都会の井戸端


既刊作品集-Uたて書き)
2006年9月から2007年8月までの作品です。
(目次に但し書きのないものはエッセイです)
今月の作品
new! ショートエッセイ
new!写真集
リオ&ブエノスアイレス

new! しらすよみひと の
私の好きなB級作家
(9作)
語り継ぎたい 戦後60年
 エッセイ集(5作品)
既刊作品集T
〜06年8月(13作品)
既刊作品集U
〜07年8月(17作品)
既刊作品集 V
〜08年8月(24作品)
既刊作品集 W
09年9月(22作品)
堀内弘之・歴史探求の部屋 1
独自の視点で歴史の謎に迫る  (16の考察)
  
 堀内弘之・歴史探求の部屋 2
 独自の視点で「始まり」を考察  (7の考察) 
既刊作品集 X
new! 09年9月〜〈4作品)
井戸端通信
new! 今月のおしゃべり、ほか
井戸端メンバー紹介
11月現在  

 グラウンド・ゼロ    萩原けい子  あなたの傘ですよ    柴田真利子  紅葉狩りのおまけ   須釜敏子
 備えよ常に      萩原けい子  すみれ色の思い(手紙文)  松木芽茂  あの日の思い出   萩原けい子
 クリスマスツリー   柴田真利子  アンニョン・ハセヨ    萩原けい子   夢の話の行く末   佐々木洋子
 氷河の悲鳴     萩原けい子  住めば都          北崎理子  菜の花         須釜敏子
         冬の夜歴史の謎に思い馳せ    島田閏江  花あかり      柴田真利子
  バラの咲く庭    柴田真利子    友 情    小璃間 けい ジークフリート  萩原けい子  

  グラウンド・ゼロ
               萩原 けい子

 夫とニューヨークを歩いた。私には初めての地であるが、彼は現役のころ仕事で何度か来ていて、その都度、一ヵ月は滞在した所だ。
「一度は連れて行ってやりたい町のひとつがニューヨーク」が夫の口癖であった。彼の願いはかなったが、わずか二日間しかない。
 ニューヨーク州ニューヨーク区がマンハッタン島。時間を有効に使って中心部だけでも見た!歩いた!という気分になりたい。そう言って、一日目は私の頼みを聞いてもらった。観光バスで巡り歩いたのである。
 晴れたり曇ったりの中を、手にした地図に通った道や立ち寄った場所の印をつけ、ようやくおぼろげながらも島の全体像を頭に入れた。アメリカの小説や映画が大好きな私には、十分な一日だった。この町を舞台にしたストーリーに、一層の臨場感が増すわと、浮かれた。
 二日目。夫の案内で雨に煙る町を歩く。この日のテーマは、
「NYを舞台にした小説や映画のワンシーンに立つ」
 スタート地点はセントラルパーク。ソーホー地区で一日を終えるというコースだった。
 ウエストサイド物語に出てきた場所は、前夜、ここに住む知人に案内してもらったので省く。デパートのブルーミングデールだけは、どうしても立ち寄りたかったので、コースに入れる。ジェフリー・アーチャーの小説『ケインとアベル』で女主人公が働いていた場所を、どうしても見たかったのだ。
 カーネギーホール、ティファニー、NBC、タイムライフ社、トランプタワー、タイムズスクエアなど次から次へと歩き回った。時間が足りなくなったので、地下鉄に乗りソーホーへ向かう。味も素っ気もない鉄箱に人を詰め込んで、黙って運搬するように思える電車だった。どの駅のプラットホームも、だだっ広くて薄暗い。しかし、そんなことはほとんど気にならないほど私は楽しんでいた。
 その場その場でメル・ギブソンやオードリー・ヘプバーンに遇えた気分になったり、映画のシーンを思い浮かべたりできた私は、雨の中で濡れながら、ひとり悦に入った。
 だが、ソーホーからの帰り道、予告なしにひとつの場面が心の中にクローズアップされた。それは、夫の案内で、大満足して歩いたところではなかった。
 世界貿易センターの跡地「グラウンド・ゼロ」。そこで見た鉄骨の十字架の姿であった。前の日に観光バスで行き、しかも渋滞で時間が押せ押せになり、十分にも満たない見学時間しかもらえなかった場所だ。せかされるように道路を横切り、ざっと見渡したくらいの場所に、それほど切実な感慨は残らなかった、はずだった。行ったことすら、ほとんど忘れていた。

 グラウンド・ゼロには堅固な金網が張り巡らされ、崩れ落ちたビル群の残骸は、すでになかった。急ピッチで再開発が進められている。その周りに立ち並ぶ建物の中に、覆いが掛けられて明らかに「大規模な修繕中」と、わかるビルを見つけると、あのときに傷ついたところを補修しているのだろう、と想像するくらいだ。ニュースで見たように、この場所を訪れた人で溢れかえるというようなこともない。
 そのせいだろうか、凄まじい勢いでなだれ落ちる百十階建てのツインタワービル二棟と、その爆風で立て続けに崩壊する五つの高層ビルの様子が、私にはどうしても想像できなかった。また、そのビル群とともに亡くなった五千人以上ともいわれる人々のことも、想像したいのに、できない。
 ふと、敷地の中ほどに立てられた黒い巨大な鉄骨の十字架が目についた。高さは十メートルくらいありそうだ。残骸の中から取り残したものなのだろうか、ビルを支えられるほどの頑丈さを見せる鉄骨は、巨人の手で無造作に引きちぎって組み合わせたようにも感じられた。赤錆にまみれている。横棒の片側には、吹き飛ばされたアルミ?の残骸がケープのように引っかかっている。ガイドに尋ねた。
「あの鉄骨は、ビルの骨組みが十字の形に残ったものですか」
「あれはね、工事をする人たちが自発的に立てたんですよ。そうせずにはいられなかったんでしょうね」
 それを聞いたとたんに、テレビで繰り返し放映された、地獄かと思う場面が蘇った。
 コンクリートの巨大な塊が次つぎと落下し、土煙が上がる。そのなかで無数の人の叫び声が、ぶつかり合いながら地面に叩きつけられる。
 ほんの数分間の「グラウンド・ゼロ」の思い出。それなのに、あの十字架は強烈に私の心を捉えていたのだった。
 ワクワクとした気分でたどり着いた最終地点のソーホーからエンパイアステートビルに戻りたくなった。展望台に立って、もう一度「グラウンド・ゼロ」と呼ばれている場所を確認したいと思ったのだ。だが、その時間はなかった。

 二〇一〇年には、あの跡地全体に再び何棟かの高層ビルが完成し、「ワールド・トレード・センター」となる。
 そうして「グラウンド・ゼロ」は消えるのだ。
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 あなたの傘ですよ
           柴田 真利子

 美術展を観ての帰り、池袋から電車に乗った。夕方のラッシュにはまだ間があって、立つ客もまばらな山手線だった。
 すぐに座りたい私は、空いている席へと突進した。雨が止んで、すっかり荷物になった花柄の傘をひざ先に立て、呼吸を整える。と、お隣さんが無遠慮にも古ぼけた黒い傘を押しつけてきた。
「ちょっと、なんなのよ……」
 口のなかでつぶやきながら横目でさぐった。するとその主は軽いいびきをかいていた。ゴム長の足元にはすり切れた紙袋がおかれ、角の破れから新聞紙とくつ下がのぞいていた。おまけに異臭まで漂っているではないか。
 私は反射的に立ち上がり、斜め向かいに移った。
 六十歳くらいだろうか。油っ気のない白髪まじりの頭とヒゲ、日焼けはしているが精気に欠しい顔の色。あせたカーキ色の作業服上下、首には青いタオルを巻いていた。電車の震動に任せ寝入っているようすだが雨で仕事にあぶれたのか、あるいは酒をあおって一時(いっとき)の夢に浸っていたのかもしれない。
 私も目をつぶる。頭のなかを絵画展の余韻が広がった。ルノアールの少女像は桃の肌の感触そのままの温もりがあった。憧れの南仏もいい。光や風が色のリズムで表現されていた。名画を鑑たあとは現実からしばらく離れていたかった。
 電車が止まり、ぱらぱらと乗り降りがある。件の席に隣と年格好の変わらない男性が腰かけた。チェックのジャケットに無地のズボン、ループタイとベレー帽まで茶系でまとめている。悠々自適の紳士といった雰囲気で、ポケットから文庫本を取り出し読み始めた。
 やがてカーブで大きく揺れ、つり革が一斉に時計の振り子のさまになる。
 バサリッ!
 湿った音がして、黒の長傘が倒れていた。酔った手許からすべり落ちたのだが、本人は気づかずに眠っている。つと、傍から腕を伸ばして拾いあげたのは紳士だった。とんとんと軽く手の甲をたたいて起こし、
「あなたの傘ですよ」
と、ゆっくり語りかけて柄を握らせた。男は頭を二、三回左右に振り、指につながる長尺を眺めていたが、やがてうなずき半身に構えて頭を深く下げた。
「だんなさん、すんません」
 低く、しゃがれた声だった。
「いや、いや」
 紳士は小さく片手でさえ切り、本に目を戻す。
 私の胸に苦い味が湧いた。美術館帰りなの、身ぎれいでないし、アルコール臭がいやだったから、どことなく怖かったからと、あの傘の男を避けた御託を並べたものの、要はかかわりたくなかったのだ。
 傘をしっかりと持ち直してからの彼は、もう眠ることなく口を一文字に結んだまま、床を見つめていた。
 やがて「高田馬場」のアナウンスに紳士は立ち上がる。傘おじさんは拝むように腰を曲げ、
「ありがとうございました」
「じゃあ」
 本をかざし、失敬するよ、そんな仕草でベレー帽の男性は降りて行った。
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   紅葉狩りのおまけ
                須釜 敏子

