サーブリーンのこと、そして僕たちのこと
岡田剛士
一九九二年一二月に「豊穣な記憶−−パレスチナ・インティファーダ世代の音と映像」という実行委員会形式での取り組みの一環として、被占領パレスチナ・東エルサレムの音楽グループ、サーブリーンを初めて日本に招請した。東京と京都で合計三回のコンサートをおこない、同時に彼らのCD『予言者の死』を国内発売した。その後この実行委員会は、「パレスチナ交流センター・豊穣な記憶」という恒常的な枠組みに改組して活動を継続している。一九九五年二月、オフノート・レーベルから彼らの二枚目のCD『ヒア・カム・ザ・ダブズ』が発売されたが、その過程でも「交流センター」がオフノートと現地のサーブリーンとの間に入って連絡・調整あるいは交渉にあたった。
「この一連の過程での経験を書いてほしい」との要請を受けたわけだが、しかし僕自身はいわゆる音楽業界には全く不案内の人間だ。自分なりにパレスチナ問題に注目しつづけてきたということはあるにせよ、ジャーナリストでもなければ研究者でもない。人民大衆を指導する前衛などでも、もちろんない。超零細印刷屋の労働者で、ただの酒飲みだ。「豊穣な記憶」にかかわってきた理由はといえば、単に偶然知ったサーブリーンの音楽が好きだということと、あとは「やらねばならぬ」という古典的なベキ論だけだったかもしれない。それこそ今の「パレスチナ交流センター」での活動についていえば、いろいろと偉そうな能書きを並べて、しかも少なからぬ人々から会費までいただいてしまっている。僕だって、その能書きを書き連ねる会議に「交流センター」の他のメンバーと同様に出席していた。だから責任がある。責任がある以上は何がなんでもやらねばならない。どんどん貧乏になりながら、時に(頻繁に)絶望的な気分になりながら、必死でやっている。しかし、こんなことを書いても要請に応えたことにはなるまい。仕方がない。サーブリーンとのここ数年間の経験について、僕なりのまとめ方のなかで書かせていただく。
この拙文を読んでおられる方々にはやや唐突かもしれないが、しかし、ことはパレスチナ連帯運動という、あるようなないような、明確なようで漠然とした単語の中身にかかわっている。今さら「では運動とは何か」などという話はさて置くとして、重要なのは関係性ということではないかと思う。大きくいえば日本という国家に生きる僕たち全体とパレスチナの人々との関係性であり、細かく、具体的にいえばサーブリーンと僕たち(あるいは僕個人)の関係性だ。
十数年前、僕がパレスチナ問題に注目しはじめた頃、もちろんそれはパレスチナ連帯運動なるものに僕がかかわりはじめた頃だといっても良いのだけれども、つまりは一九八二年のイスラエルのレバノン侵略、パレスチナ解放機構(PLO)のレバノンからの撤退、ベイルートのサブラ、シャティーラ両パレスチナ・キャンプでの虐殺事件があった時期で、日本国内での取り組みとしてのパレスチナ連帯はまずもって「パレスチナ人民の唯一正当な代表としてのPLOを支持する」を最大のスローガンとしていた。そして、そのなかには「日本政府はPLOに外交特権を与えよ」という要求も含まれていた。パレスチナ解放闘争の歴史的な目標は「民族自決、パレスチナへの帰還、独立国家建設」であり、PLOは武装闘争をもひとつの手段としながら、その実現へと向けて闘うパレスチナ人たちの具体的な結集軸であった。PLO議長ヤーセル・アラファートが語ったとされる「解放された人民が解放された祖国へ戻るのだ」という言葉は、僕自身にとっても非常に印象的だったのだが、民族解放闘争のひとつとしてのパレスチナ革命が目指した解放のイメージをよく表わしていたと思う。八二年のレバノン戦争におけるPLOの軍事的敗北(撤退)は実際に大きな敗北としてあったが、しかしおおまかにいえば軍事も国際政治も、あるいは大衆運動も、その革命闘争のなかではそれぞれが必須の戦線であったと考える。日本国内での連帯運動からの声としての外交特権要求は、そうしたPLOの政治戦略に呼応したものでもあっただろう。今思い返してみれば、まあそのようにまとめることはできると思うが、しかしPLOが日本国家から外交特権を与えられるという事態が(もちろん今もってこれは実現していないのだが)具体的にはどのような政治的脈絡のなかで実現することなのか、あるいはその実現がPLOおよびパレスチナ人たちと、パレスチナ連帯運動というささやかな取り組みに参加していた僕たちとの関係性をどのように規定することになるのか、といったことについては正直なところでいえば、少なくとも僕は考えてはいなかった。やはり「左翼反対派」である。たいしたことはない。日本政府にたいする要求などというものは、とりあえず考えつく限りはたくさん並べてあれば良いのだろうといった程度の認識だった。
