッサン、初めて食べました」

玲愛が言うと、主人は嬉しそうにうなずいた。

「そうですか。気に入っていただけて何よりです」
「それに、この紅茶も、とっても美味しくて、このクロワッサンにぴったり合ってます。あの、これ、オリジナルのブレンドですか?」
「ほう。分かりますか?」

玲愛の言葉に、主人はますます嬉しそうな顔になった。

「いやあ、嬉しいです。そこまでお分かりいただけた方は、あまりいらっしゃらないんですよ。実はですねえ・・・」

そう言うと、主人は紅茶のブレンドについて詳しく説明をはじめた。

しばらくして説明が一段落したところで、主人は時計を見てあわてて言った。

「あ、すみません。つい嬉しくて長話をしまして」
「いえ。とてもおもしろかったです」
「それでですねえ、こちらなんですが。じつは、杉澤さんから頼まれまして・・・」

言いながら主人は、お金の入った封筒を取り出し、今朝のいきさつを説明した。

「はあ。これを姉さんが・・・」
「はい。それで、すみませんが、こちらの受け取りにサインをお願いしたいんですが」
「わかりました」

仁がサインをすると、主人はお礼を言ってそれを受け取った。

「はい、確かに。あ、それから、おふたりのお部屋と杉澤さんのお部屋の掃除は最後にしますから。チェックアウトの時間は気にしないで、ゆっくりしていってください」
「すみません。なるべく早く片付けますので」

恐縮する玲愛にちょっと微笑むと、主人は食堂を出て行った。

ふたりきりになったところで、仁が封筒の中をのぞきこんでいった。

「すげー。いったいあの部屋の宿泊料って、一泊いくらなんだよ」
「それはそうよ。だって、一世一代の大告白をするっていう部屋なのよ?あまり安い部屋じゃ重みがないじゃない」
「はあ?なんだよ、それ」
「あ・・・え、えっと・・・」

玲愛が口ごもっていると、突然、仁の携帯から小さなメロディが流れてきた。

「あ、ひとし。メール」
「おう」

仁があわてて携帯を取りだし、メールを画面に表示した。



Chap.40
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−第四十章 −ペンションの朝 仁と玲愛の場合 その2−

−−−−−−−−−−

From:恵麻
Sub:月例会の会場

ポセイドンホテルの最上階のレストランで7:00から
電話番号は03×−××××−××××

ふたりとも、めいっぱいオシャレしてきてね(はぁと)

恵麻

−−−−−−−−−−


チカチカとアニメーションする絵文字がちりばめられたメールを読み終わると、ふたりはしばらく顔を見合わせていたが、やがて仁があわてて携帯のボタンを操作して耳に当てた。
しかし、しばらくすると携帯を耳から離して言った。

「姉さん、メール送ったらすぐに電源切りゃがったな・・・」
「そう・・・ねえ、ポセイドンホテルって、ひとし知ってる?」
「さあ・・・あ、でも、どこかで聞いたことがあるような・・・」

仁が考え込んでいる横で、玲愛は自分の携帯を取りだすと、検索サイトからホテルを探し出した。

「あ、ここだ。電話番号も合ってるし」
「ふーん・・・やっぱり俺は行ったことないな」
「そう。・・・ねえ、ここって、どうやって行けばいいんだろ」

ホテルの案内サイトの地図は、携帯の小さな画面では非常に分かりにくかった。玲愛が苦労してそれを見ていると、急に仁が大声を出した。

「あ、思い出した」
「な、なによ。急に大声出して」
「ほら、かすりさんが最初にコンクールで賞を取ったとき、確かコンクールの会場がポセイドンホテルじゃなかったか?」(注1
「そう言えば、板橋店長がそんなこと言ってたわね」
「なら、かすりさんなら場所知ってるだろ」

そう言うと仁は、ふたたび携帯を操作すると耳に当てた。だが、すぐにそれを耳から離した。

「ダメだ。かすりさんも電源切ってる」
「そっか。かすりさん、3号店のシェフ・パティシエールになってから、厨房に入ってるときは必ず携帯切ってるから」
「そうしたら板橋店長に聞いてみよう。玲愛、携帯の番号知ってるだろ?」
「えー?」
「そんなに露骨にイヤな顔しないでさあ」
「だいじょうぶだって。この地図でも、だいたいは分かったし」
「そんなこと言わないで、玲愛、頼むよ」
「もう・・・あの店長が絡むと、ろくなことにならないわよ」