 姉から紅葉を見に行かないかと電話があった。珍しく連れ合いの許可が出たそうだ。
「だから、気が変わらないうちに出かけたいの。お母さんが一緒でもいいような計画をたててよ」
 それでは、と、八十過ぎの母を誘い、妹にも声をかけ、女四人の旅にする。
 行き先は乗り換えなしで行ける塩原。十月二十八、二十九日と決め、途中下車自由の往復の切符付きの宿を予約した。
 当日、九時少し前の快速で春日部を出発、川治温泉で降りる。五十里湖(いかりこ)の展望台で紅葉を見る計画だ。ところが、バスの予定表を見ると、一時間近くも待たなければならない。コーヒーでも飲んでいようと、小さな店へ入った。
 店のマスターにたずねた。
「五十里湖の展望台まで、バスでどのくらい時間がかかりますか」
「えー、もう展望台は閉鎖されましたよ。茶店も閉店になって……第一、バスで行っても帰ってこられませんよ、帰りのバスはありませんから」
 思いもかけない返事に唖然とした。出かける前に雑誌で調べていたのに……思案の末、タクシーを頼むことにした。
 電話をして駅まで来てもらう。五十代ぐらいの地元の運転手にこちらの希望を伝えた。
「すみません、上三依塩原駅に午後二時半に宿の迎えが来ることになっています。それまでの時間を使って紅葉の見所を回ってほしいのですが」
 快く引き受けてくれた。川治湖、黒部湖など錦織りなす山道を回ってくれ、見所では降ろしてもらって百メートルぐらいの道をゆっくり歩く。これだと母の足にも負担が少なくてすむ。
 晴天。風がそよぐたび、さまざまな木の葉が軽やかな音を立ててゆれる。まだ散るまではいかない真っ赤なモミジ。黄金色に輝くカエデやイチョウ。杉や松の濃い緑。私たちはまさに秋の真っただ中にいた。
 そのうちに、運転手が、
「待っている間メーター止めておくから、キノコ採りに行っていいかなあ。そのあいだゆっくり歩いてきてよ」
 私たちがいいわよと答えると、彼はさっそく車を止めトランクから着替えを出した。ジャンパーを着て長靴をはいて、みるみるキノコ採りのおじさんに変身。私たちを紅葉のみごとな山道へおろし、自分は数百メートル先へ行き車を止め、山の中へ入って行く。
 八十代の母と五十代の娘三人。あれがきれい、これはすてき、気持ちいい、などなど周りの景色を愛でながら、紅葉狩りを堪能した。タクシーの待つところまで三十分もかかっただろうか。
 戻ったキノコ採りおじさんは成果を見せてくれた。さすがに地元の人とあって、ビニール袋には、たくさんのきのこが入っていた。
 お土産に持って行けと、きのこを両手にいっぱい分けてくれた。ムキタケという名だそうだ。私に馴染みのヒラタケやシメジのような感じだ。帰るのは明日だから無理、と辞退したが、ぬらしたティシュを何枚か入れておけば大丈夫だという。かさが開いていない新鮮なものを選んでくれたので、私たちは安心して、もらうことにした。
「お昼は、おいしい店へ連れて行くから。そこのキノコ汁、うまいんだよ、ぜひ食べてみな」
 お土産物も売っている一軒の店に着いた。運転手のおすすめを注文する。
 両手に余るほどの丼には何種類ものキノコと人参、こんにゃく、里芋、ゴボウなどの野菜のほか、餅が入っていた。餅はつきたてでやわらかかった。母には全部食べられなかったほど、それだけでお腹がいっぱいになった。
 サービスですと、二種類の佃煮が出された。キャラブキと、ささがきのゴボウも入った葉唐辛子だった。どちらも自家製だそうだ。
 葉唐辛子のほうを、一パック買った。
 二時少し過ぎには約束の上三依塩原駅に着いた。少し早いなと思いながらも代金を支払う。にこにこ顔の運転手は、その場で再びキノコ採りおじさんに変身してから、車ごと消えた。

 帰宅後、夫との夕食に土産のムキタケを味噌汁の中に入れた。酒の肴にと葉唐辛子も出した。
「はい、紅葉狩りのおまけよ」
「ムキタケって香りはしないが、歯ざわりがいいね」
 夫は機嫌よく食べてくれた。そして、
「この葉唐辛子、酒にもいいが、温かいご飯にも合うなあ」
 彼のご機嫌も、紅葉狩りのおまけだ。 

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  備えよ常に  
             
           萩原 けい子

 二〇〇四年十月。新潟の友人・美子さん夫妻の誘いに乗って、越後の深まる秋を楽しもうと夫と予定を組んだ。夫妻は私たちと同じで、定年退職して数年が経つ。
「東京のお土産は、何がいい?」
「お言葉ありがたいけど、なーんにもいらない。それより車で来てね。こっちからのお土産は山ほどあるんだから。新米でしょ、旦那が作っている野菜でしょ、庭の柿もよ」
 歴史や地理的な魅力より、やっぱり食欲の秋だねと浮かれた。鼻歌交じりで夫と二人で車の手入れ、カーナビでルートの予習。寺泊の「魚のアメ横」に、取れたてのカニも買いに行けるかな、などと考えながら……。
 そして来週はいよいよ出発という日。十月二十三日の午後六時ごろだった。
 東京・上野のマンション九階にある我が家が、突然浮くような感じがしたあと、ゆっくりと横に揺れ始めた。地震だ。通常の地震ではほとんど動かない油絵の重い額も、ゆらゆらと揺れる。
「これは大きいぞ!」
 地震が大嫌いな夫が深刻な顔で叫んだ。彼は、近々必ず東京で直下型地震が起こると信じていたからたまらない。揺れがいったん鎮まると、
「すぐに、もっと大きいのが来るぞ」
そう言いつつ壁に掛けてある自分のヘルメットに手を伸ばした。
 普段「絶対にそんなものいらない」と言い続けている私は、自分用の避難袋も何も揃えていない。だが、このときばかりは備えよ、常に≠実践していればよかったと思いつつ、すぐに玄関とベランダのドアを開け放し、テレビをつけた。
 画面には楽しげな番組が流れているだけ。いらいらし始めたころ、深刻なテロップが流れ出した。中越地方でマグニチュード6以上の地震が発生、と。
 それからは次々と新しいニュースが上乗せされて、ただ事ではない事態だとわかった。 
 新潟県は京都に近いほうから順に上越、中越、下越と分かれているが、美子さんの家は新潟市、つまり下越にある。地図を見ると彼女の家は震源地の中越地方からは、かなり離れている。しかしその後、何回も東京へ伝わってくる余震でさえ震度2や3なのだ。さぞかし大変なことになっていのではないかと、恐る恐る電話を入れた。電話口のご亭主の声は普段と変わらないのんびりした口調で、
「ああ、大丈夫だよ。ウチのほうは何にも被害ないよ……ありがとね」
 でもニュースによれば、自動車道は亀裂が何ヵ所もできて寸断されたし、新幹線は脱線し、回復の見込みも立たないそうだ。
 年内の新潟行きは中止にしたが、年が明けてから出かけた。というのも、下越でも「がんばろう新潟」のスローガンを掲げて、遠のいた観光客を何とか取り戻そうと努力していると知ったからだ。一人でも多く訪れることが新潟を励ますことにもなるのだ。
 美子さんもご亭主も一九六四年に、二十代で新潟地震の震源地近くで震度6を体験していた。そのときは仕事場にいて、机の下にもぐり、恐怖とあせりを感じたそうだ。
「あのときは液状化現象でビルが沈んだのよ。昭和石油のタンクが爆発して大きな火災が発生してね……」
 四十年も前の大地震の様子を淡々と語る二人を見て思った。生死を分けるような大きな災害を生き延びたからこそ、今回の危機に際しても、うろたえない心構えができたのではないかと。
 私の夫は結婚したときから三十数年間、ずっと「備えよ常に」を実行している。私はといえば、どんな場合も人の生死を決めるのは神の意思、自然の摂理と信じて、夫の行動を笑い飛ばしてきた。にもかかわらずあのときは、繰り返す余震に内心あわてふためいていた。新潟から帰京して、夫の要望に逆らわず、まずは緊急用トイレを購入したが……。

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(手紙文)時をこえて 
   すみれ色の思い
            松木 芽茂
 
