都会の井戸端
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近況報告    山本浩三   百人一首は歌織物  萩原けい子 new!春が待たれる 北崎理子 


  春が待たれる
                 北崎 理子

 瞬く間に一年が過ぎ、一月の二日、三日と箱根駅伝のテレビ中継を見る。
 ヘリコプターの音が聞こえてくると、ランナーが私の住んでいる茅ヶ崎に入ってくる。富士山と海岸がテレビの画面に映しだされ、海の青と冠雪の白が新春らしくすがすがしい。これからが冬本番である。
 そして、大寒がすぎるころ、もうじき春になると思うと、かえって待ち遠しくなるものだ。
 古今和歌集にこんなうたがある。

  冬ながら春の隣の近ければ 
   中垣よりぞ花は散りける 清原ふかやぶ

「明日春立たむとしける日、隣の家の方(かた)より風の雪を吹きこしけるを見て、その隣へよみてつかはしける」と説明されている。
「冬だけれど、春の隣も近いので」といって、隣家の主人にあいさつの歌を贈っている。「春の隣」がなんともいえずしゃれている。
 立春になれば、どんなに寒くても春の気配がいたるところにたちこめる。寒さに耐えて庭の水仙も三輪の花をつけた。土を押し上げて黄緑の蕗の薹が覗いた。さっそく収穫してといっても、去年と同じたったひとつだけ、刻んでお味噌と和えて蕗味噌をつくり、早春らしい香りとほろ苦さを味わったのに、
「今年は寒さが厳しいので春の足音は先のことです」と、気象予報士の言葉がテレビからながれてきた。
 茅ヶ崎は東京より二度ぐらい気温が高い。雪も花びらのように舞ってもすぐ消えてしまう。それでも明るい光、暖かな風が待たれる。季節は少しづつ、微妙に変化していく。
 陰暦二月の如月は、広辞苑によれば「生更ぎ」の意味で草木の更生することをいうと記されている。陽暦では三月にあたる。
 西行は「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」と詠み、願いどおり如月十六日に逝った。河内国、今の大阪府の東部で没したが、この時期は、まだ寒かっただろうと、勝手に考えてしまうが、陰暦二月半ばに咲く桜はどんな種類だったのか……。
 如月の語から暖かいというイメージよりは、大気は冴えかえり、身の緊(し)まるような清浄な春浅い冷たさを感じる。私には次のうたがぴったりとくる。

  しみじみときょうふる雨は 
   きさらぎの春のはじめの 雨にあらずや

                   若山 牧水
 
 繊細な季節感がこめられ、春が待たれるようすがしんみりとする。だれの人生にも季節の記憶があるからだろう。
 

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  百人一首は歌織物
                  萩原けい子


 昨年の十一月も終わるころ、いつもより早く身近なところから大掃除を始めた。
 本棚の隅に『小倉百人一首の解釈と鑑賞』(京都書房)を見つけた。文学博士・三木幸信著の二十五年も前の本。あちこちに鉛筆の書き込みがあったり、印がついていたりするのを見ると、結構勉強したのだなあと、懐かしかった。
 他にも百人一首の覚え方とか、早取りのこつなどに関する本も出てきた。これらの安直本が子どもたちの役に立ったこともある。
 束ねた資料の中に、丁寧にたたんだ紙があった。十年以上前に、京都のお土産にいただいた和菓子の箱の包み紙だ。それにはカルタのように並べられた百首の歌を符号図にしたものと、その符号を山水画に置き換えたものが並べて印刷されている。
 その包み紙の端に載っていた解説文を通して、私は大阪経済法科大学の林直道教授の名前と百人一首に関する彼の説を知ったのだった。教授の気の遠くなるような研究のおかげで、百人一首がいっそう身近になった。

