2007年01月07日(日) 主日礼拝メッセージ 「妻として 夫として」
聖書箇所 ペテロの手紙第T 3章1節〜7節
東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師
聖書(新改訳2版)ペテロの手紙第T3章1節〜7節
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )
1 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。
2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らがみるからです。
3 あなたがたは、神を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、
4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。
5 むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。
6 たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。
7 同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐものとして尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。
メッセージ「妻として 夫として」 東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師
1,同じように、 1a,
今日からペテロの手紙第一の3章に入りますが、内容的には、2章から続いていて、キリスト者がこの世にあって、どう生きていったらいいかについて教えているところです。今日の聖書箇所の最初のところ、3;1節で「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。」と語り始めています。先ずは、クリスチャンの妻たちへの教えです。
「同じように」とは、この前で教えたのと同じようにということです。
この前の部分は、当時、クリスチャンの中に大勢いた「しもべ」、すなわち、召使の人たちへの教えでした。2;18節には、「しもべたちよ。尊敬の心を込め て主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人 に対しても従いなさい。」とあり、続いて、キリストは、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと模範を残されたのだから、不当な苦しみを受けても、それに耐えて従いなさい。とありました。たとえ、相手が横暴な 主人であっても尊敬の心をもって仕えるのは、イエス様にならうことであり、神様に喜ばれることなのですよと教えていました。
3;1節で「同じように」とあるのは、そのことと「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しななさい。」と言うことです。「服従する」とは、相手の下に自分を置いて相手に仕えるということです。口語訳聖書では、「夫に服従しなさい」というところを「夫に仕えなさい」と訳しています。
この教えに対して、妻の立場からは、様々な疑問が起こると思います。例えば、これは、二千年も前に言われていることで、現代では、夫と妻は平等であり、妻だけに服従を要求するのは不当ではないかという声です。
確かに当時のユダヤ社会と現代の日本とでは妻の社会的立場は違います。ユダヤでは妻には、夫と同じような人格は認められず、自由もなかったのです。 たとえば、申命記24章に記されていることですが、夫が妻を離婚することはできましたが、妻の方から離婚の申し立てをすることはできませんでした。 しかし、ここで教えていることは、そのレベルのことではありません。
当時考えられていたように、妻は夫の所有物的存在であるのだから何がなんでも夫に従うべきであるというのではないのです。
これは、もっと根本的なキリスト者の他者に対するあり方、その中で夫婦のお互いの在り方が教えられているのです。ですから、夫や妻の立場にない方でも、ここからキリスト者として、他の人に接するときのあり方を学んで欲しいと願っています。
さて、それでは、クリスチャンの目標は、誰に似たものとなることですか。 クリスチャンの目指すところは、イエス様のお姿に似たものとなることです。
イエス様はご自分について「人の子が来たのは仕えられるためではなく、 かえって仕えるためであり、」と言われて(マタイ20;28)、生涯、人に仕えて生きられ、最後はご自身の尊いいのちを私たちの罪の贖いのために犠牲にしてくださいました。「同じように」とは、その生き方のように、妻の立場の人たちは、
「自分の夫に服従しなさい」「仕えなさい」と言われているのです。
