とかちゃんの「ほけほけ日記」
歴史篇(2003年)

歴史関連の、総集編です。

12月20日

「熊本市の二本木遺跡群 大型建物の全容判明 国府跡の可能性高まる」(西日本新聞 12月20日)

 【熊本】 熊本市教委は十九日、同市二本木一丁目の二本木遺跡群で見つかった八世紀後半の奈良時代のものとみられる大型建物跡について、全容が判明したと発表した。二棟が並立していたとみられ、当時の役所・官衙(かんが)の建物としては全国でも最大規模になるという。二十三日午前十一時と午後二時から現地説明会を開く。

 建物は地面に掘った穴に柱を建てた掘立柱建物とみられ、十九メートル四方にわたって柱穴が確認された。同市教委は「業務や居住施設だった可能性が高い。当時の肥後国の豊かさを示している」と分析。同遺跡群が、まだ確認されていない肥後国の国府跡である可能性については「国府跡の証拠となる木簡などは見つかっていないが、建物の大きさから判断すると、国府跡の可能性は高まった」としている。

熊本市の二本木といえば、昔は遊郭として有名だった場所。今でも、怪しい店(笑)の痕跡はわずかながら残されている。

そんな町だが、実は古代においては、現在ならば県庁に相当するような場所であったという。国府における他の事例を見れば、国府は即ち中世都市の形成となるらしい。そして、中世都市の形成は即ち悪所の根源ともなるらしい。ならば、熊本でも国府→宿→遊郭などという連想が出来そうで面白いが、残念ながら遊郭の設置は明治初頭。ちょっと残念。

ちなみに、九州ラーメンマニアの間で有名な「黒亭」なる店も、この近辺。というか、俺も年に1〜2回は食べに逝く。やばいね、また逝きたくなる。

12月17日

「原の辻遺跡 壱岐まるごと博物館 東アジアの考古学研究拠点に」(西日本新聞 12月17日)

 長崎県が壱岐の国指定特別史跡「原(はる)の辻(つじ)遺跡」の周辺部に建設する県埋蔵文化財センターの「基本構想策定会議」(委員長・西谷正九大名誉教授)は十六日、整備基本構想をまとめ、金子原二郎知事に提出した。弥生時代から大陸と九州を結ぶ交流拠点だった壱岐の地理的・歴史的特性を生かし、東アジアの考古学の研究拠点を目指すのが特徴。観光による離島活性化の機能も持たせ、二〇〇八年度のオープンを目標にしている。

 構想によると、遺跡を望む丘陵地に二万数千平方メートルの用地を確保し、埋蔵文化財センター、展示施設、駐車場、緑地広場を整備。核となる埋蔵文化財センターは(1)東アジアを中心とした考古学資料や情報の集中管理(2)国内外の研究機関との連携による学術交流(3)県内の埋蔵文化財の発掘調査・分析(4)市町村の文化財担当者を対象にした専門研修―などの機能を担う。

 展示施設には、弥生時代の装飾具や土器など、原の辻遺跡の出土品を中心に展示するほか、壱岐や長崎県、東アジアの歴史を学ぶ体験学習室を設置。地元の農水産物の販売施設やレストランも整備する。

 さらに、「しまごと博物館」や「しまごと大学」を掲げ、原の辻遺跡を軸に、壱岐島内にある古墳群や元寇の古戦場跡、朝鮮半島出兵関連の遺構など歴史遺産の散策ルートを整備。国内外の大学と連携し、単位取得が可能な特別講座の開催を図る。

 壱岐四町は〇四年三月に合併して壱岐市になる予定。西谷委員長は「遺跡と新たに設ける施設が壱岐市のシンボルとして、地域振興の核になることを期待している」と語っている。

▽原の辻遺跡

 長崎県・壱岐の南東部にある国内最大級の環濠(かんごう)集落で、外濠(そとぼり)で囲む面積は約24ヘクタール。2000年に弥生時代の集落としては、国内3番目の国指定の特別史跡になった。中国の歴史書「魏志倭人伝」に記載された「一支国(いきこく)」の中心と考えられている。捕鯨の様子を表現した線刻絵画が描かれた弥生中期の土器や、イスラム圏からもたらされたと推定される弥生中期のトンボ玉と呼ばれる装飾品のほか、土器、青銅剣など多数の遺物が出土した。保存整備の方針が決まっている。

島全体が支配域である「一支国」で、外敵は海の外にしかいないのも関わらず、わざわざ本土と同様の環濠集落が形成されているのは、何でだろう?そこには、半島との「交流」の「歴史」の基層に、払拭しがたい本土との同一化指向があったりして。

ともかく、壱岐・対馬へ行く機会が欲しいところ。

12月5日

伊都国の国際交流 図録、1カ月遅れで完成−−前原市教委 /福岡」(毎日新聞 12月4日)

 ◇企画展、21日までに延長

 前原市教委は、同市井原の伊都歴史資料館で開いている秋季企画展「伊都国の国際交流」の展示期間を延長することを決めた。10月21日〜今月7日の予定だったが、今月21日まで開催する。図録が約1カ月遅れで完成しており、市教委は延長の理由を「展示が好評なためと、図録を販売するため」と説明しているが、図録をさばくのが大きな理由とみられる。

 企画展は、中国の史書「魏志倭人伝」に書かれた弥生時代のクニ「伊都国」が現在の前原市を中心に栄え、当時の国際交流の拠点だったことを明らかにする、という内容。図録はA4判、24ページ。菊竹利嗣教育長のあいさつの日付は「10月21日」になっているのに、完成したのは11月23日だった。約50万円かけて2000部作り、1部300円で販売しているが、11月23日以降、同月30日までに30部しか売れていない。

 図録の制作は市教委文化課の資料館担当係長が担当した。9月ごろ、展示する約70点の遺物(一部レプリカ)を借りる交渉を長崎県教委や福岡市教委などと進めながら制作に着手。しかし、来年秋に予定される資料館新館の開館準備なども加わり、完成が遅れたという。係長は「見通しの立て方が甘かった。大変申し訳ない」と話す。

 一方、市教委は図録を係長に任せ切りにし、進ちょく具合をチェックしていなかった。久我和彦教育部長は「進行管理など組織的な問題もあったと思うが、担当者の基本的な認識にも問題があった」と釈明している。前市教育委員の小金丸俊光さん(69)は「遅れに1カ月も気がつかないとは、組織としてみっともない」と指摘している。

