親しい人に出会ったら「いい月になってきましたね」と挨拶したくなるようなこの頃になりました。夏の間は、入浴後ベランダに出て涼むのが何よりの楽しみだったのですが、この季節は駅前にポツンと建った高層マンションの上空に現れる月を愛でたくなります。私は私の場所から私の思いで月を眺めますが、きっと色んな場所から色んな思いで月を眺めている人がいるんだろうと思います。月はいいです。
さて、9日、10日と2日かけてアントワン・ボイガーという人の作曲作品を演奏する試みがありました。アントワンは、オランダ出身のウァンデルヴァイザー楽派の人。その名は、フリーペーパー『三太』で見知っていたのですが、私が実際に演奏に接するのは初めてです。2007年に来日を果たしており、その際「Sekundenklange」も部分的に演奏されているようですが。
Sekundenklange(some sounds,just seconds)は、減衰する音を持つ楽器(ハープ、ギター、ピアノ等)のための曲で、すぐに減衰する音、ゆっくりと減衰する音、様々な長さの沈黙から成り立っているそうです。50ページにも及ぶ作品だそうですが、どのページをどんな組み合わせでやるかは、演奏者にまかされているそうです。
9日は半分を約1時間半かけて演奏しました。実際に聴いてみると、点状の音と線状の音とサイレンスがランダムに配置されているという感じがしました。インプロとは別の角度と方法論から、インプロを越えたというか、インプロがなし得ない音のランダムネスの表現のように私には思われました、と言っていいのかどうかというためらいも多少ありますが。ここでの音の有り様というのは、音が音を打ち消すことなく生起していく、サイレンスが意図的に挿入されている、これはいわゆるフリー・インプロヴィゼーションの演奏では起こり難いことのように思われます。初日は、この音の点と線を明確に屹立させてどう見せるかが作品の鍵になると思ったのですがどうだろうか?また、例えば弦楽器のアンサンブルなどで演奏を試みたら、作品の構成が更にはっきりと把握できるのではないかと思いました。それにしても、沈黙の長さというのは、これは長くてこれは短いという具合に聴き分けるのはとても難しいと思いました。
10日は残りの半分をやはり約1時間半かけて演奏。前日よりは、個々の音が決まっていたと思います。2日かけて3時間ほどかかった大作ですが、この、苦行とも言える大きな制約をミュージシャンに課する作品を誰が演奏するのかと思ったら、ロードリ・デイヴィスのために作曲されたとありました。やはり、ランダムな音楽の担い手は、他ならぬインプロヴァイザーなのか?そして実は、この長さというのが作品の要になっているのではないかと思いました。この長さこそが聴き手に何かを変容させていく・・・別の次元を掘り起こして行くのではないかという意味で。しかしまあ、ここまでの音の追求に付き合うインプロヴァイザーも聴き手も今のところいないようですが。
昨年のエッグファームでの姜泰煥さん、高橋悠治さん、大友良英さんのトリオ演奏を体験できなかったので、今年は観たいと思っていたのですが、今日の高円寺では、高橋悠治さんのご出演が無くてとても残念でした。そんなこともあって、聴く側としての私も今日はエンジンがかかるのに少し時間がかかったように思います。全体で1時間15分弱くらいの公演でしたでしょうか。途中、田中泯さんと姜泰煥さん、田中泯さんと大友良英さんという具合に1対1になる場面があり、そのあたりからおもしろく感じ始めてきたように思います。1対1だと、より集中的に的を絞って観ることができるように感じられました。とはいえ、インプロと言われる音楽がこういう劇場でやられることには、やはり違和感がありました。
音的には、大友さんのやっていることに注意が引き付けられてしまいました。「ああ、音を作っているなあ」と。それで気づいたのですが、この音作りには最早ギター本来の面影はなく、これはもうギターを媒体としたエレクトロニクス表現ではないかと思いました。これは、7月に観たキャル・ライアルさんにも当てはまると思います。エレクトロニクス表現の今は、ライヴで完成度が高いものを披露できるようになっており、個性やセンスを発揮できる・・・大友さんは、同じことを繰り返さず、場面に変化とかメリハリをつけていくのが上手だなと思いました。
観終った後、内容とは別に劇場自体にとてもつまらなさを感じてしまいました。ここ「座・高円寺2」は、客席の数こそ抑えられていますが新しい綺麗な劇場です。しかし、このようにステージと客席に分けられている従来のスペースに、自分はほとんど魅力を感じられなくなっていると思いました。今日のような公演は、こういう劇場にはもったいないと思いました。「演出」では成り立っていないもの、もっと開かれた良いものが、不自然な枠組みに抑えられてしまうように感じました。
家に帰ってから、録画しておいた「Quest 探求者たち 田中泯」を観ました。wowowで7月に放映されたものです。2006年の朝日舞台芸術賞受賞を最後に、大劇場での踊りを休止していること。場所で踊るのではなく場所を踊る「場踊り」に新たな道を見い出していることなどが紹介されていました。そして、最後に語られた言葉には、私自身とても深く共感するものがありました。
「(踊りとは)社会性や価値や経済やそういうものから完全に解放されたところで、人間同士が人間の表現を見合うということだろうと思うんですね。田中泯がハイ踊りますと言って集まって下さい、ただ2000円払って下さいよとかね。そういうことっていうのは、いつかある時点で誰もが止めなきゃなんないことだと思いますね。本来、そういうことを考えずに見たり聞いたり、あるいは見せたり見られたりする関係が成立すれば一番いいんですよ。もうほんと理想ばっかり言ってるんだけど。いや、刻一刻と近づいているからね、この理想に。」