〔出典:PALESTINE--ISRAEL JOURNAL of Politics, Economics and Culture 1996年冬号 Vol.III, No.1〕

ガザ回廊:和平の貌

署名:アミーラ・ハス

 エレツ交差点の検問所に行って、目の当たりにしたらいい。土嚢とコンクリート壁の向こう側を塞いでいるのはフェンスと監視塔、歩哨たち、鉄のゲート、国境警察。磁気カードのチェック用ゲートとビービー唸りつづけるコンピュータ端末もある。
 どのように書き連ねようとも、この光景を文字だけで正しく伝えることはできない。行って、目の当たりにしたらいい。毎日、朝早く有刺鉄線のフェンスを通って列を作る2万人の労働者たち−−その姿は、けれどコンクリート壁で隠されている。自分の車でやって来る海外からの外交官やパレスチナ人の政治家といったVIPたちを当惑させないようにするためなのだが、結局彼らはそうした屈辱的な光景を目にすることになる。
 行って、目の当たりにしたらいい。午後、くたびれ果てた労働者たちが、ぼろぼろの布袋を抱えて、もしかすると情け深い雇い主からもらったストーヴすら抱えて戻って来る。検問所を越えるために2キロか3キロの距離を歩いて、そして朝からずっと彼らの帰りだけを待っていた何百台ものパレスチナ人のタクシーの1つをひろう。それでも、この労働者たちは幸せ者だ。労働許可を持っているのだから、その年齢は皆30歳以上。
 45キロ旅をして、また同じ距離を戻って来る。思い浮かべてみたらいい。長さ45キロ・幅8キロメートルの区域〔訳注:ガザ回廊のこと〕から外へ出ることが禁じられている。思い浮かべてみたらいい。外へ行くためには特別の許可証をもらうか、病気になる、あるいは実業家にでもならなければダメだ。もちろん、どの場合でも厳しい封鎖措置が取られていなければの話。封鎖されているときには誰一人として境界を越えることはできない。
 思い浮かべてみたらいい。朝、早起きできなかったけれど、そして特別の理由はないのだけれど、隣り町の友人に会いに行こうと思った場合を。ちょっと外出して本でも買おうとした、ビール・ゼイト大学〔訳注:ヨルダン川西岸地区ラーマッラーの近郊にある〕の図書館に行こうと思った、エルサレムに礼拝に行こうとした、あるいは単に山の空気でも吸いに行こうとした、そんな場合を。別の町に親戚が居て、そこまで行くための許可証もある、けれど、その親戚の家に一泊することは許可されていないとしたら。こんな状況が想像できるだろうか。
 思い浮かべてみたらいい。許可証の申請を受け付けている省庁(厚生省でも通産省でも文部省でも何であれ)の役人や局長だったとしたら。そして、数百人もの人々が事務所のドアに押し掛けて、もらえるはずの許可証はどこだと怒りながら、あるいは絶望的に詰め寄ってきたとしたら。自らが困惑や憤懣に陥らないようにするためには−−これらは全て、市民行政部(おっと申し訳ない。今はイスラエル連絡調整局と呼ばれている)の各地の事務所が直面している問題だ−−冷酷になって、さっさと振り払い、そして長さ45キロ・幅8キロメートルの解放区(もちろん、一番美しくて快適な場所であるガザ回廊の約2割の部分は入植者たちのものであり、パレスチナ人たちは立ち入ることができない)では満足しない「ヌードニク」〔訳注:「不満分子」の意〕たちを阻止し始めるだろう。
 思い浮かべてみたらいい。工場主だったとしたら。商業・生産部門は和平の背骨であり、これらなしに和平プロセスの実現は不可能だとして、世界中から多数の賛辞が寄せられている。ところが原料の調達が間に合わなくて、あるいは電気代を払うために十分なお金がなくて、昨年中は90日間も、もしかしたら半年間も工場で操業ができなかったとしたら。こんな状況が想像できるだろうか。
 こうしたことの一切は、〔ガザ回廊で作られた〕製品を主要な市場である西岸地区で売ることができなかったため、あるいは輸送コストが2倍もかかるため、である。パレスチナ人のトラックがこの2地域−−西岸地区とガザ回廊−−の間を往来することを禁じる法律ゆえに、こうした輸送のためにはイスラエルのトラック運送業者に頼まなければならない。思い浮かべてみたらいい。製品を積んだトラックの何台かはまとまってテル・アヴィーヴに向けて出発した。けれど原料(例えばボタンとか布とか)の供給元は交通渋滞につかまってしまい到着しない。付き添っていた国境警官が腕時計を見て予定時刻を過ぎたと告げる−−「さて、もう帰るぞ」、そして何も残らない。
 これらが、ガザ回廊での和平の貌の一部だ。そこに生きる人々はオーウェル風の芝居の中の統計に過ぎず、その一方で世界は官僚たちの言葉と宣伝に拍手喝采を送っているのだ。

