歴史関連の、総集編です。
11月2日の、メインイベント。
奈良市立美術館のあるイトーヨーカ堂奈良店を出て、奈良国立博物館へ向かう。国道369号線の大宮通りを東に進むバスに乗れば良い。バスを待つ時間を含めて、移動時間は20〜30分程度。各観光施設間の交通の便が決して良くない奈良の中では、この移動時間は極めて良い方に属する。
そういえば昔、このルートを逆に辿ったことがあった。奈良国立博物館の正倉院展を観覧したあと、当時は奈良そごうだったイトーヨーカ堂奈良店の真向かいにあった、これまた現在は閉鎖された奈良市史跡文化センターで観覧。そのあとは、くだんの奈良そごうで弁当を購入、平城宮大極殿跡で、青空の下で昼食。食後は、大極殿跡を廻って平城天皇陵を見物したのち、さらに西の奈良文化財研究所 平城宮跡資料館を観覧した。
本当は、今日は平城宮跡資料館側から出発したかったのだ。何故かと云うと、正倉院展期間中の奈良国立博物館は、開館時間が他の博物館に比べて遅く、午後4時に入館しても十分観覧が可能だからだ。それを逆算すれば、平城宮跡資料館→奈良市立美術館→奈良国立博物館のハシゴは十分に可能である。というより、博物館はどこもそうだが、閉館時間が午後5時辺りと早く、何時もスケジュールに苦労する。もっとも本日は、例の飛行機乗り遅れをやらかしてしまった以上、今更スケジュールも何も無いのだが。
いつもは近鉄奈良駅から奈良国立博物館まで徒歩で辿る道を、今回は路線バスで行く。バス停を降りると、博物館の入り口の近く。今年は移動が楽で良い。
この正倉院展、平成五年から私は毎年訪れており、今年で十二年連続の観覧となる。これだけ長く続けていると、名の知られた宝物は大概観覧しているように思えてならない。天平時代の美女像として有名な「鳥毛立女屏風」も観たし、光明皇后の性格が良く現れていると何かと言及される「藤三娘」の署名もこの目で確認しており、確かに有名どころの宝物は結構観覧したかもしれない。おまけに、過去に観た展示品に再会することも少なくない。再実際、会した宝物を前にすると、そろそろ毎年の観覧を考える潮時かなと思う時が有る。
しかし、高々十二年で正倉院の全てを観たと断言するのは、結構おこがましいことである。何しろ、毎年正倉院が開催されるたびに、初出陳の宝物が未だ登場し続けられているのだから。それに、世界で唯一と云われる「五弦琵琶」など、未だにめぐり会えぬ宝物はまだまだあるわけで、結局は未だに充分観覧し終えたという気分にはなれない。それほどまでに、正倉院の宝物は奥深い。それに、過去の私に当時観覧した宝物を語る能力が決して備わっていたわけではなく、宝物の意味への理解が不十分なまま過ごしていたかもしれない。実際、宝物を再度目にしたとき、過去の自分には無かった発想が思い浮かぶこともあるのだ。よって、なおも正倉院展を観覧し、そして語る余地はまだまだ充分にあるわけで。何しろ、今の自分でさえも、まだまだ宝物の意味への理解が十分であるとは思えないし。失笑。
まずは東新館から。そういえば、十二年前の当時は「東新館」は存在せず、現在の西新館のみで正倉院展の展示は行われていたのだ。現在では、目玉となるような宝物は東新館、文書や経典や雑多な所蔵品は西新館に分けて展示されているように見える。その、今回東新館に陳列された宝物は、テーマが音楽なのだろうか、多くの楽器、そして楽の旋律に乗って舞う伎楽の面などが展示されている。
そもそも共時態である音楽は、果たして博物館の展示が可能なのだろうか。何しろ、音楽も舞台芸術も、それらは演じられたその場その時でしか共有され得ないものなのであり、それ故に音楽等は共時態の域を出ることはない。そもそも、演奏等がなされた時空とはその場その時に創造されたものであり、例え再演がなされても必然的に生じる差異から逃れる事は出来ず、結局のところ完全なる再現は期待できない。演奏等がなされた時空に対し、外部からそれを完全に享受することは出来ない以上、音楽も舞台芸術の類が共時態の域を越え、通時態への回路を持つことは至極困難だ。例えそれらの録音・録画に成功したとしても、所詮は演じられた時空に外在するものでしかない。まして、そのような録音・録画機材の無かった頃の音楽の再現を目指すならば、ある種の絶望を覚悟しなければならない。
とは云え、ひとたび演じられた音楽や舞台芸術は、演じられたことを出来事として語ることによって、いとも簡単に通時態と成り得るのも、これまた現実である。或いは、ひとたび演じられた時空の痕跡を遺すことで、そのような遺物から湧出する出来事の語りを期待する事も可能なのである。ともすれば通時態に対し叛逆し殲滅を目論むことすらある、結構恐ろしい共時態を指向する音楽や舞台芸術だが、同時に対立関係にある通時態を意図せぬうちに生み出す、そんな装置とも成り得るのだ。そして、共時態としての完全なる再現がぶっちゃけ有り得ない決して有り得ないにも関わらず、私たちは何かと過去の演奏に対する語りを期待する、そういう傾向がある。なれば共時態の痕跡は、通時態を希求する側の意思にとって、格好の材料となる。勿論、それは共時態を構築しようとする側の意図に外在するものであり、時には共時態を奉じる側を逆撫ですることでもあるのだが。
天平時代において実際に演じられたであろう音楽・舞台芸術だが、その遺物を「寺宝」として大切に保存する行為は、まさに通時態への意志の表出なのである。そして、今こうして私が観覧している「正倉院展」のように、遺物が配置・陳列された会場とは、通時態が生み出される現場なのである。ここで展示された楽器で奏でられ、伎楽面で演じられた舞台は、華厳の教えという、もしかしたらこの世の外部を指向して企画されたものなのかも知れない。それは、自らを「三宝の奴」と称した聖武天皇が望んだ、通時態とは別の指向である可能性が高い。しかし、仏教に深く傾倒し、この東大寺を建立した聖武天皇を表彰することで、東大寺という同一性は成立する。正倉院に収められた聖武天皇の「聖遺物」は、そのような通時態を維持する為の格好の対象と成り得るのだ。
まぁ、ゴタクはともかく。ここで言及する宝物を示しておく。
