2006年11月29日(日) 主日礼拝メッセージ 「キリストを模範として」
聖書箇所 ペテロの手紙第T2章18節〜25節(18節〜21節)
東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師

聖書(新改訳2版)ペテロの手紙第T2章18節〜25節
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )

18 しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。 19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。 20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるのでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることです。 21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。 24 そして自分から十字架の上で、私達の罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のためにいきるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
メッセージ「キリストを模範として」 東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師

1,これまでのことと本日の主題
 この手紙を書いたイエス様の弟子ペテロは、もとは、ガリラヤ湖の漁師でした。彼はクリスチャンとしての拠り所を丁寧に教えた後に、この世にあってどのように生きたらいいのか、その生活のありかたについて、実際的に教えるのです。クリスチャンは皆、天の御国に国籍を持ち、この世にあっては天を目指す旅人であり、寄留者なのだと言われてきました。  しかし、それだからと言って、この世からかけ離れて生きていいのではありませんね。世捨て人のようであってはいけないのです。私たちの国籍は天にありますが、そこからこの社会に遣わされて、神様を証しし、イエス・キリス トによる救いを知らせる使命が与えられているからです。  その最初に教えられたのが、2;13節「人の立てたすべての制度に主のゆえに従いなさい。」ということでした。この世の政治的支配や、社会制度の中でそれに従うのです。神様を恐れ、上に立つ人に従い、すべての人を敬い、兄弟たちを愛して生きるのです。  人が立てた制度であっても、その背後に神様のご支配があることを私たちは信じていますから、そこに従うのです。しかし、そのようなときに忘れてはならないことがあります。それは自由人として生きることです。人の立てた制度に従う場合にも、盲目的に、考えなしにこの世の価値観に縛られて行動してはならないのです。神様のものらしく、神様の存在を証しできるような生き方をするのです。  私たちキリスト者は、イエス様によって罪の支配から解放されて神様のものとされました。もう自分中心の心、自分の名誉や利益、欲に縛られることなく、なにものにも妨げられない自由な心で生きられるものとされたのです。  そういう前提に立って、今日、読んだ、2;18節以降のところで、クリスチャンそれぞれの立場においてどのようにあったらいいのかが示されます。  ここではどういう人たちへの教えが述べられているでしょうか。  では、Tペテロ2;18a節を読みます。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。‥」「しもべたちよ。」と呼び掛けられていますから、当時の社会にあって「しもべ」と呼ばれていた人たちへの教えです。