■幻想を排して

 イスラエルのメディアは、1996年1月に西岸地区とガザ回廊で実施された第1回総選挙で選出されたパレスチナ立法議会が、いつ・どのようにしてパレスチナ憲章〔にある「イスラエル破壊条項」〕を削除するだろうかという点に、ずっと注目しつづけている【訳注1】。この関心は、同議会に対するイスラエル側の期待の核心と符合している。この期待とは、つまりパレスチナ議会はヤーセル・アラファートの行動、民衆の多数派からの支持を公式に得る以前から彼が進めてきた交渉の性格と方向性に正統性を与える組織体とならなければならない、というものだ。パレスチナ人の側からの期待がイスラエル側からの期待と共に、早々に打ち砕かれるということは大いにありそうだ。パレスチナ人たちの期待は、オスロ合意の履行の結果の全体から感得される欲求不満と不平を議会の権力が明確に表現すること、に尽きるといえるだろう。
 ハイダル・アブドゥル=シャーフィー博士は、ガザ回廊のみならず全選挙区で最大の得票を手にした候補だ。彼は選挙集会や記者会見の度に、議会の2つの任務と議会内での彼の役割についての自説を強調していた。内部的な観点では、民主主義とパレスチナ人の市民社会を実現してゆくための様々な法律を制定し、行政権力を監視し、その行動の平等性と潔白さについての調査を要求する、そのような組織体でなければならないとした。パレスチナ〔暫定自治〕当局それ自体と、イスラエルとの交渉に参加する当局の代表者たちとを指導・監督する役割を議会は持つべきだ、というのが彼の意見だ。同様の主張をする人は他にも存在する。一方で対外的な問題では、イスラエルと世界の世論に対して、今もって和平プロセスが示しているのはイスラエルがパレスチナ人の民族的な諸権利をまだ承認してはいないということなのだ、という点について明確に知らしめることが議会の任務だとした。「私は、幻想の犠牲となることは和平の大義に寄与するものではないとイスラエルの大衆に告げるでしょう」と、彼は語った。
 人々が議会に問いかけたいと思っているのは、非常に難しい問題ばかりだ。つまり、「安全保障上の理由」ゆえに30歳以上の人間にはガザ回廊から出る許可が降り、それより若い人には許可がでないという状況が長期化しているのはなぜか? 西岸地区に行くための許可を得るには、なぜ全ての事務官に懇願しなければならないのか? いつになったら学生たちは、授業に参加できるかどうか心配しなくてよくなるのか? 50歳の労働者で25年間も〔イスラエル内で〕働いてきたのに、イスラエルによって磁気カード式の通行証を突然没収されたのはなぜか? 百万人もの人々が長さ45キロ・幅8キロメートルの中に押し込められているという事実に何の重要性もないかのように続いているイスラエルとの交渉は、いつまとまるのか?

