2006年10月01日(日) 主日礼拝メッセージ 「旅人であり寄留者であるあなたがた」
聖書箇所 ペテロの手紙第一2章11節〜12節
東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師
聖書(新改訳2版)ペテロの手紙第一2章11節〜12節
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )
11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり、寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲求を遠ざけなさい。
12 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。
メッセージ「旅人であり寄留者であるあなたがた」 東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師
1,これまでのこと と主題の提示
皆さん方の中に クリスチャンであることで迫害を受けたことのある。と言う方はおいででしょうか。戦時中を信仰者として過ごした方ならともかく、現代の日本では、クリスチャンだからということで迫害されるということは ないでしょうね。しかし、信仰を持っていることでいやがらせを受けた、また、付き合いの悪い奴だなどと仲間外れにされた、あるいは、今時神を信じるなんてと変人扱いをされたという方はいらっしゃるかも知れません。
前にも言いましたが、ペテロがこの手紙を書いた時代、イエス様が天にお帰りになって30年位後の時代ですが、クリスチャンになるということは迫害されることを意味しました。それゆえ、ペテロは、彼らが迫害に負けないで、その拠り所に確りと立つことができるように、キリスト者とはどういう存在か についてこの手紙の最初からずっと教えて来ました。その頂点ともいうべきことが前回学んだところ、2;9節に言われていることです。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有された民です。」
このことは、すべてのキリスト者の存在について言われているのです。
あなたがたは、神様によって選ばれた者たちなのだ、そして、神様に近付ける特権が与えられて神様と人々の間に立ってとりなしをする使命が与えられている。そして、神様のものとして、聖め分けられて、神様に属する者とされたのだとです。私たちは、誰もが、アダムの罪を引き継いで来ており、生まれながらにして罪の子でした。サタンに支配されている者でした。
しかし、神様はその様な中から私たちを選び出し、イエス様のいのちを代価にして、サタンの手から贖い取って、神様のものとしてくださったのですね。わたしの宝の民とまで言ってくださる存在にされたのです。これは、誰か立 派なクリスチャンについて言っているのではありません。イエス様を信じて生きようとしているあなたについて、私たち総てについて言われているのですね。神様は、私たちの信仰がすぐに揺れてしまうことをご存じです。です から何かの試練にぶつかっても、あるいはキリスト者であることを そしられても、揺らぐことがないように私たちの拠って立つところを このようにはっきりと教えてくださっているのです。
そして今日学ぶところもそのことについてです。ペテロの手紙は、さらに、私たちの存在の拠り所を示してくれています。その言葉が2;11節です。
「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者である あなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」
クリスチャンとは、旅人であり寄留者であると言われています。寄留者と は、一時的に住んでいる人という意味です。新共同訳聖書では「仮住いの身」と訳しています。では、クリスチャンが旅人であり寄留者であるとはどうい うことを言っているのでしょうか、また、旅人、寄留者として生きるとはどういうことなのか、これが今日のメッセージの主題です。テーマです。
2,旅人であり寄留者であるあなたがた
先ず、11節で「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。」と呼び掛けています。これは神様からの呼び掛けです。この手紙は、直接には使徒ペテロが書きました。しかし、そこに聖霊が働いてこれを書かせ、神の言葉とされているからです。このとき、クリスチャンたちは迫害の中にありました。
そこで彼らは、神様から「愛する者たちよ、わたしはあなた方に勧めの言葉を語りますという呼び掛けを聞いたのです。ここにある「勧める(παρακαλω)」という言葉は、傍らに呼ぶ、慰める、励ます、力づけるとも訳せることばです。ですから神様は、迫害で苦しんでいるクリスチャンたちに慰め、励ましの言葉をもって支えてくださっているのです。
私たちもどんな苦しみの中にあっても、聖書を読むときに「愛する者よ」と いう神様からの呼び掛けを聞くことができるのです。御言葉と御霊が働いて神様からの慰め、励ましを受けることが出来るのです。このことは皆さん方 の中にも経験された方が大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
さてここにどういう慰めの言葉が語られているでしょうか。それは「あなたがたは旅人であり、寄留者である」と言われていることです。
あなたは、旅人で寄留者なのだ、と言われると拠り所のない存在の様に思えますが、そういうことではありません。天にまことの故郷を持っているということです。クリスチャンはこの世が目的地ではなく、天の御国を目指して 生きる者なのです。私たちの目的は、この世ではありません。と言ってもこ の世の生活をいい加減に生きてもいいということではないのです。
この世の生活ですべてが終わってしまうのでははない。私たちキリスト者の最終目的は、天の御国にイエス様とともに生きることにあります。それゆえに、この世にあっては旅人であり、寄留者なのです。
そのことが分かり易く述べられているのが、先程、交読をしたヘブル人への手紙11章です。ここには、アブラハムを始めとして、旧約時代の聖徒たちが、 天の故郷を目的とし、この世にあっては、旅人として、寄留者として生きたと記されています。もう一度ここをお開きください。
