2006年08月06日(日) 主日礼拝メッセージ 「霊の家を築きあげなさい」
聖書箇所 ペテロの手紙第T 2章1節から10節
東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師
聖書(新改訳2版)ペテロの手紙第T 2章1節から10節
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )
1 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、全ての悪口(あっこう)を捨てて、
2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
3 あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ、わたしはシオンに選べれた石、尊い礎石(そせき)を置く。彼に信頼するものは、決して失望させられることがない。」
7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てるものたちが捨てた石、それが礎(いしずえ)の石となった。」のであって、
8 「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみをうけない者であったのに、今はあわれみを受けたものです。
メッセージ「霊の家を築きあげなさい」 東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師
1,導入と主題の提示
今朝から新約聖書ペテロの手紙第一2章に入ります。この手紙は、イエス様の一番弟子とも言えるペテロが、当時アジヤと呼ばれていた地、現在のトルコ共和国がある地域ですが、そこにある教会に書き送った手紙です。
今日読む教えは、次の言葉から始まります。2章1節です。「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨て、」と語り始められます。ここの記述を読むと当時の教会には、悪意や偽善とか嫉みが満ちていたのかと
思われるかも知れません。しかし、この手紙の宛先の諸教会が特にそうであったという証拠は何もありません。
ではなぜ、このような戒めから語り始められているのでしょうか、実はこの2;1節の言葉
は1章の教えにつながっているのです。1節では「ですから」と語り始められますが、これは、1章に教えられていたことを受けて「ですから」と言われているのです。1章には何が教
えられていたのか、私の前回のメッセージをお聞きになれなかった方、今日初めてこの礼拝に出席された方がいらっ しゃるかも知れませんので、先々週にお話ししたことを少し繰り返します。
前回のメッセージの中心の言葉は、1;22節です。「あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛
し合いなさい。」ここで言われている中心の言葉 は、「互いに心から熱く愛し合いなさい」ということです。あなたがたは、イ エス様を信じて、新しいいのちに生きるようになったのですからお互いに偽 りのない愛をもって愛し合おうではないかと勧められているのです。
今日読む最初の言葉 2;1節の「ですから」とは、その様に教えられているのですから、すべての悪意、ごまかし、偽善や嫉み、悪口を捨てて、2節、純粋な み言葉の乳を慕い求めなさ
い。と続いているのです。
それではなぜ、クリスチャンたちは、「互いに心から熱く愛し合う」ことが求められているのでしょうか。一つの理由はイエス様が語られたことにあり
ます。ヨハネの福音書13;34〜35節にこう記されています。「‥わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが、わたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
イエス様は終わりの時代のしるしとして「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」と予告されていますが、現代はまさにそういう時代だと思わせられる出来事が報道されていますね。毎週と言っていい位に親が子を殺し、子が親を殺すというニュ
ースを聞かされます。人々は愛を求 めているのですが得られないでいます。偽りの愛でない本当の愛を求めているのですが、なかなか真実の愛に生きられなくなっています。そういう人々の中でクリスチャン同士が偽りのない愛に生きることを通してイエス・キリ
ストを証しすることになるからです。