 Aさん、お元気でお過ごしでしょうか。
 今も何かスポーツを、なさっていらっしゃるのでしょうか。遠い昔のことですが、グランドを駆け廻る姿は、昨日のことのように鮮明に、目の奥に焼きついています。
 初めてお会いしたのは、七月の暑い日でした。その時にお話したことは、ほとんど覚えていません。あがっていたのでしょうか。それ以後のことは、よく記憶しております。
 大学の運動部に所属されていて、寮に入っていらしたから、お会いするのは月に一回ほど。あとは、手紙でしたね。男らしい文字でした。机の上に手紙があったときの嬉しさ。封を切って、そっと開いて読みました。試合の日程や寮の生活の様子などさらりと書いてありますが、心を感じました。
 四年間の楽しい思い出は、その後の人生の大きな支えになりました。どんなに辛いことがあっても、心のポケットにある青春の日に、タイムスリップすると、そこにはあなたが、そして若い私がいます。
 渋谷の駅の階段を下りるとき、包帯を巻いたあなたの手が触れて、静かにつながりました。あの温もりは今も残っています。
 サッカーのナイターを観戦した帰り道に、神宮外苑の舗道をゆっくり歩きながら、歌ってくださったツーヤング忘れません。
 クリスマスのころは、ホワイトクリスマスを静かに聞かせてくださいました。今でもそれらは、男性歌手の歌うのが好きです。
 そっと忍び込んだ神宮グランドの水溜りを、軽やかに抱きかかえてくださいましたね。ざっくりした手編みのセーターを通して、ほのかなあなたの香りが伝わりました。
 ジャズの夕べが行われた大講堂は、今もあのときのままそびえています。通るたびに懐かしく見上げています。
 運動部の皆さんと、ダンスホールに行ってワルツ、タンゴ、ルンバなど踊ったことも、大人になった気がして、嬉しかったものです。
 映画にも行きましたね。新宿でコーヒーを飲みながら、映画の話をして楽しいひと時でした。
 夕暮れの公園を散歩しているとき、向こうからヤクザ風の若者が四人来たので、どうしようと不安になっていると、肩を叩きながら、「もし絡まれたら、できるだけ遠くに逃げなさい。心配しないでいいよ。一人でもそのくらいの時間は持つから……」
 あなたの優しさと、強さに涙が出ました。でも、四人は大声で話しながら通り過ぎていきました。力が抜け二人で笑いましたね。
 目を閉じると、次つぎと蘇ります。
 考えてみると、私たちは、お別れの「さようなら」を言っていませんでしたね。大学を卒業され寮を出られたあとは、あなたのお姉さま経由で三、四回手紙のやり取りをしましたが、いつか春の淡雪のように自然に消えてしまいました。
 映画を見た帰り、先に降りる駅が近づくと、
「今夜は、もう少し一緒にいたいな」
と、言うあなたの言葉を飲み込んで、重い足をホームに降ろしました。
 本当は「私も」と言いたかったのですよ。でも、あのままご一緒していても、銀婚式、金婚式を共に祝うようになったとは限りません。清らかなままだったからこそ、いつ思い出しても、心ときめくことができるのです。
 スターサファイアのように輝いて、あなたとの思い出はこれからも支えになってくれることでしょう。
 秋になったら外苑のあの道を、落ち葉を踏みながら歩いてみようと思います。春が来たならすみれの咲く公園で、行ったり来たりしながらつないだ手の暖かさを、懐かしみます。そのときは、十代の私になっているでしょう。
 すばらしい思い出をありがとう。私のこと、たまには思い出してくだされば嬉しいです。
 いつまでもお元気でいてください。
 さよならとは書きません。永遠に来ないのです。さよならは……。
 時をこえて偲びつつ。

  二〇〇一年八月
 
  A 様

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  あの日の思い出
               萩原 けい子
 十月。あの店この店に、ハローウィングッズが溢れる季節。特に目立つのがカボチャの人形だ。そして、今年もまた、そのカボチャに重ねて、彼女たちを思い出す。

 秋風を肌に感じ始めたある日、弟に頼まれた。
「イギリスの友人の娘二人が日本へ来ているんだが、僕と一緒に、この町の案内をしてくれないか」
 弟は、イギリスの大学院で六年余り学んだが、その時代に親しくなった同級生の愛娘たちが、東京に滞在しているというのだ。
 二十代前半のマーガレットと三歳下のキャサリン。一年前に来日した姉のほうは外国語学校のベルリッツで英語を教えていたが、日本語検定の一級も取得している。妹は二、三ヵ月前に来日して、私立の高校で英語を教え始めたところだが、日本語は聞くことならどうにか大丈夫。そして二人とも日本のことをかなり勉強していて、あらゆるものに興味を持っているとも聞いた。
「それならいいわ。案内してあげる」
 私は、東京の台東区と文京区の境に生まれ育った。結婚してもほとんどこの近辺から離れたことはない。ちょうど動物園のある上野の山と、東京大学のある弥生が丘に挟まれた町。上野、谷中、日暮里、本郷、湯島といった、明治・大正の小説には、ふんだんに出てくる地名に囲まれた場所なのだ。彼女たちにはうってつけかも。
 当日、姉のマーガレットが注文した。
「私は横丁というのが大好き。そんなところを歩きたいです」
 任せといてよ、お手のものよ。そのころのわが町には、坂道と横丁なら、うんざりするほどあったのだ。
 例えば乗用車一台が、やっと通れるくらいの通り。あるいは、車も通れない細い道。その両脇に、昔風の長屋が並ぶところや、飲み屋と、しもた屋が混在する場所の説明をする。道の真ん中に現役の井戸がデンと存在する場所だって、いくつも存在していた。横丁の中ほどに児童公園があったりすると、よほど珍しいのか、歓声が上がる。
 日本語でなら、坂道や暗渠のいわれなどもすらすらと口から流れ出てくるのには、自分でも驚いた。
 昼食のためにそば屋に入り、彼女たちの注文で〈わかめそば〉をとった。二人とも上手に箸を使うのだが異様なほど静かに食べている。
「おそばはズズズッと音を立てて食べていいのよ」
と、教えると困った顔をして、
「……口に入れるとき、音をたててはいけないって、小さいときから親に言われてきたから、それだけは無理」
 午後は谷中の墓地めぐり。徳川慶喜夫妻の墓所の前でマーガレットが言った。
「江戸時代にはキュウリを輪切りにして食べてはいけなかったんでしょう?」
「そうよ、なぜだか知っている?」
「切り口が葵の御紋だから!」
「何でそんなこと知っているの」
「勉強したから」
 彼女は得意げに笑った。
 日が暮れた。上野へ出て、豪勢に懐石風の夕食を弟がおごってくれた。
 天ぷらが出てくると、姉妹は一つひとつチェックする。突然、マーガレットがうれしそうな声で、
「あ、カボチャ」
 キャサリンは目を丸くして、
「面白いねえ、そんなものを食べるなんて」
「そうね、私も初めてのときはビックリしちゃった。日本では、煮たり焼いたり、いろいろな方法で食べられるのよ……食べてみなさい。おいしいよ」
と、姉が言うと、滞在が浅い妹が、
「くりぬいて、中にローソクを灯したりするくらいだと思っていたわ」
 二人のやり取りを聞いていた私は、不思議に思って訊いた。
「あなたたちだって、パンプキンパイなら食べるでしょう」
「それはアメリカのことよ。でも、今ごろはイギリスでも食べるようになっているかも……」
 何年も前に母国を離れた姉はそう答えながら、妹の顔を見た。キャサリンは肩をすくめただけだった。
 カボチャが、イギリスではマイナーな野菜なのだと私が知ったのは、そのときだった。

 旅好きのマーガレットは、それから一年後にカボチャ発祥の国へでかけたっけ。
 あれから十年が経つ。

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    クリスマスツリー
              柴田真利子

 子どもたちが次々と結婚し、離れていった今は、私たち夫婦と飼い犬・コロだけの生活である。夫が大学までをキリスト教系で学んだからだろうか、クリスマスにも違和感なくツリーを飾りつけ、子どもたちのプレゼントなども揃えて、楽しく過ごした日々が懐かしい。
 十二月が近づくたびに、ニューヨークのクリスマスが胸に浮かぶ。

 一九八一年、クリスマスのイルミネーション溢れるニューヨークの街。日本から着いたばかりの私と二人の子どもを迎え、夫はそれまでに見せたことのない仕草で外国ふうに私と腕を組む。
 世界の一流店が居並ぶ五番街。映画のセットの中を行くような感覚がして、私はため息をついては目を凝らす。
 裏通りの屋台のねじりパンをほおばる息子は中学二年生。道端に座って鳥笛を売る老人の笑顔にひかれ、立ち止まる娘は小学四年生だった。雑踏の中をさまざまな人種が行き交っている。子供たちを引き寄せて、夫は言う。
「あのツインタワーが世界貿易センターだよ、パパの会社は一〇四階、すごいだろ」
「今日からアメリカンライフ。ツリーも飾ってある、アイスクリームもどんと買い込んだからね。さあ、我が家へ直行だ」
 生き生きとした表情を見て気付く。この人は家族を待っていてくれた。
 それまでの夫は家を顧みることなく、いつでも仕事最優先であった。それに不服だったわけではない。彼には勤め第一でいてほしかったし、私は家族を守るのが役割だと思い通してきた。
 初めての海外赴任はあまりにも突然に訪れた。三ヵ月前の夏、八月、辞令を受けた彼は直ちに英会話を叩き込まれ、単身で海を渡った。何があっても弱音など吐く人ではないけれど、新しい仕事のほか、慣れない一人暮らしに、戸惑うこともあっただろう。
 ようやく家族が合流できたのだ。
 子どもたちのために「クリスマス」を用意したという夫の胸のうちを思い、私は組んだ腕にそっと力をこめていた。
 ニューヨークからワシントンブリッジを渡れば隣の州・ニュージャージーへ入る。車で十分ほどの川下にあたる町に新たな住まいはあった。
 三十四階建てのタワーなので、窓からはハドソン川の向こう岸にエンパイア・ステート・ビルディングをはじめ摩天楼の数々が見渡せた。東南角部屋は広い空と、イーストリバーまでが望め、朝、雲を染めて大西洋から昇る太陽を、両手で抱ける大きな空間だった。
 息子は日本学校へ、娘は近くの現地校へ転校でき、やがて暮らしも平常運転となる。
 週末には、レクリエーションも兼ねて、体育館のようなスーパーマーケットへ、家族揃って大量の食料品を買い出しに行く。家のキッチンに備え付けの冷凍冷蔵庫も、洋服ダンスほどの大きさであった。
 そのうち客人を招きホームパーティー、また招かれていくことも増えていった。
 
