「サーブリーン」へのインタビュー
−−私たちの音楽は、鎖を打ち破ろうとする闘いの一部なのです−−
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去る〔一九九〇年の〕十月、『民主パレスチナ』誌の編集員イッティマード・ムーサが、
パレスチナの音楽グループ・サーブリーンのカミリヤ・ジュブラーンにインタビューを
行った。
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本誌〔以下、DP〕:サーブリーンはどのように結成されたのですか?
サーブリーン〔以下、S〕:一九八〇年に三人が集まって、何か今までとは違ったこと、何か新しい音楽をやろうと考えてスタートしました。これが重要だったのは、当時のパレスチナ人社会における音楽状況というものが、結婚式やパーティーで演奏するグループばかりだったからです。こうしたグループは軽い音楽、つまりダンス・ミュージックを演奏していました。基本的には商業音楽、つまりポップ・ミュージックのようなもので、電気楽器を使うフランスの音楽とアラブの音楽を結合したものでした。もし西洋の楽器を使っているのなら、それは何かプログレッシブで新しいものなんだ、というような考え方でした。でも、結局そうした音楽は、とってもポップで、そして同時に、あまり質の良くない音楽でした。真に良い音楽を産み出そうという目的のためにではなく、ちょっとした軽い楽しみのための音楽だったからです。一方、パレスチナ民衆が常に持ち続けてきた別の種類の音楽というのは、フォーク・グループによって演奏される歌と踊りでした。この種の音楽は常に大切なものとされ、それは歌うことによって人から人へと伝えられていきました。
こうした時期に、レバノンと北アフリカから政治的な歌の運動が、私たちのところにも届き始めました。私たちは、エジプトのシェイフ・イマームや、レバノンのマルセル・カリーフェ、ジヤード・ラハバーニー、カーリド・アル=ハベル、また追放されてきたパレスチナ人たち、アハマッド・カアブールなどの音楽を聴き始めたのです。それからムスタファ・アル=クルドやジャミール・アル=サーイェ、「バラーエン」のエミール・アシュラーウィなどの個人が、政治的な歌を作り始めました。でも、これらは個人的な取り組みで、長続きしませんでした。何故ならばこうした人たちは、何をやりたいのかという長期的な視点を持っていなかったからです。こうした人たちは実験をしてみたかった、ということだったのです。
私たちのグループのメンバーは、全員がこうした背景を抱えています。中の二人はポップ・グループで演奏をしており、そのグループではうまく行かず、止めてしまいました。他の仲間を見つけて一緒にやるようになりました。何故ならば彼らは、この種の音楽にうんざりしていたからです。彼らは、政治的運動が開始されつつあること、そしてこの運動を表現するために何か全く新しいことをしなければならない、ということに気がついたのです。これが、私たちが一緒に音楽を始めた背景です。
私たちの初めてのカセット、『アイン・アル=スムード(抵抗のまなざし)』〔訳注1〕は発表されませんでした。この中で私たちは、私たちのメンバーの何人かがポップ・グループにいたことの影響もあって電気楽器を使い、そして政治的な詩を新しいメロディーで歌いました。でも私たちは、これは矛盾だと感じました。というのは、私たちは、すごく印象的な何かをやりたかったのに、こうした楽器では私たちの文化的なルーツ、もしくは私たちの新しさといったものを表現できなかったからです。それで私たちは考えました。「何故、私たち自身の伝統的な楽器を使わないんだろう? 実際にキーボードやエレキ・ギターよりもずっと表現が豊かじゃないか」と。それで私たちは、私たちの自然な楽器に戻りました。ウード、カーヌーン、タブラ、ブズーキ、そしてダブル・ベースです。生ギターも、私たちは良いと思うので使っています。そして私たちは、こうした楽器が古典的な方法で使えるだけではなく、私たちのスタイルを制限しない限り新しいやり方で使うことができるんだ、ということを発見しました。この方向では、すごくたくさんやるべきことがあります。つまり、伝統楽器の新しい使い方という方向です。私たちのウードの奏法とパーカッションの使い方は伝統的なスタイルとは異なるものです。私たちは異なった伝統とリズムを混ぜ合わせます。これは新しいスタイルの発見、そして伝統楽器の使用の結果なのです。