そしてもう一つクリスチャン同士が愛し合うべき理由があります。これが今日のメッセージの主題です。5節をご覧ください。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上
げられなさい。そして聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」クリスチ ャンたちが愛し合うべき理由は一人一人が生きた石
として霊の家に築き上げられていくためなのです。霊の家とはキリストのからだである教会のことです。イエス様のものとされた者たちは、互いに偽りのない愛によって結び合 わされてキリストのからだである教会を建て上げていくのです。このことについては、この
後、御言葉に沿ってもう少し詳しく見ていくことにします。
2,愛の交わりを壊すものと育てるもの 1〜2,
それでは、本日の聖書箇所に入ります。先ず、最初に述べられていることは、愛の交わりを壊してしまう心についてです。私たちが捨てるべきものについてです。1節を読みます。「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべての ごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口をすてて、」とあります。
人を愛する心を壊してしまうものがここに述べられています。それは、悪 意、ごまかし、偽善、ねたみ、悪口などです。その様な心が起こって来るならば、それを捨てなさいと戒め
られているのです。
第一は「すべての悪意」です。悪意とは、相手の言うこと、することを、み な悪く取ろうとする心ですね。相手に対する不信から生じます。こういう経験はないでしょうか。人が自分の言うこと、することをみな悪く取って 悲しい思いをしたということがです。私たちは自分がそういう心にあるときにはなかなか気がつかないものですが、私たちの心にも起
こってくることなので す。コリント人への手紙には、愛は人の悪を思わず、すべてを信じるといわれていますが、それとは反対の心です。
次に「すべてのごまかし」とあります。これは偽りのことです。人をだますこと。嘘をつくことですね。どうして人を騙すのか、自分を守りたいから です。自分の正しさを主張したいからです。然し、愛は不正を喜ばず真理を 喜ぶのです。次に「いろいろな偽善」と
あります。このことについては「偽りのない愛」というところで学びました。ありのままの自分を見せたくない、実際よりも良く見せようとする心ですね。神様よりも誰よりも自分
の名誉を第一にしようとする心です。愛は自慢せず、高慢になりませんと言われていますが、それとは遠い心です。
次に「ねたみ」です。これは説明するまでもないでしょう。子どもの頃から経験することですね。誰もが自分を誇りたい気持ちを持っています。神様を第一にしないならば自分を第一にしようとします。人が自分より勝れていることを知らされたとき、あるいは、人が誉められたときに心に生じる思いです。 イエス様が十字架に追いやられた直接の動機は、
ユダヤ人指導者たちの嫉 みからでした。主の身近に仕えた弟子たちの中にも嫉みがあったことを聖書は記しています。嫉みは憎しみを生み、殺意にまでエスカレートしていくものです。これも愛とは正反対の心ですね。愛は親切です。また人を嫉みません。次に「すべての悪口」とあります。悪ぐちのことです。これも子どもの頃から経験することですね。悪口と訳されたもとの言葉は、「下に」という語 と「言う」という語から成り立っています。つまり悪口とは、うわさ話などで 人の信用を落とす様なことを言うことです。人を引き下げることで自分を高くしようとするのですね。小中学生の間でいじめということが相変わらずあります。これも悪ぐちから始まります。自分を守るために人を悪く言うのです。こうして見てくると、今見てきたのは、どれも愛とはまったく反対の心です。愛は人のために喜んで犠牲を負います。然し、悪意、ごまかし、偽善、嫉み、悪口は、どれも自分を第一にし、自分を守ろうとする心から出てくるものです。 これらの心のあるところには真の愛の
結びつきは得られないのですね。
それゆえ、これらのものを捨てなさいと言われています。もとの言葉では、とても強い言葉を用いて、捨て去りなさい(新共同訳)と言われているのです。
次に愛の交わりを育てるものについて述べられています。それは神様の子どもとして成長していくところにもたらされます。2節「生まれたばかりの 乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求 めなさい。それによって 成長し、救いを得るためです。」神様の
子どもとして成長する食べ物とは、みことばの乳です。神様のおことばです。
ペテロの手紙は、イエス様の救いにあずかったということは、新しく生まれ変わったことだと言います。神の子どもとして誕生したのです。それに対応