まずは、「楓蘇芳染螺鈿槽琵琶」と「紫檀金銀泥絵琵琶撥」。琵琶と撥の組み合わせで、一つの楽器となるのだろう。前者のほうは、幾つか正倉院に遺されている琵琶の一つで、そのうちの四弦のもの(五弦ではない、残念)。本体の裏側になる「槽」などには、唐草文様の一種である「宝相華」、そして花喰鳥、蝶、雲など、天上世界の如き図柄が、螺鈿と玳瑁で表現されている。一部剥れている螺鈿の部分を見る限り、当時の国産のものとは思えぬほど薄い材料が使用している模様である。そして、弦を張った側の面である「捍撥」の部分には、白象に乗って楽を奏で舞い踊る四人の胡人を中心とした、山水画が描かれている。この異国情緒の趣がある絵画は騎象奏楽図と呼ばれ、唐朝において人気があったものだそうだ。この絵画は今年の図録で表紙を飾っており、本品は今年度「正倉院展」の目玉と云って良い宝物である。
それにしても、象の実物を動物園等で知っている私たちから見れば、何とも奇妙な絵画ではある。象が如何に巨大な生物であるとは云え、四人もの人が背中に乗るとは少々信じがたい。おまけに、一人は片足を振り上げ、自分の腕よりも長い袖を振り回しながら踊っているのだが、そんな動作が実際に可能なはずがない。しかし、異国情緒がもたらす世界とは、現実世界における常識に外在するものであり、寧ろ有り得ない夢物語の引き受けを可能とするのが、異国情緒というもの。そもそも楽器とは、音楽という現実の外部を現前可能とする装置なのであり、通時態への叛逆をもたらす武器なのである。この山水図とは、そのような楽器なるものの本質を描いているように、私は思えてならない。
あと、後者の撥は、紫檀に金泥や銀泥で花や草木の図柄をあしらったものである。但し、この撥は演奏に使用された痕跡はないとのことで、単なる装飾品して製作されたのかも知れない。
(続く、かも知れない。)
新潟県立歴史博物館(長岡市)に展示されていた土器が中越地震で壊れ、はがれた表面の下に別の文様があったことが21日分かった。同館の学芸員が修復中に気付いた。
この土器は約5000年前の縄文時代中期に作られた「加曽利E式土器」。11月3日、同館学芸課の宮尾亨さん(39)が修復しようとしたところ、表面のはがれた部分から表面とは別の縄の文様があることに気付いた。表面は縄を縦方向に転がして付けられているが、見つかった文様は別の縄で横に転がして付けられていた。中央部を一周するように付けられているという。
瓢箪から駒。文様の下に文様。
宮崎県教委は十七日、国の特別史跡・西都原古墳群(同県西都市)内にある陵墓参考地「男狭穂(おさほ)塚古墳」(墳長一五四・六メートル)の地中レーダー探査に着手した。隣の「女狭穂(めさほ)塚古墳」(墳長一七六・三メートル)も含め、形状や築造時期を調べる三カ年事業の一環。天皇や皇室ゆかりの墓と推定される陵墓参考地の地中探査を、宮内庁が全国で初めて認めた。
男狭穂塚は前方部の形状が判然とせず、前方後円墳やその一種の帆立貝式古墳、あるいは円墳ともいわれている。県教委は一九九七年、宮内庁の許可を得て測量しており「今回の調査と照らし合わせ、築造時の男狭穂塚の形状を確定したい」と成果に期待している。
この日は午前十時半ごろ、職員ら約十人が陵墓敷地に探査機を持ち込み、調査を始めた。今回は十八日までの予定で、前方周溝部の一部四千五百平方メートルを探査する。地中からの反射波を解析し来年三月下旬、中間報告を出す予定だ。
二〇〇五年度は、寄り添うようにほぼ隣接する女狭穂塚との境界区域を地中探査する。
コノハナサクヤヒメの墓と伝承される女狭穂塚は九州最大の前方後円墳だが、一連の調査で、ニニギノミコトの墓と伝えられる男狭穂塚が前方後円墳となれば、後円部の規模の大きさから推して女狭穂塚を上回る。さらに、帆立貝式古墳や円墳と判明すれば、国内最大級となるという。
男狭穂塚を初めて見たとき、その命名に大きな違和感を感じずには居られなかった。通常、男と女が並んでいるのならば、大きい方に男の名前を付けるはずではないか。なのに現実は、墳長が長いのが女狭穂塚の方であり、男狭穂塚は女狭穂塚よりも墳長が短い。そもそも、「帆立貝式古墳」という分類自体、何だか収まりがつかない形状ではある。私としては、後世における改変の可能性を考慮した方がいいのではと、お節介なことを考えたのだが。
どうやら、男狭穂塚が後世の改変と推定している人は、どうやら私だけではなかった様子。少々安堵。
国内最古の木造建築で世界遺産に登録されている法隆寺(奈良県斑鳩町)の南大門前で、七世紀前半の焼けた壁画の破片が多数見つかり、同町教委が一日、発表した。現在の法隆寺の前身で、聖徳太子(五七四−六二二年)が建立した「初代・法隆寺」とされる若草伽藍(がらん)の金堂に描かれていた壁画の可能性が高く、現存する法隆寺金堂壁画(八世紀前後)を一世紀近くさかのぼる国内最古の壁画と確認された。高温の火を受けた痕跡もあり、日本書紀に記された「法隆寺炎上」の記述を初めて裏付ける一級の資料となった。
調査は法隆寺門前広場の整備に伴って、南大門のすぐ南東約二百平方メートルで実施。白や濃い灰色などで描かれた曲線やしま模様、彩色のある三−五センチ大の壁の破片約六十点が見つかった。
これらの破片を蛍光エックス線分析したところ、顔料に含まれる鉄や銅などを検出。壁画は当初、酸化鉄(ベンガラ)を使った朱色や銅を含む緑青などが塗られていたことが判明。極彩色壁画の破片と分かった。
同時に出土した瓦から、壁画は東約百メートルに位置していた若草伽藍の、金堂か塔に描かれていた可能性が高まった。
何が描かれていたかは破片が小さいため不明だが、町教委では仏教絵画が描かれていたと推測。現在の法隆寺金堂壁画より線が細く模様が小ぶりなため、多数の仏像などを小さく描いて配したとみられる。
壁画片の中には、聖徳太子が往生した天寿国を表現した、国宝「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」(中宮寺、七世紀前半)に描かれた人物像のスカートや蓮(はす)の花にそっくりな図柄があった。
また壁画には、下書きの細い線刻も確認。下絵を壁に押し当てて、上からヘラで輪郭をなぞって最後に彩色していたとみられる。同様の技術は、現存の金堂壁画やキトラ古墳壁画(同県明日香村、七世紀末−八世紀初め)にもみられる。
今回の一連の発見で、日本書紀の六七〇年四月三十日の項目にある「夜半之後(あかつき)に、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋(ひとつのいへ)も余ること無し。大雨(ひさめ)ふり雷震(いかづちな)る」との、法隆寺炎上の記述を裏付けることとなった。
