歴史関連の、総集編です。
平成18年度の一般会計予算の財務省原案が20日、各省庁に内示された。県関係では、国宝高松塚古墳壁画の保存活用の推進に7億400万円が盛り込まれたほか、平城宮跡の大極殿正殿の復元工事などに前年度を上回る27億1300万円がついた。前年度当初予算より4.4%削減されたものの、大滝ダム建設事業費、岩井川ダムの工事促進整備費にそれぞれ、38億9000万円、4億円も確保された。ただ地方交付税総額の減少については、厳しい内容となり、柿本善也知事は、三位一体の改革について「地方の安定的な財政運営に必要な地方交付税総額の確実な確保に向けて、地方6団体の取り組みをさらに強化しなければならない」としている。
奈良を訪れるたびに、平城京跡にぽつんと立ち尽くす、復元された平城京朱雀門を目にする。近鉄奈良線や二条大路(第二阪奈道路に通じるので)を利用すると、この近くを通るため、必ずと云っていいほど目にしてしまうのだ。だだっぴろく建物らしいものが目立たぬ平城宮跡に、高くそびえるこの朱色の建造物は、立派なほど目立つというよりも、どこか孤独で、歴史の流れから切断された迷子のように見える。周りに土塀が無いのも原因なのだろうか、単独で立ち尽くす門という存在は、有用性からも意味からも見放され、あやふやな存在として、平原に浮遊している。というか、違和感以外感じ得る物がないんですけど。
過去の歴史を再現前させるための施設について、その有用性を否定するわけではない。しかし、大極殿正殿の復元行為が、費用に見合った有用性を持つかについては、私は少々懐疑的だ。また、象徴性としての大極殿正殿を奈良という地域に還元するには、例え見事に完成したとしても、平城京朱雀門と同様に意味を見出すことは困難だろう。意味を持つ存在であれば、それは地域の求心力となるだろうが、地域住民には「平城京遺跡があるから道路整備が遅れている」という恨み声もある。そのような状況で、意味が浮遊しかねない建造物を増やしつづけて、どうなるだろうか。
串良町教委は16日、同町岡崎の「岡崎15号古墳」から、5世紀前半の古墳時代のものとみられる前方後円墳と地下式横穴墓3基が見つかった、と発表した。前方部と後円部のくびれ部分の両側に地下式横穴墓が1基ずつ付いた珍しい構造。同教委は「前方後円墳が地下式横穴墓を伴って確認された例は南九州では2例あるが、県内では初めて」と話している。
今回確認された前方後円墳は、後円部の直径約17メートル、前方部の底辺約12メートル。盛り上がった後円部中央付近は周囲から約1・2メートルの高さがあり、後円部を北にほぼ南北方向に造られている。
同古墳は98年度の調査では「円墳」とされたが、周囲の形状から前方後円墳の可能性があるとして、昨年度から再調査に着手。10月初旬までに古墳を取り巻く「周溝」が前方後円墳の形状を示すように見つかり、全体像が明らかになった。
くびれ部分にある地下式横穴墓は、地表から掘り下げた竪穴の底部から出入り口を設け、奥に棺を納める玄室をつくる南九州(鹿児島、宮崎、熊本県の一部)独自の埋葬施設。2基の竪穴は左右大きさが異なるが、共に縦横2メートル前後の方形。地表から約2メートル地下で玄室への出入り口「羨道(せんどう)」が確認された。ふさがれた羨道を開けての玄室内調査は今後進めるという。
98年調査では、後円部から鉄製の甲冑(かっちゅう)の破片やひすい製の勾玉(まがたま)など大和朝廷との何らかの関係を示す埋葬品が多数出土。被葬者は政治的地位の高い豪族とみられている。地下式横穴墓は前方後円墳のくびれ部分に寄り添うように造られており、同教委の稲村博文・文化係主任(35)は「発掘はこれからだが、前方後円墳に埋葬された人物と血縁関係があるか、密接な主従関係にあった人物が埋葬されている可能性が高い」と話している。【新開良一】
地表に対してある程度掘り込みが必要となる竪穴式石室に対し、通常の横穴式石室は地上に建造された石室が土砂で覆われた施設となる。多少の掘り込みはあるかも知れぬが、横穴式石室とは元は地上だった空間であり、つまりは人工的に建造された地下の世界ということになる。架空の地下世界を建造するためには多くの労力を必要としただろうが、家族関係を担保する追葬が恐らくは経済的に埋め合わせを行ったに違いない。
北部九州や本州にて古墳時代後期に広く分布した横穴式石室に比べ、南部九州特有の地下式横穴墓はあまりにも異様だ。それは地下へと下り行く羨道であり、人工ではない本物の地下に死者を葬ろうとする意志なのである。南部九州の古代人は、大和朝廷が朝鮮半島から受け入れた横穴式石室という、いわば「贋物」の地下世界を拒否、あるいは忌み嫌ったのだろうか。その下降する指向とは、彼ら自身にとって真なる地下世界への希求なのだろうか。少なくとも、そこには北部九州から本州までに広がっていた心性とは異なる、別の心性がそこに存在する。
おぞましきは、外面的な葬制に関しては、古墳時代における大和朝廷の葬制を表象する前方後円墳という形状を受け入れているという現実だ。この事実は、南部九州に対する、政治的な「もうひとつの日本」という甘ったるいキャッチフレーズの断念を強要するだろう。それはせいぜい、近親者にとっての葬送儀礼という内面的なものにしか、差異は還元され得ない。この前方後円墳は、内面的には彼ら自身の心的な概念を内包しつつも、外面的には大和朝廷という共同的な体制への参画を対外的に表明している。内面的な心性と対照的に、表象を意図した外面性という点で、寧ろこの古墳とは油断ならぬ程に両義的である。