 資料館は5月以降、入館者が激減。市教委は企画展を入館者対策とも位置づけてテコ入れし、企画展の入館者は10月1262人(前年同期639人)、11月1224人(同1295人)と一定の効果を上げている。

俺も、そんな企画展が開催されているなんて、知らなかったよ。因みに、市教委と思しきサイトでは、伊都歴史資料館の企画展は春季の方しか紹介されていない。これだけを見ても、前原市教委が深刻な人手不足に陥っていることは、容易に想像できる。というか、ネット等の広告すら十分に手が回らない状態で、入館者数不足云々を論うほうがどうかしているような気が。

逝ってみてもいいけどさ、逝けば人員不足ゆえの不手際を博物館のあちこちで発見できることは確実。そんな状態では、例え今年の入館者数が増えても、その入館者がリピータになってくれるかどうかは、疑問。入館者に「行かなければ良かった」と思わせる隙を見せたら、駄目なのだから。

へ?「露草色の郷」なんて見なければ良かった、って?

11月27日

発掘された日本列島2003−新発見考古速報展」(北九州市立いのちのたび博物館

(とかちゃん紀行「語りを辿る旅路」に転載しました。)

11月23日

発掘された日本列島2003−新発見考古速報展」(北九州市立いのちのたび博物館

(とかちゃん紀行「語りを辿る旅路」に転載しました。)

11月21日

『謎の王墓』井原ヤリミゾ遺跡、電磁波調査で確認作業−−前原市 /福岡」(毎日新聞 11月19日)

今日は考古学ネタ。

 「謎の王墓」と呼ばれる前原市の井原ヤリミゾ遺跡の位置確認作業を続ける同市教委が18日、発掘しないで遺物の確認ができる電磁波による調査をした。来月中に結果が分かる。同遺跡は中国の史書「魏志倭人伝」に記録された弥生時代のクニ「伊都国」の王墓があったと推定されている。

 福岡藩の国学者、青柳種信が残した著書「柳園古器略考」に、王墓とされる三雲南小路遺跡(紀元前後)と井原ヤリミゾ遺跡(紀元50年ごろ)の発見当時の状況が記され、三雲南小路遺跡は74、75年の県教委の調査で確認された。

 同書では井原ヤリミゾ遺跡は、天明年間(1781〜1788年)に見つかったと記録され、市教委が95年から5回調査したが、確認されていない。今回は三雲南小路遺跡と道路を挟んだ南側の水田約3000平方メートルで実施した。

 調査方法は地中に電磁波を放射し、地層や空洞、埋設物の位置を確認、甕(かめ)棺らしい映像が数カ所でモニターに映ったが、分析が必要という。

 「柳園古器略考」には方格規矩鏡21面などが見つかったと書かれている。三雲南小路遺跡では単独で埋設されている口径90センチ以上、長さ1メートル以上の甕棺などが見つかっており、市教委は同様の遺物が手掛かりになると話している。

アルケオロジー(考古学)としての国学。対象を解体し再構築することで、新たなる自己言及的な言説の現前化を図る国学、そして、その技法を支えた、福岡の近世。

ちなみに、青柳種信は『瀛津島防人日記』にて、「海の正倉院」で有名な沖ノ島にも言及している。福岡における国学というアルケオロジー(考古学)に対して、アルケオロジー(考古学)の手を入れると、青柳種信という史層にぶち当たるらしい。

<偽造>縄文中期の線刻画 尖石縄文考古館の所蔵 長野・茅野」(毎日新聞 11月21日)

 長野県茅野市の「尖石(とがりいし)縄文考古館」が縄文時代中期の人物像として所蔵していた線刻画が、偽造されたものであることが20日、わかった。国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授が指摘した。

 関係者によると、狩人を描いたこの線刻画は1969年ごろ、同市の尖石遺跡の近くの住民が「住居跡付近で拾った」と、縄文考古館の前身の尖石考古館に持ち込んだもの。当時の館長らが「縄文中期の人物像の特徴がある」と鑑定したという。

 抽象的な文様を特徴とする縄文時代の造形にあって、具象的な人物像を描いた線刻画は珍しく、研究者の間で注目されていた。

 ところが、昨年1月、展示中の線刻画を見た春成教授が「石の表面は風化しているが、線は風化しておらず、汚れがない」などとして、「現代人による偽造ではないか」と指摘した。その後、縄文考古館の詳細な調査で偽造であることが明らかになった。同館は既に展示を中止しており、26日に調査結果を公表する予定。

 春成教授は「恥ずかしい話だが、偽造品だということだ。弥生時代の銅鐸(どうたく)の絵をまねて描いたものと考えられる。一度、権威のある学者が価値を認めると、ひっくり返すのが難しいのは旧石器ねつ造も同じだったが、尖石縄文考古館は誠実な対応をしたと思う」と話している。

 尖石遺跡は八ケ岳の西側に発達した縄文時代中期の遺跡。1930年代から発掘調査が進み、日本で初めて縄文人の集落跡が確認された。原始集落研究のさきがけ的な存在。

例えるならば、わざわざ名古屋に出向いて「赤福」を買い、後で確認したら「ほまれの赤福」だった、そんな気分だろうか。

<線刻画偽造>福島・郡山で所蔵の縄文石も可能性」(毎日新聞 11月21日)

きょうの考古学は大忙し。

 長野県茅野市の「尖石(とがりいし)縄文考古館」が縄文時代中期の人物像として所蔵していた線刻画が現代人による偽造だと判明したのに続いて、福島県の郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団が所蔵する縄文時代の石に描かれたとされている線刻画も、同様に現代人の偽造である可能性が高いことが国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授の指摘で21日、分かった。

 問題の石は1990年ごろ、同市・山ノ神遺跡(縄文後〜晩期)で同事業団研究者によって見つけられた。サイズは長径18.7センチ、短径11.7センチで弓を引いてシカを狙っている人物像が描かれている。弓を持つ人物像という点では、尖石縄文考古館が所蔵するものと共通している。

 「縄文絵画」として有名で、普段は福島県の郡山市歴史資料館に展示されている。各地の博物館に貸し出されることが多く、10月12日〜11月16日、東京都の大田区立郷土博物館で開かれていた特別展「動物と考古学」に展示されていた。