2,しもべたちよ
 それでは、この「しもべ」とはどういう存在でしょうか。当時「しもべ」と呼ばれていた人たちは、個人の家庭に仕えていた人たちのことです。  この「しもべ」というところを、新共同訳聖書やリビングバイブルでは「召使い」と訳しています。今の日本でいうならば、やや意味が狭くなってしま いますが、分かりやすく言えば「ヘルパーさん」とか「雇われている下働きの人」といったところでしょうか。現代訳聖書では「人の下で働く人」となっています。会社に勤めていても、アルバイトでも、ある意味では人の下で働く者ですね。ですから、「しもべ」というのを そういう意味にとって私たち自身のこととして読むことが出来ると思います。  当時のローマ帝国は、大きな力をもって周りの国々を支配していました。 そして、その国の中の役に立ちそうな人たちを捕虜にして連れ帰り、ローマ人の家庭の召使いにしたのです。その人たちがここで言われている「しもべたち」です。ですから「しもべ」と呼ばれている人たちの中には、もとお医者さ んとか、教師、また芸術家など教養のある人たちも多くいました。彼らは、い わゆる奴隷階級の人たちとは違うのです。けれども、人に仕えることを強制 させられていた点では、奴隷に近い立場にあったと言ってもいいでしょう。  彼らは、個人の家庭にあって、ご主人や奥さんの仕事を助けたり、子どもたちの世話をし、勉強を教えたりもしました。当時のローマ社会には、こういう人たちが、いわゆる奴隷階級の人たちも含めて、六千万人もいて、ローマ市民権を持つ自由人よりもはるかに多かったと言われています。  そして、クリスチャンたちの中に、奴隷階級の人たちとともに、この「しもべ」と呼ばれる立場の人たちがとても多くいたのでした。  この立場の人たちは、当時の階級社会の厚い壁の中に置かれていて、人としての人格は認められず、家畜と同じように扱われていました。彼らは、人間であっても人権は認められないで、道具の様な存在でした。ですから 当然のことながら 彼らには、自由もなく、自己主張をすることもできませんでした。  聖書は、人間は神のかたちに造られた存在であり、ひとりひとりの魂は神様にとって尊い存在であることを教えています。ですから、その人格を無視して、自由を縛ることは神様に対する罪なのです。人間は、神様に背いたために、罪に支配されるようになってしまいました。   そんな私たちすべてを神様は憐れんでくださり、そこから救い出すために、神の御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。イエス様はその十字架の死によって、私たちを罪の奴隷から贖い出し、罪と死から解放して、 魂の自由を与えてくださったのです。  神様は、神のものとされた者たちを「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」と言ってくださるのです。当時、閉じられた 階級社会の中にあって人格をもった人間として認められていなかった「しもべ」や「奴隷」たちにとって、イエス・キリストによる救いは、まさに福音でした。良きおとずれでした。それゆえ、彼らの中から大勢の者たちが、イエス・キリストを信じて、魂の自由が与えられたことを喜んだのです。  しかし、当時の社会の中では、クリスチャンとなったからと言って自由になれるわけではなく、相変わらず人格が認められず、道具や家畜並みにしか扱われませんでした。けれども、彼らは、神様によって、ひとりの人間として尊ば れることを知りました。これまで、彼らの多くの者は、愛を知らなかった人たちでしたが、神様に愛されていることを知りました。そして、真に魂の自由が与えられたのです。  この様な奴隷の姿を描いたアンクル・トムス・ケビンという物語があります。1852年に、アメリカ南北戦争の9年前に、アメリカ人ストー夫人によって発表された作品です。この物語の主人公は、信仰の厚い黒人奴隷のトムです。  トムは、善良で優しい主人シェルビーに仕えていましたが、彼の農場が破産したことで冷酷無情な主人レグリーに売られます。主人レグリーは、トムを奴隷頭にする訓練の手始めに奴隷女を鞭で打ちたたくことを命じます。  それに対してトムはこう言うのですね。「ご主人様。私は夜も昼も喜んであなたに仕えます。生命と息がある限り喜んで働きます。けれども、主は、こういうことはしてはならない言われています。それでご主人様、私は、どうしても、そのことをすることができません。」  そう言うトムに対して主人レグリーは言います。「おまえは聖書からこういうのを聞いたことはないのか、『しもべらよ、あなたの主人に従いなさい。』そう書いてあるだろう。俺は、おまえの主人じゃないのか。お前のように老いぼれた黒い奴のために俺が千二百ドルの金を払わなかった。てのか、おまえの体だって魂だってみな俺のものじゃないのか。」  トムは答えます。「ご主人様、違います。私のこの体はご主人のものとして、一生懸命に働きます。ご主人様に喜んで仕えます。でも、私の魂はご主人様のものではありません。ご主人様は、私の魂を買われはしなかった。買うことはできないのです。私の魂は守ってくださることができるただ一人の人に買われて、その代価が支払われているのです。私の魂は、私の主であるあの方のものなのです。」  これは、18世紀におけるアメリカの一クリスチャンの黒人奴隷の姿を描いたものですが、ペテロの手紙が書かれた時代のクリスチャンのしもべたちや、奴隷たちもこれと同じような立場に置かれており、これと似たことを経験していたのではないでしょうか。