多少なりとも音楽に引きつけていえば、PLOの文化情報部門に所属するアシキーンというパレスチナ人たちのバンドが当時あって、当然にも八二年までは主要にレバノンで活動していたようだ。「アシキーン」とは「非常に強く愛する者たち」といった意味あいで、その愛情の先にあるのが祖国パレスチナという仕掛けのバンド名だ。そしてイスラエル侵略軍は、この時の戦争でアシキーンの持っていた楽器さえも全て破壊していったというエピソードを、シリアに移ってきたこのバンドのメンバーから聞いたことがある。八〇年代にはライヴ版も含めて少なくとも六、七種類のカセット・テープが出ていたはずだ。八二年以降PLO本部がチュニスに「移動」した(せざるを得なかった)ということとも無関係ではないのだろうが、アシキーンは北アフリカ(マグレブ)諸国でも演奏活動をおこなっていたようだ。この頃シリアで手に入れたカセット(確か彼らのファースト・カセットだと聞いたような記憶がある)には、制作主体としてのPLO文化情報部門という名前とそのベイルートの私書箱、電話番号が印刷されていて、アルバム・タイトルは『イッズッディーン・アル=カッサームの伝記』。シャイフ・イッズッディーン・アル=カッサームは、イギリス委任統治時代のパレスチナで一九三五年に反英・反シオニスト武装闘争を組織し、しかしイギリス軍によって殺された〔*注1〕。パレスチナ解放闘争のなかで殉死した指導的人物のひとりとして位置付けることができる。十数年たった今日、アル=カッサームの名前は、被占領パレスチナにおける「暫定自治」にかんしてパレスチナ当局(PLO)とは異なる立場をとるイスラーム抵抗運動(ハマース)の武装部隊の名前として有名になった。
アシキーンは、音楽的にはサーブリーンと同様にアラブの伝統楽器をメインに使いながら、民謡風のメロディーに乗せてパレスチナの革命歌をうたうバンドだった。シリアで会った彼らの楽器で印象的だったのは、ピックアップを仕込んだエレクトリック・ウードを使っていたことだ。伝統的なウードはヨーロッパのリュートの先祖であり、「洋梨を縦に半分に切ったような」と表現されるボディーの形状が特徴なのだが、このエレキ・ウードはセミ・アコのエレクトリック・ギターのような薄いボディーだった。このバンドは、一言でいってしまえば「革命宣伝バンド」だと整理することも不可能ではないかもしれないが、ビートの効いたパーカッション・アレンジに乗ったコーラスと堂々たる歌いっぷりのソロ・ヴォーカルは、それはそれとして聴けば楽しめる。現代アラブ音楽のなかのひとつの取り組み(あるいは実験)として被占領パレスチナの外側、離散の地にあるパレスチナ人たち自身による「PLOの楽隊」があったということを、あるいはアシキーンに限らなくても、パレスチナ解放闘争の歴史のなかで実は様々な詩や歌、音楽が生み出されていたのだということを、僕たちは知っていてもいいと思う。一九九三年九月の「原則宣言」調印で、それまでのパレスチナ解放闘争の取り組みと犠牲が、さらには歌や音楽、夢や希望といったものの全てが何かしらなかったものであるかのような、そうしたまとめ方をしたくはないとも、僕は思う。個人的にいえば、アシキーンの若いメンバーたちともっと付き合うことができていればよかったという気がする。今彼らがどうしているのかは全く知るよしもないが、もしもそんな交流があったら、パレスチナ解放闘争は僕たちの前にもっと別の貌をもって立ち現われていたかもしれない。要するに話としては、関係性ということだ。
