2007年2月4日(日) 主日礼拝メッセージ 「いのちを愛し、幸いな日を過ごすため」
聖書箇所 ペテロの手紙第T 3章8節〜12節
東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師

聖書(新改訳2版)ペテロの手紙第T3章8節〜12節
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )

8 最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。 9 悪をもって、悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福をあたえなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。 10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思うものは、下を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、 11 悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。 12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」
メッセージ「いのちを愛し、幸いな日を過ごすため」 東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師

1,最後に申します。あなたがたはみな
私たちが属しているこのキリストの教会。これは不思議な集団だと思いませんか。こんなに多様な人たちが一つの集団を形造っている集会は他にはないでしょうね。教会に集っている人たちは、年令的に幅広い人たちです。ま た、家庭内での立場も、親、子、夫、妻などと違います。また、社会的立場も様々です。さらに性格も、積極的で活発な人がいれば、考え深く、静かな人もいま す。身体や心が強い人もいれば、弱さを担っている人もいます。そういうさまざまな人たちが、一つキリストのからだである教会を形造っているのです。そのための大切な心のあり方が先ず始めに教えられています。
 8節をご覧ください。「最後に申します。あなたがたはみな、‥」と語り始められます。「最後に申します。」と述べられていますが、何の最後にでしょ うか。ペテロは、2;11節からずっとクリスチャンたちの社会生活や家庭生活のあり方について語ってきました。あなたがたは天の御国を目指して、この世を旅人として、寄留者として生きているが、この世をいい加減に生きてはいけない。魂に戦いをいどむ肉の欲を遠ざけ、異邦人、すなわち、神様を信じていない人たちの中にあって 立派にふるまいなさい。そうすることで、神様を信じている者たちに対して悪口を言っていた人たちも、神様を誉め讃える日 が訪れるのですと教えられていました。
 そして、当時、教会に大勢いたしもべの立場の人たちに、また、先に救われることの多かった妻の立場の人たちに、そして、夫の立場の人たちに、具体的にどの様に振る舞ったらいいかが教えられました。そして、今日読んだ、8節の 「最後に申します。あなたがたはみな」というところにつながるのです。
 従ってここは「あなたがたみんな」への教えです。
 今日の聖書箇所全体を貫いているテーマは、9b節の「‥祝福を与えなさい。あなたがたは、祝福を受け継ぐために召されたのですから」という御言葉です。私たちがイエス様の救いにあずかったのは、神様に祝福された人生を歩むためであり、引いてはその祝福を他にももたらすためであるのです。そのためにクリスチャンがお互いに対して持つべき心の態度について教えられます。そして、さらには、教会外の人たち、特にクリスチャンに対立して悪をはかる人たちに、どういう心で対したらいいかについて、クリスチャンみんなに教えられているのです。