 夫人だけの集まりも多い。月に一度は何かと会が催された。そこでは夫の地位が、そのまま妻の冠ともなっていた。
 着任早々に私はある会のお膳立てを言いつかった。
 身を置く場所がつかめない私は自主性のない人、と評されてしまったようだ。
 表面は何気ない笑顔でいたものの、次第に私の内側が崩れ始めていた。
 近くに住む年配の日本女性に話すと、アメリカ人を夫に持つその人から、海外暮らしの心得を教わった。
「誰にも迷惑をかけていないのなら、コンプレックスを持つことなどないわ」
 彼女は若いころ洋裁を習得するためニューヨークに渡り、激しい人種差別の中で耐え、やがて彼女を理解し支えてくれるアメリカ人技師とめぐり合い、結婚。現在ではボランティアとして、駐在員の妻たちの相談相手になっている。
 しかし、私の気持ちの衰えは体力にも響き、時に家事も負担となっていた。
 日本だったら、日本なら、言葉も買い物も、不自由ないのに……。何をやっても半人前の自分が哀れだった。
 ハドソン川の流れに身を任せれば、いつか日本に行き着くかもしれないなどと、いつしか私は壁に向かってひとり言を口走るようになっていた。
 だが、本当に懸命なのは夫だったのでは……。朝早く車でワシントンブリッジを渡り、会社に行き、夜遅くリンカーントンネルを抜けて帰宅。社では中間管理職として上下の圧力もあったのではないだろうか。
 証券マンの夫は、米国の資格が必要となり、受験勉強に追われ、帰宅後がんばるほかない。好きな晩酌にビールは欠かさないが、さっと自室にこもって机に向かう。英語の資料と首っ引きだった。
 娘も英語と闘っていた。学校で「パールハーバー」と指差されていたが、勉強で勝て、と父親に諭されていたからだ。やがて、学校の先生が家庭教師となってくれてからというもの、娘はようやく心を開いた。
 日本の高校受験を控えていた息子は、先生にも友人にも恵まれ、それまでの反抗期現象は影をひそめる。
 ほどなく夫の資格試験は最短で目的を遂げた。子どもたちとの祝いの食卓で彼は言った。
「人生は試練の連続だ。自分に勝つほかないんだよ」
 後日、日本学校の参観のときだ。校長先生から傍らの父親はどんな人かと問われて、
「父は努力の人です」。
 息子の言葉に夫の眼鏡の奥が潤むのを、私は見た。
 
 アメリカでの生活にも慣れた二度目のクリスマスも思い出す。ふた抱えのツリーにオーナメントを飾りつけ、大きなオーブンでチキンを焼いて食卓を囲み、雪の川面の流れを眺め……。
 やがて正月を迎え、私は高校受験の息子を連れて一時帰国をした。
 日本では実家に身を寄せ、母子で臨戦態勢である。
 そんな中、ニューヨークに大雪というニュースを見て無性に娘の声を聞きたくなり受話器を取り上げた。
「ママ……」
 涙声が尾をひくように伝わり、家族が遥か遠く離れている切なさにかられた。
 いくつかの受験も終えて首尾よく息子は合格、そこへ夫から知らせが入る。
「帰国の辞令がおりた」と。
 少なくとも、三年ではなかったか。だからこそ、私はがんばって運転免許も取得した。現地にとけ込もうと、我が家を開放して女声コーラス≠フグループを発足させたばかりなのに。
 夫はすぐにも新しい任地、大阪へ着くことにしたいという。
 私はアメリカへ戻って限られた三日間で、挨拶回りや作業に追われ、最終日を迎えた。
 家族で囲んだ食卓風景を胸に呼び覚ましながら、調理台を拭こうとしたとき、突然めまいに襲われた。
「ママ、ママ、大丈夫?」
 気がつくと、心配そうに覗き込んでいる娘がいた。
「あとは私がやるから、寝てて」
 十歳の彼女が何と頼もしかったことか。
 ハドソン川の対岸を見渡すと、ニューヨークのビルの群れに灯がまたたき始めていた。
 夕闇迫る大空を西に向け、飛行機が一機青い光を放っていく。
 家族みんなで戦った駐在の日々は、終わったのだった。

 二〇〇一年九月十一日、世界を震撼させた同時多発テロが勃発。テレビはワールド・トレード・センター崩壊のニュースを繰り返した。青空を背景にまるで航空ショーのように、ジェット機が飛び込んだ。ビルがなだれ落ちる画像を食い入るように見つめ、夫は頭を抱えこみ、
「おれの勤めていた場所が、すべて無くなってしまった」と。
 彼があんなにもがんばりぬいたはずの証券会社は、実はその四年前に破綻していた。百年もの社史があっ気なく幕を閉じたのだ。変化の激しい時代とはいえ、いかに努力を重ねたとしても倒産、廃業などなど、一個人では抗えない大きな波に見舞われた多くの人の無念を、私も味わった……。
 そして、海外の衝撃的な出来ごとが、さらに追い討ちをかけたのである。彼にとって深い喪失感であったに違いない。私はどう支えたらいいのだろうか。ただそっと傍らにお茶を置くことしかできなかった。
 しかし彼はその衝撃を、背水の陣だと言って乗り切り、持ち前の精神力か、「我にこの道あり」との大書を壁に張って、再び株式の研究に没頭した。

 二〇〇四年十二月、娘の第二子誕生を待って息子夫婦も招き、お嫁さんのバースデー祝いとクリスマスを兼ねたホームパーティーをした。
 部屋の一角のツリーを見て二歳の孫娘が歓声をあげる。チカチカと瞬く電飾の彩りに星形が光り、天使やサンタ、トナカイなどのオーナメントが揺れていた。
「オー、メリークリスマス!」
 夫が外国人ふうにおどけたしぐさでシャンペンを抜いて言う。食卓に並ぶ手料理は嫁や娘が持ち寄ってくれ、メインのローストチキンは、私が孫娘をおんぶして汗だくで焼いたもの。どれも上々の味だよ、と賑やかに盛り上がる。
 笑顔に囲まれながら、ふと我が家の一年を省みた。難産の末に生まれた孫も三週目を迎えて、元気に育っている。家族が増えた実感というのだろうか、胸の奥からありがたさが湧いた。
 夫は日ごろの忙しさも見せず、ほろ酔い機嫌だ。
「ニューヨークの街のツリーは、すごぉく、でっかかったねえ……」
 うなずく息子たちの横顔に、そのころの中学生と小学生の面影が浮かんで見えた。
 アメリカで暮らした体験から二十年が経つけれど、決して彼らは忘れていない。きっと、これから先、家族の軸が広がっても思い出は語り継がれていくと、私は信じた。
 いつしか夜は更けて、小さな孫たちが眠りにつく。将来、世界に羽ばたくに違いない二人の傍らで、夫は安らかな寝息を立て始めていた。

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                                アンニョン・ハセヨ
             萩原けい子

