「ほけほけ」と、その日に想う言の葉の断片を、ただ並べ綴るのみの日記です。
車検に出していた愛車パジェロ庵が戻ってきた。但し、タイヤが予想以上に磨り減っているため、交換の必要性有りと指摘を受ける。確かに、悪天候での発進時に、後輪が空回りしているような。
結局、今日は買い物に車を使ったあと、もう一旦ディーラーに預ける。散財。
【ジョンソン宇宙センター(米テキサス州)=笹沢教一】米航空宇宙局(NASA)は29日、米カリフォルニア工科大などのチームがカリフォルニア州パロマ天文台の観測で、太陽系の最遠部に冥王(めいおう)星より大型と見られる天体を発見したと発表した。NASAは、太陽系10番目の惑星としている。
これまでも10番目の惑星の候補とされる天体が太陽系の縁辺部で見つかっているが、冥王星よりも小さいことから「惑星とは呼べない」と判断されてきた。今回の“新惑星”は冥王星以来、75年ぶりの発見。暫定的な分析で、冥王星と少なくとも同じか、1・5倍近い大きさがあるという。現在、正確な大きさを特定する作業を進めており、約半年後には正確なサイズが確定できそうだとしている。
発見された新惑星は、「2003UB313」と呼ばれ、太陽からの距離は地球の97倍、冥王星と比べても2倍以上離れている。「カイパーベルト」と呼ばれる小天体が集まった領域に存在し、その中で3番目に明るいという。
2003年10月に観測されたが、距離が遠いために詳しいことがわからず、今年1月に観測データを詳しく再分析した結果、太陽を周回する大型天体と判明した。
現在の観測で、新惑星は冥王星などと同じように、岩や氷の塊と推定されている。スピッツァー宇宙赤外線望遠鏡の観測で見つけられないことから、月よりは小さいと見られている。新惑星の正式名は未公表だが、すでに国際天文学連合に提案されたという。
そういうネタが出た時には、Colin Matthews "Pluto - the Renewer" 付きの、Gustav Holst "The Planets" を聴くべき。
取り敢えず、神秘主義を程好く刺激してくれるような名称を希望しておく。
例の休出に非ず。嵐の前の静けさ。
昨日は飲みすぎた。気管支の具合が悪くなったので、久しぶりにブロンを服用。
雷雨。
近所の寺に有る三重塔に、稲光が集まったのを目撃。
遂に夏期休暇が消滅。と云っても、二日間の休暇は取得に成功。それって、単なる週休二日制ってことかよ。
ということで、この夏、俺のパジェロ庵「猥褻物陳列罪号」の出番は無し。号泣。
かと思うと、総務からは「もっと休暇を取れ、取らないと以下略」という通達。要は、総務側の都合の押し付け、というか社内政治の延長。
政治的に休養を押し付けても、それは労働環境の緩和にはならない。如何なる政治的な決定も、魂の救済に役立つわけではない。残念ながら、私の周りには政治万能論者が多すぎる。
奈良時代(8世紀)の大規模な官営製鉄所跡として国史跡に指定されている滋賀県草津市野路町の「野路小野山製鉄遺跡」で、新たに4基の製鉄炉跡や鉄鉱石などが見つかり、草津市教委が27日、発表した。
遺跡の範囲が広がるとともに、これまでに見つかった10基に加え、今回の炉跡の分布状況から、未調査地も含め20基を超す製鉄炉が同時期に操業していたとみられ、「国内でも例のない規模で、当時の律令(りつりょう)国家が関与した官営工房の実態が一層明らかになった」としている。
遺跡の範囲確認のため、市教委は5月から、遺跡北側の私有地約1042平方メートルを発掘調査していた。
4基の製鉄炉跡は、これまでの調査で見つかったのと同じ「長方形箱形炉」と呼ばれるタイプで、炉を組んだ「炉床部」(長さ約2メートル、幅約1・2メートル)、製造した鉄を炉から取り出す「排滓坑(はいさいこう)」(直径最大2・6メートル)などからなる。
それぞれの炉から製鉄時に生じたごみを捨てる溝が、1つに合流していることなどから、極めて計画性の高い操業が行われていたことがうかがえる、という。また、出土した鉄鉱石は良質で、質がそろっており、市教委は「官営製鉄所だからこそ、鉄鉱石を選別できた」とみている。
製鉄所の操業時期は、政治の実権を握り、後に反乱を起こして敗死した藤原仲麻呂(恵美押勝)が近江国司を務めていた時期と重なることから、市教委は「近江の鉄を支配できたことが、仲麻呂が権勢を誇った理由ともいえるのでは」と推測している。
現地説明会は30日午後1時半から行われる。
「鉄は国家なり」とでも云うべきか。
或いは、任那や百済という製鉄産業地域を失った王権は、新たな製鉄産業地域を作らなければ、鉄を下賜することが出来ない。古墳時代における鉄の下賜が王権を維持していた歴史は、奈良時代における製鉄の国産化を宿命付けたというわけ。藤原仲麻呂への権力集中も、鉄の下賜という歴史を考慮すべきであろう。
九州国立博物館(福岡県太宰府市)は二十六日、開館記念特別展「美の国 日本」(西日本新聞社など主催)に、奈良時代の宝物庫「正倉院」に収められている十三件が出品されると発表した。
公開が極めて限定されている正倉院宝物が、九州で展示されるのは初めて。国際色豊かな「至宝中の至宝」が、九州国博の開館を飾る。
