ライヴを観る


今年も残り少なくなってきました。今月は「制度(システム)を打つ」という観点からピックアップしてみました。

12/23(木) 能伊勢@青山CAY
出演:
kikuri=灰野敬二+秋田昌美
灰野敬二
Merzbow(秋田昌美)
黄泉槌 (凶音)
Bastard Noise(Eric Wood+WT Nelson) from USA
ヤマベケイジ(Los Apson?/時空)

灰野さんと秋田さんのユニット「きくり」を観てみたいと思います。インタビュー記事によると、お2人は共にベジタリアンだそうで、ベジタリアニズムは一般社会のシステムに真っ向から対向しているとか。

12/27(月) dead pan smiles@中野富士見町planB
大上流一(guitar)

ギターがジャズでもロックでもなくどこにも属さない楽器であるという考えは、私の内面の何かに呼応すると思います。で、間章はギターについて何か書いていたかなと思って調べてみたらありました、<異化のギター/「ジャズ崩壊」の症候群>という論考が。その中でここに擧げてみてもいいかなと思うところがあったので、それを書き出してみたいと思います。ペダンチックで難解な文章、そしてまた闘争的な言葉で書かれていますが、おおよその言いたいことは分かると思います。
「ドルフィやアイラーやジョゼッペ・ローガンが評されるのと同じところでジミやリーやそしてシドが評されない時、我々は「ジャンルの強制」を回避できないばかりか「ジャンルの強制」を自分の内に用意してしまい、音楽そのもの演奏者そのものの存在の歴史をついに見ることなく「制度の補完者」となってしまうだろう。そうでなければ存在論的なるもの(Ontologisch)と存在的なるもの(Ontisch)をこそ交錯させたところにある演奏者存在の意味とその可能性をついに問われなくなるだろう。それが音楽の可能性どころか我々を含めての人間の可能性の「未だない痕跡」と「解放」をはらんだ未来へ向けられたものである時、私たちは行為によって現わされた「闘い」と「思想」を読み取り、我々の「制度」への「闘い」と「思想」へと結びつけなければならない。いや演奏行為者の場所から開かれてくる「闘い」の「思想」こそが、「制度」をうつ行為者=実践者の場所であると」(間章著『時代の未明から来たるべきものへ』イザラ書房)。

12/29(水) trip on jazz@高円寺円盤
吉田アミ
飛頭/ミドリトモヒデ(sax)、塚本真一(piano)、菊地雅晃(bass,electronics)、イトケン(drums)

スウィートな?飛頭と吉田アミさんの共演。どうなるか全く予想がつかないと思うところにアミさんの特異さがあるのでしょうか。トフにとってはこの組み合わせも「制度を打つ」のだ。



12月23日(木)
能伊勢 千年の刻を超えて融合する 音霊@青山CAY
出演:
きくり=灰野敬二+秋田昌美
灰野敬二
Merzbow(秋田昌美)
黄泉槌 (凶音)
Bastard Noise(Eric Wood+WT Nelson) from USA
ヤマベケイジ(Los Apson?/時空)

「能伊勢(ノイズ) 千年の刻を超えて融合する 音霊」というちょっと粋なタイトルのイベントで青山CAYへ。何かこう日本的なものを意識してかどうか、演奏前のDJは能や民謡や昔の歌謡曲など。で、最初がBastard Noise。一人がhomemade electronicsか?小さなターンテーブル状のものを少し回して、もう一人は機器の調整をしているだけのようにしか見えないのですが、とにかく音がすごい。徐々に音が大きくなってきて、振動がテーブルや椅子を伝わって響いてくるくらいになって、私はこんなに大きな音は初めてで身体がもう持ちこたえられないような感じになってきたので、片耳を指で押させて聴いていました。途中から変な声がすると思ったら、いつの間にか灰野さんがドラムセットのところに座っていて、声を出したりドラムを叩いたりしました。
次ぎのバンド凶音(magane)になると、観客が立ち上がってステージの前に集まってくるのでどうしたのかな思ったら踊る=暴れる?のが目的のようでした。「奈良の神社の何々に捧げる・・・」とか何とか、日本神話とかそういうものを題材にしているみたいで、ブラックメタルとかデスメタルとか、これはヘヴィメタより重いのかな?でも、観客を言葉で挑発したり客席にミュージシャンの一人が飛び込んできたりして、観客との関係は暗黒というよりもむしろフレンドリーな感じで楽しませてくれていると思いました。私は決してバカにしているわけではないですが、可笑しくって微笑ましいという感じで楽しかったです。
で、最後が灰野さんと秋田さんのユニット「kikuri=きくり」。これは今年7月に結成して大阪で公演、東京では今回が初演だと思います。秋田さんがラップトップを2台使って、灰野さんは最初エレクトロニクスで、徐々にヴォーカルやエレキギターなどを繰り出してきました。これは本当に素晴らしかったです。爆音/轟音であることは間違いないですが、そういう音が単に現象としてあるのではなくて音霊として時空を飛び交っていると思いました。そう!飛び交っていたのはまごうことなく私の内面でもあったと思います。すべてが終了すると灰野さんが秋田さんの方に歩みよって握手。拍手をしてしばらくすると、隣の女性が私に「よかったですねー」と。私は思わず「もう涙が出るくらい」と。「言葉にならない」ときちんとしたおしゃれな身なりの女性。で、CAYの階段を駆け上がって、今度は地下鉄の入り口に降りて行く時、私は本当に涙がこみ上げてくるような感じになりました。