 我が家の息子は二人ともカルタ遊びとして百人一首を覚えた。歩いて五、六分のところにある実家へ行くと、いつでも居合わせた家族全員が参加して遊んでくれた。
「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」で始まる和歌の取り札はそれぞれ一枚しかないのだが、その一枚を取り合う場面は、大人も子どももないほど激しい戦いになったものだ。
 また、下の句を読んで、上の句を当てたり、五十音順に歌を空で詠んだり、また作者名で和歌を当てたりするゲームもした。
 やがて、息子たちはそれぞれにお気に入りの札を持つようになる。長男は、「村雨の露もまだ干ぬ槇の葉に霧立ち昇る秋の夕暮れ」で、「淡路島通う千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守」は次男の得意札となった。
「ねえ母さんは、だれの歌が一番得意?」
「子どものころから天智天皇よ! 『秋の田の刈り穂の庵の苫をあらみ我が衣では露に濡れつつ』ってね」
 この歌は、詠み人知らずの歌がいつの間にか天智天皇の歌とされたという説もあるが、私は天皇が農民の生活を思いやって詠んだ歌という説をずっと信じていた。
 ところが数年前に、小林恵子著の『本当は恐ろしい万葉集(壬申の乱編)』という本を読んでからは、優雅な和歌の裏に隠された本当の意味は?と考えるようになった。
 本の中身は「万葉の歌には二重の意味がある」という説なのだ。歌は漢字で書かれているが、大和言葉で読めば熱烈な恋の歌であっても、朝鮮半島の言葉で読めば、そのころの政争の顛末を伝える重要な情報が浮かび上がるというのだ。
 大和朝廷は朝鮮半島の王族が渡来して築いた。「ナラ」は韓国語で国という意味だそうだが、百済系と新羅系の王族の争いのいきさつなども、万葉の歌の裏には秘められているとか。たくさんの例歌と解説を読むと、なるほど!とうなづける部分が多々ある。
 相聞歌に見せかけて、朝廷の暗黒部分や政争の行方を伝えるなどということを難なくやってのけるには、高い地位、深い洞察力、そして策略、知識、文学的素養までも備えなければならなかった時代。私は現代の庶民で本当によかった!と、思わずにはいられない。
『本当は怖い……』の説を土台にして考えると、日本初の水時計を作らせた偉大な人物とはいえ、天智天皇は中大兄皇子だったときに藤原鎌足と共謀し、母親である皇極天皇の御前で蘇我氏を討つというクーデターをやってのけた人。それに、額田王を巡って大海人皇子との三角関係は?などと想像をめぐらせたい気もする。しかし、百人一首の中の私の好きな天皇が和歌の裏に何かを隠したなどと、考えたくはない。
 ところで、百人一首とは鎌倉時代の大歌人・藤原定家が京都の小倉山の山荘で、天智天皇から順徳院までの歌人百人のすぐれた歌を一首ずつ集めた和歌集とされている。カルタとして遊ばれるようになるのはずっと後のことだ。
 その百人一首に関しての解釈も、興味深い。
 それが、和菓子の包み紙に載っていた林直道教授の説だった。
 百人一首の選び方は不思議だと言われてきた。藤原定家ともあろう大歌人が何万もの歌の中から選んだにしては、余りにも平凡な歌が多すぎると。しかも定家自身が書いた文章の中に「歌の取捨は私の心にある。他人がとやかく言わないで欲しい」というような言葉を残しているのだそうだ。
 そこで教授は、縦横10×10のマス目を作り、その中に一首ごとのキーワードを取り出して並べ合わせていった。例えば「山、吹、嵐」。別の歌に出てくる「山、吹、嵐」を隣に置く。次に「風」同士を、次に竜田川、霜、夜更けと、上下左右に合わせていく……すると、隙間なくぴったりと並べることができた。
 それらの言葉を絵に置き換えてみると、見事に山水画になった。後鳥羽上皇の離宮があった京都郊外の水無瀬の里の絵に。
 藤原定家がなぜ苦労して百首もの和歌を選び出したのか、
 後鳥羽上皇に和歌の資質を認められ、低い地位から側近に加えられルまでなった定家が、承久の乱で隠岐の島に流された上皇を慰めるために、和歌で絵を作り上げた歌織物なのだ、と林教授は解釈する。説得力がある。
 教授は次のように書いている。
「定家が大恩人である後鳥羽院への思いをこめて百首歌を組み合わせて、歌言葉を絵の具代わりにして水無瀬離宮や水無瀬の里の美しい景観を描きあげたのである。この歌織物こそ、孤独と絶望のふちにある後鳥羽院への心をこめたひそかな贈り物であり、後鳥羽院賛歌にほかならないのである」。

 今年のお正月に息子たちがやってきたら百人一首で遊ぼうと決めていたが、肝心の彼らは家族サービスに追われてそれどころではなかった。がっかりしたものの、彼らが帰ったあと、私は読み札を手に一人歌織物を織りあげてみようと奮闘したが、挫折。年の初めの試しとするには、あまりにも根気のいる作業だったと反省した。 
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太宰治の、句点のない文体にあこがれています。無謀と知りつつ挑戦してみました。 (山本浩三)