出品されるのは奈良時代の仏画「墨画(すみえの)仏像」、同時代の工芸品「〓瑁(たいまい)螺鈿(らでん)八角箱」、日本最古の戸籍である豊後国(大分)戸籍を含む「正倉院古文書正集」など。
十三件は九州ゆかりのものと、同国博の展示テーマ「国際交流」に沿うものが選ばれた。
宝物は年一回、奈良国博の「正倉院展」で一部が公開される以外、人の目に触れることはほとんどない。百八年ぶり四番目の国立博物館の開館を記念し、宝物を管理する宮内庁が九州国博の出品願を快諾した。
「美の国 日本」展は奈良、桃山時代に焦点を当て、日本の美の成り立ちを探る。一般公開が始まる十月十六日から十一月二十七日まで。宝物は三期に分け、順次公開される。
正倉院
奈良市の東大寺大仏殿の北西にあり、8世紀前半の天平年間に同寺の正倉(しょうそう=最も重要な倉)として建てられた。3つの倉に納められている宝物は聖武天皇の遺愛品、寺宝、文書など7、8世紀の約9000件。金工、木工、陶芸、ガラスなど多彩な技術を駆使し国内外で製作された調度品、楽器、武具、服飾品、文房具など多岐にわたる。宝物は(1)伝来ルートや製作、使用年代が明確(2)伝世品のため保存状態が良好(3)中国、インド、イラン、ローマなど当時の世界の諸文化の要素が含まれている―として高く評価される。
九州国博特別展に正倉院宝物が展示されても、今年の奈良国博・正倉院展は絶対に逝く。
勿論、奈良国博・正倉院展へ逝ったとしても、九州国博の「美の国」展は絶対に逝く。問題は、三期中何回逝くかだが。
26日夜、広島市中区の平和記念公園にある原爆慰霊碑が傷つけられた事件で、広島中央署は27日未明、器物損壊容疑で同署に自首してきた広島市安佐南区祇園、右翼団体構成員嶋津丈夫容疑者(27)を逮捕した。
同容疑者は容疑を認めており「碑文の『過ち』の文言が気に入らなかった。過ちを犯したのは日本の一般市民ではなく、原爆を投下した米国ではないか」「警察へはタクシーで来た」などと供述しているという。
調べでは、嶋津容疑者は、原爆慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と書かれた碑文の「過ちは」の部分を、ハンマー(重さ約1・3キロ)とのみ2本で10数カ所に傷をつけた疑い。
この右翼団体構成員の行為も、碑文を物神化して容疑者を非難する連中も、原爆慰霊碑の文章と同様に、俗悪だ。
そもそも、『過ち』とは何か。政治的な『過ち』であれば、戦争に負けたのが悪いだけのことで、取り敢えずは負けなければ良いだけの話である。米国云々という言明は、結局は自分達の能力を棚に上げただけの妄言でしかない。また、開戦行為が即ち『過ち』とみなす行為も、低俗極まりない。戦争を否定するということは、諍いごとが避けがたい人間の宿命を否定することである。これまた、人間が抱え持つアポリアを直視せず、反省した「ポーズ」を見せびらかすだけの偽善行為であり、妄言である。
【モスクワ=古本朗】1945年8月の広島、長崎への原爆投下直後に、ソ連(当時)の軍情報部が原爆の威力を現地調査するため、米国に先んじて将校2人を両市へ送り込んでいたことが関係者への取材で分かった。
・・・
ソ連指導部は当時、広島の爆心地に大穴が生じたはずだと考え、爆発の威力を推定するため「穴の深さ」を見極めるよう命じたが、実際には、爆心地は「地ならししたような平地」になっていた。広島市内で負傷者に水を飲ませていた神社の神官は2人に、「アメリカに対する日本人の戦いぶりが悪かったので神罰が下った」と語ったという。
長崎で2人は、警察官が用意してくれた駅の隣の建物で夜を過ごしたが、放置された遺体の腐臭、助けを呼ぶ戸外の声に悩まされ一睡も出来ないまま翌朝、東京への帰途に就いた。
「神罰」だの「過ち」だの、戦争や原爆投下という出来事をそのようにしか断定できないあたり、日本人には悪しき非論理的な思考から抜け出せぬようだ。上記の神官も、今回の容疑者も、原水禁も、原水協も、同じ穴のムジナなのである。その限りにおいて、彼らが諍いごとをしても、私の目には単なる内ゲバにしか見えない。
忙しい。
私は、キューバ、イラン、スーダン、イラク、リビヤ、北朝鮮、シリア、および合衆国が輸出を禁止しているその他すべての国の、市民、国民、住民ではなく、それらの政府のコントロール下にありません。
朝○総○や社○党はどうやら、OracleDBは利用できない模様。民族差別云々という抗議が見当たらないのは、やはり相手が米国だからか。これが日本だったら以下略。
しかし、こんな下らないネタに反応するあたり、やはり疲れているんだろうな、俺。
熊本県本渡市の大矢遺跡から出土した縄文時代中期(約五千―四千年前)後半の土器に、稲作の存在を示す稲もみの圧痕(あっこん)(スタンプ)があったことを、福岡市職員で考古学者の山崎純男さんが確認した。日本最古の圧痕で稲作が縄文中期後半にあったことを証明する資料とみている。
圧痕は土器を製作中に稲もみが混ざってできたもので、土器が作られた時期に稲もみも存在したと判断できる根拠となるとされる。これまで見つかった稲もみの圧痕は、岡山県総社市の南溝手遺跡など縄文後期(約四千―三千年前)のものが最も古かった。
