2007年4月1日(日) 主日礼拝メッセージ 「キリストの足跡に従う」
聖書箇所 ペテロの手紙第T 3章13節〜22節
東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師
聖書(新改訳2版)ペテロの手紙第T3章13節〜22節
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )
13 もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。
15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心もって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。
17 もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。
18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては、死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。
20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていて間、神が忍耐して持っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。
21 そのことは、今あなたがたを救うパプテスマをあからじめ示した型なのです。パプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。
22 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。
メッセージ「キリストの足跡に従う」 東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師
1,善に生きるのはキリストの足跡を歩むため 17,
今、私たちは、ペテロの手紙を読んでいます。ペテロはここで主の弟子である私たちにイエス様の足跡に従って善に生きようと勧めています。主の十字架を指差しながらその勧めをしているのです。
ペテロは、もとは、ガリラヤ湖の漁師でしたが、イエス様に召されて家も漁 師の仕事も捨て、イエス様に従う決心をしました。そして、ペテロは、その様 に生きてきました。ところが、彼は、イエス様が十字架に架けられることになった時に、自分を守ろうとして「イエスなんて知らない」と言ってイエス様を裏 切ってしまったのです。
そのペテロが、本当にイエス様に従う者とされたのは、イエス様が自分の罪のために十字架で死んでくださったことを知り、そして、よみがえられた主の再度の召しに答えて、イエス様への愛を告白した時でした。その時から彼は、死をも恐れないでイエス様に従う者とされたのです。
ここでのペテロの教えには、その経験が深く刻まれていたと思われます。
前回読んだところを今日も重ねて読みましたが13〜16節には、たとい義のために苦しむことになっても神様が祝福してくださるのだから幸いです。恐れず、善に、即ち、神様に喜ばれるように生きて欲しいと勧められていました。
続いて、今日取り上げるところ17節以降も、その教えが続いています。
17節でも「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。」と述べています。
「もし、神のみこころなら」と言われています。これは、善を行なって苦しみを受けることがあるが、それは、神様の御心の中にあること、即ち、神様がご存じであることなのだからよいことなのです。悪を行なって苦しみを受けることは当然のことで何の益もありません。けれども、善を行なって苦しみを受けることは、主に覚えられていること、神様の祝福の中にあることなのでよいことなのです。そう言われているのです。ところで、なぜ、ペテロの手紙は、 苦しみを負ってでも善に生きることを勧めているのでしょうか。
善を求めるべき理由は二つあります。その一つは、神様を証しする機会が与えられるからです。もう一つは、キリストの足跡に従うことだからです。
第一のことですが、15〜16節に、次のように言われていました。もし、あなたがたが、たとえ苦しみに会っても善に熱心であるなら、あなたの希望について説明を求める人が出るでしょう。『なぜ、あなたは、犠牲を負うことになっても、神様に仕え、人のために生きようとするのですか。あなたはどんな望みに生きているのですか』と尋ねる人が出るでしょう。そのときには、あなたが たの望みについて説明できる用意をしていなさいと言われていました。つまり、正しく生きることを通して神様を証しする機会が与えられるからです。
そして、苦しみがあっても善を行なうことの第二の理由は、キリストの足跡に従うことであるからです。別の言い方をすれば、イエス様に従って生きていこうとするならば必然的に人のために生きることになるからです。
今読んでいるこのペテロの手紙は、始めにキリスト者、クリスチャンとはどういう存在かということについて教えた後に、クリスチャンの実生活のあり方について具体的に述べています。夫婦お互いのあり方、また、クリスチャン同士の、そして、世間一般の人たちに対するあり方などについてです。
そして、そこに一貫して求められていることは、キリストの足跡に従うということなのですね。2章21節に次のように言われています。「あなたがたが 召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」
「あなたがたが召されたのは、」とは、あなたがたが、キリストの救いにあず かったのはということです。あなたがたが、クリスチャンとされたのは、主であるイエス様の足跡に従うためであると言われているのです。
では、イエス様の足跡に従うとは具体的にはどういうことなのでしょうか。
イエス様は、人の子が来たのは仕えられるためではなく、かえって仕えるためてあると言われて、人の幸いのために生きられました。主の足跡に従うとは、自分のためだけに生きるのではなく、人に仕えて生きることなのです。
2,キリストのみわざ 18,