玲愛は、なおもブツブツ言っていたが、やがて渋々携帯を操作して耳に当てた。

「あ、おはようございます。板橋店長ですか?」
『おや、カトレア君。君から電話なんて珍しいねえ。高村店長が浮気でもしたのかい?』
「あのっ!ちょっと教えていただきたいんですけど、板橋店長はポセイドンホテルってご存じですか?」
『知ってるけど。それがどうかしたの?』
「はい。じつは・・・」

玲愛が簡単にいきさつを話すと、板橋店長は納得したようで、玲愛に場所を説明した。

『だいたいそんなところだけど、どう?メモは取れた?』
「はい。どうもお手間を取らせました。じゃあ、これで・・・」
『あ、ちょっと。カトレア君』
「はい?」
『その会場って言うのは、最上階のレストランじゃないだろうね?』
「え?そうですけど・・・それがなにか?」
『それは大変だよ』
「え?」

『あそこは、確かドレスコードがあったはずだよ』
「はい?」
『高村店長はスーツでいいと思うけど、君はイブニングドレスかなにか持ってるかい?』
「え・・・それって・・・」
『まあ、がんばってね。ふたりとも。・・・でも不思議だなあ』
「何がですか?」
『あそこのレストランって、そんなに簡単に予約取れるものじゃないんだけどなあ』


携帯を切った玲愛は、仁に簡単に内容を話すと、困ったように言った。

「どうしよう・・・ドレスなんて、今のわたし達の部屋には置いてないよ」
「帰りにおまえの家に寄って持ってくればいいじゃないか」
「無理だよ。すごく大回りになっちゃうから、そんな時間は無いよ・・・あ、そうか」

玲愛はふたたび携帯のボタンを何回か押して、自分の耳に当てた。

「もしもし、姉さん?」
『玲愛ちゃん?どうしたの?こんな時間に』
「あのね、お願いがあるんだけど、いま時間ある?」
『うん。いいよ。なに?』
「姉さん、これから実家に行って、わたしの部屋からドレスを持ってきてほしいんだけど」
『え?それは無理だよ。これから指導教授のレッスンがあるんだ』
「じゃ、じゃあ、それが終わってからでいいから」
『いいけど・・・持っていくの夜中になっちゃうよ。それでもいい?』
「え?」
『ほら、おうちまで往復で半日くらいかかるから、こっちが終わってからだと、そのくらいになっちゃうよ』
「そう・・・どうしよう・・・」
『玲愛ちゃん。いったいどうしたの?』
「うん。じつはね・・・」

玲愛がいきさつを説明すると、由飛が言った。

『それなら簡単だよ。わたしのドレス貸してあげる』
「姉さんのドレス?・・・あの、まさか、ステージ用じゃ・・・」
『ちがうよ。演奏会の打ち上げとかで使うドレス、何着か置いてあるから』
「でも、姉さんのじゃ、サイズが・・・」
『だいじょうぶじゃない?わたしたち身長も同じくらいだし。胸の部分だけコサージュで誤魔化せば、何とかなるよ』
「・・・・・・」

『あ、そうしたら、そっちから帰ってきたら、ふたりでわたしの部屋に来て、着替えてから一緒にホテルに行くといいよ。そのホテルって、わたしのマンションからのほうが近いでしょ』
「う、うん。わかった。ありがとう、姉さん」


携帯を切った玲愛が、仁に簡単に話の内容を伝えた。

「そうか。いちど俺のマンションまで戻ってから由飛のマンションまで行くとなると、ちょっと急がないといけないな」
「うん。じゃあ、これ片付けちゃうよ?ひとしも、もういいよね?」

言いながら玲愛は、食べ終わった朝食のトレイを片付け始めた。

ふたりは恵麻の部屋から直接食堂に来たため、あいかわらず玲愛は恵麻の部屋のゆかたを着たままだった。
その玲愛が、仁のトレイを片付けるため、机の上に前かがみになるように仁に向かって身を乗り出したため、ちょうど玲愛のゆかたの胸元が仁の目の前に来ることになった。

