6/9(水) 木村まり一時帰国ライヴ@西麻布super deluxe 詳細はこちら
木村まり(violin)/木村まり+GuitarBot、sachiko M(sinewaves)、大谷安宏(computer)
6/11(金)〜23(水) Steve Lacy Trio Japan Tour。 公演は中止になりました。
6/28(月) deluxe concert series vol.??@西麻布super deluxe 詳細はこちら
天鼓(voice)、伊東篤宏(optron)、他
今日は古池さん祭りということで、所属の2バンドがなってるハウスに結集。帰国した古池さんは、長い髪を束ねてオレンジ色のTシャツにベルボトム風のジーンズ。ちょっと'70年代風の若者になっていました。
最初がzuppa di pesceで、実は私はこのメンバーで観るのは初めて。zuppa di pesce piccoloでも聴き覚えのある曲をやったり、イトケンさんのドラムが今日は調子いいなーと思ったりしました。そうですねー。こういうの聴くと何か私は、全部が全部ではないですが、昔の chabada の the melody four の"shopping for melodies"に通じるような才気と遊び心を感じたりします。今日はまた、新メンバーのやしろさんという方が、euphoniumで一部の曲に参加しました。
ふいごも、この3人での演奏を聴くのは初めてですが、ユニークなノンジャンルのバンドになっていると思いました。妙に暗い「妙暗」とか、その他いろいろとやりました。チューバがブカブカと同じフレーズを繰り返す間に、サックス/クラリネットとトロンボーンがフリーに変な音を出したりするのなんかは、とても面白いと思いました。両バンド共に短い曲の連続なので、あれよあれよという間に終わってしまう感じがしますが、聴いているととても楽しいです。生きた今の新しい音楽シーンに直に触れているという実感がすごーくあります。これは録音物では得がたい貴重な体験だと思います。
今日の飛頭は、レコーディングをおよそ一月後に控えたライヴ。ちょっとした打ち合わせやリハーサルも兼ねたものになりました。最初に、スタジオでどんな曲をやるか挙げてみたりしたのですが、「ジャズのスタンダードだったら何でも」と言っていた塚本さんが、「スイートなものをやりたい。人生の重みを感じさせないような...」なんていきなり言い出したので塚本さんらしいなーと思いました。トフは以前塚本さんのピアノについて、「とろけるようなピアノ」と書いた覚えがあるのです。
で、スイートなものってどんなものかなと後で自分なりに考えてみたりしました。「魂が別の愛の次元に飛び立つような」ポール・ヴェルレーヌの詩?あるいは、コール・ポーターの音楽?トフ的にはこんなイメージしか思い浮かばないのですが、ちなみにコール・ポーターについて調べてみたら、知らなかったことですが実はホモセクシュアルであったそうで、それを隠すために離婚歴のある女性と結婚したのだそうです。こういった男性同士の関係は、実はポール・ヴェルレーヌとアルチュール・ランボーとの間にもあったわけで、そうと知ったら無性に間章の「不可能な愛」のくだりを読んでみたくなりました。それは間章の文章の中でも、私がとりわけ好きなくだりなのでちょっと書いてみたいと思います。
「だが物乞いの為に歌を歌い始めたムルージにはいったい歌うことによって何が始まったのだろうか。「歌う事は愛すること」と言ったピアフのように彼はうまく歌うだけだろうか。彼の歌う歌はいつも晴れている。しかしその晴れた空の彼方にはきびしく空しい風や、生きることの意志やそれにまつわるやさしい思いと悲しさが一ぱい敷きつめられている。僕は彼の歌をその晴れの故に愛する。かげろうとし、うつろうとしてゆく寸前の晴れの中に身をおいてみるひとときが好きだ。人に語りかけるには言葉があり、人に求めるには言葉がある。そして人を愛するには見つめることただその事だけがある。今、ここにはいない誰かを愛しそしてそれをはっきりと告げるに一体何があるだろうか。歌うこと、前にも後にも何もなくただその場で何かのために歌うこと、それが過ぎ去ったものやいない者の為の愛し方である、と僕はふと思う。だからいつも僕にとっての歌は、不可能を愛することと同じだ。不可能を愛するためには先ず何もなさからだいて行かなくてはならない。ジョルジュ・ブラッサンスやこのマルセル・ムルージがホモセクシュアルな人間としばし呼ばれることを僕は僕なりに理解できる。ホモセクシュアルとは、だって不可能を愛し、愛することの不可能性の中に愛を見出す過激なやさしさのもうひとつの別名に他ならないのではないかと思うからだ。
