とかちゃんの「ほけほけ日記」

「ほけほけ」と、その日に想う言の葉の断片を、ただ並べ綴るのみの日記です。

8月31日

「未掲載の古典テクスト」

テクスト打ち込みがすでに終了しているにもかかわらず、表紙のページを作成するのが億劫になって、放置状態のテクストのリスト。というか、備忘録に近いもの。

なぜこうなったかというと、テクストの打ち込み元が図書館から借りてきた本だから。それゆえ、表紙を作成しようとすると、そこに書き込むべきテクストの作成年代などといった情報は、手元には無い。情報を入手するためには本をきちんと買うか、また図書館へ借りに行くかしか無い。というか、借りた本からメモぐらい取っておけば良かったと、今更ながら後悔。

そして、今、図書館へ行く暇も表紙を作成する余裕も、私には無い。ということで、また暫く放置状態決定。

「7月6日鹿児島遺跡巡り」

神戸宇治への旅行記をダラダラと書きあぐねている間に、性懲りも無くまた別の場所へと旅をしていた。そしてようやく、鹿児島の方を手がけることができた。もう、2ヶ月近くも前のことだよ、これ。

しかも、その後には、横浜開港資料館、称名寺と神奈川県立金沢文庫、そして神奈川県立歴史博物館が控えている。借金地獄みたい。

「事の顛末」

頃は、7月上旬。このときの福岡は梅雨の大雨が続き、そんな日々にウンザリしていた。これでは、公共の交通機関を使ってドコゾへ出かけると、逆にストレスが溜まる。そう思って自宅に篭ると、なおさら鬱屈が溜まる。

そのような時は、例の愛車パジェロイオ@「猥褻物」陳列号(ネタはバタイユ「エロスの涙」ちくま学術文庫)でどこかに遠出するに限る。外は土砂降りでも、車内は結構快適なのである。好きな現代音楽をカーステレオにかけて爆走すれば、爽快な気分になる。

目指すは、鹿児島県国分市の上野原遺跡。以前、NHKスペシャル「日本人はるかな旅」という番組で紹介された、国内では最古・最大級の定住集落遺跡である。それ以来、早く訪問してみたかったのだが、仕事や何だかんだで機会を逸していた。また、国分市は大隅国の国府があったとされる場所で、隣の隼人町には「隼人塚」遺跡や大隅国一宮である鹿児島神宮など、史跡が多い地域でもある。さあ、思い立ったが吉日、早速訪れてみることにする。

「出発」

出発は午前1時。出発前には睡眠を取っておく。何でこんな時間に出立するのかというと、深夜の国道3号線で鹿児島に行きたいから。高速道は高いので、通常は帰路にしか使わないことにしている。となると、快適に国道を走らせることのできる時間帯となれば、深夜しかない。本当は、深夜のドライブなんてのが大好きだというのもあるけど。

ちなみに、今年の梅雨は豪雨が頻発しており、実際に熊本県水俣市では災害が発生した(地元の太宰府も同様だが)。そんな状態で、国道が無事である保証は、全く無い。というか、八代から国分市までは国道219→221→223号のルートを辿ろうとしていたのだが、球磨川沿いの国道219号が八代−人吉間で不通。仕方が無いので、国道3号線から水俣まで更に南下、そこから国道268号線の大口市を経由して、国分市にたどり着く。

水俣市あたりで夜が明け、国分市に到着したのは朝の8時頃前。福岡はなかなか晴れ間の見えない日々が続いていたのだが、鹿児島は朝から日差しがまぶしい。朝だというのに、肌に焼け付くような強い日差しである。北部九州に停滞し続けている梅雨前線の南は、早くも夏本番というわけ。そのことを考えると、九州は狭いように見えても、実際は結構広い所なのだと感じてしまう。

しかし、朝8時では、「上野原縄文の森」はまだ開館時間ではない。とりあえず、時間つぶしとして、隣町である隼人町の「史跡・隼人塚」及び「鹿児島神宮」を訪れてみることに。

「史跡・隼人塚」(鹿児島県姶良郡隼人町)

古代史において想像し得る、薩摩・大隅における「隼人」とは何だろうか。平城宮の遺跡より発見された、2つの中心を持った渦巻き状の図形で彩った、いわゆる「隼人の盾」に見える、その意匠の異様さだろうか。それとも、「続日本紀」に記された、大宝二年・和銅六年・養老四〜五年における、「隼人」の反乱を伝える幾つもの記事であろうか。あるいは、大宝律令によって衛門府の管下に設置された、元日朝賀や即位式・大嘗会等の儀式に携わった、「隼人司」という在京隼人の人々だろうか。

しかし、そのいずれもが、中央において記録されたテクストであるか、畿内で発掘された遺物である。薩摩・大隅に居ながらにして、古代の「隼人」を想起し得る遺跡の類は、極めて少ない。その、鹿児島県内にて古代の「隼人」を想起し得る数少ない遺跡の一つとされるのが、この「隼人塚」である。

「隼人塚」の伝承に拠れば、景行天皇・仲哀天皇の御代に征伐された熊襲の鎮魂と、その祟りの調伏を目的に、和銅元年(708)に「隼人塚」が造られたとされる。しかし、明治時代においては、兜をかぶった禍々しい形相の石造の印象だろうか、この塚は「軍神塚」と呼ばれていた。「隼人塚」と呼ばれるようになったのは明治三六年、この軍神像を叛乱に倒れた隼人たちを模った彫像だと判断したのだろう、鹿児島神宮の神官である桑幡公幸氏が命名してからである。ちなみに、国指定の史跡として認定された大正一〇年のことである。それ以来、その禍々しい形相の石造の姿は、在りし日の「隼人」の姿の写しであると信じられ、多くの写真記事等で紹介されるようになったという。

ちなみに、この隼人町の名前は、町内にあるこの「隼人塚」から名前を取ったものだそうである。町名改正は昭和三年で、それまでは西国分町という名前であった。そもそもこの地域は、近世における「国分郷」の一部で、その西側ということで付けられた町名である。つまり、隼人町という名称は、決してそれほど歴史的な名称というわけではない。むしろ、近代において浮上された「隼人」のテクスト、そして「隼人塚」という名前が、地方自治体の名前に侵食し、歴史として組み込まれたその痕跡であると考えた方が良い。JR隼人駅についても、明治三四年の開通時点では国分駅を名乗っていたが、昭和五年に現在の隼人駅に改名された。

この「隼人塚」は、そのJR隼人駅から南約500m程度の距離の、JR日豊本線沿いに在る。車窓から眺めれば「隼人塚」を見ることはできるだろうが、いかんせん遺跡と線路の距離が近いので、一瞬のうちに通り過ぎてしまう。私がこの「隼人塚」を初めて見たのは十年以上も昔だが、よりによって車窓から見ただけというもの。そのときは、「隼人塚」という看板が、車窓の左から右へとあっという間に流れていったことしか覚えていない。今回の遺跡訪問は、ようやくこれを挽回するためにやってきたようなものである。

さて、遺跡に到着、パジェロイオ@「猥褻物」陳列号から降りる。そこは、史跡公園として整備された場所であった。目的の「隼人塚」のほか、そのガイダンス施設である「隼人町立隼人塚史跡館」が見える。残念ながら、現在はまだ8時(なのに暑いょぅ)、開館時間までは待てないので、今回は利用中止。目的の「隼人塚」を観察することにする。以下は、その写真。

これを見て、愕然とした。どこが、どこが「隼人」だというのか。三つの五重の石塔を中心にして、兜をかぶった禍々しい顔の石像が、その四方に配置されている。そして、石像の足元では、邪鬼がその「隼人」の踏み台にされているではないか。これはどう見ても、四天王像ではないか。仏法を守護する、武人を模った仏像、まさに四天王像である。奈良時代初期における一連の「隼人の叛乱」においては、仏法の守護とは、まさに大和朝廷の側であったはずではないか。これは、どういうことだろうか。

実は、この遺跡付近を「史跡公園」として整備する際に、この「隼人塚」の発掘が平成八〜九年にかけて行われた。その結果、この「隼人塚」の石像とはやはり四天王像であることが判明した。また、その中央の石塔は、大隅国分寺にある康治元年(一一四二)頃に作られた石塔との比較から、ほぼ平安時代後期に作られたものであることのこと。石塔に彫られた仏像のレリーフは、まさに平安時代頃の様式であるtoka。逆に、隼人に関する遺物は全く見当たらず、奈良時代にこの塚が作られたことを示す痕跡も見つけることは出来なかったtoka。ちなみに、この塚の復元像の完成は、平成一一年。特に、ここは元は正国寺という寺の跡とされ、正八幡宮(現鹿児島神宮)の戒壇所として位置付けられ、放生会の神事も執り行われた場所という説がある。それでなくても、この国分市から隼人町にかけての地帯は、国府がらみの寺社仏閣が多かったといわれる所である。この「隼人塚」も、そういった施設の一つであると考えられる。

しかし、私はここを訪れるまで、この「隼人塚」の発掘やその結果について、本当に知らなかった。事前調査をサボると、このような痛い目に遭わされるという実例である。だからといって、反省して事前調査をするような私ではない。そうやって、また同じ目に遭うのだろうな。