「・・・おい、玲愛」
「うん?」
「おまえ、Tシャツ着てないのか?ゆかたの下に」
「・・・なに見てるのよ。って言うか、今まで気がつかなかったの?」
「いや、だっておまえ、ゆかたが着崩れないからなあ。とくに胸のあたりとか」

何げない仁の一言に、仁のトレイを片付けていた玲愛の動きが止まった。

「・・・なんですってぇ?」
「あ、いや。それは・・・」
「どうせ、わたしは恵麻さんや姉さんと違って、ゆかたの胸元は、きっちり合いますよっ!」
「い、いや、だから、和服は胸が無いくらいの方が似合うらしいから・・・」

がしゃん。玲愛がトレイを急に机の上に置いたため、お皿や紅茶カップが少し音を立てた。

「・・・そう。だから、このあいだひとしの実家に行ったとき、あんなにゆかたを着せたがったのね」
「そうじゃないって!そうじゃなくて、母さんも言ってただろ。ちょっと濃い目の地色のゆかたに、おまえの金髪はとっても映えるだろうって」
「おばさまはそう思ってるかもしれないけど、ひとしは胸元のほうが気になるのよね?」
「あのなあ。俺だって、おまえのゆかた姿、とっても綺麗だろうなって思うぞ。まあ、いま着てるゆかたも、それはそれで、かわいいけどな」
「な、なによ、それ」

「ほら、母さん言ってただろ。今年の夏、おまえのゆかたを作って待ってるって。俺だって、すごく楽しみにしてるんだ」
「・・・あっそ」

冷たく返事をすると、玲愛は急に厨房の方向に顔を向け、厨房の窓口から何ごとかと顔を出しているパートらしい数人の女性達に向かって、ニッコリ笑って言った。

「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」

そして、軽く頭を下げた玲愛は、改めて仁に向き直った。

「わたし、このカッコじゃ片付けもできないから、顔を洗って着替えてくるね。それのほうが、ひとしも胸元が気にならなくていいでしょ?」
「あのなあ・・・」
「だから、このトレイ、ひとしが片付けておいてね?」

そう言うと、トレイを仁のほうに押しやりながらニッコリ笑い、急いで食堂から出て行った。
かくして、ひとり残された仁は、厨房の女性達の視線を一身に浴びながら、あわててトレイを片付けるのだった。

注1:かすりさんの最初のコンクールにつきましては、「かすりの物語 あるいは 明日香の物語」の二十一章あたりをご覧ください <戻る>)


Chap.41
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−第四十一章 −あわただしい帰り道−

タクシーが小さな駅前の降車場に停まると同時に、玲愛は自分のポシェットとハンドバッグ、それから、ふたり分の荷物の入った大きめのボストンバッグを持って、タクシーから飛び出るようにして降りた。

「ひとし!おつりもらってきてね。わたしは先に行って切符買ってるから」
「ああ、わかった」

仁は返事をすると自分もタクシーから降りて、運転手と一緒にタクシーのトランクから恵麻の大型のスーツケースやらボストンバッグやらを降ろし、キャスターをガラガラさせながら小走りで駅の中に入っていった。

先に駅に入った玲愛は、切符を二枚買うと、改札の駅員に尋ねた。

「すみません。次の仙台行きはどちらから出ますか?」
「えっと、そこの階段を上がっていったホームになります。時間がないんで急いでくださいね」

玲愛はお礼を言うと、駅の入り口に向かって振り返った。

仁が駅の構内に入っていくと、小さな駅舎の中でひときわ目立つ金髪が、改札の前で仁に向かって手を振りながら言った。

「ひとし!こっち。急いで」
「ああ。わかってるって」

改札を抜けたふたりは、大きな荷物を持て余しながら、通路の階段を上ったり下ったりして、ようやくホームにたどり着いた。

ホームには、何人かの学生や婦人、子供連れの家族らしい団体など、合計で10人くらいの人々が電車を待っていた。
仁が息をゼイゼイ言わせながら、恵麻のスーツケースにもたれ掛かるようにして息を整えていると、同じように少し息を切らしている玲愛が言った。

