"Anode"(TZADIK)
1.Anode1
2.Anode2
3.Anode3
4.Anode1Variation
Yoshigaki Yasuhiro(percussion,drums) Sugimoto Taku(electric guitar)
Takara Kumiko(percussion,vibraphone,timpani)
Akiyama Tetuji(turntable without records and contact microphone)
Annette Krebs(electro-acoustic guitar(tracks2,4)) Uemura Masahiro(percussion,drums)
Otomo Yoshihide(electric-feedback guitar(tracks1,4)) Itoken(percussion,crotales,drums)
Sachiko M(sine waves and contact microphone) Furuta Mari(percussion,crotales)
Nishi Yoko(prepared 17-string koto(tracks2,3) Ichiraku Yosimitu(percussion,drums)
大友さんの新作"Anode"は、フリー・インプロヴィゼーションがともすれば陥りがちなアポリアを克服するために(と私は解釈するが)、インプロヴァイザーに幾つかの条件が課せられている。
1.他の楽器の音に反応しないこと。
2.フレーズやリズムを出さないこと。
3.起承転結等のストーリーを作らないこと。
このように、いわばマイナス方向に制限された条件を頭の隅っこに置いて、自分なりに聴いてみました。
最初に"Anode 2 (余韻)"について(Anode 3 は 2 の続きのように聴こえる)。この部分には「1つの音(一打)を出したらその余韻が完全に消えるまでまってから次ぎの音を考える」という更なる条件が加えられています。で、CDで最初聴いた時には、やはり何かコントロールされているような不自由さを感じました。何度か聴いているうちに、1〜3 の条件を課することによって、演奏よりも音そのものに注意が向けられるよう仕組まれているような感じがしてきました。全体を通して聴くと、何かこう型にはめられながら順序だてて、しかし違った音が次々に生起してくるような感じがしました。様式美を兼ね備えた即興??とでも言いたくなるような相反する要素を持った新しい感覚が生まれてくるように思われました。
初演(10/23/2001@Deluxe)で演奏したのもこの部分です。ミュージシャンが円陣を作って、観客は好きな場所で聴くことができました。といってもあまり身動きできる状態ではありませんでしたが・・・。私は芳垣さんの真ん前にいて、いきなり後ろから音が飛び出してくるのにびっくりしました。「聴く場所によって違って聴こえる」との大友さんのお話でした。ライヴでは様々に音を発見できるのではと思いました。
"Anode 2 "には、更に2つの指示が与えられています。
*同じ音程関係の音列を続けない。
*音程、音色は毎回設定を変える。
"Anode 1" と"Anode 1 Variation" の方は、幾つかの条件が課せられているにも関わらず、"Anode 2 "とは違って音はとても自由にカオスティックに聴こえてきます。こちらは"Anode 2 "の 「1つの音(一打)を出したらその余韻が完全に消えるまでまってから次ぎの音を考える」とは反対に「play loudly and create new sounds before previous sustaining sounds disappear」という条件が加えられています。ミュージシャンの演奏力が問われる条件だと思います。
上に書いた「フリー・インプロヴィゼーションがともすれば陥りがちな・・・」という文章、アノードの方法論を説明するためにやむなく書いた文章が、具体的に何を指しているの分からないような一般論的な言い方になってしまったので、何を言いたいのかもう少し考えてみたいと思います。
聴き手としての私が思うことは、演奏する側が限りなく開放的で自由なことをやっている、あるいは試みている、と思っているのと同等に聴き手は必ずしも自由を感じるわけでないということです。聴き手は、フリーという名の下(もと)で行われる演奏の内容が、音の掛け合いだったり、フレーズやリズムの無意識的な引用であったり、静かに始まって途中で盛り上がってまた静かに終わるというようなパターン的なものだったり、多分に形式化されてしまったものをそこに感じとる場合があるということです。そうしたマンネリ化やスタイル化を打ち破るために、何らかの有効な企て(これを発見するのが難しいと思うのですが)、異化するための意識的なものの導入が必要ではないかということです。これは具体的には、それぞれの音楽に向き合ってみれば様々に聴き取れることだと思います。(2月3日記す)。