それにしても、何故に我々は、この四天王像を「隼人」と読み違えたのだろうか。もちろん、問題に関わっているのは命名者当人のみならず、その「隼人」という印象を受容し、その「隼人」を語り、さらにその物語を受容していった、多くの人たちであるはず。そのような人たちが共有していたのが、「日本書紀」における熊襲平定の記事であり、「続日本紀」における隼人叛乱の記事であることは、決して間違ってはいない。共有された物語は、どうやらある種の先入観を誘導してしまうのであろう。そして、共有された物語そのものの同一性を示す物体を、我々は心の底で待ち望んでいるはず。そのような者が、「隼人塚」の石像と出会う。石像はそれ自体は石像でしかないはずなのだが、そのような遺物が私たちの物語と共鳴の如きものを起こすと、それは物語自体の同一性を示す物体となる。シュリーマンが、自身の発掘によって発見した黄金のマスクを、アガメムノーンの顔と同一化したというエピソードは、まさにその実例なのである。ベンヤミン的に云えば、「詩人たちは社会の屑を街頭に見いだし、まさにその屑にヒロイックな題材を見いだす」のである。

というより、実証を重んじるはずの現代の考古学においても、そのような陥穽に嵌る危険性は、随所に見え隠れしているのが現状である。東北における旧石器発掘捏造事件は、その危険な陥穽が過去の産物ではないことを如実に示した。事件を起こした当の本人は確信犯的であったが、捏造によって作り出された「遺物」に安易に乗りかかる人の、多かったことといったら。偽「遺物」が湧出したファンタズマゴリーから私たちが解放されるには、捏造事件の現場写真が必要だった。だからといって、そのような誤読を防止するために、考古学の実証主義性をさらに邁進させるというのは、遺物からの「語り」を切り捨てる可能性も有る、諸刃の刃だったりする。何しろ、実際に考古学に携わった人も、興味だけは捨て切れなくてその成果ばかりを読みたがるミソッカスσ(^^)も、遺物から湧出する「語り」の魅力に取り付かれた者ばかりなのだ。土の中から開放された屑というか遺物を見いだし、そこに「歴史の真実」という何ともヒロイックな題材を読み取りたいという欲望に促されて、考古学というものに接近したのだから。

結局、「隼人塚」における「隼人」の語りは、さほど意味を持たないものと成ってしまった。だからといって、地域が「隼人」の名を冠することに価値が無いというわけでもない。なぜなら、地域が「隼人」の名を冠し、それを継続して使用したということも、地域の歴史であることは間違いないからである。そして、「隼人塚」発掘の研究成果とは、あくまでも仮説であり、そんなものに左右されてはならないと私は考える。

それにしても、心配なのは、「隼人塚」=平安時期石像説が、どれだけ新たな語りを湧出しうるものと成り得るかということである。過去の「隼人塚」は、与謝野晶子に下記の如き歌を再語りさせるほど、芳醇な物語を保持していた。そのような物語に匹敵するような語りを、果たして「隼人塚」=平安時期石像説は湧出できるのであろうか。それができなければ、「隼人塚」は「語りえない物」と成ってしまうであろうと、私は考える。

隼人塚 夕立はやく 御空より 馳せくだる日に 見るべきものぞ(与謝野晶子)

(つづく)

8月29日

「最近の私」

先月訪れた、国分市・「上野原縄文の森」のことを思い出している。

遺跡や史跡以上に、昼食で食べた鹿児島ラーメンのことを想っている。

ラーメンよりも尚、買ってきた「つけ揚げ」のことを想っている。

只今、仕事が忙しい状態。何かと現実から逃避したくなる、今日この頃。そういえば、今回の旅行では、「白熊」を食べ忘れたではないか。夏ももう終わり、後悔ばかりが募る8月末である。

そして、9月になれば恐怖の期末がやってくる。というか、また9月末納期の仕事が増えそうな予感。絶句。

闇黒日記 平成十五年八月二十八日

つくられた日本語、言語という虚構 ―「国語」教育のしてきたこと― 鈴木義理 著 目次

本屋で見かけて最初の邊をちよつと讀んだのだけれども、「國語なんて解り切つたものを改めて教へる/學ぶ必要はない」「正しい國語と云ふ觀念は幻」「古文を現代の發音で讀む意味はない」と云ふ主張があつたのであきれた。

古典文学ならば「万葉集は明治国家によって創られた『古典』だ」toka、歴史学ならば「天平文化は明治国家によって創られた『古代史』だ」toka、最近はこの手の「批評」が多いように見受けられる。どこかの本で「明治期に創られた『国語』」云々の記述を見かけたので、どこぞでそんなアフォな「批評」をしている人が居るんだろう。果たして、「『国語』は作り物」と論う本が見つかってしまった。

しかし、ミシェル・フーコーのアルケオロジー的な批評方法というか二番煎じで、自国の文化を難じるというのも、私にとってはいい加減に食傷気味ではある。フーコーはディシプリンに内在する権力関係を暴き出しはしたが、その効用もきちんと言及しており、その面では批評は一面的ではない。現代思想を生み出した学術研究もディシプリンによって支えられたという現実は、決して無視しえるものではないのである。果たして、「国語」に対する批判というかフーコーの猿真似は、ディシプリンとしての「国語」即ち自身の言説の揺籃に対する批判をなしえるのだろうか。なにしろ、「国語」批判の言説とは、過去の「国語」によって構築されたディシプリンの類によって成立しているのだから。

以前、「斎宮歴史博物館」で観たビデオに、都からの勅旨を迎える様子を再現した場面があったのだが、発音もまさに当時のそれを再現していた。即ち、ハ行の発音を"ph"にしたもので、「おはしましては」は「おふぁしましては」といったもの。まあ、発音に関する再現自体にはそれなりの価値はあるのだろうが、それは当時における間主観性の有り様に対する研究に還元すべきものであり、現代の間テクスト性に対するそれではない。そもそも古典文学とは、「テクスト」における通時的な共有であり、発音はその埒外というかオマケなのである。同様のことは、西洋における古代ギリシア・ローマの古典テクスト群についても云える。テクストは、その間テクスト性によって、時空を越えて共有を可能とするのであり、それゆえに価値をもつ。共有し得ない部分をいくら研究しても、それは単なる蛸壺に過ぎず、それに拘泥する輩はただの「タコ」である。

おそらくは鈴木義理氏は、「国語」なるものに対する「脱構築」を目指しているのだろう。しかし、それを支える正義の観念は、どこにあるのだろうか。もし、第二次大戦におけるアジアに対する戦争被害者に対する「戦争責任」ゆえというのであれば、あきれて物が云えないのだが。国際社会の現実は自力救済であり、極端なことを云ってしまえば「勝てば官軍」である。そのような政治力学上の領野においては、「戦争責任」などというアフォな観念は相対的なものであり、絶対的な正義の体系とは成り得ない。そのような安っぽい正義への迎合とは、単なる無責任にしか過ぎないのである。そのような者がいくら「脱構築」を指向しても、価値は存立し得ない。

というか、「国語」もそうだが、「古典文学」も、「歴史」も、あと「民俗学」(同様に柳田國男の「民俗学」をフーコーっぽく批評したがる人達がいる)も、「私たち」が「私たち」であるためには必要なのである。「私たち」ならしめている存在がなければ、それは「私たち」ではなく、ただの孤立した人間の群れである。孤立無援の人間というものが、いかに惨めで、儚い存在であることか。むしろ、私たちに必要なのは、「私たち」ならしめているものを堅持するという、ある種の「覚悟」である。「脱構築」の物語とは、アウトロー的であり、藤原高子から見た在原業平の如き魅惑的な「外部」であるが、それ自体は本流とはなりえないのである。芥川の向こう側には、赤い人食い鬼が以下略。

北門に「八脚門」 筑後国府跡で久留米市教委 全国初の確認」(西日本新聞 8月29日)

 【筑後】 久留米市教委は二十八日、七世紀末から十二世紀後半に同市朝妻町などにあった筑後国府跡で、中核施設の国庁の北門と、国庁を囲む溝の遺構を発見したと発表した。北門は、外部から八本の柱が見える「八脚門」と呼ばれるタイプで、全国の国庁の正門や大宰府政庁の中門などにみられる格式が高い門。八脚門が南側の正門ではなく、北門となっている例は珍しく、国庁では初めて。

 国庁は、儀式や政治などが行われた国府の中核施設。市教委は、筑後国府の国庁のうち、今回、同市朝妻町の平安時代中後期の国庁跡約三百平方メートルを調査。八脚門の柱を中心に約一―一・三メートル四方が掘り固められた「掘形」を発見した。

 国庁の北約九十メートルのところに西海道が走り、多くの人が北から国庁を訪れていたと考えられることから、西谷正・九州大学名誉教授は「北門が実質的な正門の役割を果たし、権威づけのために格式のある八脚門を設置したのではないか」と推測している。

 また、門の北側では国庁の北辺を示す幅約三・五メートルの溝が見つかり、改めて同国庁の規模が約百四十メートル四方で、全国最大級であることが確認された。西谷名誉教授は「大宰府政庁にも匹敵する。筑後国府は単なる国府以上の機能を持っていた可能性もあり、非常に貴重な史料になる」と話している。

北向きの施設と聞くと、私は後醍醐天皇陵を思い出してしまう。「玉骨は、たとひ南山の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」、なんちゃって。

かくの如き異様な政庁施設の存在を聞くと、何故に敢えて八脚門を北向きの場所に設置したのか、その意味を求めたくなるのは歴史マニアの性。但し、建設されたのは平安中後期であり、律令政体が衰微しかけたころの建造物ということを考えれば、建造という政治的行為に無理に政治的メッセージを読み取るのは、あまりお奨めできない。とりあえず私としては、大宰府に近い門だからというのと、さほど中央由来の南向きの門を建造して近隣を威圧する必要性が失われてきたと、解釈しておきたい。課題は、国庁官人即ち後の武士階級が、そのような中央集権のタガが外れかけたような建造物をどのように思っていたか、そこいら辺が知りたくもあるが。

