2006年10月29日(日) 主日礼拝メッセージ 「自由人として生きよ」
聖書箇所 ペテロの手紙第一2章13節〜17節
東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師
聖書(新改訳2版)ペテロの手紙第一2章13節〜17節
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )
13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、
14 また、悪を行なう者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
15 というのも、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
16 あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。
17 すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。
メッセージ「自由人として生きよ」 東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師
これまでのことと本日の主題
一つ質問をしてもいいでしょうか。皆さん方は、他からの影響で動かされ易いと思われますか、それとも他から何を言われても、あまり影響を受けないと思われるでしょうか。私たちは、誰でも、一個の人格を持った人間として生きていくためには、自分はどういう存在なのかという、その自分というものに対する認識がとても大切なのです。最近よく使われる言葉で言えば、アイデンティティーが確立されていることです。そうでないと周りの人たちの言葉や状況によって直ぐに動かされてしまうからですね。自分を見失い、劣等感を抱いて落ち込んでしまったり、反対に自信過剰になって、これまた本来の自分を見誤ったりするからです。
ペテロがこの手紙を最初の頃の教会のクリスチャンたちに書き送った時は、クリスチャンに対する迫害が強かったときでした。それゆえペテロは、迫害 に会ってもその信仰が揺るがないようにクリスチャンとはどういう存在かを丁寧に教えてくれているのです。あなたがたは、神様によって選ばれて、イエス・キリストの十字架により罪がきよめられました。今は神様のものとされ、神様に愛されている存在なのです。と語っています。
私たちクリスチャンの存在の根拠は、自分の持つ何かによっているのではありません。神様に選ばれ、神様のものとされ、神様に愛されているところにあるのです。
そして前回学んだことは、2;11節の言葉でした。これも、私たち主にある者たちの拠って立つところを示す言葉です。ここに「旅人であり、寄留者であるあなたがた」と言われています。このことばの意味していることは、私たちキリスト者は、帰るべき故郷を天に持っているということです。ピリピ人への手紙では同じことを「私たちの国籍は天にある」と記しています。これもクリスチャンは、天に属する者、即ち、神様のものとされているということです。
ペテロの手紙はこの様に私たちキリスト者はどういう存在であるかを丁寧に教えた後に、今日から学ぶところですが、他との関係においてどう生きたらいいのかについて教えるのです。この社会制度の中でどうあったらいいのか、
しもべの主人に対する在り方、また、妻の夫に対する在り方、夫の妻に対す る在り方、あるいは、教会の中でのお互い同士の在り方について教えるのです。
私たちキリスト者は、この世では旅人であり、寄留者であると言われていますが、それは、この世は仮の世なのだからいい加減に生きていいということではありません。これも前回学んだことですが、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」と教えられていました。「そうすれば、彼らは、何かのことで、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」と言われていました。
イエス様は、父なる神様が、イエス様を世に遣わされたように、わたしも(イエス様も)、あなたがたを、世に遣わします。と仰せられています。
私たちは、この世に属していたのを、イエス様の救いにあずかって神様のものとされました。天に属するものとされたのです。そしてそこから神様を証しする者としてこの世に遣わされているので、他との関係が大切なのです。
その最初に教えられていることが、今日読んだところ、13節「人の立てたすべての制度に主のゆえに従いなさい。‥」ということです。
私たちは、現在、それぞれが置かれている社会制度の中でどう生きていくべきか、またそのためにはどういう心であったらいいのかを、御言葉に聞いて いきたいと思います。このことが今日のメッセージのテーマです。
2,人が立てた制度に従いなさい
それでは、今日の聖書箇所に入ります。先ずTペテロ2;13〜14です。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者であ る王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王 から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」
クリスチャンたちは、この社会にどういう関わりを持って生きたらいいのか、ペテロの手紙は、「人の立てたすべての制度に主のゆえに従いなさい。」と教えます。「人の立てたすべての制度」とは何を指しているのでしょうか。 それは、日本という国家や、札幌市という地方自治体、また、会社や学校から個々の家庭に至るまでのすべての人が立てた制度です。また、ここで言われている王とか総督というのは、今で言うならば、内閣総理大臣であったり、知事や国会議員、地方議会の議員であったりする人たちです。そのような人が定めたすべての制度に主のゆえに従いなさい、と言われているのです。
それは、神様によるのでない、人間が立てた制度であり、立場だから、それが良い方向に機能しているなら、従うべきであるが、そうでないならば従う必要がないというのではありません。
ペテロの手紙は、当時クリスチャンたちが、どういう状況のもとに置かれていたかを良く知っていたのにずいぶん思い切ったことを言っています。