そして、もう一つここで注意したいことがあります。それは「自分の夫に」と言われていることです。「自分の夫に」というのは当たり前ではないか、と言われるかも知れません。しかし、ここでは、わさわざ「自分の」という言葉を訳出して、単なる男と女の関係ではなく、神様が定められた夫婦の関係を言っているのです。
口語訳聖書では、「自分の」という言葉は訳されていなくて、「妻たる者よ。夫に仕えなさい。」となっていますが、私たちが今読んでいる新改訳聖書も、また、新共同訳聖書も「自分の」という言葉をあえて訳出しています。それは神様が定められたあるべき夫婦の関係について言っているからです。
神様が定められた夫婦の関係というのは、互いが助け手として相手の欠けを満たし、各々が一人の人間として完成されていくことにあります。互いに 犠牲を負いあって助け手になるのです。そのために夫婦は、愛と信頼によっ て結ばれていなければなりません。そういう関係にあるべきことを前提にして、「妻たちよ。夫に服従しなさい。」と勧められているのです。そうならば この教えも抵抗なく受け入れられるのではないでしょうか。
なぜなら、妻が本当に夫を愛し、信頼しているならば、犠牲を負っても進ん で夫に従いたい、仕えていきたいと願う筈だからです。
2,神を恐れかしこむ清い生き方で 1〜2,
次に進みます。クリスチャンの妻たちのあり方が具体的に教えられます。 聖書は夫に従いなさいというが、私の夫は、神様を信じていない。聖書に教えられているような夫と妻の関係ではないが、それでも夫に従うべきなのか、という問があるかれ知れません。聖書は何と言っているでしょうか。
1〜2節をもう一度読みます。「同じように妻たちよ。自分の夫に従いなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」みことばを信じていない夫であっても従いなさいと言われています。なぜでしょうか。「妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」これがその理由です。
これはとても大切なことです。言葉で神様のことが伝わらないときにはどうしたらいいでしょうか。言葉で神様のことが伝えられないときは、行いで証をしなさいということです。当時も、現在もあまり変わらないと思うのですが、夫よりも妻が先に救われている場合の方が多かったようです。そのようなとき、未信者の夫は、妻の信仰の邪魔をしたり、言葉をもって妻の信仰に文句をつける様なことがあったと思われます。
「みことばに従わない夫」というのは、このように神様のことをいくら話しても聞いてくれない夫ということです。聖書に書いてあることを話そうとすると頼むから、そういうことは話さないでくれという夫のことです。
実際に未信者で妻の信仰に理解がある夫よりもそういう夫の方が多いかも知れませんね。ですから、その様な夫にも従うべきなのか、という疑問が過去もあったし、現在もあると思うのです。
それに対してペテロの手紙は、「従いなさい」あなたはみことばのように生きることを通して神様を証していきなさいというのです。神様のことを言葉でいくら話しても聞いてくれないときには、説教じみたことを言わないで、無言の態度や行動で証をしなさいということですね。その様にして神様に背を向けている夫を神様に導きなさい。そうすれば、今は、御言葉に従わない夫でも神様のものとされる日が来る。そう言われているのです。
しかし、これは神のことばが無力であるとか、言葉による証が無益であるというのではありません。相手に伝えるその伝え方の問題です。言葉によって伝えようと思っても聞いてもらえないなら、行いで証ししなさいということ です。ですから、いくら妻の無言の振る舞いが大切だと言っても、妻に信仰がなかったら神様のことは伝わりません。信仰をもって御言葉を聞いてそのように生きようとしているときは、御言葉が行動の中に現わされるのです。その生活の中に、神様の真理が示されるからです。
たとえばこういうことです。これは以前に聞いたことですが、ある婦人は、ことごとに思い煩い、心配ばかりしていて、そのために心を病むほどになっていました。そんなことがきっかけで教会に導かれて信仰を持つようになったのですね。
彼女は、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Tペテロ5;7)という御言葉を聞き ました。彼女は、この御言葉を信仰をもって受け取り、神様に委ねることができるようになりました。そして、思い煩いからも解き放たれるようになったのです。
さらに、これを見ていたご主人は、信仰をもって生きることの大切さを知って教会に導かれたのです。この婦人は、ご主人に証をしようと意図したことではなかったのですが、彼女が真に御言葉を信じてそのように生きようとし たときに、その実際の生活の中に御言葉が生きて働き、説得力を持つことになったのです。これは、たとい、御言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるという一つの例です。信仰をもって実生活を生きることの大切さを教えてくれます。