国内の古代寺院の壁画は、法隆寺金堂壁画とほぼ同時期で菩薩(ぼさつ)像などが描かれた上淀廃寺(鳥取県淀江町)など数例しかない。
◇
千四百年の時を越え発見された法隆寺の彩色壁画とみられる破片。本来、水に溶けやすく変化しやすいが、皮肉にも、伽藍を焼いた激しい炎で顔料部分が七宝焼のように変化し、歴史の証人として残った。
寺院壁画は、下地に白土を塗った上に描く。キトラ古墳(奈良県明日香村)の壁画などで下地に使ったしっくいと異なり、白土はきめが細かい。絵は描きやすいが溶けやすく、建物が朽ちて倒れれば水に溶け、壁とともに土に戻る。
だが炎に包まれると焼き締められ、顔料も金属化。水にさらされても変化せず、保存される。法隆寺の壁画片は、顔料の部分がまるで七宝焼のようになっていた。
平成三(一九九一)年に上淀廃寺(鳥取県淀江町)で出土した菩薩や神将像を描いた壁画も、十世紀の火災で残ったとみられる。
白鳳時代になると地方豪族が次々と寺院を造営、天平時代は国分寺が建立されるが、飛鳥時代の寺院は少ない。火災に見舞われたことで、壁画が残ったのは、まさに奇跡だったといえる。
今時、「若草伽藍」炎上という出来事を否定する人が居るとは思えないけどね。
だからと云って、「法隆寺は聖徳太子が建立した寺」という神話を否定するわけでは、決して無い。例え建造物が大災厄によって破壊されたとしても、法灯即ち法隆寺という通時性への意志があればこそ、法隆寺自体の連続性は担保されるのである。建造物とは所詮は意志の表象であり、意志があればこその再建が可能なのである。逆に、建造物という表象如きを連続性の担保と見看すのは、不適当であると云わざるを得ない。なればこそ、法隆寺を「法隆寺は聖徳太子が建立した寺」という神話の不成立を論うのは、決して賢明ではないのである。
伊勢市中村町桶子の桶子遺跡を調査している皇学館大学の岡田登教授は29日、弥生時代後期(2〜3世紀)のものとみられる銅鐸(どうたく)の破片(縦1・75センチ、横上1・55センチ、同下1・95センチ、重さ5・9グラム)一つを発見したと発表した。「皇太神宮(内宮)が作られる前の状況を示している可能性が高い重要な発見」と話している。
岡田教授の説明では、銅鐸の一部は昨年5月中旬、近鉄五十鈴川駅から南に約60メートルの畑の中で見つかった。銅鐸外側に突き出た鰭(ひれ)部の一部で、のこぎりの歯状の鋸歯文(きょしもん)と、縦線が3本ある外周3条突線の文様がある。近畿周辺で製造されたものと見られ、大きさは高さ90センチから1メートルの一部という。
11月15日、奈良県生駒市の元興寺文化財研究所の保存科学センターで、蛍光X線で分析の結果、弥生時代の青銅器の金属組成と分かった。
「日本書記」や「皇太神宮儀式帳」などの6世紀後半以前に、皇太神宮が創始されたことは考えられないとする説と、それを認めず、創始は6世紀前半ごろとする通説がある。
岡田教授は、「銅鐸が出土する遺跡の多くは、各地における拠点集落で、今回も宮川右岸における拠点集落であった可能性が高い。諸説ある伊勢神宮(皇太神宮)の創始時期や国家史を考える上で重要な発見」と話している。【木村文彦】
「伊勢神宮は有史以来」。なんちゃって。
弥生時代における五十鈴川河畔の祭祀施設と、伊勢神宮との同一性はともかくとして。内宮は、常民が住まう伊勢と、海民という非常民が住まう志摩の境界上に存在する、云わば結界の如き場所である。そのような内宮における「神話地理学」(謎)が、どの時代まで遡及可能かは判らぬ。しかし、実際のところ銅鐸は、山奥の如き場所に埋葬される事例が多いのであり、結界を仕掛けるために使われたと看做す人も多い。ここは、内宮が秘める「境界」への指向を、私は見て取りたいと考える。
青森県八戸市にある平安時代後期の蝦夷(えみし)の集落跡・林ノ前遺跡から出土した金具が、兵庫県社町の清水寺で発見されたもの以外に例のない型をした、刀の柄の部品(刀装具)であることが、30日までの青森県埋蔵文化財調査センターの調査で分かった。
清水寺の刀は国の重要文化財に指定されており、今回の刀装具は、当時の東北地方住民で朝廷から異民族視されていた蝦夷と、朝廷側との関係を考える貴重な資料となりそうだ。
この刀装具は銀ぱくを施した銅製とみられ、縦約4・2センチ、横約1・6センチのだ円形。刀の柄の部分に取り付ける道具と考えられ、表面には竹の節をかたどった凹凸が4カ所ある。住居跡の外側から見つかった。
例え対立した政治集団同士だとしても、交易は成り立ち得る。場合によっては、沈黙交易という手段があるのだから。但し、物流コストは高くなるけど。
続き。
落地(おろち)飯坂遺跡については、既に6月10日の日記にて言及済み。というか、速報展でこの遺跡の展示を観ることができ、少々こそばゆい。
この落地飯坂遺跡は、宮都と大宰府を結ぶ官道である山陽道に設置された、野磨駅家の跡とされている。この野磨駅家は播磨国で最も西側にあり、ここから南西に4km程山陽道を進めば備前国に入ることができる。また、この駅家だが、清少納言が『枕草子 第二百二十五段』にて「あはれなる駅
」の代表として取り上げているほど、有名な駅家であったようだ。また、「おろち」という地名が示す通り、『今昔物語集』では大蛇が出現した山の駅とされている。官道と駅家という歴史地理ネタのみならず、古典文学ネタをも満足させる、結構貴重な遺跡ではある。
とはいえ、展示内容は発掘現場の写真と、官道との位置関係を含めた駅家遺跡遺構図ぐらいなもの。遺構図には、今回発見された、官道に面した西門や築地塀が示されている。しかし、できれば上郡付近の古代山陽道を示すなど、もう少し展示に工夫が欲しいと私は思う。この点は、少々残念。
こちらの潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡は、昨年11月1日と今年8月25日の日記にて、二度言及している。但し、速報展での展示は、去年報道された装飾品工房跡の方。この時私は、「バタイユ的な『消尽』を行い得る求心力としての、『伊都国』における栄華の痕跡
」などという適当な解説を付け足した。それが今回、その「巨大な『マンダラ国家』
」における表象の痕跡を観覧する機会に恵まれたわけ。