 ところが、春成教授の指摘では、(1)線にまったく泥が付いていないなど石の表面に比べて新しい(2)香川県で出土したという弥生時代の銅鐸(どうたく)(国宝)に描かれた絵に似ている――ことなどが分かった。このため春成教授は「現代人が銅鐸を見て偽造した可能性が高い」として同事業団に通知した。

 春成教授は「線刻画のように発見例の少ないものはよほど丁寧に観察しなければならないのに、観察力に欠け、本物にしてしまう。日本の考古学者は無防備すぎる。ヨーロッパでは偽物があるのは常識なのに、日本だけは偽物がないと信じている」と学界の通念に警告している。

日本人学者の情けないところは、「偽物」を安易に政治と結びつけるところにある。権威の消滅と同時に概念も消失した「帝釈原人」といい、扶桑社の歴史教科書という「歴史修正主義」問題といい、真贋を政治化する日本人学者は最早病的と云って良い。それは、「偽物」に「無防備」かどうかという問題では決してない。むしろ、学術に「神」即ち物語的な倫理が存在しないことのほうが、深刻な問題なのだ。下手をすれば、自らを神として人を崇めさせることだって、少なくない。

倫理toka、ディシプリンtoka、これらの存在は、外部の不合理かつ強大な他者としての神があればこそ。私たち日本人は、西欧における学術と神の関係を、もう一度きちんと認識しておく必要がある。

11月13日

森山軍治郎「クリの民族史をめぐって・日本編」(「東北学 Vol.5」東北芸術工科大学 東北文化研究センター)

あれも積読、これも積読、きっと積読。雑誌も季刊になってしまうと、購入しても積読送りとなる。ちなみに、これは二〇〇一年十月の発行。

一方、フランス革命への疑問から出発していたぼくは、反革命の行動にでた民衆や革命の動きに同調しない民衆の中で、少なからぬ人びとがクリを常食にしていた、という事実に遭遇した。近代フランスの民衆にあっては、基本的にコムギの白パンが一般化していた、というのが通説であり、アナール派の巨匠たちといえども例外ではなかった。だが、一八、九世紀のフランス、とくに中・南・西部の山間部では、程度の差こそあれ、クリが基本食のひとつであった。

この事実を究明したのはオーソドックスな歴史学の研究者たちではなく、歴史地理学、歴史民族学、歴史言語学、歴史人類学などの分野の研究者たちであり、環境史や生態史に深くかかわる人たちであった。いわば、学際的な歴史研究の成果として、コムギ=白パンの神話があばかれたのであった。

歴史地理学者のJ−R・ピットはある村の一五ヘクタールばかりの特定地域での六百年にわたるクリ栽培の盛衰を実証した。歴史民族学のA・ブリュネトン−ゴヴェルナトリは、一八八〇年に五一万トン強もあったフランスのクリ生産が一九七六年には四万トン余りに激減したのは、近代化のイデオロギーが主たる要因だとした。イタリアのD・モレノは、すでに死滅した方言用語や道具から、クリ栽培史上の決定的変化の秘密をさぐった。M−N・ブルゲは、自由主義にもとづく、すべての土地での穀物生産を実現しようとした重農学派の思想こそ、革命下での私的所有権の濫用を生み、クリ栽培など伝統的な土地利用の可能性を奪い、自然環境の破壊まで引き起こす結果となった、と指摘した。(P.328)

日本人にとっての「銀シャリ」も、フランス人にとっての白パンも、実は「ハレ」の時の食事であったわけ。そのような「ハレ」の食物を羨望の眼差しで見る、その共時的体験が、「銀シャリ」を日本人としての同一性として押し上げたことになる。フランス人にとっての白パンも同様で、このような事例は、世界のあちこちに転がっているような気が。案外、現代のフランスならば、トリュフ・フォアグラあたりが同一性にのし上るのかも。

逆に、あまりに日常的で古臭く語り得ないものほど、気を付けなければ徐々に同一性の外部へと押しやられてしまう。常食としてのクリが、中近世のフランス人のみならず、縄文人をも支えていたにもかかわらず、である。

11月10日

鞠智城

結局、昨日はこの鞠智城遺跡における、版築土塁なる遺構の現地説明会へと出掛けてしまった。

目立った土塁らしきものが今ひとつ見当たらないのが、鞠智城の残念なところと思いきや、尾根を発掘したらきちんと土塁の工事がなされていた、そういう山城なのである。まあ、大宰府近くの大野城に比べれば、少々見劣りするように見えるのは、大宰府の近所に住まう私の贔屓目ゆえか。

帰りは山鹿で熊本ラーメンを食い、馬刺しと天然水を土産に帰宅。食い気は相変わらずの私ではある。

11月7日

「鞠智城跡 版築土塁であることを県教委が確認」(熊本日日新聞 11月5日)

 鹿本郡菊鹿町の古代山城、鞠智城跡を調査している県教委は五日、同城の土塁が土質の違う土を交互に積み上げて造った版築土塁であることを確認したと発表した。鞠智城は文献上の築城記事がなく、他の古代山城と同様、朝鮮半島の百済地域の山城をモデルに造られたことをうかがわせる資料として期待されている。

 鞠智城の土塁は、昭和四十年代の調査結果を基に、長い間、尾根筋の地山を削って造ったと考えられてきた。

 今回は、同城跡のガイダンス施設「温故創生館」から北西に直線で約八百メートル地点を調査。地山を鉤(かぎ)状に削り出した後、土塁基底部に土留めの割石を置き、盛り土でテラス状に整形。その上に粘質土と砂質土が水平状に、三〜二十五センチの厚さで積み重ねられていた。

 土塁の高さは三メートル、積み上げられた部分の奥行きは二〜三メートル。地山削り出しに比べ、版築土塁は、のり面を急傾斜にできるため、敵の侵入を防ぐのに適している。今回の調査個所でも、七○度以上はあったとみられている。

 また、今回の調査では土塁の内側を表示するために置いた標石とみられる列石も、鞠智城で初めて見つかった。

 鞠智城は七世紀後半、唐と新羅の侵攻に備えて大和朝廷が築いた古代山城の一つ。県教委は「今回の調査で、より強固な土塁が築かれていたことが分かった。内陸部にある鞠智城も国防の一端を担っていたと考えることができるのではないか」と話している。