山崎さんは縄文時代の農耕を研究する考古学者らでつくる九州縄文研究会に所属し、福岡市教委の文化財部長。大矢遺跡や福岡市の元岡・桑原遺跡など、九州十カ所の遺跡の出土土器を調査中で、大矢遺跡の土器群の表面を電子顕微鏡で調べた。
その結果、縄文中期後半の土器から一点、同後期初頭の土器から一点の圧痕を確認。ともに長さは約三ミリ、幅約一ミリだった。
西谷正・伊都国歴史博物館長(九州大名誉教授=東アジア考古学)の話
圧痕は縄文中期に稲作があったという証拠となる。縄文時代は畑作が中心で、この圧痕の稲も、おそらく焼き畑で作られたものであろう。
そういえば、焼畑の遺跡なんてあるのだろうか。考えてみれば、畑地を次々と移動させる焼畑は、遺跡として検出しにくい遺構であろう。焼畑の考古学は、このような別の方法で残存しない限り、民俗学の助けを借りなければ成立が困難である。例外は群馬県内の遺跡だが、こちらは浅間山や榛名山の火山灰という稀有な条件がなければ、田畑は遺構として検出可能としかならなかった。
稲作は何かと、始原としての弥生時代の象徴として言挙げされやすい。しかし、その弥生時代における稲作とは、水田という生産方式の導入と考えたほうが良い。焼畑の如き原始的な畑作も考慮すれば、稲作は始原としての弥生時代の独占物ではない。勿論、物神的な対象としての「コメ」が、縄文時代から存在していたという訳では、決してないのだが。そこでの米とは、雑穀の一つであったのかも知れないからだ。
例の休出に非ず。
昨日は、飲みすぎたのが原因だろうか。それとも、シメに食った味の濃いラーメンで腹がもたれたのが原因だろうか。元気が出ない。
家に居ると暑くて仕方が無い。かくして、ミスドで読書。西郷信綱「古事記注釈 第一巻」を読む。
体調が悪い時に牛乳はNGなのだが、やはり氷コーヒーは大好きだ。
和歌山市の国特別史跡・岩橋(いわせ)千塚古墳群にある前方後円墳、大日山35号墳(6世紀前半)で、翼を広げ飛翔(ひしょう)する姿の鳥形埴輪(はにわ)が出土したと和歌山県教委が20日、発表した。
飛ぶ姿の鳥の埴輪は全国で初めてという。
墳丘東側に張り出した部分から破片五十数点が出土。円筒形の台に乗り、丸い体(長さ30センチ)に頭と右の翼(長さ25センチ、幅22センチ)が付いた鳥の姿が復元できた。県教委文化遺産課によると、鳥は死者の魂を運ぶ乗り物ともされるという。
一方、辰巳和弘・同志社大教授(古代学)は「形状からタカとみられ、被葬者の権威を象徴するタカ狩りの一場面を表したのではないか」と話している。
「タカ狩り」かぁ。ホークスが対西武2カード連続負け越ししている状況では、あまり瑞祥ではないよなぁ。或いは、南海電鉄沿線に似つかわしくないとでも云うべきか。
因みに、この岩橋千塚古墳群だが、宿禰姓の紀氏(朝臣姓の紀貫之とは別系統)の古墳が集まっているところとされる。この古墳が集まっている山の西のふもとには、紀伊一の宮である日前宮がある。この地域は、紀伊を代表する豪族である宿禰姓紀氏の拠点なのである。
関西地方などでマンション明け渡しの際、損傷の有無にかかわらず敷金(保証金)の一部を差し引く「敷引き」特約は無効として、神戸市中央区の男性(29)が東京都港区の不動産業者に約25万円の返還を求めた控訴審判決で、神戸地裁は20日までに、返還請求を棄却した神戸簡裁判決を取り消し、業者に全額返還を命じた。
村岡泰行裁判長は「賃借人の利益を一方的に害し、消費者契約法により無効」と判断した。
大阪の弁護士らでつくる「敷金問題研究会」によると、控訴審で敷引きが無効と認められたのは初めて。同研究会の増田尚弁護士は「敷引きに法的根拠はなく、制度そのものに疑問を投げ掛ける判決。関西の慣例というだけではもう通用しない。制度を見直す時期だ」と話している。
このような問題を、日頃「グローバリズム批判」を繰り広げられている論者は、どのようにお考えなのだろうか。少なくとも、地域慣習なるものが消費者の利益と対立する可能性は、かなり大きいのだ。
因みに、「敷引き」を超える請求書を俺に寄越しやがった筑紫野市の○○地建は、論外。
旧長崎街道の宿場町だった黒崎地区(八幡西区)の遺物97点を紹介する「長崎街道『黒崎宿』発掘展」が20日、同区筒井町の区役所で始まる。8月19日まで。無料。
調査は昨年1月から、国道3号黒崎バイパスなどの建設に先だってJR黒崎駅北東の1万数千平方メートルで実施。これまでに弥生〜江戸時代の計約3万点の遺物が出土した。
市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室によると、一帯は「生活面」と呼ばれる遺構の層が6〜7面と多いのが特徴。最古の弥生時代の層からは、貝や舟をつなぎ留める碇石(いかりいし)が出土し、当時は海だったと分かった。出土品から宿場町として栄えた江戸時代約250年間に、火災などで街並みが変化していたことも判明。藩主らが宿泊・休憩した御茶屋(本陣)跡なども今後調査する。
