〔出典:International Viewpoint誌/329号/2001年3月〕

イスラエルの国家、市民社会、そして軍隊

署名:セルジオ・ヤフニ

 1948年のイスラエル建国以来、そのユダヤ人住民たちは、常に兵役というものによって特徴付けられてきた。つまるところイスラエルの市民たちは、その国家が遂行するアラブ世界に対する戦争で任務を果たすべき存在とされたのだ。
 市民権についてのこうした定義は、兵役に就くことのないパレスチナ・アラブと正統派ユダヤ教徒の両者を社会的に無視された存在とした。さらにパレスチナ人は、民族的な理由によって、この国家の市民生活から隔てられた。この民族的/軍事主義的な脈絡では、市民とは国家的な諸目的に抵抗することなく奉仕する存在であり、そして市民の諸権利は、そのような奉仕の行為それ自体によって明確なものとして定義されるのだという、一つのイメージが創造されてきた。その諸権利には、教育、医療、福祉などの権利も含まれている。こうしたシステムを実現するためには、この国家は避けることの不可能な戦争に関わっているだけなのだとすること(少なくとも世論の目にはそう映ること)、そして戦争の目的を明確にすることが必要だった。
 レバノン戦争は、国家と市民社会、そして軍隊との間にあったこうした合意を破り、今日まで引き続く社会的・政治的な分裂を生み出した。この戦争の主要な性格の一つとしてあるのは、この戦争に責任のあるアリエル・シャロン、ラファエル・エイタンたちが、戦う目的を世論に対して、さらにはイスラエル政府に対してさえ、一切説明しなかったことだ。
 それゆえレバノン侵略は、1980年代、1990年代にイスラエルで起こった社会/政治的な、そして文化的な変化の中心に位置する出来事であったし、とりわけイスラエル人とパレスチナ人の関係性に生じた変化の中心にも位置した。そして、イスラエル社会の中での軍の地位は低下した。
 1987年〜1991年のパレスチナ人たちのインティファーダもまた、さらに重要なものとしてみておくべきである。1982年まで、ヨルダン川西岸地区とガザ回廊におけるイスラエル占領軍の存在は、イスラエルの占領に反対する政治的な運動の発展を妨げていた。ある程度大衆的に知られたパレスチナ人の指導的人物たちは逮捕され、そして武装闘争に関わっていたかどうかに関わらず、しばしば追放された。この弾圧政策−−「テロに対する闘争」というイスラエルの方針の一環−−は、様々な非武装の政治組織に対して、とりわけ有効であったが、しかしパレスチナ人たちの民族主義的な運動にとっての唯一の表現形態が武装闘争であるという、そうした孤立状況をも逆説的に生み出した。この武装闘争は、パレスチナの外に存在したPLO〔パレスチナ解放機構〕によって主要に指導され、パレスチナの地にある諸組織に実行が命じられることもあったし、場合によってはレバノンとヨルダンの領域からの攻撃という形で実行されることもあった。
 ところがレバノン戦争は、西岸地区とガザ回廊で臨戦体勢をとる実動兵員数を減らし、このためパレスチナの市民社会は、チュニス〔に移ったPLO〕の直接的な指令を受けることなしに発展することができた。PLOは、自らが取り組まざるを得ない、より緊急かつ直接的な諸問題を抱えていたのである。この新しい市民社会は、様々な大衆組織や人権運動グループ、労働組合、学生組織などによって、インティファーダが開始される5年も前から形成されていた。それゆえインティファーダは、まさしくイスラエル国家の政治的・軍事的体制に対する対応であったし、レバノン戦争が間接的に影響していたとも言い得るのだ。

