2006年04月30日(日) 主日礼拝メッセージ「生ける望みが与えられて」
聖書箇所 ペテロの手紙第一 1章1節から7節(中心3〜7節)
東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師

聖書(新改訳2版)ペテロの手紙第一1章1節から7節
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )

1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人人、すなわち、 2 父なる神の予知に従い、御前の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。 3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。 4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられてているのです。 5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。 6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、 7 信仰の試練は火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

メッセージ「生ける望みが与えられて」 東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師

1,前回学んだこと「選ばれた人々」
 ここでの私のメッセージは、前回からペテ口の手紙第一を読み始めました。短い手紙ですが、最初から少し丁寧に順を追って読んでいきたいと思っています。しかし、一力月に一度のメッセージですから前のところとつながりが切れてしまうことが問題です。それで、テレビの連続ドラマのように前回のメッセージの中心的なことを、毎回少しだけ述べて、その日の聖書箇所につなげたいと思っています。記憶カのいい方は、それは前にも聞いたよ、と言われるところもあるでしようが、どうかお許し願いたいと思います。
 さて、この手紙ですが、これは十二弟子のリーダー的存在であったペテ口の書いた手紙です。イ工ス様がよみがえられ、天に帰られてからもう三十年程が経ちました、キリストの教会は、主の弟子たち、信徒たちの働きによってギリシャ世界からローマにまで増え広がっていました。しかし、それに従って、クリスチャンたちに対する迫害も強くなっていたのですね。
 この時、ペテ口はローマに居たと推測されます。そこから1節にあるパレスチナ以外の地域に、当時アジヤと呼ばれる地域に住むクリスチャンたちを励まし、その信仰を支えるために書き送った手紙がこのぺテ口の手紙です。
 ペテ口はもう晩年を迎えていました。そして、彼は、この第一の手紙、そして、第二の手紙を書いて間もなく、ローマの権力の手によって殉教したと言い伝えられています。ペテ口は、信仰を揺るがせる様な迫害が及んできたクリスチャンたちを励まし、迫害に耐えることができるように、イ工ス様によって与えられた救いがどんなに確かなものであるかを教えるのです。
 さて、前回学んだことですが、なぜクリスチャンたちは救いにあずかることができたのでしょうか。1〜2節を見て、この前に私がお話ししたことを思い出してください。そうです。神様が私たちを救われるように選んでくださったからです。
 1b〜2節に「選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、」とあリます。「選ばれた人々」とは、私たちクリスチャンのことです。そして、神様はその私たちを、私たちが神様を知るより先に知っていてくださり、神様の救いのご計画の中に予定してくださったのです。エペソ人への手紙1;4〜5節によると、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で、聖く、傷のない者としようと」されたと述べられています。私たちの救いは、神様の選びの確かさの中にあるのです。ですから、ちょっとやそっとのことで神様に捨てられることなどないのです。
 ところで、前回の私のメッセージの後の分級でこんな質問がありました。「神様はすべての人が救われるように選んでいてくださったのに(1テモテ2;4)、どうしてクリスチヤンでない人がいるのですか。」という問です。皆さんは、この質問に何とお答になるでしょうか。神様はすべての人のために救いの道を備えてくださいました。しかし、神様は、私たち一入一人が、自己の自由な意志をもって応答することを求めておられるのですね。そして、そのことによって選びは確かなことになるのです。前回お話したことは、この神様による選びということについてでした。
 さて、今日は、主に、3〜7節のところから「生ける望み」というテーマで話すことに致します。私たちは、神様が救いに選び、呼んでくださったことに対して、「はい」と応答し、主イエス・キリストを信じて、救いにあずかりました。
 しかし、その恵みがあまリに大きく豊かなので私たちは、それを十分に理解できていないのではないかと思うのです。
 もし、皆さんが、ノンクリスチャンの誰かから、イエス様を信じたらどんないいことがありますか。と尋ねられたら、何と答えるでしようか。
 ペテ口はこの1;3〜7節のところでその恵みについて述べるのですね。イエス様は、救われた者たちをどんなに大きく、豊かな恵みの中に入れてくださったかについて述べるのです。