私たちが録音した最初のカセットと二番目のカセット、『ムウト・アル=ナビー(預言者の死)』の間には、詩に関わる別の変化もありました。私たちは、こう考え始めたのです。「何故、人々に、特に私たちの考え方を分かってれている人々にもっと良く伝わるようなシンプルな言葉を使わないんだろう?」と。フセイン・アル=バルグーティとスブヒ・ズベイディという二人が私たちに詩を書いてくれることになりました。この人たちは、私たちが人々に、より近づくことができると感じる口語のアラビア語〔訳注2〕で詩を書きます。民謡のお話し、それに現代的な意味を与えて語るというスタイルです。誘拐された美しい女性、ジュバーニーの物語などです。これはパレスチナに起こったことの象徴なのです。だから、これは私たちのルーツから出てくるものでもあり、また同時に新しい何かでもあります。私たちの使う楽器が古いものであり、しかし新しい方法で使われるのと同じで、古いものが刷新されることができるということを示しています。また、私たちは東洋音楽の音階を非常に速く、いつも打ち合わせ通りにというのではなく、印象的な方法で演奏します。それは人々に好まれます。ジャズやブルースのリズムを混ぜ合わせることも始めました。考えてみれば判りますが、こうした音楽は苦難を受けた人々が創造した印象的な音楽なのです。私たちもまた、同じような経験をしているのですから、ここには私たちが分かち合う何かがあるのです。
私たちの最初のカセットは発表されませんでした。これは、お金があまりなくて良い録音ができなかったことと、私たちが音楽活動を始めたばかりだったので十分にこなれた音楽になっていない、という理由のためです。このカセットの詩は、マハムード・ダルウィーシやサミーハ・アル=カーセム〔訳注3〕のものです。でもサーブリーンは最初から、政治スローガンだけを歌いたいと思ってやっているわけではありません。政治的な運動の広がりのゆえにこそ歌は政治的なものになります。でも詩は、人間そのものとその苦難について、また人々の置かれている政治状況について語っているものを選んでいます。だから『ムウト・アル=ナビー』は、多分もっと明白に政治的であると同時に、人間の言葉で語っているものでもあります。
DP:音楽的な意味でサーブリーンに直接的に影響を与えたものは何でしょうか?
S:私たちはパレスチナ人ですから、私たち自身のフォーク・ミュージックと伝統から影響を受けています。二番目にあるのは、誰もが家で出会っているアラブの古典音楽です。そして私たちはグループとして出発したときに、あらゆる種類の音楽を探し、聴くということを始めました。政治的なミュージシャンのものも、そうでないもの、たとえば東洋と西洋の音楽を学び、自分たち自身の音楽のために、新しい何かへとその二つを結びつけようとしたジヤード・ラハバーニーなども聴きました。私たちは、こうした考え方に非常に影響を受けました。それで私たちは、私たち自身の背景と知識をより豊にするために、アフリカン・ミュージックやジャズ、ブルース、インディアンの音楽、イランの音楽などの他の民衆の音楽を聴き始めました。そして他の民衆の経験から実にたくさんのものを学ぶことができる、ということを知りました。私たちは自らのルーツを持ったまま、新しい何かを創造しようと、これら全てを消化しました。伝統的な音楽をやるグループはあります。私たちは、それらと別のグループならば、質的に異なった種類の音楽をやるべきだと考えました。広く流されているみすぼらしいポップ・ミュージックに対抗していくというのは、とても重要なことです。その音楽で踊ることができる、という以外に、人々はそうした音楽からは何も得るものはないのです。私たちは、これを通して人々が自身を表現できるような新しい何かを創造する必要があると感じました。私たちがやっていきたいのは、こういう方向へ向かってなのです。
DP:あなたがたの音楽は、ラテン・アメリカで生まれた「新しい音楽運動」と似ているのでしょうか?
S:そのとおりです。今年、私たちはワシントンDCのスミソニアン・インスティテュートで演奏しましたが、そこで私たちはたくさんのラテン・アメリカの人たちに会いました。彼らは、「サーブリーンはパレスチナ人の『新しい音楽運動』だと思う。何故ならば、いろんなレベルで私たちは同じ考え方を分かち合っているからだ」と言いました。私たちは、共に、おのおのの大切にすべき文化としての伝統的なフォーク・ミュージックが重要だと思っているし、それらは保持され続けるべきだとも考えています。さらに私たちは、伝統とは異なる新しい何かを創造したいと思い、同時に、その新しい何かが、他ならぬおのおののルーツに影響されて創造されたものなのだ、ということにも気がついているのです。この考え方は、今現在を表現し、そこに生きる民衆について語り、さらにまた、それらについて考えてゆくための新しい方法を示し、音楽を感じ、音楽に接する、そういった何かを創造することにつながるのです。
DP:あなたがたはパレスチナ人の闘争の中で、自分たちの音楽がどのような役割を持っていると考えますか? そしてそれは、インティファーダが開始されたことで変化しましたか?
