2006年03月26日(日) 主日礼拝メッセージ「選ばれた人々」
聖書箇所 ペテロの手紙第一 1章1節から7節
東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師

聖書(新改訳2版)ペテロの手紙第一 1章1節から7節
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )

1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人人、すなわち、 2 父なる神の予知に従い、御前の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。 3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。 4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられてているのです。 5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。 6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、 7 信仰の試練は火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

メッセージ「選ばれた人々」 東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師

1,導入と主題の提示
 この一年、私が説教を担当するときには、教会というテーマで聖書から聞いてきましたが、今日からは新約聖書ペテロの手紙第一を順を追って少し丁寧に読んでいこうと思います。これまで一度も取り上げたことがない書で、比較的短い書なのでペテロの手紙第一を選びました。
 これは十二弟子の筆頭とも言うべきペテロが書いた手紙です。この手紙は当時迫害にさらされていたクリスチャンたちを励まし、信仰を支えるために書かれました。この書の中心の言葉は、4;12〜13節です。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」この言葉です。
 ペテロがこの手紙を書いたのは、紀元63年頃、ローマに居た時であったと推測されています。当時ローマ帝国を支配していたのは、キリスト教徒たちを迫害したことで悪名の高いネロという皇帝でした。伝説によるとペテロはこの手紙を書いて間もなく、ネロの手によって殉教したと伝えられています。「クオ・ヴァディス」という何回か映画化された作品があります。ポーランドのノーベル賞作家シェーンキー・ヴィッチの書いたものです。
 これはローマで過酷な迫害に耐えながら信仰を守るキリスト教徒たちの世界が主人公たちの恋物語を軸に生き生きと描かれている物語です。その終わりの方でペテロについてのこんなシーンがあります。
 ローマでキリスト教徒たちへの迫害がますますひどくなります。信徒たちは年老いたペテロの身を案じてローマを去ってもっと安全なところで自分たちを指導して欲しいと願います。ペテロはそれを拒みますが、再三の説得にローマを離れることにします。その途上に復活の主がペテロの前に現われます。著者はその情景を次の様に書いています。「ペテロは片手で目をかざしながら言った。誰かが光の中を歩いてくる。従者の少年はびっくりして見た。ラビ、あなたは何を見ておられるのですか。突然ペテロは地面にひざまずき、手を前方に上げて叫んだ。「クオ ヴァディス ドミネ」(主よ。どこに行かれるのですか)少年には聞こえなかったが、ペテロの耳にははっきりと主の答えが聞こえた。「あなたが私の民を見捨てるならわたしは、ローマに行ってもう一度十字架に架かろう。」ペテロは声もなく、身動きもしないで地に伏せていた。しばらくの沈黙の後、ペテロは立ち上がり震える手で杖を取り上げ、ローマへ顔を向けたのであった。」そう記されています。
 これは、ペテロがローマで逆さ十字架に架けられて殉教したという言い伝えに基づいた著者の創作でしょう。しかし、復活の主は、ペテロにこう予告されていました。ヨハネ21;18「あなたは若かったときには、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし、年を取ると、・・ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れていきます。」
 これはペテロの殉教の予告です。主はそう言われてから、彼に「わたしに従って来なさい」と言われたのでした。ペテロは、迫害の中を最後まで主に従い通いました。ペテロの手紙はそういうところから生み出されたのです。
 先程は、Tペテロ1章1〜7節を読みましたが、今日は1節と2節だけを取りあげることにします。どちらの節にも出てくる大切な言葉は「選ばれた人々」という言葉です。この後、佐々木姉が洗礼を受けられます。それは教会にとって最大の喜びです。佐々木姉は主に選ばれた人です。そして皆さん方一人一人もです。主の選びを自覚することによって試練に負けない信仰に生きられるのです。
 今日の説教のテーマは神様の選びということです。私たちがイエス様を選んだのではない、イエス様が私たちを選んでくださったということです。