◆トラウマ

 イスラエルでは、その軍事政策に対する抵抗と平和運動が、1973年10月の〔第4次中東〕戦争で受けたトラウマの結果として開始された。この戦争が起こるまで、イスラエルの市民たちは、その政府と軍隊、そして軍事的な安全保障政策を全面的に信頼していた。イスラエル建国後の25年間〔訳注:1948年から1972年〕に、この国家の安保政策は、3回の戦争(1948年、1956年、1967年)をもたらしてきた。そしてこれらの戦争は、周辺諸国に対するイスラエルの軍事的優位を示しただけでなく、イスラエルの支配下に領土を追加していった。しかし1973年は違っていた。エジプトとシリアの軍隊は、連携した攻撃でイスラエルを驚かせ、そして1967年に占領された領土を奪いかえした。これへの反撃のなかでイスラエルは、なんとかスエズ運河を〔再び〕越えることはできたが、しかしシリアとエジプトが取り戻した土地をの全てを改めて手にすることはできなかった。
 いわゆる“ヨム・キプールのトラウマ”〔訳注:1973年の第4次中東戦争を、イスラエル側では「ヨム・キプール戦争」とも呼ぶ。「ヨム・キプール」は「贖罪の日」で、ユダヤ教に基づく祭日〕は、この戦争におけるアラブ側からの奇襲という要素から、また同時に戦闘における〔イスラエル軍の側の〕死傷者の多さから生じた。この戦争の後で、除隊したイスラエル兵士たちは、“ゴルダ・メイア政権の無責任な政策”に抗議するデモンストレイションを行った。この運動は、イスラエルの軍隊システムを批判するものではなく、戦争を予見し、それに自ら備えることに失敗した国家の政治指導部を批判するものであった。
 この1973年の戦争の、主要な政治的帰結の一つは、イスラエルの建国以来ずっと政権を手にしてきた労働党が、その権力を失ったことだ。この労働党政府は、政党内部での分裂の後に崩壊し、リクード連合が後継政府を形成した。これは、労働党−−イスラエルの政治的方針を導いてきただけでなく、国家自体のアイデンティティでもあった−−にとっては大きなトラウマとなった。軍隊、治安部門、労働組合、そして産業界は、ヒスタドルート〔イスラエル労働総同盟〕の傘下に組織化され、また学術界もおおむね労働党のヘゲモニーの下で維持されてきた。この支配階級、とりわけその官僚主義的な指導部にとって選挙での敗北は、イスラエル国家そのものを失ったに等しいような出来事だったのだ。
 イスラエル・エジプト間の和平プロセスは、1977年のサーダートによるエルサレム訪問と共に、当時のイスラエル首相メナヘム・ベギンの賛同の下で開始された。1978年3月、エジプトのイスマーイーリーヤでのベギンとサーダートの会談が挫折したとき、このプロセスは克服不可能な危機を迎えたと受け止められた。予備役将校たちのグループが、イスラエル首相に宛てた公開書簡のなかで次のように宣言した。「“大イスラエル”の国境線を保持しつつ、近隣諸国との良好な関係性を基盤に平和共存をめざす、そのようなイスラエルを望ましいと考える政府に対して、私たちは重大な懸念を抱かざるを得ない。“グリーン・ライン”の向こう側に入植地を創り出すことを望ましいとする政府は、我々の主張の公正さを尊重しているのかどうか疑わしい。イスラエル国防軍〔IDF〕の強さは、その兵士たちが、イスラエル国家の基本的な方向性と自らを同一であるとみなしているからこそなのだ。」
 この書簡には350人の予備役将校たちが署名した。書簡を準備した人々は、この年の3月末に、書簡に対する賛同人が1万人に上っていると発表し、4月1日にデモンストレイションを主催したが、そこには4万人の人々が参加した。“シャローム・アヒシャーヴ(ピース・ナウ)”という名で知られる運動は、このデモンストレイションから生まれたのだ。そしてこの運動体はレバノン戦争の際に、またインティファーダの際にも、政府に反対する議会外勢力としての立場を取り、おおむねシオニスト中道左派の政治的ラインを表明していた。
 この“将校たちからの手紙”は、政府の方針と、軍務を遂行する将校たちのヤル気との間の関係を、イスラエル国家の歴史上初めて表現するものであった。だから“ピース・ナウ”は、単に反対勢力であるだけでなく、イスラエル国家自体が“横取り”され続けているのだと感じていた人々の大部分が抱いていた感傷的な気分をも体現したのだった。
 1982年以来、リクード政権の諸政策に対する積極的反対の立場を支え続けてきた〔ピース・ナウの〕“責任をも引き受ける反対派”というイデオロギーは、イスラエル国家の戦争に反対する大きなデモンストレイションや会議、集会などにおいて何度も表明されたが、その参加者たちは、〔ピース・ナウの〕中心的なメンバーたちが軍隊においても指導的な立場にあり続けるだろうとも期待していたのだ。〔軍の〕命令への服従を拒否するという考え方は、このような観念とは両立不可能だった。
 今日では状況は、全く違っている。兵役の拒否は、個人的な選択の問題だと見なされているのだ。正確な統計は存在しないが、予備役の兵士たちの僅か20%が毎年の軍務に就いており、若者たちの約30%が義務としての兵役に就くことを拒否しているということが、様々な資料で示されている〔訳注1〕。
 このような変化が起こったのは、レバノン戦争ゆえに、また同様にインティファーダゆえに、であった。レバノンでの戦争と国家経済の自由化の2つが、国家と市民社会の間の古い関係に終止符を打ち、例えば公民権などのような個人の利益は国家の利益とは異なる/あるいは異なり得るのだという、そうした個人に関する観念がイスラエルのユダヤ人たちの中に初めて生まれた。軍は、レバノン戦争の開始当初には、なおも国家と市民との間の共生関係を全面的に象徴しており、人は全てを−−その命さえも−−犠牲にすることができた。しかし、国家と市民との間の断絶が〔この戦争の経過の中で〕非常に明白なものとなったのは、この軍の内部においてであった。さらに、この変化はレバノン戦争に対する自然発生的な反応ではなく、個人の良心と矛盾する軍の命令への自動的な服従に公然と反対する兵士たちが出てきたからなのだ。