潤地頭給遺跡自体は、弥生時代中期からの遺跡であるが、今回の装飾品工房跡は弥生時代終末から古墳時代前期にかけてのものだそうだ。泥沼の自力救済的世界であった弥生時代の終焉を告げるかの如く、展示品の中には山陰系の甕形土器や、庄内式二重口縁を模したような壺形土器が有る。土器生産における自力救済体制を克服したとされる時期の畿内の庄内式土器が、九州それも「伊都王国」の地で発見されたことは、拡張指向を見せ始める大和の朝廷の九州における存在を想定することができる。それはまた、この装飾品工房跡が、「伊都王国」という「巨大な『マンダラ国家』
」の、最期の栄花であることをも示すのである。
発掘された遺物としては他に、碧玉や水晶の原料や、製作途中の装飾品、そして装飾品を加工するための砥石が展示品されていた。材料となった碧玉や水晶が割られ、成形の為にさらに削られ、砥石で磨られて成形され、糸を通す穴が貫かれ、装飾品となる、その行程途中の半製品が出土したとのこと。弥生時代末期の王国における、工房での装飾品製作過程がよく判る遺跡である。そのようにして出来上がった装飾品は、やはり王権の属性である「気前の良さ」を表出するために「消尽」され、或いは何処かの首長へと付与されたのだろうか。少々悲しいのは、そのような工房を支配した弥生の王権が、既に語り得ない闇の向こうに放逐されたという、歴史的な現実である。
考古学の報道ばかり追っていると、報道記事というテクストにて記された事柄のみが考古学の成果であるような、そんな失礼極まりない錯覚に陥ってくる。もちろん、考古学の成果が報道されればこそ、世の人々に受容される機会を得ることができるわけで、報道行為そのものが非難されるべきものではない。とはいえ、世間の人々が考古学の成果について口にするとすれば、そのようなセンセーショナルな記事の内容に限られてしまっているのも、悲しい現実である。その結果、世間に絶えず供給され、消費されていく多くの報道記事の如く、考古学の成果すらも世間による消費の対象となりかねない。
「あの遺跡の今」という企画は、考古学の成果が消費の対象になりかねないという、考古学界が抱く危機感を結構表しているように見える。というよりも、タイトルを「あの芸能人の今」に換えれば、一発屋芸能人のその後を追跡するようなゴシップ記事のタイトルになってしまう。毎年発見される遺跡の類が、世間に消費される芸能人と同等に扱われかねない、このタイトルにはそういった危機感と、ある意味開き直った自虐性が見え隠れする。ともかく、報道記事の消費という現代の病理を示唆していると云う点で、このタイトルが持つ意味は決して軽くはないはずだ。
展示されているのは、過去の展示の中から各時代ずつ一つ、現在も猶情報の発信が続けられている遺跡である。いずれの遺跡も、該当時代の研究に極めて重要な遺跡で、かつ今でも発掘活動が続けられていたり、あるいは史跡の整備が進められている。そういう意味で、これらの遺跡は継続的な考古学的活動として語られるべきものなのであって、決して一過性の出来事の中に位置づけられてはならぬ。
大規模な集落跡が発見された青森市・三内丸山遺跡や、弥生人の脳が発見された鳥取県青谷町・青谷上寺地遺跡は、考古学ファンであれば知らぬ者は無い遺跡であろう。かく云う私も、両遺跡ともに訪れており、特に後者については、町の展示施設にて弥生人の脳をこの目で確認したことがある。この企画展でも、話題となった脳は展示されており、このような場所で再会するというのは、何とも云えぬ気分ではある。この青谷上寺地遺跡は、山陰高速道建設に伴う事前発掘で発見されたものであるが、その山陰道はすでに開通し、当時の発掘現場は既に道路の下である。しかし、現在では発掘範囲を広げて活動自体は継続されているとのことで、そういう話を聞くのは結構嬉しいものである。
再会といえば、長崎県鷹島町の「てつはう」も同様である。こちらは、三年前の熊本県立美術館(本館)「蒙古襲来絵詞展」での展示で見たことがあり、「蒙古襲来絵詞」に登場した実物としてこの「てつはう」が展示されていた。同時、NHK大河ドラマで「北条時宗」が放映されており、それに連動した企画展だったと記憶している。しかし、ドラマ自体は一過性のものとして終ってしまったが、鷹島海底遺跡での発掘は断続的ながらも継続されており、来寇した元軍に関する研究に貢献しているとのこと。
逆に、飛鳥については、私はここ10年くらい訪れていない。飛鳥について言及するならば、生半可な書物の知識のみでは覚束無く、今猶継続されている発掘活動の成果を参照しなければならないからだ。それほどまでに飛鳥での発掘活動の成果は質・量ともに膨大なもので、毎年のように新たな考古学的な発見が報道されている。この企画展では、飛鳥池工房遺跡の「富本銭」や製造に使われた坩堝、川原寺跡出土の銅製品鋳造に関連する遺物、そして、酒船石遺跡での亀形石槽のレプリカなど、報道等で話題となった遺物が展示。猶、飛鳥ではこれらの遺跡が続々と史跡指定を受け、その領域は拡大を続けている。発掘活動の連続性という点では、飛鳥はこの企画展に相応しい遺跡と云えよう。
今年は他にも、多賀城市「市川橋遺跡」や青森県市浦村「十三湊遺跡」など、興味深い遺跡発掘の展示が多かった。前者は陸奥国府に隣接しており、山王遺跡と同様に陸奥国府の都市遺跡として極めて重要な遺跡である。また、後者は安藤氏の居館が有ったとされる場所で、日本海沿岸との貿易によって栄えた湊町の遺跡である。前者の遺跡は、西の大宰府と同様な東の古代都市という点で、私としては興味深い場所、実際に行ってみたい場所でもある。後者はすでに訪問済みだが、十三湊遺跡の意味を捉えなおす為にも、もう一度行ってから語ってみたいと思う。
11月2日の旅日記。
去年の展示に味をしめて、今年も行きます「新発見考古速報展」。但し、今年は九州での展示は行われないということで、展示会場まで遠出しなければならない。それが、「奈良市立美術館」での展示期間が、奈良国立博物館の「第56回正倉院展」と同時期であることが判明。よって、毎年奈良に訪れているこの時期に、観覧を決定した次第。
なお、今年は11月3日の祭日を挟み、二泊三日で関西を旅行。これだけ余裕のあるスケジュールであれば、今年は良いものが観覧できる、はず。
しかし、今年は最初から躓いてしまった。往路の飛行機に乗り遅れてしまったのだ。しかも、パック旅行のチケットなので、便の変更が出来ない。結局、泣く泣く新幹線「のぞみ号」の切符を購入、関西に乗り込むことに。奈良に到着したのは、予定より1時間遅れのお昼過ぎ。近鉄奈良線の新大宮駅で下車、「奈良市立美術館」へ向う。