"Cathode"(TZADIK)
1.Modulation#2
acoustic modulation for guitar sho and electronics
Imahori Tuneo(electric guitar) Ishikawa Ko(sho)
Sachikok M(samplers with sine wave generator) Kawasaki Uta(silent synthesizer)
2.Cathode#1
for large ensemble with tape manipulation
Sachiko M(samplers ) Eto Naoko(piano,prepared piano with electronics and reverse-symbals)
Tanaka Yumiko(futozao-shamisen ) Ishikawa Ko(sho)
Kudo Miho(violin) Mochizuki Naoya(cello)
Kikuchi Masaaki(contrabass) Yoshida Ami(voice)
Yamasita Toru(whistling) Kondo Yoshiaki(tape manipulation)
3.Cathode#2
Dedicated to Toru Takemitu
Otomo Yosihide(sampling composition on hard disk recorder)
sampled musicians
Otani Yasuhiro(computer) Sachiko M(samplers with sine waves and contact microphone)
Nakamura Toshimaru(mixing board and effects) Kawasaki Uta(analog synthesizer)
Yoshida Ami(voice) Kudo Miho(violin)
Mochizuki Naoya(cello) Kikuchi Masaaki(contrabass)
4.Modulation#2
acoustic modulation for sho and sine wave generator
Ishikawa Ko(sho) Sachiko M(samplers with sine wave generator)
カソードの東京での初公演(6/16/2001@NTTインターコミュニケーション・センター)は、CDとは大分違ったものですが、私は観ておいて本当によかったと思います。この姿で今後公演することはあまり考えていないようですが、大友さん、Sachikoさん、石川高さん、杉本拓さんら4人の選りすぐりのいい音を集めたカソードを、私はまたいつかどこかで観たいものだと思っています。
さて、これから書こうとすること、今自分が感じていることを、自分の感覚だけを頼りにして何とか言葉に表してみたいと思うのですが、それをどうやって表現したらいいものか、考えあぐねています。もう少し勉強してていねいに話を積み上げていければとも思うのですが、ストレートに感じていることを言ってしまいたいという気持も強いです。話にまとまりがなくて、的外れなところもあるかもしれませんが、書きたいことの結論を率直に言ってみようと思います。
まずアノードを聴いて、高柳昌行の「イナニメイト・ネイチャー」が聴いてみたくなりました。で、カソード#1を聴いた時に、武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」が浮かんだので聴いてみました。あとでCDの中を見たらカソード#2の方が武満徹に捧げられていました。で、大友さんと武満さんの両方を聴いてみて「似てて非なるものとはこういうことを言うのかな」と思いました(実は最初からぜんぜん似てないのかもしれませんが)。武満さんの方は、気分というか情緒性というか、私が感じるところでは個人的なロマンティシズムに貫かれている。一方、同じ邦楽器を使っていながら、大友さんの方は音の出自がまるで違う。何かもっとスケールが大きい広がりというか、境界突破的なものを感じたのでした。で、「イナニメイト・ネイチャー」を聴きながら読んだ清水俊彦さんの解説に、私が感じた何かを解く鍵があるように思われました。その部分を抜粋してみたいと思います。
