2006年06月26日(日) 主日礼拝メッセージ「キリストのものとして生きる」
聖書箇所 ペテロの手紙第T 1章13節から21節
東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師

聖書(新改訳2版)ペテロの手紙第T 1章13節から25節
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )

13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。 14 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、 15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。 16 それは「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。 17 また、人をぞれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間のときを、恐れかしこんで過ごしなさい。 18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。 20 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。 21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。
メッセージ「キリストのものとして生きる」 東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師

1,「ですから、‥」 13
 私がここで礼拝説教をするときにはペテロの手紙第一を順にお話してきています。今日取り上げる箇所は今読んだ1;13節以降のところからで、次の言葉から始まっています。「13ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのとき、あなたがにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」「ですから」とは、この前の1〜12節述べられていることを言っています。そのことを受けて、13節以降のことが言われるのです。
 ここを読むのは一ヵ月に一度で、前のところの記憶も薄れたと思いますので、「ですから」と言われている前の部分を少し復習しましょう。この手紙は最初の部分に、イエス・キリストによって救われるとはどういうことかが丁寧に教えられています。
 最初に教えられていたことは、私たちはなぜ救いに与ることができたのかということです。それは、2節によると父なる神の予知によること。すなわち、神様が予め救いに選んでくださったからなのですね。そして、神様はその選びを確かにするために、イエス・キリストの十字架の血によって私たちの罪をあがない、聖霊の働きによって神の子どもとして生まれ変わらせてくださったのです。それは、4〜5節によると、この世にあるときには神様によって守られ、地上のいのちが終わったならば、天にある資産、すなわち、天の御国を受け継ぐ者とされたということなのです。
 そして前回は、1;8〜9節の言葉を読みました。「8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども、愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。9これは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
 あなたがたは、目で見たことがなく、今も見ることができないイエス様を愛し、喜んでいる。それは、あなたがたに信仰があるからであり、魂の救いを得ているからなのだと言われています。つまり信仰の眼こそが見えない神様のみわざを見ることができるのですね。神様は魂の救いを得た私たちに信仰の目を与えてくださるのです。本当に大事な神様のことは肉眼では見ることが出来ないからです。霊の目(信仰の目)で見なければわからないのです。
 これは余談ですが、私は、自分が説教をしたときには、なるべく分かち合い のクラスに出ることにしています。メッセージの足りなかったことが示されたり、励まされる証しを聞くことができるからです。
 先月、私がメッセージをした日の分かち合いのクラスで、人の死ということについての話題が出ました。ある方が次の様なことを言われました。年を経てくると死ということを言葉に出す機会が多くなる。夫婦の間でも俺が死んだときにはこうして欲しいとか、お前が死んだらどうこうするということを口にする。しかし、つきつめて自分の死ということを考えると非常に恐ろしいことですが、皆さんはどうでしょうかという発題をされました。