8月27日

「最近の私」

今日は仕事が順調なため、早めに帰宅(それでも残業)、福岡ダイエーホークスのナイトゲームTV中継を観戦。

本日めでたく、福岡ダイエーホークスは、対西武ライオンズとの勝ち越しを決定。22年ぶり、ホークスが福岡に本拠地を移してからは、初めて。感激というか、今までなかなか勝てなかったライオンズに、ようやく今年は勝ち越しとなった。優勝かどうか以前に、嬉しいことこの上ない。しばし脱力。

などと云いつつ、なぜか陸奥A子「ダーリンを探して」の文庫本を購入。こんな時に読むというのも、なかなか無神経ではある。ちなみに、陸奥A子は西鉄以来のライオンズファン、随所に"Lions"のロゴが登場するという熱狂的マニアである。

7〜9世紀の蝦夷の古墳「阿光坊遺跡」講演会、来月4日に下田町で /青森」(毎日新聞 8月26日)

 ◇7日は現地説明会

 7〜9世紀ごろの蝦夷の古墳遺跡「阿光坊遺跡」(下田町阿光坊)に関する文化講演会が9月4日午後7時から、下田町中央公民館で開かれる。東北地方に居住していた民族「蝦夷」研究の第一人者として知られる工藤雅樹・福島大名誉教授が「阿光坊古墳群の被葬者達」と題して講演する。

 阿光坊遺跡は1988年から町教委によって発掘調査が始まり、これまでに7〜9世紀ごろに造られた蝦夷の古墳2基が見つかっている。坂上田村麻呂が北上川中流域で蝦夷のリーダー・アテルイとの戦いを展開していた時代で、調査から蝦夷は農耕や馬の牧畜をしていたと考えられている。

 また、7日午後1時半からは発掘現場で発掘調査現地説明会が開かれる。今年度の調査では7〜9世紀ごろの土師器が見つかっている。さらに説明会では隣接する十三森(2)遺跡についても解説。同遺跡は平安時代の蝦夷の墓とみられており、須恵器の甕(かめ)や土師器の坏(つき)、ガラス玉など数百点が発掘されている。

いや、こんな遠い所、行けるわけ無いんだけどさ。仕事も忙しいし、旅費も無いし。

それにしても、発掘された副葬品に、大和朝廷の政権下にて全国的に流通した須恵器・土師器が発掘されているのが、何ともいえない。ガラス玉も確かなことは私にはわからないが、白鳳時代の遺跡である奈良県飛鳥池よりガラス玉の鋳型が見つかっており、少なくとも大和の先進的な製品と云うことはできそうだ。こんなことを云うと怒られそうだが、あまり蝦夷との政治的対立ばかりを言挙げすると、大和と蝦夷の流通関係を見失ってしまいそうな気が。

かごしま考古ガイダンス第43回 隼人が用いた土器

鹿児島県内の遺跡をまとめた最初の『遺跡地名表』を見ると,弥生時代後期と書かれた遺跡が非常に多いことがわかります。また,その時期の土器の形式名を調べてみると,「成川式土器」という名称の土器の記述がずいぶんと多いことに気が付きます。それこそが「隼人が用いた土器」といわれる土器なのです。昭和32年に発見された成川遺跡出土の土器を標準とする土器群です。

……

あげ底となる土器の一群が“隼人の用いた(時代の)土器−成川式土器”と呼ばれ,南九州に定着するに至ったわけですが,今度はこの土器がいつまで使われたか,という問題が起こってくることになりました。これは,当然といえばあまりに当然ではありますが,つい最近まで「成川式土器は,すでに土師器や須恵器を伴って出土すること(が多い)ことから,古墳時代の地方色の濃い土器であろう」と考えられていて,成川式土器イコール古墳時代として決定したかにみえていました。

 しかし,ことはそれほど簡単にはいきませんでした。成川式土器の“本場”成川からほど遠い,指宿市橋牟礼川遺跡から奈良時代に噴出した火山灰に覆われた層から成川式土器が見つかったのです。当時の日本の中央部からもたらされた須恵器と同じ層からの出土でした。

 こうして,遺跡の発掘という地道な調査と運命的な出会いという幸運によって,この土器が奈良時代まで使用されていたことが判明しました。時あたかもこの南九州の地が,“隼人の国”と呼ばれていた時代でした。

 弥生時代後期からほとんど変わることのない土器の形,500年程を祖先から受け継いだ形の土器で過ごしたわたしたちの地域の先人たちは,どのような感慨を抱いて“日本”という統一的な国家の中に組み込まれていく様を見つめていたのでしょうか。

 壺や高坏といった中央からの文化や文物を受け入れる一方,カメに象徴されるような意固地とも思える地元の道具を自らの“遺産”として子や孫に,そして,その子孫たちに引き継いで行こうとしたと考えるのは,自分だけの感傷にすぎないのでしょうか。奈良時代の終わりから平安時代になると,そこは全国共通の土師器しか見られなくなり,隼人達の虚しい抵抗は終末を迎えました。

「隼人」なるものを示す考古学的史料がどこぞに無いだろうかと、仕事をサボってWebで遊んでいたら、こんなネタが見つかった。

古代における南九州地方の住民である「隼人」とは、この説に従えば、弥生時代から奈良時代まで連続性を持っていた地域住民ということになる。逆に云えば、須恵器・土師器という全国共通化の契機を示す古墳時代に抗って、南九州地方は「弥生の王国」を継続していたことになる。他の地域であれば、古墳時代にて大和朝廷への従属化・同質化が進められたのが、ここでは遅れて平安初期になるまで同質化が進まなかったことになる。

とはいえ、私は自力救済的社会である弥生時代を、あまり評価したくないクチなのである。それゆえ、やっぱり「隼人」に対しても、あまり過大な評価をしたくはなかったりする。

8月26日

「最近の私」

今度は、私のサイトにファイルをアップロードするために使用していたFFFTPが、起動できないという災厄に見舞われた。

仕方が無いので、この日記については、手作りのFTPスクリプトでアップロードを行うようにした。FFFTPならば、起動後にドラッグ&ドロップを行わなければならないが、こっちのバッチはただ起動させればよい。ちなみに、下記はアップロードスクリプトファイル"upload.scr"。

user XXXXXXX XXXXXXX
put c:\tsuyu\index.html homepage/index.html
put c:\tsuyu\diary.html homepage/diary.html
bye

このファイルと同じフォルダに、下記のバッチファイルを作成して、出来上がり。

rem アップロードバッチファイル
ftp -n ftpXX.nifty.com < upload.scr

日記の更新だけならば、こちらの方が結構便利なのである。但し、コンテンツの入れ替え等を行うためには、アップロードスクリプトに記載内容を増やさなければならないが。

8月25日

風土記逸文 越後国〜八掬脛

奈良時代初期までは蝦夷との最前線であった越後国の風土記にも、「土雲」という記載は存在した。太平洋側の「土知朱」が八人衆ならば、日本海側の「土雲」は、「其の脛の長さは八掬、力多く太(はなは)だ強し。」とあるが如く、その体格の異様さを表している。どうやら、「8」という数字に抱く私たちの無意識を利用して、両者は筋立てられているのである。

この釈日本紀の転載個所は、あまりにそっけない。引用元の「越後国風土記」の内容を想像するには、あまりにも貧弱である。とはいえ、ほかの風土記の筋立てパターンから類推すれば、「地方のまつろわぬ者」と「平定する中央からの英雄」という二項対立によるものであることは間違いない。それは、後者が前者を克服し、朝廷による中央支配を正当化するという目的があるからだ。まあ、そのような記述行為が悪いとは思わんけんど。

その際に重要なのが、この記述は崇神天皇の時代の出来事であるとされていることである。書紀における崇神天皇の時代の記事で重要なのが、崇神天皇十年の「四道将軍派遣」の記事である。そこに登場する「大彦命」という人物は、非常に重要だ。なにしろ、埼玉県稲荷山古墳より出土した鉄剣の象嵌に、「意冨比垝」という名前が記されたくらいなのだ。しかも、その鉄剣においては。被葬者自身が「意冨比垝」の子孫であると明言され、それゆえに地方における自身の政治力を正当化している。この記述で有名なのはやはり「ワカタケル大王」だが、「意冨比垝」という存在もそれに劣らず重要だ。その両者の人的な関係によって、被葬者の自己言及的言説が成立しているわけ。

このような外部の史料の存在を踏まえると、この「越後国風土記逸文」の元の内容を想像するのは、決して困難ではない。おそらくは、「常民」を脅かす「八掬脛」という「土雲」と、それを平定した「大彦命」の物語であると、私は想像している。少なくとも、稲荷山古墳被葬者同様に、その地域における自己言及的言説であることは間違いない。むしろ、崇神天皇の時代の出来事とされる、「四道将軍派遣」という語りの重要性を、私たちは無視しえないのではないか。

朝銀、総連に不審物 万景峰25日新潟へ入港抗議の声明 福岡市博多区」(西日本新聞 8月25日)

本日の西日本新聞です。嬉しそうです。書き手の嬉しさが滲み出ています。絶対的な弱者の証拠が用意されたおかげで、これで心置きなく朝鮮の人を弱者として神話化・特権化できそうです。あらまぁ、よかったね。

 二十三日午後十一時四十五分ごろ、福岡市博多区下呉服町の朝銀西信用組合福岡支店が入るビル横の通路と、近くの在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)福岡県本部が入る「朝鮮会館」裏の駐車場の計二カ所に、円筒形の不審物が置かれているのを博多署員が見つけた。福岡県警は爆発物の可能性もあるとみて付近住民に一時避難を要請した。同日午後十一時ごろには、岡山市駅前町の朝銀西信用組合本店玄関ガラスに銃弾一発が撃ち込まれているのを岡山県警の捜査員が発見。福岡、岡山両県警は、二十五日に北朝鮮の貨客船「万景峰(マンギョンボン)92」が新潟港に入港することに反対し、朝鮮総連関係の施設を狙った事件とみて調べている。