新約聖書ヘブル人への手紙11章8〜16節を説明を加えながら拾い読みをします。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は(アブラハム)約束の地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサク、ヤコブとともに天幕生活をしました。」 アブラハムという人物は、信仰の父とも言われている人です。彼は、紀元前二千年頃、カルデヤ、即ち、バビロンのウルという町に住んでいました。神様は、彼を神の民イスラエルの祖先にするために、そこから選び出し、わたしの示す地に行きなさいと命じられました。
アブラハムは、その神様の召しに応えて故郷を出て、神様の導かれた地カナンに到着しました。目的地についたのです。しかし、不思議なことですがそこにあっても彼は、他国人のようにして住み、定住するようなしっかりした家を建てることをしないで、天幕生活をしたのです。彼は、そこが神様から与 えられた地なのに、一坪の土地さえも所有しませんでした。
なぜ、アブラハムは土地を買ったり、家を建てたりしないで天幕生活をしたのでしょうか。その理由が、10節に次のように記されています。
「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を、待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」アブラハムは、神様が設計し、建築したところの堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからと述べられています。その都とはどういうところでしょうか。16節に「彼らはさらにすぐれた故郷、すなわち、天にある故郷にあこがれていたのです。」とありますから、天の御国のことですね。そこを目指して生きたのです。
さらに、アブラハムだけでなく他の旧約時代の聖徒たちについても次の様に言われています。13〜14節です。「13これらの人々はみな、信仰の人々とし て死にました。約束のものは手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。14彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。」これらの人々とは、アブラハムを始めとして旧約時代の聖徒たちです。アベル、エノク、ノア、イサク、ヤコブ、モーセと言った人 たちです。彼らも神様が約束してくださるまことの故郷が天にあることを信じて、そこに入ることを最終目的として生きていたのでした。
そしてそのためにこの世の生を神様に喜ばれるように生きようとしたのです。彼らは、ただ自分の名誉や自分の利益を満たすために生きたのではありません。地域の人たちとも争わず平和に過ごしました。そして、その生き方 全体を通してまことの神様の存在を証ししたのです。
よくこういうことが言われます。信仰を持つのはいいが、神様、神様と言って教会のことは一生懸命になるが、家のことがいいかげんになる、この世の仕事を疎かにするなどとです。ですが、もし、そういうことであったらそれは正しい信仰に生きているということができません。今読んでいるところでもそのことが教えられます。次にそのことについてです。
3,肉の欲をとおざけ、りっぱにふるまいなさい
それでは、11b〜12a節を読みます。
「旅人であり、寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」
キリスト者は、天の御国を目指してこの世を旅人として、寄留者として過ごしますが、旅の恥はかきすてのような生き方をしてはいけないのです。
ここに二つのことが求められています。第一は、魂に戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさいということ。第二は、この世にあってりっぱに生きなさいと いうことです。毎日の生活を通して神様の存在を証しできるような生き方をするのです。
魂に戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさいと聞くと肉体の欲望をそれが何であれ遠ざけて、精神生活に励むことだと思うかも知れません。ですがそうではありません。肉の欲とは、精神的、肉体的に関わらず罪に支配された欲のことです。信仰を持つ前の古い自分を動かしていた心です。ガラテヤ人への手紙5章16節以降には、肉の欲望として、不品行、好色、偶像礼拝、敵意、争い、憤り、分裂、分派、嫉み、酩酊、遊興などがあげられています。こうして見ると肉の欲とは、自分中心から出た心、また何よりも自分を満たそうとする心と言えるでしょう。人間は神様を第一にすることを忘れたときに、この肉の欲に、即ち、 自分を第一にする罪の心に支配されるものとなってしまうのですね。
そういう欲に支配されるときに、私たちは、神様のことが分からなくなってしまいます。神様が私たちに求めていること、また、他人の痛みや、悲しみを わかろうとする心を失ってしまうのです。それゆえ、神様は、魂に戦いをいどむ肉の欲、これを遠ざけなさいと言われているのです。
次にもう一つここで勧められていることです。12a節に「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」と言われています。「異邦人の中にあって」とは、この世にあって、あるいは神様を信じない人たちの中にあってという意味です。私たちは、肉の欲に支配されて生きていたところからイエス様によっ て救われて神様のものとされました。と言っても直ちに天の御国に入るのではありません。もうしばらくは、この世にあって生きるのです。祭司として の役目、神様を証しする使命が与えられて、まだ神様を知らない人の中で生きるのです。それゆえに「りっぱにふるまいなさい。」と言われているのです。端的に言えば神様の存在が証しできるような生き方をしなさいということですね。この「りっぱ(καληγ)」と訳されている言葉は、善い、美しい、魅力のある、とも訳せることばです。従って、「りっぱにふるまいなさい」というのは、
まだ神様を知らない人が見たときでも、あの人の生き方はいいな、美しいな、魅力のある生き方だなと思わせるような生き方でありなさいということです。