 死が人間にとって恐れであることは当然のことですね。コリント人への手紙には「最後の敵である死」という言葉があります。また、ヘブル人への手紙には、主のみわざについて、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(2;15)と言われている程です。
 死が恐れを呼ぶのはそれが自然のことではなく、罪のさばきの結果であるからですね。そしてさらに言えば、「人間には‥死後さばきを受けることが定まっている」(ヘブル9;27)からです。たとい未信者で聖書からそのことを聞いていなくても心の深いところでそのことが知らされているから死は不安であり、恐れであると思うのです。
 そして、この時、死の恐れということが発題された時に、ある方が、それに答えてこういうことを言われました。自分も確かに死は恐れであった、けれども今はそうでなくなった。なぜなら、自分が死んだ後に行くところが分かったからです。そして、それが、いつであるかは、どんなにしても自分で決められることでなく、神様が決められることだから、神様にお任せしている。だから、もう死の恐れはなくなったと言われたのでした。
この方がこう言うことができたのは、イエス様が私たちの死の原因である罪をあがなって下さったこと。また、永遠のいのちと天の御国を約束してくださっていることを霊的な眼、信仰の目をもって見ることができたからです。
 ヘブル人への手紙11;3節には「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるのです。」とあります。神様のことを知るのは、霊的な眼、信仰の目がとても大切なのです。私たちは、イエス様の救いにあずかり、神様の子どもとされたときにこの霊的な眼が与えられました。神様のことを知ることができる目が与えられたということは素晴らしいことです。
 しかし、その信仰の目というのは、肉眼の目と同じように患って曇ってしまったり、焦点が合わなくなってしまうこともあるのです。霊的な目も健康管理が大切なのですね。そこで、今日は、その信仰の目をいつもはっきりさせておくためにどうしたらいいかを聖書から聞いていこうと思います。
2,心を引き締め、身を慎み
 もう一度、Tペテロ1章13節を見てください。「13ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのとき、あなたがにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」イエス様が再臨され、天の御国がもたらされる、その望みを見続けて生きていくにはどうしたらいいのか、それは「心を引き締め、身を慎む、」ことだ、と言われます。「心を引き締める」とは、口語訳聖書では、「心の腰に帯を締め」となっています。中東の地方の人の服装は、今でも見られますが、上から足元までつながっているワンピースです。ですから活動的なことをするときや、敵と戦うときなどは、衣のすそをたくし上げて腰に帯をしました。着物が、足にまとわりつくことを防いで自由に行動できるためでした。
 従って「心を引き締め」とは心を自由にするということです。私たちが、この世に取り込まれていく、世の力で信仰の目が曇らされるのは、この世のことや自分の経験や考えなどに心が捉われていて自由でないからです。「心を引き締める」というのは、いろいろなことに捕われて自由を失っている心の目を確り神様だけに向けることです。
 そして、次に「身を慎み」なさい、と言われます。このことが今日お話ししたい中心的なことです。一般的には「身を慎む」と言うと、謹慎をすることです。誤ちを犯さないように言葉や行いを慎む、抑えるということですからそういう意味に受け取ると、ここで言おうとしていることとは少し違うのです。この言葉は本来、酒に酔っていない状態のことを言います。しらふでいるということです。信仰的に言うならば、霊的に目覚めているということです。Tテサロニケ5章は、主の再臨を待つ態度について教えているところですが、ここに慎み深くあるとはどういうことかが明らかにされています。6〜7節のこういう言葉です。「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚 まして慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。」ここに慎み深くあるということは、目を覚ましている状態、また、酒に酔っていない状態であることが示されています。
 現代訳聖書(高田馬場教会尾山師私訳)では、そういう解釈で、13節を次のように訳しています。「そういうわけだから、しっかり心の準備をし、目を覚まし、イエス・キリストが再び来られる時に与えられる神の恵みを少しも疑うことなく、待ち望んでいなさい。」となっています。
 また、新改訳聖書に相当する英語の聖書(N.I.V.)によると「身を慎む」というところが「beself-controlled」となっています。何かに操られて生きるのでなく、御心を求め自分で自分をコントロールして生きるのです。
