千野さんは、現在ベルリン在住だそうですが、このところ帰国中であり、各地でコンサートがあるようです。2月下旬には、神戸の旧グッゲンハイム邸でジャズ・ユニットの演奏があり、千野さんがジャズ!というので、行ってみたい気が大いに湧いたのですが、どうしようか迷っているうちに、日にちが経過してしまいました。
で、東京でのソロ・ピアノもジャズ!と言っていいのではないかという演奏でした。最初はインプロだと思ったのですが、だんだんセロニアス・モンクっぽくなってきて、モンクかな?と思っていたら、「オフ・マイナー」のメロディーが出てきました。千野さん、やっぱりこういう構造的に面白い曲を選ぶのかなと思っていたら、綺麗なメロディが出てきて・・・曲の順番に記憶違いがあるかもしれませんが・・・というのも、次ぎに何をやるのかという姿勢に即興的なものがあって、途中で楽屋に譜面を取りに行ったり、また前半の終りに、演奏した曲名をまとめて言ったりしたものですから・・・で、その綺麗な曲は、オーネット・コールマンのビューティーと聴こえたので多分「バージン・ビューティー」ではないかと思います。とてもいい曲ですね。そして「オール・ザ・シングス・ユーアー」・・・このお馴染みのジャズの名曲が、どれほど手垢のついていない新鮮な姿を現わしたことか!感動がこみ上げてきました。それから「予言者の死」。曲といっても、最初に曲のテーマがあって、途中自由な演奏になって、最後にテーマに戻るような感じで、これは私の印象に過ぎませんが、千野さん、ジャズだからといって弾きこなすというか流すような感じは微塵もなくて、とても覚醒していて、強いタッチで細部の細部まで意識的に構造的に音を構築していこうという感じでしたが、演奏者の内部では、やはり自己解体と自己組織が同時に行われているのかしらと思いました。
休憩の後は、直感の赴くままに、無から有を生じさせようという感じでペットボトルを鍵盤の上に置いたりした後、曲とも即興ともつかないようなとりとめのない感じで演奏が・・・一曲だけ「津軽海峡冬景色」だと分かりました。これはちょっと、菊地雅章さんがエディット・ピアフの曲を演奏したアルバムを思い出したりしました。
しばらくライヴから遠ざかっていたこともあり、千野さんの動向も存じ上げていなかったのですが、今日の演奏を聴いてとてもうれしくなりました。そう言えば、今まで同じことをやった千野さんは、観たことないです。かくして、千野さんの探求は続く・・・。
訂正
「エディット・ピアフの曲」ではなくて、正確にはエディット・ピアフが歌ったシャンソンです。
もう、絶対に面白いだろうなーと思って行ったのですが、期待以上の出来で、この種の音楽には珍しくアンコールもありました。前半に4つやって、後半に長いのを1つやりました。始まる前に、会場にいらしたミュージシャンの打ち合わせで「最初に3つやって・・・」という千野さんの言葉が聞こえたのですが、私もこの種の音楽は、もう1曲2曲ではなくて、他に数え方がないのでこれでいいと思います。で、その1つ目が始まってまず思ったのは、「勘のいい人たちだなー」ということです。もちろん、鬼怒さんと勝井さんはPere-Furuでユニットを組んでいることもありますし、経験に裏付けされているというのも大きいと思いますが、相手が出す音を聴いて、自分がどうすべきかを瞬時に判断して実行するってそんな感じがしました。豊かな演奏性によるインプロヴァイズド・ミュージックの見事なアンサンブル作り上げていたと思います。ここで言うアンサンブルとは、不確定な要素を自由に取り込み、未知の部分を出現させながらも、統一的効果と調和をもたらす、とでも言いましょうか、そういうものをすべて含めて全体を必然的な流れにするということは、やはり聴き手に大きな満足感を与えると私は思います。
エレクトロニクスもあり、千野さんも部分的にシンセサイザーをやったので、空間的、音響的な広がりもありました。最初シンセサイザーだと分からなかったのですが、四角いベースギターのようなもので、身につけても演奏できるものでした。あと、ピアノですが、現代音楽のように聴こえたり、ジャズのように聴こえたりする部分もあって豊かなカラーを出していたと思うのですが、こうやってジャンルを名指す言葉で説明している自分がもう音楽に追いついていないという感じもあります。
後半は、演奏と作曲が同時に行われているぜ!というくらいますます息が合ってきたので、見応え、聴き応えが十分にあってとても満足しました。
そろそろ書こうかと思っていたら1週間が経ってしまいました。先週の日曜日は、曇り空の風のとても強い日でしたが、今日は早春の冷たさが残るものの晴れた穏やかな日なので、こういう日に音を聴いたらまた違った体験になっていたかもしれないと思います。 *** ***
知覚に対するギリギリの挑戦とでも言いましょうか。なんというものか、ランプが点灯する小道具を使って1時間10分くらい・・・音と音の間の隙間が大きくて待機している時間の方が長くて・・・その間、窓の外は嵐のよう・・・横殴りの風、激しく揺れる木立・・・ストリートを行き来する人や車のノイズ、遥かなる強度とリアルさを耳が拾う風の音・・・その合間をぬってギターから出る微音を私の耳がすくい上げることができた瞬間!・・・窓の作りとか、ここちょっとやっぱり日本離れした感じがありませんか?
「サウンド・イメージ研究所」という場にふさわしい内容だったと思います。しかし、何かイメージが膨らむというよりは自分の音楽体験もリダクションされてというか、むしろリセットされてしまったような感じがしてとてもおもしろかったです。この場で無心に耳を傾けていた私は、停電の暗闇の中で雨戸をガタガタと揺する台風の音をリアルに感じた子供の頃の私だったかもしれない・・・。
ずっともやもやしたものがあるので、うまくいかないかもしれないが書いてみたいと思う。
これもまた音楽を解放するひとつの方途ではないか、と書いてみるがどうもしっくりこない。
音楽を固有のコンテクストから引き離すというのではなく。
事はさらに細分化している。
むしろインプロの文脈からさえも音を引き離そうとする行為なのだろうか?
「音は響く」という自明の理に対するアンチテーゼなのだろうか?