私は、ここを読んでいて、この「りっぱにふるまいなさい」という表現はいいなと思いました。立派な行いをしなさいというのでなく、立派にふるまうのです。何か立派な行いを見つけて、それをしようとすることではありません。
自分は、神様のご支配の中を生かされているという信仰をもって、魂に戦いをいどむ肉の欲を遠ざけて生きようとするのです。そのときにその行いの一つ一つが人を信仰に導く立派な行い、善い、美しい行いになるのです。
それでは、りっぱにふるまうことでどういうことが起こるのでしょうか。 12b「そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」と言われています。
それは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていた人が、また、クリ スチャンになることに反対していた人が、クリスチャンの立派なふるまいを見て、ああ善いな、美しいな、魅力のある生き方だなと思って、神様を誉め讃えるようになるのです。「おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」と述べられています。 「おとずれの日」とはいつなのか、いろいろな説があります。イエス様が再臨される日とか、最後の審判の日という解釈があります。また、神様がその人を訪れる日、即ち、イエス様の救いにあずかって恵みに入れられる日という理解もあります。
しかし、いずれにしても、あなたがたのりっぱなふるまいを見て、神様を誉 め讃える様になる。イエス様を信じて救いにあずかるようになるのです。
神様が、この世を生きるクリスチャン求めておられることは、信仰をもって生きて立派に生活することです。私たちの生き方を通して確かに神様はおられることが明らかにされることです。神様を信じて生きることによって、こ の世に偽りのない愛が、真実が、平和が、また正義が、そういう善きものが現わされていくことなのですね。ですから神様を信じて生きるということは、こ の世の生活を疎かにして生きてはいけないのです。職場でも、学校でも、家庭生活でも、この世の営みを、神様から与えられた恵みであると感謝して受け、 神様の御心を求めて精一杯生きようとすることです。
4,この世の歩みで苦しみがないわけでない
しかし、私たち、キリスト者がこの世を旅人として、寄留者として生きると きに苦しみがないわけではありません。この世は罪の世ですから神様のものとして生きようとするときに、魂に戦いをいどむ攻撃があります。悪人呼ば わりをされるということもあるでしょう。また、自分自身が、心や体を病むとか、現実の問題に苦しむということもあります。人からいわれのない悪口を 言われることもあるでしょう。
イエス様は、ヨハネ16;30節で「あなたがたは世にあっては患難があります。」と仰せられています。また、このペテロの手紙でもそのことは、はっきり記しています。すでに学んだところですが、1;6〜7節で「あなたがたは、‥いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならない、‥」と言わ れています。同じく5;10節では、「‥神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦 しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」と述べられています。私たちの信仰の先輩たちは、この世にあって信仰の戦 いがありました。しかし、彼らは皆、神様のものとされ天にまことの故郷があることを知っていましたから、その戦いに耐えて神様を信じ続けて生きたの です。その意味で立派に生きたのです。
私たちも苦難があっても、やけっぱちになったり、絶望して、信仰も人生も 捨てるなんていうことをしないで、神様がそれを皆ご存じであり、益にしてくださることを信じ、苦しみにも耐えて生きるのです。それが立派に生きると いうことなのです。先程読んだヘブル人への手紙11章をもう一度お開きください。16節に天の御国への信仰に生きる者たちに対する何よりもの励まし、 慰めの言葉がここに語られています。16節を読みましょう。
「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」
神様は、天の故郷に望みを持って生きる者たちの神と呼ばれることを恥と なさらないと言われています。それはどういうことでしょうか。それは御言葉をその通りに信じて、神様に望みを置いて生きる者たちを、神様がご自分に属する者、ご自分のものと認めてくださるということです。現在どんなに未 熟で、失敗が多いとしてもです。私たちは、もし、自分の子どもがしばしば問題を起こしたり、人に迷惑をかけたりするとどうですか、あの子の親だと言われることで恥ずかしいと思うことがないでしょうか。
けれども神様は、違うのです。しばしば神様を悲しませる様な私たちなの に「彼らの神」と呼ばれても恥とはされないと言われるのです。神様は、私たち人間が神様に背いて罪ある者となり、滅びる者となったことを憐れんでく ださいました。そして、御子イエス・キリストによって私たちの罪を十字架 で贖い、私たちを天の御国の民としてくださいました。「宝の民」と言ってく ださったのです。そして、イエス様は、私たちのために、天に場所を備えると 約束してくださいました。その天にある故郷を目指しての信仰の歩みを続けていきたいですね。現実に圧倒されてしまうことなく、益々イエス様を信頼 して従い魂にいども肉の欲を遠ざけ、立派に生きていこうではありませんか。
祈 り
天にいます父なる神様。あなたは、私たちが神様に背いて罪あるものとなり、帰るべきまことの故郷を失ったことを憐れんでくださいました。そして、
救い主イエス様の十字架によって罪を贖い、御国に生きるものとしてくださったことを感謝します。この世にあって患難に会うかも知れません。しかし、
どんな時でも、天にまことの故郷があることを覚えて、旅人であり寄留者であるあなたがたは、魂に戦いを挑む肉の欲を遠ざけなさい、立派にふるまいなさいという御言葉のように生きられるものとしてください。 御名によって
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