 十時半くらいだと思う。こんな朝っぱらから何? 隣の居間では夫が新聞を読んでいるはずだが、テレビもつけっぱなしなのだ。聞こえてくるドラマのせりふが気になって仕方ない。メロドラマのようで、登場人物は韓国の名前だ。
 押入れの整理をしていた私の手が、ついに止まる。
 そっと居間を覗いてテレビの画面を見た。やっぱり韓国ドラマだった。整った顔立ちの若い男女が、真剣な面持ちで向き合っている。
 夫は? 目を転じると、ふんぞり返って新聞を両手で持ってはいるものの、目は食い入るようにテレビを見ている。三食昼寝つきといわれたころの主婦って、きっとこんな顔をしていたのだと思う。
「おいおい、何を見ておるのだ」
 私は旦那のようなせりふを吐きながら、椅子に腰掛け、知ったかぶりで訊いた。
「朝っぱらからなあに? これ、『冬ソナ』?」
 一度も見たことはないのだが、話題の韓国ドラマ 「冬のソナタ」のことだ。夫は、照れ笑いを浮かべながら、
「いや別のドラマ」
「へえー、この女の子『冬ソナ』に出ている女優さんでしょう? でも、ちょっと前の作品みたいね」
 またまた知ったかぶり。私だって彼女の顔ぐらいはわかるのだ。
「そうだよ、チェ・ジウというんだ。今では、韓国で放映されたものがどんどん入ってきているんだよ」
 続いてストーリーの解説を始める。これが退職後、家にいる日が多くなった夫の姿なのだ。入れ込む夫の言い分は、こうだ。
 彼が広告会社でバリバリの現役だったころ、アジア数ヵ国で、何度か広告に関する講演をした。特に韓国のサムスン系の広告会社で講演をしたときが、印象深かったらしい。儒教の教えが浸透していて、礼儀正しく、長幼の序が厳しいほどに浸透していた。その上、一人一人がまさに「国を背負っている」という気負いが感じられた。家庭ではどうなのだろう、と思っていた。ここ数年、彼は韓国の映画がかかると時間を作って見に行く。が、今ひとつ理解しにくい部分もあったようだ。テレビドラマを通して文化に接することで、疑問に感じていたことなどが、今になって納得できるのだ、と。
 まあ、言い訳はいらないからね。私はお茶を一服して、
「どうせ続けて見るわけじゃないから、解説はいらないわ」
 いけないと思いながらも、冷たく腰を上げた。
 そして午後。居間で新聞の切抜きをしているはずの夫に、紅茶を入れて運ぶ。朝とは違う韓国のテレビドラマが流れている。またもやチェ・ジウ。彼は目を画面に釘付けにしたまま、言う。
「これ、面白いんだ。見るといいよ。ものすごく丁寧に作ってあるし……」
 私は心の中で、自分に言い聞かせた。そうそう、こういうときこそ夫と一緒に過ごすのよ。話をあわせて興味も分かち合って……。それなのに、口から出た言葉は、
「別に興味ないなあ。サスペンスものか、スパイものならともかく」
 しまった……反省、反省。しばらくは付き合わなくちゃ。退職後の夫婦の関係はどちらにも責任があるのだからと、自分に言い聞かせて腰を下ろした。
「あら、この若者、結構かっこいいじゃない。清潔感もあるし……」
 すると即座に、
「いい男だろう。名前はグォン・サンウというんだ。今の日本で、これだけピシッとした感じの若い俳優はいないよ。」
 私が知っているのは中高年女性を虜にしているという、笑顔が魅力的なヨン様こと、ぺ・ヨンジュンくらい。
「彼女は交通事故で死んだことにされちゃって――。この男は彼女とは幼馴染で、結婚する約束をしていたのに――」
 レクチャーは続く。一区切りついたところで、私は「夕食の支度をするわ」と言って、またまた冷たく席を立った。
 そして数日後、昔の仲間との会合に出かけて深夜近くに帰ってきた夫。私はやりかけの洗いものを置いて迎えに出る。
 彼は居間に腰を下ろすと同時に、迷いなくチャンネルを選んだ。またまたチェ・ジウが出てきた。今度は大会社の社長令嬢の役で。相手役の男優は見たことがある。お茶を入れた私は、湯飲みを夫の前に置くと、そのまま腰を下ろした。すると、待ってましたとばかり、
「これ、結構面白いんだよぉ」
 またレクチャーが……。
「この俳優はぺ・ヨンジュンの兄貴分でね、ヨンのことをかわいがっているんだ」
 なに、なに、ヨン? さも親しげに言ってくれるじゃない?
「あれ、この人、ずっと前に見たドラマにも出てたでしょう」
「よっく覚えているじゃないか」
 夫はうれしそうに笑った。え、こんなことで喜ぶんだ!
 ま、洗いものは後回しにしてもいい。少しの時間なら、このドラマに付き合おうか。彼が次々と上げるタイトルには追いつけないが、せめてその路線に乗って「アンニョン・ハセヨ」。恋愛異文化に接するのも悪くない、か……な。
 今では体調と相談しながら、仕事を少しずつ減らし始めた夫だが、それでも引き受けた仕事には全力投球をする。そして自分の生活にも同じように、とことんのめりこむのが彼の生き方なのだ。
 あらゆるチャンネルを調べ、午前、午後、夜、と一日に韓国ドラマを三本立てで見る。それが彼の心の糧のひとつになるなら、協力しようじゃないの。
 
『夫の定年、揺れる妻たち(続)』 日本文学館より   ページトップへ           
   

  夢の話の行く末
                佐々木 洋子

 初めて買った年末ジャンボが当たった。といっても十年も前のこと……。一万円だが、当たったには違いない。その上、帰省していた息子も五万円が二枚当たった。二人とも最小単位の投資だから、喜びもひとしおだ。空クジの分厚い束を手にして無言の夫を尻目に小躍りした。いい一年になるような気がして、心弾んだお正月だった。

 その一年前、夫は百万円を当てた。当初は有頂天で人を誘っては大盤振る舞いをしていたが、噂は千里をかけ、行く先々で持ち上げられて、あっという間に霧散し、最後のほうは持ち出しになっていたそうな。
そうとは知らず奥ゆかしい妻は少し経ってから、そろそろお話があるころかしらと手のひらを出したところもうとっくの昔になくなったと。ちょっとちょっと、それはないんじゃあないの。平素の貢献度を思えばまず奥さんに半分は当然のこと、いままで父不在の、さびしい思いをさせた二人の子供には残りを全部、家族にそれぐらいして貰ってもバチは当たらないわと、遺産分配なみの恨み節をネチネチと。もう残ってないと言われると、余計唸りたくなる。こういうときに人はその真価が分かるわよねと、逆に私の真価を疑われるようなことまで言っていた。
 根負けしたのか、とうとうどこからか捻り出してホテルでの夕食をご馳走してくれた。ないないと言いながらあるじゃあないのと、夫にまだ疑いの目を向けたりした。とはいえ、大勢でその気になれば百万円などすぐになくなるのは想像できたし、なにより夫があてた宝くじだ。それにしてもこれで収めるなんて私はなんと良妻なのかしらと念押しをしただけで、さらなるブッタクリはしなかった。
 その善い行いがこうして次の年の一万円当選に繋がったのだ。なにも買わないうちになにかに消えてしまったが。夢の再現を狙った夫はボーナスをはたいたがもうウンは尽きてしまっていたようだ。

 あれから十年、歓喜の声をあげる機会はない。しかし一億円あたったら何をしようかという強欲な夢は、笑いながらも半ば本気で言い合っている。まずは夫と世界旅行をと同居の娘に言うと、そんなに長期間、会社を休むわけにはいかないから辞めるわ、もう仕事は飽きたし疲れたし、と、ウキウキ声。
いつもは幼稚園児の孫を私がみている。孫の出産からてんてこ舞いの毎日だったが、嵐のようだった時期はどうやら過ぎた。落ち着いてきたところで引き渡してしまうのも忍びない。
 考えた末、だけどこんな世の中だからあなたたちの老後はどうなるか分からないし、家のローンもあるんだし、満額の厚生年金は確保したほうがいいんじゃないのと、暗に共働きの継続を勧める。私の旅行のせいで、かれらの人生計画を狂わせては申し訳ない、という理由をつけて。
「でも、お母さん、一億円だよ、一億」
 そうだったね、賞金は家族皆のもの。とすると基本分配にのっとり子供二人に五千万か、いやいやこうして彼らの生活や老後もふくめると到底それでは……。
 夢の話は、いつもこうして終わりを告げるのだ。
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    氷河の悲鳴
               萩原 けい子

 三年ぶりにアラスカの氷河へ出かけた。あの氷河に会える。身震いするほど楽しみにしていた。

 三年前……。
 キーンという音が聞えそうなほど冷たく光る水の上を、私たちの乗った船は滑るように進んでいった。両側にアルプス級の岩山がそびえる入り江の突き当たりに、山の間をギシギシと分けて、青白い氷河がこちらに押し寄せて来るように見えた。
 流氷上に、二頭、三頭と群れて日向ぼっこをしているのは、アザラシ。まさに無数という表現がぴったりだ。遠くの群れなどは、ナメクジの大群に見える。 
 デッキから見る流氷はいかにも頑丈そうだ。水面に出ている部分だけでも二メートル角ぐらいのものから小さなテーブル大のものまでが、次から次へと船にぶつかってくる。いや、船が砕氷船のように氷をかき分けて進んでいるのだ。時々ゴツン、とか、ドンと聞こえるのは、氷が船に当たる音だ。
 船は徐々に徐々に、氷の壁の五百メートル手前まで近づいた。
 氷壁はゴツゴツとした襞を見せて私の正面にある。と、遠雷が響き渡った。空は抜けるほどの青さだ。 浮かぶ雲は真っ白。夕立ではない。氷河の内側で、ひびが入るときの音なのだ。
 私は映画やニュースで見るような、ダイナミックに崩れ落ちる氷河崩落を期待していた。だが、待てど暮らせど、落ちてくれない。
 船のスタッフの提案で声を揃えてワーワー叫んでみた。
 しばらくすると、氷河の奥でくぐもった大音響が何度か轟き渡る。そのあと、氷壁崩落が始まった。正面で、次には右側で、さらに左側でと、大きく小さく崩れ落ちる青白い氷のなだれ。
 そして突然、幅十メートルくらいの巨大な氷壁がはがれて、海に落ち込んだ。ズドーンという音がこだまとなって次々と響きあう。そして崩落現場にできた一つの波から、じわじわと大きなうねりが始まる。砕け散った氷塊に覆われた波は、うねうねと広がり、やがてこちらに押し寄せてきた。
 そのときの私は、地球のことを何も考えていなかった。ただ、ただ崩壊をじかに見た感動に浸った。