今回は黒崎祇園山笠開催に合わせた中間報告で、江戸時代の宿場の遺物に限定した展示。キリシタン弾圧が続いていた江戸初期のキリスト教のメダイ(メダル)や陶磁器、キセル、人形の土型など、宿場の暮らしをかいま見ることができる。【望月麻紀】
リーマンのとかちゃんにとっては、こういう展示が困る。展示時間は、平日の8時半から17時までという、何ともお役所的なスケジュールなのであり、私が観覧するならば、有給を取得する必要があるのである。半期後半に有給休暇の取得が実質的に困難な身の上ゆえ、休暇を強要するような展示は、一般市民としての考古学ファンの敵であるような。
黒崎とは、北九州市の前面を小倉と理解している連中にとっては、大きな誤解の重要な一つである。豊前国の小倉が云うまでも無く小笠原氏の居城であるのに対し、黒崎は伝統的に筑前国の一部であり、黒田氏の領地で最も大坂に近い港町でもある。黒崎を単なる宿場町と見るのは、実は大きな短絡でしかない。港湾としての黒崎の地形は、東から延びる長崎街道がイキナリ北の海岸に触れたのちに市街地に伸びており、港町があっての宿場町という歴史性を如実に示している。少なくとも黒崎という宿場町を言及するに当り、長崎街道の起点を小倉に求める考えは、ある程度留保する必要が有る。
それにしても、宿場という場所であれば、流れ者というか漂泊という属性を身に着けた連中が到来することは、宿命としか言い様が無い。日常が時空を支配する農村から見れば、黒崎という場所は良きも悪しきも通常ならざる存在が流入するものなのである。その中に、「唱導」としての「切支丹」が存在しても、それほど不思議では無いのである。まぁ、それくらい冷静な視点が、宿場の遺物を見る眼には求められる。
以上、有給が却下されたが故の、愚痴。
この寺(赤山法華院:引用者註)は、新羅人張宝高(唐名・・張保皐、朝鮮名・・弓福)によって建てられ、かれが寄進した年間五〇〇石の収穫がある寺荘で維持されていた。一石は薬六十リットル、当時一人年間五石分を食したとすると、一〇〇人が養える。張宝高は日本・唐・新羅三国間の貿易で財をなし、清海鎮(半島南端の莞島)に拠って海賊討伐で名を挙げ、このころ新羅の政界に食い込んでいた。その張宝高の唐における拠点が赤山にあり、新羅系住民はそのあたりから南へと広がっていったと推測される。
かれら新羅人を国外に押し出させた背後には、八世紀後半にはじまる国内の権力争いと、それによる社会的動揺、あるいは飢饉などの国内事情があった。一方中国側も、安史の乱以降の地方統治の弛緩、あるいは山東を治めた平盧節度使の李正己が高句麗系であったことなどがあり、かれらの受け入れを容認したことも考えられる。と同時に、当時東アジアの海域を結んでいた新羅商人の影響力も無視はできないだろう。国内の動揺のなかで、むしろそれゆえにかれらは積極的に外に場を求め、海域に、他国にと乗り出した。当時新羅人はもっともインターナショナルであり、わが円仁はかれらのネットワークを借りて目的を達成し、また無事帰国することができた。(P.270)
白村江の戦いに敗れて以降、東シナ海北部−山東・新羅・そして日本を結ぶ海−は新羅の海民が支配する海となった。那の津に入港して大陸から多くの商品をもたらした舟は、彼ら新羅の海民が操るものだった。奈良正倉院には、新羅から多くの輸入品を受け入れていたという記録が残されており、それは奈良時代における海上の覇権を如実に示していた。そして、白村江以前は多くの大陸からの宝物が献納されていた福岡・沖ノ島では、戦後になると国産品の宝物に取って代わる。沖ノ島から発掘された遺物からは、宗像神を信奉する海民が、新羅の海民に市場を奪われ、国際上の舞台から退いていったことが判る。海民としての新羅は、奈良時代の朝鮮海峡を支配した存在なのである。
山東半島の新羅人が入植した理由を、八世紀頃における新羅の国内事情に求めることについて、私は少々納得しがたいものを抱いている。彼らが商いを生業とする海民とすれば、相手国への居住は決して不思議なことではない。海民にとって海とは、分厚い国境線と当価値ではなく、取引先と取引先を繋ぐという意味で、むしろ居住域なのである。逆に、新羅人の山東半島への入植の理由に、何らかの国内事情を想定するのは、説明としては寧ろ過剰ではないだろうか。彼らが山東半島に何時頃入植したのか、詳しい歴史は判らないが、私としては朝鮮海峡の覇権を新羅が得て以降であると考えている。
或いは、彼らを「新羅の海民」と規定すること自体、実態にそぐわない表現なのかもしれない。少々乱暴な言い方かもしれないが、彼らは新羅国の庇護を受け、新羅の宮廷に食い込んでいくことができたがゆえに、彼らは「新羅の海民」と呼び得るのかもしれない。彼らの出自には、新羅という国域に留まらない多様性が備わっていたのではないか。海民なるものの性格を考慮すれば、新羅というナショナルな存在に還元するのは、冷静に考えれば少々慎重で有るべきなのかもしれない。勿論、その点に関しては、宗像神を信奉する海民についても、同様のことが云えるのかもしれないが。