17節で、「もし神のみこころなら善を行なって苦しみを受けるならそれは よいのです。」と言ったペテロは、続いて、18節以降にイエス・キリストのみわざについて記します。18節です。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりになったのです。それは、肉において死に渡され、霊において生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」
このペテロの手紙で主イエス・キリストの十字架について記すのはこれで二回目です。さっき読んだ、2:21節では「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」と述べた後にキリストの十字架の苦しみについて述べています。
しかし、ここ18節では、イエス・キリストの苦しみについては一言も触れてはいません。イエス様の救い主としての御わざをそのままに記しているだけです。なぜ、ここにイエス様が私たちのためにしてくださったことが書かれているのでしゅょうか。
それは、私たちを励まし、慰めるためです。私たちキリスト者の本当の慰め、励ましとは何でしょうか。それは、イエス・キリストの十字架のみわざによって罪が赦されて神様のものとされて、天の御国まで続く人生を神様の御手の中を生きていくことができるということですね。そこにこそクリスチャンの本当の慰めがあります。それはどんな試練の時でも失われない慰めです。
それゆえ18節には、イエス様の十字架のみわざについて述べられているのです。次のように言われています。主イエス・キリストは、正しい方であるのに、悪い人々、これは罪ある私たちのことですね。その私たちの罪のさばきを身代わりに受けて死なれました。それは、肉において死にわたされ、霊においては生かされて、私たちを神様のもとに導くためでしたと言われています。
「肉において死にわたされ、霊においては生かされて」とは、人間としては、殺されたけれども、神様によってよみがえらされてということです。そして、そのことによって、イエス様は、私たち人間の罪を贖い、私たちを神様のもと に導く道を開いてくださったのですね。
こう言われています。あなたがたは、イエス様の十字架によって、その罪が赦され、神様のものとされたのです。もう滅ぼされる存在ではない。イエス様に愛され、その御手の中に守られて、御国を受け継ぐものとされたのです。そのことを覚えて、イエス様に従って犠牲を負ってでも人に仕えて欲しい。 あなたがたは、すでに、そうすることができるものとなっているのだから、そ う言って励ましているのです。
少し余談になりますが、先日、このことについて、とても励まされるメッセージを聞くことができましたのでその一部を紹介しましょう。
先月の17日に北海道聖書学院の卒業式がありました。勧めの言葉を藤野教会の小林基人先生が語られました。小林先生は、私どもの教会の数年前の修養会で二年続けて奉仕してくださった先生です。先生の卒業式説教は、「しもべになりなさい」という題で、マタイの福音書20章17〜28節のところから語 られました。しもべになるということは、人に仕えて生きるということです。それは善を行なうのと同じことと受け取ってください。
こういうお話しです。「イエス様は、十字架の待つエルサレムに上られる途上、弟子たちに三度目の十字架の予告をなさいました。
そのときです。十二弟子のヤコブとヨハネの母が、この二人の息子を連れて、イエス様のもとに来て、こう願いました。「イエス様。私のこの二人の息子が、あなたの御国でひとりはあなたの右に、もうひとりは、左に座れるようにお言葉をください。」そうお願いしました。これは、天の御国で息子ヤコブ とヨハネをイエス様に次ぐ位に置いてくださいということです。
そこでイエス様は、彼らを呼び寄せてこう言われました。マタイ20;25〜27節
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」そうおっしゃいました。
そして続いてこう言われたのですね。28節です。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるのと同じです。」
小林先生は、ここの「同じです。」という言葉に注意するように言われました。何が同じなのでしょうか。イエス様は、高い地位を求める弟子たちに言われました。「あなたがたは、みなに仕えるものになりなさい。しもべになりなさい。」そう言われてからこの28節でイエス様の贖いのみわざについて語られて、それと同じですと言われました。
すなわち、私たち主にある者たちが、しもべとして人に仕えていくことは、 イエス様の十字架のみわざと同じであると言われているのですね。驚くべきことですが、イエス様は、私たちが人に仕えて生きていくことは、主の贖いのわざと同じ価値を持つと言われているのです、そう説き明かされました。
勿論、私たちが人を救うのではありません。私たちに人を救う力なんかありませんね。しかし、私たちは主の弟子として救いの言葉を委ねられている者として、人と出会います。そのところで私たちにその人の幸せを願って、その人のためになることをしようという心がなければ福音を伝えることができません。私たちが、しもべとして人に仕えていこうとするところで、イエス様の救いのことばがその人に伝えられることができる。イエス様の救いにあずからせることができるのですね。その意味で、イエス様は、私たちが、人の幸せを願い、しもべとして人に仕えることは、イエス様の十字架のみわざと同じよきわざであると言われたのです。人に仕えることの意義は大きいです。
3,キリストは捕われの霊たちのところに行って
次の19節以降のところに進みます。ここは18節からつながっていますので18〜20節を読みます。イエス様は、十字架で死んで、その後どこに行かれたでしょうか。19節を注意してください。「18キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりになったのです。それは、肉において死に渡され、霊において生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
19その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。20昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」