2,みな、心を一つにして
 それでは、クリスチャンは、お互いにどうありなさいと教えられているでしょうか。8節をもう一度見てください。第一は「心を一つにする」こと。第二 は、「同情し合う」こと。第三は「兄弟愛を示す」こと。第四は「あわれみ深く」あること。第五は「謙遜である」ことです。これらのことを通して神様 の祝福が具体化するのです。以下これらのことについてもう少し深く考えて見ましょう。
 第一の心を一つにするとはどうあることなのでしょうか。どうしたら教会は一つになることができるのでしょうか。先に申し上げましたが、教会に集っている人たちはとても幅の広い層の人たちです。年令も、性格も、育ちも、考 え方も、心情も、趣味もみんな違います。心を一つにするとは、考え方や、感じ方、行動のあり方などが同じになるということでしょうか。
 そうではありません。それを求めるのはファシズムです。ここで求めている心を一つにするとは、イエス・キリストを信じる信仰において一つであるということです。Tコリント7;24節には「兄弟たち。おのおの召されたときの状態で、神の御前にいなさい。」と述べています。キリストのものとされたのなら自由人であろうと奴隷であろうと、割礼を受けていても、いなくても、そういうことを、強いて変えなくてもいいと言われているのです。
 イエス様を信じるということは、その人の個性をなくして皆が一つになりなさいということではありません。そうではなくて、イエス・キリストに対 する信仰で一つになるということです。イエス様を信じることで同じ心になるのです。イエス様を心から信じて、愛して、イエス様に従って生きていくなら考えることも、生き方も自ずから一つになっていく筈です。
 この世の多くの集団でも、一つになることを大切にします。そして、そのために、おいしいものを一緒に食べたり、皆で楽しいことをしたり、話し合いな どをして一つになろうとします。しかし、聖書が求めている教会が一つにな るということはそういうことでは達成されないのです。
 教会が一つになるために、大事なことは、みんながいつもイエス様に心を向けていることです。この様な礼拝を一緒にすること。共に祈りあうこと。御言葉を学びあうことなどによって、それは達成されていくのです。
 次です。クリスチャンが互いに持つべき心の態度の第二は、同情し合うこ とです。同情するという言葉の持つ意味は、一緒に苦しむということです。 教会の仲間の重荷を一緒に担って、支え合うということです。パウロは教会を私たちのからだに例えてコリント人への手紙第一12章26〜27節で次のよう に述べています。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
 クリスチャンたちは、各々がキリストのからだの各器官となって一つキリ ストのからだを形造っているのです。ですからお互いに、お互いの苦しみを 担い合うのです。それが同情し合うということです。
 次、クリスチャンが互いに持つべき心の態度の第三は、兄弟愛を示すことです。偽りのない愛を示すことです。エペソ書2章後半のところで「あなたが たはもはや他国人ではなく、神の家族なのです。」(19)と言われています。
 私たちは、イエス様の救いにあずかったことで、神を父とし、イエス様を長 子とする神の家族に加えられているのです。ですからクリスチャンたちは、 お互いに兄弟姉妹なのです。家族は運命共同体ですから損得を考えて愛を偽る必要がありません。とは言え昨今では家族の間の愛も失われていると思わせる事件をいくつも知らされます。終わりの時代には多くの人たちの愛が冷たくなると預言されていることが実現しているように思えます。
 しかし、イエス様に愛されている私たちは、主の愛を受けて互いに神の家族として真実の愛を示すことができるものとされているのです。すでに学んだところですが、この手紙の1;22節をご覧ください。「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」と勧められています。
 イエス様を信じることによって利己的な愛から解き放たれて、偽りのない 兄弟愛を持てる者とされたのだから、互いに、心から、熱く愛し合おうではな いかと勧められているのです。これも祝福をもたらすためです。
 次、クリスチャンが互いに持つべき心の態度の第四は、あわれみ深くあることです。しかし、一般的には、憐れみを受けるのは侮辱だと受け取る人も少なからずいますね。「憐れみなんて受けたくない。」という言葉を聞きますが、 これは、「侮辱するな」というのと同じ意味あいで言われています。それは、自分を高い立場においての憐れみが多かったからでしょう。
 しかし、憐れみ深いというのは、本来、神様のご性質です。出エジプト記で は「主は、あわれみ深く、なさけ深い神、」(34;6)と言われています。イエス様は、私たちのところまで下りて、来てくださいました。そして、苦しみの中に ある人たちの痛みをご自分のものとして担い、罪のゆえに滅びなければなら ない私たちのためにご自身を犠牲にされました。あわれみ深くありなさいとは、そういうイエス様の心をわが心として人に接しなさいということです。
 最後、クリスチャンが、互いに持つべき心の態度の第五は、謙遜です。へり 下った心のことです。このことは、説明する必要がないと思いますが、謙遜を装うとか、謙遜を偽るということもあります。本当の謙遜はどこから生れる のでしょうか。それは二つあります。その一つは、私という存在のすべてが、神様に依存しているのを知っているということです。自分の命も、体も、知恵も力も、自分のすべてが、神様から与えられているのだと自覚していることです。そして、謙遜であり得るもう一つのことは、自分が、罪のゆえに滅びると ころから、イエス様の十字架によって赦されて、今は、神様に愛されているこ とへの感謝です。その様な神様の恵みを思う時にどうして自分を誇ることができるでしょうか。そんなことは出来ません。