◆ヘイグ国務長官の訪問

 レバノン侵略の発端は、合州国ロナルド・レーガン政権の国務長官アレクサンダー・ヘイグによる1981年4月の中東訪問に見いだすことができる。この時に国務長官は、中東地域における対ソビエト・ブロックを提案したのだった。合州国からすれば、中東地域でのソビエト連邦の主要な同盟者はシリアだった。それゆえにイスラエルの役割は対シリア・ブロックの構築であり、イスラエル軍参謀長であった当時のラファエル・エイタン将軍は、この方針を、PLOやシリアとの関連での、レバノンにおける軍事的緊張状態のエスカレートに対するゴー・サインだと解釈した。1981年6月のPLOによる砲撃から結果したのは、1982年6月まで維持されたパレスチナ人たちとの間での間接的な停戦合意にイスラエルが合意せざるを得ないという、そのような事態だった。
 1981年の選挙で勝利した第二次ベギン政権で国防大臣となったアリエル・シャロン将軍にとっては、中東で新たな親イスラエル的な政治秩序を創造するという誇大妄想的な計画に適合するような戦争をしかける絶好のチャンスだった。だから国防大臣となって2ヶ月後のシャロンは、以下のような目標を実現するための軍事作戦について詳細な計画を策定するようにと、軍参謀長に指示した。
●パレスチナ勢力からの砲撃能力を取り除いて、北部ガリラヤの諸都市を射的距離の外に置くこと。
●ベイルートに存在するPLOを、政治的・軍事的に破壊すること。
●イスラエルとの和平条約に調印し得るような政権が、ベイルート〔=レバノン国家〕に据えられること。
 イスラエルの多くの人々からは十分な正当性をもつとは見なされていなかった政府が1982年に戦争を開始した時点での諸条件、シャロン将軍の誇大妄想的な計画、陰謀の存在を感じさせる雰囲気−−反対諸勢力が非常に強く反応したのは、これらの諸要素のゆえだった。6月7日にはエルサレムにあるヘブライ大学の学生たちが首相官邸前で、レバノン戦争に反対する初めてのデモンストレイションを行った〔訳注2〕。翌日、「平和と平等のための民主戦線」(共産党が率いていた)が、クネセト〔イスラエル国会〕で政府に対する不信任決議案を提出した。同じ6月の13日、テル・アヴィーヴで戦争に反対する2万人のデモンストレイションが行われ、7月3日にはピース・ナウが主催し、10万人の人々が参加したデモンストレイションがテル・アヴィーヴで行われた。さらに翌日には、レバノン〔での戦線〕から戻ってきていた120人の予備役兵たちが首相官邸前でのデモンストレイションを行った。7月7日には、“参謀長”クラスの予備役兵たちが、首相宛の書簡の中でシャロンの辞任を要求した。
 これら一連の現象は、戦争が人々の集団的アイデンティティの揺りかごであるような社会において、全く新しい出来事であった。最もラディカルな大衆的現象は、戦争に参加することを拒否し、“イェシュ・グヴール(限界がある)”運動を立ち上げていった兵士たちの動きだった。ピース・ナウの活動家たちと同様に、イェシュ・グヴールもまた、国家が横取りされ続けており、この戦争が、その目的からみて違法であると感じていた。だから彼らは戦争に参加しないことを決断したのだ。この立場は、国家の防衛に直接結びつかないような政治的目的のために軍隊を動員することに反対するという愛国心の一形態として見ることができる。
 1982年7月までには、レバノンでの軍務に就くことを拒否して投獄された兵士が既に1名存在したし、イスラエル軍のベイルートからの撤退までの間には170〜180人の兵士たちが同様の理由で刑期は異なるものの投獄されていた。〔この運動は〕愛国主義的なスタンスとして始まったにもかかわらず、その自らの限界を超えて溢れ出していった。なぜならば、一方でリクード政権の存在は一時的な、あるいは偶発的な現象ではなく、イスラエル国家の社会/政治的現実の本質的な一部分だからであり、他方ではレバノンでの戦争が人々の日常的な一部分となってしまったからである。イェシュ・グヴールの行動は、兵役拒否が真のオルターナティヴたり得るのだという、一つの突破口を開いたのだ。
 レバノン戦争と、これに対する反戦運動、そして後の“インティファーダ”、さらにその他の変化は共に、一枚岩的な社会から、複数の異なる要素から成り立つ社会への、変化の動因であった。今日では、全てのイスラエル人にとって共通するアイデンティティの諸要素を見いだすことは、ほとんど不可能なのだ。レバノン戦争の間に反戦活動家たちが開いた〔兵役拒否の〕正当性という突破口は、市民的な諸権利の事実上の変質を示しており、彼または彼女が国家や軍隊との関係性を自ら選択することも市民的な権利となった。生み出された大衆的な圧力が、息子や娘たちが兵役に就く際の条件について、親が発言権を持って介入することを軍隊に受け入れさせるよう強いたのだ。この具体例を、73人の兵士たちが死んだレバノンでの空中衝突事故を契機として結成された“4人の母親の運動”に見ることができる〔訳注3〕。兵士たちの母親4人が兵役の危険性について訴えたデモンストレイションが大衆的な支持を得て、1999年のイスラエル総選挙では全ての政治的指導者たちに、レバノンからの速やかな撤退を公約に挙げさせる、その力となったのだ。

