この前ここに来たのは8月の終りでしたが、今日はまだその頃の夏の熱気が残っているような日でした。そんな陽気ばかりではなく、心までもが暖かく感じられる演奏会だったと思います。主催者の方やオーナーや評論家の方の言葉の端々から、こういう音楽に対する思い入れが感じられて居心地の良い空間を作っていたと思います。私はジャンニ・ジェビアさんについては、今まであまり知らないでいたのですが、主催者のTさんの紹介によると、'95あたりに舞踏家との共演で初来日し、近年は岡山の禅寺で修行なども経験されたそうで、親日的なミュージシャンの方であるようです。
サックスのソロは、なかなか演奏する機会がないようで、今日はやりたいことを思う存分にやれたのではないでしょうか。小道具を使って、見たこともないような実験的なこともやりましたよ。小型ラジオみたいなものをラッパの中に入れて、何でも『仏陀のコーラス』が入っているそうで、それを流しながら演奏しました。他にも幾つか小道具を使ったのですが、とにかく飽きさせないで変化をつけていくのが上手いと思いました。それは、サックスの演奏にも言えるように感じられました。音響的なアプローチやずらしながらの反復的もの、いわゆるフリー的な開放的な感じとかを取り入れていたと思います。色々な要素があったせいか、この方はあまりスポンテニアスだという印象は受けませんでした。
サックスが聴きたくて、姜さんとか観に行ったりするのですが、ごめんなさい、心の底から満たされることはもうないです。自分が本当に聴きたいのは、やはりフリーの第一世代のエヴァンやレイシーなのかもしれません。喪失の痛みの中で生きているせいか、時々無性に冨樫さんやレイシーに会いたくなります。
現代音楽の評論をされている石塚潤一さんのガイドで、家庭では聴けない5chでそれぞれの作品に見合ったボリュームでCDを聴いてみようという会に出席させていただきました。地下の秘密クラブのような雰囲気で、こんなにワクワクしたのも久しぶりのことです。
最初に合唱曲が2曲。トマス・タリスでしょうか、車座になって演じられる宗教音楽と、シュトックハウゼンの『シュティムング』。いずれもごく一部の鑑賞でしたが、非常な感銘を受けました。前者は、天上を目指すがごとくの声に圧倒され、後者にも息をのむ美しさを感じました。『シュティムング』は今聴くと音響作品のように感じられます。それから何作品かを部分的に鑑賞したのですが、覚えているのは、ルイジ・ノーノのライブエレクトロニクスを導入した作品です。
全体を聴いたのは、シュトックハウゼンの『グルッペン』とクセナキスの『エルの伝説』。『グルッペン』は、3分割されたオーケストラの作品で難曲のようですが、私はインプロの耳で聴いてしまいますのでスイスイ入っていけます。今聴くと、むしろ完璧なインプロ作品のように感じられてしまうので面白いです。
さて、今日のメインは『エルの伝説』。50分くらいのクセナクスのアナログテープ最後の作品を、大ヴォリュームで聴こうというものです。私は再生が始まってしばらくすると、両耳の真横と後ろから「響き」が突き刺さってくるような感覚に襲われて、これは最後まで聴けるだろうかと懸念を抱かざるを得なくなりました。聴いていると、とにかく一分の隙もないという感じです。あともう一回最後まで聴けるだろうかと思う局面がありました。しかし、だからといって退席できるような感じではなく、むしろ金縛りにあったようにがんじがらめになってしまって身動きできなくなるような感覚でした。再生が終ると「2名ほど死者が出てやいませんか」という石塚さんの冗談でむしろほっとするというような感じでした。これはやはり知の戦略でしょうか?聴き手に苦行を強いると言っていいのかどうか・・・この音楽の体験を言葉に表わすのはとても難しいです。
詩法
垂直に吹き降ろす太陽風が
精神の空洞をつくる
遅延された「現在」!
宇宙に吹き上げられた
神々の塵埃の中を逃れゆく
重力の波濤が
境界を彼方に打ちあげる
深遠に飲み込まれ
廃棄された不可視の「何故?」
膨張し燃え上がる
光の束の速度に耐えよ
名付け得ぬ種子を蒔かれ
ひび割れて屹立する
死の暈を凝視せよ
反発していたあらゆる物質がつくる
親和力の渦巻きを
哄笑のうちの凝視する瞬間が始まる
彼方
観念の水脈を切り
帆を揚げて震える
生の羅針!
安田雅文詩集『鋼青の炎』より
翌日はループラインに出かけました。アントワン・ボイガーのギターのための作曲作品。美しい、正に音響的な作品を杉本さんらしい柔らかいギターの音色で楽しむことができました。
1つの音が発生してから衰滅するまでを、それだけの時間をかけて聴いていくのですが、それを聴いていると、音が消えていく瞬間というのが面白くて、というか、音が発生する瞬間もさることながら、音が消えていく瞬間とその直後の沈黙に自分の注意が傾けられていくので、これはどうしてなのかなあと自問自答したくなりました。
音が消えていく瞬間というのは、どういう言葉で表現したらしっくりくるのか?背景の中に音が吸収されていく?あるいは空中に雲散霧消していく?これくらいしか思いつかないのですが、それだけでは説明できない何かがあるような無いような・・・。
齋藤徹さんは、昨年の今頃こちらで演奏をされており、今回は2度目の出演になります。1年の締めくくりとしてこの時期にここで演奏をしたいご意向のようです。
吉祥寺の御殿山という一等地にあるこのカフェを存続していくのはとても難しいようですが、できることなら毎年バッハを1曲づつ7年やりたいそうで、今日はその1曲目でしょうか?バッハを聴くことができました。もし叶うなら、とても素敵なプランで私も是非おつき合いしたいと思いますが、どうなることでしょうか・・・。で、バッハは前半のプログラムの最後だったのですが、前半はメルセデス・ソーサなどの南米の音楽をやりました。今年は南米に演奏に行かれたそうで、今音楽の神様は南米にいるというくらいあちらの音楽は良いものが生まれつつあるそうです。私は自分ではなかなか探せなくなっているので、こういう場所で少しでもガイドがあって耳を傾ける機会があるのはとても嬉しいことです。しかし、徹さんがやると普通の曲でもバッハでも、ひと味もふた味も違うところがあって、何なんだろうなーと思いました。常に音がひとつではないところがあって・・・何でも倍音が出る特注のガットを張ってあるそうです。それに獅子の頭が彫られているコントラバスは貫禄がありますね、音にも姿にも。
で、後半は長めのインプロヴィゼーションをひとつやりました。最近はあまり頻繁には拝見していなくて、ソロだからこうなるのかどうかわかりませんが、とても音響的になっていると思いました。それと、音が同時に幾つも出ると思いました。鈴のような鳴りものを使ったり、パーカッシヴな面を出したり・・・コントラバスを床に平らに置いて演奏する時間も結構長くて、後方からは何をやっているのか見えませんでしたが、見えないなら見えないなりに、おおよそコントラバスから出ているとは思えない音を想像して楽しむことができました。
徹さんを聴きに来るお客さんの数からすると、こちらはちょっと狭いかもしれませんが、やはり眺望の良さには魅力があります。いつもながら、窓の景色が場所以上の空間的広がりを感じさせてくれますね。