「ねえ、ひとし。ちょっとお手洗い行ってきてもいい?」
「はぁはぁ。え?無理だろ。時間無いって。トイレなら電車の中にあるだろ?」
「ううん。そうじゃなくて・・・ちょっと髪の毛、直したいのよ」
「はあ?おまえ、だから言っただろ。俺が姉さんの荷物を片付けてるあいだにシャワー浴びてこいって」
「な、なによ。わたしがそんなことしてたら、この電車、乗れなかったわよ!」
「そ、それはそうだけどさ」
「この電車を逃したら次の電車まで1時間以上待たなくちゃいけないのよ!分かってるの?ひとし!」
「わ、悪かったって」
「まったく・・・フン!」

そう言うと玲愛は、髪の毛を気にしながら、ぷいっと横を向いてしまった。
仁は、少しだけヤレヤレという表情を浮かべると、自分と玲愛の間にあるボストンバッグを後ろに動かした。そして玲愛の横に移動すると、腕を玲愛の腰のあたりに回し、少しだけ玲愛を自分の方に引き寄せた。

「・・・なによ。それ」
「悪かった」
「すぐ、そうやってスキンシップで誤魔化すんだから」
「別に誤魔化してるわけじゃないぞ」
「ほんっとに、ひとしって卑怯よね」
「なっ!おまえこそ、そうやって上目遣いでにらむの禁止って、何回も言ってるだろ!」
「はあ?なに言ってんのよ!」
「・・・おまえ、本当は狙ってやってるんじゃないのか?それ」
「なに訳の分かんないこと言ってるのよ。あのねえ、ひとしのほうが背が高いんだから、わたしが上を向くのは当然じゃない。そうでしょ?」
「それは・・・そうだけど・・・」

結局いつものように、それ以上言い返すことができなかった仁は、玲愛の腰のあたりに手をまわしたまま玲愛から視線を外すと、ボンヤリと線路の続く先に視線を向けた。
そんな仁に、玲愛が小さな声で言った。

「・・・あのさ、ひとし」
「なんだよ」
「わたし、ひとしと一緒に居るときは、ちゃんとした格好していたいんだ」
「え?」
「だって、こんな髪の毛ボサボサの女の子を連れてたら、ひとしも恥ずかしいでしょ?」
「おまえ・・・そんなこと考えてたのか」
「そんなことって、わたしにとっては重大なことなの!」
「馬鹿だなあ・・・」
「なっ、なにが馬鹿よ!」
「こんな可愛い女の子と一緒にいて、恥ずかしいなんてこと、あるわけないだろ」
「は、はあ?なに言ってるのよ!」
「だからあ・・・」
「・・・やっぱり、ひとしって卑怯よ。さっきのゆかたの話だって・・・」
「な、何でそうなるんだよ!」
「ひとしにそんなこと言われたら、私が何も言えなくなるの知ってて、そういうこと言うんだから」
「・・・」

結局、黙ったままの仁は、玲愛の腰のあたりに回した手を、ちょっとだけ引き寄せるべく、ちからを加えた。
少しバランスを崩すような形になった玲愛は、そのまま軽く仁に体重を預けてきた。
そんな玲愛に、仁は腰にまわしていた手をそのまま上に滑らせ、玲愛の金髪の下から背中に移動させた。そして、そのまま手を玲愛の肩に滑らせようとして、急に固まってしまった。
中途半端な所で急に動きを止めた仁を、玲愛はちょっと不思議そうな顔で見上げ、仁の視線が玲愛の肩越しにまっすぐ正面を見ているのに気付くと、その視線を追って自分も振り返って後ろを見た。

ふたりのすぐ横では、小学校に入る前くらいの男の子が、ふたりから2メートルほどの距離まで近づいてきていて、ふたりをじーっと見つめていた。そして、その後ろでは、ホームで電車を待っている全員が、ふたりに視線を釘付けにしていたのであった。