そういえば、南九州は今年はご無沙汰だな。そろそろ恋しくなってきた、地下式横穴墓でなく、「つけ揚げ」が。
多賀町の敏満寺遺跡を発掘調査した同町教委は15日、同遺跡の「南谷」部分で3度にわたる焼け跡を確認し、石垣が築かれるなど、大規模な建物跡がみつかったと発表した。鎌倉時代に大きな勢力を誇ったとされる敏満寺の巨大な規模を示す史料として注目される。
昨年までの調査の結果、「敏満寺石仏谷墓跡」で中世の墓石が多く確認され、今年7月に国の史跡指定を受けた。史跡の範囲拡大を目指して、敏満寺の南大門跡から伸びる道が通じ、山腹を削ってできた平たん地を新たに調べた。その結果、建物が3回焼け、そのたびに谷側に向けて平たん地の面積が広がったことが判明。15〜16世紀ごろにあった最後の火災後、周囲に石垣が築かれていた。出土品などから建物は12世紀末〜16世紀後半に使用されたとみられ、中国産の高級磁器などもあった。
県文化財保護協会の松澤修・技術主任は「鎌倉時代に建てられた西福院に近い主要な堂院があった可能性が強く、規模が極めて大きいことが判明した。敏満寺が近江において、大寺院として存在していたことを物語っている」としている。
現地説明会は17日午前10時、胡宮神社(同町敏満寺)境内集合。雨天中止。問い合わせは町立文化財センター(0749・48・0348)。【高橋隆輔】
名神高速道を利用している人ならば、多賀サービスエリア下り線の近くにある山の斜面、といえば位置関係が判るだろう。今年の「新発見考古速報展」にも展示されていたので、この遺跡の名前を知っている人も多いはず。今年にこれを観覧した時は、この寺院遺跡の近くに多賀神社が存在するあたり、何か関連性がある寺院なのではと思ったのだが。
和歌山市岩橋の岩橋(いわせ)千塚古墳群にある6世紀前半の大日山35号墳から、つばと前頭部に突起のあるかぶとをかぶった武人埴輪(はにわ)の頭部が出土した。14日発表した和歌山県文化財センターによると、かぶとは通常、つばか突起かどちらかしかなく、両方ある形は類例がないという。
古墳群は4〜7世紀ごろ一帯を支配していた紀氏一族の墓。35号墳は全長102メートルで、首長が埋葬されたらしい。
武人埴輪の頭部は高さ約22センチ。「造り出し」と呼ばれる前方後円墳のくびれ部分の祭壇から見つかった。埴輪の胴体は見つかっていないが、全長は1メートル以上とみられる。
造り出しからは武人のほか、女性やいれずみの人物、馬、家など大型の形象埴輪が多数、元々置かれていた位置から出土した。形象埴輪が築造時の配列のまま見つかった継体天皇陵とみられる今城塚古墳(大阪府高槻市、6世紀前半)に匹敵し、当時の王権と地方豪族の関係をみるうえで貴重な資料という。【辻加奈子】
「紀伊風土記の丘」の域内にある古墳の中で最大というか、紀伊最大の前方後円墳。ここを訪れた時、紀ノ川平野を一望できる眺めのよさを堪能したことがある。石室は盗掘を受けた後、名前の由来となった大日如来信仰の施設に転用されたという経緯があるため、大した遺物は発見できないと思っていたのだが。
他地域に対する武人埴輪の優越性は、確かに大和朝廷という統一権力に対する近さを表す指標にはなるかも知れぬ。ところが、その麓である和歌の浦には、紀氏の権力に楔を打つが如く、天皇との親近性を持った海民の集団が入り込んでいる。旧海部郡という郡名は、その権力の在地化の名残である。逆にいえば、海民の投入という事態が、あまりにも強大化した紀氏権力への対抗策だったのかも知れぬが。
日本有数の中世都市遺跡、根来寺遺跡(岩出町根来)の保存問題について、日本史研究会(代表委員=高橋昌明・神戸大教授)など主要7学会の代表が2日、小関洋治・県教育長を訪れ、全体的な保存計画を策定することなどを求める要望書を手渡した。文化庁や県、岩出町、同町教委にも同様の要望書を送付した。
高橋教授らは、県が80〜95年に同遺跡の確認調査を行い、国史跡への指定や史跡公園の整備などの方針を示したにもかかわらず、保存や整備が進まない現状を批判。早急に検討組織を作り、全体的な保存計画を策定し、国に史跡指定を申請するように求めた。また、発掘の成果を活用するために、出土した遺物を統一的に保存・公開することを要望した。
境内の一乗閣(旧県議会議事堂)の移転については、予定地が宗祖覚鑁(かくばん)の??に近く、中世の道路や井戸、建物など重要な遺構があるとして、移転先の再検討を要望。もし代替地が見つからなければ、遺構の保存と周囲の景観との調和を条件にすることなどを求めた。
高橋教授は「根来寺遺跡は中世後期の宗教都市遺構として最高級。豊臣秀吉に滅ぼされたが、民衆の自治が進み、歴史にいろいろな可能性があったことを示している。できるだけ元のまま保存してほしい」と話した。【辻加奈子】
学者連中が保存保存と叫んでも、地元住民の同一性に還元されない限り、只の草むらに戻るだけ。そのようなテクストの構築よりも「政治」を優先させるのであれば以下略。というか、前にもこのネタを振ったような気が。