S:以前、私たちは政治というものに対して、ある一定の視点から見ていました。それは、〔先程お話ししたような〕政治的な歌の運動の影響があったらからです。人々は、「サーブリーンは、まさしく政治的な音楽グループだ」と云っていたかもしれません。でも私たちはこんな風に考えました。つまり、私たちは単に政治的だというだけじゃないんだ、と。何故ならば政治というのは、特定のいくつかのものごとを取り扱いますが、私たちは生きている人間としての存在−−彼の怖れや弱さ、そして苦難といったものについてより多くのことを語っているのです。私たちの活動の一部は、もちろん現実的な政治状況に結びついています。人々は投獄され、追放され、そして殺されているからです。でも私たちは、ひとつひとつの事件そのものを歌うということはしません。そうした事件のほかに、人々が生きてゆくときに、その生を支える何かがあるのです。私たちは、アートというのは、もっと幅広いものであるし、他の手段と同じように様々な政治的状況をも表現し得るものだと考えています。もし創造的であろうとすれば、自分自身をある一つの事件に結びつけて歌うだけ、ということはできないはずです。その事件の後でこそ創造があるのです。だから私たちは、自分たち自身がこうした脈絡から完全に自立していると考えています。人々は、その苦難について私たちが語るときに、独特な方法で語ると言うことを知っています。何故ならば、ここでは、あらゆることが政治的な文脈で解釈されているからです。でも本当はそれだけではないはずなのです。私たちはアーティストであり、その活動の中で創造的でなければなりません。逆にいえば、政治家は政治の専門家ですが、私たちはそうではありません。何よりもまず、ミュージシャンなのです。
もちろん私たちは占領という困難な状況の中に生きているのですから、当然にも政治状況によって影響を受けています。バンドの活動では、今でも機材が足りません。音楽学校もない、図書館もない、楽器屋もない。私たちを支援してくれる人も小数です。占領は私たちに対して、外出禁止令や道路の封鎖等の様々な形で大きな影響を与えています。私たちはバンドとして続けてゆくために闘わざるを得ないのです。資金的な援助は何もないのですから、自分たち自身で使える楽器を探し、練習場を探さなければなりません。人々が私たちを支援してくれるようになるまでには、しばらく時間がかかりました。人々は実際に、非常に強力な支援をしてくれました。その理由は、私たちが彼ら自身のことを、他ならぬ彼ら自身のために歌っているのだ、ということをわかってもらえたからです。このことは私たちを勇気づけ、さらに前進させる力になりました。こうした脈絡の中では、私たちは政治的状況によって影響されていると言えるでしょう。私たちは、他の人々と全く同様に、そうした状況の中で生きているのです。
別の言い方をすれば、私たちは物事を、特定の狭い視点からのみとらえるのではなく、できごとについて歌いながら、同時に何かそれ以上の物を人々に伝えようと思うのです。それは、いわゆる政治的なミュージシャンたちが決して歌わないようなもの、例えば愛や、幸せ、悲しみと現在の苦難、などです。私たちのグループはインティファーダ以前に結成されました。そして今、私たちはインティファーダの中で起っていることに歌っています。私の考えでは、インティファーダというのは一九八七年に始まったものではないのです。つまり、私たちの民衆の闘争は長い経過をたどっているのであり、私たち自身もそうした流れの中の一部分なのです。インティファーダが始まってからの一番大きな変化は、民衆の闘いがより本格的なものとなり、より組織化されたものとなった、ということです。私たちはインティファーダの始まる以前から、今の状況に通じるような歌をうたっていました。今はさらにいくつかの、まだ録音されていない歌があります。それらの中には、追放命令を受けた人間が国境で妻にさよならを言う時の感情を取り上げた歌があります。私たちは、政治的に何が起こったのかを説明する−−つまり兵士たちがやって来て、彼を逮捕し、殴打し、等々−−ことはしません。かわりにこの男は妻に、こう語るのです。
あなたの瞳は、まるでチューリップ畑
あなたを前にして言葉は出てこないけれど
さようなら、いつの日か会える……
私たちは、政治スローガンを叫ぶことによってではなく、聴き手の心に触れ、その気持ちを表現できるようなやり方で、何が起っているのかを語るのです。これが、私たちが政治というものについて考えるときの手法なのです。私たちは、政治というものがたった一つの事柄ではないのだということを人々に伝えたいと思っています。例えば、現在のラーマッラーの不穏な夜についての新曲があります。
時々、僕は夜ひとりで歩く
そんな夜はまるで川のようだ
僕は歩く−−風を切る音あるいは煙
夜の通りには何もない、ただ
風の音とジープに乗った兵士たち……