心に残る私の一年
今年のまとめと関心事

心に残る私の一年ということで今年のまとめをしてみたいと思うのですが、ライヴの感想はその都度書いてきたので特に感慨はないというのが正直なところです。でも、なぜか擧げてみたいのがマイ・ベスト・ライヴ。ランクは付けられないですが自分の中では文句なし!いずれもデュオという形での3ライヴが浮かんできました。

アネッタ・クレプス+杉本拓
三宅榛名+ジョン・ブッチャー
秋田昌美+灰野敬二


それから印象的だったのは、天井が高い吹き抜けのようになっている会場での演奏。具体的には、東京大学駒場小空間 (横川理彦、菊地雅晃、外山明、倉地久美夫)、川崎市市民ミュージアム逍遥展示空間(Haco、asuna、sasw)、大谷資料館(ジョン・ブッチャー 、ロードリ・デイヴィス)ですが、 その会場の特性を活かしたパフォーマンスが、その場にいる者にとって精神的あるいは肉体的"開放"をもたらすものとして感じられると私には思われました。
スティーヴ・レイシーの死去もまた大きな出来事でした。訃報こそ新聞に載ったものの追悼文などどこにも見当たらなくて、こういう人についての書き手もいなくなってきているのかと思います。ガンであったそうですが、最後の最後まで日本に来て演奏することを考えていてくれたのかと思うと胸が熱くなります。それから間章のドキュメンタリー映画。青山真治監督はほしゃっちゃったかと。あれから2年経つのにどうなっているのかという声が近藤等則さんあたりから上がったようですが、実は肖像権の問題で難航しているとか。しかしあの映画は・・・間章について語ることで、実は語り手の思想が部分的にではあるがさらけ出されてしまっている・・・そういうところがあると私には思われました。全著作を読んだ私には。

12月27日(月)
dead pan smiles@中野富士見町planB
大上流一(guitar)