それにしても、歴史学者が「いろいろな可能性」云々に言及するのは如何なものか。その「可能性」とやらが、例えサヨク崩れのカルスタ連中などに重宝されたとしても、歴史から見ればそれは「歴史のif」なのであり、それは既に禁じ手となっているはずなのだが。
奈良県で1日、百済(ペクジェ、B.C.18〜A.D.660)の王族のものと見られる豪華な古墳が発見された。古墳が発見された所は、奈良県明日香村南西部のカヅマヤマ古墳(同村真弓、7世紀後半)。ここには、高松塚古墳など皇族クラスの古墳が集中している。
専門家らは、同古墳について「レンガ状に石を積み上げた『磚(せん)積み石室』構造であるのが特徴であり、百済の王族の古墳に多く見られる」と説明した。この古墳では、高貴な人物に限って使われた漆塗り木棺の破片も出土された。古墳の築造時期と見られる西暦660〜670年代には死去した日本皇族がない、との点から、当時日本に滞在した百済の王族らが葬られた可能性が高い、というのが大方の見方だ。
同古墳は、1辺24メートルの2段築成の方墳。丘陵の南斜面を東西約100メートル、高さ10メートルにわたって削り、平地にした後、設けたものと見られる。石室は、幅1.8メートル、高さ2メートル、奥行き5メートルくらい。
河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は「被葬者は40〜50歳代の男性とみられる」とし「631年、父親の百済王・善光(ソングァン)と共に日本に渡ってきたが、674年死去した百済王・昌成(チャンソン)である可能性が高い」と話した。善光・昌成は660年に百済が滅亡することによって、故国へ帰ることができなかった。
古墳時代後期の横穴式石室の構造における、朝鮮半島南部との不連続性は、「磚」と呼ばれる平たい石の不採用である。日本の横穴式石室が巨大な石もしくは大きく切り出した石を積み上げるのに対し、朝鮮半島南部の横穴式石室は、「磚」を規則正しく積み上げて作る。天理参考館でその模型を見たのだが、内部から見ると横長のレンガを積み上げたように見える。そのレンガというか「磚」にはいろいろと装飾が施されており、朝鮮半島南部特有の「彼岸」を表現しているように見える。
古代日本と百済との密接な関係を想像すれば、このような横穴式石室がもっと数多く出土してもおかしくはない。しかし、それが百済滅亡以降の存在であるならば、百済が存続していたころは、磚積み石室の建造が成されなかったということになる。それは、朝鮮半島南部に多くの前方後円墳そっくりの古墳が作られたのと、非対称性を示している。
相変わらず小倉まで新幹線通勤をしている私だが、小倉駅で下車してプラットフォームから改札口へ抜けるときは、いつも同じ階段を利用している。その小倉駅の階段なのだが、その上部には讀賣新聞の広告が掲示されている。今年の初めは、スタジオジブリの訳判らぬキャラが掲示され、プロ野球のシーズンには、元ダイエー・ホークスで現在は讀賣ジャイアンツの小久保選手が掲示された。そして、最近は上記ページの「大王の棺 実験航海」の写真が掲載されている。実験考古学というか報道会社による宣伝の、アレである。
専門家でもないクセにアレコレ口出しするのが「ほけほけ日記」の流儀だが、実験考古学についても同様に言及してみる。発掘によって遺構や遺物を発見するのが通常の考古学ならば、実験考古学とは、同等の遺物を実際に作成・移送・使用・破棄するすることによって、その遺物を使用した時代の人々の生活や技術・能力を探る試みの学問であろう。遺物の発見という出来事の方に私たちの関心は集まりがちだが、実際に発見された遺物がどのように製作され、利用されたかを探るためには、実物を再現する行為が必要となる。制作方法や利用方法を探ることで、実験考古学ではその遺物を利用していた時代の技術力や生産力なるものの想定を試みる。とは言え、その結果とは生産力といった史的唯物論上の用語に回収されるきらいがあり、過去の人々が抱いていたイデアの領域にまで入り込むことは極めて困難ではなかろうか。ちなみに、「作成・移送・使用・破棄」は、史的唯物論の決り文句である「生成・発展・変化・消滅」に対応させてみたので。嘲笑。
ということで、この夏は「大王の棺 実験航海」の記事が何度も登場したわけだが、私はあまり関心を示さなかった。過去の「修羅」を曳くイベントなんかもそうだが、イベントは所詮一過性のものにすぎない。連続性への階梯が存在しない考古学的な出来事は、紙面の埋め草には役立つかも知れぬが、忘れ去られてしまえばそれまでのこと。特に、この企画は報道会社によるものということで、決して連続性へ回収されない一過性の出来事にのみ還元される危険性があるため、この企画には胡散臭さを感じざるを得ない。そんな理由で、私は「ほけほけ日記」で、この記事については黙殺していたわけだが。