 福岡県警の調べでは、福岡市で見つかった不審物は市販のステンレス製魔法瓶(高さ二十六センチ、直径十一センチ)。一つは、中に市販のガスバーナー用ボンベ(高さ二十五センチ、直径七センチ)が入っており、リード線が付いていたが、タイマーや電池などの時限式発火装置はなかった。もう一つは空だった。いずれも魔法瓶の上にはプラスチック容器が置かれ、IC基板のようなものが入っていたが、爆発物の可能性は低いという。引き続き燃焼実験などして詳しく鑑定する。

 県警によると、二十三日午後十時五十分ごろ、東京都内の一部報道機関に「ケンコクギユウグン」を名乗る男から「朝鮮総連を爆破する」という内容の連絡があり、通報を受けた警視庁が福岡県警に警戒を要請した。

 同じころ、産経新聞大阪社会部にも男から電話があり「岡山の駅前の朝銀をたった今銃撃してきた」などと話した。さらに「せいばつたい。せいばつたい。けんこくぎゆうぐんや。あさっての万景峰号が新潟に入港することへの抗議や」などと語り、福岡市内の朝鮮総連と朝銀に「爆弾」を仕掛けたことも明らかにしたという。

 新潟市の朝鮮総連本部や系列金融機関でも先月、銃弾や時限式発火装置付きの爆発物が見つかったが、今回の不審物と形状や大きさが似ており、福岡県警は二十四日、博多署に捜査本部を設置。同一犯の疑いもあるとみて捜査するとともに、県内の朝鮮総連関連施設の警戒を続けている。

オウム真理教事件によって、逆情報を含む北朝鮮の政治的宣伝活動のパロディを目の当りにした私たちにとっては、今更このような宣伝活動なんぞ、うそ臭いとしか見えない。もちろん、向こうもそれは承知なのだろうと思うけど。しかし、朝鮮の人々を絶対的弱者として物神化したがる馬鹿学者にとっては、例え胡散臭くてもその証拠は必要だ。自作自演という噂の耐えない「チマ・チョゴリ切り裂き事件」と、同様。まさに、「真実は必要」だったりする。

しかし、「弱者としての朝鮮の人々」という証拠は必要だが、実際には被害者にはなりたくないのだろう。今回もまた、不審物は「爆発物の可能性は低い」代物であった。このことから、犯人の目的が爆破テロそのものではないことは確かである。むしろ、「爆破テロによる差別を受けた朝鮮総連」という宣伝工作が目的である可能性が高まった。

それにしてもさぁ、以前も云ったけど、すでに日本には国が建てられているのに、「ケンコクギユウグン」って何だよ。何だか、「本格的日本人」と同等のセンスであるような。おまけに、何で電話の男の発言は、九州弁と関西弁がまぜこぜになっているのか。どう見ても、この犯人、日本人らしからぬ言葉ばかり使いたがる様子。まあ、そのことを指摘しきらん西日本新聞も、何だかアレだが。

8月24日

「最近の私」

昨日も今日も暑い日が続く。

とはいえ、風がほとんど来ない地獄のような暑さの昨日に比べれば、涼風が部屋を通る今日は天国である。

というわけで、今日は自宅で仕事。といいたいところだが、おそらくは仕事からの逃避による手仕事に終始するような気が。特に、日記の記述が多ければ、その可能性が大である。

「最近の私」

自宅のパソコン(WindowsXP)が、遂に起動しなくなった。OSの起動中に、再起動するという現象に見舞われた。以前にも同様のケースがあったが、今回のはさらに悪化、全く起動が完了できない。おそらくは、例のRPCセキュリティー・ホールを狙ったウィルスなのだろう。

結局、OSを再インストール。とりあえず起動は完了したので、WindowsUpdateを実行。これで、例のセキュリティー・ホールのパッチはダウンロードできただろう。とりあえず、安堵。

但し、再インストールのために、結局一晩を費やす羽目に。おかげで、本日は寝不足。きつい。

「最近の愛車パジェロイオ@猥褻物陳列号」

愛車パジェロイオ@猥褻物陳列号(ネタはバタイユ「エロスの涙」ちくま学術文庫)は、今月が初めての車検。お盆前にディーラーに預けて、昨日ようやく引き取ることができた。長引いたのは、ディーラーに出向く時間が取れなかったためであって、決して金策のためではない。

当然ながら、エンジンオイルも交換。しかし、前回交換した2月以降、走行距離は2,300km程度。その間、遠出は国分市上野原遺跡訪問時くらい。九州の外へ走らせたことも無かった。ああ、何だかもったいない。

8月23日

「最近の私」

そろそろ5週間程で、半期末。すでに、休日出勤体制。

ユーザは半期毎に業務上のノルマがある。問題は、そのノルマを達成するために、他人に無理な仕事を押し付けること。しかも、費用は「保守業務」扱いなので、新たな受注は無し。なれば、通常の保守業務をおろそかにするか、赤字覚悟で残業せざるを得ない。

地獄。

『四国中央市』誕生へ 新名称に批判相次ぐ」(共同通信 8月22日)

 愛媛県川之江市、伊予三島市、土居町、新宮村でつくる法定の宇摩合併協議会は22日、伊予三島市で開いた会議で、来年4月に4市町村が合併して発足する新自治体の名称を「四国中央市」とすることで合意した。28日に4市町村長が合併協定書に調印する。

 合意までに「四国中央市」の名称に対しては「(合併後)人口約9万6000人の市にしては大げさな名称」などの批判が相次ぎ、再検討を求める1万2000人以上の署名が協議会に提出された。

 しかし、協議会は「新名称は協議会委員の投票という民主的なルールで選ばれた。別の名称を選定しても必ず反対が起こると思われ、堂々巡りに陥る」として、再検討しないことを決めた。

 「四国中央市」とした理由について、協議会は「4県に接する唯一の自治体で、4つの県庁所在地までほぼ1時間の距離にある。全国からみても地理的にイメージしやすい」と説明している。

「民主的」であれば良いというのは、諸々の判断が迫られる政治の実践においては、価値判断の放棄でしかない。民主主義は、ともすれば衆愚に陥りやすく、それによる政務の混乱から抜け出すには、「知恵」しかない。ただ闇雲に「民主的」というゴタクを並べるならば、馬鹿でもできる。というか、諸判断の言明に伴う「覚悟」が欠如している馬鹿に限って、「民主的」などという言葉を濫用したがる。

個人的には、郡名である「宇摩」の方が相応しいと考えている(「宇麻」でも良い)。地名とは地域の歴史の表象であり、それは地域における共時性であり、つまりは同一性なのである。過去との断絶によって新たな未来社会が構築可能とする、「革新」という急進的啓蒙主義は、既に破綻しているのが現実だ。それを踏まえれば、地名における過去との断絶行為が、決して好ましいものとは云えないのだ。当然といえば当然なのだが、公募においての得票は「宇摩市」が最も多かった。同様の良識を持つ人々が、同地域に多かったことには、結構安堵させられたのだが。

それにしても、今回の「四国中央市」といい、旧中巨摩郡域の「南アルプス市」といい、モニュメントまがいの名称がまかり通るのはどういうことか。現実の政治において、共時的な認識論的切断が可能と見なす政体は、すでに凋落した「革新」地方自治と同質である。いや、そのような政治的判断に正当な理由があれば、まだましだ。「4つの県庁所在地までほぼ1時間の距離にある」からどうしたというのだ。それが地域住民にとって、どのようなメリットがあるというのか。下らぬ虚飾で自身の政治的判断の言明を誤魔化すのは、「科学的」という装飾で政治的謀略を正当化する共産主義思想と同様である。おまいらそろって代々木へ逝け。

該当地域には、ネットで知り合った友人が在住しているので、あんまりきつい言い方はしたくないのだが、ちょっと、ねぇ。

8月22日

風土記逸文 陸奥国〜八槻郷

風土記を斜め読みしていると、何かと土蜘蛛toka国栖tokaいった、いわゆる「まつろわぬ者達」が暗躍する記事が目立つ。この場合、征討する側である朝廷が、「景行天皇」toka「日本武尊」tokaいったお決まりの登場人物として語られるのに対し、土蜘蛛側の登場人物はスコブル魅惑的な名前が並ぶ。この陸奥国風土記逸文の記事は、特にその傾向が強く、正統性への語りに飽き足らぬ読み手の心を魅了する。

この記事が「八槻郷」なる地名の由来譚であるためか、登場する「土知朱」はそれに対応するように、8人いる。「一を黒鷲と曰ひ、二を神衣媛(かむみぞひめ)と曰ひ、三を草野灰(かやのはひ)と曰ひ、四を保々吉灰(ほほきはひ)と曰ひ、五を阿邪爾那媛(あざになひめ)と曰ひ、六を栲猪(たくゐ)と曰ひ、七を神石萱(かむいしかや)と曰ひ、八を狭礒名(さしな)と曰ひき」、これが、その8人の名前だ。悪役に対するこのような列挙の記述は、何だか「白波五人衆」の如き悪漢の物語を髣髴させてしまう。そのような悪漢たちの登場とは、テクストによってシステム化された政治体制を指向した律令時代に対する、極めて痛快なるアンチテーゼにすら見える。それに比べて、律令体制側の人間である「国造磐城彦」が、「土知朱」八人衆によって「敗走」する姿は、悪漢たちの姿とは対照的に、哀れだ。