「発掘された日本列島2004−新発見考古速報展」の会場である「奈良市立美術館」は、イトーヨーカドー奈良店の五階にある。この場所は云うまでも無く、以前に経営破綻した「奈良そごう」の敷地なのである。そして、この施設の建設前に行われた遺跡の発掘によって発見されたのが、平城京左京二条二坊、あの長屋王の邸宅とされる遺構なのである。
「長屋親王」銘の木簡など、これまでの歴史を塗り替えるような発見が相次いだ長屋王邸宅遺跡。しかし、残念ながら遺跡は、百貨店建設によって破壊されてしまった。何しろ、建設工事で7mも地面を掘り込んだというから、最早遺跡の復活は望めない。このような結果に対しては、遺跡の保全と活用を望んだ多くの古代史ファンから、怨嗟の声が相次いだという。その怨念ゆえなのかどうかは知らぬが、やがて「奈良そごう」は経営不振に陥り、ついに閉館へと追い込まれてしまった。そのような結末について、古代史ファンの間では、「長屋王の呪い」などと呼ぶ声もある。
因みに、百貨店の建物の北側には広大な駐車場があるのだが、この八坪もの区域はまだ発掘が行われていないとのこと。イトーヨーカドー奈良店が開店するまでに、この区域で発掘があれば良かったとは思ったが。まぁ、この区域の下に眠っている遺跡は、後世の私たちの楽しみに確保しておくのも宜しかろう。世の中、そう悲観することはないのである。
五階に上がる。飲食店や英会話学校などのテナントが並ぶフロアの一角に、奈良市立美術館はある。しかし、百貨店の最上階にある美術館というのは、何だか催し物会場みたいで、どこか味気ない。というより、私たちが通常抱く美術館という印象といえば、美術に対する啓蒙活動への意思を体現するかの如き、目一杯美術的な装いを凝らした建造物だろう。そのような、およそ非日常的な建造物に、入館という手続きを経ることによって、私たちは美術における新たなる知を受容する契機を持つのである。それに比べると、この奈良市立美術館は、非日常性どころか日常的なお買い物の延長に寄ることができるという点で、啓蒙への契機という点では結構損をしているような気がする。
以下、面白かった展示から、幾つかピックアップしてみる。
前者は縄文時代草創期の遺跡で、速報展では、矢柄を研磨するための砥石が出展されていた。蒲鉾の如き長く大きな二つの石で、蒲鉾の板に相当する箇所には長い溝がある。この二つの石を蒲鉾板の面で合わせ、溝に当る箇所に矢柄を入れ、ゴシゴシと扱いて矢柄を研磨するためのものだそうだ。完全な形で発見されたため、結構貴重な遺物となっているので、岩質は明らかになっていない(調べるためには岩を割る必要がある)。説明では、砂岩質であるとの推定がなされている。
後者の方は対照的に、江戸時代後期に相当する遺跡。本町は、城下町松本の善光寺街道沿いにある町人地に相当する場所である。十九世紀初頭に発生した火災によって被災した町屋の遺構らしい。出展されていたのは、その遺構から大量に出土したという、被災を受けて廃棄されたとみられる未使用の砥石である。この遺構は砥石の問屋だそうで、砥石の産地は群馬県甘楽郡南牧村だとのこと。近世の上野国と信濃国の間における流通の痕跡をよく現している、格好の遺跡だそうだ。
同じ長野県より、時代は違えど砥石という遺物が出展されているというのは、やはり企画側の受け狙いだろうか。というか、面白い組み合わせではある。
こちらは、近世初頭の遺構。大阪冬の陣における和睦の条件として、埋め戻しがなされたのが大阪城の外堀だが、今回の展示となった遺構は、その時に埋め戻されたと推定されている外堀の一部。NHK大阪及び大阪歴史博物館のある建物の北側に位置する場所で、東側の道路を越えれば、そこは現在の大阪城の深い堀、南大濠がある。この現代の南大濠が、もっと西側寄りに作られていたならば、遺跡は破壊されて今回のような発見は無かったであろう。
出土したのは、外堀を埋めた時に使われた、当時における建設廃材やゴミが主である。中には、刀傷を受けて頭蓋骨に欠損個所がある頭骨、莚巻きにされた白骨死体の他、遺体に握らせたらしい数珠なんてものも出土したそうだ。建設廃材は、大阪冬の陣後の協定に基づいて破壊した、大阪城の防御施設も含まれているのであろう。その下からは、「障子堀」と呼ばれる、底面に不規則に土杭を掘り込んだ防御用施設が見つかっている。
この遺跡から出土した出展品のうちで、非常に心引かれたのは、瓦である。なにしろ、出展されていた巴紋の軒丸瓦や十弁菊丸瓦には、金箔が施されており、その豪華さに何とも云えぬ気分にさせられる。その煌く金色は、出土品という由来を感じさせないほどである。安土桃山時代の体現者とも云うべき豊臣秀吉に相応しい、何とも豪華絢爛な装飾を予感させる、出土品ではある。金は通常ならば腐食も変色もせぬ金属、この出土品の輝きは、往時の輝きなのだろう。歴史的な「くず」から湧出する「アウラ」を説いたのはベンヤミンだが、ネタは黄金の出土品だったに違いない、と私は確信している。
但し、全ての面に金箔が施されているわけではない。巴紋ならば三つ巴の部分や、菊丸瓦ならば菊の花弁と中心のみで、その外側は黒くすすけた状態。もしかしたら、金箔が施されていない部分は、それ以外の色が塗られていたのではないだろうか。その点を質問しておけばよかったと、後で後悔。
中世の遺跡に関する博物館の展示を観覧するたびに気づくのだが、珠洲や瀬戸・常滑など、現代でも陶器で有名な地域のものが多い。実際、鎌倉や多賀城等の中世の遺跡でも、瀬戸や美濃の焼き物は多く見つかっている。自力救済の世界として、何かと弥生時代と取り上げられる中世の時代だが、こと流通に関して言えば全く様相を異にしているのが現状だ。或いは、中世という流動化する政治体制下で、流通に携わる人々のその商魂に、寧ろ、感服したくもなる。尤も、そういう時代だからこそ、流通は大きな博打であり、そこに人々は魅せられたのかも知れぬが。
その、常滑焼等の流通に携わった人々の、商魂というか意思を現前させた遺跡が、この阿豆佐和気命神社境内祭祀遺跡である。瀬戸・常滑から伊勢湾を抜け、鎌倉に海路で赴こうとする場合、伊豆半島の沖で進路を東から北へ変えなければならない。そのための目標となりそうな場所が、伊豆七島の利島なのである。何でも、海上から利島を望むと、その円錐形の美しい形を見ることが出来るため、古来よりこの島は航路の目印であったという。なれば、流通に携わる海の人々は、そういう島に感謝の念を示さねばならない。かくして、利島の阿豆佐和気命神社境内では、古来より航海安全の祭祀が執り行われたらしい。この速報展では、そのような祭祀において奉納されたと推定しうる発掘品が展示されている。