この、イベント化された「大王の棺 実験航海」の写真を改めて見たのだが、妙なことに気が付いた。「大王」の棺をわざわざ九州の肥後から大和に運ぶ行為とは、支配地域の物産をコレクション化し得る王権の地位を国内に可視化するための顕示なのだろう。地方の物産を自由に選択することは、王権の特権性を示すのに都合がよいからだ。阿蘇凝灰岩が選ばれたのは、石棺などに加工しやすいという技術的な特性もあるだろう。しかし、そんな辺鄙な場所で作られた石棺を敢えて運ばせるということは、国民を強制的に産品の生産や輸送に使役し得る独裁的な権力という、決り文句の如き説明だけでは不十分だ。多くの製作者や運搬者に物を食べさせるということは、それは即ち王権の重要な属性である「蕩尽」に直結する。そして、「蕩尽」という行為において、イベントの如きハレの契機は不可欠だ。石棺の輸送とは、特にそれを輸送した海民にとって云えるのだが、どこか祝祭めいた出来事に似てやしないか。
イベントとして再現された古代の行為が、古代におけるイベントらしさを再現前化させたとなれば、結構皮肉な話ではある。本来は、唯物主義的な言説に回収されかねない実験考古学のイベントが、史的唯物論では語りえない「祝祭」toka「蕩尽」tokaを雄弁に語るとしたら、それは既に逆説であるかも知れぬ。憐憫。
奈良文化財研究所は21日、歌人・柿本人麻呂が「天皇が庵(いおり)を建てた」と万葉集で詠んだ、奈良県明日香村雷(いかづち)の雷丘(いかづちのおか)(高さ約20メートル)西側斜面から、5世紀後半の埴輪(はにわ)片が多数出土したと発表した。日本書紀や平安時代の説話集・日本霊異記(りょういき)には、雄略天皇(5世紀後半ごろ在位)が侍者、小子部栖軽(ちいさこべのすがる)に命じて、地上の雷を捕らえさせたとあるほか、栖軽の墓を建てたとの記述もあり、古墳が存在していた可能性があるという。
植林・整備事業に伴い、今年10月から約500平方メートルを初めて調査。埴輪のほか、中世(15世紀ごろ)の山城跡などが確認された。丘の中央と東側の2カ所から外敵の侵入を防ぐV字型の堀、薬研(やげん)堀(深さ約2メートル、幅約5、6メートル)を検出。中腹からは敵を遮る「武者走り」などの平たん面も見つかった。丘全体(7000〜8000平方メートル)が、山城としての機能を果たしていたとみられる。
柿本人麻呂は7世紀後半に活躍。万葉集には「天皇、雷岳に御遊しし時、柿本朝臣(あそん)人麿の作る歌一首」として、「大君(おおきみ)は神にし座(ま)せば雨雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」と記されている。
奈文研は「庵跡は、山城造成時に削られたのかもしれない。いずれにしても、古代には藤原京一帯などが一望できる場所だった。中世には敵の攻撃を見極める物見台の役割を果たしたのではないか」としている。【林由紀子】
雷丘の話は、雄略帝の王権神話を物語るエピソードでもある。まぁ、文献と考古学の合致という点では、面白い話題かも知れぬが。
それよりも、あまり古代ばかりに関心が偏るのもよろしくないような気が。できれば、例え興福寺一辺倒でつまんないとはいえ、中世の明日香について言及するのも必要ではかなろうか。中世明日香ではなくて。
中世遺跡に関する特別展は結構少ないので、こういう企画は行かねばならぬ。ということで、何年かぶりで萩まで行って来ましたよ。
この特別展の目玉は、日本や韓国近海で発見された沈没船から発見された遺物。特に、韓国近海での沈没船の遺物は、滅多に見られるものではない。そういえば、沈没船といえば、船に積まれていたお宝を探すというのは冒険小説のお定まりの設定ではある。こちらは学術ではあるものの、海底深く沈んだ船を発見し、多くの遺物を発掘するという過程は、新たなる言説への期待という点でも、沈没船のお宝探しに酷似している。
それから、中世東アジアにおける世界認識を示す上で格好の材料となる、古地図の展示があった。但し、その殆どは印刷物の展示ばかりで、複製も含めて実物は少ない。まぁ、少々残念ではあるが、仕方が無い。その大半は、多くの古地図を所蔵する国立歴史民俗博物館からの展示。質・量ともに膨大なそのコレクションの一部を垣間見ることができ、地図好きには結構堪えられぬ展示ではある。
因みに、愛車パジェロ庵号で往復6時間かけて行ったのに、萩滞在は約2時間半。ここまで来たのに、萩城跡toka武家屋敷toka松下村塾跡tokaいった定番の観光名所に足を運ばぬのが、俺の旅の仕方なのである。
日本最古の温泉ともいわれる松山市の道後温泉で、7世紀ごろの地層に現在の道後温泉と同じ単純アルカリ泉の成分などが含まれていたことが、市埋蔵文化財センターの発掘調査で15日までに分かった。
1000年以上前の人たちも同じ温泉に入っていた可能性が出てきた。最古を主張する温泉は複数あり、今回の発見は道後温泉関係者を勢いづかせそうだ。
発掘調査は道後温泉本館(国の重要文化財)の東側の隣接地で行われた。江戸時代の絵図に描かれた池の跡地を発掘中、深さ約2メートルの7世紀ごろの地層に温泉成分を含む黒い土が約40平方メートルの面積で発見された。
分析の結果、今の道後温泉にも含まれる高濃度の硫黄や、アルカリ泉があったことを示すケイ藻の成分が含まれていた。
伊豫国風土記逸文のような文献との一致云々は、スルーなのですか。そうですか。