初代教会のクリスチャンたちが置かれていた状況は、すでにお話してきた ことですが、ローマ皇帝の迫害のもとにありました。このペテロの手紙が書かれた当時のローマ皇帝はネロという人物でした。彼は、その支配力を強め るために、支配しているすべての民に対して、自分を神として礼拝することを命じたのです。それは唯お一人の神様だけを礼拝するクリスチャンにはできないことです。そのためにクリスチャンたちは、迫害されることになりました。
しかし、ペテロの手紙は、そのような支配者にも従えと言っているのです。
このペテロの教えは、どこから出たものでしょうか。彼は弟子としてイエス様のそば近くに仕えていましたから、イエス様から教えられたことだったのでしょう。イエス様は、ユダヤ教指導者たちから当時イスラエルを支配していたカイザル(ローマ皇帝)に税金を収めることは律法にかなっているでしょうか、かなっていないでしょうか、という質問で試みを受けました。
その時、イエス様は、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」と税金を収める様に言われたのです。
また、イエス様は、神殿への納入金を求められたことがありました。その時も、イエス様は、神の御子であるから納める必要はなかったのですが、人につまづきを与えないためにと言って、弟子にそれを納めさせたのです。ペテロのここでの教えはそういう経験から出ているのでしょう。
そして、これはペテロだけではありません。使徒パウロもまた同じ趣旨の教えをローマ人への手紙で述べています。
新約聖書ローマ13章1〜2節を読みます。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。従って権威に逆らっている人は、神の定めに背いてもい るのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」
この上に立つ権威とは、神様のことではなく、人間社会の政治的な支配者のことです。パウロは、ペテロ以上にはっきりと言っています。この「神によって立てられている」というのは、神様が直接ネロを任命されたという意味ではなく、神様のご支配の中でそれが許されているということです。
ペテロも、パウロもこの時、クリスチャンたちがどういう状況の中に置かれているかは良く承知していました。主の民たちはその信仰のゆえにこの世の制度や権威から苦しめられていました。それなのにペテロが「人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。」と言っているのは、なぜでしょうか。
また、パウロが「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。‥」と言っているのはなぜでしょうか。それは、ペテロもパウロも、この世界のすべてのことは父なる神様のご支配のもとにあることを堅く信じていたからです。
あれは悪い王様だから、彼が王となったのは、神様のご支配が届かなかったからとか、こんな悪い制度があるのは、この領域は神様のご支配の外にあるからなのだなどと考えるのは間違いですね。私たちの考えで納得できないことがあっても、この世界のどんなところでも神様のご支配の外にある世界はないのです。それゆえ、ペテロもパウロも、人が立てたすべての制度に、また、上に立つ権威に従いなさいと言っているのです。
3,なぜ、神様は上に立つ権威を定められたのか
それでは、次のことです。神様の前に人はみな平等であるのに上に立つ権威を定められたのはなぜでしょうか。
ペテロの手紙2;14節に「‥悪を行なう者を罰し、善を行なうようにほめるように王から遣わされた総督であっても‥」と述べられています。神様が、人間社会に上に立つ権威を定められたのは、もともとは神様に代って、悪を罰し、善を誉めてその社会を治めさせるためです。混乱ではなく、秩序を与えて、人々がみんなが幸せに生きられるようにするためです。
神様は、初めにこの世界を造られたとき、そこに秩序を定められました。この自然界を見るときにそこに秩序があることが分かります。私たちのこの体が保たれていくところにも秩序があります。それが乱れると病気になりますね。この世界はすべてが神様の定められた法則に従って保たれているのです。そしてさらに、聖書は一貫して、人間社会にも秩序がなければならないことを述べています。そのために社会の秩序が定められています。政治的支配の中に秩序があります。また、夫と妻の間に秩序があります。家庭の中にも父親の権威があり、秩序があります。教会の中にも秩序があります。コリント人への手紙第一14章を読みますとコリントの教会では集会のとき皆が勝手にしゃべりたいことをしゃべっていたようです。それでパウロは戒めて「ふたりか、多くても三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい」(29)と教えました。そして、その理由について「それは、神は混乱の神でなく、平和の神だからです。」(33)と述べています。
神様はローマ皇帝のように神の民たちを苦しめる王が現われることを予測されていました。そうであっても上に立つ権威を定められたのは、世界を無秩序から救い、人々が恩恵を受けるためなのです。
権力が間違っている時は、信仰の良心に従ってはっきり証しすることは大切なことです。けれども、権力に対するクーデターの様な実力行使は過去の 歴史を見ても成功していません。むしろ力によって問題を解決しようとすることが、争いに争いを呼んでいる事実を見るのです。
アフリカなどで、権力抗争、民族紛争によって次々に政権が交替している国々を見ますと、そのことで一番被害を受けているのは民衆です。その中でも弱い立場の老人、婦人、子どもたちが一番の被害者です。その様なことを見るときに、権威と秩序を守るのが大切であることが良く分かるのではないでしょうか。
4,自由人として行動しなさい
さて、「人の立てたすべての制度に従いなさい」ということをお話してきましたが、もしかしたら一つ疑問が残るかも知れません。それは、この世の権威や制度がいつも正しいとは限らない。それらがもし信仰に背くようなことを強いたら、または、悪を行なうような場合にはどうしたらいいのかということについてです。本来、政治的指導者は、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるということを通して、国民の皆が平和に幸せに生きられる秩序を与える使命が与えられているのです。ところが、政治的指導者が神様の御心に反 して悪を行うようになったらどうしたらいいのでしょうか。