2,使徒ペテロ
 では、1から2節をもう一度読みます。「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」
 先ずこの手紙の著者が明らかにされます。「イエス・キリストの使徒ペテロから」とありますので、十二弟子の一人であるペテロからの手紙です。
 新約聖書は、その時代の世界共通語ともいうべきギリシャ語で書かれています。それでガリラヤ湖の漁師であったペテロがこんなに洗練されたギリシャ語の手紙を書くことができない筈だと言ってペテロの著者説を否定する人もいます。しかし、このペテロの手紙の終わりの挨拶のところ5;12節に次のように記されています。「私(ペテロ)の認めている忠実な兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。」そう述べられています。従ってこの手紙は、ペテロの言葉を、ギリシャ語に堪能であったシルワノ(シラス)が文章化したと考えられるのです。
 ここでペテロの肩書きが「使徒ペテロ」とありますが、使徒とは、イエス様から特別の使命が与えられて遣わされた者ということです。それは十二弟子とパウロです。十二弟子とは、直接イエス様の教えとみわざを見聞きし、十字架を目の当たりにし、よみがえられたイエス様にじかにお会いした人たちです。十二弟子でなかったパウロは、よみがえられたイエス様から使徒しとして任命されました。
 では、なぜ、ガリラヤ湖で漁をする一介の漁師に過ぎなかったペテロが、使徒として選ばれたのでしょうか。聖書にはこういう経緯が述べられています。
 ある日、ペテロは、いつものように兄弟アンデレと一緒に魚を獲る網を打っていました。そこにイエス様が通りかかり、彼らに声を掛けられました。
 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った」マタイの福音書とマルコの福音書は、ペテロが、イエス様に従うようになった経緯をこのように記しています。
 ヨハネの福音書は、ペテロがイエス様に従うようになったことについて、彼の兄弟アンデレが、イエス様に紹介したこと。そして、その時、イエス様からペテロという名を頂いたことを記しています。ペテロがイエス様に従うようになったことについて、福音書が記していることはそれだけなのです。
 イエス・キリストがペテロに向かって、わたしに従って来なさいと呼んでくださった。そして、ペテロは、その招きに対してすぐに自分の仕事を捨てて、イエス様に従ったということだけなのです。 
 ペテロの選びは、彼が、例えば、特に信仰深かったからとか、弟子として役立ちそうな能力があったなどという、なぜ、彼が弟子として選ばれたかの理由について、聖書は、何一つ述べていないのです。
 ペテロは、神様の選びに対して、彼の人生をかけて「はい」と答えて従ったことで、選びは確かなものになりました。
 ペテロが、使徒とされたのは、他の使徒たちも同じですが、イエス様が一方的に選ばれたということなのです。ペテロは、何か優れた能力があるどころか、行動的ではあるが、思慮の足りない人物でした。
 このペテロはある時、イエス様に対して「あなたは、生ける神の御子キリストです。」との信仰告白をしてイエス様に誉められました。けれども、その後すぐに、イエス様が十字架の予告をなさると「そんなことが、あなたに起こるはずがありません。」と言ったためイエス様から「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をする者だ。」との厳しい叱責を浴びています。
 また、イエス様は、十字架がま近になったとき、弟子たちにあなたがたは、わたしにつまずくと予告されました。しかし、ペテロは「たとい全部の者がつまずいても私は決してつまずきません」と自信をもって言ったのでした。
 しかし、彼は、イエス様が大祭司に裁かれている最中に、イエスなんて私は知らないと三度もイエス様との関係を否定してしまったのでした。その後、ペテロは外に出て激しく泣いたと聖書は記しています。
 しかし、よみがえられてイエス様はそんなペテロに対して、「あなたは、わたしを愛するか」と三度尋ねられました。ペテロは答えます。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
 そう三度、同じように答えたペテロに対してイエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と改めて主の使途として任命してくださったのでした。主はご自信が選んだ者を決して捨てることをなさらないのです。訓練して主の為に用いて下さるのです。