やっと「サーブリーンのこと」だ。「そもそも」というあたりから書く。「サーブリーン」とアラビア文字で書かれただけの一本のカセット・テープを初めて聴いたときの驚きは、今でも忘れられない。一九八九年の一月、偶然に東京で出会ったチュニジア人の女性アマチュア歌手が貸してくれた(ここに至る経過は、それはそれで長い話になるのではしょる)。こんなアラブ音楽があるのか、と驚いた。今まで僕が聴いてきたアラブ音楽とも、様々なパレスチナの歴史的な抵抗歌とも違う。アラブの伝統楽器をメインに使っているにもかかわらず、とても洗練されたアンサンブル、そして瑞々しい感覚のヴォーカルとコーラスだった。そして、自分なりにアラビア語の歌詞を聞き取るなかで、マハムード・ダルウィーシュというパレスチナの有名な抵抗詩人の作品も取り上げて歌っていることまではわかった。しかし、どこのどういうバンドなのか全く手掛かりはなかった。パレスチナにかかわる詩を歌うということでは、例えばレバノン人のマルセル・ハリーフェ〔*注2〕は有名だが、もちろん違う。あまり明確に言語化できないのだが、何となく「レバノン風」とか「エジプト風」、あるいは「マグレブ風」という感覚は聴くと多少はわかる。しかし、それらのどれにもあてはまらないように思えた。可能性として残るのはヨルダンかパレスチナあたりなのだが、被占領パレスチナの音楽バンドというのは、当時はほとんど(全く)想像もつかなかった。
一方、この時期というのは、少なくとも現象的には一九八七年一二月に開始されたとされる被占領パレスチナでの民衆蜂起(インティファーダ)の状況を知ろうとして、パレスチナ現地から出されている英語の新聞やニューズ・レターなどを購読し、読み始めていた時期だった。何月何日どこそこでデモ、だれそれが撃ち殺されたといった詳細な報道を読むなかで、少しずつ被占領パレスチナという場所に実感が湧いていった。
そして九〇年になって、あるパレスチナの英語雑誌で「サーブリーンへのインタビュー」という記事を偶然見つけた。カセットの「サーブリーン」はアラビア文字、この記事の「サーブリーン」は英語(ローマ字)。もちろん誌面から音が聴こえてくる訳ではないが、多分同じバンドだろうと想像した。インタビューの内容自体も、サーブリーンの音楽的な変遷や、音楽とインティファーダとの関係などについての実に興味深い内容だった〔*注3〕。
さらに一九九一年の年末近くになって、ベルギー在住のパレスチナ人映画監督ミシェル・クレイフィさんの新作『石の賛美歌』のビデオ試写会があった。日本語字幕も付いていないヴァージョンで、僕も含めてみんな映画の筋自体さえ良くわからなかったというのが正直なところだった。しかし、この映画のなかでインティファーダの日々の映像の間に、室内リハーサルをしている若いパレスチナ人たちのバンドが唐突に現われた。どこかで聴いたことのあるヴォーカル? 実にユニークなセッティングのパーカッション? このシーンを見たのとほとんど同時に、僕はこれが、あのサーブリーンだと確信していた。これがサーブリーンでなければ、他にサーブリーンは存在するはずがない、そんな確信のしかただった。
こうして、およそ三年ほどの時間が経過するなかで、カセット・テープと英語のインタビュー、そして映像の三つがひとつにつながった。サーブリーンというバンドを、具体的な貌を持ったパレスチナ人たちとして、僕は知った。明けて一九九二年、「豊穣な記憶」実行委員会の取り組みが始まった。そもそも、クレイフィ監督を日本に招待して『石の賛美歌』を含めて彼のパレスチナにかかわる四本の映画の上映会をやろうというのが「豊穣な記憶」の最初のプランだったのだが、その映画に出てくるバンドがそういうバンドならばということで、一挙に壮大な計画になってしまったのだ。もちろんそんな風に計画が「発展」したのは飲み屋でのことだ(一応つけ加えておくと、最初に「じゃあサーブリーンも呼ぼうよ」と言い出したのは、僕ではない)。ともあれ、こうして今につづくドタバタが始まっていった。物事のきっかけなんてのは、そんなものだ。