ついでに云うと、円仁の航海を新羅の海民たちが庇護したのも、天台宗への商機を狙ったものでもあることを忘れるべきではない。更に云えば、奈良時代から平安時代初期における日本国にとって、新羅国とは仮想敵国なのである。文室宮田麻呂は、この張宝高と知り合って新羅との交易に関ったがために、それが原因で謀叛の嫌疑を掛けられた。下手をすれば、円仁も同じような境遇に陥った可能性もある。円仁と新羅海民との「交流」について、諸手を挙げて評価するのも、これまた少々慎重で有るべきなのかもしれない。
久しぶりに、天神のジュンク堂へ。品数が豊富なこの店には、財布に余裕があるときしか立ち寄ることができない。下記は、購入した本。
「入門 統一プロセス」は、UMLを活用しながら円滑にプロジェクトを進めるためのメソッド。UMLが今ひとつ(少なくとも私の周辺では)普及されていないのは、使用する場面がエンジニアに想像できないためだと、私は考える。その意味で、「統一プロセス」は結構意義がある。
「日本の近代8 大国日本のゆらぎ」は、シリーズ「日本の近代」の買い忘れ。さすがに最近は、近現代政治史に興味を示さなくなった私だが、やはりシリーズの歯抜けは見苦しい。かくて、財布に余裕の有る今購入したわけ。因みに、この本は本日中に読破。内容の是非はともかく、この手の本に対して、私は読み応えを感じることが少ない。
最近は、40度以上の酒はあまり飲まなくなった。43度の泡盛も、空けるまで約一ヶ月掛かった。
以前は、ウォッカやラム、ウィスキーの類をかっぱかっぱと飲んだものだ。ウォッカは冷凍庫で冷やし、ラムはレモン汁を入れ、ウィスキーはショットグラスでストレート。元々胃弱のくせして、強がって飲んだあげく、今では殆ど飲めなくなってしまった。おまけに、ウォッカの類を飲むと、体調が悪いときは気管支の調子がおかしくなる。アルコールに対する過敏反応なのだろう、酔って寝ていると急に息苦しくなり、目が覚める。その場合は、気管支を拡張する薬を飲まざるを得ないが、無理に薬で拡張したのが原因なのだろう、咳に血の臭いがしてくるのだ。これでは体に良いわけが無い。
その頃はソフトドリンクにしか感じなかった本格焼酎でも、今では水かお湯で薄めなければ飲めない。まぁ、自分に合った飲み方で飲むようになったという事は、自分は成熟したということなのだろうか。
祇園祭は17日、クライマックスとなる山鉾巡行を迎えた。日曜日と重なったこともあり、この日の人出は約24万人(午後1時現在、京都府警調べ)と、過去17年間で最多だった1999年に並ぶ多さとなった。
また、午前11時現在の最高気温が34度を示し、蒸し暑さの中、熱中症のような症状を起こして救急車で運ばれる人も相次いだ。
京都市消防局によると、巡行が始まった午前九時から午後零時15分までの間に救急車で搬送された人は7人。いずれも貧血や気分の悪さを訴えており、中には脱水症状を起こす人もいたという。
京都市役所前と阪急百貨店四条河原町店(下京区)南側に設けられた応急救護所には、午後1時までに約20人が貧血などの症状で訪れ、処置を受けた。
私が大阪に長期滞在していたころ、京都の祇園祭を見物しに行ったことがあったのだが。うだるような蒸し暑さと、鬱陶しいほどに集まってくる人の波に辟易したというのが、感想。序でに云うと、私は大汗をかくと必ずと云って良いほど腹を冷やすのだが、ここでも例外でなく、暴れる腹の始末のために食堂を捜し歩いた記憶しか残っていない。正直云って、私のとっては、あまり近寄りたくないお祭の一つ。
今週も、例によって休出。
帰り道、自棄酒用の酒を購入。
この不平等な関係に対して、私が想起したのは、所謂「アジアの戦争被害者」の如き政治の産物ではなく、なぜか山岸凉子の漫画だった。いや、楳図かずお「イアラ」のように、断末魔の叫びが「他者」として現前し、主人公を深く拘束するという構図も、それに近いかなとは思ったのだが。しかし、「他者」との圧倒的な非対称性に対して、如何に私たち日本人は脆弱かを示しているという点で、山岸凉子の諸作品は結構見逃せないと、私は考える。
山岸凉子の作品が描く、「他者」との圧倒的な非対称性は何とも悲劇的だ。「他者」を否定することも「歓待」することも叶わず、というかそれに対応する思考を持つ術の無いまま、主人公は残酷かつ絶望的な結末を迎える。『天人唐草』の主人公のように、心身共にズタボロにされたあげく「他者」を拒否するために、狂気という名の檻に自ら籠るのは、まだ良いほうかも知れぬ。『汐の声』となると、主人公を自己に規定しようとする禍々しい「他者」の暴力に、主人公は成す術も無く、結局は主人公は語り得ぬ存在として葬りさられる。『キルケー』の主人公も、「他者」との絶望的な非対称性には極めて無力だ。まぁ、山岸凉子の作品をいろいろ論じていったら、きりが無いのだが。
レヴィナスがエドガー・アラン・ポーに言及するくだりを読んで、私は、「レヴィナスはもしかして、山岸凉子同様の『見える』人ではないだろうか」と感じたものだ。彼が『見える』何ものかをロゴスで構築したもの、それが「イリア」ではないのか、私にはそういう感触がしてならない。しかし、『見える』何ものかをレヴィナスがロゴス化できたのも、やはり彼はロゴスの国の人だからなのである。日本人が『見える』何ものかを語るとすれば、やはり山岸凉子や楳図かずおのように、絶望的な語りとならざるを得ないのかも知れぬ。