この曲を聴いたらラーマッラーの道々を、たとえ「通りで起っていることはこんなことなのだ」と語らずとも、リアルにイメージできるでしょう。私たちの歌が、特にインティファーダについて表現するときは、こんな風になるのです。〔インティファーダは〕一人ひとりにとって意味のあるものだし、〔具体的な〕「彼または彼女」に関るものなのです。
民衆との活動の長い過程の中で私たちは、人々が私たちの歌を聴いてくれていると感じています。最初に困難はありました。人々はそれまで違う音楽を聴いていたからです。つまり、この新しい音楽は政治というものについて直接語っていない、と言われました。このような人々にとっての良い歌というのは、政治スローガンを叫ぶような類のものでした。そうした歌が扱っていた事件が終ってしまったという理由で、たくさんの政治的な歌が消え去っていったにも関らず、です。それらは音楽的には根なし草でした。私たちは、聴衆に触れることができるような簡潔で印象的な言葉を使うことで人々の間に入ってゆく、そうした良い音楽を作ろうとしました。基本的に私たちは音楽を音楽として扱っています。ここでは音楽は、そのようには発展してこなかったからです。だから音楽を刷新したいのです。もちろん状況は私たちに影響を与えます。例えば、私たちのために曲を書いている人間だって通りを歩いて、彼と同じ人々が苦しんでいるところに出くわします。当然そのことは彼の作るメロディーに影響します。彼は人々に語るときの言葉を選び、その言葉に彼自身の感情を与えます。もちろん大切なのは音楽です。どんな文化においても、どんな人々の生活にとっても音楽というのは重要なその一部分だから、と考えています。
DP:最近、あなたがたはチュニジアとエジプトというアラブの国々で初めて演奏しました。そこでの人々の反応はどうでしたか?
S:〔一九九〇年の〕一月にエジプトで演奏しました。多くの人々は、私たちが一年後か二年後にまた訪れてくれることを期待していました。私たちの音楽は良く聴かれていました。パレスチナ人社会の中でだけでなく、全アラブ世界においても、何等かの形でアラブの古典音楽に基礎を置いた上での、本当に新しい音楽の演奏者というのはあまり多くはいません。だから新しい音楽をやっている人がどこかにいれば、必ずそれを支持する人々もそこにいます。なぜなら人々は刷新に飢えているからですが、逆にそれを望まない人たちもいます。そうした人たちの耳は特定の種類の音楽に慣れてしまっているのです。私たちはエジプトでもこうした構図に出会いました。でもカイロとラーマッラー、あるいはエルサレムの間には大きな違いがあります。カイロというのはアラブ世界の文化の中心だからです。ミュージシャンの水準について言っているのではなくて、私たちがここではほとんど孤独に行っている動きとは異なった動きがカイロにはある、ということです。カイロに行った時、同じような分野で活動している多くの友人を得たように感じました。本当に新しい事をやろうとするには、同じ分野で活動しているたくさんの創造的な人々が必要です。お互いに競うわけですから、どれが良くてどれが良くないかと選択することができ、そうして良いものが残っていくのです。エジプトではこうした事が起こっています。とてもたくさんの人たちが本当に新しい事をしているという程ではありませんが、私たちはそんな人たちからはとても歓迎されました。カイロがアラブ世界の音楽の中心地ではあっても、私たちの音楽の中にはとても異なった何かがあったのです。好意的な批評といくらかの批判を受けましたが、大切なことは私たちがカイロで何がしかの議論を巻き起こしたということです。エジプトを離れた後でも、私たちについての記事が書かれています。もう一度、という招待さえ受けています。
ここにはないミュージシャンやアーティストたちの活動がカイロにはありました。〔それを知ることができて〕良かったと思います。私たちはここで、人々を巻き込んでゆこうと一生懸命動いています。そうすれば人々は音楽について話し始め、音楽的な環境が人々の文化の一部として広がってゆくでしょう。でも人々が基本的な生存さえ困難な占領の下では難しいことです。人々に音楽のことを尋ねるなんて、どうしたらできるでしょう。もちろん人々は常に音楽が好きだし、インティファーダの中では一層音楽を求めています。抑圧的な環境に飽き飽きしたとき、人は文化的な生活に飢えているのです。人々は、文化が革命の一部、鎖を打ち破ることの一部だと感じているのです。
チュニスでもカイロと同じ様なことがありました。もちろんパレスチナからはずっと離れていますから、少しは違いがありましたけれど。でもチュニジアの人々もまた私たちの音楽を受け入れてくれました。意外なことですが、モロッコやクウェイトの人でも私たちの音楽を聴いている人たちが居ます。こうしたことを知ると、とても勇気付けられます。
DP:西洋ではサーブリーンはどのように受け取られましたか?
