阿保親王、といえば、日本の古典文学に通じている方には、在原業平・行平兄弟の父親としてご存知と思われます。また、日本の歴史に通じていれば、「薬子の変」の平城天皇の長男として、あるいは大江朝臣そして毛利氏が祖先として掲げた人物として、ご存知な方もおられるでしょう。ただ、阿保親王本人に関しては、その名前以外はあまり知られていないように思われます。特に、阿保親王が大宰府に関りある人物であることは、存じている方は本当に少ないのではないでしょうか。
阿保親王が大宰府に赴任したのは、弘仁元年(810)のことです。薨じたのが承和九年(842)、五十一歳でしたので、これを逆算すればおよそ二十一歳の時の赴任になります。そして、天長元年(824)には嵯峨上皇による勅によって、京へと呼び戻されました。この時点での年齢は、およそ三十五歳でしょうか。十四年もの長い年月の間、阿保親王は平安京より遠く離れた大宰府の地ですごしてきたものと思われます。
弘仁元年(810)といえば、「薬子の変」という事件の発生した年です。事件の発端は、平城京還都を目論む平城上皇と、上皇の動きに反発する嵯峨天皇との対立でした。この年に皇太弟だった嵯峨天皇に譲位した平城上皇は、平城宮の再建を目指します。これに同調したのが、当時没落しつつあり起死回生を狙っていた式家の藤原仲成・薬子の兄妹です。上皇に寵愛されていた薬子は上皇を焚き付けて還都の勅詔を出させ、上皇の重祚を目論見ます。
このような事態に対する嵯峨上皇の対応はすばやく、鈴鹿・愛発・不破三関を封鎖、薬子の尚侍の職を剥奪、仲成を射殺します。上皇は東国へ転戦すべく平城宮を脱出しますが、天皇の兵に阻まれて逃亡を諦め、剃髪を余儀なくされます。そして、首謀者の薬子は自殺し、政変は収束します。この事件後の処分として、阿保親王の弟に当たる高岳親王は皇太子の地位を廃されます。
このときの処分に、阿保親王も連座していました。処分は、「大宰員外帥」。ご存知のとおり、後に菅原道真が大宰府に左遷されたときの処分と同じなのです。おそらくは、道真に押し付けられた罪状と同等の「重大な犯罪行為」が、阿保親王にも押し付けられたと見なすのが妥当です。
実際に阿保親王が「薬子の変」でいかなる活躍があったかは、まったく不明です。『続日本後紀』の薨伝には、「才兼文武。有膂力(腕力)。妙絃歌。」とあり、結構腕の立つ人物と伝えられております。しかも当時は二十一歳、血の気の多い年頃でありますから、政変において何らかの活躍があったことは期待できます。さらに想像をたくましくすれば、東国へ転戦しようとした平城上皇の長男としての阿保親王は、同様に東国へ転戦した天武天皇の長男である高市皇子の姿と重ねることができます。もしかしたら、壬申の乱で活躍した高市皇子の如く、阿保親王にも華々しい活躍があったのかもしれません。
この事件によって、阿保親王は大宰府に左遷されてしまいました。謀叛の共犯者であれば、配所での暮らしが決して好ましいものではないでしょう。残念ながら、配所の暮らし向きがどのようなものであったかは不明です。
業平の兄に当たる在原行平は、弘仁九年(818)に生まれました。この時点では、阿保親王はまだ京へ戻れませんでした。であれば、当然ながら行平は大宰府にて出生したと考えるのが妥当であります。ちなみに、行平の母親は伊登(豆)内親王とされています(『尊卑分脉』)。しかし、伊豆内親王は平城天皇の後宮に入っていたという説もあり(『本朝皇胤紹運録』)、また、罪人である阿保親王に内親王が妻として下向したというのも考えにくく、伊登内親王が行平の母親とは確定できません。もしかしたら、地元九州の女性に生ませた子供という可能性も、あながち否定できません。
なお、業平の兄には他に、仲平・守平がいます。ちなみに業平の方は、生まれたのが天長二年(825)です。この時点では、阿保親王は京へと呼び戻された後ですから、残念ながら九州出生ではありません。それより早く生まれたと思われる仲平・守平については、行平同様に九州出生と見なすことができます。
興味深いのは、九州で生れた行平がその後宮中で順当に出世していったのに対し、京に戻って生れた業平は宮中で放縦と逸脱を起こす反逆児となったことです。大宰府での父阿保親王のつらい配流の生活を行平は見ていたはずですから、自分も父親のような目に遇ってはならぬと心に誓ったのかもしれません。そのおかげで行平は、陰謀渦巻く宮中にて事件に巻き込まれることもなく(目標にされることもなく?)、栄華のうちに一生を終えることが出来ました。逆に、父親のつらい暮らしを知らないがゆえか、業平が波乱の人生を送ったことは皆さんのご存知のとおりです。
つらいながらも子供に囲まれて過す大宰府の阿保親王をよそに、京では別の事態が進行します。