歴史主義は、「開かれたシステム」にとっても、敵なのである。
元ネタはポパー「開かれた社会とその敵」。
昨夜は久しぶりに涼しい夜だった。だからと云って、窓を開けて寝ると、豪雨の雨音に叩き起こされる。
今日は眠い。
……では、決定論は自由と隷属の彼方にあるのだろうか。きっとそうだろう。けれども、主体性は決定論と隷属の二者選択の手前にある。責任の期限を、規定されるものに結びつけつつ、規定するものが規定されるものに対して提示されるような遭遇が不可能となることもありうる。規定するものが<善>である場合がそうだ。ここにいう<善>は選択の対象ではない。なぜなら、主体が選択に必要な時間−言い換えるなら、隔たり−をもつよりも前に、<善>のほうが主体を掴むからだ。善によるこの捕獲、この選びよりも完璧な奴隷化はない。たしかにそうだ。選択を凌駕するものだという性格は、しかしながら、命令者たる<善>の善性によって相殺されてしまう。服従するものは、奴隷としての境遇の手前に、その完全さをふたたび見いだすのだ屈折変化することはないが、いかなる自由においても決して引き受けられることなき責任−それは善である。善による捕獲、「善を蒙ること」の受動性は一種の収縮であって、この収縮は「ウイ」という言葉を発するときに、唇の動きに求められる収縮よりも奥深いものであって、唇の収縮は件の受動性の収縮を模倣しているに過ぎない。ここにおいて、倫理が哲学的言説のなかに入り込むことになる。最初はもっぱら存在論的であった哲学的言説のなかに入り込むのだから、哲学的言説の諸可能性の極限的な逆転の如きものが生じたことになろう。主体の根底的な受動性を起点とすることで、「自由を凌駕する責任」(自由のみが数々の責任を根拠づけたり、制限したりしうるものであったはずなのだが)、命令の受容に先立つ服従といった観念が復権された。責任というこの起源も秩序もなきアナーキーな状況をふまえることで、分析は−おそらくは言語の誤用によってだが−<善>という名を与えたのである。(P.487-8)
「他者」に対する無限大の責任云々といった「法−外」な倫理は、レヴィナスの思想の中核を成す。そこには、何かと戦争責任toka謝罪tokaいった話題が大好きな人たちに、注目されそうなネタが満載なのである。「他者」に対する圧倒的なまでの非対称性は、自己なるものを矮小化しようと政治に走るDQNにとって、理想的なモデルであると云える。勿論、「他者」を論じる現代思想は数多存在するが、レヴィナスの思想はその中でも結構重要な位置を占めていると、私は考える。
では、絶望的なまでの非対称性を有する「他者」への責任を担保する倫理は、何処に存在するのか。レヴィナスは、「命令者たる<善>の善性」というものを言挙げし、そこへの依拠をその倫理の中核に据えている。何の事は無い、それはヤハヴェの如き父権的な一神教に類似するものなのである。彼がユダヤ人であるという事実も影響があるとも云えるかもしれない。それ以上に、およそ西洋の形而上学というものが、父権的な一神教の如きものによって支えられたという、歴史のほうが重要である。それは「彼性」とレヴィナスが呼ぶものらしいのだが、どうやら西洋由来の「他者」論は、「彼性」の如きものとを前提とすると考えたほうが良いのだ。
少なくとも、多神教的な倫理観を持つ、ということは相対主義的な倫理に陥りやすい日本人が、西洋由来の「他者」を論じるのは、結構危険である。レヴィナスの思想も、ある程度距離をおいて読まないと、酷い目に遭うものと思われる。
例のトラブル続き。
システムの「建主改従」は、命取り。
会社でも、フラッシュメモリが見つからず。
帰宅して、愛車の車内を探して、漸く発見。安堵。
青梗菜の美味しい食べ方。
或いは、太平燕の具にしても良い。かも。
「熊本歴史叢書」は、何だか左寄りの執筆者が多い。地方の人材って、こんなものさ。
日記用のフラッシュメモリを、会社に忘れてしまった。よって、今週の更新は中止。だめぽ。
今週も、例によって休出。
出社の前に、皮膚科の医院に通院。「プロトピック軟膏」を処方してもらう。免疫抑制剤を使用した、アトピー性皮膚炎の薬なのである。ステロイド軟膏の方が即効性はあるのだが、なかなか直らずに使いつづけていると、皮膚が黒ずんだり弱くなったりといった副作用が出てくる。そういう時は、免疫抑制剤でアレルゲンへの過剰反応を抑えるようにしたほうが良い。
例のトラブル続き。
「策」で人は救済し得ない、救済し得るのは「物語」なのである。
アニメ「まほらば」最終回の基底を為すこの思想は、実に俺好みなのである。これくと。
京都・南禅寺に隣接する明治時代の庭園で、巨額詐欺事件に利用された「何有荘(かゆうそう)」(京都市左京区南禅寺福地町)に対して、京都地裁は担保権者の整理回収機構(RCC)からの申し立てを受け4日、実質的に所有、居住していた会社社長大山進被告(66)=詐欺罪で公判中=の立ち退きと登記の変更を禁じる保全処分を行った。何有荘は有料で一般公開されてきたが、地裁の執行官が管理するため、同日から非公開となった。