◆占領地

 レバノンでの戦争を、占領地での出来事と切り離して考えることは不可能だ。1967年以降のイスラエルは、占領地の経済的な統合政策を継続してきた。その政策が目論んだのは、パレスチナ人住民たちの生活水準を向上させる一方で、占領に抵抗するような傾向を弱体化させ、さらに占領地の一部を最終的に併合し、残りの部分はヨルダン国王との和平合意という脈絡での交渉の対象とするという政治的解決のための余地として残しておこう、ということであった。PLOは、この政策を実現してゆくための主要な阻害物だった。こうした観点を持ちながらイスラエル政府は常に、PLOを破壊すること、あるいは少なくとも分断することを目論んでいた。
 1976年にイツハク・ラビンがヨルダン川西岸地区とガザ回廊での地方自治体選挙を呼びかけた時、その当初の目的はパレスチナの民族運動を分断することであった。この選挙には、PLOとその各党派の参加は禁止されていたのである。ラビンが意図したのは、イスラエルが交渉を行う相手として、PLOではない地元の政治的オルターナティブを創り出すことだった。とはいえ物事は計画通りには進まず、1976年の選挙に立った候補者たちは離散の地にあるPLOと密接に結びついた無所属候補として立候補したのである。
 パレスチナの民族運動の様々な党派の戦略は、基本的には軍事的なものであった。この戦略ゆえに南部レバノンは“〔イスラエルにとっての〕北方のベトナム”となり、そこからイスラエルへの攻撃が行われたのだ。さらにこの戦略ゆえに、占領地のパレスチナ人住民の唯一の役割は、土地の上にパレスチナ人としての基盤を保持しつつ解放を待つという、受動的なものとされた。レバノンでの戦争はこの戦略を粉砕し、PLOの指導部にではなく、パレスチナの地におけるパレスチナ人たちに、より中心的な役割を与える余地を生み出した。1980年代の中旬以降、占領地のパレスチナ人指導者たちは、蜂起に向けて住民の組織化を開始していたが、その一方で離散の地にあるPLO指導部は、レバノンのイスラエル占領下にはない地域で自らの組織化を試みながら、同時に外交的な手段でイスラエルと意志疎通を実現しようとしていたのだった。
 1980年、イスラエルとエジプトとのキャンプ・デービッド合意の履行の一部としてあったパレスチナ自治に関して、メナヘム・ベギン政権は一方的に軍事命令第947号を布告し、1967年以来存在していた軍事〔占領〕政府の権限の一部を担わせるための文民行政を立ち上げた。PLOと地元のパレスチナ人指導部は、この措置に抵抗するために民族指導委員会〔National Leadership Committee〕を結成した。ここから1981年11月の大きな抵抗運動のうねりが結果した。イスラエルは離散の地にあるPLOを非難し、〔一方的に立ち上げた文民行政府の長として〕選出された9人の市長の罷免と、パレスチナ人住民に対する激しい弾圧措置で、これに応えた。そして、この弾圧には、イスラエル人入植者も参加していたのだった。
 同時に、中東地域に対ソビエト・ブロックを創り出そうというアレクサンダー・ヘイグ米国務長官の提案が、イスラエルに対して、PLOを政治的・軍事的に粉砕するための好機を与えたのみならず、占領地に対するイスラエル自身の諸計画についての後押しをも与えたのだった。イスラエル首脳部の分析によれば、地元〔占領地〕のPLOの中心的メンバーたちは単に海外〔のPLO〕からの指導に従っているだけであり、それゆえ地元の指導層を無力化し、イスラエルに自らの政策実現を可能とするためには、PLO指導部を粉砕すれば事足りるとされていたのだった。
 1980年代初頭における、離散の地にあるPLOと占領地の抵抗運動の関係についてのイスラエルの分析は、基本的には正しい。とはいえ、占領地に対して自らの政策を押し付けるためには前者〔離散の地のPLO〕を粉砕すれば十分なのだとするベギンの思い上がりは、間違っていた。“インティファーダ”の際に存在していた武装諸組織のリーダーの一人は、1980年代の初頭には占領地内で政治的な中心となる部分ができあがっており、その人々は闘争の責任主体となり得たし、実際にそうしたのだ、と述べている。「〔イスラエルの〕レバノン侵攻に続いてPLOが陥った危機は、まるで孤児になったような気持ちを私たちにもたらしました。なぜならば私たちのように政治的な諸組織に属している者たちは、自らイニシアチブを取らなければならない、私たちが何をすべきかについて離散の地から伝えられるのを待っているわけにはいかなくなった、ということを理解していたからです。1970年代から徐々に建設されてきた大衆的な諸組織が、私たちにとっての最初の活動の場でした。そして諸党派は、私たちが正しいと思うとおりに活動するようにさせたのです。それゆえ私たちは民衆の声に耳を傾けるようになり、そして民衆の闘志を理解することができたのです。」
 つまりレバノン侵攻は占領地に存在する〔イスラエル軍の〕兵力を減らしたが、そのためパレスチナの地で政治的な中心となる部分が、その民衆を、自らの解放を待ち続ける受動的な主体から、自らを解放してゆく積極的な行為主体へと変化させることを可能にしたのだ。こうした指導組織を備えた様々な政治的活動は、占領軍との衝突を次第に激しいものとしていくと同時に、現在はインティファーダとして知られる1987年12月の一斉蜂起にまで到達したのだった。離散の地にあるPLOも、そして同様にイスラエル当局またも、これには驚愕した。

