礼拝って何?
書いた人:遠藤稔牧師
( 日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用 )
内心、こっちが知りたいよ、と思いつつ聖書を調べていくと、沢山の発見があって、お分かちできるのを嬉しく思っています。まず、旧約の「礼拝」(ヘブル語でシャハー)を辞書で引いたら、「ひれ伏す」ことだとありました。聖書を読んでみると、実際にひれ伏して主を礼拝している様子がたくさん出てきます。(創世24:52,出エジ33:10,1歴16:29,2歴20:18,ネヘ8:6など) それは神様に完全に降参する態度です。「神様、全部あなたのものです。私の体も、権利も、身分も全部差し上げます。」という表現です。幕屋と神殿の礼拝では牛や羊を「全焼のいけにえ」にするように言われています。これもまた、「私のすべては主のものです」という表現です。
では、新約の「礼拝」はどうでしょう。これも辞書で調べたら、「ひざまずく、ひれ伏す」というのが基本の意味でした。実際に、人々はイエス様にひれ伏して礼拝しました。(マタ2:11,28:9等)
では、天国での「礼拝」はどうでしょう。礼拝を現す言葉はいろいろありますが、黙示録の礼拝になると全部この表現だけになっていて、「ひれ伏して拝んだ」様子が書かれています。(黙示4:10,5:14,7:11,11:16,14:7,15:4,19:4など) 長老たちは天で自分の冠を投げ出して、ひれ伏して礼拝して礼拝しているのです。(4:10)
ここまで聞くと、何だか抑圧されたような、イヤーな気分になる方もいるかも知れません。みなさんはどうでしょう? でも聖書を良く読むと、神様は厳しいご主人様のような方ではありません。また礼拝者はみじめな奴隷のようなものでもありません。神様は完璧な天のお父さんであり、私たちのことを大事な子どもだと言ってくださっています。(ロマ8:14-17,ガラ4:6-7,ヘブ12:6-7)また、神様は私たちのことを最愛の妻、最愛の花嫁だと表現してくださっています。(エペ5:30-32,2コリ11:2,黙示19:7-8,21:2-4)神様は私たちと共に住みたい、語りたいと願われる方です。(出エジ29:43-36など)
その方に「あなたがたからだを、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と聖書は言います。それが、礼拝です。(ロマ21:1) 礼拝は愛される妻として「あなたのものです。どうぞ自由にしてください」というような、そのような親密な関係です。神様に体を許し、時間も持ち物も全部思いのままにして頂く。そのように、キリストと教会は愛し合う夫婦、一つのからだとして表現されています。(エペ5:30-32) 教会とは私たち、愛され選ばれた人たちの群れです。
しかも、その交わりを求められるのは神様の側です。神様は聖なる聖なる聖なる方です。(イザ6:3,黙示4:8など) その神様が、罪がある私たちと愛の交わりを求めておられるのです。「聖なる」というのは、分離していることです。聖なる神様が罪人と交わることはできません。(イザ59:1-2など) だから、聖なる神様との交わりのためには、私たちも聖なる者でなければならないのです。出エジプトで神様はそのための幕屋を造るように言われました。(出エジ25-40章) 幕屋は、神様がそこに臨在され、人々と一緒に住み、語り、人々がますます神様を知るための場所でした。(出エジ29:42-46) 神様は罪ある人間との交わりのために、代わりに傷のない動物を殺し、生け贄としてささげるように決められました。(出エジ29:11,レビ4-6,8-9章等) 礼拝者がその血によって聖められるためです。彼らはその生け贄の頭に手を置いて罪を告白しました。(レビ5:5,16:21)
これら全ては、神様の側からのセッティングです。聖なる神様が私たちと会いたい、話したい、共に住みたいとの願われ、提案されたことです。また、幕屋では毎日絶やすことのない生け贄が求められました。(29:39) 礼拝者はその全焼のいけにえの頭の上に手を置き、その動物を自分の代わりとしてささげ尽くしました。(レビ1:4等)
もうお分かりかと思います。神様ご自身が私たちを愛し、求め、全てを捨ててこの生け贄になってくだいました。宿営の外で罪のための生け贄が焼かれたように、イエス様は宿営の外で十字架の処刑で苦しまれました。(ヘブ13:11-12) それが、神様の側から私たちを求め、完全に聖め、愛し、交わりを取り戻そうとされる方法でした。バプテスマのヨハネは言いました。「見よ。世の罪をとり除く、神の小羊。」(ヨハネ1:29) イエス様はご自分から全てを捨てて、私たちを求めておられるのです。大事な子どもとして、最愛の妻としてです。私たちはこの事実を知る程に、ひれ伏して感謝し、全てをささげて愛し、ほめたたえるようになるのです。(ピリ2:6-11)
ちょっと前後しますが、幕屋は移動式です。イスラエルの民は荒野を40年旅しましたが、その中心はいつもこの幕屋でした。幕屋の周りには垂れ幕が張り巡らされているから、横から中は見えません。でも、どこからでも、いつも祭壇で焼かれている動物の煙りが見えたと思います。(レビ6:13)
当時のイスラエルの人々だって、私たちと同じように毎日、失敗したり、傷付いたり、傷つけたりしていたと思います。家のゴタゴタががあったと思います。どこに行ってもです。それでも毎日、煙りが上がっているのが見えて、ああ、今日も羊が殺されたんだな、あれによって神様が受け入れてくださっているんだな、と確認できたと思います。
私たちも、毎日、罪の影響にさらされています。でも、どこにいても、十字架のイエス様を見上げることができます。どんなに失敗しても、ただイエス様によって、赦され、聖められ、大事な子、大切な妻として受け入れられているのです。私たちが自分でいくら「私なんてダメ」と言っても、十字架を見上げる時に、自分がイエス様の血によって聖められた神様の宝物であることを知らされるのです。(申7:6-7) イエス様だけが私たちを愛されるのにふさわしい者にしてくださるのです。(ヘブ10:10-19)礼拝の中心は旧約時代も、新約時代も、今日も、そして天国でも「ほふられた小羊」です。(黙示5:12-13)
鷲やライオンのようないかにも強そうなイメージではなく、小羊、しかもほふられた小羊、裂き殺されて血を流した小羊です。イエス様はほふられただけではありません。実際に復活して天におられ、今日も生きていて大祭司として私たちの不完全な礼拝を導き、とりなしておられます。(ヘブ7:25) イエス様ご自身が本当のワーシップリーダーです。
私たちはこの方に選ばれ、愛されているのです。そしてこの方にひれ伏し、感謝し、自分のすべてを、そして最良のものをささげるのです。一番良い愛のことば、感謝と賛美のことばをささげ、一番良い時間をささげ、一番良い持ち物をささげ、一番良い奉仕をささげるのです。(出エジ13:22,22:29,) 余った時間、余ったお金やいらない物は王や愛する人にふさわしいものではありません。(マラ1:8) 私たちの全ては、もともと神様から与えられたものにすぎません。(1歴29:14等) 皆さんにとって礼拝とは、具体的にどのようにひれ伏し、主を愛し、何をささげることでしょうか?
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