天皇等の湯に幸行(いでま)すと降りまししこと、五度(いつたび)なり。大帶日子(おほたらしひこ)の天皇(景行天皇)と大后八坂入姫命と二軀(ふたはしら)を以ちて、一度(ひとたび)と為す。帶中日子(たらしなかつひこ)の天皇(仲哀天皇)と大后息長帶姫命(~功皇后)と二軀を以ちて、一度と為す。上宮聖コ(うへのみやのしやうとこ)の皇(おほぎみ)を以ちて、一度と為す。及(また)、侍(みとも)は高麗(こま)の惠慈(ゑじ)の僧(ほふし)・葛城臣(小楢)等なり。時に、湯の岡の側に碑文(いしぶみ)を立てき。其の碑文を立てし處を伊社邇波(いさには)の岡と謂ふ。伊社邇波と名づくる由は、當土(このくに)の諸人等、其の碑文を見まく欲(おも)ひて、いざなひ來けり。因りて伊社邇波と謂ふ、本(ことのもと)なり。・・・
岡本の天皇(舒明天皇)と皇后と二軀を以ちて、一度と為す。時に、大殿戸に椹(むく)と臣木(おみのき)とあり。其の木に鵤(いかるが)と此米鳥(しめどり)と集まり止まりき。天皇、此の鳥の為に、枝に穗等(いなほども)を繋(か)けて養(か)ひたまひき。後の岡本の天皇(斉明天皇)・近江の大津の宮に御宇しめしし天皇(天智天皇)・淨御原の宮に御宇しめしし天皇(天武天皇)の三軀を以ちて、一度と為す。此を幸行せること五度と謂ふ。
蘇我氏の邸宅があったと日本書紀が記す甘樫丘(奈良県明日香村)のふもとの谷で、7世紀代の造成地と建物跡が見つかった。7世紀前半、天皇をもしのぐ権勢を誇ったとされる蘇我蝦夷(えみし)の「上の宮門(みかど)」や入鹿(いるか)の「谷(はさま)の宮門」が出現する期待が高まった。息子たちを「王子(みこ)」と呼ばせるほどに力をふるった蘇我氏の本拠は姿を見せるのか。
蘇我氏は536年、稲目(いなめ)が大臣に起用されたのを機に歴史の表舞台に登場し、天皇の外戚(がいせき)として勢力基盤を拡大した。次の馬子は甘樫丘から南東に約1.5キロ離れた石舞台古墳の近くに邸宅を構えたとみられ、昨春と今夏の調査で、大型の掘っ立て柱建物跡が見つかった島庄遺跡(奈良県明日香村島庄)が有力になっている。今回の調査地で確認された平たん地は7世紀前半に整地されたとみられ、馬子の次の蝦夷が644年に甘樫丘に邸宅を築いたことと合致する。
「甘樫丘は現代の東京・丸の内や六本木ヒルズ」と言うのは、万葉集を研究する上野誠・奈良大教授。「甘樫丘は万葉集で『明日香川行き廻(み)る岳(おか)』と表現され、飛鳥の要衝だった。その場所にいること自体が一流のステータスの証明だった。当時の勝ち組の象徴でもあった場所」と話す。
日本書紀に、蝦夷が天皇の特権とされた「八つら(やつら)の舞」を奉納したと記されるなど、権力の絶頂にあった蘇我氏の滅亡のドラマは、入鹿が今回の調査地の東約750メートルにあったとみられる飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で殺され、蝦夷が家宝に火を放ち、自害して幕を下ろす。建物跡付近には焼け跡もあった。
古代史ファンのパーソナリティーの浜村淳さんは「甘樫丘の邸宅から、飛鳥を一望して監視出来たのに、自分たちが殺されることは事前につかめなかった。思い上がりでしょう。権力はあっという間に崩壊する、そんなもろさも感じます」と語る。
今回の調査は、谷を埋め立てたとみられる約6000平方メートルのうちの8分の1程度と部分的で、見つかった建物跡は最大でも40平方メートル足らず。日本書紀には、家の外に城柵(きかき)を備え、武器庫を設けて、番兵を配置していたことが記されており、蘇我邸とすれば、こうした施設の跡や大規模な正殿が今後の調査で見つかるはずだ。山本忠尚・天理大教授(考古学)は「正殿は今回の現場のもう少し上にあるのではないか」と、邸宅が甘樫丘のさらに広い範囲に及んでいたと想定する。
猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)は蘇我邸跡には蘇我氏が編さんにかかわった国記や天皇記の一部が残っている可能性もあると指摘し、「日本書紀は蘇我氏を事実以上に悪く描いている。邸宅跡の調査は飛鳥を舞台とする古代史に別の角度から光を当てるはずだ」と期待を込める。【林由紀子、大森顕浩】
世間様の間では、この発見は大ニュースらしい。とりあえず、引用。
「正殿」や「武器庫」が有れば蘇我邸跡となるが、書紀の記述は的確なものだったということになる。無ければ、書紀における改竄の存在を求める連中には朗報だが、蘇我邸跡という証拠が欠けることになる。話が混乱するから、書紀改竄云々はひとまず置いとけと云いたいのだが。
前原市教委は8日、同市池田の池田井田遺跡から大型の水堀を持つ居館跡が出土した、と発表した。室町〜戦国時代の15世紀ごろ、糸島地域で勢力を保っていた原田氏の有力家臣、波多江氏一族の居館とみている。集合住宅建設に伴い、9月末から約450平方メートルを調査していた。
堀は東西と南北に直角に曲がり、全長約38メートル、幅約4・5メートル、深さ80センチ〜1メートル。埋土の状況から水堀とみられ、中国や高麗の陶磁器片なども出土した。堀の内側では、堀に沿って掘っ立て柱建物跡1棟(縦約5メートル、横約3メートル)と柵列跡が見つかっており、市教委は水堀は居館を囲む堀の一部と推定している。