◆オスロ合意

 イスラエルの治安部隊はインティファーダを粉砕することはできなかったが、ソビエト陣営の崩壊や湾岸戦争〔1991年〕などの国際政治における変化は、パレスチナ人たちの民族運動に内部的な危機をもたらし、さらに合州国が仲介したイスラエルとの取り引きへと帰着した。このような観点からすればオスロ合意は、イスラエル国家が自らの“パレスチナ問題”を自分自身の手で取り除くことの不可能性と、その一方で帝国主義と提携することで、これら一連の政治的変化を生き延びようとするPLOの能力との間で交わされた協定であるとみることができる。オスロ合意から結果したパレスチナ自治政府は、占領地の約18パーセントを手にしたが、同様にオスロ合意から創り出された〔イスラエル軍とパレスチナ自治政府が〕諸権限を分担している地域(占領地の42パーセント)では、今も約80パーセントのパレスチナ人たちがイスラエルの支配下で居住している。
 1985年にイスラエル軍が〔レバノン南部の〕“安全保障地帯”での駐留を開始して以降、10年以上に渡ってレバノンでの戦争状況は、イスラエルの世論が危惧すべき対象ではなくなっていた。もちろん、それには多くの理由がある。政治的な脈絡では、1984年以降のイスラエルは、労働党とリクード陣営の連立による「民族統一」政府が政権を握ってきた。そのため反戦運動の社会的・政治的な基盤となる部分は、この国の政治指導体制に対して一定の信頼を再び見出すことができたからだ。
 この“安全保障地帯”からの軍の退却〔retreat〕は、量的な、また質的な変化をもたらした。まず第一に、レバノンにおける兵士の数を大幅に減らすこととなった。第二には、予備役兵を軍務につかせることが、ほとんど完全になくなったことだ。予備役兵たちは、それまでの反戦運動を牽引してきた人々だった。これ以降、〔安全保障地帯での〕任務のほとんどは、ラハド将軍率いる南レバノン軍(SLA)が行うこととなった。このことは、IDF〔イスラエル国防軍〕の犠牲者を減少させることにもつながった。さらにはインティファーダゆえに、レバノン問題は脇に追いやられ、〔イスラエルの〕世論の関心事は占領地の状況に集まることとなった。
 この時期には、レバノンにおける〔イスラエルの〕軍隊の存在と、それゆえの対価については、広範な議論が行われることはなかった。そして、こうした状況の中で、二つの変化が起こった。その一つは、レバノンでの戦闘任務の拒否が、イデオロギー的な理由に基づくものではなく、そのかわりに個人的な問題となったことだ。イスラエルで通常の兵役や予備役の任務を逃れる唯一の手だては、精神的な、あるいは健康上の理由がある場合であるため、そうした理由を挙げることは全く一般的なこととなった。イスラエルでは、レバノンでの軍務に就くよりも投獄されることを望ましいとする複数の事例が報じられたこともあった。
 1996年半ばに首相となったベンヤミン・ネタニヤーフの政権下の時代に、“レバノンからの一方的な撤退”という問題が浮上しはじめた。非常に多くの反戦運動に加えて、〔レバノン政府との間での〕合意の上であれ、あるいは合意なしにであれ、〔南部〕レバノンを放棄することに賛成であると語る政治家たちも現れてきた。バラク政権の法務大臣ヨッシ・ベイリンは、こうした立場を早い時期から表明していた政治家の一人だ。いわゆる“安全保障地帯”の有効性など、もはや存在せず、そして国際的に承認された国境線からであってもイスラエルは−−その場合には、より効果的にではないにせよ−−十分効果的に自衛することができるのだと、彼は主張した。
 奇妙に思えるかもしれないが、ネタニヤーフ政権の最後の1年間に起こったこととは、レバノンからの一方的な撤退という提案が、イスラエルの政治家たち、そして軍の高級将校たちの多くからの賛同を得たということだ。そして最も強い支持を表明したのは、元将軍で、レバノンにおけるイスラエル軍駐留の仕掛け人、アリエル・シャロンだった。これらの、互いに符号する諸点については、より立ち入った解説が必要とされるだろう。その他の諸要素の中では、軍の撤退を求める母親たちの運動が果たした役割に注目すべきだ。これらの運動は、イスラエル社会の内部にあったコンセンサスを解体するという現象へと焦点を結んでいった。
 注目すべき第一の特徴は、そのグループの名前「母親たち」だ。つまり、軍と支配階級の決定に疑問を持った、兵士の母親たちが自らのグループにその名前を付けたのだ。これはヨーロッパでは大して珍しいこととは思われないかもしれないが、しかしイスラエルでは、ほんの数年まえに起こった非常にまれな事例だった。さらに第二の特徴は、第一の特徴と関連しているが、このグループの核が、本来は軍事的で、そして政治的でもある意思決定の過程に関与する権利を要求する女性たちによって形作られたことだ。このこともまた、古い社会の特質を破壊する、一つの転換点を意味した。第三の特徴は、このグループが取った活動の多様な形態にあった。イスラエル各地を自転車で旅をしながら抗議活動を行うといった、奇妙とも思えるような様々な手段が実行された。第四の特徴は、〔この女性グループの〕メッセージそれ自体にあった。それは、「その後に何をするべきかについてなど明確にしなくとも、直ちにレバノンから撤退すべし」というものだった。このグループは、こうした立場ゆえに、イスラエルの〔レバノンからの〕撤退から数日後に解散したのだ。