この阿豆佐和気命神社境内祭祀遺跡は、平安時代末期から江戸時代初期の十七世紀に至る、長い期間に及ぶ祭祀遺跡である。奉納という行為を伴う祭祀遺跡という点では、福岡県の沖ノ島遺跡にも似ているかも知れぬ。その沖ノ島同様、多くの鏡(利島の場合は和鏡で、国外産の鏡が多い沖ノ島とはこの点で異なるが)が発見されているのも、祭祀の連続性という点で興味深いところである。また、流通に携わる人々が運んできた、常滑・瀬戸の陶器や、中世日本の代表的通貨である北宋銭も、発掘されている。但し、奉納された銭貨の中には、質の悪い無紋銭も紛れ込んでいた。ここいら辺は、商売人のケチ臭いところが現われて、結構笑わせてくれる。
(今度こそ、続く、と思う。)
文化審議会(高階秀爾会長)は十九日、新たに史跡十三件、名勝二件、天然記念物一件の計十六件を指定するよう中山成彬文部科学相に答申した。
九州・山口からは津屋崎古墳群(福岡県津屋崎町)や角牟礼(つのむれ)城跡(大分県玖珠町)など史跡四件。名勝の新指定には、宮沢賢治の作品に登場する岩手県花巻市などの「イーハトーブの風景地」が盛り込まれた。
津屋崎古墳群は五世紀前半から七世紀前半にかけての古墳群。中でも七世紀前半築造の宮地嶽古墳は、長さが全国屈指の二十二メートルの横穴式石室をもち、国宝に一括指定されている金銅製の壷鐙(つぼあぶみ)や鞍(くら)金具などが出土している。
角牟礼城跡は十五世紀中ごろには史料に登場。豊臣秀吉の治世下、家臣の毛利高政が入城して一時代を築いた。穴太(あのう)積みの高さ約七メートル、長さ約百メートルに及ぶ石垣などが残っている。
このほか九州・山口では、七世紀後半に北部九州防衛の一翼を担った唐原山城(とうばるさんじょう)跡(福岡県大平村)と、古墳時代後期の四基の前方後円墳からなる野津古墳群(熊本県竜北町)が史跡に指定される。
宮沢賢治が理想の大地として名付けた「イーハトーブ」を構成する鞍掛山(くらかけやま)や七つ森、狼森(おいのもり)などは、今も美しい風景を残している。
津屋崎古墳群の被葬者とされる政治勢力は、宗像氏とされている。高市皇子のおかんの実家と云えば、ピンと来るだろうか。宮地嶽古墳の横穴式石室が示すその政治力は、大和朝廷との繋がりを想像させるものである。
佐賀市金立町にある縄文時代早期(約七千年前)の「東名(ひがしみょう)遺跡」から、同時代の遺跡としては、日本で最大級の貝塚群や、木で編んだかごなどが発見されたことが十八日、分かった。同日発足した同遺跡群調査指導委員会(会長・甲元真之熊本大教授)で報告され、委員会では「縄文早期の定住生活の可能性や、技術力の高さを探る上での貴重な発見」としている。
遺跡は一九九三年から同市教委が発掘を開始。九四年には人骨が出土するなど、墓と集落の一部が見つかっていた。昨春、調整池の整備事業の工事をきっかけに、五つの貝塚が出土。面積は合計で千二百五十平方メートルになり、同委員会によると、「縄文早期の貝塚自体、九州では数例しかなく、全体の規模がこれだけ把握できる遺跡は全国でもまれ」という。
貝塚の周辺からは土器片や貝の腕輪などのほか、石斧(せきふ)で加工し編み込んだ木製のかごやイノシシの牙に小さな穴で紋様を彫り込んだ装飾品などが見つかった。木製のかごについては「国内の縄文早期の出土品ではつるで作られたかごがあるが、木を精工に薄く切って製作したものは極めて珍しく、当時、高い技術を持っていたことがうかがえる」としている。甲元教授は「これほど大きな縄文早期の貝塚が集落、墓とともに発見されるケースはほかにない。縄文人の生活様式や定住生活の可能性を探る貴重な遺跡だ」と話していた。佐賀市教委は今後、約二年間かけて、本格的な発掘調査を行う方針。
佐賀市金立町といえば、移転させた竪穴式古墳がある長崎高速道・金立サービスエリアなど、古墳時代の遺跡が豊富な地域。或いは、町の北側にある金立山は、佐賀県における徐福伝説で有名な場所でもある。どちらかと云えば弥生・古墳時代の印象が強い佐賀市金立町だが、縄文時代早期とは何とも意外ではある。そもそも、金立町は背振山系の南斜面の真下で、現在の私たちからすれば結構内陸に位置する。そんな場所で貝塚が発見されたというのも、意外といえば意外。
古代の金立山は、何か海と関係のある場所なのであろうか。
奈良市が本年度に予定していた市史跡文化センター(同市三条大路1丁目)の解体工事が年度内に行われるのは事実上困難となり、来年度にずれ込む可能性が強まっている。敷地は全国で7カ所しかない特別史跡・特別名勝のダブル指定地。奈良時代の庭園施設だった所で、地下遺構を傷めないよう、建物基礎部分の杭(くい)を残したままの解体工事が条件。そのため手作業を含む丁寧な撤去作業となり、工費も本年度予算の8200万円を大きく上回る見通し。市は新年度予算にあらためて組み込むことも視野に、検討している。
史跡文化センターは国の特別史跡・特別名勝「平城京左京三条二坊宮跡庭園」の一角に昭和57年に完成したが、耐震設計になっておらず、雨漏りなど老朽化も進む中で、建て替え問題が浮上。ただ市内に大型の類似施設が相次いででき、利用客数が激減しており、建て替えには巨費が必要となるため、市は昨年度施設の取り壊しを決定、今年3月末で閉館した。
建物は地下の遺構を損傷しないよう、地下工事は行われておらす、33本の杭で支える珍しい工法で建設。杭は現場打ち鉄筋コンクリート杭で、直径1.2〜1.4メートルあり、長さ約23メートル。さらに底の部分は最大直径2.2メートルで、抜き取れば遺跡に重大な損傷を与える危険性があることから、文化庁の指導で解体は地中の杭を残し、遺構面上の基礎や地中梁(はり)を含む上物のみを撤去することになった。
市は年度末までに、特殊機械を使うかなどを含め具体的な工法を決める意向だが、工費は当初予定額より大幅アップするのは確実で、年度内は見送られる公算が強い。予算などが確定した段階で文化庁への現状変更届を提出する。
「大型の類似施設」とは、今月私が逝って来た奈良市立美術館のことだろうか。「史跡文化センター」が何時の間にか閉鎖となっていて、今回は非常に淋しい思いをしたのだが。