3,選ばれた人々
 さて、次はこの使徒ペテロからの手紙は誰に宛てられたかということです。1節を原文の順序の通りに並べて訳すと「イエス・キリストの使徒ペテロから選ばれた人たちへ」という書き出しになっています。選ばれた人たちとは、イエス様の救いに選ばれた人たちということです。その人たちはどこに住んでいた人たちかというと「・・ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤ」に散って寄留している人々」でした。この地域は当時小アジヤと呼ばれていた地、現在のトルコ地方です。その地域に散って寄留している選ばれた人たちに向けられた手紙なのです。
 この手紙の差出人ペテロは使徒としてイエス様によって一方的に選ばれた人でしたが、この手紙の受取人もまた、イエス様の救いにあずかるようにイエス様によって選ばれた人たちでした。
 私たちがイエス様の救いにあずかったのはなぜでしょうか。それは、神様が救いに選んでくださったからです。神様の一方的な憐れみによることです。
 聖書が一環して述べていることは、神様の選びとということなのです。
 私は、高三の時、友人に誘われて教会に行きました。でも自分の中には自分から求めて教会の礼拝に出るようになったという意識が強くありました。教会に行くようになって間もなく求道者会に誘われて、そこに出るようになりました。その時に渡されたテキスト、それは手作りの粗末なものでしたが、表紙にヨハネの福音書15;16節のイエス様の御言葉がプリントされていました。
 今日の招詞の言葉です。「あなたが、わたし(イエス様)を選んだのではありません。わたし(イエス様)があなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」という言葉です。当時は文語訳の聖書を使っていましたので、その訳でこの言葉が書かれていたのを覚えています。
 私はそれを読む度に、私はこれとは違う、この教会に来たのは、神様に選ばれて来たのではない、自分の意思で来たのであって、教会に来るのを止めようと思えば、明日からでも止められると思っていたのです。
 その後、大学三年のときにイエス様を受け入れて洗礼をうけましたが、その時には、本当にこの御言葉の通りだと確信できました。
 クリスチャン人口が百人に一人しかいない日本の国に生まれたのに教会に導かれる環境に恵まれていたこと。自分に神様を求める心が与えられたこと。私の中学時代の一番の友人が、私が地方に離れている時にクリスチャンになって、私が東京に住むようになった時に教会へ誘ってくれたこと。それらのことを考えたときに、神様が、自分を選んで下さったとしか思えなくなりました。
 イエス様を信じている私たちは誰もが「散って寄留している選ばれた人々」なのです。神様の一方的な恵みによって選ばれ、救いにあずかり、天に国籍を持つものにされて、今、それぞれが置かれている所に遣わされているのです。御国を代表する大使としての働きを委ねられているのです。