3,不当な苦しみを受けても 18〜20,
 ペテロは、そのような立場にある「しもべたち」にどういう教えをしたのでしょうか。18節をご覧ください。  「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」  ペテロの手紙は、しもべたちに「尊敬の心を込めて主人に服従しなさい」 と教えています。しかも、「善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」 と言うのです。このペテロの手紙が教えている対象はクリスチャンのしもべに対してです。  キリスト者になるということは、神様のものとされて他の何ものにも支配されない自由が与えられたということです。現に16節では「あなたがたは自由人として行動しなさい。」と言われています。だからもう奴隷の身分に甘んじないで自由の身になるように努力しなさいと教えるのが順当のように思われます。あなたがたは、もう誰のものでもありません。イエス様のものとされたのですから自由に生きなさい。誰にも従わなくてもいいのです。と教えてもよさそうに思えます。  しかし、ペテロの手紙はそうではなく、「尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。‥横暴な主人に対しても従いなさい。」と述べてています。  これはどういうことなのでしょうか。なぜ、横暴な主人にも従いなさいと言われているのでしょうか。横暴な主人とは、乱暴で、わがままで、不親切な主人ということです。なぜ、そんな主人にも心から従いなさいと言われているのでしょうか。それは、そういう主人にも我慢して従うなら、真に仕えることになり、神様が喜ばれるからです。    イエス様が、私たちにクリスチャンに求めておられることの一つは、人に仕えることです。信仰生活の中心は人に仕えることにあります。このことは後でもう少し詳しく申しあげますが、人に仕えることはクリスチャンのあり方の大切な一つの姿なのです。  心から従い、仕えるというのは、相手がどうであっても仕えることです。 「善良で優しい主人」に仕えることは誰にでもできることです。自分が気に入っている相手にだけ仕えるのは、真に相手に従っているとは言えず、仕えているのでもありません。自分の喜びのため、自分が満足をするためなのです。 それは自分が好きな人のために何かをしたくて、しているのと同じようなものです。それは相手のためのように見えても結局は自分のために過ぎません。  ここに、相手が横暴な主人であっても、また、気難しい主人であっても、無慈悲な主人であっても「尊敬の心を込めて」仕えなさいと言われているのです。「尊敬の心を込めて」とは、上辺だけでなく心から仕えなさい。ということです。 皆さん方はこの勧めの言葉を聞いてどう思われるでしょうか。  私たちの教会の中には、ここで言われているような「しもべ」または「奴隷」の立場の人はいないと思います。しかし、私たちは何らかの意味で人に仕えるという立場にあるのではないでしょうか。会社勤めをしていれば、上司に従い、仕えることになります。妻の立場にある人は、夫に仕えています。子どもの立場にあれば親に従うことが求められるます。老いては、子に従えといわれますから、各々自分の立場で考えることができます。  人に従い、仕えるときに難しいのは、、相手が上に立つ権威を傘に着て、横暴で、尊敬できないとき、理不尽で、正しくないときでしょう。仕える相手が無理ばかりを言い、仕える者の大変さを少しもわかってくれないときですね。  そのような相手であっても尊敬の心をもって従い、仕えることができるためには、神様の御言葉によって心が変えられていなければ、すなわち心が砕かれていなければできないことです。  少しでもプライドが残っていたらその様にあることはできないでしょう。  ペテロの手紙が、横暴な主人に対しても従いなさいと言われている背景には、神様のものとされたクリスチャンが、人に対してどういう態度をとるかが神様に問われているのですね。私たちが、どれだけ主の御姿に似たものとされているのかが問われているのです。  19〜20節をご覧ください。「19人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。 20罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからと言って、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」  私たちが、横暴で、理不尽な相手に従い、仕えることで不当な苦しみを負うことになっても、神様がそういう態度をとることをお望みであると信じて、そうするならば、それは神様に喜ばれることなのです。      不当な苦しみをも喜んで負えるために大切なことは、自分を捨てることです。人のために苦しむということは、自分の得とか、自分の幸いを相手のために捨てることです。これは、神様を知らない人の生き方とは反対です。  普通、人は、捨てるためではなく、得るために努力します。自分の幸せを、また、利益を求めて生きます。では、なぜ、クリスチャンは、苦しみを負ってまで、人に仕えて生きることが求められるのでしょうか。