しかし、昭和57年の建設なのに雨漏りなど老朽化が進んでいたというのは、ちょっと理解しがたい。まさかとは思うが、建設時の手抜きではないだろうな。そのために公金が浪費されるのであれば、施設の真下にある遺跡の保護のためとはいえ、納得がいかない。
紀元前1世紀(弥生時代中期後半)の巨大な神殿跡が見つかっている大阪府和泉市の環濠(かんごう)集落、池上曽根遺跡の中心部で、整然と配置された大型の掘っ立て柱建物群跡が見つかり、和泉市教育委員会が9日発表した。
市教委は集落の中枢にかかわる倉庫群と推定。神殿から約100メートル離れたこの一帯に、支配者の特別区画を設けて政務や宗教、収税など権力機関を集めたとみている。
邪馬台国の女王卑弥呼が現れるより約200年前で、北部九州以外はまだ農村のような共同体社会とみられていたが、既に権力を一手に握る「王」が誕生していたらしく、弥生時代像の見直しを迫る貴重な発見だ。
見つかった建物跡は4棟あり、2時期に2棟ずつ建てられ、東西に並んでいた。柱の直径は30−35センチ。立てるため1辺1・5メートルの方形の穴を掘っていた。うち1棟は約80平方メートルあり、当時としては最大級という。
特定集団の政治的利益のために、日本の歴史を相対化したがるドキュソには、非常に耳の痛いニュース。或いは、「大和朝廷は有史以来」などと云ってみたりして。
福岡県前原市・平原遺跡との差異は、どれほどのものか。激しく期待。
キャプチャすべきかどうか迷ったが、その「図録」を購入したので、とりあえず。
失明しながらも唐から日本に渡り唐招提寺を建立するなど日本仏教に大きな影響を与えた奈良時代の高僧・鑑真は、うっすらとではあるが見えていた−。30日から奈良国立博物館(奈良市)で公開される鑑真の書状が自筆である可能性が高いとして、同博物館の西山厚資料室長がこんな新説を「正倉院展図録」で提唱している。
公開される鑑真書状は、東大寺の高僧に経典の借用を申し込む内容で、現存するただ1通のもの。来日翌年の754年に書かれたとされる。鑑真の伝記「唐大和上東征伝」によると、鑑真が失明したのは、5回目の日本渡航の試みが失敗した後の750年。この書状は失明後のもので、弟子が代筆したとみられているが、弟子数人の現存する筆跡とは異なっている。
書状を検討した西山室長は、最後の行の「鑑真」という署名に注目。文字の線がつながったやや崩した字体で書かれている点について、「カリスマ的指導者である師の代筆はかなりの緊張を伴うはず。果たして弟子が師の名前を崩して書くだろうか」と指摘する。
また4行目の最後の文字「部」は、一度書いた線の上をなぞるように書き直しているが、西山室長は「文字の均衡を損なわずに書き改めるのは、目の見えない人には無理だろう」と指摘している。
【北九州】 北九州市芸術文化振興財団が小倉北区大手町で進める埋蔵文化財調査で、小倉城の外堀が、侵入した敵の動きを土壁で封じる「障子堀」の構造になっていたことが明らかになった。障子堀は関東地方で見つかっているが、西日本では大阪城に続き二例目、九州では初めて。小倉城は江戸初期の築城だが「実戦を想定した施設」(同財団)で、戦国時代の混乱が残る当時の不安定な国内情勢をうかがわせている。
調査地は安川電機が所有する約八千四百平方メートルで、売却に伴い今年五月から調査している。
外堀は長さ約百九十メートルのL字型で、幅十五―二十メートル、深さは約八メートル。底部には堀と直交する形で高さ約二メートルの仕切りが四―十六メートル間隔で計二十二基、確認された。
障子堀は敵が左右に動くのを防ぎ、守備側が弓矢などで狙いやすくするのが目的。十六世紀に築かれ、難攻不落と言われた小田原城(神奈川県小田原市)など、南関東地方を支配していた北条氏の主城、支城では見つかっている。
小倉城は城主の細川忠興が一六〇二年から築城し、天守閣は〇八年ごろに完成。障子堀も同時期にできあがったとみられる。〇〇年の関ケ原の戦いからまだ日が浅く、再び激しい合戦が起きることを忠興が想定していたと考えられる。
同財団は十六日午前十時から現地説明会を開く。調査は一区、二区に分けて実施し、現在は二区分の約七十メートルの障子堀だけが観察できる。
到津あたりから伸びる丘陵の東端にそびえるのが、この小倉城である。小倉城の東には現在は紫川が流れているが、近世初頭はここは潟湖であったという。その対岸に、中世以来市場として栄えた旦過がある。中世の終焉後に建造された小倉城の天守閣は、中世という時代からの連続性を持つ旦過の市場を見下ろすように建てられている。それは、「自力救済」という中世的な世界に対する包摂化と、支配の意志の表象と見做すことができる。それこそが、まさに小倉城の地政学的な位置付けである。そういえば福岡城も、中世以来の都市である博多の東にあるんだっけ。
考えてみれば、九州における中世世界は、豊臣秀吉による島津氏討伐によって強制的に終焉させられたという歴史を持つ。九州の近世とは、豊臣政権という本州からのガイアツの結果であり、決して内発的に形成されたものではない。近世社会への移行に対する九州における人々の反発は、決して小さくなかったと考えた方が良いのだろう。実際、肥後に入部した佐々成政は、統治に失敗した責任をとらされ、秀吉に切腹させられたが、これは中世的な一揆に近世大名が敗北したようなものである。島原の乱における島原藩主松倉勝家も、同様の轍を踏んだと考えても、面白いかも知れぬ。
この小倉城の、西の守りがこの障子堀の遺跡だということになる。本州より入部した細川氏が築いた障子堀、その堅固さとは、当時未だ九州に残存していた中世世界に抗う、これまた近世的な政権による権力への意志の表象なのかもしれない。とはいえ、見てないから、想像で云うしかないけれど。
というか、職場の近くで、こんな楽しいイベントがある日に、休日出勤だなんて、あんまりだ。あぁ、恨めしい。(つдT)
【釜山13日田代謙一】韓国南東部の古墳で、日本の伝統的墓様式である、くりぬき式木棺が十三日までに出土した。日本でも数例しかない完全な形での発掘で、古代に加耶があった韓国南東部と日本の交流を探る上で貴重な資料になるとみられる。調査を進めていた韓国国立昌原(チャンウォン)文化財研究所(慶尚南道昌原市)が明らかにした。