 
3,悪をもって悪に報いず
 次に進みます。これはどちらかと言えば、教会の外の人たちに対するときの教えです。当時、クリスチャンが、教会外の人たちに対して善意で優しい心で接しようとしても、悪意が返ってくるということが多かったのではないで しょうか。なぜならこの時代は、クリスチャンたちに対する迫害の時代であったからです。そういう中でペテロの手紙は悪をはかる者たちにどう対したらいいかを教えるのです。聖書は、悪口を言ったり、意地悪をする人にどうしなさいと教えているでしょうか。
 9節をご覧ください。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」子どもの皆さんでもここで言われていることはわかりますね。「悪をもって悪に報いず、」とは、悪口を言われても悪口を言い返さない。意地悪をされても意地悪で仕返しをしないということです。
 また、「侮辱」というのは、馬鹿にすることです。辱めることです。馬鹿にされても、同じ様に仕返しをしないということです。かえって、悪や侮辱を与える者を祝福しなさいと言われています。単に黙っていなさいというのではなく、善意で対しなさい。祝福しなさいと教えられているのです。
 このことは、こうして説教の中で聞く、あるいは何ごともないときに聖書を読むならば、そうだ、その通りにしなくてはと思わせられます。しかし、実際 に悪口を言われる、意地悪をされるならば、言い返したくなる、やり返したくなる、御言葉で教えられているから、我慢をする。然し、心の中はむしゃくしゃしている、だから余所でその人の悪口を言って心のバランスをはかるということがないでしょうか。
 あるいは気の弱い人は、悪口を言われたり、悪をはかられた人を祝福するどころか、その人から離れる、その場から逃れたいと思うでしょう。
 そういう私たちだからこの御言葉が語られるのです。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」
 私はこのみことばを聞いて、心が洗われる思いを抱きました。悪口を言われれば、すぐに言い返したくなる けちな自分の心を恥ずかしく思いました。
 神様は、私たちが、神様の祝福を受け継ぐものとして召してくださったのです。かって、私たちは、神様なんか存在するものかとうそぶき、悪口を言い、御心に外れた悪いことばかり行なっていたのに、神様は悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いないで、かえって善をもって報いてくださったので す。そのことが、ローマ人への手紙5;6〜8節に次のように述べられています。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とです。私は、生まれながらもっていた罪の性質のままであったら 今、どう生きていたかと思いました。悪口を言われたら、どう言い返してやろうか、悪をはかられたらどう仕返しをしてやろうか、そんな思いにいつも囚われていたのではないかと思います。しかし、イエス様はそんなところから私たちを 解放してくださったのです。そして、神様は御言葉を聞かせ、御霊を遣わしてくださり、悪をはかる者に祝福をもって臨むことができるようにしてくださっているのです。その励ましの言葉が、次のところに語られています。

