2007年06月24日(日) 主日礼拝メッセージ 「火の試練を驚き怪しむことなく」
聖書箇所 ペテロの手紙第T 4章12節〜19節
東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師

聖書(新改訳2版)ペテロの手紙第T4章12節〜19節
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )

12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、  13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。  14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。  15 あまたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。  16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに、神をあがめなさい。  17 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。  18 擬人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わないものや罪びとたちは、いったいどうなるのでしょう。  19 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに合っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。 
メッセージ「火の試練を驚き怪しむことなく」 東栄福音キリスト教会 阿部好允牧師

1,火の試練を驚き怪しむことなく 12,
 私が説教をする時には、今読んだ新約聖書ペテロの手紙からお話しして来ています。当時、紀元60年代ですが、キリスト者たちは、ローマ帝国の権力に よって迫害にさらされていました。ペテロは、ペテロというのは、イエス様の十二弟子の一人ですが、初代教会のキリスト者たちを励まし、その信仰を支えるためにこの手紙を書きました。今日読むところは、その中心的な教えです。 12〜13節でペテロは、あなたがたを試みるためにあなたがたに臨む火の試練を、何か思いがけないことの様に驚き、怪しんではいけない。むしろキリストの苦しみにあずかることなのだから喜びなさいと教えています。ここがペテロの手紙第一の中心的な教えです。今日のテーマは、試練をどう捉え、どの様に対すべきかということです。 もう大分前のことになりますが、私は、長崎から島原、天草にかけてキリシタン遺蹟を見て回ったことがあります。そこでの当時の迫害のしるしをいくつも見ることになりました。長崎駅からやや急な坂を上がったところ、長崎の市街地を見下ろすようなところにある西坂公園に、キリストの教えを信じたために処刑された26聖人の記念碑が立てられています。 キリシタン弾圧に乗り出した豊臣秀吉の命令によって26人の宣教師、修道士、また信徒たちは捕らえられ、左の耳を切り取られ、後手に縛られて、京都から長崎まで引き回され、1597年2月にこの西坂の丘で十字架に架けられたのでした。その丘には、横一列に並んだ26聖人のレリーフが立てられていましたが、その中で小柄な三人の少年の像が一際、目にとまりました。彼らは、十二歳から十四歳までの少年であったとのことです。少年たちは、信仰を捨てれ ば、命は助けてやるという申し出をきっぱりと断って、処刑者の突き出す槍を脇腹に受けて殉教したのでした。 この頃に始まった日本でのキリスト教徒たちへの迫害は、1873年、明治6年に明治政府が、キリシタン禁制を解くまでおよそ260年間も続けられたのです。 もう亡くなった遠藤周作というカトリック作家がいますが、彼が「最後の殉教者」という歴史の事実に基づいた小説を書いています。外国との交流も始まり、長崎には、外国人のためですが、大浦天主堂も建てられようになった頃のことです。そのキリシタン禁制もゆるんだと思われるときに、1867年、それはキリシタン禁制が解かれる僅か6年前ですが、浦上にあった隠れキリシタンの村が役人に襲われて、ある者は殺され、村のほとんどの者は捕らえられたのでした。浦上四番崩れと呼ばれているものです。そして彼らは、島根県の津和野に流され、ここで信仰を捨てるように拷問を受けたのでした。 その拷問は子どもに対しても容赦がなかったと、遠藤は次のように書いています。「末吉という十歳の孤児は、両手に油を盛って火をつけられたが遂に教えを捨てなかった。また、ある五歳の幼子も二日間断食させられた後に、役人に菓子を見せられたが、頑なに首を振るばかりである。『お母カカがね。キリシタンば捨てないと、ハライソ(天国)に行けると言うたもん。ハライソに行けば、そげんお菓子より、もっともっと甘か物があると』これが子どもの答えであった。」そう書いています。殉教者たちは、みな、幼い子どもたちですら天の御国での生命を確信していたのです。 ヘブル人への手紙は、11章で、こう記しています。「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち、天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」彼らとは、アブラハムを始めとする旧約時代の聖徒たちです。その信仰が受け継がれてきているのです。 今日取り上げたペテロの手紙第一4;12〜13節をもう一度読みます。 「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」 ここにはキリスト者に対する苦難の人生が予告されています。愛する者たちよ。あなたがたの上に火の試練が、すなわち、苦しみがもたらされることになる。しかし、それを、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しんではいけない。それはキリストの苦しみにともにあずかることです。そこにキリストが共にあってくださり、そのことを通して、あなた方は、きよめら れて、益々神様に喜ばれるものとなることができるのです。だから試練を喜んで受けるものであって欲しい、そう言われているのです。 試練は、その受けとめ方によって信仰を練り鍛えることにもなるし、反対に信仰を失わせることにもなるのです。今日のみことばは、キリスト者は、その信仰のゆえに試練に会うが、信仰をもってそれを受けとめていくことを教え ているのです。