S:私たちはアメリカに二回、スイスに一回行きました。私たちの音楽にはアラブ音楽以外の要素もあるので反応は異なっていましたが、〔だから逆に〕西洋の人々の耳に受け入れられやすい部分もあるのです。スイスではスイスの人々の前でだけ演奏しましたが、ヨーロッパ全体では、人々は他の文化の音楽も聴いています。私たちの音楽は、いわば一つのミックスですから西洋の人たちにも受け入れられるのではないかと考えていましたが、実際にもそうだったのです。西洋の人々は私たちの音楽を好いてくれました。もちろん彼らは歌詞を理解できる訳ではありませんが、音楽が〔意味を伝えるという〕仕事を果したと思いました。
最初のアメリカ・ツアーの時には、聴衆の多くはアラブ系のアメリカ人たちでした。でも〔演奏を行った〕大学やその学生たちの中には、どんな音楽なのかを知らないで聴きに来た人々もいました。後になってからは、私たちは人々と話しをしたり、好意的な批評も受けました。人々は私たちの音楽が何か新しいものなのだということを知りました。もちろん人々は、その面白いと思ったものが一体どういうものなのかを性格に知っている訳ではありませんでしたが。二回目のアメリカ・ツアーはスミソニアン・インスティテュートの後援で行われ、アラブ系の人々だけでなく、実に様々な人々が聴きに来てくれました。この時のツアーが良かったのは、闘いの中で音楽を作ることにかかわっている他の国々からのバンドもたくさん参加していたことです。それは、音楽について、あるいは作曲について、歌やパフォーマンスについてなど、様々に語り合うチャンスでした。お互いに、どんな音楽をやるのかについて知ることができました。ミュージシャンたちは、私たちの音楽がもっと東洋的なものだろうと想像していたらしく、驚いたようでした。みんなそれぞれに自分の母国語で歌った訳ですが、それでも私たちは音楽は言葉だと思いました。他のバンドと一緒に演奏もしました。即興演奏の中で色々なアイデアや演奏法をお互いに分かち合ったのです。例えば、「ラ・バンバ」を演奏するメキシコ系アメリカ人たちのバンドがいました。私たちはウードとタブラで一緒に「ラ・バンバ」をやりました。うまくいきましたよ! また、エクアドルの音楽では様々な種類のパーカッションが使われていますが、そうしたグループと一緒に演奏したときには、私たちのパーカッションは彼らのパーカッションと会話をすることができました。私たちは開かれており、様々な伝統から影響を受けているからです。この音楽という言葉があれば、私たちは世界中の人々と語り合うことができると思います。それはすてきなことです。この時、すべての人がそう思ったのです。
スミソニアンで演奏したときに、歌詞の内容と、それがどのようにメロディーに結び付いているかを聴衆に説明する機会がありました。聴いている人たちから質問も受けました。これは、人々が初めてパフォーマンスを見て、それを十分に評価する時間がないというような状況とは別のものです。例えば私たちがチュニスへ行ったときには宣伝が全くありませんでした。私たち自身でやらなければならなかったのです。私たちは人々がすぐに反応してくれるとは思いませんでしたし、実際にそのツアーの最後になってようやく聴衆が私たちの音楽に興味を持ってくれるようになった、と思いました。やっとその時から、たくさんのラジオ局が私たちにインタビューを申し込むようになりました。人々が音楽について考え、私たちのやっていることが何なのかを知り、感じ始めるようになるには時間がかかります。それは新しいことだからです。同様に、私たちの国の人々が私たちの音楽を消化し、パレスチナ人としてのルーツを持った革新的なものとして受け入れるのには時間がかかりました。三、四年というところでしょうか。それが人々の心を開いてゆくのです。