2,新しく生まれさせて
 それでは今日の聖書本文に入りましよう。3節を読みます。
 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イ工ス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」ペテ口は、この手紙の本文に入って先ず、主イ工ス・キリストの父なる神様をほめたたえます。神様の大きなあわれみのゆえにと書いて、神様の憐れみを感謝することから書き始めます。ペテロは、イ工ス様から弟子とされ、身近に置かれ、愛され、訓練された者でした。それなのに自分の身を守るために、イエス様が捕らえられると裏切ったのでした。
 そんな者をよみがえられたイエス様は赦して、再び主の使徒としてくださったのですね。ただ主の憐れみのゆえでした。それゆえ、ペテロは、始めの挨拶を書き記して、いよいよ本論に入るに当たって、神様をほめたたえ、神様の憐れみを感謝しないではいられなかったのです。
 私たちも同じですね。私たちのどこに救われるのにふさわしい良いところがあったでしょうか。罪ばかりの者を、ただ神様が憐れんで下さったので救いにあずかることができたのです。
 神様の憐れみを感謝したペテロは、どんな恵みが与えられたかを記します。ここでペテロは何を感謝して神様を誉め讃えているでしょうか。3b節です。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」この中心の言葉は、どういうことでしょうか。「神は、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださった」ということです。
 イ工ス様を信じた私たちは皆、一人ももれなく、新しく生まれ変わらせて頂いたものです。神様の子どもとして新しく生まれさせて頂いたのです。
 ドイツの著名な牧師である R.ボーレン先生は、その著書「憧れと福音」 という本の中で次の様なことを記しています。人間は誰も憧れの思いを秘めて持っている。それは深く眠っている人もあるし、目覚めかかっている人も、また目覚めて活発に活動している人もいる。この憧れとは自分を変えたいという思いである。違った人格になりたいという願い、今ある自分を変えてより良い自分になりたいという願いである。そう記して、誰の心にもそういう変身願望があるのだというのです。
 また、先週の新聞で読んだのですがアニメの変身キャラクターであるウルトラマンと仮面ライダーは、誕生して35年、あるいは40年も経っているのにまだ現役で根強い人気があるというのです。それは人々の変身願望を反映しているからでしょう。
 なぜ人には変身願望が秘められているのでしようか。神様は、私たちひとりひとりに個性を与え、そのままで生きていっていいように造られた筈です。神様を崇め、共に生きる人を愛し、よきものを生み出していく存在とし造ってくださいました。それなのに生まれ変わりたいと思うのは、人間が神様に背いて罪を犯したときに、その様な本来の人間の姿を失ってしまったからですね。パウロの言葉を借りて言えば、「自分がしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行う」矛盾ある存在になってしまったからです。先日ある方と話していたときにその方が自分は罪赦されて生まれ変らせて頂いたという確信が本当に欲しいのですと涙ながらに言われていた言葉が忘れられません。
 私たちは自分で変りたいと思っても変われないのは罪に深く捕われているからですね。しかし、イ工ス様はその私たちの罪をご自分が全部引き受けて十字架で処刑されたのです。ですからイ工ス様の十字架は私たちの身代わりなのです。それを信じたときに、私たちはもう罪に縛られることなく、新しい人として生まれ変わることができるのです。
 アニメのキャラクターは、変身するときにパワーが必要ですね。私たち人間が生まれ変わるためには神様の力が必要です。神様は、私たち一人一人を憐れんで、生まれ変わるための聖霊による力を働かせてくださったのです。
 ですからペテ口は、3「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに・・私たちを新しく生まれさせてくださった。」と感謝をしているのです。