古墳は同道昌寧(チャンニョン)郡の松ケン洞(ソンヒョンドン)古墳第七号墳で、五世紀末から六世紀初めの築造。長さ八・四メートル、幅一・五メートルの横穴石室内に、長さ三・八六メートル、幅一・二メートルのくりぬき式木棺があった。同木棺は、半分に切った丸太をくりぬいて遺体を置き、ふたをする形式。同墳では、ふたは大部分腐っていたが、木棺はほぼ完全な状態で残っていた。
同研究所によると、完全な形での出土は、韓国では紀元前後の茶戸里(タホリ)古墳(昌原市)に続いて二例目だが、今回の方が深くくりぬいてあり、しっかりした作りだという。
ただ、日本で主に使われた四世紀ごろの古墳時代前期とは時期が離れていることや、木棺の材質がクスノキで、日本で多く使われたコウヤマキではないことなどから、同研究所は「当時の韓国南東部と日本側に何らかのつながりがあったのは確実だが、どの程度の交流だったのかの研究を続けたい」としている。
■完全な形で発見珍しい 和田晴吾・立命館大教授(考古学)の話
木は腐るので残りにくく、くりぬき式木棺の完全な形での発掘は、日本でも極めて少ない。日本と韓国南東部のどちらの影響で、くりぬき式木棺が双方にあるのかはよく分かっておらず、交流を知る上で興味深い発見だ。
メモ。また「交流」。
上記の記事ですが、プロ市民の方々は、「交流」の意味を誤解する恐れがあります。閲覧は御遠慮ください。嘲笑。
京都府宇治市宇治で宇治市街遺跡を発掘調査している同市教委は14日、平安後期の道路や邸宅庭園の遺構を確認した、と発表した。同市教委は「平等院創建後の12世紀に藤原摂関家によって、現在の碁盤目状の市街が形成されたことをうかがわせる」としている。
調査は宇治橋通沿いのマンション建設予定地の1300平方メートルで、8月から11月末まで実施中。1981年以来の宇治市街遺跡調査としては過去最大規模となる。
調査地内の北側部分で平安後期(12世紀)の道路の両側側溝を幅4メートル、東西方向15メートルにわたって確認した。また、同時期の邸宅庭園と見られる建物礎石群や池の岸辺が見つかったほか、平瓦28点などが出土した。
調査にあたった宇治市歴史資料館によると、現在の碁盤目状の市街は平安期に形成されたことが文献などから類推されていたが、現在位置と平安期の道路遺構の両側側溝が今回初めて一致したという。調査地は平等院鳳凰堂から西に400メートルの地点で、遺構は平等院鳳凰堂建立(1053年)より半世紀ほど後にあたる。出土した瓦は、鳳凰堂の12世紀改修で用いたものと酷似している。
同資料館は「現在の宇治市街の形成時期が平安時代にさかのぼることが初めて裏付けられた」としたうえで、「平等院を創建した藤原摂関家が、都市計画に基づいて道路や邸宅庭園を造ったのだろう」と話している。
現地説明会は16日午前10時から午後3時。同市莵道藪里の「大鳳寺」跡発掘調査現場でも、説明会が同時間帯にある。
メモ。宗教都市の形成。計画の思想。
源平の争乱や南北朝の動乱による、宗教都市の崩壊の痕跡はあるのだろうか。
モンゴル帝国を建設した英雄、チンギス・ハンの霊をまつる霊廟(れいびょう)をモンゴル東部で発見したと、国学院大、新潟大とモンゴル科学アカデミー考古学研究所の合同調査団(団長、加藤晋平・元国学院大教授)が4日、発表した。チンギス・ハンの墓の所在は不明で、世界史上の謎といわれる。しかし、墓と霊廟の位置関係を示す史料が残されており、今回の霊廟発見は墓の所在地に直結する重要な手がかりとして注目を集めそうだ。
霊廟とわかったのは、モンゴルの首都ウランバートルから東約250キロのヘルレン川沿いの草原地帯にあるアウラガ遺跡。東西約1200メートル、南北約500メートルと、13〜15世紀のモンゴルでは隔絶した規模を持ち、チンギス・ハンの最大根拠地の「大オルド」とされる。01年から昨年までの調査でチンギス・ハンやその子、オゴタイ・ハンの宮殿が発掘されていた。
今年になって、宮殿の基壇周辺で馬や羊などの動物の焼けた骨や灰が詰まった直径1.5メートル、深さ1メートルほどの穴が見つかった。中国の正史「元史」によると、君主が死ぬと、送葬官という役人が派遣され、馬、羊、馬乳、酒、絹織物を穴に入れて焼く「焼飯(しょうはん)」と呼ばれる祭りが3年間毎日、霊廟で行われた。今回発掘された穴は4基だけだが、周辺の地中をレーダー探査したところ、数百以上の穴が集まっていることがわかった。これらの多数の穴は、この祭りの実態を反映したものとして、調査団はチンギス・ハンの霊廟と判断。モンゴル国立歴史民族博物館のオチル館長も「間違いない」と太鼓判を押したという。
注目されるのは、「元史」に「この霊廟から君主の墓までの距離は5里(3キロ弱)の外」とある点だ。発掘に当たった白石典之・新潟大助教授は「チンギス・ハンが国家制度を学んだ遼の皇陵の場合、霊廟から墓までの距離が3〜12キロなので、少なくともアウラガから半径12キロ以内には、チンギス・ハンやその後継君主たちの墓があるとみていいのではないか」と述べている。しかし、英雄の墓の発掘を望まないモンゴルの国民感情に配慮し、「陵墓探索は考えていない」という。
「英雄の墓の発掘を望まないモンゴルの国民感情
」とあるが、やはりモンゴルでも、墓暴きという行為は非常に不愉快な意味を持っているのであろうか。考古学好きの私としては、少々気になる話ではある。
それにしても、日本の考古学者の発言として「陵墓探索は考えていない
」という発言は、意外ではある。但し、陵墓が日本のものに限ればの話ではあるが。何しろ、啓蒙主義的な「科学」を錦の御旗に掲げ、陵墓の所有管理者の非科学的というか反動主義的というかそういうものを非難するのが、日本の考古学者なのである。そういう「習性」をもつ日本の学者だが、特定の外国においては、あまりにも謙虚過ぎる態度を取りたがる。これでは、ダブスタだと非難されてもおかしくはないはずだ。
というか、そもそも「国民感情」なるものは、何故に正当化され得るのであろうか。他方に「右傾化」toka「軍国主義」tokaいったクリシェで片付けられる「国民感情」があれば、別の他方には物神化され絶対視され不可侵なるものと祭り上げられる「国民感情」がある。「科学」なるものが「国民感情」を反動的と非難する一方で、同じ「科学」が他の「国民感情」に右往左往するのであれば、それは果たして「科学」に値するのだろうか。そういう問いかけが出来ない多神教徒(即ち御都合主義的に置換可能な思想信条の持ち主)に、「科学」なんて、ねぇ。