この手の山城が、飛鳥・奈良時代における対新羅防衛上の施設であることは云うまでもない。であれば、その最前線たる北部九州や、宮都との烽火による連絡施設となり得る瀬戸内海地方に、このような遺跡が発見されて当然だろう。もちろん、このような古代山城(神籠石遺跡を含む)の発見は、この二地域に集中している。それが、なぜ九州中部の熊本なのか。防衛ラインから外れた熊本に、なぜ古代山城なのか。

書紀の持統天皇十年(六九六)四月条に、肥後国皮石郡壬生諸石なる人物に朝廷が水田の賜与と税の免除を伝える記事がある。壬生諸石は、白村江の戦いで唐軍の捕虜として強制連行され、三三年後に帰国を果たした人物。その労に報いるための賜与の記事なのだが、肥後を含む西国には白村江の戦いに多くの兵士が動員されたらしい。そして、その兵士を率いたのは、西国の国造たちなのである。

ちなみに、当時の国府は託麻郡、現在の熊本市街地の白川左岸とされており、この山城とは少々遠い場所に位置する。この山城を朝廷に造らしめたのは、もしかしたら国府よりも比較的に強大な軍事力をもつ、国造というか在地首長なのかも知れない、などと妙な妄想を抱いてしまう。

 県教委は九日午前十時から土塁線を公開する。

逝けという、神の訓示?

11月4日

「東京の『法隆寺』〜東京国立博物館・法隆寺宝物館

(とかちゃん紀行「語りを辿る旅路」に転載しました。)

11月1日

国内最大級の装飾品工房 潤地頭給遺跡 福岡・前原市教委確認」(西日本新聞 10月30日)

 管玉など古代王族らの装飾品を製造していたとみられる工房の存在が明らかになっていた福岡県前原市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡の発掘調査を進めている同市教委は二十九日、多数の工房跡とその周辺から数千点に及ぶ水晶をはじめ、碧玉(へきぎょく)の管玉(半製品)や、製造工具の砥石(といし)、鉄錐(きり)などが大量に見つかり、一帯が大規模な玉造り工房であったことが確認されたと発表した。水晶の加工工房跡が見つかったのは九州では初めて。同市教委は「高い技術力を持つ専門職人の姿が浮かび上がり、当時のクニの繁栄と権力者の威信を示す貴重な発見」としている。

 同市教委によると、調査区域は全体で約四万平方メートル。出土土器などから工房の年代は弥生時代終末から古墳時代初頭(三世紀前後)ごろと推定される。工房跡は、多数の竪穴式住居跡が残る約一万平方メートルの範囲内で排水溝を備えた竪穴式建物三棟と二つの屋外作業場(土坑)跡を確認。遺構の状態からさらに規模が広がる可能性もあるという。

 域内からは多数の原石のほか、石を割るたたき石、大量の剥(は)片、仕上げ工程に使う砥石類、管玉などに穴を開ける鉄錐など、玉造りに必要な工具類がセットで出土。専門的に玉造りを行っていたことが裏付けられた。

 北部九州の玉造り工房は福岡県春日市の駿河遺跡などで確認されているが、規模は潤地頭給遺跡がはるかに上回っており、工房跡から三千点の石類が出ている全国有数の塚崎遺跡(金沢市)にも匹敵するという。

 同市は中国の史書「魏志倭人伝」で伝わる「伊都国」の中心とされ、王の所在をうかがわせる多くの遺跡がある。西谷正九州大名誉教授(朝鮮考古学)は「全国最大級のハイテク工房だ。広範な地域と交流した高い国力をうかがわせており、伊都国の全容解明を大きく進める貴重な発見。邪馬台国時代のクニグニの関係を知る上でも価値がある」と評価している。

バタイユ的な「消尽」を行う、もしくは行い得る求心力としての、「伊都国」。この遺跡は、そのような弥生の王国における栄華の痕跡を示しているのだろう。「奴国」とされる福岡県春日市の同様な遺跡と比べれば、「伊都国」という「マンダラ」の巨大さが理解できるというものである。

水晶原料に玉作り 東伯町の久蔵峰北遺跡で弥生時代の工房跡発見 /鳥取」(毎日新聞 10月30日)

 県埋蔵文化財センターは29日、東伯町八橋にある久蔵峰北遺跡の弥生時代後期(2世紀)の建物跡から、この時代には珍しい水晶を原料とした玉作工房跡が見つかった、と発表した。水晶を使った工房跡は古墳時代中期(5世紀)以降に各地で見られるが、弥生時代としては全国5例目。時期的にも京都府の奈具岡遺跡(紀元前1世紀)、大栄町の西高江遺跡(1世紀)に次いで3番目の古さという。

 工房跡や周辺の土坑から、直径数ミリ〜5センチ程度の水晶の剥片(はくへん)や、装飾品の切子玉など約30点が見つかった。このうち、透明な切子玉(直径約5ミリ)は何らかの工具を使って六角形に鮮やかにカットされ、中心には穴が開けられていた。ひもを通し、首飾りなどとして使ったと考えられるという。また緑色凝灰岩の製作途中の管玉、碧玉の小さな破片なども出土した。

 同センターは、「倉吉市の北部から三朝町にかけて水晶が採れる山があったため、この地域の有力者がいち早く水晶で装飾品を作ったと考えられる。玉作工房跡は日本海各地にあるが、弥生時代の玉作工人の実態を究明する上で貴重」と話している。

 11月1日午後1時半から現地説明会がある。問い合わせは同センター東伯調査事務所(0858・52・3638)。

また玉である。しかも、邪馬台国が出現する前の時代の遺跡。

弥生時代という、「マンダラ国家」が乱立した、もう一つの強大な「マンダラ」であろうか。

文化混在した出土品一堂に オホーツクと本州の影響示すテーマ展−−江別 /北海道」(毎日新聞 10月30日)

 ◇道立埋蔵文化財センターで来月16日まで

 道立埋蔵文化財センター(江別市西野幌)で、テーマ展「西島松5遺跡と青苗砂丘遺跡展――南北文化のクロスロード」が開かれている。7世紀の北海道で、北方オホーツク文化の影響と本州文化の影響が混在していたことを示す出土品を紹介している。

 本州では飛鳥、奈良時代に当たる7世紀、北海道では擦文文化が形成された。道央から道南にかけての多くの遺跡で、本州の影響を受けた鉄器などが出土。一方で、サハリン方面から南下したオホーツク文化の影響を示す道具類などが、各地で発見されている。オホーツク文化と本州文化が接触した最初の段階と位置づけられている。