3,新しく生まれさせて、生ける望みが与えられ
 次に進みます。それでは、私たちはイエス様によって罪の奴隷から神の子どもとして生まれ変わらせて頂いたことで、何がどのように変わったのでしょうか。それは、3c「生ける望みを持つようにしてくださった」ということです。生ける望み、失われない望みが与えられたのです。望みは、私たちを生かす力ですね。私たちの人生にはさまざまな苦難、試練が及んできます。仕事の悩みがあります。また、人との関係でひどいストレスにさらされるということが起こります。また、自分が、あるいは身近な人が重い病気にもなります。しかし、そんな時に望みを見ることができれば、そういった苦難を乗リ越えられます。望みは、私たらを生かす力です。
 しかし、ここに「生ける望み」と書いてあることに注意してください。なぜ、わざわざ「生ける望み」と言っているのでしようか。それは、しばしば、すぐに失われてしまうはかない望みがあるからです。あんなに確かだと思われた望みが、人の心変わりで消えてしまったり、環境の変化で失われたり、自分が病気や死に直面することで絶望に変わってしまうからです。
 しかしペテロは言うのです。あなたがたは、新しく生まれ変わらせて頂いたことで、どんなことがあっても決して失われることがない希望、生きた望みが与えられたのです。そう言ってその「生ける望み」を指し示すのです。それは、いったい何なのでしようか。
 ペテロは、私たちが主イ工ス・キリストによって与えらわた生ける望みについて三つのことを挙げています。第一は、4,天の御国に入れていただけること。第二に、 5,神様の御力で守られること。第三は、 6〜7,試練(いやなこと、苦しいこと)の中でも神様が守ってくださるということ。この三つのことです。以下これらのことについて順にお話をしましよう。

(1)天に貯えられている資産を受け継ぐ
 その生ける望みの第一のことは、4節に述べられています。「また、朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです」
 これは朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない天にある資産、即ち、永遠の生命と天の御国を受け継ぐ望みが与えられたということです。私たちの持っているこの世の資産で、朽ちないもの、壊れないものは何一つありませんね。この世でどんなに多<のお金を得ても、またこの世での地位や功績がどんなに大きくても、それは地上だけのもので御国に生きる権利を得ることはできません。死の前にはみなむなしいものです。
 しかし、イエス・キリストによって神の民とされた私たちが受け継ぐところの神の資産は、死によっても害われません。決して朽ちることも、汚れることも、消えていくこともないもの、それは即ち、天の御国です。その天の御国を受け継ぐことは、イ工ス・キリストを信じて、神の民として新しく生まれ変わらせて頂いた者の特権なのです。
 イエス様は次のように仰せられています。マタイの福音書25;31〜34節です。
 「人の子(イ工ス様のこと)がその栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位につきます。そしてすべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊を分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。(最後の審判のこと)そうして王は,その右にいる者たちに言います。さあ、わたしの父に祝福された入たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」
 世の終わりが来て、イエス様が再臨されるときに、イエス様は、イ工ス様によって神の子どもとして新しく生まれ変わった者たちにこの様に言ってくださるのですね。これはなんと素晴らしい希望ではないでしょうか。

(2)神の御力によって守られ
 次に進みます。「生ける望み」の第二のことです。それは5節に記されています。「あなたがたは信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」
 私たちには、すばらしい望みが与えられています。しかし、与えられている望みが素晴らしければ、素晴らしいほど心配になることはないでしようか。
 自分はそんなに強い意志の持ち主でない、しばしば罪を犯してしまう者である。信仰生活といってもたどたどしい歩みである。このままで本当に御国を受け継ぐことができるのかとです。
 しかし、聖書は心配しなくてもいいと言うのです。それがこの御言葉の約束です。あなたがたは、イエス様に対する信仰を持ち続けるならば、神様の御力によって守られ、あなたの救いはまっとうされるとです。「終わりのときに現わされるように用意されでいる救いをいただく」とは、御国を受け継ぐことができるということですね。私たちをイエス様から引き離そうとする敵は、外からだけではあリません。自分の中からも不信仰、疑い、つぶやきなどという敵が信仰を失わせようと攻撃を加えてきます。しかし、ここに神様があなたを守ると約束して下さっているのです。
 こう申し上げても心配性の方は、信仰さえ失わないようにすれば、と言われるがそのところが心配なのです。果たして、自分は一生信仰を失わないで生きていけるのか自信がないのです。と言われる方もいらっしゃるかも知れませんね。もしそういう心配があったら、もう一度、1〜2節で言われていたことを思い出してください。私たちがイエス様を選んで、修養を積んで救いにあずかったのでしようか。そうではありませんでしたね。私たちが、神様を知る前に、神様は、私たちを知っておられ、救いに選んでいてくださったこと。そして、その救いの選びを確かにするために、御霊のきよめと、御子イエス・キリストの血によって罪を赦して主のものとしてくださったのですね。私たちの救いの確かさは神様にあるのです。
 そして、さらに、イ工ス様も、私たちの救いが全うされることを次の様に約束してくださっているのです。ヨハネ6;37,39〜40節「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。39わたしを遣わした方のみこころ は、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしかひとりも失うことがなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」こんなにはっきリ約束してくださっているのですね。