して、この2節の言葉が語られています。あなたがたは神の子どもとして第二の誕生をしたのです。これからは神様が与えてくださるみことばの乳によって成長しなさい。赤ちゃんがひたすらお母さんのお乳を慕い求めるように神様の言葉を求めてイエス様のお姿へと成長していきなさいと言われているの
です。「純粋な、みことばの乳」と言われています。人間が考え出した道徳とか思想は、神様よりも人間を、自分を第一にしようとする教えが混じっていることで純粋ではありませ
ん。神様のお言葉こそが、神の子どもを成長させる ためになくてはならない霊の糧なのです。みことばを通してイエス様がどんなに私たちを愛してくださっていたかそのお姿を心に刻んでいくところに私たちも真実の愛に生きるものとされるのです。
3,主イエスを信じた者たちの愛の交わりが目指すもの 3〜5,
次に進みます。み言葉は、私たちイエス様を信じた者たちが愛の交わりを 堅くすることを求めていますが、それは何のためなのでしょうか。
3〜5a節に次の様に述べられています。「3あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。4主のもとに来なさい。主は 人に捨てられたが、神の目には選ばれた、尊い、生ける石です。5あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。‥」
イエス様を信じた者たちが、偽りのない愛によって結び合わされることが 求められているのは、霊の家に、すなわち、キリストのからだである教会に築き上げられるためなのです。
3〜5a節のところを解説を加えながら大事な部分をピックアップしてもう一度読みますので、皆さん方は聖書の言葉を追いながら聞いてください。
「3あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」即ち、あなたがたは、すでにイエス様によって救われて、主の愛を知っているのですから「4主の
もとに来なさい。」イエス様に拠り頼み、主と共に 生きる歩みへと招いてくださっているのです。そして、「5 あなたがたも生ける石として霊の家に築きあげられなさい。」あなたがたも「生きた石として」 すなわち、イエス様によって新しいいのちが与えられた者として、キリストのからだである教会を建て上げていきなさい。そう言われているのです。
ここには、キリスト者たちが霊の家に築き上げられるために、即ち、教会を 建て上げていく上でとても大切なことが記されています。それは、4節の「主のもとに来なさい。」ということ。そして5節の「霊の家に築きあげられなさい。」と言われていることです。聖徒たちが、キリストのからだである教会を築く、一つ一つの生きた石として教会を形作っていく、その一番根本になくてはな らないことは「主のもとに来る」ということです。「主のもとに来る」ということは単に集まってくるという以上の意味をもっています。主イエス・キリ
ストを私の救い主、私の主ですと告白して、主のお言葉に従って生きるものとされるという意味です。
兄弟姉妹が偽りのない愛で心から熱く愛し合う上で大切なことは何でしょうか。お互がよく理解し合っていることでしょうか。気持ちが通じ合っていることでしょうか。互いの考えが一致していることでしょうか。
そうではありません。お互いに主のもとに来て、「あなたこそ私の救い主、そして私の主です。」と告白することです。そのときに、私たち一人一人は、生ける石となり、互いに偽り
のない愛によって結び合わされて霊の家を築きあ げていくことになるのです。
なぜならあなたこそ主ですということを告白することは、私の人生、この人生にあって私が主なのではない、主キリストこそが、私の主ですと告白することなのです。そこでクリスチャン同士が堅く結び合わされてキリストのからだへと築きあげられことができるのです。
また、イエス様は私の救い主ですと告白することは、主イエス・キリストの 十字架で罪が赦されたことを深く覚えて、赦された者として神様の前に立つ ことを意味します。私たちはみなイエス様によって生まれ変わらせられた者でありますが、また聖化の途上にありま
す。ですから、罪を犯し、人を傷つけ て交わりを壊しやすいものです。だから主から赦された者として互いに赦し合うということがなかったら結び合わされるのは不可能なのです。
また、イエス様を主と告白することは、主のお言葉に従って生きようとすることです。私たちがキリストの姿に変えられていくことができるのは、みことばに示されて悔い改めに導かれるときです。そのときに私たちは御霊のお取り扱いを頂いて日々新しくされていくことができるのです。そういうことがなければ、私たちは生ける石であることができません。以上のような意味で、「主のもとに来る」こと、即ち、イエス様を 私の救い主、私の主と