ありがちな話だが、彼ら「土知朱」が、体制側によって弾圧され追い込まれ、それゆえに蜂起した反体制的な存在であるという語りは、あまりに陳腐であり、決して私は与しない。とはいえ、「土知朱」の討伐を正当化する朝廷側の言説とは、「百姓(おほみたから)」という、極端に云えば律令イデオロギーによって措定された、「常民」に対して為された「犯罪」行為によって成立している。しかし、現実において、そんな純化された「常民」なるものは、イデオロギー上の仮定によって成立しているのであり(その点では社会学も同様・笑)、現実の住民は結構両義的であるはず。地域共同体的な堅苦しい「日常」という求心力にさらされる人々にとって、その外部に存在する「土知朱」たちは、危険と魅惑に満ちた遠心力だ。悪しざまに「土知朱」を罵りつつも、無視することのできないというこの「風土記逸文」テクストは、求心力に所属しつつも遠心力の魅惑を克服しきれない、書き手のアンビヴァレントを示している。

面白いことに、その土地における始原の語りを綴っているはずのこの風土記テクストには、当時の陸奥国における社会情勢が伺える記述が存在する。「津軽の蝦夷に諜(ことつ)げて、許多(ここだ)く猪鹿弓(ししゆみ)・猪鹿矢(ししや)を石城に連ね張りて、官兵(みいくさ)を射ければ、官兵え進歩(すす)まず。」という記述が、それだ。「陸奥国風土記逸文」が編纂されたであろう時代は、奈良時代の中頃と想定しうる。その頃といえば、北東北は未だ日本の領土の外にある地域で、「蝦夷」と呼びうる政治的な集団との対立が頻発化していた。陸奥国府である多賀城はその最前線として建設されたのであり、「蝦夷」との境界が遠征によって北上するのは天平年間に入ってからである。それまでは、顎田や津軽の「蝦夷」とは国府が克服し得ない「北の脅威」であり、実際に「蝦夷」と軍事的な衝突が発生したという記事が、「続日本紀」に幾つか記載されている。それが、この「土知朱」は、「蝦夷」からの軍事支援を受けているかのように記されている。「土知朱」を律令体制にとって悪しき存在として語るためには、あたかも「蝦夷」と関係があったかのように記すのが、手軽な筋立てであったのだろう。しかし、猪鹿弓・矢に圧倒される官兵の姿は、現実に「蝦夷」の脅威に一進一退を余儀なくされている、当時の国府の状態を表しているように見える。

あと、この記述の最後には、「土知朱」八人衆の子孫を名乗る集団の存在が記されている。「神衣媛と神石萱との子孫の赦されし者は郷の中にあり。今、綾戸(あやべ)と云ふ、是なり。」という記述である。おそらくは、この「綾戸」という村落が保持していた、自己言及的な由来譚こそが、この「土知朱」八人衆の元ネタであったのであろう。しかし、私としては、「戦場の恋」なんてものを想像してみたくはなるが。官兵との抗争の狭間で、二人はどのようにして愛を育んだのだろうか。殺伐なイデオロギー絡みの筋立ての中で、そのような恋愛ネタを想像するのは、決して悪くはない。

風土記逸文 陸奥国〜八槻郷

以下は妄想。

「待ぁてー!待たんかぁーっ、神石萱ぁっ!」

「相変わらずしーつこいなぁ〜、磐城彦のとっつぁ〜ん。」

8月21日

「冷夏」

私の所用先である関東は、寒かった。寝ていて、毛布が必要になるくらいの肌寒さ。

今から、タイ米を美味しく食べるレシピを準備してみようかな。

「最近の私」

仕事で、「他社製品情報」なんてシステムの仕様書を作成していたら、「自社」とあるべきところを悉く「寺社」と記入していた。

仕事中に原稿を書くなよ。>自分。

8月20日

「最近の私」

所用より帰還。

「8月14日の私」

この日は「古典文学の村」村長氏とプチオフ会。場所は、村長氏懇意の新宿のお店。いやぁ、どうもご馳走様でした。

酒の肴は、科学認識論(エピステモロジー)から古典文学といった幅広いもの。こんな凄まじい話題に付いて行ける人は、なかなかいないのではないか。あと、「」掲示板に出没する、ストーカーまがいの人物も酒の肴に。えらいテンションの上がった飲み会ではあった。

ジョルジュ・デュメジル「ローマの誕生」(デュメジル・コレクション3・ちくま学術文庫)

またも読んでるデュメジルの「歴史は実は神話だ」シリーズ。とはいえ、例によって購入してから一年近くの積読を経て、ようやく読んでいるのだが。

ローマ草創期の物語は、歴史とみなされ、事実を包み隠している。しかし、事実をあまりにも巧みに隠しているので事実は消されてしまっている。パラティヌス丘に入植した聖なる春(ウェル・サクルム)がアルバから出発したということも、明らかでさえない。アルバ人とサビニ人との統合が最初の共生によるというのは、偽りである。おそらく考えられることは聖なる春があったことと、先住民との出会いがあったことだけである。ただしそう考えるのは、先駆的な理由からであり、考古学的な類推によるよりはむしろ、イタリアとかヨーロッパのほかの事実との類比によるのである。ローマが出会いの後で交流したり争ったりする都市とその住民の名−アンテムナエ、カエニナ、クルストゥメリウム、クレス、そしてクレスを言わば首都とするサビニ族−もまた、「事実」とは言えない。それらの都市や都市住民は、まるで偶然のように、次の時代にローマ人に関わり合った。クレスは、住民をローマに移し替えたと語り伝えられているが、前三世紀にも依然として隆盛を極めていた。ロムルス、ヌマ、トゥルスについて、行動、性格について、それぞれの特徴の信憑性を保証するものは何もない。これら草創期の物語ではすべてが熟考され、練られ、二者一組なり補完し合う集団なりとして整えられているような印象をあまりにも強く与えているので、歴史家は、カント派哲学者がいわゆる能動的知覚によってとてもみごとに整合して引き受ける現象を目の当たりにしているようにそれらの物語に直面しているのである。歴史それ自体に到達するためには、信仰表明が必要である。

このような文章を読んでいくと、「記紀の歴史は6世紀に記述された政権正当化の神話」と喝破した津田左右吉の研究を髣髴させられる。そのような研究成果のもとに、というか、家永三郎によるさらなる「神話化」(笑)の上に成立する歴史教科書で学んだ私たちにとっては、むしろ西洋の歴史なるものに対する実証主義的批判精神の意外な少なさに、むしろ戸惑ってしまう。例えば、塩野七生「ローマ人の物語T・ローマは一日にして成らず」の如き歴史記に対しても、記紀が向けられそれゆえに鍛えに鍛えられた批判精神は、決定的に欠如しているように見える。少なくとも、歴史を愛好する立場の者ならばともかく、私のようなヒネクレ者の歴史マニアの目には、決して耐えうるものではない。逆に、デュメジルのような歴史における神話性を強調する立場が、カルロ・ギンズブルクのような歴史学者に目をつけられているのも、我々の目には非常に意外に写ってしまう。

歴史などを含むテクストの類を「言説」と見なして、そのテクストが示そうとするもの(ソシュール的に云えばシニフィアン)を抉り出そうとするのは、フーコーなどのフランス現代思想のお得意技である。その意味では、ザビニ人について記したローマの歴史記述における、インド=ヨーロッパ語族の神話に共通した筋立てとの類似性を暴くデュメジルの手法は、その先駆とも云うべきものである。デュメジルをレヴィ=ストロースのような構造主義者と見なすのは、結構もったいなかったりする。

ちなみに、この本は戦後に出版された物だが、ザビニ人の歴史に対する神話性というアゲツライは戦前からの研究だtoka。それは、ちょうど前述の津田左右吉の研究とほぼ同時期なのである。その意味でも、戦前における日本の歴史研究は、世界的には決して劣る物ではない。戦後の歴史研究を停滞させたのは、むしろ、マルクス主義的な進歩史観や、「南京大虐殺」といった、新たに絶対化された「神話」によるものだったりする。

とはいえ、フーコー流に理性や物語は作り物だと断定するのも、それはそれで寂しい。デュメジルによる歴史に対する「暴き出し」も、実際はそのような歴史の共有があってこそ有効なのである。神話堅持の覚悟をキメるためには、物語とその「暴き出し」に対する弁証法的な「綜合」の過程が必要だ。ただ単に「暴き出し」ばかりの言説ばかり読み漁ると、私のような(笑)懐疑主義へのヒキコモリを生み出しかねないのだが。

8月13日

「お知らせ」

本日より所用のため、ネットから離れます。

遊びに出るわけではないのが、悲しいところ。

8月12日

「最近の私」

昨夜はまた午前様。

おまけに寝付けない。結局、睡眠時間4時間弱。きつい。

新型ウイルスが爆発的感染 ウィンドウズの欠陥狙う」(共同通信 8月12日)

 マイクロソフト社の基本ソフト(OS)ウィンドウズの欠陥を狙う新型コンピューターウイルスBlaster(ブラスター)が、国内外で爆発的に感染を広めていることが12日、ウイルス対策会社などの調べで分かった。

 ウイルス対策ソフト大手のトレンドマイクロによると、米国で東部時間11日昼すぎ(日本時間12日未明)から感染報告が急増。国内でも12日朝から夜までに約200件の感染報告が寄せられた。同社は「今年一番の被害件数。実際の感染台数はもっと多いのでは」とみている。

 米国に本社がある対策会社シマンテックによると、感染数は全世界で1万台を超えているという。

 このウイルスは、ウィンドウズXPなどの「過去最悪の不具合」(専門家)とされるプログラム上の欠陥からネットワークを通じて侵入。内部情報を書き換え、他のパソコンへの感染活動を始める。頻繁に再起動する症状が起きるほか、8月16日以降にはマイクロソフト社のサーバーに一斉攻撃するなどの悪さを仕掛けるようになる。