「大上さんってやっぱりデレク・ベイリーが見え隠れすると思うけど、デレク・ベイリーみたいに弾こうと思ったってできるもんじゃないよねー」と私。「いや、それは意志の問題だよ」と夫。私の発言は以前「デレク・ベイリーみたいに弾けないなー」と言っていた人のことを思い出してのことですが、そこで自分自身への問いかけ。
その1 デレク・ベイリーみたいに演奏するという"意志"、そういう方向に追求していくという意志があれば演奏はできるものなのだろうか?
その2 デレク・ベイリーの演奏を「ああいうスタイルなんだ」と評した人がいるそうだが、あれを"スタイル"というのだったら習得するという形で模倣ができるという風にも解釈できると思うがどうだろうか?
・・・と、ここら辺まで書いて年末年始に突入。この後何かを考え始めてメモしておいたと思いますが何だったかな?で、再び間章。デレクの演奏をスタイルと見るのかそうでないものと捉えるのか、こういう合理的な分析だけでは即興を捉えることはできないというんですねー。というのは、そもそも音楽は、音楽というのはロゴスとアンチ・ロゴスが溶け込む形で並存しているものであるということ。1978年に書かれたこの文章を2005年初頭に読み返してみても、異論というものを差し挟む余地はなし!トフは一介のホモ・オーディエンスに過ぎないが、そういう自分の聴く体験と照らし合わせてみて。
「私はたとえばここでヘンリーとユージンにあるさけ難い差異「デレクの演奏をスタイルを超えたものだと思うこと」と「それがひとつのスタイルなのだと思うこと」に現われたものが厳然として今存在していることを知っている。そしてそれが本質的な問題を提起する人間の在り方、考え方におよぶ根本的なものである事も。唯物弁証法的見方をすれば、いやロラン・バルト式分析論を受け入れれば、デレクの演奏が「スタイルを超えた」ものであるということは認め難いだろうし、デレクの演奏も結局はひとつのスタイルとして見ることが可能であり、それ故に様々な分析も可能だろう。しかし私はそれこそが今世紀をとりまく合理的思惟の持つ貧しさであり限界だと思えてならないのだ。即興について様々の見方は成立し得るだろう。たとえばそれがひとつの音楽表現の形式であるという形で。しかしこのような見方からでは即興についての本質的認識には到達し得ないだろう。というより<即興>こそはそうした形式的/制度的観念を打ち破る地点においてこそ存在しているのであり、そうした観念の制度をある形で超え得るひとつのエピステーメーを要請するものである。実際、観念の堂堂めぐりは果てしがない。それは何かを何かに読み変えることが可能であるということにおいて成り立ち、それ故に大きな袋小路の中に居続ける。それこそが最も大きな西洋合理主義のまたは観念と分析という手法の持つわななのだ。
<即興は生き方そのものに帰しまた向かうものである>と私が言う時、それは即興の持つ究極性があらゆる<方法>や<手法(マニエラ)>を超えた所にひとつのしなやかにして広大な開かれた地平を持つものであり、カール・グスタフ・ユングの言う<意識と無意識をひとつの高められた固有の人格のもとに統合する>こと、<自分自身にならなければならないという責務>という人間の使命(肉的にして霊的な)とも言うべきものを想起させるものとしてある。これらのことを直感的に強く認識したのが他ならぬデレク・ベイリーとの出会いだったのである。デレクの立つそして生きる即興の地平はいかなる意味においても排他性や強制力を持つものでなく、ユングが晩年にたどりついたという<大いなる受容>を思わせる力に満ちていたからである。実際私がデレクから感じたものの中で最も大きなものは<誰でも彼が彼自身でありさえすれば、しなやかにして開けひとつの至高の高さに達することができる>という覚めだった。そしてデレクはまさにそのようにして存在したのだった。だから合理的なロゴスにおいて私には即興を定義づけることが無益に思えてならない。音楽が他のジャンルにもまして固有にすばらしいゆえんは、それが<ロゴスとエロス(アンチ・ロゴス的なもの)をはっきりと有しながら、それらを一方が一方を圧するというのではなく溶けこます形で存在している>からである。プラトンかプロティノス風に言えば<ロゴスとプシュケーが並存する>からなのである。それ故に、本当の所私には<魂と霊>について語ることなしに真の音楽論はあり得ないを思っている。以下略。」(間章著『非時と廃虚そして鏡』より)

追記
「音楽ってやつは、やっぱりロゴスとアンチ・ロゴスのせめぎ合いだぜ」とすっかりいい気になっていたら、目に飛び込んできたのが朝日新聞の記事(1/5)。『若者を踊らす神秘の音 インド・ゴア「トランス音楽」発祥』。記事の内容は60〜70年代にインドに集まったヒッピーの残留組がゴア・トランスを生んだという話。湿度が高いゴアでは傷みやすいレコードはかけられないので、曲をテープに録音して浜辺で流したそうです。で、そのうち既成音楽ではなくて自分で編集したテープを流すDJが現われてきて、80年代半ばころアンチ商業主義の踊れる音としてトランスが生まれたそうです。今では世界各地から年間10万人以上の若者が訪れるとか。本物を探し求めてやってくると口をそろえて言う"本物"の意味の中には精神的な何かが。海と空があってそれからシバ神への信仰というものがあって初めてトランスなんだそうです。音楽だけではなくて、ヨガやヒンドゥー教にも夢中になる姿はヒッピー文化の再現だとも。もっとも今では「ゴア・トランス」はディスコ音楽の主流になって売れ筋の音楽になっているそうですが。


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