(3)世の試練の中でも守られて
 最後のこと、生ける望みの第三のことです。それはこの世での試練からの守りです。6〜7節をご覧ください。3版「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精練されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になるものであることかわかります。」
 これは、この世での試練に対する守りです。あなたがたは、イエス様の救いにあずかり、朽ちない望みが与えられて大いに喜んでいるが、この世を生きていく、今は、しばらくの間さまざまな試練の中で悲しまなければならない。しかし、それは試練として、むしろあなたがたの信仰をきよめ、神様から誉められることになると言われています。
 試練の中でというのは、苦難の中でということです。聖書は信仰をもって生きるなら、苦難はなくなるとは言っていません。むしろ苦しみに会うのはキリスト者の定めであるとさえ言っているのです。
 イ工ス様はヨハネの福音書16;30節で「あなたがたは世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と仰せられています。パウロもビリピ人への手紙1;29節で「あなたがたはキリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」と、「苦しみをも賜った」という表現をして、苦しみは、しかたなく受けるものではなく、むしろ神様から与えられている恵みなのだとさえ言っているのです。信仰をもって苦難にぶつかっていくところに神様が共に働き、助けて、むしろそれを益にしてくださるからです。6節で苦難とか、困難と言わないで、試練と書いてあるのはそういう意味だからでしよう。
 そういう試練の意義が、7節に記されています。もう一度読みます。3版で「あなたがたの信仰の試練は、火で精練されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」この「信仰の試練は」とある試練(ドキミオン)という言葉は、もとの言葉では、欄外の註にあるように「純粋さ」と訳せることばです。
 7節をその訳で読むと「信仰の純粋さは火で精練されつつなお朽ちていく金よりも尊く・・」となります。従って、7節の意味していることはこういうことです。「苦難(試練)は、信仰によって受けとめていくときに、金が火で精練されて、より価値のある純度の高い金になるように、あなたの信仰もより純粋で混じり気のないものとなります。そして、終わりの日、イエス・キリストの現われるときに御国で主を喜び、感謝することになると言われているのです。試練もまた益にされるのです。これが生ける望みの第三の声です。

 純粋な信仰というと、どこか世間離れした信仰のように思えますがそういうことではありません。それは、生活の中で生きている信仰です。唯一まことの神様だけを主とし、隣人を愛し、どんなときにも祈リ、いかなる試練にあっても神様だけを信頼し続ける信仰です。神様は、私たちが、試練に会ったときに、助けを与え、私たちの信仰をそのような混じり気のない純粋な信仰へ変えてくださるのです。イ工ス様によって生まれ変わらせて頂いた私たちはこのような生ける望みが与えられているのです。どこまでもイエス様とともに生きていこうではありませんか。

祈 り
 イエス様。私たちはあなたによって神の子どもとして新しく生まれ変わらせて頂き、生ける望みが与えられたことを感謝します。天にある御国を受け継ぐ者とされたこと。私たちの救いが完成される日まで神様の御力によって守ってくださること。試練を通して、主が働いてくださり私たちの信仰を錬りきよめて、神様の祝福にあずからせて頂けること。こんなに素晴らしい恵みの中においてくださったことを感謝いたします。どうかその神様の恵みに感謝し、神様を誉め讃えて生きていくものであることができますように。

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