弘仁十四年(823)、嵯峨天皇は皇太弟大伴親王に譲位、淳和天皇が即位します。このとき、上皇となった嵯峨天皇は嵯峨院に隠棲しますが、外記局の分局は行わず、文字通り隠棲生活に入ることを明言しました。かつて平城上皇は平城宮に外記局を分局させ、それが「二所朝廷」という事態を起こし、「薬子の変」の原因である平城宮還都勅詔を可能にさせました。これを配慮すれば、嵯峨上皇と淳和天皇の関係を安定化させるためにも、上皇の隠棲は必要不可欠だったのです。
翌年の天長元年(824)七月七日、阿保親王同様に世間に忘れ去られていた平城上皇が、大波乱の人生を閉じます。五日後には平城京内裏のすぐ北にある楊梅陵に葬られます。そして、その一ヵ月後の八月九日、「太上天皇勅有り、弘仁元年の権任流入等皆尽して京に入るを聴す」(『日本紀略』)となります。嵯峨上皇の勅により、「弘仁元年の権任」である「大宰員外帥」、即ち阿保親王は入京を許されたのです。一見すれば、父親である平城上皇の崩御に伴うその温情措置にも見えますが、本当のところはどうなのでしょうか。
ちなみに、この平安時代初期といえば、政治的敗者が死後怨霊となって勝者に祟るという、御霊信仰が流行した頃でした。先に、井上内親王、氷上川継、早良皇太弟、伊予親王といった政治的敗者が、平安京と内裏に祟りを為したと信じられてきました。不遇な生涯を終えた平城上皇が、即位間もない淳和天皇に祟る可能性もあります。実際に、入京が許される直前の八月一日には「名の神に奉幣し、風雨の損なひの除くを祈る也」とあり、風雨による被害が発生したことを物語っております。おそらくは、これが祟りであった場合の予防措置として、息子である阿保親王の入京許可があったものと思われます。
帰京二年後の天長三年(826)、阿保親王は子供たちの王号停止と要請を願い出ます。『公卿補任』の在原行平の官歴には、仲平と業平が同時に「在原朝臣」の姓を賜ったとあります。当時、王号停止したのちに天皇に即位した例はなく、後にも宇多天皇唯一人だけです。子供たちの賜姓は、阿保親王及び子孫が帝位を伺うことは無いと、意思表示を行ったことと考えられます。
その後の阿保親王は、それまで「大宰員外帥」という流罪に処せられていたとは思えないような官歴を歩んでいきます。『続日本後紀』の薨伝では、「京に入るを得るを令ず。稍く治部・兵部の卿・弾正尹を歴て、上野・上総等の太守を兼ねる。」とあります。治部卿・兵部卿いずれも、正四位下に相当する官位です。弾正尹は、従三位に相当します。そして、上野国及び上総国は親王任国で、赴任せずとも俸給が支給される約束となっており、政治的にも、かつ経済的にも、かなりの地位を得ることが出来ました。
兄平城上皇を謀叛人に追いやったことに負い目を持つ嵯峨上皇・淳和天皇の、その祟りへの恐れがいかに強かったか、阿保親王の地位によって理解できます。同時に、当時台頭著しい藤原冬嗣の藤原北家からも、子供たちの賜姓によって安全な人物として認められたことになります。
時代は流れて、仁明天皇の御世の承和九年七月十五日、嵯峨上皇が崩御します。この二日後、伴建岑と橘逸勢による謀叛が発覚します(承和の変)。嵯峨上皇の容態が悪化した時点から、当時皇太子だった恒貞親王を奉じて東国に下り、反乱を起こそうと企てたとされています。
この事件に奇妙な形で加わったのが、阿保親王です。上皇崩御以前に伴建岑は、この謀叛の企てを親王に持ちかけました。東国に下って反乱を起こすという手順は、まさに「薬子の変」と同様の手口であり、それに活躍したと思われる阿保親王はうってつけの人物だったのでしょう。ただ、伴建岑の誤算は、「月やあらぬ春や昔の春ならぬ」、親王も「有膂力」だった昔の親王ではなかったことです。早速、親王はこの謀叛の動きを密かに書状にしたためて、嵯峨太皇太后橘嘉智子に奉りました。
この密書を元にして、藤原良房は大粛清の大鉈を宮中にたたきつけます。謀叛の企画者である伴建岑と橘逸勢には、それぞれ隠岐国・伊豆国への流罪にします。そして、謀叛の動きを口実に、恒貞親王の皇太子の地位を廃します。さらに、良房と対立しつつあった大納言藤原愛発・中納言藤原吉野・参議文室秋津も、謀叛を口実に京から追放します。愛発は山城郊外に幽閉、秋津は出雲権守(のちの藤原隆家と同じです)、そして恒貞親王支持の中心人物の吉野は「大宰員外帥」として処分されます。密告した側が元「大宰員外帥」、密告されて粛清された側も「大宰員外帥」、これには何か歴史の因果を感じざるを得ません。
なお、阿保親王は、「承和の変」の三ヵ月後の十月二十二日に薨じます。数ヶ月前には謀叛を持ちかけられたほどですから、当時はおそらくは健康体、この死はあまりにも急ではあります。この政変の直後の死という不可解さは、後の事件史好きな歴史愛好家に指摘されて欲しいと言わんばかりではあります。