 ウイルス対策会社によってBlasterのほか、MSBLAST、Lovsanなどの名を付けている。

 マイクロソフト社はすでに、この欠陥の対策ソフトを公開。ウイルス対策会社も駆除ソフトの配布を始めた。

 経済産業省の外郭団体・情報処理振興事業協会(IPA)セキュリティーセンターは「ウィンドウズの対策を行っていれば感染の心配はないが、企業単位での感染例では、システム全体の見直しが必要になるかもしれない」と指摘している。

本日の昼下がり。MS-Excelでドキュメントを作成していたら、"svrhost.exe"が落ちるというエラーが出現。これにより、お得意のコピー&ペーストが出来なくなった。これは、私だけでなく、職場にいた多くの人が体験。かと思えば、外部のネットに接続できない。何だか、異常事態。

やがて、その職場のプロキシサーバがダウンしたことが判明。しかも、構内にウィルスが蔓延していたことが判明。さあ困った。ワクチンが配布されるまで、仕事は停止。しかも、後輩が保守しているシステムの調査に借り出されるなど、事態はてんてこ舞い。もちろん、ワクチンを入手した後は、これをあちこちのパソコンに導入しなければならない。あぁ、冗談じゃねぇ。

犯人は、上記のMSBLASTなるウィルス。感染したパソコンは、Windows2000のセキュリティ・ホールを狙って、他のパソコンに対して侵略攻撃を仕掛けるという、極悪なもの。攻撃を仕掛けられたパソコンは、感染されることがなくても、"svrhost.exe"のような重要なバックグラウンドプログラムが落ちるため、仕事にならなくなる。

というか、疲れるよ。

8月11日

「最近の私」

仕事で、「他社製品情報」なんてシステムの仕様書を作成していたら、「他社」とあるべきところを悉く「他者」と記入していた。

下らぬ現代思想に毒されていると感じる、今日この頃。

『本土最南端』に衣替え 鹿児島県のJR西大山駅」(共同通信 8月9日)

沖縄都市モノレール「ゆいレール」の開業に伴う結果。

 日本最南端の駅として知られるJR指宿枕崎線の西大山駅(鹿児島県山川町)に設置されている記念碑がこのほど「本土最南端」に衣替えした。今月10日に沖縄の都市モノレール「ゆいレール」が開業し、日本最南端を「赤嶺駅」(那覇市)に譲り渡すためで、正確を期そうと山川町が表記を直した。

 西大山駅は1960年に開業した無人駅。北緯31度11分にあり、列車は平日で上下各7本。小さなホームに立つと、深緑に包まれた開聞岳が目の前に悠然と広がる。鉄道ファンのみならず、多くの観光客が訪れる人気スポットだ。

 同町の担当者は「日本最南端でも本土最南端でも、旅行に来てくれた人に満足してもらえれば、こだわらない」と話している。

そういえば、松浦鉄道たびら平戸駅の「日本最西端駅」も、確か「ゆいレール」那覇空港駅に移っているはずだが。そちらは記事にはならないのだろうか。

ちなみに、その西大山駅だが、訪れる観光客は観光バスでの利用が殆ど。列車利用は極めて少ない。そういえば私も、過去の職場で行われた社員旅行で訪れたんだよなぁ。

8月9日

「最近の私」

Yahoo!掲示板以来の盟友であるHuisK氏と、プチオフ会。というか、氏の来福を機会に、昨日は天神&中洲で飲み食いし、今日は鐘崎&宗像大社で観光。

昨夜は相手に調子を合わせたら、結局飲みすぎてしまった。ビール中ジョッキに芋焼酎3杯、ウィスキーのダブルを2杯。おかげで帰路では電車で寝てしまい、乗り過ごし。おまけに今朝は二日酔い。ちょっときつかった。

8月7日

台風10号、あす午前にも西日本上陸か」(読売新聞 8月7日)

 大型で強い台風10号は、7日午前10時前に沖縄本島北部を通過し、正午現在、鹿児島県与論島付近を時速約15キロで北に進んでいる。

 中心の気圧は950ヘクト・パスカル、最大風速は40メートルで、半径200キロ以内は風速25メートル以上の暴風域となっている。8日午前にも西日本に上陸する可能性が強まっている。

 この台風の影響で、日本航空と全日空、日本エアシステム、日本トランスオーシャン航空などは7日午後1時現在、沖縄発着便を中心に計293便の欠航を決めている。

また台風だ。もう飽きた、などとぼやいても、やってくるのが台風ではある。

「5月24・25日の観光旅行(承前)」

終わりたいけどまだ続いている。これが最後。本当に。

宇治神社・宇治上神社

かくして宇治平等院を後にして、宇治川を渡河。時間が少し余っているので、どこか手ごろな所に立ち寄りたい。「源氏物語ミュージアム」は、ゆっくり見ている暇が無い。三室戸寺はちょっと遠い。かといって、このまま駅に向かうのも癪ではある。などと歩いていたら、宇治神社の入り口に。面白そうだ。とりあえず、ちょっと寄ってみよう。

宇治神社は宇治川右岸を少し登ったところに、さらに宇治上神社はさらに坂道を登ったところに、それぞれ見える。以下は、その時に撮影した写真。

方やUNESCO世界遺産として登録された宇治上神社と、登録から漏れた宇治神社であるが、近代以前は「二社一体」の関係にあり、併せて宇治離宮明神と称されていた。祭神はいずれも、応神天皇の皇子である莵道稚郎子。記紀に拠れば、皇太子であるにも関わらず皇位を継承せず、弟の仁徳天皇に皇位を譲って自身は自殺したという。その莵道稚郎子が隠遁したという場所がこの地であり、その跡に建てられた神社であるtoka。何だか、きな臭い政争がらみのドタバタをつい想像してみたくなる話ではある。もちろん、「源氏物語」宇治十帖が示す、隠棲という宇治の暗喩の元ネタが、この莵道稚郎子であると想像することは、決して不当ではないはず。なにせ、作者の紫式部は「日本紀の局」と呼ばれるほどの歴史好きであり、そういったテクスト群との間テクスト性は作者の得意とするところだから。

平安時代後期以降、諸国の寺社における祭礼では田楽や猿楽と呼ばれる芸能が奉納されるようになったが、この宇治離宮明神での還幸祭は、特に盛大な芸能が催されたという。この宇治離宮明神は、宇治神社の方は宇治郷の、宇治上神社は填島の、それぞれ氏神として崇敬され、祭礼はこの地域の人々によって支えられていた。そして、祭礼への奉納を介して地域住民が支えた芸能が、平安後期に出現した宇治田楽であり、中世における宇治猿楽である。特にこの明神は、宇治猿楽の諸座の拠り所でもあり、中世に多く愛好された猿楽という芸能の有力な中核でもあった。その祭礼があまりにも賑やかなため、祭礼時に関白藤原忠実が訪れて以来、藤原摂関家が見物の為に毎年の如くこの宇治の地を訪れ、それは鎌倉時代まで続いたほどだったという。それは、神社という求心力による、地域共同体の始原の現象とも見なすことが出来る。

しかし、私が訪れた時の宇治神社は、結構ひっそりとしていた。観光客らしき者は、私ぐらいなものである。宇治上神社に比べて、ちょっと淋しい印象ではある。ちなみに、写真にある本殿は鎌倉時代の建造物で、重要文化財に指定されている。決して、神社自体に遜色は無いはずなのだが。

それとは対照的に、にぎやかと云うか観光客がウザいほどおると云うか、宇治上神社はまさに観光地の真っ只中である。観光案内のボランティアの方もいるが、それ以上の観光客の人出だ。世界遺産に登録されたという違いだけで、この差は何だろうか。元は一つの「明神」であったのに。

但し、迫り来る山を背景にした、平安時代後期の建造物である本殿の姿は、面白い。というか、実は写真の建造物は、3つの社殿を一棟の中に入れた覆屋であり、三柱(莵道稚郎子、応神天皇、仁徳天皇)の神に対応する社殿は、この覆屋の中にある。拝殿のほうも、鎌倉時代の建造物だったりする。そのような建造物の古さが、世界遺産登録の理由なのだろうか。

それでも、この宇治神社と宇治上神社とは、地域住民によって支えられた神社であり、地域共同体の求心力でもある。実際、観光案内のボランティアの方は、地元の人達だし。そのような地域共同体の求心力の通時性のほうが、私は世界的な遺産としてよほど重要だとは思うのだが。建造物の歴史性のみが評価されるのは、私は好きではない。

などと勝手なことを考えながら、宇治上神社を後にしたあたりで、ちょうど良い時刻となった。「ついで」の見物旅行は、ここでおしまい。後は、京阪宇治駅から京阪電車に乗り、大阪に戻ることに。時間があれば、莵道稚郎子の陵墓や三室戸寺あたりも行ってみたかったが、仕方が無い。これから、本来の目的の方を果たさねば。

終わりに

なお、この旅行の本来の目的である「松原正先生講演会」だが、なんとか間に合うことが出来た。とりあえず、有意義に過ごすことが出来たことを記しておきたい。

それと、両方の「博物館」の評価。池長孟コレクションを基盤とする「神戸市立博物館」は、やはり蒐集を本懐とする「オタク」精神が基層に存在する。その意味では、私にとっては悦楽の空間であった。逆に、「平等院ミュージアム鳳翔館」については、博物館という学術への倫理と、寺院という自己言及的言説と、その相克に対する無頓着さが目立つ。両者の弁証法的な「綜合」は期待し得ないことを自覚してほしいと、ただ願うばかり。

最後に、講談社「日本の歴史」月報に掲載された「全国歴史博物館ガイド」について、私が制覇したところを更新しておく。といっても、制覇した博物館はまだ5つ。ああ、完全制覇の道は遠い。