 私たちはこの世に生かされていますから、世の風潮、考えに惑わされやすいものです。ボーと無節操に生きていますと神様を信じていないこの世の言葉にもたやすく動かされてしまいます。それは、身を慎んでいることの反対の状態です。「身を慎んでいる」ということは霊的に目覚めており、神様のものとしての自覚に生きようとすることです。イエス様は、「誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさい」と言われていますが同じことです。
 私たちは、楽しければ、そのことに酔います。その一時的な楽しみに酔い、幸せの基である神様を忘れて、この世の幸いに酔ってしまいます。また、反対に苦難に会うと、そこから逃れたいと思い、苦しみを直視することを避け、現実を見ないで、夢を見たり。あるいは、自己憐愍の思いに酔います。そのときも神様が不在になってしまいます。神様のことが見えなくなってしまうのですね。しかし、イエス・キリストの再臨のときにもたらされる恵みを待ち望んで生きるものは、どんなとき、どんなところでも、神様を見失わないで、目覚めた信仰に生きるのです。それが「身を慎む」ということなのです。
3,聖なるものとされなさい 14〜16,
 では次のところに進みましょう。私たちが信仰の目を覚まして生きるために、すなわち、霊的な眼が何かに惑わされて焦点が合わなくなってしまわないためにどうしたらいいか、その具体的なことが14節以降に述べられています。
「14従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、15あなたがたを召してくださった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」ここで言われている中心的なことは、15節の「聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」ということです。この聖なるものになりなさいとは、道徳的な聖人になりなさいということではなく、神様のものとして生きなさい、ということです。
 この「聖」という言葉は、聖いという意味もありますが、語源的には「異なる」という意味を持つ言葉です。従って「聖なるものになれ」とは、この世のものとは異なったものでありなさいということです。神様のものとしてこの世からは分離されなさい。もうこの世に習って生きるものでなく、神様の御心を求めて、神様のものとして生きて行きなさいということなのです。
 従って、ここ14〜15節言われていることは、こういうことです。「あなたがたは、イエス様の救いにあずかって、生まれ変わり、神の子どもとされたのです。ですから、神様を知らなかったときのように、神様を認めないこの世のならわしに従って、自分の欲望を満たすことを人生の目的として生きることをやめなさい。神様に従順な子どもとなり、神様のお心を求めて、神の子どもらしく生きていきなさい。聖なる方にならってあなたがたも、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。と言われているのです。このことは、私たちの心の目がこの世に惑わされてしまわないために大切なことなのです。
 16節にこう言われています。「それは、わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。と書いてあるからです。」「と書いてあるからです。」と言われているのは、旧約聖書の中にそのように記されているということです。この言葉はレビ記に記されています。これは神様がイスラエルの民たちをエジプトの奴隷の身から救い出されたときに与えられた戒めです。
 レビ11;45「わたしはあなたがたの神となるために あなたがたをエジプトから導き出した主であるから、あなたがたは、聖なるものとなりなさい。わたしが聖であるからだ。」神様が、この時のイスラエルの民たちに言われているのはこういうことです。「わたしは、あなたがたをエジプトから救い出し、わたしがあなたがたの主、神となった。だから、あなたがたはエジプトからはっきり分けられて、わたしだけものとなりなさい。」とです。
 彼らはこれまでエジプトの奴隷としてエジプトという主人から衣食住が保証されていたのです。しかし、これからはエジプトからはっきりと分けられて一切を神様に拠り頼んで生きて行きなさいと言われているのです。
 同じ様にイエス様は、私たちに言われました。「わたしは、あなたを罪の奴隷になっていたところから救い出し、わたしのものとして生まれ変わらせた。わたしが、あなたがたの主、あなたがたはわたしのものとなったのである。だからあなたがたはこの世から、また罪からはっきり分けられて、わたしのものとして生きていきなさい。」この様に言われているのです。
 私たちは、救われるまではこの世に習って生きていた者でした。この世が生きる拠り所であり、目的でした。そのために罪に支配されていました。
 そんなところからイエス様は救い出し、まことの神様を知るものとしてくださったのです。つまり神様の方で、私たちが聖なる者となるようにその道を備えてくださったのです。ですから、もう罪に縛られないで解き放されて神様のものとして生きていけるのです。