少なくとも僕たちはサーブリーンと出会う以前には、被占領パレスチナで音楽活動に取り組むパレスチナ人たちとの具体的な交流はなかった。音楽だけでなく、文化という風に広げて考えてみても、そうした文化交流は非常に少なかった。そして重要なことは、サーブリーンとの交流がコンサートの実現でおしまいになるのではなくて今も継続しているということ、そして彼ら自身にとっても日本での公演が大きな経験となったように思える、ということだ。
一九九三年二月、僕たちは「豊穣な記憶」の取り組みのとりあえずの区切りとして、音響などのスタッフとしてかかわってくださった方々にも集まっていただいて「お疲れ様パーティー」なるささやかな宴会を持ったのだが、この集まりのためにサーブリーンたちに頼んでメッセージを寄せてもらった。そのなかでリーダーのサイード・ムラードさん、そしてメイン・ヴォーカルのカミリア・ジュブラーンさんは次のように書いている。
「皆さんもご存知の通り私たちは世界の多くの都市でコンサートを開いてきましたが、ツアーが終わると同時に、その地の人々との連絡はほぼ途絶えてしまったのです。しかし皆さんは『豊穣な記憶』という会の名にふさわしい人たちだと、私は思います。何故ならば、皆さんによって、また皆さんと共に記憶は豊穣になるからです。私たちはコンサートのこと、運営のこと、歓待してもらったことを思うたびに皆さんのことを思い出します。私たちの記憶を豊穣にしようとする皆さんに感謝します。」(サイード・ムラード)
「皆さんが企画の成功を祝っているこの瞬間に、私も一緒にいられたらと願ってやみません。私たちにとっても今回の企画は成功だったと思います。皆さんが示してくれた活動や努力は私に前進する力と、私たちの仕事全体への自信とを与えてくれました。皆さん、ありがとう。」(カミリア・ジュブラーン)
まあ「祝電」的な側面もあるメッセージだが、僕たちはとてもうれしかった。もちろん様々な問題があったし、今もある。(あくまでも結果としてみればということではあるが)九二年の「豊穣な記憶」は主要にコンサートで大きな赤字を出し、今もそれを引きずりつづけている。また、決して大人数とはいえない実行委メンバーが、しかも全く初体験の様々な問題をこなしてゆかなければならなかった。様々な専門分野の方々の手を借りてようやく実現にこぎつけた、というのが正直なところだ。日本のホテルに海外からのミュージシャンを泊めると部屋が狭いなどといって「クレーム」が付くことがあると聞いて、ホテルの予約の際にわざわざ部屋を見せてもらったりもした。サーブリーンの興行ヴィザ取得にも危惧があった。カミリアさんはイスラエル国籍のパレスチナ・アラブだが、他の四人のメンバーは全員がヨルダン国籍で被占領下のヨルダン川西岸地区の住民だ。イスラエルの渡航許可証(いわゆるレセ・パセ)がなければ出国できない。ヴィザ取得をお願いした業者さんにとっても難問だったようで、かなり時間がかかるかもしれませんね、と言われてしまった。結局は無事に取得できたのだが、法務省が発行した在留資格認定証明書の国籍欄は、この四人については「ヨルダン」と書き込まれた上から棒線を二本引いて、なんと「無国籍」と書き直してあった(もちろん東京入管の大きな訂正印付き)。サーブリーンたちの顔写真が貼ってあるが、これは彼らのレセ・パセに貼ってあるものと同じ写真のはずだ。皆心なしこわばったような顔つき。日本に行くためには仕方なしの手続きをイスラエルの役所ですることが嫌でたまらない、といった風情にも見える。それにしても、ヨルダン側から見ればヨルダン国籍の人間であり、日本政府からすれば無国籍、本人の意向としてはれっきとしたパレスチナ人なのだ。「人間は結局、それ自体が問題を体現している存在なのです」というガッサーン・カナファーニーの言葉〔*注4〕を僕は思い出した。
「そして一九九二年一二月四日、ついにサーブリーンがやって来た。個人的にはそれまでの準備でヨレヨレになった状態で、彼らを出迎えた。『ナリタ』の地下で都心へ向かう電車を待ちながら、できたばかりのCD〔『預言者の死』〕を手渡した。サーブリーンたちは、とても喜んで受け取ってくれた。『気にいってもらえた』と思ったとたん、そのプラット・フォームで僕の緊張の糸は、多分切れた。頭のどこかで『もう、ぶっ倒れてもいいか』と思った。しかし数日後、京都での初演に立ちあって京都大学・西部講堂に彼らの音がはじけた瞬間、『ぶっ倒れないでいて良かった』と心底思ったことを、今でも鮮明に覚えている。」