■そこに居たかのごとく

 私がガザ回廊に引き付けられているのには何か秘密があるのかと、何度か問われたことがある。1人のイスラエル人である私は、この2年間ガザ回廊で暮らしている。本当の理由の1つは、ここで多くの人々と会い、そうやって知り合うことを私は楽しんでいるからだ、というもの。開けっぴろげの微笑みの背後に悲しみを抱えた人々。
 けれど私は、問い掛けてきた人々のほとんどに対して2番目の真の理由を明かしてこなかった。それは、私が政府や権力者たちの意図をあれこれと批評しているだけなのだと、ユダヤ人たちに早合点から曲解してもらいたくはないからだ。そのような場合には、人々は私の発言に注意を払わなくなってしまうだろう。逆に私の答えからパレスチナ人たちの側では、大雑把で不適切、かつ、せっかちな批評が強まってしまうかもしれない。
 ナチから生き延びた避難民の娘だからって、それでどうしたら良いというのか? 私が人間の行動パターンを解釈するとき、それが、この個人的な事実を踏まえた上での解釈となるのは当然のことだ。多分、この2番目の答えは私の子供時代に、もう出来上がっていたのだ。私は、自分がそこに居合わせたかと思える程に母の物語−−ユーゴスラヴィアでドイツのゲシュタポ〔訳注:ナチの国家秘密警察〕に捕らえられ、1944年の夏に西ドイツのベルゲン=ベルゼンにある強制収容所に送られた−−を自分のものとしていた。
 母は、他の人々と一緒に家畜用の貨車から降ろされて収容所へ向かって歩かされていたときに、自転車に乗って気持ち良さそうに走るドイツ人の女性たちに気が付いた。後ろの荷台には食べ物のバスケットを載せて、そして引き立てられてゆく人々を何か珍しい物を見るかのような目つきでぼんやりと、また冷淡に見つめていたという。
 私の父は、昔観た映画ではこうだった、と云う。ワルシャワ・ゲットーではユダヤ人蜂起の間に火事が起きていたのに、ゲットーの壁のアーリヤ人側【訳注2】にはポーランド人の子供たち用の遊園地があったんだ。こっちの側では煙が空に立ち上っていて、その反対側では子供たちの明るい叫び声が響いていた−−。
 ガザ回廊と周りを取り囲むフェンスの外側、その道すがらには「ヤド・モルデハイ」がある。ワルシャワ・ゲットー蜂起のリーダーだったモルデハイ・アニーレヴィッツに因んで名前が付けられたキブツ。5分と離れていない場所なのに、まるでガザ回廊など、難民キャンプや自由に飢えた人々など一切存在しないかのようだ。そのキブツの道路脇にある宿屋で、ナチから生き延びた避難民である両親の経験から引き継がれた反応は、私の内側に何度でも明確な貌をとって現われてくる。そう、自転車に乗っていたあの女性たちの側には絶対に立つものか、と。

【原注】
*アミーラ・ハスは、1993年からイスラエル日刊紙『ハ・アレツ』の記者をしており、ガザ回廊に在住。
*この文章は、1996年2月末にガザ回廊に完全な封鎖措置が出される以前に書かれた。【訳注3】

【訳注1】パレスチナ憲章の「変更手続き」は、1996年4月にガザ回廊で開かれた第21回パレスチナ民族評議会(PNC;現在の和平プロセスの過程で立ち上がってきた「パレスチナ立法議会」とは別ものの、あくまでも歴史的なパレスチナ解放機構《PLO》の最高議決機関)において多数で採択された。
【訳注2】アーリヤ人側:この翻訳の元テキスト(英文)では「Ayran side」となっている。地域の名称という可能性もなくはないが、ワルシャワ・ゲットーの外側を「アーリヤ人側(Aryan side)」と呼ぶ表現が一般的にあったようなので、この元テキストの綴りはミス・タイプなのだろうと判断した。
【訳注3】1996年2月末から3月にかけてテル・アヴィーヴや西エルサレムなどで、ハマース(イスラーム抵抗運動)によるものとされる自爆攻撃が連続して起こった。イスラエル人多数が死傷し、これを契機にガザ回廊と西岸地区には厳しい封鎖措置が取られた。