同遺跡の南約600メートルに中世の武家屋敷、波多江丹波守屋敷跡があり、当時入手が難しいとされる高麗陶磁器が出土していることなどから、市教委は同遺跡が波多江氏一族の居館跡で、付近に一族の集落があったとみている。12日午前10時から現地説明会がある。市教委文化課092・323・1111。【竹田定倫】
逝けなかった現説を数える休日。むなしい。
南アルプス市教委は、県内の釜無川より西の地域で唯一の前方後円墳「物見塚古墳」の学術調査を24年ぶりに再開した。古墳の土をふるって細かい装飾品を探し出す作業で8日までに臼玉や管玉と呼ばれる首飾りの部品4点と、鉄製の刀剣の破片3点の計7点が見付かった。調査は12月末まで続けられる。
前方後円墳は大和政権に許された一部の豪族しかつくることを許されず、古墳時代に同地区を支配した有力な豪族の墓とみられている。
物見塚古墳では考古学者が81年に学術調査を行い、測量や周囲の試掘調査で前方後円墳に間違いないことを確認。当時非常に貴重だった鉄製の刀剣などの副葬品も発見した。しかし、限られた予算で多くの調査を行うため細かい装飾品を探し出す作業は後世に託されたままになっていた。
装飾品は豪族の地位や立場を探るヒントとなるだけでなく、製作が難しいため豪族の勢力の指標にもなるという。【宇都宮裕一】
「南ア」という表記があれば、通常は南アフリカのことだと思うのですが。
現説はいい、心が洗われる、かどうかは判らぬが、常時見ることができるものではないので、現説に行って損は無い。ということで、今日の現説は、宗像市というか旧玄海町の田野瀬戸古墳。横穴式石室のある、六世紀初め頃の前方後円墳である。
今回の発掘は、田野瀬戸古墳の4号墳。他にも古墳が3基存在したとのことだが、4号墳以外は古墳のあった丘ごと削り取られ、殆ど存在しない。この付近は海岸近くの古い砂丘の跡ということで、良質の砂が採掘された結果、このようなことになったとのこと。そういえば、下関市の綾羅木郷遺跡も、同様に良質の砂が採掘できた場所で、業者による採掘を受けそうになった。こちらは所謂「市民運動」のおかげで遺跡の保全に成功、有る意味「神話」化されている嫌いがあるが、宗像の方はそうはならなかったらしい。
公開されたのは、こんなのが採掘で破壊されるとしたら残念なくらい、見事な石室である。盗掘を受けていたため、目ぼしい遺物はそれほど多くは無い。それでも、鎧を覆う大量の鉄製の小札(こざね)、胡籙(ころく)を飾った金銅製の金具、鉄鏃、大形の剣菱形杏葉などの馬具などが発見されている。葬られていたのは武人なのだろうか、海の彼方より得られた貴重品である鉄が、この石室ではふんだんに使われている。そういえば、雨上がりのため危険ということで墳丘に登る事はできなかったが、ここからは遠く沖ノ島まで望むことができる。
面白いのは、盗掘を受けた石室には土砂が流れ込んでおり、そこからは中世の遺物も見つかっているという。銅製の笄(こうがい)や鮑の貝殻、土師器の皿、そして刀装具。墳丘の一部には、中世末につくられた石敷きの区域があり、なぜかそこに五輪塔や板碑が見つかっている。中世においては、この石室は何らかの宗教的な用途として使われていた模様。因みに、九州にて修験道が盛んであった頃、修験者が即身成仏を行う時は地下に穴を掘ったそうだが、その際に古墳の石室がよく使われていたとのこと。この石室でも、修験者による再利用の可能性がある。
上記現説と同じ日に開催されていたのが、福津市による宮地嶽古墳の石室公開。宗像の隣ということで、現説の後で訪問。宮地嶽神社の奥の宮の一つである不動神社が、実はその石室なのである。この石室が発見されたのは江戸時代頃で、余りの見事な石室故に信仰の対象と成り、不動神が祀られるようになった。石室が信仰の場所として再利用されるのは良く有ることだが、このようなロコツな再利用は滅多にない。当然ながら、石室は神域となっているため、こういう機会でなければ入ることができないとのこと。
その石室であるが、七世紀前半の巨大な横穴式石室で、全長23mという大規模なもの。玄室の側面の石は長方形に整形されているなど、六世紀以前のものに比べて芸の細かさからいっても別格なのである。但し、奥の部屋の前にはコンクリートで祭壇が設けられ、最も奥の部屋の前には、扉が閉められている。考古学の側から見れば、これは古代の遺産なのだが、現代の信仰からすれば、ここは現在なおも続いている信仰の場なのである。
なお、この古墳からは副葬品として、鞍金具や轡、鐙の他に、飛鳥時代においては貴重品であった瑠璃の壺など、豪華な遺物が発見されている。但し、見つかったのは石室内部ではなく、社務所の裏など古墳の外。その点でも、考古学と現代信仰とは倒立している模様なのである。
「日本は一民族」という九博における麻生氏発言が、何だか話題になっている様子。但し、どうもアイヌ民族なるものの歴史に対する理解が浅い人たちが多いように見受けられるのだが。
松前藩成立以前において、北海道に日本人はいなかったという説は、現在はあまり成り立たない。北海道の室町時代から戦国時代における遺跡で、日本人が使用していたと見られる遺物は結構見つかっているのだ。分布としては、日本海側は余市まで、太平洋側は日高地方まで。但し、「原住民」が使用していた遺物も混在しており、当時は結構両者が混在して生活していたことが判っている。というか、この時代、一攫千金を求めたのか、売られたのかは知らぬが、多くの日本人が道南地方を中心に生活していたことは確かなのだ。