すぐに我に返った男の子の母親が、あわてて男の子を連れ戻しに来た。
ほぼ同時に、少し離れたところで主婦らしいふたり組のヒソヒソ声での会話が始まった。

「まあまあ、奥さん。ご覧になりました?」
「ええ。やっぱり欧米の方は、恋愛の表現がオープンですのねえ」

それを聞いて、ふたりはあわてて体を離した。

数秒後。仁はチラッとホームの他の乗客に視線を走らた。だが、仁の希望に反して、あいかわらず皆がふたりを凝視しているのを認識すると、あわてて玲愛に言った。

「そ、そうだ。あのさ、やっぱり、こんなに荷物があると他の人の迷惑になるから、車両の端に乗った方がいいよな?」
「う、うん。そうだね。じゃ、じゃあ、もう少しホームの端のほうで待ってたほうがいいよね?」
「お、おう」

そう言うとふたりは、バタバタとボストンバッグやらスーツケースやらを持ち上げ、ホームの端、すなわち、ふたりを凝視している他の乗客から離れる方向へ移動を始めた。

だが、ふたりが数歩前進したところで、急にふたりの前にひとりの男が立ちふさがった。
そして、あぜんとしているふたりに言った。

「お客様。まことに申しわけありませんが、次の電車は2両編成になりますので、この線より前には停まりません」



ホームの上で皆の視線を集める中、ふたりにとっては無限の時間のように感じたが、電車は正確に1分40秒後にホームに滑り込んだ。

ふたりは電車に乗ると、すぐに運転席の後ろのスペースに荷物を積み上げ、その横のベンチシートに座り込んだ。

「はあ・・・つかれた・・・」

言いながら仁は、走り出した電車の車内をちらっと見回した。

車内は3割くらいの席が埋まっていたが、同じ駅から乗り込んだ乗客はもちろん、今まで電車に乗ってきて退屈していた乗客にとっても、玲愛の容姿は絶好の興味の対象になったようで、同じ車両の半分くらいの乗客が仁と玲愛を見つめることになった。

仁が玲愛を見ると、玲愛も車内の様子を多少なりとも気にしているようだった。
そんな雰囲気を変えるように、仁がポケットからペンションでもらった封筒を取り出した。

「これ、おまえに渡しておくよ。臨時収入ってことで」
「え?でも、恵麻さんに返したほうがいいんじゃないの?」
「かまわないさ。だいたい、今回のことで一番迷惑をこうむってるのは俺たちなんだから。もらっておいてもバチは当たらないって」
「あはは。そうだね」

仁は封筒ごと玲愛に渡そうとして、ふと中をのぞきこんだ。

「あのさ、さっき、おまえ言ってたよな。一世一代の大告白する部屋だって」
「え?う、うん」
「それって・・・兄さんのことなのか?」
「・・・」
「兄さんが姉さんにプロポーズした部屋なんだな?あの部屋」
「・・・うん」
「そっか・・・あのさ」
「え?」

「きのうの夜、俺が居ないときに、姉さんとなに話してたんだ?」
「え?えっと・・・」
「・・・玲愛?」
「・・・ごめん」

「・・・姉さんに口止めされてるのか?」
「ううん。そうじゃないよ。そうじゃないけど、やっぱりこれは、わたしの口からは言うべきことじゃないと思うんだ」
「・・・そっか」
「うん・・・ごめん」

「まあ、玲愛がそう思うんなら、そうなんだろ。無理して話すことは無いよ」
「うん・・・ありがと」

「それより疲れただろ?肩かしてやるから寝ていけよ」
「え?・・・でも・・・」

そう言いながら玲愛は、いまだにふたりに注目している乗客達に目を走らせた。

「俺はかまわないぞ。他人の目なんか気にならないどころか、皆に見せて回りたいくらいだな。俺の彼女は、こんなに美人なんだって」
「はあ?なによそれ。さっきまで思いっきり気にしてたくせに」
「そうだったっけ?」

そう言いながら仁が横に座る玲愛に肩を突き出すと、玲愛はちょっとため息をついて不機嫌そうな顔をしていたが、結局、目を閉じると仁の肩に頭を預けてきた。

「あ、そうだ。玲愛、俺も寝ていくから、おまえの頭の上に俺の頭のせるかもしれないけど、いいよな?」
「どうぞ。お好きなように」

目も開けずに答えた玲愛は、しばらくすると小さな寝息をたてはじめた。

そんな玲愛を横目で見て、仁は少し微笑むと、自分の肩の上の玲愛の頭にそっと自分の頭を預け、自分も静かに目を閉じた。


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