(これでおしまい・ふぅ)

8月6日

都道府県市区町村 データと雑学で遊ぼう

まあ、退屈しのぎには面白いと思って。

核廃絶と世界平和実現誓う 58回目の広島原爆の日」(共同通信 8月6日)

 広島は6日、58回目の「原爆の日」を迎えた。広島市の平和記念公園で「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、被爆者や遺族ら参列者が、原爆犠牲者を追悼、核兵器廃絶と世界平和実現を願い、誓いを新たにした。

 この1年、米国が核使用のハードルを下げる恐れのある小型核兵器開発を打ち出して核政策を転換、北朝鮮も核開発を表明するなど、核をめぐる世界情勢は緊迫化した。

 広島市の秋葉忠利市長は平和宣言で、米国の核政策を厳しく批判。「力の支配」に警鐘を鳴らし、法の支配と和解の精神の重要性を強調。「作らせず、持たせず、使わせない」とする「新・非核三原則」を国是とし、世界共通ルール化に取り組むよう訴えた。

 またブッシュ米大統領と北朝鮮の金正日総書記に広島訪問を求めた。

この季節になると、また陰鬱な気分にさせられる。それは、「反戦・反核運動」などという、論理的整合性の欠如した、おおよそ衝動的としか言いようが無い言説によって、「社会」が埋められていくからだ。これから8月15日まで、その非論理性の荒海の中で、私という小船は為すすべも無く彷徨わなければならない。というか、この暑さで不愉快感は倍増、毎年ダブルパンチである。

この言説の貧しさとは、とにもかくにも、語る主体、即ち「反戦・反核」を訴える側の世界観の貧しさに尽きる。言説が示す世界には、語る主体以外に実体的な対象は存在しない。ここで言及されたブッシュ米大統領と金正日総書記とは、「広島訪問を求め」得るような、おおよそ非現実的な存在なのである。むしろ、紙人形に向かって怒鳴り散らしているに等しい。過去に到っては、その紙人形に対し核武装の特権性を付与することもあった(もちろん米国じゃない国・笑)。その場合でも、相手の国とは語る主体が勝手に理想化した、現実のものとは思えぬ存在だったりする。

そのような「語り」に、「他者」は存在しない。「他者」なき語りとは、読む価値の無い駄文に過ぎない。M.バフチンによれば、中世西欧の「騎士道小説」とは、騎士とは異なる現実の野卑なる存在という「他者」に対する、「内的な論争」が存在する言説だとのこと。そのようなモラルを希求する「語り」にも、「他者」は存在することになり、それゆえに「騎士道小説」の言説は有効と成り得た。しかし、「反戦・反核」などという「語り」に、「他者」は決定的に欠如している以上、そのモラルまがいのヘタレ言説に有効性は無い。

実は、未だに相変わらず北岡誠司「現代思想の冒険者たち10 バフチン」(講談社)を読んでいたりする。この調子で、「反戦・反核」言説には「カーニヴァル化」が欠如している、なんて云ってみたりして。

8月5日

「5月24・25日の観光旅行(承前)」

際限なくまだ続いている。

宇治平等院 平等院ミュージアム鳳翔館」

鳳凰堂中堂の見学を終え、今度は「宗教法人としては初の総合博物館」とある「平等院ミュージアム鳳翔館」へ。といっても、この宇治平等院の境内にある施設なのだが。というより、昔は宝物館だった施設が、博物館として生まれ変わったらしい。ただし、境内にあるといっても、平等院庭園の景観との兼ね合いもあり、地上に見えているのはミュージアムショップくらいで、展示室の類は全て地下にある。何とも風変わりな施設ではある。

主な展示物は、阿弥陀堂内部の四方の壁面に飾られていた雲中菩薩像五十二体の展示、阿弥陀堂建造当時の内部を再現したCG、そして復元された大和絵風九品来迎図。発掘された際の遺物の展示も多少はあるが、展示物の中核は阿弥陀堂にまつわる宝物の類ばかりである。この宇治平等院はUNESCO世界遺産に登録されているとはいえ、寺の建造物の大半が度重なる中世の騒乱に巻き込まれて失われてしまい、創建当時の建造物はこの阿弥陀堂くらいなものである。なれば、展示の内容が阿弥陀堂関連に集中するのは、致し方ないのかもしれないが。

まず、雲中菩薩像五十二体。うち五十一体が国宝で、申請後に見つかったとされるものが一体あり、なぜか全てが国宝指定にされていない。その辺の事情はよく判らぬが、ともかくも展示室ではこの仏像群を間近で拝観することができる。この雲中菩薩像が、本来在るべき薄暗い阿弥陀堂内部に飾られていたならば、仏像の細やかな表情や持ち物などの様子を窺うことはできなかっただろう。あるいは、分節化された菩薩像を「よむ」ことにより、その像から湧出する新たな言説を捕捉することができるはずで、それから阿弥陀堂という装置に言説を還元するのも、決して不当ではない。その点では、このような展示はありがたいというか、やっぱり博物館らしいというべきか。

その菩薩像は、雲形に乗り掛かる姿で我々の目の前に現れる。そして、その多くの菩薩像の手には、楽器の類を確認することができる。笙、縦笛や横笛、琴、琵琶に竪琴、太鼓や鼓、鉦鼓やシンバル、蛇腹状の楽器(アコーディオン?)、等々。これらは、平安王朝という時代において奏でられた楽器群なのであろうか。他に、楽器の代わりに、蓮台toka宝珠toka幡toka天蓋tokaを持つ菩薩像もある。楽器を持たずに、優美で豊かな体をくねらせて舞を舞う菩薩像もある。一心不乱に合掌する、地蔵菩薩らしき丸坊主の菩薩像もある。本来あるべき阿弥陀堂にて配置されたならば、それはあたかも天上の音楽が今にも奏でられそうな光景を示していたであろう。当然ながら、臨終時における阿弥陀如来による「救済」の瞬間、それは現世ならざる音楽、舞、それらが雲形に乗りながら到来することを、菩薩像群は視覚的に表現しているのだ。それはもちろん、「救済」のための空間としての阿弥陀堂という言説の一部を担っているわけ。

それから、CGで再現された阿弥陀堂建造当時の内部の様子。阿弥陀堂内部の彩色や装飾の類が、退色もしくは剥落によって失われてしまったのは、今まで私が見た通りである。そのような、現時点で私たちが目の当たりにした状態を、私たちはついつい始原からの状態と勘違いする時がある。しかし、それらの一部は戦乱という不幸な出来事によってもたらされたものであり、平等院の歴史からそのことを忘れてはならない。

CGが描き出す建造当時の阿弥陀堂内部は、予想にたがわぬ、極彩色が交錯する光と色彩の異様な空間である。堂内は柱や壁面から天上の組物に到るまで、あらゆる場所が、赤や青、緑や紫、黄色や白の極彩色による文様で埋め尽くされているのだ。それは、退色あるいは剥落という、ある意味自然界に還りかけたような状態とは全く異なる、現世ならざる異様な空間が表現されているのだ。あるいは、平安時代当時における、自然と対立する人工美による装飾を極めることで、超自然的な存在として来迎する阿弥陀如来の「救済」を表現しているのだろうか。考えてみれば、平安時代当時の自然における死とは、穢れもしくは腐臭であり、そのような自然と対立する空間が浄土として規定されていくことは、ごく当然の帰結ではある。少なくとも、この極彩色を単なる「貴族趣味」という決まり文句に還元することは、決して賢明でないことは確かではある。

そして、ひどい剥落や落書の被害を受けた大和絵風九品来迎図の、復元模写。国宝である扉絵については、現在国庫補助による修理中のため、展示していないとのこと。現代の宝物修復技術を駆使して修復を目指すあたりも、ここはやっぱり博物館ではある。

その復元模写の方の扉絵だが、本の大和絵である九品来迎図の絵柄は見事ではある。しかし、気になることがある。阿弥陀堂で見たような、あの、落書の類が見当たらない。もちろん、落書に関する説明も、全くない。

この復元模写からは、鮮やかな色彩を獲得することで、阿弥陀如来による来迎という「救済」の語りを湧出することに成功している。それはまさに、「源氏物語」的な宇治という暗喩が秘める死と隠棲の体現でもある。しかし、もうひとつの宇治、「平家物語」的な「地政学」による悲劇の地という歴史性の体現である、あの落書のたぐいは、そこには映し出されてはいない。復元であるならば、宝物がその始原以来蓄積してきた、後には史料と成り得るさまざまな痕跡をも、注意深く残していかなければならないはず。模写であるならば、落書も「よみ」方を変えれば、それは歴史を語る重要な史料となるはずであり、そのような機会を提供するのが博物館なのではないか。これは、どういう了見なのだろうか。

どうやら、この「平等院ミュージアム鳳翔館」が示す指向とは、かつての阿弥陀堂が体現していた極楽浄土の世界像の、現代テクノロジーの駆使による「復活」であるようだ。そこで用いられているテクノロジーとは、博物館という組織が抱える技術力であることは間違いない。浄土庭園の発掘作業も、考古学という学問における技術力によって支えられている。しかし、それらは少なくとも、学問・芸術の神であるミューズの女神たち(ミュージアムの語源)に捧げられたものではない。それらの学問とは、阿弥陀如来による「救済」の空間という言説の再現のために奉仕しているのである。そして、そのような「救済」の言説とは、宇治平等院という寺院にとっての自己言及的言説であり、宇治平等院を平等院ならしめている「語り」なのである。そのような立場に立てば、このような落書の類は、自己言及的言説への冒涜行為以外の何物でもない。