しかし、私たちは、しばしばこれと逆のことをしてしまうものです。ことばだけが先走って、行いがそれについていかないということがことがあるので はないでしょうか。
2節に「それは、あなたがたの神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」とあります。私たちはあまり気がつかないかも知れませんが、信仰をもっていない人たちは、クリスチャンたちがどういう生き方をするのか見ているのですね。関心をもって注目しているのです。
ですから私たちが本当に神様を信じて生きているならば、私たちの歩みの 全体を通して神様の存在が証しされるのです。
3,隠れた人がらを飾りにせよ 3〜4,
次に、進みましょう。妻たちは、どのようにして自分を飾りなさいと教えられていますか。3〜4節を読みます。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな 霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ神の御前に価値あるものです。」 妻たちが、身を飾るということを神様は否定なさいませんが、内面的な飾りの大切さ、どのように自分を飾るのかということに注意を促しています。
最新流行のヘアスタイルにし、派手なお化粧をし、お金をかけて一流ブランドもののドレスを身につける。そういう様に、外面的に身を飾るのではなく、心の中の隠れた人柄を飾りなさいということです。
4節を新共同訳聖書では次のように訳しています。「むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。」とです。いまどき、柔和でしとやかな妻なんてどこを探してもいないよ。と言われるかも知れません。しかし、柔和で穏やかな心というのは、妻の立場にある者に限らずクリスチャン誰もが求めるべき心です。
イエス様は、山の上の説教で「柔和な人は幸いです。」と教えています。柔 和というのは単なる優しさではなく、神様の前にへり下って、み心を求めて自分を先立てない心です。謙遜と同義語です。預言者ゼカリヤは、来るべき救 い主について「この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる」(ゼカリヤ9;9)と預言をしています。自分を捨てて人に仕えられたイエス様は誰よ りも柔和な方であったのです。
そして、次の「穏やかな心」は、新共同訳聖書の表現によると、しとやかな気立てですが、それは、どこから生じるのでしょうか。それは、神様の御手の中に自分をすっぽりと委ねたときに与えられる心ですね。自分の人生は、恵み 深い神様のご支配の中にあることを信じたときに、人を押し退けてでも自分の益を求めようとしないで、人の幸せも願うことができるでしょう。そこに生じる心が穏やかな心です。
こうして見ると柔和で穏やかな心というのは、神様を本当に信じていくときに自ずから与えられるのですね。ここに「柔和で穏やかな霊」と表現していますが、これは聖霊の働きによって与えられるので霊という表現をしているのでしょう。「これこそ神の御前に価値のあるものです。」と言われています。それらをもって飾りにしなさいと教えられているのです。
そしてペテロは、そのように身を装った妻たちの模範について述べます。
5〜6節です。「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたもどんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。」むかしとは、旧約の時代のことです。その時代の妻たちは、新約の時代よりもはるかに耐え忍ぶことを強いられたことでしょう。 しかし、敬虔な婦人たちは、ここに述べられているように柔和で穏やかな霊によって自分の内面を飾って夫に従ったのです。
アブラハムの妻サラの名があげられていますが、彼女は、遠いカルデヤ、即 ちバビロンにある生まれ育った故郷を捨てて、夫アブラハムについてカナンに来て、生涯夫に従い通しました。そして、アブラハムと共に神の民イスラ エル民族の母として神様の祝福にあずかるところになったのです。
彼女たちはどうしてそうあり得たのでしょうか、「むかし、神に望みを置いた敬虔な婦人たち」と述べられています。彼女たちはみな神様に望みを置いて、夫に従っていたのです。彼女たちは、どんな困難にも耐えて従順に夫に従って自らを飾りました。そのようにしても誰からも立派な妻だと誉められることはなかったでしょう。自分の夫ですら妻が夫に従うのは当然のことと思い、誉めるどころか、感謝の言葉もなかったと思います。
しかし、敬虔な婦人たちは、神様に望みを置いていたのでそうあり得たのでした。聖書は、どんなときでも、み言葉に従って生きていくならば、信仰の母サラのように神様の祝福にあずかることができるのですよ、と励ましてくれているのです。
4,同じように夫たちよ 7,
最後のところへ進みます。妻たちへの教えに続いて夫たちへの教えが述べられます。7節の最初のところを見てください。このところでも妻たちへの言葉と同様「同じように、夫たちよ。」と語り始められています。