4,神様の選びの理由と目的
 次に進みます。2節をご覧下さい。神様の選びについてさらに具体的に記されています。第一に、私たちが神様によって選ばれたのは、どういう理由によるのかということ。第二には、神様は、どのようにして私たちの救いの選びを確かなことにしてくださったかということです。
 「父なる神の予知に従い、御霊のきよめによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」
 第一に選びの理由についてです。それは「父なる神の予知に従い・・選ばれた人々」と言われていることです。「神の予知による」というのは、私たちが神様を知る前に、神様の方が先にこの私を知っていてくださり、神様の救いのご計画の中に予定してくださっていたということなのです。
 神様は私たちの造り主です。私たちが何かを造る時に何の理由も目的もなく造ることはありません。神様は神様の愛という動機で私たちを造り、私たちが神様と交わって生きられるように救われることを予定していて下さったのです。
 これは、ここだけで言われていることではなく、パウロの手紙の中でも再三言われていることです、二三引用しますからお聞きになっていてください。「あらかじめ」という言葉と、それに類する言葉に注意して聞いてください。
 ローマ8;29〜30「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子の形と同じ姿にあらかじめ定められたからです。・・神はあらかじめ定めた人をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々には、さらに栄光をお与えになりました。」
 ガラテヤ人への手紙1;15「けれども生まれたときから私を選びわけ、恵みをもって召してくださった方が・・」と言われています。もう一ヶ所。
 エペソ人への手紙1;4〜5「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で、聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただ御心のままに、私たちをキリスト・イエスによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」
 こんなに何回もはっきり、神様が私たちをあらかじめ選んで救いにあずからせてくださったのだと言われているのは、私たちの救いの確信が、しばしば揺れてしまうからなのですね。皆さん方はそういうことはないでしょうか。
 順調に信仰生活を送っている時には、救いの恵みを喜ぶことができるのですが、何か罪を犯してしまう。あるいは、自分の生活にいろいろと問題が起こってきたりすると、こんなことがあるなら、神様はこんな自分なんて見捨てられているのではないか。私を怒っておられるに違いないなどと思って心が揺れるということはないでしょうか。私自身、信仰を持ち始めの頃は、そういう思いを抱いたことがしばしばありました。また、牧師という立場いなってからは、教会員の方からそういう悩みを打ち明けられたことが何回もあります。
 なぜ、そういうことになるのでしょうか。私たちが救われたのは、私たちの行いによるのではない、神様の憐れみによること、イエス様の一方的な恵みのゆえだということを忘れてしまうからです。
 そして、救いのよりどころを自分の中に探そうとするからなのです。自分の行いや、自分の気持ちに救いの確信を求めるなら、それが揺らぐのは当然のことなのです。
 ペテロの手紙は、私たちの救いは、「父なる神の予知によること」で、神様の救いのご計画の中にあらかじめ定められていたことなのだと言っています。
 私自身救いの確信がゆらぐことがなくなったのは、このことを知ったからでした。直接には、先程紹介したエペソ1:4節の御言葉「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で、聖く、傷のない者にしようとされました」という言葉を信仰を持って聞いたことによりました。
 私という存在は、世界の基の置かれる前からイエス様の中にあり、その時すでに、イエス様が救いに選んでいてくださったのです。それが分かったときに、真の平安が与えられました。これは皆さん方の出来事でもあります。神様は、こんな壮大な救いのご計画の中で、私たちを救いに選んでいてくださったのです。ですから、ちょっとやそっとのことで救いからもれるなどということは決してないのです。
 では次に進みます。最後のことです。それは、神様はどのようにして、私たちの救いへの選びを確かにしてくださったかということです。
 2節をもう一度読みます。「父なる神の予知に従い、御霊のきよめによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」
 私たちの救いの実現について三つのことが言われています。神様の予知、御霊のきよめ、血の注ぎかけです。私たちの選びの確かさは、父なる神様が予知してくださった、ということだけで十分なことと思われますが、さらに「御霊のきよめによって」イエス様に従う者とされると言われています。神様は予知していた者をそのままになさらないで、その者に御霊を働かせてくださいます。そして罪を悟らせ、悔い改めに導き、信仰を与えてイエス・キリストの救いにあずからせてくださるのです。
 さらに加えて「またその血の注ぎを受けるように」と言われています。私たちは主イエスに対する信仰によって十字架の血を注がれて罪が赦され、主のものとされ、恵みと平安がますます豊かにされるのです。
 神様はこのようにして私たちの救いの選びを確かにしてくださっているのです。もうお気づきになったとおもいますが、三位一体の神の働きによるのです。父なる神の予知、また聖霊のきよめ、そしてイエス・キリストの血の注ぎという三位一体の神様の総力をあげて、選ばれた者たちの救いを確かにしてくださっているのです。
 ぺテロは、イエス様から弟子として選ばれましたが、イエス様が在世中は、平凡な失敗を幾度もしました。また、本当に大事なときに、イエス様のもとから逃げ出して、三度もイエス様を知らないと言い切ったような者でした。
 普通ならもう捨てられて当然だったでしょう。でもよみがえられたイエス様はそんなペテロにあなたはわたしを愛するか、と三度も問い直して、その選びを確かにしてくださったのです。そのペテロが神様の選びがどんなに確かであるかをここに証ししているのです。
 サタンは私たちに度々ささやいて、私たちの救いの確信を揺すぶってくるでしょう。お前みたいに罪ばかり犯している者はとうに神様に捨てられているよ、とか、お前の行いを見てみろ、そんなものが救われている筈がないだろうなどとです。しかし、御言葉は、私たちの選びの確かさを「父なる神様が予知され、御霊によって聖められ、イエス・キリストのものとなる様にその血の注ぎかけを受けて選ばれた人々」と言っているのです。この御言葉に確り立って揺らぐことがない信仰の歩みを続けていこうではありませんか。

祈り
神様。私たちがイエス様の救いにあずかれたのは、ただあなたの確かな選びによることであること教えてくださりありがとうございます。どんなことがあっても救いの確信を失うことなく、いつもイエス様をすべてとして生きていけるものとしてください。この後、佐々木姉の洗礼式があります。どうか主が御霊を注ぎ、罪からきよめて主のものとしてくださいますように。
主の御名によって。

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