4,恐れかしこんで過ごしなさい
 次に進みます。私たちが、霊的に眠ってしまわないため、また、何かに酔って神様を見失ってしまわないためにもう一つ大切なことが言われています。 それは、神様を恐れかしこんで生きなさいということです。17節「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間のときを、恐れかしこんで過ご しなさい。」信仰が眠ってしまわないためにいつも神様を恐れかしこんで過ごしなさいと言われます。神様を恐れかしこむとは、どうすることでしょうか。
 それはいつも神様が自分に目を留めてくださっていることを信じて、神様に恥ずかしくないような言葉と行いをもって生きていくことです。
 神様はこう言われているのです。あなたがたは以前は、神様の存在を認めず、終わりの日があることも、そのとき、神様のさばきがあることも認めようとしないで、神様の御心を無視して自分の願いのままに、自分中心に生きていました。そのために平気で人を傷つけていたではありませんか。
 でもあなたがたは、神様を父と呼べる立場が与えられ、イエス・キリストが再臨されるときにもたらされる恵みを見ることができる霊的な眼が与えられたのです。ですからそれを失わないように神様を恐れ、かしこんで過ごしなさいと言われているのです。
「恐れかしこんで」とは、神様に対して恐怖を持つことではなく、心から神様を愛し、崇めて生きていくことです。神様と共にあることを信じて、それにふさわしい言葉や行いをもって生きようとすることです。
 そして、さらに18〜19節をご覧ください。「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物によらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」 私たちが神様を恐れかしこむべき理由は、自分の罪のゆえに神様のさばきに会って滅びなければならない。そのような虚しいところから罪を赦していただき救われ、霊的に目覚めさせて頂いたからです。
 私たちが、虚しい人生から救い出されるためにどんな代償が払われたのでしょうか。金や銀のように朽ちる物によったのではなく、神のひとり子であるイエス・キリストの尊い血が流されたのですね。私たちを極みまで愛するその愛が、私たち一人一人に注がれたからなのです。私たちは、そのことを信仰の目で見ることができたから真に神様を恐れかしこんで生きていくものにされたのです。そうしないではいられない者とされたのです。
 詩130篇3〜4節にこういう言葉があります。「主よ。あなたがもし不義に目を留められるなら、主よ。だれが御前に立ち得ましょう。しかし、主よ。あなたが赦してくださるからあなたは人に恐れられます。」神様がもし私たちの罪にだけ目を留められるさばきの神様であったら、私たちは神様に対して恐怖の念を持って、立ちすくんでしまいます。決して神様を愛し信頼することはできないでしょう。しかし、イエス様は私たちを愛するゆえにご自身のいのちを犠牲にして私たちの罪をあがなってくださったのです。ですから、神様を愛し、その神様にふさわしく生きようとしないではいられません。
 今日は、イエス・キリストの現われのときにもたらされる望みに生きるために、心を引き締め、身を慎んで生きていくことについて学びました。
 身を慎んでいくとは、信仰の目をいつも覚ましていることです。そのため に「聖なる者とされなさい」と。そして「神様を恐れかしこみなさい」との勧めの言葉を聞いてきました。
 このところを学んできて、果たして自分は、このような信仰に生きられるのだろうか、知らずに眠ってしまっていることはないだろうかと心配される方がいらっしゃるでしょうか。でも心配しなくてもいいのです。
 なぜなら神様は、次のように言われているからです。21「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じている人たちです。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」とです。
 私たちの信仰と希望は、神にかかっているのですね。神様が私たち一人一人を救いに選んでくださり、イエス様の十字架によって罪をきよめその救いを確かにしてくださったのです。そして、イエス様は、わたしはあなたを決して捨てない。終わりの日によみがえらせますと約束してくださっているのです。イエス様が目覚めさせてくださり、導いてくださるのです。ただ、イエス様だけを信じ続けて生きていこうではありませんか。
祈 り
 主の御名を崇めます。みことばを通して、天の御国にあずかれる望みを失わないために、心を引き締め、身を慎んで生きていきなさいと諭してくださったことを感謝します。私たちの信仰が眠ったり、何かに酔って神様の約束を見失うことがありません様に、主のものとされたことを自覚し、いつも主と共にあることを忘れないで生きられるように導いてください。 御名によって
  
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