この「同じように」とは、「しもべたち」また、「妻たち」への教えの根本
にあったことと同じようにということです。それは、クリスチャンすべてに求められていることですが、キリストにならって犠牲を負ってでも主に仕え、人に仕えて生きることです。夫に対する勧めは、妻に対するそれと内容は違 いますが根本の精神は「同じように」なのです。
夫たちへの教えが、妻たちへの教えに比べてずっと少ないのは、妻たちに対して語られたことの根本の精神は夫に対しても向けられているからでしょう。
それでは、夫たちには何が求められているでしょうか。夫は妻にどうありなさいと教えられていますか。 7節です。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分より弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」
夫は妻の女性としての弱さをよくわきまえて、共に生活し、その重荷を担い、共に御国を受け継ぐ者として尊敬しなさいと教えられています。
妻が女性であって弱い器であるということについては、どういう視点で見 るかによっては議論があることだと思います。精神的にも体力的にも妻の方が強いという夫婦もあるでしょう。しかしここで言う弱い器であるとは、創 造の秩序と社会的立場から見てということと理解していいと思います。
女性は、男性の助け手として創られました。妻の立場では夫に依存すると ころが心身ともにあるでしょう。また、妻は子どもを身篭もり、生み、母乳を 与えて育てます。子どもという、いのちの恵みを受けるために妻は大きな犠 牲を払います。そのときに夫の保護は欠くことができません。夫は、妻と共 に生活し、妻のために犠牲を払って重荷を負うのです。
「妻が、‥自分より弱い器だということをわきまえて」と言われています。 「わきまえて」とは、よく理解してということです。相手をよく知ることは、思いやることになります。それが愛することのもとなのです。
少し余談になりますが、私は朝食を食べながらNHKの朝ドラ「芋、たこ、 なんきん」というのを見ています。小説家の田辺聖子の半生記をドラマ化し たものです。主人公町子の女学生の時、それは戦争中のことですが、こういう回想シーンがありました。町子の友達の中学生の男の子は、学校に行かないで家計を助けるために町工場でアルバイトしたり、川で魚をとったりしてい ます。学校に行くよりもその方がずっと有益だと思っているのです。
その少年に町子の従兄の信次がこう言って諭すのです。彼は学業半ばで戦争に行くのですが、その彼がこう言うのです。「学校に行けるときに行って 勉強しなさい。知識がなくなると愛もなくなってしまうのだよ。人は知らないものには愛も憎しみも感じないだろう。自然を愛するためには自然を、魚 を愛するためには魚を知らなくてはならないのだよ。」そう諭しているシーンがありました。
私はこれを見ていて、私たちが、イエス様を愛するのも、これと同じだなと 思いました。私たちは、イエス様はどういうお方で、私たちのために何をしてくださったかを良く知ることなしにイエス様を愛することはできないでしょう。イエス様が、私たち人間を愛して、私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちのことを良く知っておられたからです。人間が罪に支配されて いるところから来る弱さ、愚かさを知り抜いておられた。人間が、罪のさばきのゆえに、永遠の苦しみに落とされてしまうことを知っておられたからです。
聖書は、夫たる者よ。妻が女性であって弱い器であることをわきまえて、即ち、良く理解して、共に生活をし、いのちの恵みを共に受け継ぐ者として尊敬 しなさいと教えています。「いのちの恵みをともに受け継ぐ」とは、夫婦に恵 みとして与えられる子どもを指すとともに、本来、このことばは、主イエス・ キリストによる新しいいのち、永遠のいのちを受け継ぐということでしょう。
夫婦は、ふたり並んで神様の前に立ち、互いに永遠のいのちの恵みが与えられている者であるときに互いを尊敬することができるのです。なぜならイエス・キリストを通して相手を見ることができるからです。そしてこのことは夫婦の間に限られることではありません。
クリスチャン誰もが、イエス様のお心を我が心として、家族、友人、隣人など人に接することが求められているのです。私たちも、イエス様にならい、愛をもって人に仕えることができるように求めて参ろうではありませんか。
祈 り
イエス様は、その十字架によって、私たちを神様のものとしてくださり、恵 みの中を生かしてくださることを感謝します。私たちには、夫、妻、両親、子ども、友人など様々な交わりが与えられています。その中には、まだ、みことばに従わないでいる者たちもいます。私たちが言葉だけでなく、日々生きてい くことを通しても救いのことばを伝えられるものとしてください。アーメン
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