2,なぜ、キリスト者に試練があるのか  13,
 神様は、私たちが神様のものにされるならば、ちゃんと御国を受け継ぐことができるように私たちの信仰の歩みを導いてくださいます。その導きの中に 試練と呼ばれること、苦しみを負わなければならないこともあるのです。 イスラエル民族の歩みを見てください。彼らはエジプトでの奴隷の身分から救い出されて、神の民とされました。しかし、すぐに何の苦労もなく約束の地カナンが与えられたのでしょうか。そうではありませんでした。 そこに入れられるまでに、衣食住にもこと欠く荒野を旅しなければなりませんでした。カナンの地に着いてからも敵との戦いを強いられて、その地を 勝ち取っていかなければなりませんでした。それは、彼らが、神様の力と恵みを知り、神様を崇め、神様に拠り頼んで生きて生きていく者となるために必要なことであったのです。 それと同じです。私たちにも試練はあるのです。しかし、次のような誤解もあります。これは信仰を持ち始めた頃に多いのですが、自分は、イエス様を信じて、神様のものにされた。神様の守りの中にあるのだから、もう自分には災いなど及ぶ筈はない、そう思います。そして、試練に会うと、信仰が揺さぶられてしまいます。ですから御言葉は、試練があっても信仰が揺らぐことがない様に教えてくれているのです。 救われた者が、神様の守りの中にあるのは事実です。しかし、それは試練がない安全シートを約束されたということではありません。私たちが生かされているところは、相変わらず罪の世です。多くの人々は神様に背いて生きています。また、人間の罪は、人間を死ぬ者にしてしまいました。また、自然の秩序を壊してしまいました。ですから、神様を信じて生きているというだけ で人からいやがらせを受けたり、攻撃されることだってありります。また、自然や人為的な災害に会うこともあれば、心や体が病気になることもあります。 しかし、ここにそのような試練を「何か、思いがけないことが起こったかのように驚き怪しんではいけない、と言われているのです。なぜなら、それは神様がごご存じのこと、キリストの苦しみに与ることだからです。 このキリストの苦しみにあずかるとはどういうことでしょうか。ここで直接的に言われていることは、イエス・キリストを信じる信仰のために苦しみに会うことです。信仰をもって生きるところでぶつかる苦しみです。信仰のゆえに人から攻撃を受けたり、変わった奴だと相手にされなかったり、ありもしない誤解を受けて苦しみを負うことなどです。人にイエス様のことを証しするとき、教会案内を配るときですら、なじられということもあります。そういう苦しみのことです。それを、何か思いがけないことが起こったと思わな いで受けとめるのです。 そして、このキリストの苦しみにあずかるということを、さらに広く言えば、信仰をもって生きていく中でぶつかる様々な苦しみも含みます。たとえば体や心の病気で苦しむとか、経済的な苦しみとか、なんらかの災難による苦難を負うなどということ。それも「キリストの苦しみにあずかること」と言っていいでしょう。なぜなら、サタンは、そういうことによってもキリスト者たちを信仰から引き離そうとして試みるからです。イエス様を荒野で誘惑したサタンはイエス様を信じる者たちにも同じ様な攻撃を加えるからです。 「キリストの苦しみにあずかる」と言われている「あずかる」(コイノーネオー)とは、「交わる、苦楽を共にする」という意味を持ちます。従って信仰をもって苦しみを負うところに、キリストも共にそれを負ってくださり、そのことを通して、キリストとの交わりが与えられ、さらにキリストを深く愛するものとされるのですね。ですから、キリストの苦しみにあずかれることを喜びなさいと言われているのです。 私たちは、人間的な関係でも、誰かを愛しているならば、その人の苦しを一 緒に担うことは喜びになります。ですから、イエス様を愛しているならば、イエス様と共に苦しむことを喜ぶことができるのではないでしょうか。 主を愛して、その苦しみを喜んでいくときに、栄光の御霊が、すなわち、神の御霊が留まってくださるのです。