 恵庭市の西島松遺跡から出土し、本州の影響を示す直刀、蕨手刀(わらびてとう)のほか、鉄器や須恵(すえ)器、土師(はじ)器を展示。奥尻島の青苗砂丘遺跡で、日本海沿岸を南下したオホーツク文化の影響を示す鉄製ナイフ、円板状骨製品などが見つかった墓の発掘状況も紹介している。

 テーマ展は11月16日まで。期間中の8日、「北海道考古学の諸問題――江別古墳群を築いた人々」をテーマに、江別市郷土資料館の高橋正勝館長が講演する。詳しいことは同センター(011・386・3231)まで。

縄文人の流れを汲む「擦文文化」の担い手である人々と、明らかにそれとは異なる外来の「オホーツク文化」の担い手が交差するのが、北海道の7世紀であるらしい。同時に、この時期といえば、大和朝廷の阿部比羅夫による北海道遠征でも知られる。いわば、「擦文文化」は、北の「オホーツク文化」と、南の大和朝廷の、両方から挟撃されていたことになる。

ちなみに、現存するアイヌ人なるものが、「擦文文化」由来即ち縄文人なのか、あるいは「オホーツク文化」由来即ち外来者であるのかは、全く判っていない。縄文人の風習とアイヌ人の習俗との連続性を強調する人もいれば、イヨマンテという熊送りの儀礼の非連続性ゆえにその外来性を指摘する人もいる(イヨマンテの遺跡は中世以前には遡り得ないらしい)。少なくとも、「擦文」「オホーツク」そして中世日本の各文化の融合もしくは激突(中世和人は余市や日高にまで住み着いていた!)の考慮しなければ、アイヌの前史を辿ることは結構危うかったりする。

というか、「日本人」なるものの雑種性を強調するあまり、アイヌ人に対する血統上もしくは民族上の純粋性を希求するのは、はっきり云ってアフォである。

10月24日

<旧石器ねつ造>藤村氏、偽計業務妨害容疑は不起訴 仙台地検」(毎日新聞 10月23日)

道義の問題を政治に委ねた、アノ元教授の顛末。

 旧石器発掘ねつ造問題で仙台地検は、奥野正男・元宮崎公立大教授(考古学)から偽計業務妨害容疑で告発されていた藤村新一・前東北旧石器文化研究所副理事長を証拠不十分で不起訴処分とした。

 告発状によると、前副理事長は00年10月22、27日、宮城県築館町の上高森遺跡で、自分で事前に埋めた石器を掘り出して発掘をねつ造、国や自治体の埋蔵文化財行政の業務を妨害したとしていた。地検は「偽計業務妨害を示す根拠がない」と説明している。

学術の倫理性を裁判という政治に委ねるという愚考を犯した元教授は、改めて云う、「逝ってよし」。逆に、「神のものは神に」返した検察は、決して間違ってはいない、と。

10月21日

「装飾古墳だヨ!全員集合」

思わず脱力しそうな、ローカルな学習イベントの、続き。

重定古墳(浮羽郡浮羽町)

最初に訪れたのが、筑後川が平野部にちょうど到達したところの左岸にある、浮羽町の三つの古墳のうち、まずは重定古墳。愛車パジェロイオ「猥褻物陳列号」で訪れたは良いが、付近の道路は狭く、路上駐車するには怖い。仕方なく、近くにある町役場の駐車場に停車。ちなみに、この町役場のロビーには、重定古墳で見られる同心円文・靫・鞆といった装飾を模った壁画がある。

色・形状が鮮やかな町役場の壁画とは対照的に、残念なことに現在の重定古墳の壁画は、悲しいほど退色してしまっている。町役場の方の説明によれば、この古墳は防空壕に使われたり、戦後の考古学ブームでやたらと人が入り込んだおかげで、壁画がひどい損傷を受けてしまった。現在はカビなどが繁殖しないように、町役場の方が消毒したりする以外は、殆ど入れないのが実情。

今回の見学は、露を拭うためのハンドワイパー付きのガラス越しで公開。はっきり云って、見れたものではない。しかし、そのような不自由を蒙ってしまったのは、やはり考古学ファンなるものの原罪ゆえなのである。文句を言う権利など、私には無い。むしろ、殆ど見えない壁画の保存のために苦労している、町役場の方に敬意を示さねば。

ちなみに、この前方後円墳は地元の小さな神社ともなっている。といっても、社殿はなく、石碑と注連縄ぐらいしかないささやかなものでしかない。それでも、地元の信仰(といっても氏子は数軒程度だそうだが)としてのこの古墳には、ちょっと安堵させられたような。

楠名古墳(浮羽郡浮羽町)

前記の重定古墳に隣接する円墳である。残念ながら、こちらはいわゆる「装飾古墳」ではないが、同様の複室横穴式石室を持つ古墳である。保護する壁画が無いこともあり、こちらは石室の内部まで見学できた。

この石室が妙なのは、後室と呼ばれる奥の部屋よりも、その手前にある前室のほうが広く、奥に向かって右手にも部屋が広がっているのが特徴である。それ以上に、石室に使われた岩の大きいことといったら。但し、南筑後で見られるような阿蘇凝灰岩ではない模様。ちなみに、背後の耳納連山には今でも石切り場があるらしく、おそらくはそこから切り出されたか。

塚花塚古墳(浮羽郡浮羽町)

町役場近くの二古墳から結構離れたところに、塚花塚古墳がある。やっぱり複室横穴式石室の円墳で、こちらは装飾古墳。

当然ながら、壁画の保護のため、ハンドワイパー付きのガラス越しでの公開。手でシコシコと窓の露を拭いながら見るが、なかなか見えにくい。町役場の方に「どうです、見えますか?」などと問い詰められる。せっかく見せてもらえるのに、どうして見えないんだと、内心あせる。それでも、輪郭らしきものが見えて来そうで、なかなか見えてこない。俺って才能ないのかなぁ。

貰ったパンフレットの写真には、壁画として御馴染みの同心円文、そして貝割れ大根みたいな蕨手文が見える。通常の蕨手文は文字通り一方向に巻くような図形なのだが、こちらは左右対称。というか、このような「蕨手文」というか貝割れ文(?)は、極めて特異的ではある。