 今回、私は三年前の崩落と感動に再び出会えると、楽しみにしていた。
 ところが、あのときの氷河はすでに涸れていたのだった。海からいきなり突き出た岩山の上方に氷河が残っているだけだった。
 船は別の氷河へと向かう。
  やがて、何本も縦に割れ目の入った氷の岩棚が、目の前に現れた。船の周りには氷のかけらが、ひしめき合っている。が、以前のようにゴツゴツした塊ではなく、お湯に入れてあっと言う間に溶けてしまう氷のようだ。角が滑らかに解けて透き通って見える。その分だけ芸術的でもある。あれは船の形、これは白鳥、熊、などと想像力は膨らむが、私の思っていた流氷ではない。
 四百メートル近くまで氷河に近づいた船が突然、崩落を誘うためにと汽笛を鳴らした。この船とすれ違いに入り江を出て行った何艘かの観光船も同じことをしたのだろうか。
 何も聞こえないのに、残響がこだまとなって、岩山と氷河の間を飛び交っているように感じた。何秒かあとに、汽笛に呼応するように氷壁の奥で雷のような音が響くと、今にも崩れそうな裂け目を見せていた氷の襞がはがれ始め、ズズズと滑り落ちる。
 二万二千トンの船と同じくらいの横長の塊が、海中にゆっくりと落ちて、沈んだ。
 ウォーという船客たちの歓声が冷気の中を流れてゆく。
 しばらくすると、巨大な氷塊は波に押し上げられて浮かんできた。岩山に張り付いていた部分が黒々とした面を見せている。横にギザギザと長く伸びる黒い氷は、巨大なくちびるのようだ。
 年配の紳士が私に話しかけた。
「あの黒い色はね、削れて粉になった岩がくっついているんですよ」
「氷が岩から無理やり剥がされたっていう感じで、かわいそう」
 私は浮かび上がった氷のくちびるを見つめながら、憮然と応えた。と、その氷塊がまたゆっくりと潜って見えなくなり、耐え切れなくなったようにまた顔を出す。また潜る。まるで、もがきながら息をついているようだ。
 何度もゆっくりと浮き沈みを繰り返したあと、静かに浮いたまま、動かなくなった。
 そのうちにあちらからも、こちらからも、次つぎにひび割れる音がして、崩落が続いた。

 地球温暖化……氷壁の奥で響く遠雷のような音響は氷河の悲鳴だと、私は三年目に理解したのだった。

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    住めば都
                 北崎 理子

 茅ヶ崎に越してきて、ちょうど二年が過ぎた。
 とにかく便利なところが気に入っている。以前住んでいた東京の杉並は、郊外の住宅地としては大好きだが、日常の買い物は不便だった。どこへ行くにもバスか自転車に乗らなければならなかった。
 今の家は駅に近いし、スーパーでも肉屋、魚屋、八百屋でも、歩いて買い物に行ける。
 医院がたくさんあるのもいい。
「ちょっと歯医者に行ってくる」
 夫は嫌いな歯医者にもまめに行くようになった。歩いて一分である。
 私はこの街を目的もなく歩くのが好きだ。知らないところならなおさらだ。路地を曲がったら「こんなところに出てきたの」という驚きが楽しい。
 今、いろいろな店を見つけては家族に報告して得意になっている。
 この間は市場を見つけた。上野のアメ横を小さくまとめた感じだった。
 出入り口に八百屋がある。山積みされてすべり落ちそうなキャベツ。その山が崩れないように身体を横にして中に入った。
 キャベツの隣にモヤシ、これもまたビニール袋がすべり落ちそうに積み上げられている。「さわみつモヤシ19円」。いやに安いが、さわみつモヤシって何だろう。キョロキョロしていたら「澤光」と書かれたのぼり旗が目についた。さわみつ≠ヘ八百屋の名前だった。日本酒にありそうな名前だ。
 八百屋さんには申し訳ないが、「澤光」は酒屋のほうが似合っている。昔は酒屋だったに違いないと、私は勝手に決めつけた。
 次は食料品店の「つるかめ」である。今どき珍しい名前だが、かえってインパクトがある。米袋の前に、
「あさ・ひる・ばんブレンド米10kg2999円」の文字が。あさ・ひる・ばんって何のことだろう。まったく分からない。
 その次は肉屋「ニュークイック」。豚ニンニク塩焼き、豚ホルモン焼、豚カルビ焼。ぶら下がっている名札を見ただけで通り過ぎた。
 隣は魚屋である。肉屋と魚屋が並んでいるのは都合がいい。魚屋は「魚耕」(うおこう)だった。
「懐かしい」思わずひとりごとを言った。「魚耕」は杉並にいたときによく利用していた。まさか茅ヶ崎にあるとは思わなかった。知っている名前を見つけたのでふっと肩の力が抜けた。
 なじみのない市場でうろうろしていて疲れてしまった。懐かしさと疲れついでに、その日は「魚耕」で本マグロのお刺身を奮発した。

 茅ヶ崎に来てから、夫も私も今まで行ったこともないところに出かけるようになった。寄席である。
 市民文化会館での「茅ヶ崎寄席」へは、もう三回も行った。
 市の広報で落語の広告を見て、
「行ってみようか」
と、言い出したのは夫である。すぐにチケットの手配をしたのも夫である。落語に興味を示したことなどなかったのに、いやに積極的だった。
 土曜日の昼下がりの市民文化会館の大ホールは我々夫婦を含めて中高年でうめつくされていた。「茅ヶ崎寄席」は何回もやっているらしい。
 そのときの出演は林家木久藏。涙が出るほど大笑いしたのに、帰りにはどんな話だったか忘れてしまっていた。
 春には圓歌が出演し、つい先日は楽太郎だった。毎回、大入り満員なのに若い人をほとんど見かけない。
 それだけ高齢者が多くなってきたのだろう。
 そういえば、市はお年寄りに対してきめ細かいサービスをしている。ときどき市の広報のスピーカーがピンポンパンポンと鳴り、
「こちらは防災ちがさき≠ナす。東海岸北のBさんが行方不明になりました。ピンクのブラウス、黒のズボン、背は153センチぐらい。年齢は七九歳です。お心当たりの方はご連絡ください」
と、街中に響き渡る。
「見つかるといいわねえ」 
 家族で心配しているとしばらくして、
「Bさんが見つかりました。ご協力ありがとうございました」
と、スピーカーの声でほっとするのだった。
 以前、行方不明になった人が亡くなられて発見されたことから、早く探し出すために始めたそうだ。
 迷子は子供より高齢者が多いようである。私もあちこち歩き回るのが好きだから、そのうちお世話になるかもしれない。
 身に付けるものは派手な色がよさそうだ。
 茅ヶ崎のイメージが〈年寄りの町〉になってきたが
それでも表通りには若い人がサーフボードを脇に抱えて颯爽と歩いている。
 今年の夏も日焼けした男女で賑やかだった。特に
「浜降祭」(はまおりさい)のときは熱気が伝わってくる。「浜降祭」というのはお神輿を担いで海に入り禊をする祭で、隣の寒川町と茅ヶ崎市内の神社が参加する。
 七月海の日、朝五時に起きるとサザンビーチに急いだ。海辺にはかなりの人が集まっている。五時に入場する一番神輿には間に合わなかったが、
「どっこい、どっこい」
 元気なよく通る声が聞こえてきた。
 子供神輿だった。次つぎと神輿が入ってくる。
「寒川神社が入場してきました。ごくろうさまです。ごくろうさまです。みなさま拍手でお迎えください」
 マイクで解説しているのは地元の長老なのか、あたたかみがある話しかた。流暢ではないが「ほんとうにごくろうさま」という気持ちが伝わってくる。
「いい声ねえ」
「去年もあの人だったよ」
 夫は去年ひとりで見にきたのである。
「どっこいどっこい」
 あっちからもこっちからも聞こえてくる。入場してきた神輿は砂浜で乱舞しながら海に入っていく。
「中海岸神社の入場でございます。お神輿を流れるように揺らして担ぐのが特徴でございます。どうぞご覧ください。若い担ぎ手のみなさんに拍手をお願いします」
 長老の淡々とした声。
「どっこいどっこい」
 禊を見ようと波打ち際に押し寄せる人、ひと。喚声と拍手、かね、太鼓が響き、祭りは最高潮に達する。
 禊が済むと神輿は浜に並ぶ。
 今年は三八基の神輿が並んだ。
 暁の祭典「浜降祭」が終わると、茅ヶ崎の夏が始まる。

「茅ヶ崎暮らしも、まんざら悪くないわね」
 夫にそう言うと、月並みな言葉が返ってきた。
「住めば都だよ」
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  冬の夜 歴史の謎に 思い馳せ 
                  島田 閏江

 氷上を、力強くそして優美に舞う織田信成。織田信長の子孫であることから、早くから知名度も高い。フィギュアスケートの「NHK杯」は、惜しくも二位であった。残念である。
 織田信成をテレビで見ると、信長、蘭丸を思い浮かべてしまう。
 個性の強い信長は、秀吉、家康と同じ次代を過ごした時期もあり、かかわりも深かったので、テレビドラマに度々登場する。
 NHKの「功名が辻」、テレビ朝日の「太閤記」などで、本能寺の変や信長を扱ったものが平成一八年は何本もあった。
 私は、信長の万人的でない個性と、本能寺の変に興味を持っている。「本能寺では、死んでいない」説を支持している。そのためか、織田信成を応援してしまう。
 京の本能寺には、何度か行ったことがある。信長の立派な墓石と本能寺の変の戦死者名が板に掲示されている。その中で目を引くのが、信長の小姓で有名な美青年・森蘭丸とその弟で、力丸、坊丸。十代の若さでと、哀悼の意を表する人も多い。

