@@@ あ れ こ れ think now @@@

サッカーワールドカップが終わったとき、いろいろな人が、国内のサッカーを見てくれと言っていた。これは、当然だ。しかし、果たして、サッカーは、観客を増やせるだろうか。
もっと端的にいえば、日本でサッカーが、今まで以上に根付くかどうか、どのように根付くのか、ということだろう。いや、その前に、どのようにして、今日のサッカーが根付いてきたのだろうか。

日本では、日本の事情があって、日本なりのサッカーが根付いてきた。韓国には韓国の事情が、かつての侵略国であったヨーロッパの国を撃破して話題になった、あれ?どこの国だっけ、アフリカのチュニジアだったかな、そのチュニジアの事情が、スポーツとしてのサッカーではなくて生活費をかせぐために子供がサッカーボールを作るパキスタンやインドなどの事情が、・・・・と、各国各地域にそれぞれ事情があってサッカーは、様々な根付き方をしてきた。
日本では、どうであったのか。といっても、日本という国における日本サッカーの位置付けを、ここで考えようというのではない。僕にそんなこと、出来ない。しかし、こういう問題の立て方は、できる。僕と日本サッカーとの関係は、どうであったか。僕の頭の中でサッカーは、どのように根付いているのか。

基本的には、両者は、無関係である。
僕とスポーツとしてのサッカーには、接点はない。
Jリーグ発足以来の、とりわけワールドカップ準備段階以来の
社会現象としてのサッカーは、僕と接点がある。
サッカーとは、頭と足しか使えない、両手を使えないスポーツである、その程度のことしか、知らなかった。この、サッカー認識は、今もって変わらない。
そして、Jリーグが発足した。発足に際しては、何ほどかの行事があったのだろう、一つの思い出がある。

電車待ちがちらほらの地下鉄霞ヶ関のプラットホームでのこと。電車が着くと、ひとり変なのが降りてきた。どのように変なか、というと、まず出で立ちが、バレリーナの扮装、もちろん男だ、で、そいつが僕の周りを爪先立ちで手をひらひらする。こちらは、無表情を装って内心は好奇心いっぱいで、見ていた。彼は、電車の扉が閉まる寸前に飛び乗り、電車は去って行った。寸劇を、彼はやったのだ。次の駅で同じ寸劇をやらかすのだろう。彼のおかげで、僕は、電車を一つ、逃した。部屋に戻ってテレビだったか、翌日の朝刊だったかを見て、あ、そうか、あいつは、サッカーか、Jリーグか、と思った。文字通り、サッカーか、と思った。今ならサポーターという言葉があり、僕もこの言葉を知っているので、あいつはサポーターか、と思っただろう。
「ふーん、サッカーか、関係ねーな」と、そのとき思ったが、これが、大間違いであった。Jリーグ発足以来、社会現象としてのサッカーが、押し寄せてきたからだ。否も応もなく、以降、社会現象としてのサッカーを体験するようになった。
社会現象としてのサッカーを体験する方法には、二つある。
一つは、自分自身が、サッカーが引き起こす事柄に関係を持つこと。先に思い出を書いたが、男バレリーナ爪先立ち手ひらひらの目撃も、この範疇に入る。また、58号「あれこれ」の初めのところで「ワールドカップで僕にもおこぼれがあった」も、そうだ。「いやに今日は、混んでるな、あ、そうか、国立(競技場)でやってるな」も、そうだ。もちろん、今このようにサッカーを題材にして書いている、このことも、そうだ。
もう一つは、新聞テレビやひと(他人)からの情報によって作られる体験だ。絶妙のスーパープレーなどサッカーやったことない人間には、わからないはずだ。素人にできることは、ただ口をポカンと開けて「凄げえ」と思うだけだ。絶妙も、ス-パ−プレーも、素人には味わえない。素人に言えることは、「あんなこと、おれには出来っこねーよ」など「言わずもながのこと」までである。ところが、何時の間にか、素人が、絶妙やスーパープレーを味わってしまう。
このように素人が擬似玄人に変身するにあたっては、とくにテレビの力に由るところが、大きい。
ことがプレーの絶妙さやスーパープレー振りを、テレビが絶叫し、擬似玄人が増えるだけなら、今回の「あれこれ」は、別の内容になっている。いや今回だけでなく、58、59号の内容も別のものになっている。
しかし、ただ絶叫するだけで、いいのか。もっとほかに伝えるべきことが、あった筈だ。

日本の新聞テレビは、日本サッカーを純粋培養しようとしている、僕は、そう思う。

今号の「街の生き物」の後半部分で書いたように、僕には、韓国や中国の知り合いがいる。その韓国人からは「日本が負けて韓国では喜んでるぞ、お前どう思うか」と言われ「うーん、こういうことじゃないか、確かに負けて喜ばれるのは一寸敵わないけれど、しかし韓国のサッカーは韓国の事情を背負って発展してきた、その点を考えれば、韓国の人が喜ぶのは自然な感情だろう、問題は、今言った韓国人の感情を、日本人が知らないことだ。新聞テレビが伝えないことだ」と、僕は言ったことがある。
ネットの掲示板を見れば、反韓・嫌韓の書きこみが沢山出てくる。ところが、新聞テレビでは、この点の報道がすっぽり抜け落ち、日韓友好一点張りである。
サッカー報道の偏向は、見逃すことはできない。この国に住む人たちに対しての大きな背信である。

スポーツとしての楽しさ、素晴らしさだけでは、スポーツは根付かない。今回のワールドカップの日本での人気も蜃気楼のようなもの、共催によって進んだとされる日韓友好も砂上に掲揚された日韓の旗ではないのか。

前に戻って日本サッカーと僕との関係は、どうか。両者の関係は「ふ−ン、サッカーか、俺には関係ねーな」ということ、つまりサッカーボールを蹴っ飛ばしたりする「事情」はない。社会現象としてのサッカーと僕との関係はどうか。ひょっとしたら、何かの吹き回しで試合場に足を運ぶかもしれない。サポーターはどうか、ご免蒙るよ、自分のことで精一杯だ。両者の関係は以前と同じだ。<8月9日、18時30分>

ホーペー60号Weekly Inpho no.60  目次contents  図譜symmetrical work  あれこれ think now  街の生き物 happenings  風景landscape

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