仙道古墳(朝倉郡三輪町)

こちらの朝倉郡は、正確に言えば筑前国。筑後川からは、結構離れた場所にある。浮羽町からは、筑後川を渡って、北西に向かう。この時点でお昼に近かったので、途中でラーメンを食す。

こちらの古墳だが、国道386号線のバイパス沿いにある。私が自宅から大分方面に例の如く一般道で向かう場合、甘木市街地を避けるこの国道386号線バイパスを利用する。最近になってここを通るたびに、「仙道古墳」という看板が設置されたことに気づく。その方向を見れば、整備された古墳公園があるではないか。今回の公開は、この仙道古墳も含まれることになっていた。

浮羽町の三古墳が、戦前からその石室の存在が知られていたのに対し、こちらはすでに石室が破壊された状態。どうやら、この石室の巨石の多くが持ち去られたらしく、中には持ち去るべく石に穴を開けたまま、断念してそのまま放置したものもあった。不幸中の幸いだが、泥の中から石室跡を発掘したところ、その壁面には微かに同心円文や鋸歯状文が残っていた。現在は復元された墳丘が造られ、石室と壁画はその内部に保存されている。

これまで文様を認識することができず、二タコを食らっていた私だが、ここの古墳ではしっかりと文様を確認ことができた。それにしても、同心円文の存在を確認すると、それがあたかも「眼」の如く、私を呪縛するかのごとく凝視して来るような、そんな感触を抱く。考古学ファンという闖入者に呪詛を仕向けるかの如く、同心円文が私を凝視し続けているようにさえ感じる。ちょっと怖い。安倍晴明判みたいだよ。これに比べれば、野外にある石室の実物大模型の同心円文なんぞ、烏避けの目玉にしか感じない。

なお、復元された墳丘の周りには、円筒型埴輪の復元模型が並べられている。その中には、盾持武人埴輪と呼ばれる埴輪の模型がある。これも遺跡から発掘された埴輪が原型で、鋸歯状文が刻まれた盾を胸にした武人を模している。というか、盾と埴輪の武人が一体化したかの如き、その珍妙な姿から、思わず「人間の盾」という言葉が漏れてしまった。

観音塚古墳(朝倉郡夜須町)

そして最後は、夜須町の有名な観音塚古墳である。複式の横穴式石室を持ち、船や騎馬などが描かれた壁画で知られる。但し、この古墳、他の古墳が平地に作られているのに対し、こちらは、よりによって山の中に造られたものなのである。そのため、この古墳にたどり着くためには、町役場の職員による山道の案内がなければならない。これでは役場職員に負担がかかるため、今回の公開は10:00と14:00の二回だけ。しかも、登山口は駐車場に難があるため、一旦町役場に車を駐車、そこから町所有のマイクロバスで案内される。

まず、その町役場に車を止め、受付を済ませる。その時の受付嬢、というより「ビッグ・ママ」と呼びたくなるような女性に、こう云われる。「この古墳、一度は訪れるべきですよ。でも、二度は訪れたくないって皆云うけど、アハハ」と。彼女の傍で休む、というより、疲労困憊のご様子の役場職員が、力なく笑う。説明によれば、片道で35分も歩かされるとのこと。こりゃまいったな。

ともかくも、マイクロバスに揺られ、登山口まで送られる。そこから、しっかり、35分間歩かされましたよ。こんなに運動したの、久しぶりだよ。こんなことを云うと、運動不足がばれるよ。それより、明日は筋肉痛確実だよ。

ようやくたどり着いた古墳は、周りの樹木を伐採すれば筑紫平野を一望できる、結構見晴らしのよさそうな所。麓の夜須町役場も見える。この古墳の被葬者の子孫が下界の夜須町に今も住んでいるならば、ここはまさに里に住まう人の先祖が登っていったところだろうか。春になれば、祖霊はここから里へ降って来て、田に蒔かれる穀物の種に入り込んだというところか。そして秋が来たら、この地に豊穣をもたらした祖霊は山へと還り、この古墳に戻るのだろうか。何だか、柳田國男のパクリみたいな、インチキくさい民俗学もどきではあるが。

このような古墳では、訪れる人も殆ど居ないということもあるのだろうか、ここでは役場職員の方が気前良く石室内部まで案内してくれた。そして、懐中電灯の光で、赤く象られた船の形を確認することが出来た。それも、一つや二つではなく。この古墳の築造は6世紀の終わりごろだという。この船団は、朝鮮半島南部における大和朝廷の覇権を支えるために、兵士を送り込んだ船の集まりだろうか。それとも、鉄や馬という権力と富の象徴を下界の里にもたらした、豊穣の船なのだろうか(反論したい方「来なさい」)。あれこれと想いは尽きない。

と、まぁ、結構至福な一日ではあった。さすがに、山を降りたころには、膝がガクガクいっていたが。

10月19日

「装飾古墳だヨ!全員集合」

なんともおちゃらけたような催し物ではある。しかし、これは福岡県の北筑後文化財行政連絡協議会及び加盟市町村教育委員会が主催する、「秋の歴史と自然探訪」の一環なのである。

内容は、筑後川流域に点在する装飾古墳を同時に公開するという、考古学ファンにとっては堪えられないイベントである。通常、デリケートで外気に弱い古墳石室の壁画を見学するためには、大概は個別の市町村教育委員会に事前申請してなければならない。だが、この日ばかりは現地に行けば、教育委員の説明付きで壁画を見学することができるのだ。これを見逃すような私ではない、早速逝ってみた。

但し、この日に見学できたのは、下記の古墳の石室のみ。来週の10月25日には、日岡古墳や珍敷塚古墳といった有名な装飾古墳が公開されるのだが、こちらは私の都合で逝く予定無し。

「感想」

実は、殆どの古墳が平地にあり、乗用車で現地に赴くことができる。しかし、最後の観音塚古墳だけは、なぜか山の中にある。登山口から歩いて片道30分、しっかり歩かされた。山を降りた頃には、膝が笑っている。