 十三、四年前のことだが、名古屋で仕事を終えた翌日が日曜だったので、犬山城を見て帰ることにした。木曽川近くの城で、唯一個人の所有であったが、現在は役所が管理している。。
 天守の階段は急であった。あまりにも急なせいか、話によると美智子皇后も、ここでは靴を履きかえられたそうである。皇后の写真も飾られていた。
 せっかくここまで来たのだから、犬山城とは縁のある、森蘭丸の生まれた金山城址に行きたくなった。
 金山城は、斉藤道三が古城山の頂上に築かせた城のことで、鳥峰城とも呼ばれている。後に信長が重臣の森可成(よしなり)に与えた。蘭丸の父である。可成は入城し、金山(兼山)城と改称。可成、長可(蘭丸兄)、忠政(蘭丸末弟)と、三十五年間、森氏が在城した。三代にわたり整備され拡充され、金山城は広大なものであったと、発掘調査結果である。
 慶長五年、家康の時代となり、川中島梅津城に国替となる。よって金山城は取り壊され、筏に組まれ木曾川を下り、犬山に移築される。犬山城主は石川備前守光吉である。
 そのような歴史のある、室町末期の典型的な山城だった城址を見たいと心は弾んだ。
 名古屋鉄道でトコトコ行けるようだが、不安もあったのでタクシーで行くことにした。犬山街道は若葉の季節で、山並みや田畑は美しい。
 途中まで行くと、「蘭丸の里」と大きな看板が見えてきた。近くなったと思うと、ドキドキしてくる。源氏の流れを汲む森家の菩提寺である大竜山可成禅寺にも寄りたいと思った。だが、タクシーの運転手は、地元(岐阜県可児郡赤山町)の人ではなかったので、道に迷ったりして、だんだん日が暮れだした。
 商店で訊くと、城址はほとんど何もない上、暮れてから行くのは、無理だとわかった。信長の休石や天守址など見たかったが、諦めた。
 どこか縁の寺などあったらと探した。やっと森可成の室(蘭丸の母)の墓のある常照寺にたどり着いた。
 突然の訪問であったが、東京から来たことを伝えると、快く中に入れてくださった。
 あまり大きな寺ではないが、御本尊は立派である。お参りした後、訪ねたわけを話すと、蘭丸の母である妙向尼の墓に案内してくださる。他の森家に縁のかたがたの墓にも手を合わせた。
 座敷で茶菓の接待をしていただいた上に、妙向尼画像軸を見せていただいた。それだけでも感激したのに奥から木箱を持ってきてくださった。中に白い布で大切に包んであった中身は、なんと蘭丸の使った鏃(やじり)であった。
 持ってもよいとお許しが出たので、身が震える思いで、両手で持ち上げた。この稿を書きながらも、両足がなぜか震えている。
 この鏃が、どうして常照寺にあるのか定かではないが、めったに人に見せないものを、初対面の私が見せていただけたことは、大変に幸せなことである。
 いつかはもう一度訪ねてみたい。
 金山城周辺は、明智城をはじめとして、たくさんの城址がある。それらも、ゆっくり見て回りたい。

 そして、いつか信成の口から、信長の遺体のなかった本能寺の変の真実を聞きたい。
 けれど、まずは信成がオリンピックで金メダルを取ることを祈念している。

 ※追記
   森長定(蘭丸)は、濃州岩村城主で、五万石で
   あった。十代で城主だったことは、あまり知ら
   れていない。
 
         平成18年12月10日・記
                            

   花明かり
              柴田真利子

 夫は退職して七年目になる。日ごろ忙しいと連発している彼が、珍しく誘ってくれた。「夕食後、桜を見に行こうか」現役のときには聞いたこともない言葉だった。私も仕事を早めに切り上げ、揃って出かける。
 駅へ向かう大通りの両側には、街路灯に照らされた見事な桜のトンネルが続く。花の好きな、遠くに住む娘に思いを馳せた。
 あれは七年前の春の夜。夫と、勤め帰りの娘が一緒に帰宅した。最寄り駅で出会い、遠回りして桜並木を歩いたと言う。
「見ごろには早かったけど、なかなかよかったよなあ」と夫。
「ふわっと浮き上がって、ライトアップしたみたいだったの。二人でデートしちゃった」
 娘は身振り手振りで様子を語ってくれる。父娘の花見――そのとき私は思い出した。
 仕事ひと筋で終えた父が亡くなって久しい。一緒に外出した体験は少なく、それだけに、父の転勤に伴って家族で移り住んだ秋田の夜桜は、私にとっては大切な思い出。長い時を経ても、季節が巡って胸に取り出してみれば、父の心に改めて触れることができたのだった。

 昭和二十七年、秋田で私は小学四年であった。四月、転校生I子ちゃんを迎える。彼女は同じ市内でも違う学区から越境の通学だ。おかっぱ頭に色白の細面、ゆっくり話す口調はいかにも一人娘らしかった。
 私は五人兄妹の四番目、体は弱かったがおっとりなどしていられない。家中を駆け回って宝探し、忍者ごっこにピンポン、木登り、勉強は二の次で夕方まで遊ぶ。大勢のなかに彼女は打ち解け、毎日、学校の帰り、我が家に寄るようになった。
 やがて、春遅い地にも花咲くころ、子犬がもらわれてきた。みなで抱いてまわすうちに、尾をつかんでしまったI子が犬にかまれ、大騒ぎとなった。頬に歯形がつき血が滲んで。
夜、父が帰宅。話を聞くや、食事も摂らず、
「すぐ謝りに行かなければ」と立ち上がり、
「転校生同士、友だちは大事だぞ」
 私に案内を促した。当時タクシーはなく、輪タクを呼んだが出払っているとのこと。郊外までの道のりは遠いが、歩いて出かけた。
 市街を抜け、次第に電柱の灯も乏しくなる田畑の脇を行く。木立の影が心細さを増す。
 わら葺屋根の大きな家の前に出た。見知ったはずのI子の家だが、馬車の轍が中へとつづく広い庭、おぼろ月のもと、池の岸辺に家鴨の一群れが眠っている――。静まり返った童話のような光景に、私は見入った。行こうな、父の声に背を押され、奥へ進む。玄関先では友と両親が待っていた。
「さあさ、まんずお茶でも、どうぞ」
 暖かな囲炉裏へ招く。だが、父は上がり框に両手をつき、額をすり、
「お嬢さんに飛んだことを……」
 身を挺して必死に謝る姿を目のあたりにしたのは初めてであった。いつか、母が、お父さんは自分からは謝らない人よと、こぼしていたけれど、その父が私のために頭を下げ続けた。
「いやあ、たいしたことはなかったんだし」
 それより、こちらこそお世話をかけて……と、I子の両親は笑顔で彼女と私を抱き寄せた。
 帰り、大回りしていこうと小高い城山の千秋公園へ向かった。朱塗りの太鼓橋が残る本丸跡の広場には、春祭りを前にサーカス団が到着したばかりの様子。舞台衣装がロープにかかり、焚き火を囲む大勢の人影が揺れる。帆布からシワだらけの巨体がはみ出していた。「象だ。二頭いるよ、親子かな」
 近づいて立ち止まる父の手に私はすがった。
 そのうち、緩くカーブを描く坂の上に出た。堀を見下ろす道の両側に桜の大木が並ぶ。祭りのぼんぼりが沿って灯り、枝々の先、数限りない花かんざしを映す。
 夜空に舞い上がるようなほの白く浮き立つ花の波が幾重にも連なる坂道を、父にもたれて歩き、眺めた。

 父親とのデートをあんなにも嬉しそうに話していた娘も、やがて勤めを辞め、結婚した。親としては定年退職後でもあり、ささやかな花嫁道具を持たせたが、それにも増して大切だと信じて持たせたのは、慈しみ育てた私たちの心だった。 
 今では二児の母となった彼女だが、いつか夜桜に出合うとき、私と同じように父親を思い浮かべてくれるだろうか。
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    菜の花
            須釜 敏子     

 朝の掃除・洗濯が済み、一段落と思ったところへ電話が鳴った。中学時代の友人からだ。
 彼女の家の畑の菜の花が食べごろなので、摘みに来ないかという。早速出かけた。我が家から歩いて五分の近さだ。
 四人姉妹の長女である彼女は、家を継ぎ、三人の妹が結婚するまでしっかりと面倒を見た。数年前にお父さんを亡くしたあとは、娘二人を嫁がせ、今では、お母さんとご主人と息子さんとの四人暮らしである。
「今年のお正月は十六人が集まったのよ、にぎやかだったわ」
と、さらりと言う。もうすっかり一族の長といった感じだ。
 彼女の家のそばにある畑では二種類の菜花がたくさんのつぼみをつけていた。いくつかはもう咲き始めていて、いい香りがする。
「悪いけど、全部摘んでくれる?」
 彼女は腰を痛めていて、今のところ中腰の作業ができないのだった。プラスチックの洗い桶を二つとバケツ一つ、ビニールの袋も持ってきて、摘み始める。
畑の脇で立っている彼女といろいろなことを話しながら、菜の花を摘んだ。桶やバケツはたちまち一杯になった。
 お昼前の春のひととき。日差しがきらきら輝いている中を、時折風が通り過ぎていく。少しも寒く感じない。
 一抱えもの菜の花をポリ袋に詰め込んでもらって、意気揚々と帰ってきた。

 昼食後、再び電話が鳴った。実家の姉からだった。
「菜の花が食べごろになったわ、摘みにきて」
 一日に二ヵ所から同じ誘いの電話、なんて嬉しいんでしょ。摘むだけでも手伝って来ようと、これも歩いて五分の実家に出かけた。
 姉と一緒に家の前の畑に行く。ここでも二人でおしゃべりをしながら、花を摘む。四角い買い物籠一杯になった。少しだけ飾り用の花も何本かもらって帰ってきた。
 帰宅後すぐに花をビンに挿し、続いて大きな鍋にお湯を沸かす。菜の花を次々と茹でた。
 明日は義姉の一周忌。兄の家に持っていって、集まる人たちと食べよう。
 我が家では今夜、胡麻和えにして、家族三人でいただいた。春の香りと小さな幸せが、食卓に広がった。
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  薔薇の咲く庭
             柴田 真利子