つまり、人々は世界の他の人々のことを考え始め、人と語り合うためには他の方法もあるのだということを知るのです。私たちはこの地で、また外国で、この過程を見ています。人々が特定の種類の音楽に慣れていたり、あるいは東洋に対しての固定観念を持っている西洋においても同じことが起きたのです。西洋の人々は、私たちが彼らの固定観念からは非常にかけ離れていたのでショックを受けたのです。私たちが彼らを立ち止まらせ、考えさせたのです。特定の彼、または彼女の状況においても、また外国においても、他の人の考え方、予断や固定観念に影響を与え、物事を変化させてゆくという役割をアーティストが演じるのは、このような地点においてなのです。それはむつかしい仕事ですが、音楽は言葉であり、しかも人々に語りかけ、影響を与えるのに非常に素晴らしい言葉なのです。
DP:パレスチナでは音楽はどの様な方向に向かっているのでしょうか?
S:文化生活一般について言えば、新しい動きがあることがわかります。それは人々が新しい生活のスタイルを始めたからです。人々がインティファーダ以前の生活のしかたに戻ることは不可能です。闘うこと、恐れないこと、そして世界に向かって「自らの権利と土地を求めている人々が、自分たち自身の文化、劇場、アーティスト、作家たちなど−−を持った人々がここに居るのだ」と語ること、それが人々の日々の生活の一部となったのです。このことが音楽にも関係していますが、私たちは今だに様々な制限の下で恐ろしい状況の中で生きています。例えば私たちはガザ回廊へ行って演奏することはできません。あそこでは、あらゆる活動が停止させられてしまうからです。同じことがエルサレムを除く西岸にも当てはまります。こうした妨害は、あらゆる活動の前進を止めてしまいます。でも逆に、私たちは西岸の全てのバンドを知っているし、様々な形で一緒にやっています。例えば踊りのグループや映画を作っている人たち、劇団などのために音楽を作っています。こうした形で、共に話し合ったり、活動することのできる人々の輪が、そして私たちがやろう努力していることに興味を持ってくれるグループや個人のアーティストたちの核ができるのです。本当に、もちろん非常に困難な状況の下にありますが、やるべきことがたくさんあります。
私は、はっきりした見通しを述べることはできません。現在のような状況の下では、人々のための根底からの政治的変化がないとしたら、明日何が起こるかを予言することはできません。ミュージシャンとしての私たちの闘いもまた同様でしょう。私たちは、いかなる特定の政治組織ともつながりはありません。そうでなければ創造的であることは不可能です。音楽は永遠のものであり、常に変化に対して開かれています。だから私は楽天的なのです。
私たちは、そこで人々が集まってきて音楽を聴いたり、学んだり、さらにもっと広げて言えば、音楽が日々の生活の中で位置を占めるためにはどうしたいいかを知ることができるような、そうした音楽の資料センターを作りたいと考えています。私たちは音楽を人々に教えることで、これに寄与できると考えています。こうすれば、人々が望んでいる文化的な環境を強化することで、私たちの社会に対して何らかの役に立てると思っています。
〔訳注1〕スムード:「抵抗」としたが、「断固として抵抗を堅持する姿勢」というような意味合い。
〔訳注2〕口語のアラビア語:アラビア語には書き言葉と話し言葉(方言)の間に隔たりがある。書き言葉の文法や発音を簡略化したり、地方ごとの変化があったりしたものが話し言葉と云われている。そのため書き言葉で会話することはできるが、話し言葉をそのままアラビア文字で表記しても不充分にしか書けない。演説やアナウンスなどは書き言葉で行われる場合が多いという。
〔訳注3〕マハムード・ダルウィーシやサミーハ・アル=カーセム:二人ともパレスチナ人の抵抗詩人。