近世における松前藩の成立とは、日本人による北海道侵略では決してない。事情は逆であって、それは、「原住民」と日本人による混在社会の終焉と解すべきなのだ。「コシャマインの蜂起」以降、道南各地で活動していた日本人は次々と南へ追い立てられ、最後に残ったのが松前の地なのだ。松前藩主となった蛎崎氏も、もとは上ノ国町あたりを拠点としていたのだが、結局はそこから離れざるを得なかった。松前藩成立直前の道南は、追い立てられた日本人同士による、椅子取ゲームの如き陰惨な歴史だったのである。このような歴史を再確認する限り、何れが侵略者で何れが被害者であるという単純明快な断定は、なかなか成立し難いのである。寧ろ、日本人を一方的に侵略者扱いする言明とは、それは単なる政治の外延にすぎない。
ここで私が「原住民」という言い方をしたのは、室町時代における彼らは果たして「アイヌ人」と言うべき存在であったのか、疑うことがいくらでも可能だからだ。それは、如何なる文化の保持を持って彼らを「アイヌ人」と呼ぶべきなのか、定義次第でいかようにも変えられるからだ。中世中頃までとされる「擦文文化」には、アイヌの習俗として有名な「熊送り」を行った形跡は見られない。「熊送り」は「オホーツク文化」から来たというのが有力な説だが、「オホーツク文化」とアイヌ文化の間には総体的な連続性が欠如している。「アイヌ人」は、縄文人の系譜を持つといわれる「擦文文化」人でもなく、北方大陸との近接性を示す「オホーツク文化」人とも云えない。そんな「アイヌ人」は、中世の時代に出現し、和人を放逐した(もしかしたら、「擦文文化」人や「オホーツク文化」人の中にも同様の憂き目にあったかも知れぬ)。その歴史だけははっきりしておきたい。
これは私の仮説なのだが、「アイヌ人」とは、「コシャマインの蜂起」という出来事において、「和人」という「外部」を排除することによって成立したと言うことも可能である。勿論、これは「日本人まぼろし論」のパロディではあるのだが、それくらい「アイヌ人」を歴史的に定義することは難しい。このような極論は置いとくとしても、「アイヌ人は有史以来」という考え方を根拠に置く言明も、ある程度の留保は考えておくべきではないだろうか。
何とも言いようの無いタイトルの、北筑後を中心とした装飾古墳の一般公開の日。例によって、複数の地方自治体の教育委員会にまたがった企画のため、サイトは見つからず。上記のは、王塚装飾古墳館のもの。というか、先週でしたな、王塚古墳の方の一般公開は。逝かなかったけど。
今年は、花立山古墳(小郡市)と五郎山古墳(筑紫野市)の二箇所。他にも訪れていない箇所はあったが、それはまた次の機会に。歳を取ると、焦って全て廻ろうなんて無茶な事を考えなくなる。
花立山古墳は、殆ど平野ばかりの小郡市にあって、唯一といっても良いくらいの山である花立山の、その麓に有る。別名は穴観音古墳、その名の通り、石室の奥には観音像を含めた多くの石仏が置かれており、地域における信仰の場となっている。当然ながら、石棺や副葬品といったものは既に無い。但し、この古墳は信仰の場所として利用されているだけまだマシなのである。その周りには、石室から岩が取られた無残な古墳が結構見受けられる。
注目すべきは、今年二月の発掘で、全長34.5mもの周溝を持った前方後円墳であったことが判明したこと。また、今までは玄室の2箇所で確認できた線刻が、他にも4箇所見つかったという。さすがに人の出入りが激しい玄室なので、彩色は見当たらず。線刻は、斜め格子状のが主な形状だが、一部に三角紋らしき箇所もあるtoka。この日の説明では、その線刻を説明するために、発電機を使って線刻の箇所の照明を行っていた。角度をつけて光を当てれば、その線刻が浮かび上がってくる仕組みなのである。
それから、五郎山古墳。騎馬や船などの彩色で有名な装飾古墳である。退色を防ぐため、王塚古墳等と同様に、ガラス越しの見学となる。普段は、五日前に事前予約すれば、係員の案内による見学が可能となっている。予約無しで見学できるのは、このような機会しか無いとのこと。ただ、見学場所から玄室の壁画まで約11m、王塚古墳に比べれば結構はっきりはしているが、やはり全体的に彩色が薄くなっており、見難い。そして、玄室の左右にある壁画は、この見学場所からは見えない。保存上の制約なので、仕方ないことではあるが。
壁画の全貌を知るならば、古墳の有る山の下にある「五郎山古墳館」の実物大模型で確認するのが最適だ。或いは、こちらの古墳館で有る程度予備知識を仕入れてから、実際に壁画を見学する方が良い。残念ながら、俺もそうだが、見学者の殆どが先に玄室の見学、後で古墳館見学というパターンの客が多かった模様。できれば、客を先に古墳館に誘導して、後で玄室に案内するよう、案内をした方が良いと思う。
今日の遺跡めぐりは、この二つだけ。後は、筑紫野市内にあるうどん屋で昼食、そのまま帰宅。最近は疲れやすいので、これだけで断念。