何有荘の所有権は1984年に大山被告が取得し、91年に宗教法人に移された。被告が社長を務める建設会社日本工業の債権の担保だったため、98年に競売にかかり、2002年に銀行から債権を譲り受けたRCCが競売も継承した。
RCCによると、大山被告と宗教法人は02年から翌年にかけ、何有荘の敷地内の建物の登記を変更し、競売の対象外の無担保の建物があるかのように偽って競売を妨害したため、6月に保全処分を申し立てた。
同日午前8時半から地裁の執行官や作業員が何有荘で大山被告の家財道具などの私物を運び出した。作業は6日までかかる見込み。この日から非公開となったが、見学を目的に訪れ、説明を聞いて引き返す観光客の姿もあった。
大山被告は何有荘の売買を装い1億円をだまし取ったとして、詐欺罪などで起訴されており、現在、地裁で公判中。
実は去年の11月、南禅寺を訪れていたのだ。しかも、地下鉄蹴上駅から訪れたので、この「何有荘」が一番近いルート。この年の京都非公開文化財特別拝観では、いくつかの南禅寺塔頭が公開対象となっていたので、訪れてみたわけ。但し、他に訪れる予定の公開対象の寺院は5箇所、1箇所800円の拝観料で合計4000円、結構費用が馬鹿にならない。よって、特別拝観となっていなかった他の南禅寺塔頭の観覧は、次回ということで断念。この「何有荘」も同様に断念。
この日、南禅寺境内で目立ったのは、「南禅寺は『何有荘』とは何の関係もありません」という張り紙であった。こういう場合は、「何有荘」のオーナーが胡散臭い人物であるか、或いは南禅寺とカネが絡んだ泥沼の争いをしているか、その何れかである。そう考えると、少なくとも「何有荘」に近づくのはあまり得策ではない。そしたら、案の定オーナーがぁゃιぃ人物であった模様。
実は、この日に訪れた塔頭のひとつに、「大寧軒」があった。この塔頭、明治初頭の廃仏毀釈運動の時代、経営が苦しくなった南禅寺が金策のため、手放した寺でもある。それを買い取ったオーナーは、この寺を商談やら何やらに利用するため、別荘に改造した。そのためか、庭には蚕の社にあるはずの三角鳥居やら、天然記念物であるはずの玄武洞の岩やら、結構キッチュなものばかりが並ぶ。いかにも、金持ちオーナーの趣味の悪さを表したような、悪趣味な庭なのである。今回、この寺が公開に至ったのは、南禅寺が漸く寺の買戻しに成功したからなのだそうだ。その意味で、この「大寧軒」は、南禅寺の負の歴史とその克服の歴史の両方を体現しているのかも知れない。在りし古を回復しようと努力する南禅寺の熱意には、それなりに敬意を表すべきなのかも知れぬ。
問題の「何有荘」も、やはり同様に寺の経営に苦しんだ末に南禅寺が売却した場所なのである。その意味で、「何有荘」も「大寧軒」と同様、南禅寺の負の歴史の現実なのである。しかし、現実の南禅寺は、「何の関係もありません」という張り紙で表すが如く、そこから目をそむけようとする姿勢を示す。逮捕されたオーナーの問題はともかくとして、南禅寺は「何有荘」を今猶続く負の歴史として、拝観する人たちに明示すべきなのかも知れぬ。なればこそ、それを克服しようとする意志も評価されるのだから。
青森県八戸市尻内町にある10―11世紀(平安時代後期)の蝦夷(えみし)の集落跡・林ノ前遺跡から出土したるつぼ片に、金が付着していたことが5日、青森県埋蔵文化財調査センターの調査で分かった。
同センターの白鳥隆昭所長は「蝦夷といわれた国家の支配地外にも、貴金属の高度な生産技術があったことが証明された」と話している。
金が付着したるつぼは、東北では12世紀後半の志羅山遺跡(岩手県平泉町)で出土しているが、それより100年以上もさかのぼり、金細工が行われていたことが確認された。
出土したるつぼ片は全部で43点。金が付着していたのは1点で、全体に金の粒が散見された。縦2.5センチ、横3センチ、厚さ1.2センチのるつぼ片で、復元すると直径7―8センチ程度の大きさになるという。2002年度の調査で出土した。
るつぼの分析を担当した奈良文化財研究所の村上隆主任研究官によると、付着していた金は1粒0.1ミリ程度で、銀の含有量から砂金などの自然金とみられる。
るつぼは、金や銀を溶かすときに使う道具。火で熱した後に鋳型に金属を流し込む。今回の発掘調査では、鋳型は発見されなかった。八戸近郊には金山がなく、金の入手経路解明も今後の調査の課題になりそうだ。
東北歴史博物館の工藤雅樹館長は「当時、東北を支配した安倍氏とのかかわりの中で、金、銀細工が仏具に使われた可能性がある。東北北部で何が起き、奥州藤原氏の平泉文化へつながっていったのかを知る手掛かりになる」と述べた。
林ノ前遺跡は大規模な環壕(かんごう)を持つ「防御性集落」で、これまでに約130軒の竪穴住居や銀メッキされた銅製刀装具、戦乱の犠牲者とみられる多数の人骨などが見つかっている。
スキタイ族も、金細工の生産が盛んだったような気がする。金細工を帝国の独占物と見做すのは、結構危険な陥穽である、かも。
例のトラブル続き。
七月六日から八日まで英国・スコットランドで開かれる主要国首脳会議(グレンイーグルズ・サミット)で、サミットへの中国の正式な参加問題に関する本格的な協議は見送られることが一日、明らかになった。