ロシアの性愛哲学者ソロビョフの性愛論でも説かれるように、不可能の愛、成就されない愛、片思いの愛が世界を高次の存在とやさしさへみちびくとしても、また葉隠のように思いこがれて死ぬことが愛の唯一の姿だとしても、今ここで一人の具体的な存在に愛を告げることが本当は許されていないという思いはムルージの歌の一節のように「シッポの先まで絶望的」ではあり続ける。」(『非時と廃虚そして鏡』より)。
さて、話は戻って飛頭へ。前半は「クランブリング・ステープル」(ミドリ)、「ネフェルティティ」(ウェイン・ショーター)、「ラウンド・トリップ」(オーネット・コールマン)、「ジャイアント・ステップ」(ジョン・コルトレーン)。後半は「アブストラクト・フラワーズ」(ミドリ)、「夏の医者」(ミドリ)、「オール・ザ・シングス・ユー・アー」(ジェローム・カーン)。そうですねー。後で聴くと「ネフェルティティ」なんかも、ドラムとベースがすごくいいノリを出していて捨て難いと思うのですが、最初に話し合ったように、録音はせっかくだからオリジナルで、ミドリさんと菊地さんの曲でいって、スタンダードは入れても1、2曲でいいのではないかと思います。後は、レコーディング当日に、ミュージシャンの皆さまがグッドコンディションで演奏に臨めることを願うばかりです。それでは皆さま、某日某所に1時くらいに集まるということでよろしくお願いいたします。
今年はヴァイオリンの当たり年というのは大げさかも知れませんが、先月のビリー・バングに続いて同じスーパーデラックスで木村まりさん。ビリーさんは、ジャジーな感じでしたが、まりさんは、フリー・インプロヴィゼーション。音色や演奏が大きく違うのが分かると思いました。最初が、まりさん+GuitarBot+大谷さんの演奏。まりさんが、スーっと自分の位置にやってきて、確か「自然な感じで」と言って直ぐに演奏を始めようとすると、大谷さんが「えーもうやるの」と。私はその「自然な感じで」という言葉がとても印象的でした。ヴァイオリンが始まると、ギターボット=ギター・ロボットが自動的に動くという仕掛け(パソコンを使っている)。ギターのロボットといきなり言われて戸惑ってしまいましたが。次ぎがさちこさんの短いソロ。休憩はこの後だったかな?で、まりさんとさちこさん、まりさんと映像と共演は続きました。
全体的には演奏はそんなに長くはなかったですが、とてもいいプログラムで、まりさんの色々な面が観られて良かったと思います。まりさん+GuitarBot+大谷さんは、色々な音がぎっしりと詰まっているような感じ。さちこさんとまりさんは、まりさんが、あまりしっかりと弦を弾いてはっきりと音を出さないようなスタイル。こういう感じは、入間川さんのチェロでも観ましたが。最後のオーディオとグラフィックスとのインタラクティヴは、スケールの大きな空間的な広がりが感じられて、また違った感じがしました。この演奏の映像は、既にまりさんのホームページに載っているのでご覧下さい。ギターボットの写真もあります。
最後に、最初の「自然な感じで」という言葉に戻ってみたい気がするのですが、今日のような演奏に接すると、非常に優れたフリー・インプロヴィゼーションであると感じると同時に、それは最早自分にとっては、難しい言説やさまざまな形容詞からは遠いものになっているという感じがしました。自然な音/音楽、自然であると感じる音楽、こういう言葉を使って言わんとすることを理解していただくには、もっともっと考えて説明しなければとも思うのですが。