前述の「筑後川流域の装飾古墳同時公開」を含む、県単位でのイベント。県内の各自治体で行われている企画の総称らしい。
惜しむらくは、各企画の分類が出来ていないということ。地区別だけでなく、古代史・中近世史・祭礼など、種類別にも分類して欲しいところ。更に問題なのは、各企画を紹介するサイトへのリンクが無いこと。例えこのページを見ても、各イベントの参加方法は不明。というか、利用者のために設置されたのではないよな、このページ。
ということで、今年の秋は「「田野瀬戸古墳」発掘調査現地説明会」と「宮地嶽古墳公開」も狙ってみる。
半世紀前、三角縁神獣鏡など多数の古代鏡が出土した京都府山城町椿井の国史跡「椿井(つばい)大塚山古墳」(前方後円墳、3世紀後半)で、町教委がこのほど実施した発掘調査の結果、これまで確定ができなかった前方部の端の位置(墳端)がほぼ絞り込めたことが分かった。
これに伴い、諸説あった古墳の全長も町教委が設定する175メートルに落ち着くとみられる。想定されている墳端のすぐ外側を発掘し何も出土しなかったためで、町教委は「何も出ない発掘調査も、時には大きな成果になる」としている。
椿井大塚山古墳は後円部の大きさが直径約110メートルと確定しているものの、西方に伸びる前方部周辺には民家が多く本格的な発掘調査ができなかった。このため、全長は考古学者によって200メートル−165メートルの幅で異なる学説が存在。町教委は1995−98年の調査で後円部とのバランスなどから175メートルと定めていたが「決め手に欠けていた」という。
今回の調査地点は、全長を175メートルとした史跡範囲から町道を挟んだ西側の位置で、民家の建て替えに伴い実施。8月31日から9月22日のまでの間、幅約2メートル、長さ21メートルにわたり、深さ1・7メートルまで掘り下げたが古墳を造成した痕跡は見つからなかった。
椿井大塚山古墳は、山城地域最古、最大の前方後円墳。53年、後円部を横断する現JR奈良線の改良工事で竪穴式石室が発見され、卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡30数面などが出土。古墳研究を飛躍的に発展させた。
同志社大歴史資料館の辰巳和弘教授は「椿井大塚山古墳の規模が確定されることは、学術的な価値が高い」と話している。
この椿井大塚山古墳を上空から撮影した写真を見たことがあるのだが、後円部には上述の通りJR奈良線が横切っている。史跡は全面的に保全すべきと主張する人が見たら、血管が切れかねないくらい、見事後円部のど真ん中がぶった切られているのだ。
その航空写真を見ると判るのだが、前方部周辺には民家が矢鱈と多い。面白いことに、その民家の区画を辿ってみると、前方部が何だか拡大して見えてくるのだ。もしかしたら、前方部を民家が侵食していった結果、現在のような前方部が細く短い形になったのではないだろうか。この椿井大塚山古墳の写真は、そんな想像を掻き立ててくれる。
残念ながら、そのような妄想は現実的でなかった模様。夢想を断念せざるを得なくなるような事態に遭遇するのも、考古学のスリルではあるが。
滋賀県米原市弥高と上平寺、藤川にまたがる地に本拠を構えた戦国時代の守護大名・京極氏の館の敷地が、これまでの推定規模の2.5倍で、約2500平方メートルであることが分かり、5日、同市教委が発表した。市教委は、全国の他の守護館に匹敵する規模だった可能性があるとしている。
伊吹山のふもとにある京極氏遺跡(国指定史跡)のうち、館跡は南北約70メートル、東西約37メートルのほぼ長方形。中央から南側が約50センチ高く、段になっている。このため、館の敷地は低地である北側で、1000平方メートル規模とみられてきた。
8月17日からの市教委の調査で、北側部分の深さ約40センチの地中で、16世紀初頭とみられる粘土質の地層が確認され、この層が南側にも水平に延びていることが分かった。市教委は、南側は後の時代に盛り土されたとし、戦国時代当時、館があった敷地は北側、南側を合わせた平面だったと確認した。また、南側から建物の礎石1個(縦約40センチ、横約30センチ)も出土した。
調査では、青銅製の重り1個(43グラム)も出土した。同様の重りはこれまで、全国12カ所の中世の城跡などから計23個が見つかっており、地域の度量衡を掌握する権力の象徴といわれている。このほか、素焼きの灯明皿、杯、くぎなども多数出土した。
江戸時代に作られた「上平寺城絵図」(米原市所蔵)には、京極氏館の北側には山城の上平寺城、南側には武家屋敷や町屋敷が短冊状に整然と並ぶ城下町が描かれている。市教委は「遺構の広さも、重りの発見も京極氏の勢力の大きさを物語る。今後は城の全容解明を目指し、調査範囲を広げたい」としている。
因みに、一六世紀初頭の京極家は、山陰は守護代の尼子経久に奪われた上、この館がある江北も家臣の浅井亮政による下克上に遭うなど、衰退の一途を辿ったという。戦国大名として復活するのは、守護斯波氏の尾張守護代であった織田氏の信長に仕えてから。
出土した青銅製の重りは、近江守護としての地域的な権力を示したものだったのだろうか。なれば、この館が「府中」としての役割を担ったのかどうか。結構興味深いところではある。