英、仏、独、伊など主要国(G8)の多くが高度経済成長を続ける中国の正式参加に前向きな姿勢を示していたが、今年春に中国国内で吹き荒れた反日デモの影響で、政治体制が違う中国を正式メンバーに加えるのは時期尚早との判断が主要国間に強まったためだ。 複数の外務省筋によると、今年に入って本格化したG8の事務レベルの協議で、中国の正式参加問題が取り上げられたという。
しかし、「歴史問題」を理由とした中国各地の反日デモで、中国政府が当初、デモを厳しく取り締まる姿勢を見せなかったことで、中国の正式なサミット参加に前向きな姿勢を見せていたG8各国に「国際ルールを無視する中国をサミットの正式メンバーとして迎えることへの抵抗感が一気に広がった」(外務省筋)という。
中国の参加問題をめぐっては、今回のサミットで議長を務める英国のブレア首相が昨年六月に米国で開催されたシーアイランド・サミット終了後の記者会見で「サミット改革の中で新たにどの国を招請するかについて話し合われている」と述べ、中国などを念頭に新たな加盟国を検討する考えを示したほか、イタリアのベルルスコーニ首相は「世界経済に大きな影響を持つ国との対話なしに、サミットの討議を進めることには意味がない。G9とかG10という考えもある」と、中国などの加盟が必要だとの認識を示していた。
中国は二〇〇〇年の沖縄サミットで、日本からのオブザーバー参加の打診を拒否したが、二〇〇三年にフランスで開かれたエビアン・サミットで胡錦濤国家主席がG8首脳と発展途上国首脳との対話に出席するために初めて参加した。
今回のサミットにもブラジル、インドなどの首脳らとともに参加する。ブレア首相が議長を務めるため、当初、中国を正式メンバーとして認めるかどうかの議論が行われるとの見方が強かった。(産経新聞 7月2日)
中共の始原を語る「神話」としての「反日」は、既に国際関係上のリスクとなっているのである。反日で盛り上がれば盛り上がるほど、中共人民の国際性の欠如ばかりが浮き彫りとなる。同時に、中共政府が一斉検挙やネット上での検閲など行えば、全体主義国家という自由・民主国家に対する「異質性」が明らかとなる。このような状態で、国際社会が中共に抱く不安を払拭することは不可能だ。
なれば、強すぎる中共を好まぬ我が国の国家戦略からすれば、寧ろ中共人民の反日暴動を煽るほうが得策なのである。行過ぎた反日暴動が、中共人民と政府の両方に対する国際社会の不信感を高めることになるのであれば、寧ろ我々の好機と捉えるべきだ。彼らの反日を煽れば、中共人民はその暴力性を剥き出しにするだろう。そして中共政府は、さらなる全体主義的な本性を暴露することになるだろう。何れにせよ、中共政府に打撃を与えることは確実である。反中共を標榜するならば、そのように彼らを誘導するほうが、ただ反中共を叫ぶよりも、戦略的には格段に有効である。
しかし、かの国の連中が反日を闇雲に叫ぶが如く、我が国でも中共を闇雲に非難するだけ人が多い。もう少し戦略的な思考が必要だ。
仕事が忙しいと、却って読書量が増えるようだ。仕事にカンケイない本ばかり選ぶあたり、最早逃避である。
例の休出。
古代から中世にかけて九州本土の影響が指摘されていた喜界島で、福岡県の大宰府政庁跡などで見つかる九世紀ごろのものとよく似た土師器(はじき)片1点が出土していたことが30日までに分かった。
出土したのは喜界町山田の中世遺物が多く出る山田半田B遺跡で、2004年5月から8月に発掘調査。土師器片を確認した九州国立博物館の赤司善彦展示課長(考古学)は「大宰府と喜界島の結びつきを裏付ける資料」と話す。
土師器片は柱穴内から見つかった。縦約1.5センチ、横約2.5センチの三角形状で厚さ約5ミリ。大宰府政庁跡周辺でよく出土する食膳(しょくぜん)具の一つ坏(つき)の一部とみられる。
赤司課長は、土器片の内側をいぶした黒色土器で土に赤い粒子があることなどから、大宰府近辺から出土する九世紀の土師器の可能性が高いことを指摘。「喜界島の土師器片は精良な土などから大宰府系とみられるが、今後、南九州の土師器との比較や土の分析など詳細な研究が必要」と話している。
喜界島の文献上の初見は十世紀末。歴史書の日本紀略に「997年に南蛮で襲撃事件が発生し、翌年、大宰府が貴駕島(きかいがじま)に南蛮を捕らえよという下知を下す」とある。ただ、貴駕島が現在の喜界島かを含めて個別の島を指すのか、それとも地域全体の呼称か、研究者の間でも定まっていない。
県立埋蔵文化財センターの池畑耕一係長は「古墳時代以降の喜界島の遺跡の中には、本土の土器しか出ない所がある。このため従来から、喜界島は九州本土の影響が大きいと指摘されていた。今回の発見はこれを裏付けるもの」とみている。
ラ・サール高校の永山修一教諭(日本史)は土師器片の出土で「日本紀略の貴駕島は喜界島の可能性が出てきた」と指摘する。紀略にある「下知」は大宰府が各地の行政機関に発する際に使うため、「喜界島は大宰府の役人がある程度とどまる拠点だったのではないか」と話す。
大宰府インパクト。
午後から大雨。一瞬だけだったが、小倉は25℃以下になった模様。