◆撤退

 1998年と1999年は、レバノンでの軍事行動が特に激しい年ということではなかった。ヒズブッラーの軍事行動の増加は実質的にはなかったし、イスラエル側の損失も1995、96年の水準(年間で約25人の兵士)であった。しかしながら社会は少しずつ変化し、国家的な目的を達成するための犠牲を正当なものだとする考え方や軍隊それ自体に対する一般的な認識の変化ゆえに、大きくなる一方の撤退を求める声は、イスラエルの政治的な最重要テーマの一つとなったのだ。1999年のリクード政権崩壊と、これに続く選挙は、イスラエルの政治状況に前例のない大事件を生じさせることとなった。前の軍の最高司令官が、「〔レバノンとの間で〕和平合意に達することができても、できなくても、2000年7月以前にレバノンから撤退する」とのスローガンとともに出馬した。つまりイスラエルの歴史上、最も輝かしい軍歴を持つ人物たるエフード・バラクが、ついに戦争状況の終結を公約としたのだ。イスラエルのレバノン駐留を終わらせるという選挙公約が、1999年5月の選挙でのバラクの勝利にプラスとなったことは疑う余地はない。
 バラクの対レバノン政策は、もはやイスラエルの人々は〔レバノン南部の〕占領の対価を血で支払いたいなどとは考えていないのだという現実に基づいたものであり、さらにバラクは同様の政策をパレスチナ問題にも適用しようと考えた。イスラエルの人口の60%以上が、オスロ合意をイスラエルにとって代替可能な唯一の選択肢として受け入れている〔訳注4〕が、その一方で、西岸地区とガザ回廊における40万人の入植者たちは、イスラエルが1967年以前の境界線まで完全に立ち戻ることの不可能性を保証する存在だった。
 〔1993年の〕オスロ合意への調印は、イスラエル〔国家〕とパレスチナ人の関係性における新たな時代を導くものであった。この合意以前の両者の関係は、イスラエルによる占領とパレスチナ人たちの抵抗との間の、闘争によって規定されていた。しかし合意後、この両者の関係は、イスラエル政府とパレスチナ民族当局の間での交渉プロセスへと変化した。
 〔この交渉プロセスと〕同時に、占領地の植民地化プロセスも継続していた。これは、最終的な地位交渉の結果として立ち現れてくるであろうパレスチナ国家〔entity〕の最終的な姿をも変えてしまう動きだ。入植地の拡張と道路網の建設は共に、現存するパレスチナ人たちの領土を、さらに分断することを目的として、ずっと続けられている。占領地でのイスラエルの存在に対する国際世論も変化していった。つまり、1993年までは入植地が違法なものと見なされていたとしても、2000年までに、これらの入植地は交渉のための議題となり、「占領地」は「未解決の領土〔disputed territories〕」となったのだ。

