松原幸子さん作曲による曲は10分くらいの短い作品で、持続音と間隙の長短の組み合わせで成り立っているようでした。これを彼女の作曲とは別に1つの例として分かりやすく説明してみますと、「ジー(5秒)、(間隙)、ザー(3秒)、(間隙)、・・・」といった具合でジーとかザーの部分に音符が入っていると考えてみればよいかと思います。
今日はこの曲を杉本さん、津上さん、伊東さん、千野さんの順にそれぞれが違った楽器を使ってソロ演奏する試み。以前杉本さんがミュゼ誌のインタビューで「音符は確定していても弾き方は無限にある。それが即興である。」と語っていたのを覚えていますが、そういった彼の考えの実践でもあるように思われました。これから書くことは私の聴き方でありますが、自分が聴いたところでは、サックスやアコーディオンの楽器として作られた楽器による譜面の演奏の場合は、音符の再現性があって音(音符)に引きずられて聴いてしまうようなところがありますが、ラジオやオプトロンのノイズマシーン(と仮にここで名付けてみますが)による演奏だと音に引きずられるというよりは、曲の全体が見えてくるというか、曲の構成全体が際立つように感じられました。伊東さんのオプトロンについて少し説明してみますと、4〜50Bの長さの蛍光灯を3本縦に据え付けた1.5〜2mくらいのシンプルなライトが置いてあって、テーブルのエレクトロニクスのつまみを操作すると、この蛍光灯の点滅と音が連動して出てくる仕組みになっています。つまみのひねり具合によって、ガー、ゴー、ガガーという風に調節が効いて小さめの音から轟音まで幅が広げられるようです。それから、感心したのはラジオです。譜面があったのでそう感じられたのかもしれませんが、ラジオを演奏しているという表現がぴったりで、ジーとかガーとかいう電波を探し出して幸子さんの曲を見事に演奏しているといった感じでした。
作曲と即興ということでもう少し考えてみますと、ラジオやオプトロンに関しては、現場で即興によっては容易に探し出すのが難しい音の構成に作曲の手助けによって到達できるという側面もあるのではないかと思われました。
オプトロンの蛍光灯のところに「Bar Sachiko」の赤い看板を引っ掛けて、テーブルの上にワインやビールの空き瓶や空き缶を並べて Bar を演出するアーティスティックなセンスも素晴らしかったです。
ニュー・ジャズ・クインテットは切れのあるジャズユニット。大友さんかっこいいジャズマンに変身してギターを弾きまくったのでびっくりしてしまいました。それから、サックス、ベース、ドラムスと最近の人たちはこんなにジャズの演奏が上手いのかとこれまたびっくりしてしまいました。もっとも、しっかり演奏できるミュージシャンを集めて精度の高いユニットを聴かせるのが主眼なのかもしれませんが。で、自分はというと、このところあまりジャズを聴いていないということもあって、ジャズを語りジャズの美学を形容する言葉が浮かんでこなくて困ってしまいます。それでもかっこいいジャズにはかっこいい(かっこつけた^_^;)文章が似合うかな?ってな感じで、評論書くみたいにトライしてみますと・・・。
「前半はスピードと切れのある2曲の後、益子さんのエレクトロニクスの導入から始まるゆるやかな曲。ジャズに音響的空間が加わって境界を越える音の広がりを見せる。4曲目からはSachiko M が加わって左右にエレクトロニクスを配する構成。オーネット・コールマンの『ロンリー・ウーマン』とエリック・ドルフィーの『ハット&ベア/帽子と髭』を弛みのないテンションの高さで一気に聴かせる。いわゆるスタンダード曲とは違う甘さのないジャズの名曲にさらにクールな現代の息吹きを与えた」。
後半はヴォーカルのPhew さんが加わってというか中心になって、前半とはがらりと違う自分にはあまり馴染みのないノンジャンルの不思議な「歌」の世界になりました。この日は立ち見も出るほどの超満員の大盛況で、多くの人たちの人気と支持を集めているグループのようでした。
京都は時々小雨が降る曇り空で、激しい夕立ちがありました。蒸し暑い夏の京都は大の苦手です。大徳寺の大仙院と瑞峰院をまわって枯山水の庭園を眺めました。水の流れを表すという敷きつめた白砂の空間と石の配置感覚は、ジョン・ケージの版画などにも影響が見られるのではと思われました。眺めていると時が経つのを忘れます。大仙院では美術館さながらに、オリジナルのしおりや便せんなどの大仙院グッズや、22册も本を出しているという名物和尚の本が売られていてちょっと驚きました。これも時代の流れで寺もいろいろと収入源が必要なのか、和尚はお買い上げ品のサインに、弟子やバイト(子供?)はグッズの売り込みに余念がありません。庭の美しさはともあれ、ここには峻厳な禅の修行世界をしのばせるものは何もありません。
アメリカの大事件で私が恐ろしいと思うのは、この世を悪と見なし殉教もいとわない背後世界論者たちの存在だ。しかも彼らは自分の神だけを絶対化する。道元の世界は全く別のことを教えてくれる。すなわち、この現実の世界のほかに、真実の世界を求め見つけようとしても、そんな世界はどこにもない。しかも世界は主観(こころ)の反映であり、客観世界は人それぞれが異なった認識をしている主観の反映であるというのだ。この現実世界だけに耐えて、しかもこの世界を変えようとするのは至難の技だ。しかし、仏として目覚めて生きることによって、少なくとも自分が認識する世界は変わる、変えることができるというのである。現実的で実存的な思想だと思う。だが、実際にこれを生きようとするのはとてつもなく難しく苦しい。