明日は筋肉痛確実。

10月18日

「城下町 飫肥」

例の続き。神戸・宇治の時のように、ダラダラと長引かせないように、今回の紀行文は早めに切り上げる。

飫肥

時間稼ぎをして、飫肥城前の観光駐車場に到着。途中のコンビニで買ってきた、「チキン南蛮ドッグ」をほおばる。なぜか宮崎らしいものは外さない俺なのさ。

国道222号線の新上熊トンネル近辺を上流とする酒谷川が大きく蛇行する、その半円状というか舌状の土地に、飫肥の町は存在する。そして、街より小高い尾根の上に、飫肥藩伊東家五万一千石の城である飫肥城が望む。さながら酒谷川は、外界からの侵攻を防ぐ堀にも見える。その飫肥は、初代の城主である伊東祐兵が豊臣秀吉から安堵されて以来、飫肥藩の城下町として、その風情を今に伝える。「九州の小京都」とも呼ばれる、観光の町でもある。

しかし、その飫肥城の容貌とは、「二の丸」toka「三の丸」tokaいった馴染みの区分けの為されない、おおよそ近世的な「城」とはかけ離れた様相を示す。城下は空堀で囲まれており、私たちが普段想像するような水のお堀は無い。そして、城屋敷のみならず、その裏手にまで、「曲輪」と呼ばれる空堀で囲まれた区画が存在したという。「本丸」と呼ばれた箇所(他に震災前まで本丸に使われていた「旧本丸」)はあるが、その場所に地形的な優位はさほどない。「松尾丸」と呼ばれる、「旧本丸」とさほど変わらぬ標高の場所もある。ここで見受けられる飫肥城とは、近世的な「城」の常識を惑わせるような所である。

実は、私はこのような「城」を、以前、見たことがある。青森県浪岡町の、奥州北畠氏の居城である、浪岡城である。こちらは城外とさほど標高差は無いものの、やはり空堀で囲まれた、「曲輪」と呼ばれる区画が並ぶ。中世から戦国時代にかけて、津軽が南部氏や安東氏などといった諸衆による戦乱の地となった頃の、中世的な城である。飫肥城との違いとは、北畠家が中世という時代と共に消え去っていったのに対し、伊東氏は中世が終焉した頃に入部したことであろう。

では、伊東氏とは何か。工藤祐経という『曽我物語』のある意味登場人物的な存在を祖先とし、鎌倉時代に地頭として入部した、鎌倉御家人の家である。鎌倉時代は日向国を領地とした北条氏と密接な関係を持ち、室町幕府成立後は足利家将軍との関係を保ち、日向国中部を中心としてこの地を支配した。ところが、日向国南部には、島津一円荘というとてつもなく広大な「荘園」を支配する島津氏が居た。室町〜戦国〜安土桃山の長い時代、伊東氏は島津氏と、日向国の覇権を争うのであった。この時点での飫肥は、島津氏側の武将が治めていた、島津荘寄郡の中の僅かな荘園に過ぎなかった。

永禄十一年(1568)、島津氏との諸々の戦いを優勢に進めていた伊東氏は、遂にこの飫肥城を手に入れる。転じて伊東義祐は、島津義弘が真幸院領主から奪取した加久藤城を逆に奪い取るべく、兵を西へ進める。しかし、元亀三年「木崎原の戦い」(1572)では壊滅的な敗北を喫し、天正五年(1577)までには伊東氏領内の城の殆どが島津氏に占領されてしまう。伊東氏主従は大友宗麟のもとへと落ち延びたが、その大友氏は天正六年(1573)の「高城・耳川の戦い」でこれまた島津義弘・義久軍の前に大敗する。この戦がもとで、大友氏は転落の道を歩み、伊東義祐は更に落ち延びた堺にて没する。

伊東氏が歴史上の復活を果たすのは、伊東義祐の息子の祐兵が、豊臣秀吉に近習衆として取り立てられてから。秀吉の九州討伐では日向への道先案内人となり、宿敵である島津氏に一矢を報いる。秀吉没後、「関ヶ原の戦い」(1600)では日向国で唯一最初から東軍として参戦した大名という功績によって、徳川家康に飫肥を安堵してもらうことが出来た。因みに、島津義弘は少ない兵員ながら西軍に与し、高橋・秋月氏は当初は西軍だったが、戦況を見極めて東軍にあっさりと寝返った。

奇跡の逆転劇を演じた伊東氏が得た飫肥だが、これを地図で確認すると、藩の境界の大半が長年の宿敵である島津氏と接していることがわかる。北西の高岡付近一帯は島津家の本家でもある鹿児島藩領、西には島津家の支藩である都城藩にそれぞれ接し、北東には僅かな幕領を挟んでやはり島津家支藩の佐土原藩が位置する。南西に接する串間(当時は福島と呼ばれていた)は、九州討伐から関ヶ原まで敵対関係にあった秋月氏の高鍋藩。飫肥という領域は、実は敵ばかりに囲まれていた土地なのである。しかも、鹿児島藩とは十七世紀になるまで境界争いが続いていた。「徳川の平和」とも呼ぶべき近世社会において、ここ日向国の片隅では、いつ泥沼の中世的な政治世界が復活するかもしれなかった。

これは、織田信長→豊臣秀吉→徳川家康という一方的な天下統一の流れによって筋立てされた、中央由来の「戦国史」とは異なる、九州発のもう一つの「戦国史」なのである。中世の山城という容貌を下部に秘めたこの飫肥城は、そのようなもう一つの「戦国史」の上に構築された、九州の近世史なのである。「九州の小京都」と呼ばれる端正な町並みとは裏腹に、飫肥には中央発の「戦国史」では必ずしも説明できない「歴史」が湧出しているのである。

飫肥城見物

見物は、城内にある「歴史資料館」、御殿を模したと云われる「松尾の丸」。それと、こちらは大手門の手前にある、廃藩置県後に知事となった元藩主伊東祐帰の屋敷であった「豫章館」、それと小村寿太郎を記念して建てられた「小村記念館」。

「歴史資料館」には、武具や刀剣や大名駕籠といった伊東家縁の物が展示されているが、地図好きな私にとっては「日向国絵図飫肥領図」が面白い。復元御殿であり、内部が見学可能な「松尾の丸」も悪くは無いが、個人的には「豫章館」とその庭園が良かったと思う。但し、こちらのほうは百数十年前の建物でもあり、内部の見学はできないが。枯山水の庭園は、残念ながらこの雨で水浸し。少々残念ではある。