『ヒア・カム・ザ・ダブズ』の解説で僕はこんなことを書いたのだが、この記憶は皮膚感覚のように僕のなかに残っている。エピソードを書けばきりがない。とにかく、そんなこんなでギリギリ・ドタバタで実現した取り組みだったがゆえに、その運営にかんしては、あまりサーブリーンから評価されると実態とかけ離れたものとなってしまう。しかしカミリアさんからのメッセージにあった「自信」という言葉は、彼ら自身の偽らざる気持ちの一端ではないかと僕は思う。はるか海のかなた、彼ら自身も、そして彼らの周囲の友人たちも含めて誰も行ったことのない日本などという極東の島国にまで行って演奏し、多くの聴衆から喝采を受けたのだ。この時のメッセージには追伸があった。「私たちの日本でのツアーの詳細や日本の人々と知り合うことに寄せる、パレスチナ人たちの関心の高さには驚かされました。二週間にもわたって友人たちや興味を持つ人たちに、私たちは私たちの体験を話して聞かせましたが、こんなことは今までになかったことです」と、追伸にはあった。東エルサレムにある彼らのスタジオで、メンバーの一人、ベースのサーメルさんが撮りためて帰ったヴィデオでも見ながら、友人たちや親類縁者を前にして日本のことを話すサーブリーンたちの姿が目に浮かぶようだ。サーブリーンたちは浅草で買い込んだおみやげだけではなくて、もっと別の何かしらをも持ち帰ったのだと思う。「歌う人・聴く人」あるいは「与える側・受け取る側」といった固定した関係性ではなくて、お互いがお互いに影響を与えあうという、そうした経験の場をサーブリーンと僕たちは共有できたのではないか。もちろんそれはナントカ基金の募金額や物資援助などのように目にみえるモノや成果とは全くの対極にある、磁場のような、あるいは弦と弦が共鳴しあうような、不可視の、そして一瞬の閃きのようなものだったかもしれない。しかし、それは確実に忘れ難い何かしらなのだ。
そして九三年八月、サーブリーンはイタリアでのツアー(八都市での演奏)に出かけた。事前にイタリアの主催者側からの要請があって、日本でのコンサートの資料やスライド写真などを送ったりもした。このツアーの後、サーブリーンはこんな風に書き送ってきた。
「私たちはイタリアから戻ってきました。・・・私たちは日本の人々と同様にイタリアの人々を好きになりましたが、その理由はひとつです。つまり私たちは差別とか人種差別主義などを感じることがなかったからです。逆に聴衆のポジティヴな反応を感じました。〔ツアーの〕組織化と準備という側面では、日本ほどのものではありませんでしたが、でも私たちはイタリアの芸術家たちの作品を通じて、その偉大な歴史に触れることができて、とても楽しかったです。」
そしてこのときのイタリア・ツアーは、もうひとつ全く別の意味でも転換点となった。サーブリーンたちは、PLOとイスラエルのオスロ秘密交渉が公表される前にパレスチナを出て、九月一三日、つまりワシントンでの「暫定自治政府の取り決めにかんする原則宣言」調印の日にパレスチナに「帰国」したのだ。もちろん全くの偶然ではあるが、彼らのイタリア・ツアーの間にこれら一連の動きがあったことになる。実は、先に少し引用したこのツアーの印象につづけて、サーブリーンはこう書いている。
「〔イタリアの〕ジャーナリストたちは今回の合意について私たちの意見をとても聞きたがりました。私たちは、パレスチナ人にはずっと平和がなく、でも平和をとても愛しているのだ、と答えました。もしも誠実で、かつ平和を真に希求しての合意ならば成功するし、もしも政治的な『トリック』ならば、全ての人々にとって、とりわけイスラエル人とパレスチナ人にとって悲惨な結果をもたらすでしょう、と。/私たちは、これほど多くの人々の肯定的な反応があるとは思ってもいませんでしたが、九月一三日にパレスチナに着いた時、ラーマッラーからエルサレムまでのあらゆる場所で人々が旗を掲げているのを見ました。/特に印象的だったのは、若者たちが、和平プロセスそのものに対して喜んでいるというよりも、〔イスラエル軍〕兵士たちの目の前で旗を振ること自体に喜んでいるように見えたことです。