大徳寺一久という精進料理の店に入ってしばらくすると、どしゃぶりの雨になりました。ここは大徳寺精進料理方として五百年以上の歴史を持っているそうです。見事な庭が臨める書院造りの離の6畳間に案内されました。テーブルは置いてなくて、花瓶の花と座ぶとんが一枚敷いてあるだけの簡素な和室で、大分昔の造りのようです。そのうち、朱塗りのお盆が運ばれてきて目の前の畳みの上に置かれます。湯葉を戻して山椒をふっただけのものとか、ごぼうの筏揚げ(筏の形をした天ぷら)とか、賀茂ナスの田楽味噌とか、生麩の入った味噌汁に栗ご飯とか・・・精進料理は飢えを凌ぐ程度の料理であることが原点だそうですが、なかなかどうして、大変な手間のかかった料理です。人の労力に高い値段のつく現代では、こういう所に来てこういう料理をいただくこと自体、ある種の贅沢になっていると言えるのかもしれません。
やっと小雨になってきた頃に店を出て、北大路バスターミナルに向かうバスに乗り込んだ時には、一刻も早く家に帰りたいという気持ちでいっぱいになりました。知らない街のクラブというところで、一晩中ライヴを観る気力は全くといっていいくらい失せていました。
エヴァン・パーカーの昨年に続く来日。15分くらいの演奏が三つあって、たっぷりとソロを聴くことができました。エヴァンさんの演奏については、チラシにしっかりとした紹介文が書いてあるので、私が改めて書くことは何もないのですが、循環呼吸というのはどういうものなのか、15 分くらいの間全く息を吸わないで?途切れることなく音を出し続けるのはやはり驚きというほかありません。しかも、右手でソロをやって、左手で同時に伴奏もやってしまっているような感じなのですから。
オープニング・アクトはエアハルト・ヒルト(g)。観たことのないちょっと変わった形のエレキ・ギターでした。ボディーが三角おにぎりのような形で、ネックがのっぺらとした感じで・・・後で秋山さんにお聞きしたところ、特に珍しいものではないそうですが、しぼる部分がネックの先端にあるのではなくて、ボディーの下の方に付いているのだそうです。で、最初はそのギターにエレクトロニクスを繋いで、ギターとは思えない音を出しましたが、それはギター・シンセサイザーというものであるようでした。割り箸のようなものを両手に持って弦を軽く叩いたりして、音響(効果)的な演奏もしたりしました。次ぎの演奏はギターをランダムに弾くといった感じでしたが、このギターはとても響きが良くて、ひとつの音を出すと残響が結構持続するような感じで、演奏よりもこの楽器に対する興味がむくむくと湧いてきました。最後はエヴァンさんとエアハルトさんのデュオになりました。
ブレットさんのいないデラックスは、何となく今までとは違った感じで、気のせいかどうか天井のライトが以前よりも随分明るくなったようでした。それから、この日は思い掛けなく、即興会議室に話題を提供して下さったナルトさんにお会いすることができました。ナルトさんは、現在ロンドンに留学中で、エレクトロ・アコースティック・アンサンブルはもちろんのこと、エヴァン・パーカーを毎月聴いているという凄い体験の持ち主なのです。海外で留学生活を送っている方らしく、きりりとした感じの素敵な女性でした。明後日の宇都宮公演/大谷石採掘場跡にも観に行かれるとか。気温約10℃の寒い所みたいだけれど、きっとおもしろいだろうなあ。
ソロも素晴らしいエヴァンさんですが、やはり共演も観たくなります。今日は最初にソロをやった後、石川さん、sachikoさん、大友さんとのデュオになりました。これは近藤等則さんや冨樫雅彦さんにも感じることですが、相手に合わせるのが上手いというか、過去の経験から相手の音を聴いて自分がどんな音を出したらよいのかが瞬時に分かって実践できてしまうといった感じで、ごく自然にデュオを自分のものにして完成させていくようでした。
後半は全員での演奏で、音響的なインプロヴィゼーションになりました。大友さんは、軽くつま弾いたり擦ったりするギターの少なめの音を響かせるのに集中したり、何というものか?焼香する時にチーンと叩くもののような形をした、銅色の金属の器を三つばかり並べてチーンと叩いて、音響(効果)的な演奏に終始していました。やはり、全員が同じような音を出す瞬間があって、音響的インプロというのは、皆が同じベクトルに向かっているもので、その流れの中で同じような音を出していると感じられる所が部分的にあるいは瞬間的に現われてくるものなのかなと思いました。これは、例えば「格闘」とか「対話」とかいった言葉で表現できるような、四方八方にランダムに向かう音の掛け合いといったものとはちょっと違った感じで、この感想は将来変わるかもしれませんし、自分の狭い音楽体験から導かれているものですが、今現在私がふと思うに、音響的インプロというのは、インプロヴィゼーションを美学的に整理し発展させたものなのかなという気がしたりします。こういう風に総括的なことを言うと、完全に全体をカヴァーできなくて的が外れてしまうことがままあるのですが。
それから、「同じような音を出す」ということについても、自分が今までに聴いただけでも色々なケースがあります。異種の楽器が境界のない全く同じような音を出す場合や、同種の楽器(管楽器)が、同じようなアプローチで同じような音を出す場合や、同種の楽器(打楽器)の共演で、同じような音を出すという意識的なアプローチは見られなくても、結果として同じベクトルに向かっているように感じさせるものなどです。