◆バラクの強要

 〔2000年7月の〕キャンプ・デーヴィッド2会談において、このときすでにイスラエル国会で少数与党となっていたエフード・バラクは、現在のインティファーダが開始される以前の段階でのイスラエル社会の論調が受け入れ可能であると表明していた政治方針の、その限度一杯までの提案しようと腹を括っていた。その限界点というのは、パレスチナ国家の実現を認めることになるかもしれないけれども、しかし西岸地区とガザ回廊に存在するユダヤ人入植地の撤去はほとんど認めず、またエルサレム問題についての最小限度の譲歩も認めない、というものだった。それにもかかわらずバラクは、合意案に対して「イエスか、ノーか」選択せよと、アラファートに指図するという態度で臨んだのだ。確かにその案は、パレスチナ国家の実現を導くかもしれないが、しかし、その国家の性質と形態は、パレスチナの政治指導者たちの誰一人として受け入れることが不可能なものであった。さらにファタハの支持者たちも含むパレスチナ人たちの世論は、オスロ和平プロセスに対する幻想の一切が失われていることを示していた。パレスチナ人たちの生活水準は急激に悪化していた。だからこそ、この人々の目に映るのは、主権を持った独立国家というよりも、南アフリカのバンツースタンに似たパレスチナ国家を実現するための合意について交渉している堕落した指導部の姿だ。さらに人々には、現指導部に代替するものとして、ヒズブッラー〔訳注:イスラームを基盤とする、レバノンの政治・軍事組織「神の党」〕という実例もある。
 こうした脈絡からすれば、2000年9月29日に開始されたパレスチナ人たちの蜂起は、独立を目指すパレスチナ民衆の闘争の再開であった。それは、イスラエル人の市民社会が抱える優柔不断さを考慮して進められてきたバラクの政策に対する対抗的な動きであるのと同時に、パレスチナ人たちの社会における民主主義を求める闘争でもあった。このパレスチナ社会内部での闘争の主体は、アラファート政権の堕落した官僚機構ではなく、民衆と武装した諸組織だ。
 一方のアラファートは、パレスチナ自治政府のスタッフたちが採る方針から自らを際立たせること、そして大衆闘争の指導者として自らを確実に位置付けることの中に、自らの未来が見いだせるということを理解していた。もしアラファートがそうしなかったならば、大衆運動の中での立場を完全に失い、バルグーティーのようなファタハの地元指導者に道を譲ることになっただろうし、さらにあり得ることは、闘争の主導権をイスラームを基盤とした諸組織の手に譲り渡すということだった。
 すでに述べたように、バラクの政治方針は、シオニスト左派の諸党派をも含むイスラエル内の政治的コンセンサスによって承認された枠組みの下にあった。イスラエルの側は、こうした枠組みに対するパレスチナ側の拒否が、和平プロセスからのパレスチナ指導部の離脱、さらには武装闘争への道を開くものであると理解した。そしてイスラエル国防軍は、1996年9月(ハラム・アル=シャリーフの地下のトンネルを巡る衝突)以来ずっと、こうした状況に対しての備えを行ってきていたのだ。
 イスラエル国防軍とパレスチナ当局との対決は、レバノン戦争を含む過去の軍事的対決とは異なった性格を持っており、イスラエル社会が抱える欠点を明らかにした。今回の衝突が始まってからの数ヶ月間、パレスチナ人たちの闘争は何よりもまず大衆的な闘いであり、せいぜい空に向けた〔パレスチナ人の側からの〕銃声が聞こえる程度だった。ところがイスラエル軍による応戦は、致死的なものだったのだ。イスラエル国防軍〔IDF〕は人々を撃ち殺し、より致死的ではないような手段を使ってパレスチナ人たちを鎮圧するという努力は、全くなされなかった。
 この期間の経過の中でイスラエルによって開始された軍事的攻撃の強化は、パレスチナ人側からの同様の攻撃の激化を導いた。多くの死者をもたらす銃火器の使用に対抗して、パレスチナ人たちもまた、イスラエル軍の兵士や入植者たちを殺しはじめた。イスラエル国内の複数の都市での車爆弾も実行された。犠牲者の中での〔パレスチナ人とイスラエル人との〕比率に変化はなかったけれども、パレスチナ人による攻撃は、1週間に2、3人の死者をイスラエル側にもたらし始めた。
 その一方で軍事攻撃は、低強烈度戦争のレベルにまで達しており、占領地に展開するイスラエル軍兵士の数は今や1万人以上となったが、しかし軍は予備役兵士たちの召集を行っていない。その理由は明白だ。つまり、これまでの戦争や衝突とは違って、今のイスラエル社会は、占領を継続するために必要な代償を支払う用意ができていないからであり、さらに軍は、予備役の兵士が犠牲になることによって、占領地からの全面撤退に対する賛成へと世論が素早く向かうことを恐れているからだ。これと同様の理由ゆえにイスラエルは、周辺アラブ諸国との戦争状況として結果するような衝突を避けるために最大限の努力を払っている。そうした状況になればイスラエルは、全面戦争を遂行するために必要な予備役兵たちを動員せざるを得ないのだが、しかし予備役たちがその召集に応えてくれるかどうかの確信が持てないでいるからなのだ。