これは何人かの人たちのコメントのひとつです。なぜならば、今回の調印以前に〔こんな風に〕旗を振ったら、その人間は逮捕されてしまったはずだからですし、実際そのために殺された人たちもいたのです。/もうひとつの重要かつ注目すべき点は、〔今回の合意に対して〕賛成の人々と反対の人々の間で、暴力にたよることなく態度を調整しようとする動きがある、という点です。私たちは、この動きが続くことを願っています。これがパレスチナ人たちの民主主義を示すものであり、また自由を求め、未来を作り出そうとする私たちの希望をも示しているからです。」
もちろんサーブリーンたちは政治家や活動家ではないし、ジャーナリストでもない。しかし、「歴史的和解」などと無責任に書きつらね、あたかもこれで歴史的なパレスチナ問題が解決したかのような報道をおこなった日本のマス・メディアとは全く異なる、パレスチナ人自身の目の高さからの第一報、そのように読むことができると思う。僕たちは、いわばサーブリーンという窓を通して現在のパレスチナ状況に接している。別の言い方をすれば、僕たちが注目している現在のパレスチナ状況とは、日本ですてきな演奏をし、いろいろなことを互いに語りあった、あのサーブリーンたちが日々具体的に生きている、他ならぬ彼ら自身にとっての「今・ここ」なのだ。僕たちは、そのような理解のチャンネルを通じて等身大のパレスチナに向かいあっている、そんな風にいうことができると思う。
湾岸戦争に引き続いて開始された、いわゆる現在の中東和平プロセスとそのひとつの経過としての「暫定自治」は、被占領パレスチナ内外のパレスチナ人たちに大きな変化を強いている。その変化は、単に政治的な変化だけではなく、経済的あるいは社会的な変化、さらには文化とか人々のものの考え方までも含む変化となってゆくかもしれない。一九八〇年に結成されたサーブリーンは、インティファーダへの予感のなかで第一作『火山の噴煙』をリリース(一九八四年)し、インティファーダの立ち上がりを目撃しながら第二作『預言者の死』をリリース(一九八八年)した。今から思い返してみればということではあるが、そんな整理ができるだろう(冒頭に書いたように『預言者の死』は「豊穣な記憶」実行委員会が制作主体となって国内発売が実現したが、『火山の噴煙』からも二曲をボーナス・トラックとして収録してある)。そして一九九四年に出された第三作『ヒア・カム・ザ・ダブズ』には、一九八七年から九三年まで、いわばインティファーダの日々を生きるなかから書きつらねられたパレスチナ人の若き詩人フセイン・バルグーティーさんの詩に曲をつけて歌っている。今後、「暫定自治」という全く新しい、しかし不透明な状況のなかでサーブリーンたちは何を感じ、何を歌ってゆくのだろうか。そして一方僕たちは、その彼ら自身の日々に、僕たちが僕たちなりに生きる「今・ここ」の日々をどのように重ねあわせてゆくことができるだろうか−−少なくとも僕はこんな風に考え、問題意識として立てたいと思っている。
その理由は単純だ。つまり、サーブリーンの音楽を能書きで理解したくはないからだ。すでに書き連ねてきたように、僕はどこのどんなバンドのものとも知れぬ一本のカセット・テープでサーブリーンの音楽に初めて接した。面白かったし大好きになった。そして、それ以降の数年間の過程での全く思いもよらない展開のなかで、彼らに段々と近づいていった。音楽にかかわる能書きを語ってもいい(書きちらそうと思えば、ナンボでも書けるだろう)けれども、たとえば九二年一二月の彼らの来日コンサートでカミリアさんがみせてくれたステージ上でのすてきな笑顔と圧倒的な存在感を思い出せば、そうした能書きをぐたぐたいわずとも、「ぜひCDを聴いてみてください」という一言で十分な気がする。全ての人にあてはまるかどうかはわからないが、子供の頃に小遣いを貯めてはレコードを買い、それをオモチャのようなターン・テーブルに乗せて針を落すときのドキドキした気持ちを、僕は今でも覚えている。ラジオの深夜放送で○○○○を初めて聴いた(丸のなかには、それぞれの思い出深いミュージシャンなり曲名を入れてほしい)ときの感動というのもあるだろう。