 現在、我が家の石組みされた庭は、樹齢五十年を越す椿や松を配した和風の造りである。年一度は植木屋さんが入り、鋏の音や樹木の香りに包まれる、
 その日が私は大好き。段取りを見計らってお茶だしするのも、うきうきしている。
 だが、この家に住むようになって二十数年。薔薇を育てる場所が欲しい、一隅でいいから素人でも手入れできる場所を持ちたい、という願いを捨てきれないでいた。じっくりと土に触れ、黙々と作業を続け、年ごとの積み重ねを実感する、そんな憧れがあった。
 昨年、自由に使える時間が少し持てるようになったのを機に、書店に行くたび園芸のコーナーも回る。
「庭仕事は瞑想である! 草花や樹木が教えてくれる生命の神秘」
 帯の文章に魅せられて迷わず買って帰った。
『ヘルマン・ヘッセ庭仕事の愉しみ』のなか、野良で働く彼の写真が目を引いた。亡くなった私の父によく似ているのだ。眼鏡をかけ、麦わら帽子をかぶり、細身ながらがっしりとした体格。如雨露を持ち上げた瞬間など、呼びかけたら、父の声が返ってきそうなほど……。
 四十年も昔になるが、サラリーマンだった父は最後の転勤生活を終えると、永住の地を湘南に求めて好きな薔薇作りに精を出した。
 庭一面に芝を敷き詰め、石畳のバーベキュー・コーナーを取り囲む形に苗を次つぎと配置する。土や肥料は軽トラックで運んでもらい、支柱は自ら軍手をはめた手で、力を込めて立てた。
 飼い犬をお供に汗みずくで働く父の姿は、一枚の絵だった。虚無僧のように帽子を目深にかぶり、首には日本手ぬぐい、古いYシャツの襟を立て、兄の履き古した体操ズボンの裾をゴムで絞り、ズックで足元を固めるのが父流であった。会社勤めのころには、背広にもネクタイにも気を配っていた人が、庭いじりとなると機能本位でいいのだと言う。
 何ごとにも真剣勝負で「一生懸命やれよ」が口癖の父だった。〈頑固一徹〉と〈花好き〉は、ミスマッチとも思われたが、頑固なまでにコツコツと働いてこそ成果があるのだ、それは花を咲かせる喜びにも結びつくと教えてくれたようにも思える。
 父に寄り添った母は若いときから病気がちで、足腰も弱り外出もままならなくなっていた。しかし、茎や葉裏の虫を丹念に除き続ける父に声をかけたり、咲いた一輪を切ってくださいな、とベランダから頼んだりしていた母は、母なりに応援していたに違いない。
 一日の作業が終わり、辺りがうっすらと夕暮れ色に染まるころ、クリーム色やピンクの花々がそこここに浮かび上がる。芝の中央に立ち、
「ほら、ほら見てくれ」
 日焼けした顔、笑う白い歯、父の得意そうな表情と声は今も、はっきりと思い出す。

 父のように薔薇を育てたいと、再び思いが膨らんだ昨秋の終わりごろ、息子夫婦が声をかけてくれたのだった。
「一年以内に家を建てるが、一緒に住まないか」
 その言葉を潮に、同居に踏み切ろうと思った。私たちが今は揃って元気でいるとは言え、いつまでも健在の保証はないと考えたからでもある。
 そして、私にも父の性格が受け継がれているとしたら、新しい庭で、薔薇とともに黙々と時を過ごすのも性に合っていそうな気がしてきた。
 晴れた日には、よちよち歩きの孫坊やと一緒に庭に出て薔薇つくりに精を出し、土や虫に触れる。人も木も草花も、みんな生きて伸びる命だとわかりあう。季節が巡るたび、小さな瞳と一緒に、どんな驚きを見つけられるだろうか。

 父母の墓前に報告しよう。
「孫もひ孫も元気ですよ。もちろん私たちも」
 そして、もう一つ。
「いつか、きっと薔薇の花咲く私の庭へも、遊びに来てくださいね」

  友 情
            小璃間 けい
              (こりま・けい) 

 学生時代の友人に、家業を継いでホテルを経営する桧山君がいる。五十歳(ごじゅう)の声を聞く今は、互いに忙しく、年賀状で健康や近況を知る程度になっている。
 かつて大病を経験した彼が健やかなことに、今年も私は安堵した。

 二十五年前、大学を終えて実家の岡山に戻っていた桧山君が、突然入院した。結核で長期療養を言い渡されたという。根っからの明るさは失せ、電話の声に力も無い。お見舞いの申し出も、感染の可能性を理由に断られた。
 彼の好物は、お酒とチョコレートと銀座のネオン。そのチョコレートに、銀座の夜景の絵葉書を添えて送った。他に何もできない私は、この日から手紙を書き始める。
 美味しい和食の店を見つけた、母校のクリスマス・トゥリーが今年も綺麗だ。夕べは飲み過ぎたなど、仕事の合間や出張へ行く車中、公園のベンチでと、日々の明け暮れを綴っては投函した。体調の良いときは電話をくれたが、言葉少なに礼を述べるだけで、いつもすぐに切れた。
 彼が手術をしたと聞いたのは、入院して一年ほど過ぎたときだった。数日前、知らずに手紙を送ったばかり。気になり、初めて病院に電話をかけてみた。彼の名を告げると、東京からですね、看護婦さんが親しげに答えた。ほどなく、パタパタと廊下を駆ける音に続き、彼の声。
「ヨォ、さっき本と手紙着いたよ。サンキュウ!」
 まさに桧山君だった。手術後の彼は健康を取り戻し以前のように明るく、歯切れ良くなっていた。
「ねえ、名前だけなのに、東京からと言われたわ」
「いつも手紙くれるだろう、病院中で有名なんだ。すごいってね。郵便屋だって知ってるよ。看護婦のやつなんか、はい、小璃間さんからって、さも、けいを知ってるように渡すんだぜ、看護婦のやつ」
「聞こえるわよ、看護婦さんに」
「しっかり聞いてるよ、隣で。ギャハハハ」
 数か月後、私は一年半の手紙書きから解放された。
 その年の夏の初め、仕事復帰の挨拶状が届く。
〈一番嬉しかったのはけいの手紙だったよ。飯食ったとか、海にいるとか、酒がうまいとか……この野郎と思ったけど、嬉しかった。届くたびに何度も読み返したからね。看護婦からの退院祝いは、それを入れるケースだったよ。一三七通と、二八冊の本とチョコレート、ほんとうにありがとう〉
 型通りの印刷文の横の字は昔と同じ、相変わらず読みにくく、ミミズがのたくっような字だった。

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 ジークフリート
              萩原 けい子

 私には、十三歳のときからのペンフレンドがいる。ドイツ人のジークフリート。
 もう五十年のつきあいになるが、写真以外で、彼に会ったことはない。新しい写真といっても、三十代の家族写真。大柄で金髪、知性溢れる目……いかにもドイツの男性といった印象だ。定年を迎えた彼の姿は、想像するしかない。

 中学に入って英語を習い始めると、私の海外への興味は急速に広がった。外国を知りたい、外国の誰かと話してみたい。海外の機関に友達を紹介してくださいと、依頼の手紙を数え切れないほど出した。その結果一時は十ヵ国近くの同年代と、文通を楽しめた。
 けれど、今でも続いているのは彼だけだ。最近ではクリスマスの時期に、その年の家族の報告をしあうくらいだけなのだが、なぜか、この文通だけは大切にしたいと思うのだ。
 彼は私より二歳上。ワーグナー音楽祭で有名なバイロイトの近くに、住んでいる。
 軍隊にいた二年間にも、気が向くと手紙やはがきをくれた。彼を通してドイツ人の気質や生活を垣間見たり、心を感じ取ったりと、その時々が、私には新鮮な刺激であった。
 数年前のことである。彼がこんな手紙をくれた。
「まったくの偶然によって、Aさんという日本女性と知りあえました。彼女は我が家からそう遠くない町に住んでいて、今は、ぼくたち夫婦の良い友だちです」
 彼女は学者で、楽しい人。父親の仕事柄、いろいろな国で過ごし、ほとんど日本にいなかった。彼女はドイツ人の学者と結婚して……彼女のおかげで日本や、あなたがいっそう近くなりました、とある。
 どんな女性なのだろう。なんとなく彼を取られたような気がして、不安がつのる。
 それから一年ほど経ったある日、電話が鳴った。日本に一時帰国したAさんからだ。はやる心を抑えて、会いに出かけた。
 彼女は、小柄な私とあまり変わらない体つきで、年頃も同じくらい。知的な面差し。まっすぐに相手を見て話す。加えて、華やかな雰囲気を携えている。なんだか安心した。この人が彼と友だちなら、いいわ。
 彼女は写真を見せながら話してくれた。定年退職した現在の彼と奥さん、彼の家、彼の居間、彼の友だち……。Aさんは、生身のジークフリートを運んできてくれたのだ。
 何億分の一と思える偶然のおかげで、とうとう彼に会えた、という気がした。

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