告白する ことは、霊の家である教会を作っていくために決定的に大切なことなのです。
4,霊の家に築き上げられる目的
では、次に進みます。私たちが生ける石として霊の家に築きあげられる目 的は何でしょうか。5節をもう一度読みます。「あなたがたも生ける石とし て、霊の家に築きあげられ
なさい。そして聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
この5b節に、私たちキリスト者一人一人が教会に結びつけられていく目的が示されています。それは、「聖なる祭司としてイエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえ をささげなさい。」と述べられていることです。
この霊のいけにえをささげるとは、どういうことでしょうか。それは、神様を礼拝し、自分自身を献げることです。この言葉は、旧約の時代に祭司たちが、神様に動物のいけにえを献げて、神 様を礼拝し、献身を表し、神様の恵みを感謝し、罪の赦しを願ったことが背景 にあります。現在、私たちは祭司を通して動物のいけにえをささげて神様を 礼拝することはしません。なぜなら、イエス様が、十字架に架かり、私たちの 罪の赦しのためのいけにえになってくださったからです。
そして特別なクリスチャンだけではなく、すべてのクリスチャンが、誰でも神様に直接仕える祭司としての立場が与えられました。ですからクリスチャンたちは、みなが、一つ信仰に立ち、偽りのない愛で結ばれて、イエス・キリストによる十字架による贖いを感謝し、神
様を礼拝するのです。それが霊のい けにえをささげるということなのです。
ヘブル人への手紙13;15節にこう述べられています。「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち、御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではあり
ませんか。」神様に喜ばれるいけにえとは、ここに 述べられている様に賛美のいけにえ、御名を讃えるくちびるの果実です。即 ち、この様な礼拝です。それは、神様を崇めて賛美
し、イエス・キリストによ る救いを心から感謝して、自分自身を主に献げていくことです。
霊のいけにえを献げるということで、もう一つ大切なことがあります。霊のいけにえをささげるとは、主日礼拝だけに限られたことではありません。
ローマ12;1節に「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。それこそあなたがたの霊的な礼拝です。」と述べられています。私たちのからだ、即ち、全存在を神様のものとして献げて生きていく、それも、神に喜ばれる霊のいけにえをささげていくことなのです。
5b節には「聖なる祭司として」と言われています。クリスチャンはみな祭司としての立場が与えられています。祭司とは、人々に神と人との間に立っ てとりなしをする使命が与えられている者です。イエス様によって救われた私たちは、礼拝生活を大切にし、全存在を神様に献げて、みことばに従って生 きていきます。そして、御言葉を世の人たちに伝えていくことを通して、祭司としての宣教の使命を果たしていくことができるのです。
前回そして、今日、私たちは、「互いに心から熱く愛し合いなさい。」との教えを軸にして御言葉を聞いてきました。互いに愛し合うことが目指しているのは、神様の大切なみわざのためなのですね。教会の仲間たちが、いがみ合っているよりも仲良くしていた方が気分
がいい、とか、その方が楽しくていいというレベルのことではないのです。
それは、イエス様から受けた愛をもって互いに結び合い、霊の家を、即ち、キリストのからだである教会を築きあげて、霊のいけにえを献げるためなので す。そして、このことは、神様の救いのご計画の目的なのです。私たちは、そ の神様の救いのご計画の実現にあずかっているのです。
互いに愛し合い、霊の家を築き上げて、神様に喜ばれる霊のいけにえをささげていこうではありませんか。
祈 り
イエス・キリストの父なる神様。あなたは、あなたの救いのご計画の中に、私たちを、そして、私たちの教会を加えてくださったことを感謝します。私たちは、みな、イエス様の愛を受けた者たちです。その愛をもって互いに結び合い、霊の家を築いていくことができますように。そして、あなたを霊とまことをもって礼拝し、このからだをあなたに献げ、御言葉に従い、御言葉を伝えて 生きていくものとしてください。 主の御名によって アーメン
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