2006年12月31日(日) 主日礼拝メッセージ 「苦難のしもべとして」
聖書箇所 ペテロの手紙第T 2章18節〜25節(22節〜25節)
東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師
聖書(新改訳2版)ペテロの手紙第T2章18節〜25節
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )
18 しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。
19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるのでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることです。
21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24 そして自分から十字架の上で、私達の罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のためにいきるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
メッセージ「キリストを模範として」 東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師
1,イエス様にとってのクリスマスとは
今、ペテロの手紙第一2;18節から25節までを読みましたが、今日取り上げる中心のところは、22〜25節です。私たちの主であるイエス・キリストの苦しみの生涯について述べられているところです。
光のある楽しいクリスマスシーズンも終わりましたね。私たちの教会でも、クリスマスを祝う会がもたれ、共に喜びのときを過ごすことができました。 ここにおいでのほとんどの方は、イエス様がいらっしゃらなかったら、今の自分はなかったと思われるのではないでしょうか。その恵みを共に感謝したいと思います。
クリスマスは私たちにとっては、喜びのときですが、イエス様にとってはどういう生涯の始まりだったのでしょうかイエス様にとって、クリスマスは、苦しみを負って十字架に向かわれる生涯の始まりであったのです。
イエス様の家畜小屋での誕生は、クリスマスカードやクリスマスの劇にす ると、美しく、ロマンチックですが、現実は、苦難の生涯の始まりを表していました。神の御子である方が、この世にお生まれになるというのに、宿屋の一部屋もなく、暗く、寒く、不衛生な家畜小屋で、誕生されなければなりませんでした。それはイエス様が世に受け入れられないことのしるしでした。
また、マタイの福音書では、三人の博士たちが、幼子イエス様に黄金、乳香、 没薬という宝物を献げたことに焦点が当てられていますが、その背後には、ユダヤの王ヘロデの憎しみを買うことになったのを見落とすことは出来ません。
そのために、イエス様の両親は、ヘロデ王に赤ちゃんのイエス様が殺されない様に、遠くエジプトに逃れなければなりませんでした。今で言う難民です。 イエス様が、生まれて直ぐに、この世の権力者からいのちを狙われるということは、その生涯がこの世からの迫害の中に置かれていることを暗示してい ました。そして、その通りにイエス様の最後は、十字架での処刑であったのです。
まだ、私たちの心の中には、クリスマスの華やかさと楽しさが残っているかも知れません。しかし、イエス様がこの世に誕生してくださったのは、24節に述べられている様に、私たちが罪を離れて義に生きるため、即ち、私たちが神 様に受け入れられるための、苦難の生涯を送るためであったことを忘れては ならないと思います。クリスマスの後の最初の主の日にこの聖書箇所が与えられたのも導きかと思いますので、今日は、私たちの罪の贖いのために苦しみを負われたイエス様のお姿を御言葉から共に学びたいと思います。
2,低い姿で来られた救い主
それでは、Tペテロ2;22〜24節をもう一度読みましょう。「22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23のの しられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。24そして、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
ペテロの手紙が、ここに示すイエス様のお姿は、私たちの救いのために不当な苦しみを負われたお姿についてです。「苦しめられてもおどすことをせず」と言われていますが、イエス様こそが、わたしを苦しめる者は神のさばきに会うぞと脅すことができたお方です。しかし、主はそうなさらないでご自身が 苦しめられることを通して、神にさばかれることがどなに恐ろしいことかを 示し、私たちの罪を贖い、救いの道を備えてくださったのでした。
ペテロは、私たちのために苦しみを負われ、いのちまで捨ててくださった救い主イエス・キリストの姿を、旧約時代の預言者イザヤが、預言した言葉をなぞるようにしてここに明らかにしているのですね。その証拠にはここの箇所の欄外註には、旧約聖書イザヤ書53章からの引用がいくつもあります。
従ってここの言葉の理解を深め、解釈するためには、イザヤの預言を読むのが最適だと思います。預言者イザヤは、旧約の時代、イエス様のお生まれになる約750年も前にあって、救い主イエス様のお姿について、誰よりも多く、しかも苦しみを負われる姿について具体的に預言しました。そして、事実、イエス様はそのような生涯を送られたのです。
そこで、先程、交読をした旧約聖書イザヤ書53章に記されているイエス様のお姿に目を向けたいと思います。先ずは、私たちの救いのために人として来てくださる救い主は、どういうお姿で来られるかが示されます。
まだ、イエス様を知らなかった時代の人たちは、神様が遣わされる救い主についてどんな方を想像していたでしょうか。預言者イザヤは、救い主がどん な姿で来られると預言しましたか。