前述のとおり、「平等院ミュージアム鳳翔館」は宝物館が前身である。なれば、宇治平等院自身が欲する自己言及的言説としての「救済」という「語り」の復元のために、この施設が存在するならば、それはむしろ宝物館と名乗った方が良い。もちろん、宇治平等院が抱く自己言及的言説それ自身については、批判される謂れは無い。しかし、学術が自己言及的言説の為に奉仕され、そこでの研究成果が学術へと還元され得ないのであれば、それは総合博物館としてはいかがなものか。学術においては、史料は「逆撫で」されて「よま」れる可能性がある以上、そのような行為が自己言及的言説と対立する危険性はいくらでも存在する。寺宝を汚す落書の類は、寺院側にとっては自己言及的言説への冒涜以外何物でもないが、学術においてはあらたな言説の源泉ともなり得るからだ。そのような史料の「逆撫で」行為を担保するものはミューズの女神たち、即ち学術における倫理であり、決して自己言及的言説ではない。博物館と名乗るのであれば、自己言及的言説との対立の危険性を覚悟しなければならないはずだが、ここはそのような問いが為されているようには見えない。ちょっと言い過ぎかもしれないが、この施設が博物館と名乗るのは、いかがなものかと。

寺院が総合博物館という異質な存在を抱え込むことに対し、私が違和感を抱くのは、まさにその点である。寺(という共同体)の論理か、学術の倫理か、そういった二者択一を迫られる場面はきっとやって来る。というより、そのような根本的な対立構造を自覚せずに、寺院が総合博物館なるものを建造したのであれば、私としては寺院側の見識を疑わざるを得ない。ましてや、安易に「ミュージアム」などという名前を濫用したのであれば、それは論外である。

私としては、宝物館としての展示であれば、結構評価できる施設であると考えている。要は、ミューズの女神への奉仕というか学術の倫理というものに対し、どれほどの認識があるのかということである。というより、阿弥陀如来のお隣にミューズの女神が棲み付くこの境内に、私としては酷い違和感を感じるのだが。

(終わりたいけどまだつづく)

8月4日

「最近の私」

G.バシュラール「新しい科学的精神」(ちくま学術文庫)を読了。やっぱり、科学認識論(エピステモロジー)は難しい。というか、物理がからっきし駄目だった「なんちゃって理系」人間の私には、量子論の話はチンプンカンプン。

ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の話は、面白かったんだけどね。後者は前者を訂正するものではなく、「補完」するものとする観点が、バシュラールのエピステモロジーの核心。同様のネタが、ニュートン力学と相対性理論や量子論、そしてデカルト主義に対する「補完」を指向する「非デカルト主義」の提唱だったりする。ただ、科学の客観性については、結構楽天的であるような気が。

8月3日

「最近の私」

暑い、暑い、暑い。アメダスを見たら、13時に33度を記録。

黒カビアレルギーの問題があるため、エアコンも稼動できず、暑っ苦しい部屋で一日を過ごす。といっても、今日は風があるため、窓を開ければ、多少は涼しく感じる。しかし、暑いことには代わりがない。

図書館あたりでも逝けばよかった。

「5月24・25日の観光旅行(承前)」

止め処なくまだ続いている。

宇治平等院 鳳凰堂」

間テクスト性の「源」「平」合戦は置いといて、拝観とする。

宇治平等院の拝観料は600円だが、いわゆる鳳凰堂の内部まで見学するならば、境内の案内所でさらに500円を支払わなければならない。最初に全料金を提示すれば良いのに、このように後から別料金が提示されると、払わなければ後悔したような気分にさせられる。途中で支払いを止めると、最初の支払いが無駄になるからだ。結局、追加の500円を支払ってしまったが。しかし、そんなアコギな商売をするのは、いかがなものか。少々腹が立つ。辛口に批評してやるぞ。

それにしても、さすがは宇治平等院、訪れる修学旅行生が多い。班単位と思しき少人数の生徒もいるが、その殆どがクラス単位・学年単位と思しき人数で、旅行ガイドさんの旗に先導されながらの移動。私がここを初めて訪れた時も、寺院なるものの価値も理解できぬまま、旗に先導されるままに右へ左へと移動したんだよな。あのような集団行動による学習活動は、今の私には耐えられない。もっとも、今の自分も、本当に寺院なるものの価値が、完全に理解できているわけではないけれど。

以下は、境内というか浄土庭園の池の周りを廻りながら撮影した写真。残念ながら、鳳凰堂の内部の撮影は禁止。残念。

鳳凰堂の見学は、お寺の職員であるおばちゃんが案内してくれる。その職員さんに先導されながら、正面向かって右にある平橋そして反橋を渡って、鳳凰堂の内部へ。

さすがは、現存する数少ない平安時代の木造建築物である、柱や梁の表面に施したであろう塗装の傷みが、痛々しい。その一方で、池に浮かぶ「州浜」やその上にある建物の基壇、そして平橋と反橋は近年に復元されたもので、「州浜」や基壇の鮮やかな白さが際立つ。ちなみに、「州浜」や橋の遺構は一九九〇〜九八年の発掘調査で発見されたもので、その発掘の成果を基にして復元されたものとのこと。鳳凰堂そしてこの浄土庭園に対し、本来の「あるべき姿」を希求する、寺院側の意思が垣間見える。それだけに、復元された新しい「州浜」が白さを輝かせるほど、建物の傷みが却って目立ってしまう。

さっきからこの建物を鳳凰堂と呼んでいるが、これは江戸時代以降の通称であり、中堂の屋根の棟飾りにある鳳凰像が由来らしい。正式な名称は阿弥陀堂。当然ながら、その建物の内部に座しているのは、阿弥陀如来坐像である。材木を繋ぎ合わせ、彫った像に漆と金箔を施す、寄木漆箔のこの仏像の大きさは約2.5メートル。池の西岸からも格子越しにその御顔を拝することはできるが、やはり間近で見れば、その尊さを感じ取ることができる。光背そして天蓋の彫刻も、また見事なものである。末法の世において、関白頼道は阿弥陀如来による「救済」を求め、この仏像の現前化を果たした。この阿弥陀如来坐像を目の前にすると、「救済」されない死−都に溢れた死穢−をひたすら怖れた関白頼道の想いが、微かながら伝わるような気がしてくる。今は伝わらない「源氏物語」の「雲隱」も、このような阿弥陀如来による「救済」の語りだったのであろうか。

しかし、この仏像の優美さや尊さとは対象的に、鳳凰堂中堂の内部における装飾の傷みは結構ひどい。堂内を彩っていた華麗な彩色の塗装は退色もしくは剥落してしまい、その文様が示す意味を受け取ることができない。人の手が届く高さのあたりになると、柱や壁の塗装の剥落は一段とひどくなっている。職員さんの説明によると、堂内には螺鈿の装飾なども施されていたらしい。なるほど、仏像の下にある台の表面には、ちょうど装飾用の螺鈿をはめ込んだと思われる窪みがあちこちに見える。もちろん、これも剥落によって失われてしまったのだろう。平安王朝の栄華を偲ぶには、失われたものは決して少なくない。

そして、鳳凰堂の各扉や壁には、日本最古と言われる大和絵風来迎図が描かれているが、これまた剥落がひどい。九品来迎図とは、阿弥陀仏が死者の徳に合わせて、来迎の種類が九つに分かれるというものである。この絵の思想に対してその差別主義を難じることもできるが、身分の低い者、即ち下品下生あたりになると、却って庶民の生活の様子が判るという利点も有り、結構面白いものである。だが、これほど剥落がひどいと、読み取ることも難儀である。

おまけに、扉絵や壁画のあちらこちらには、落書きの類が書かれているではないか。貴重な文化財に対して、何てひどいことをするのか、そんな観光客は「謝罪しる」、私はこれを見て憤った。その文面を見ると、「筑前」という文字が。同じ福岡県人による悪行だろうか。それにしては、よく見ると、何だか文体が古めかしい。他の落書きも同様。というか、私が読めない、いわゆる「かな文字」である。そんな古い時代から、不埒な観光客がいたのだろうか。

職員さんにこの落書きについて質問すると、これは鳳凰堂に立て籠もった武士による落書きだとのこと。なるほど、それでは私が読めないのも道理ではある。そういえば、最初に書いたとおり、この宇治とは京都の防衛線という「地政学」的な宿命を背負った場所である。「平家物語」の時代、平家軍に追い詰められた源頼政が非業の死を遂げたのも、この宇治平等院である。また、承久の乱でも、最後の戦場であり「官軍」の敗北が確定したのも、この宇治川での戦いであり、平等院には多くの武将が結集したはず。そして、「太平記」の時代、足利尊氏が接収したのも平等院であり、それゆえに楠木正成はこの寺を焼き払った。戦国時代初期、畠山両軍に叛旗を翻した山城国の国人も、ここを結集の場とした。その「事件」に巻き込まれた誰かが、ここに痕跡としての落書きを記したのであろう。

なれば、傍目には文化財を破損させる悪しき落書きであっても、それは宇治という「地政学」の歴史を示す痕跡でもあるわけ。もちろん、平安王朝の栄華とは裏腹の、隠棲と死、そして「救済」を希求する歴史の表象が、この宇治平等院という建造物であることは間違いなく、それも歴史のひとつである。しかし、それだけが宇治の歴史ではなく、歴史の起源から延々と現在まで続く連続した時間の中で、宇治平等院という寺院にとっては不幸な出来事も存在した。それらを全て包摂したところに、宇治の歴史というものは発生する。そう考えると、この悪しき落書きも、何だかいとおしく感じてしまう。

というか、史料を「逆撫で」するときにこそ、歴史記述は生まれるという、まさに実践ではある。

(際限なくまだつづく)

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