「かつて高柳は〔アクション・ダイレクト〕=〔ノイズによるソロ・インプロヴィゼーション〕と等価なものとして〔インプロヴィゼーション・フロム・ザ・ファースト・マテリアル〕と謳て(うたって)いたが、この〔ファースト・マテリアル〕(第一原料)〜それ以上還元できない基本的な物質〜は、「入れ替わったり」、「吸収されてしまう」ことのないもの、言いかえれば、「最小の差異」、どれほど分析しても結局は分析を逃れ、分析を限りなく遅らせるものとしてのノイズを指しているのではないか。問題となるのは、硬直した意味をつくり出す音楽ではなく、分裂増殖を繰り返し、さまざまな要素を組みこみ、接合し、解体し、差異を生み出し続ける音楽機械となることだ。この方法論として高柳のいう〔アクション・ダイレクト〕はきわめて高度な有効性をもっている。彼は楽器⇔演奏者、機械⇔人間、科学⇔芸術といった二元論、つまり客体⇔主体という近代の構図を揚棄する方向に向かいながら、慎重かつ徹底的に〔音楽〕という記号の意味の解体をめざしているのだ」。
解説はこう続きます。「彼を(高柳)をノイズ・インプロヴィゼーションに駆り立てている根源的な衝動の一つは、〔未知なるものへの不安と渇望〕にあるということもまた強調しておかねばならない」と。ここで私は〔未知なるものへの不安と渇望〕にさらされているのはまた、こういうことを書かざるを得ない自分自身でもあると思いました。間章のように武満徹を痛罵するつもりはありませんが、武満さんの音楽では満足できない自分がそこにいました。
清水さんの論考は、さらに大友さんの音楽を示唆する言葉へと続きます。
「さらにまた、高柳の音楽のもつ、騒がしく、アナーキーで、ノイズに満ち、裸で、斑点があり、縞があり、多くの色、色調が入りまじる多様性、それは可能性そのものである、それは可能なものの集まりであり、その総体でありうる。それは権威ではなく、権力のまさに逆であり、キャパシティである。このノイズは始まりである。多様性は開かれており、そこからつねに生成しつつある自然のような何かが生まれるのである。一つの可能性が他の可能性とどうやって共存するのか、誰も知らないし、知ることはないだろう。おそらくそれは可能な関係によって共存するのだろう。全体には可能な関係が縦横に入りまじっているのだ」(2月9日記す)。
"The Taji-Mahal Travelers"(TDCD 90621)
July 15,1972
Takehisa Kosugi(electronic violin,radio oscillators & voice)
Ryo Koike(electronic contrabass,suntool,harmonica,sheet iron)
Michihiro Kimura(electronic guitar & percussion)
Seiji Nagai((electronic trumpet, harmonica & castanet)
Tokio Hasegawa(vocal)
Kinji Hayashi(electronic engineer)
Go Hamada(producer)
旅行団はリーダー不在のグループであったそうですが、やはり小杉さんの音が無いとつまらないかなと思う。退屈に感じられる一歩手前のような1〜2曲よりも、小杉さんのヴァイオリンがのっけからが聴こえてくる3曲目が断然おもしろいと思う。パッと目が覚めるような感じになる…。
"Catch-Wave"(TDCD 90622)
1.マノ・ダルマ'74
時空に変化するメディアにおけるソロ・インプロヴィゼーション
2.ウェイブ・コード#e-1
ソロ唱者小杉武久による3重演奏
小杉さんの「イッた感じが好き」と語っていた人がいるが、これは自分にも分かる気がする。小杉さんのヴァイオリンの音を追っていくのは、実にスリリングな体験だ。背中がゾクゾクしてくるような感覚が走る。場合によっちゃ、涙が出てしまうこともある。ジャケット裏面の小杉さんによる解説に、いいことがたくさん書いてあります。
芦屋美術博物館が発売した小杉さんのヴィデオは、パフォーマンスの一部を抜粋して繋げただけのものなので、私はあまりお勧めしませんが、この中で、'96年に行われたパフォーマンス"Catch-Wave'96"が部分的に観られます。CDと同じ仕掛け、演奏のシステムを使っているようですが、ヴァイオリンと声がCDとは違うものになっているのがおもしろい。これだったら、永久に新しい"Catch-Wave"が発見できるかなあ(3月7日記す)?