中学のクラブ活動の演奏会で初めてステージ(別に大ステージではない。たかだか二〇センチくらいの高さの音楽室のステージだ)に登ったときの緊張感とうれしさだってあると思う。もちろん、非常に大雑把ないい方をすれば朝鮮戦争とベトナム戦争という二つの戦争の戦争特需を契機として「豊か」になった、そのような戦後日本に生まれ育った僕たちとサーブリーンたちとの歴史過程と経験は決定的に異なっている。今現在の状況ももちろん違うし、言葉も「国籍」も違う。しかし、人が音楽に出会うときの感動には、僕は共通するものがあると思う。僕たちはサーブリーンの来日コンサートを実現するために、彼らのCDの日本での発売を実現するために、僕たちなりに必死になった。そして彼らは初めての日本という慣れない状況のなかで、しかし必死になってすてきな演奏をして、僕たちの努力に応えてくれた。そういうことだ。
一九九三年の年末から九四年の始めまで、約三週間にわたって被占領パレスチナを訪れてサーブリーンと再会した〔*注5〕。彼らはとても暖かく迎えてくれたし、「原則宣言」調印以降のパレスチナ状況を見てみようと考えていた僕たちのために、実にテキパキといろんなアレンジを手伝ってくれた。お返しのつもりだったのかもしれない。サーブリーンのスタジオで彼らから音楽を学んでいるパレスチナの子供たちにも会った。サーブリーンたちよりももっと若い世代が、しかし確実に育ちつつあるのだと実感した。それは逆にいえば、いつかサーブリーンの音楽が時代遅れだと思われるようなときが来るのかもしれない、ということだ。サーブリーン・フリークを自認する僕としては、それはとてもさみしい「予感」だ。先に関係性という言葉を使った。そして、これは実は「生き方」などという、いわばありふれた言葉で言い換えることができるかもしれない、と僕は思う。自らが生まれる時と場所とを択ぶことは誰にもできない。しかし僕たちは、そのそれぞれの生きる日々と歴史、経験と感情を、さらには、それぞれの全体性を規定する諸条件ゆえにそれぞれが抱え込まざるを得ない矛盾や不十分さ、限界性や過ちをも、互いの関係性あるいは生き方が十分に意識的かつ開かれたものであり、お互いに対する信頼があるならば、それぞれの努力のなかでそれらを互いに交差させることはできるはずだ。それは非常にしんどい作業であるとは思うが、僕はそのようなダイナミズムを信じる。
結局、何だかんだといいながら能書きを書き連ねてしまったのかもしれない。ともあれ、読んでくださってありがとう。
(一九九五年八月 記)
*注1:シャイフ・イッズッディーン・アル=カッサームの人となりと彼の歴史的な闘いについては、『新しい世界史〈12〉蘇るパレスチナ−−語りはじめた難民たちの証言』(藤田進/著 東京大学出版会/発行)の第2章を参照のこと。
*注2:マルセル・ハリーフェはレバノン人で、大学の音楽の教授だと聞いたことがある。ウードの弾き語りもあれば、フル・オーケストラをバックに詩を朗読する曲もあり、実に幅広い音楽性をもっている。彼のカセットはライヴ版も含めて(また、その海賊版も含めて)数限りなく出ている。なかでも彼がウードの弾き語りで歌う「私の母へ」(詩はマハムード・ダルウィーシュ)は非常に有名。先日もインターネット・ニューズ(soc.culture.palestine)で誰かがこの詩の始めの数行を引用して歌手の名前を教えてほしいとの投稿をしていたのだが、すぐに別の人間が「もちろん、我らがマルセル・ハリーフェだ!」とレスポンスを書いていた。彼の音楽も、もっと知られていいと思う。新宿の某ディスク・ユニ○ン(伏せ字になっていないか?)で、多分CDが入手可能だ。
*注3:「サーブリーンへのインタビュー−−私たちの音楽は鎖を打ち破ろうとする闘いの一部なのです」『Democratic Palestine』誌 1990年11・12月号
*注4:『現代アラブ小説全集 第7巻 太陽の男たち/ハイファに戻って』ガッサーン・カナファーニー/著 黒田寿郎・奴田原睦明/訳 河出書房新社/刊
*注5:この時の訪問については、「1993〜94年 被占領パレスチナ/イスラエル訪問 報告・資料集」という「交流センター」発行のパンフレットにまとめた。