4,キリストは模範を残された
 21節をご覧ください。「あなたがたの召されたのは、実にそのためです。 キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」 これは重いことばですね。クリスチャンは、不当な苦しみを負ってでも人に仕えるように召されたのであるというのです。イエス様は、苦しみを負うことを通して、私たちの救いの道を開いてくださいました。そして、主は、救いにあずかった私たちが、イエス様の模範にならうことを求めておられるのです。  私たちキリスト者の目指すところはどこでしょうか。クリスチャンたちはみな、イエス・キリストの弟子とされたものですね。弟子というのは、先生から知識だけを学ぶ者ではなく、その生き方そのものをを学ぶものですね。師匠が生きたように生きるのが弟子です。  さて、イエス様は、どんな模範を残してくださったでしょうか。イエス様は、私たちが救われるために十字架の苦しみをその身に受けてくださいました。  イエス様は、ご自身について次の様に言われています。マタイ20;28節です。 「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、 また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」  イエス様がこの世に来てくださったのは、私たちのためでした。人に仕えるためでした。イエス様が、私たちの救いのためにどんな大きな苦しみを負い、犠牲をはらってくださったかは、この後、22〜25節に述べられています。このことについては、詳しくは次回に学ぼうと思っています。  イエス様は、神様である方なのに、この世に人となって来てくださいました。人としても低い姿をとって来てくださいました。神の御子なのに、崇められ、仕えられたのではなく、ひたすら人に仕えたのです。  イエス様は、貧しい人たちや、様々な苦しみの中にある人と共にあり、その苦しみを負われました。御国に生きる道を宣べ伝え、その最後は、罪のないお方であるのに十字架で処刑されました。イエス様は、私たちの罪をその身に負って身代わりの死を遂げてくださったのですね。イエス様は、その苦しみに耐えてくださったから、私たちは救いにあずかることがができたのです。 神様に愛される者としてその導きの中を生きられるものにされたのです。  ペテロは、クリスチャンとされたしもべたちに、そのあり方を教えることから語り始めましたが、終わりになって、この様に、イエス様のお姿を指し示す のです。あなたがたは、この方の苦しみによって救いにあずかることができ、イエス様のものとされた。そのイエス様の恵みを覚えて、イエス様の足跡に従って生きていこうではないか、あなたがたのうちには、イエス様の御姿が形つくられて来ている。苦しみを負い、犠牲を払ってでも人に仕えていくもの とされている。そのような生き方によってイエス様を証しする弟子であって欲しい。「それは、神に喜ばれることなのです。」そう述べているのです。  イエス様の救いにあずかった者が自分を捨てないで、自分を生かすことばかり求めるのは、イエス様のお姿とは、反対のありかたです。  イエス様は、マルコの福音書9;34〜35節で、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて次のようにお語りになりました。「‥だれでもわたしについて来たいと、思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうとする者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者はそれを救うのです。」                        イエス様の模範にならって、自分を捨てて、苦しみを負っても人に仕えようではありませんか。そのときに、私たちは、イエス様ご自身をより深く知りことができ、イエス様のお姿がこの身になっていくことができるのです。

祈 り
 父なる神様。あなたは私たちの救いのために、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださったことを感謝します。イエス様は、私たちの罪の贖いのためにご自身のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちは神様のものとなることができました。  主は、私たちがイエス様の模範にならって生きることを求めておられます。私たちも自分を捨てて、他者のために生きられるものとしてください。そのようにして、さらにイエス様を深く知り、イエス様に似るものに変えられていくことができますように。           主の御名によって
[メッセージリストへ戻る][ホームへ戻る]

東栄福音キリスト教会は聖書を誤りなき神の御言葉と信じるキリスト(プロテスタント)教会です。

Copyright (C) 2006 Toei Evangelival Christ Church. All rights reserved.