4,いのちを愛し、幸いな日を過ごすため
 神様に祝福された幸せな毎日を過ごしたいならどうしなさいと言われているでしょうか。10〜11節をご覧ください。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」
 これは、先程交読で読みました詩篇34篇の言葉です。ペテロはそれをここ に引用するのです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う」とは、生きていて良かったな、幸せだなと思える毎日を過ごしたいならということ です。それは、単におもしろおかしく毎日を過ごせるということではありません。神様に祝福された生きがいのある人生ということです。
 信仰生活は戒律に縛られた堅苦しい生き方だと思っている人がいるようですが、そうではありません。
 イエス様は、次のように仰せられています。「わたしが来たのは羊がいのちを得、また、それを豊かに持つためです。」(ヨハネ10;10) 私たちは、イエス様を信じることで永遠のいのちを頂いて、天の御国に入れられる幸いを得ることが 出来ました。しかし、それだけではありません。神様を信じて生きていくならこの世の人生においても神様の恵みをたくさん体験させて頂けるのです。
 その「いのちを愛し、幸いな日々」を得るためにはどうしたらいいかが、ここに記されるのです。10b「舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」
 ペテロは、9節で「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。」と述べていますが、これと同じことを詩篇の言 葉を引用して、そうするところに神様の祝福がありますよと励ますのです。
「舌を押さえて悪を言わず」とは、不信仰から出た言葉、怒りの言葉、人を傷つける言葉、不平、つぶやき、偽りの言葉など、私たちが信仰から外れて肉の思いに支配されるときに出てくる言葉です。そういう言葉を口にしないということです。ですから「舌を押さえて悪を言わず‥」とは、もっと根本的に言 うならば、不信仰と戦うことなのです。
 また、「悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」と言われているのも同じことです。ここに悪と言われているのは、不信仰から 出た行いです。「信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14;23)と言われています。ですから、善とは、信仰から出た行いです。従って、罪の心と戦って、御心にかなって生きていこうではないかと勧められているのです。
 また「 平和を求めてこれを追い求めよ」とあります。人と対立するのではなく、和らいで生きていきなさい。それを求めなさい。追い求めなさい。と勧められています。私たちは、人との関係でいつも平和を保っていくのは、そんなに簡単でないことを経験します。家族の中でもささいなことが原因で平和が乱されることがあります。親しかった友人が、ちょっとした言葉の行き 違いから不仲になってしまうことがあります。職場でも、また、教会の仲間との間でも対立を生んでしまうことがめずらしくはありません。人間社会に争いが、絶えたことは一度もありません。誰もが、争いよりも平和を求めているのに、それができないのは、誰よりも自分を第一にしたいという生まれながらに持ってきた罪が原因なのです。
 「平和を求めてこれを追い求めよ」とは、どうしたらいいのでしょうか。
 エペソ2;14〜15節に次のように述べられています。「キリストこそ私たち の平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉にお いて、敵意を廃棄された方です。‥」私たちが、人との平和を得ていくためには、いつも十字架を追い求めることです。イエス様の十字架で罪が赦されて 神様との平和が与えられているところに立つときに、人とも和らぐことができるのです。人は、神様との平和な関係の中に、また人と和らいで生きていくところで、いのちを愛し、幸いな日を過ごすことができるのです。
 12節は、素晴らしい励ましの言葉です。「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし、主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」
 私たちが御言葉に教えられているように生きようとするときに、世の声が 聞こえてきます。自分の肉の声がささやきます。この世は力が支配しているのだ、悪をもって悪に報いず、悪に遠ざかって善を行い、平和を求めて生きる なんて甘いことを言っていたら世につぶされてしまうぞとです。
 しかし、ペテロの手紙は、詩篇34篇の御言葉を引用して言うのです。そうではありません。「主の目は義人(正しい者)の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし、主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」とです。
 神様は、主を信じて、愛を尽くし、平和を求めて生きようとする者たちに目を留め、その祈りを聞いてくださる。悪を行なう者には、神様が立ち向かうのだから恐れないで善を行いなさいと励ましてくださっているのです。
 神の御子であるイエス様は、私たちが、まだ神様に背いていたときに、神様 に対して悪口を言っていたときに、私たちを、その罪のさばきから救うために十字架に架かって死んでくださったのです。私たちの罪を聖めて神様の祝福を受け継ぎ、さらにその神様の祝福が他の人たちにも及ぶように私たちを召 してくださったのです。そのことを確り覚えて信仰をもってみことばを伝えて生きていこうではありませんか。

祈 り
 神様は、私たちを祝福を受け継ぐものとしてイエス様の救いにあずからせてくださったことを感謝します。世の多くの人たちは、神様を認めず、滅びる者となってしまっています。その中にあって私たちが受けた救いの言葉を伝えていけるものとしてください。主がいつも目を留めていてくださることを信じて、悪に対して悪をもって報いるようなことをしないで、神様に祝福される道が、いのちを愛し、幸いな日々を過ごせる道が、ここにあると証ししていけるものであることができますように。  主の御名によって アーメン
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