そのことに光を与えてくれる御言葉が、13節「人の立てた制度に主のゆえに従いなさい、」ということ。そして、16a節「あなたがたは自由人として行動しなさい。」と言われていることです。
それでは、自由人として行動するということは、どうすることでしょうか。
それは、信仰の自由に基づいて行動するということです。信仰の自由とは、神様に従うゆえに誰にも、何ものにも縛られない自由のことです。
また、パウロは、上に立つ権威に従うことに対して「良心のためにも従うべきです」と述べています。これは、従うことの限界は信仰の良心が許す範囲ということです。ローマ皇帝を神として拝むことは、クリスチャンたちには出来ないことでした。信仰の自由を犯し、また、信仰の良心に反したからです。
しかし、クリスチャンたちは、そのことでクーデターを企むことはしませんでした。そして、ローマ皇帝の定めに従って処刑されたのです。
ペテロは、「あなたがたは自由人として行動しなさい。」と言っていますが人間はどうあるときに本当に自由なのでしょうか。どんな人でも自由が束縛されることを嫌います。神様を信じて生きていきませんかと人に勧めたときに返ってくる返事の一つに自分は自由でいたいから神様を信じないと言われることがあります。皆さん方は、神様を信じなかったら自由だと思われるでしょう。こういうことは、高いところから一方的に話すのではなく、皆さんと膝を突き合わせて話し合いたいことです。
神様が世界の初めに創られた人間であるアダムとエバは、神様から自由になろうとして神様に背きました。けれどもその結果はどうだったでしょうか。自由になるどころか、反対に罪と死の奴隷として生涯を送ることになってしまいました。それ以来人間はこのアダムの罪を受け継ぐ者とされたのです。このことは、本当の自由が、どこにあるかを教えてくれます。人間が自由になれないのは、罪に縛られるからです。自分の欲望から自由になることができないのです。肉の欲、すなわち、自分を、誰よりも、神様よりも大事にしようとする自分中心の思が自分を奴隷として束縛し続けるからです。
使徒パウロはそういう、罪の支配の中にある人間すべての姿について、これは罪の奴隷となっている人間すべての者の姿ですが、次のように言っていま す。ローマ人への手紙7;15,22〜23節の言葉です。
「15私には、自分のしていることがわかりません。私は自分のしたいと思 うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。‥ すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には、異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、 私を、からだの中にある罪の律法ののとりこにしているのを見いだすのです。」そう述べています。「内なる人」とは信仰によって生まれ変わった新しい自分ということ。あるいは、神様に造られたときの本来の人間ということです。「私のからだ」とは、肉体のことでなく、私という全存在のことです。
従ってここで言われていることは、こういうことです。私の中には、神様の御心を喜び、そうありたいと願っているのに、私の中には罪に捉えられている心があって、その心のとりこになっているのを知らされる」とです。
生まれながらの人間は、誰も、一人の例外もなく、罪を持って生まれてきて罪の奴隷になっているのです。罪と死から逃れられなくなってしまったのです。しかし、私たちをお創りになった神様は、そんな私たち人間を憐れんでくださいました。そして、罪と死の奴隷から救い出すために御子イエス・キリストを救い主として世に遣わしてくださつたのです。
イエス様は、私たち人間のすべての罪をその身に負って、その罰を十字架で受けてくださいました。罪の奴隷になっているところから贖い出して、神様 のご支配の中に入れてくださったのです。解放された自由人として神様に仕える者とされました。
17節に「すべての人を敬いなさい。兄弟を愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」と勧められていますが、キリストの十字架によって自由が与えられたときに、真に、神様を恐れ、支配者を敬い、人を愛することができるのです。
なぜなら、このような生き方を妨げていたのは神様よりも、誰よりも自分を第一にしようとする罪の心であるからです。
16節に「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実 に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」と勧められています。
最初の人間アダムは、人間にだけ与えられていた自由を悪を行うために用いました。その結果、自由を失ってしまったのです。ガラテヤ人への手紙5;1節では、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたはしっかり立って、またと、奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」と戒められています。
私たちは、イエス・キリストの尊い犠牲によって、罪と死から解放されて何ものにも捕われない魂の自由が与えられたのです。その自由を、悪を行なうことに用いることをしないで、神様に従うことに用いて、神様に祝福された人生を歩んでいこうではありませんか。
祈 り
神様は、私たち人間が、幸せに生きられるように社会制度を定め、秩序を与えてくださいました。私たちは、自分中心の心にあるならば、それを壊したりそこからはみ出して、不幸になってしまうことを教えられました。
イエス様は、その尊いいのちを犠牲につて、私たちを罪と死の支配から解き放って、神様の御心にかなって生きられる自由な心を与えてくださったことを感謝します。その心をもって他に動かされることなくいつも主に従い、神様が与えてくださる祝福の中を生きていくことができますように。アーメン
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