ここには、イエス様は、捕われの霊たちのところ、すなわち、死の世界、よみのことです。そこにまで下り、そこで福音を伝えられたことについて述べています。私たちは使徒信条で、イエス様について、「十字架につけられ、死ん で葬られ、よみに下り‥」と告白しますが、その「よみ」に下られたイエス様について記しています。イエス様はよみで何をなさったのでしょうか。「19捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられた‥」と記しています。
「捕われの霊」とは、20節によると、かってノアの箱舟が造られたときに、神 様のお言葉に従わなかったために滅ぼされた人たちのことです。そのときに救われたのは、ノア夫婦と彼らの三人の息子とその伴侶の八人だけでした。
このノアの時代に神様に従わなかった霊たち、捕われの霊というのは、イエス様の救いの言葉を聞かないで死んだ者たち、聞いても従わないで死んでよみに置かれている者たちすべての人たちのことを象徴しています。イエス様は十字架で死んで、よみがえられて天に上げられる間によみに下って救いの 言葉を語られたのです。
しかし、このこと、死んだ後に救いの機会が与えられるということは、新約 聖書の他の部分の教えから矛盾があるので受け入れがたいという解釈があります。聖書は、この世を生きている者たちに向けて語られているのですから、この世にあるときに、悔い改めて、イエス様を信じることを求めているのは当然のことだと思います。しかし、主のよみでの宣教について、この19節にはこんなはっきりと述べられ、加えて、4;6節にも「死んだ人々にも福音が宣べ伝 えられていた‥」と言われています。また、ローマ14;9節には「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生き返られたのです。」と言われています。
このことから、イエス様はよみに下られてそこでも福音を宣べ伝えられた と受け取ってもいいのではないでしょうか。けれども、聖書はこの世にあるときに、福音を受け入れることを求めていることには変わりないことです。
要は、天でも、地でも、よみでもイエス様の救いの力が及ばないところはな いことを明らかにしているのではないかと思います。
さて、イエス様は十字架で死んで、捕われの霊たちのところ、すなわち、よみに下られました。そこがイエス様の終着地だったのでしょうか。もしそうならすべてのことが死で終わりということになります。
さて、十字架で死んでよみに下られたイエス様は、次にどこに行かれたでしょうか。22節です。「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権 威と権力を従えて、神の右の座につかれておられます。」
イエス様はよみがえられて、天に帰られたのです。そして、父なる神様と共にあり、神様としての権威と力をもってあらゆるものを支配しておられるのです。イエス様の終着地はよみではありません。天に上られたのです。
イエス様は、この地上では、どのような歩みをなさったでしょうか。神の子としての権威をもって人々の上に立ち、わたし従いなさい、そうすれば、神の国に入れてあげますと人々を支配されたのでしょうか。
そうではありませんね。イエス様は、神の御子であるのに、貧しい大工の息子として生まれ、三十歳までは、両親に仕え、長男として兄弟たちのめんどうを見て過ごされました。そして、およそ三十歳になって世に出てからも エルサレムの神殿の高いところに座って人々を教えたのではありませんでした。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところがありません。」(マタイ8;20)と言われたように、ユダヤの国中を旅しながら「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4;17)と福音を伝えられました。
また、イエス様は、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てているの を憐れまれて、民衆の中に入って行かれました。悪霊につかれた者を解放し、病に苦しんでいるものを癒し、足のなえた者を立ち上がらせ、盲人の目を開け、耳のふさがれた者の耳を開かれました。
イエス様は、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨 てます。」(ヨハネ10;11)と言われ、人々が幸せに生きられるようにイエス様を信じて従うことを求められました。イエス様は、このお言葉のように、その尊いいのちを十字架で捨てて、私たちの罪を贖い、サタンと死の力から私たちを解放してくださったのですね。今日からそのことを覚える受難週に入ります。そして、次の聖日は、イエス様のよみがえりを記念するイースターです。
イエス様は、死からよみがえり、よみの世界を突き抜けて、天に上り、今は、 御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座につかれて おられるのですね。
このペテロの手紙の冒頭でクリスチャンの存在について、イエス・キリス トに従うように選ばれた人たちと言っています。私たちは、神様に選ばれて、主のものとされたのです。イエス様の足跡に従うとは、神様のために、人のために生きられたイエス様の様に生きることです。
その様に、真に主に従って生きることができるのは、ただ主の十字架の恵みを本当に知った時なのです。そして、その歩みは、死をも突き抜けて、天の御国まで導かれているのです。そのことを覚えて終わりに至るまでイエス様の足跡に従い続けていこうではありませんか。
祈 り
神様。あなたは私たちをイエス・キリストに従う者として選び、主のもの としてくださったことを感謝します。イエス様は、わたしが来たのが仕えられるためではなく、仕えるためと仰せられて、私たちの救いのためにいのちをも献げてくださいました。このことを覚えてどうか私たちが、自分のためだけに生きるのではなく、イエス様に従って、主のため、人のために生きられるものとしてください。
主の御名によって アーメン
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