なお、飫肥城には「本丸」の名の付く所が二箇所ある。高台の「旧本丸」は震災のため建物は無く、太くそそり立つ杉の木がここを覆っている。幕末まで御殿があった「本丸」は、現在は飫肥小学校の敷地となっている。貴重な文化財が眠っていると思われる所に公共施設とは、何と無神経なことを、と思われる方も居られるかもしれない。しかし、教育こそが近代における地域共同体に対する要請であり、学校とは地域における求心力でもあったのだ。それは、現在でも同様である。ある意味通時的な地域の求心力という意味で、城跡に建つ小学校というものは、決して悪くないものである。

あと、「小村記念館」では、永井哲雄「元禄期の日向飫肥藩」(みやざき文庫・鉱脈社)を購入。奥付には、1998年に初版発行、2003年に改訂新版発行とあった。こういう地方の本は、結構好きなので。

帰路

土産物の「おび天」と「厚焼卵」を購入して、飫肥を後にする。結局、滞在は7時から11時半まで。我ながら、落ち着きのない男だ。

帰路は、宮崎県高岡町まで県道、そこからは国道を直走り、えびの〜人吉〜八代まで一般道で粘る。さすがに、八代からは高速道を利用したが。

なお、買ってきた「おび天」だが翌日には食い尽くしてしまった。というより、自宅でくつろいでいると、ついつい冷蔵庫にふらふらと寄りかかり、「おび天」をつまんでしまう。これを繰り返していたら、無くなるのも道理。「厚焼卵」については、4日間かけて食べた。卵を食べ過ぎると、アレルギーが再発するためである。

10月13日

「城下町 飫肥」

昨日は飫肥まで往復してしまった。

理由は、南九州の城下町である飫肥に、一度でいいから訪れたいと、以前から思っていたこと。それと、ここの名物である「おび天」と「厚焼卵」が、急に食いたいと思ったから。どっかで聞いたような理由だが。

愛車パジェロイオ「猥褻物陳列罪」号

出発は0時ちょうど。到着は夕方の7時。

仮眠と観光以外は、ほとんど走りまくり。走行距離は750km。高速利用は、八代から筑紫野までの片道。相変わらずの、強行軍ぶり。

若いなぁ>俺。

走りながら思ったこと

夜の国道3号線は、貨物トラックが多い。高速代が払えない顧客の荷物が、我が物顔で走っていく。時には、煽られたりするときもあるし。

というか、高速代をケチる俺も悪いが。

走りながら思ったこと

佐賀県基山町付近のガソリンも安いとは思うが、熊本県松橋町付近のガソリンスタンドには敵わない。レギュラー89円は魅力的。

というか、FDHリーグ優勝記念価格かと思ったよ。王監督の背番号にちなんで、toka。

往路

八代からは、7月の時点では通行止めを喰らっていた、国道219号線を経由。この日は、片側通行禁止にまで回復。とりあえず、安堵。

ちなみに、熊本県坂本村にある「道の駅」で仮眠を取ろうとしたら、後から入ってきた車がカーステレオをがなり立てる。たまらずに、仮眠を中止、さらに走行。弱いねぇ、俺も。

結局、仮眠を取ったのは宮崎市高崎町付近の、国道221号線の脇の休憩箇所。さすがに眠い。

国道222号線

都城市と日南市を結ぶ国道。鹿児島県末吉町の高岡口というところを掠める以外は、殆ど宮崎県を通る。

昔は、日豊線都城駅から日南線油津駅まで、国鉄バスが運行されていた。JR九州に移管されたのち、宮崎交通に譲渡。今は、都城市と日南市の境界である新上熊トンネルを堺に、路線は途切れている。そういえば以前、この路線が廃止される直前に乗車してみたかったのだが、結局乗らないまま廃止を迎えてしまった。

今回通ってみて思ったが、はっきり云って沿線は人家が少ない。これではJR九州が路線を手放すのも、無理はない。しかも、道路事情が悪くバスの運転手任せにしていた頃と違い、今では殆どの人が自分で乗用車を運転できるくらい道路の状態は良い。悲しいかな、此れが現実だ。

日南市

国道を南下していくと、城下町飫肥に入る。朝の7時前。これでは、資料館の類はまだ開館時間ではない。油津の方まで、足を伸ばしてみる。

飫肥は城下町、油津は太平洋に面した港町として、それぞれ反映した街である。日南市が成立したのは昭和25年のことで、旧飫肥町・油津町を含めた三町一村が合併。何だか、福岡と博多、加納と岐阜の如き関係にも見える。

ちなみに、市役所は飫肥と油津の中間付近に設立。そこに近い場所にあるJR日南線の駅名は、「日南駅」。付近は宅地も多く、決して両者の妥協地点という風貌の土地ではなさそうではある。

油津

港のほうを見ようとしたら、突然に大雨が襲ってきた。おまけに高潮が来ているらしく、岸壁の水位が結構高いようにみえる。こりゃいかん、逃げよう。

ということで、JR油津駅で休憩。

駅の中には、日南線開通40周年記念のギャラリーが設置されていた。日南線の全面開通は昭和38年、飫肥の北にある谷之城トンネルが開通して、ようやく宮崎までの鉄路が結ばれたそうな。それまでは、鉄道は西都城経由を利用するしかなかったとのこと。そして、志布志〜北郷間は全通前は志布志線と呼ばれていた。ちなみに、志布志線は、国鉄改革の際に不採算路線として、JR発足前にあっさりと廃止。下手をすれば、巻き添えを喰ってこの区間の鉄路も廃止となったかも。危なかったねぇ、この路線。

(いつかは判らぬがとりあえず続く)

ちなみに

例によって、「おび天」と「厚焼卵」を購入。いつもは宮崎空港での購入だが、現地で購入すると、感激もひとしおである。

売店では真空パック入りも売られていたが、私は迷わず只のパック入りを購入。「おび天」は、口に入って広がる独特の甘さというかほろ苦さというか旨みが命。これが真空パックだと、水分としてテンプラの外にでて、汁となってしまう。これを開封時に捨てると、「おび天」自体が味気ないものに。南新宿の宮崎県物産ショップで売られている真空パックの商品は、これが欠点。というか、「買ってはいけない」、買うなら飫肥まで逝け。

10月11日

XMLで日本後紀

巻十九が掲載できなかった箇所を修正。テスト掲載は継続。

それより、私のパソコンから、アップロードができなくなってしまったのが問題。XPをインストールし直すべきか。


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