3,二種類の苦しみ 14〜16,
 次のことに進みます。一つ注意しなければならないことがあります。それは、信仰者である私たちが受ける苦しみは、何でもかんでもキリストの苦しみにあずかることだと思うことです。そんなふうに考えるならは、自分の罪、誤ちまでも正当化することになります。そのことが次に述べられています。14〜16節をご覧ください。「14もしキリスト名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち、神の御霊が、あなたがの上にとどまってくださるからです。15あなたがのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。16しかし、キリスト者として苦しみを受けるの なら恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」 ここに、私たちが苦しみを受けることになる二つの理由が示されています。 その一つは、14節に述べられていること「キリストの名のために非難を受けることです。」このことは、これまでのところで、お話ししてきましたので、 もう一つの理由についてお話しします。 15節の「あなたがた」というのは、未信者のことではない。キリスト者たちのことです。「あなたがたは、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けてはいけない。」と言われています。 これを読むと、この時の教会には、殺人者や盗人がいたのかと疑問を持ちますが、そういうことではないでしょう。イエス様は、兄弟に向かって腹を立てる者、ばか者呼ばわるする者も人を殺す者としてさばきに会うと言われてい ます。ですから人殺しとは、人に腹を立てること、憎むことでもあります。 また、盗むということは、貪ること、隣人のものを欲しがることも含むでしょう。私たちは、富に執着するときに、他人のものを欲しがったり、人の利益ま でも侵すことになります。それもまた盗みです。 また、「みだりに他人に干渉する者」とあります。この言葉は、もとの言葉では「他人」という語と「監督者」という言葉の合成語です。従って、このことは、単なるお節介ということでなく、人を支配しようとする者ということです。 私たちは、注意しなければ、みだりに他人に干渉するということも、してし まい勝ちのことです。善意で誰かを助けようとしていることが、知らず知らずのうちにその人を自分の思い通りにしようとしていることがあります。 特に親が、私も親の立場にありますが、もう成人に近かったり、成人した子どもに余計な干渉をしてしまうということがよくあります。そういうことで親子のトラブルが起こってお互いに苦しむということがあります。 こられのこと、人に対して、怒ったり、憎んだり、また、盗んだり、悪を行なったり、みだりに他人に干渉することで、苦しむことがないようにしなさいと言われています。日本語に「身から出た錆び」という言葉がありますが、それと似たことでしょう。自分の罪がもたらす苦しみを受けるようなことがあってはなりませんと教えているのです。 ペテロがこのように当たり前だと思うようなことを書いているのは、私たちが、キリストのために苦しむよりは、自分のために苦しむことの方が多い罪人だからです。それでいながら、苦しみに会うならば、なんでもかんでもキリストにある苦しみであると思ってしまう誤ちを犯すからなのでしょう。 16節で繰り返して言われます。「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめな さい。」私たちが信仰をもって生きていこうとするときに、また、イエス様を伝えていこうとするときに苦しみを受けることは避けられないのです。 しかし、それは恥じることはないのですね。なぜなら、キリストの栄光が現われるときに喜びおどる者となることができるからです。そう神様が約束してくださっているからなのです。

4,創造者に自分のたましいを委ねよ
 最後のことです。今日のみことばは、あなたがたを試みる火の試練を驚き怪しむことなく、キリストの苦しみにあずかることなのだから喜んでいなさいと述べ、その理由について語られていました。しかし、正直言って試練は避けたいことですね。そんな私たちに対して御言葉は重ねて次のように語りかけます。17〜18節をご覧ください。 「17なぜなら、神のさばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。18義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」 この「神のさばきが神の家から始まる時が来ている」とは、7節に言われている「万物の終わりが近づきました」ということと同じことを言っています。 「神のさばき」とは、神様が、神の民たちを試練によってきよめて、終わりのさばきに耐えることができるものしてくださる神様の計らいのことです。 ここに言われていることは、次のことです。「イエス・キリストによる救いが完成して、いつ終わりが来てもいい時代になっている。キリスト者たちに、試練が臨んで来ているのは、産みの苦しみの始め(マタイ14;18)が来ているからです。それで、神様は、神の民たちをきよめようとされているのです。 神の福音に従おうとしない人たちは、どうして神様の終わりの日のさばきに耐えることができるでしょうか。しかし、神様は、私たち神の民たちが、一人ももれることなく、神の国を受け継ぐことができるようにしょうとしてくださっているのです。」そう言っているのです。 ヘブル人への手紙12;5b〜7節に次のように述べられています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」 キリスト者たちが、試練に会うのは、神様が、イエス様の救いにあずかった者たちを、私たちを、神の子どもとして愛してくださっているからなのです。 イエス様を信じて生きている中で会う試練は、理由のない苦しみではありそせん。神様がご自分の子として信仰の訓練をしてくださっているのです。 では、信仰の試練にあったらどうしたらいいでしょうか。19b節を見てください。「‥真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」と言われています。19節は新共同訳の方が分かりやすいので、皆さん方の聖書と比べて聞いてください。「だから神の御心によって苦しみを受ける人は、 善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂を委ねなさい。」 私たちも御国に入れられるまでは試練のある人生でしょうが、神様がそれ を総てご存じであることを覚えて、神様の愛を信頼して、それに耐えて生きていこうではありませんか。

祈 り
 イエス・キリストの父なる神様。いつも御言葉をもって教え、導いてくださることを感謝します。私たちは、その人生の中では、試練にも会います。 しかし、そこにも神様のご支配があることを覚えて、信仰をもってそれを受け留めることができるものとしてください。この後、小又姉の洗礼式が行なわれます。御霊の油を注いで、神様のものとして、新しい生命に生まれ変わることができます様に、神様の祝福を豊かにお与えください。 アーメン
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