イザヤ書53;1〜2節を読みます。「1私たちの聞いたことを、だれが信じた か。主の御腕は、だれに現われたたのか。2彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿も なく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」
預言者イザヤは、神様から告げ知らされた救い主のお姿を誰が信じること ができたか、と語り始めます。主の御腕によらなければ、イザヤが神様から告げられた救い主のお姿を誰も信じられないだろうと言うのです。
普通に考えるならば、神様が遣わされる救い主はどういう人物だと想像するでしょうか。そのような人物は、輝くばかりの人格を持ち、人並み外れた知性と指導力を持ち、容姿も美しく、誰もが尊敬を抱いて従っていきたいと思わせる人物を思い浮かべると思うのです。
しかし、預言者イザヤが、神様から示された救い主のお姿はそういう私たちの期待に背くものでした。「彼は、砂漠の地から出る根のように育った。」とあります。イエス様が育ったイスラエルの土地の多くは痩せた荒野です。砂漠地帯です。イエス様は荒野に育った貧弱な植物にも似たような姿であると、 そして「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」と預言されました。
事実、イエス様は、神の御子であるのにイスラエルを支配する王家に生まれたのでもなければ、宗教的な指導者階級であった祭司とか律法学者の家に生まれたのでもありませんでした。貧しい大工ヨセフの長男として生まれ、下 層階級の人たちが住むナザレの村で育ちました。
イエス様が世に出られた時代は、今の日本の様に食べ物が豊かにあったの ではありません。貧しい時代であり、イエス様の親は、低い身分にあったので満足に食べることもできなかったのではないでしょうか。「彼は、‥砂漠の地から出る根のように育った。」という言葉はそんなことを想像させます。
3節に、「彼はさげすまれ、人々からのけものにされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」と述べられています。イエス様は、その一生を低い姿で過ごされました。新共同訳聖書は、3b節を「私たちは彼を軽蔑し、無視していた。」と訳しています。 人々は、私たちの救いのために来てくださったイエス様を馬鹿にし、無視し、拒否したのです。そして現在もですね。私たちもかっては、同じ心ではなかったでしょうか。イエス様が人からさげすまれる様な低い姿を取って来てくださったことは、広く下層階級の虐げられている人たちの中にも福音を述べ伝 えるためであるのと共に、私たちのために罪人となってくださることのしる しでもあったのです。イエス様は、私たちの救いのために来てくださったの に、人々に理解されず、愛する弟子にも見捨てられ、十字架に追いやられまし た。今、学校などで、仲間外れや、いじめなどがありますが、イエス様はその最もひどい体験をされたのです。それは、私たちの救いのためでした。
3,私たちの救いのために苦しみを負われ
さて、それでは、イエス様は、なぜ、十字架の苦しみを負われたのでしょうか。
イザヤ53;4〜8節を読みます。彼とあるのはイエス様のことです。
「4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私 たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちはい やされた。 6私たちはみな羊のようにさまよい、おのおの自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれ ていく小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。8しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代のもの で、だれが思ったことだろう。彼が、わたしの民ののそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」
イエス様が十字架の苦しみを受けられたのは、私たちの罪の罰の身代わりであったのですね。私たちの罪を聖め、神様のものとして平安を与えるため でした。しかし、多くの人たちは、救い主が十字架に架けられて死ぬのは彼自身の犯した罪のせいで、神様のさばきをその身に受けたのだと思うけれども、そうではない。私たちの罪のためであると述べています。
4節以降には、救い主の苦しみは、私たちのためであるということが 何回繰り返されているでしょうか。聖書本文をご覧ください。「私たちの」という言葉が何回言われていますか。4節に「彼は私たちの病(罪)を負い、私たちの痛みをになった。」とあります。5節にも「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」と述べられます。
そしてそれは「私たちに平安をもたらす」ため、「私たちをいやす」ためで あったのです。罪のいやしですね。さらに6節「主は私たちのすべての咎を 彼に負わせた」とあり、8節には「彼が(救い主が)わたし(神様)の民のそむき の罪のために打たれ、生けるものの地から絶たれた。」と述べられています。
「生けるものの地から絶たれた。」とは殺されたということです。救い主は、私たち人間の神様に対する背きの罪の罰を身代わりに受けて殺されるとイザヤは預言し、それが実現したのでした。イエス様の苦しみは全部私たちの救 いのためでした。
それにしても、どうして、神様はこのような方法で私たちに救いをもたらそうとされたのでしょうか。救い主としての指導力とその愛の働きによって私たち人間の心の向きを神様へ変えることはできなかったのでしょうか。
実は、神の民イスラエルの歴史は、そのような方法では人々の心の向きを変えることができなかったことをはっきりと示している歴史なのです。