このユニット以前にピアノトリオを生で観たのは、確かヨアヒム・キューン+J・F・ジェニー・クラーク+ダニエル・ユメールが最後。もう10年以上前になるでしょうか。その時もそして今も、ピアノトリオにつきまとうのは、どこかしら自分の手に届かない遠くにあるという感覚。テクニック的に何か凄いものを見せつけられるいう感覚であったと思います。しかし、今日このトリオを身近な存在として感じ、ある種のぬくもりを感じるのはどうしてなのか。それは、スタンダードと言われる曲を取り上げているからなのか、はたまた、私がこの時代の音として慣れ親しんでいる音響=エレクトロニクスを取り入れているからなのか...。とても心がときめいて、ジャズを聴いてこんなに素直に楽しいと思ったのは久しぶりだと思いました。「残るものがある」と夫も帰りの電車の中で言いました。
さて、今日もいい曲を沢山やったのですべては書けませんが、ランダムに幾つか挙げてみますと、「タイム・リメンバード」、「ヴェリー・アーリー」、「オール・ザ・シングス・ユー・アー」、「タイム・ウェイツ」など。あと、坪口さんが10年前に作った曲、細野晴臣さんの曲、スタンダードにはまだなっていないけれどいい曲、などもやりました。坪口さんの「ヴェリー・アーリー」はとてもきれい。心に滲みます。エフェクトをたっぷりと取り入れた「スピーク・ライク・ア・チャイルド」も圧巻。坪口さんの手さばきに見とれてしまいました。必要以上にしゃしゃり出ない藤井さんのドラムとベースとのバランスもとてもいいと思いました。菊地さんも今日はとてもノリがあって素晴らしかったです。曲を解釈するセンス、エフェクトを使うセンスに繊細な感性を感じます。これは坪口さんにも当てはまることですが。
演奏が終わった後、「良かったです」と坪口さんに声を掛けると、「トフさん?影のプロデューサー!?」と。すみません、図々しくなってしまって。何か私が好きだからエフェクトじゃんじゃんかけろ、みたいなことを菊地さんが言ってくれたみたいなのです。ありがとうございます。お疲れさまでございました。でも、飛頭では実はもっと図々しくなっていて、この曲レコーディングしろ、みたいなことを言っているーッ。
5月のプレビュー・オブ・アルジャーノンで観た外山さん、ちなみにこの「アルジャーノンに即興を」のワークショップは7月9・10・11日にも行われるのですが、その外山さんの演奏が聴いてみたくて出かけてみました、日曜昼の新宿ピットイン。ステージは使わないで、客席の真ん中に向かい合うようにセットを配置。観客はぐるりと輪になってそれを取り巻くという仕掛け。外山さんのセットは、真ん前にアフリカの?素朴な手作り風のマリンバを据え付けて、周りにタムタムやコンガを幾つか置くという感じ?シンバルは3つくらいだったと思います。大儀見さんは、コンガをたくさん置いて、他にもそんなような民俗的な打楽器があったような?あと、コンガの縁に取り付けた金属製の扇子みたいなもの、あれは何だったんだろうか?
で、最初は、外山さんがシンバルをスティックで擦るところから始まって、あとはどんな流れだったのかよく覚えていないのですが、外山さん首から吊したカウベルを結構多用して、それはスティックで胸をガンガン叩くような感じになるのでちょっと面白かったです。大儀見さんは、身体をクネクネとさせて、コンガをひたすら手でパカパカと叩くという感じ。そうですねー。しばらく観ていて思ったのは、音的には何か地味だなーということでした。外山さん全体的にシンバルはあまり使わなかったと思いますが、カウベルの鈍い金属音、マリンバのプリミティヴな音、大儀見さんの素手でパカパカとコンガを叩く音などは、響きが持続しないので、空間とか間(ま)といったものは感じさせなかったと思います。グルーヴはあったのかどうか・・・しかし、これらの楽器を使いこなすリズム、そのリズムにはきっと優れた何かがあったと思うのですが、取りたててリズムを組み立てているといった感じもしなかったと思うので、トフなんかはあまりよく把握できなくて・・・それよりも私が目を奪われたのは、叩くという行為そのもの。それを目で追うことに没入していたら終わってしまって、後はあまり覚えていないという感じでした。叩くということ、それは、時には、お互いに見つめ合って微笑み合う場面も伴って現われたりもしたのですが、どう叩くかという行為を叩く行為にひたすら没頭することによってのみ追求する修行僧、そんなようにも感じられたところがあって、面白くもありまたストイックにカッコよかったと思いました。前半後半共に40分くらい。携帯電話から?メロディーが流れてくるのが終了の合図のようでした。