◆低強烈度戦争

 イスラエル政府は中道主義的な方針を選択し、空からの攻撃手段での低強烈度戦争を遂行するのと同時に、イスラエル人の犠牲者が一定の限度を超えないように警戒を強めている。別の表現をするならば、イスラエルの社会的・政治的な手詰まり状況こそが、大きくなる一方のパレスチナの民衆に対する苦難の原因であり、さらに、この手詰まり状況が続く限りイスラエルは、現在の危機的状況を解決するための平和的な方策を受け入れることは不可能なのだ。
 結果がどうであれ、現在の状況は、1973年の10月戦争に匹敵するほど重要な意味を持ち、そしてイスラエル国家の歴史の中で明確に時代を画するような2つの出来事を印すことになるだろう。一つには、現在の危機が労働党を、しかもそこからの回復には数年間も必要とされるような、そうした歴史的な敗北に導くということは、ほぼ確実だ〔訳注5〕。そしてもう一つ明らかなことは、現在の危機がもたらすのは、イスラエル国家のユダヤ人的な性格を保持するために、更なる地域的統合を進めるべきとする人々と、逆に排他的なユダヤ人アイデンティティを改めて強めようとする人々とに、イスラエル社会が大きく分化することだ。こうした分極化は、イスラエル国内の和平賛成派の間でも起こるだろう。つまり和平に賛成するという人々は、その政治的な実践において、シオニズムか、あるいは平和の実現のための闘争かの、どちらかを選択しなければならないのだ。


*原注:セルジオ・ヤフニ(Sergio Yahni)はオルターナティブ・インフォメイション・センターの協力者である。この文章は、Diego Crenzelに書かれた文章を基にして加筆されたもの。Gerard Brehonyが翻訳した。

*訳注:
1:イスラエルの兵役は18歳で、男性は3年間、女性は21ヶ月。また兵役を終えた者は予備役に編入され、男性は51歳までは毎年最高で39日間の軍務に就くとされている。
2:『パレスチナ民衆蜂起とイスラエル』(第三書館/1989年)には、1982年のイスラエルのレバノン侵攻に関する年表が付いている。以下、その一部を抜粋する(日本語表記の若干の修正は引用者による)。
 1982年6月6日:「ガリラヤの平和作戦」開始。IDF(イスラエル国防軍)は国連レバノン暫定軍(UNIFIL)支配地域を通過して北進。
 6月7日:IDFが、ティール、ナバティエ、ハスバイヤを占領。各地域で(イスラエル/レバノン国境からの)40キロ・ラインを突破。サイダで市街戦。ダムール、ナーメ、西ベイルートに空襲。
 6月8日:IDFがサイダを占領。シューフ地域(ドルーズ派の拠点)を占領。
 6月9日:ベカー高原のシリア軍SAM6ミサイル基地を、IDF空軍が爆撃。IDFの戦車、ベイルート南方10キロへ。
 6月10日:ベイルート南部空襲。ベカー高原にてシリア軍・IDF軍が衝突。
 6月11日:IDF(陸・海・空軍)、南ベイルートおよび空港を攻撃。
 6月12日:ベイルート南部郊外にてIDFとパレスチナ・レバノン同盟軍が戦闘。
 6月13日:IDFにバーブダ(レバノン大統領邸がある地域)のキリスト教民兵が参加。西ベイルートの最初の封鎖。南レバノンで「一掃」作戦。
3:1997年2月4日、イスラエル軍の2機の大型ヘリコプターが、レバノンに向けて兵士を輸送中に北部イスラエルで空中衝突、73人が死亡した事故についての言及である。
4:イスラエルの国内紙での世論調査の数字についての言及と思われる。
5:この文章自体が、多分2001年2月6日のイスラエルの首相選挙以前に書かれたものなのだと考える。
 このときの選挙結果を確認しておくと、「イスラエル中央選挙管理委員会は〔2月〕8日、6日の首相公選の最終集計結果を正式に発表した。/それによると、当選した野党リクードのシャロン党首は得票率62.3%、労働党のバラク首相は37.6%。投票率は62%だった」(共同通信ニュース速報/2月9日付)。また2月7日付の「読売新聞ニュース速報」は、「中央選管の集計によると、開票率99.9%で、シャロン氏が得票率62.5%、バラク氏は同37.4%となり、予想以上の大差でシャロン氏が当選を決めた」と報じた。