神様は、世界に神様を証しさせるために、イスラエルの民たちを選ばれました。それは、特に彼らが優れていたからではありません。神様の恵みによる 一方的な選びです。そして神様は、イスラエル民族が、神の民として、正しく 歩める様に彼らに神様のお言葉を聞かせました。その戒めに従って生きるなら幸いを得ることができるけれども、そこから外れるならば必ず呪われると 約束されたのです。
しかし、神の民たちは、神様のお言葉に背いて、真の神様でないものを拝ん でそれに仕え、次々と罪を増し加えていきました。イスラエルの王も、祭司も、民たちも神様に従って生きる道から外れてしまったのです。神様は、イザヤ の様な預言者たちを次々に送って悔い改めを求めました。
しかし神の民たちの背きは益々深まっていき、とうとう神様の目に見るに 耐えないほどに堕ちてしまいました。どんなに悔い改めを求めても目覚めることはなかったのです。
そしてこのこと、人間が罪の支配の中にあるということは、ひとりイスラエ ルの民たちだけのことではありません。神様に造られた人間すべてが同じなのです。今の世の中においても、毎日の新聞やテレビのニュースで報道され ることは悪いことばかりですね。この二ヵ月位の間に地方自治体の長である三人の知事の汚職が摘発されました。また、小学校、中学、高校でのいじめも 自殺者が出るほどに深刻な問題になっています。殺人、その他の犯罪のニュースも後を断ちません。海外に目を向けでも戦争やテロで毎日、何十人、何百人の人たちが殺されています。心暖まる良い報道はほとんどありません。
しかし、これらテレビや新聞で報道される人たちだけが特別な悪人なので はありません。私たちの心の中にも、それらの罪の根があるのです。自分さ え良ければという心、人のものまで欲しがる貪りの心、また、憎しみや嫉みと いった様な犯罪の根になる罪の心が自分にもあることを認めないわけにはいきません。人類は、もう、誰もが、どうしても滅ぼさなければならないほどに 悪くなってしまったのです。しかし、神様は、愛のある憐れみ深い方ですから神様ご自身が造られた私たち人間を滅ぼすことをよしとされませんでした。 それで神様が私たち人間を滅ぼさないですむ道を定められました。それが私たち人間のすべての罪を、罪のない主イエス・キリストに負わせて、そのイエス様をさばかれるという道でした。その身代わりのさばきを通して、神様 は、私たち人間の罪を赦し、聖めようとされたのです。
ペテロの手紙は、2;18節から「しもべたちよ。」と呼び掛け、しもべのありかたを教えて来ましたが、その終わりになって、ひたすらイエス・キリストのみ苦しみについて語ります。罪のまったくない神の御子である方が、極悪犯罪 人がかけられる十字架にかけられ、神様に捨てられました。それは、私たちすべての人間の罪をその身に負って、罪のさばきを身代わりに受けてくださっ たのです。それは、私たちが罪を離れて、義のために生きるためでした。
ペテロには、忘れられない心の痛みがありました。それは、イエス様の一番弟子として主に仕え、愛されててていたのに、イエス様が、十字架に向かわれ た、その最大の苦しみのときに我が身を守るためにイエス様を見捨ててしまったことです。しかし、彼は、イエス様の十字架が、その自分の罪のためである こと知ったときに、彼は、自分を捨てて主に仕え、人に仕えることができるも のに変えられたのです。それゆえ、ペテロは、この手紙で、しもべたちへの教 えを語るときに主の御苦しみを語らないではいられなかったのです。
4,まことの牧者のもとへ
さて、イエス様の十字架によって罪が赦された者はどうなるでしょうか。 ペテロの手紙に戻って、2;25節を読みます。
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの 牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」そう述べられています。 私たちは、神様を信じないで、これが我が道だとひたすらにさばきの道、永 遠の苦しみに向かって歩んでいたところから神様のものへと立ち帰ことができました。なぜですか、イエス様が十字架の苦しみを負ってくださたからで す。「たましいの牧者であり、監督者である方」とは、神様のことです。私たちは、神様に導かれて永遠の御国を目指して歩んでいくものとされたのです。
牧者である神様は、私たちが、罪を犯したら罰してやろうと高いところから監視されているのでありません。神様はご自分のものとされた私たちを、羊 飼いのように導いて、サタンという敵から守ってくださるのです。
ヨハネの手紙第一には、イエス様の十字架で罪が赦された者たちのことを 「神の子ども」と表現しています。クリスチャンは、誰もみな、神様の子どもなのです。人間の親でも自分の子どもを愛し、養い、間違った道に行かないようにいつも心をくだいています。でも人間の親は不完全です。
しかし、私たちの本当の親である神様は、完全です。愛と憐れみをもって私たちを養い、正しい道へと導いてくださるお方なのです。
今日で、2006年は終わります。この一年を振り返ったときに、魂の牧者である神様によって守られ、導かれて来た恵みは、なんと大きかったことでしょうか。そのことを感謝しましょう。
そして、明日から始まる新しい年も、イエス様の十字架の苦しみによって神様の子どもとされたことを無駄にしなにように、イエス様を信じて生きてい こうではありませんか。そこにこそ天の御国まで続く神様に祝福された歩みがあるからです。
祈 り
神様。今年一年も神様の恵みの御手の中に守られたことを感謝します。私たちが、神様のものとされるために、イエス様は、この世での栄光も富も慰め も捨て、十字架の苦しみをその身に負ってくださいました。明日から始まる
新しい年も、イエス様に従って、キリスト者としてふさわしい生き方をしていくことができますように。再び、自分の欲のために生きるのではなく、主のため、人のために生きられるものとしてください。 主の御名によって
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