    近況報告
                  山本 浩三

 
 拝啓 ご無沙汰しております。
 このたびは検査入院とうかがい、先輩が楽しみにされている晩酌もしばらくはかなわず病院の夜は退屈と察せられ眠れぬ夜のつまみに、また日ごろのご無沙汰もお詫びしつつ、あつかましいのは重々承知のうえ近況をお届けいたします。

 サクラの蕾がちらほらほころび始めた今年三月、私が表通りに面した画廊へ足を踏み入れようと入り口に近づいたとき、若い女性が中から走り出してきて、ご招待のお客様でいらっしゃいますかと尋ねるので、いいえと答えて中へ入ろうとすると女性は
私の前に立ちはだかって恐れ入りますが本日はご招待のお客様だけにお越しいただいておりますと言う。Gパンにくたびれたジャケットの私の身なりに相手の視線を感じながら、いえ、たずねたいことで来たんですと伝えると、ではどんなご用でしょうかと訊かれ、個展をやりたいので手続きを教えてもらうだけでいいんですとこれも前々からの計画でもあるので思ったままを口にすると、うちは自主企画画廊ですので貸し画廊はいたしておりませんと表情のない顔で答えられとうとう中へ入ることもできず立ち去ることになってしまいまして、そんなことがあってからも時おりその画廊の前を通りながら、無断入店禁止の注意書きさえない入口は、あの時と同様ぴくりとも変化しない表情で今も私を拒み続けているように感じてしまい、画廊って権威のある存在なんだなあって横目でちらりと見ては入るものかと歯ぎしりしながら通り過ぎていましたが、いろいろ教えてくれる人がありまして企画画廊とは、画廊が認める作家の作品のみを展示して富裕層といわれるお客を招いては見せて、作品を売る、気が向けば一般人にも供覧を許して販売するシステムだと知り、なるほどそういうことか、そういえば街の裏通りに面して細い路地風の入り口に一見のお客様の来店はお断りします、と小さな表札のかかった料理屋がありましたが、あれと同じだと妙に納得したことはしたんですが、明治の世に四民平等が宣言された後も、いえ、もっと古くは大化の改新以来の身分制度の残骸が地下水脈のように秘かに生き続けていて、格式の高い店が身分の貴賎によって客を選ぶ遺風があったり、いまだに結婚などに関しては人の出自による差別もあったりと、今もって闇の力がうごめいていると聞いたことが思い出されて不気味さも感じてしまいましたが、いえいえ決してあの画廊の悪口を言っているはわけではなく、あの画廊だって真剣に考えた末、生き残るための営業方針だと思うからでよそ者がとやかく言うのは慎まねばと思っているんですよ、ですからこれはあくまで私個人の見解なんですが、それよりもいにしえの習慣が生き残っているとすれば民俗学的見地からもこれまた興味があるとつまらぬ想像が広がってしまいまして、先輩には読み苦しく感じられたこととお詫びいたします。
 前置きばかり長々と申しましたが、これからが本題です。そのときからずっと後になっての出来事で、先輩もよくご存知の水沢君から彼の奥さんの親しくしている女流画家が近々個展を開くことになったので君のブログで紹介してほしいと言ってきまして、親友の頼みだから否も応もなく引受けてはみたものの何分会ったこともない人の個展の記事なんか書けるわけでもなく、いちどその画家に会って話を聞いてみたいと言いますと、そりゃあそうだ早速紹介するからぜひ会ってみてくれと、申し遅れましたがその女流画家は本業か副業かは知りませんが両替町のスナックのママさんで、ビルの三階に店がありまして窓から通りを見下ろすと色とりどりのネオンがまばゆいほどで静岡の夜の歓楽街の中心にいることが実感されますし、店にはピアノなんかも置いてあって、年に一、二回パーティもやるそうでお客で賑わうようすを想像してみましたが、なにぶんこの不景気な世の中ですから交際費をふんだんに使ってくれるサラリーマンや重役連中も足が遠のいたとみえて訪ねていった日もお客はなく店で働く子もアルバイトが一人、ミャンマーの留学生なんですがなかなか気立てのいい子らしく、お客のない日は気の毒がってママ、今日の日当は要りませんなんて言ってくれるんですよと初対面の私にこんな裏話まで女流画家は話してくれる気さくな人柄でそこに親しみも感じて、その日は気持ちよく飲んで帰ってきまして、またそうなると個展の初日には早く作品を見たくなって水沢君と会場に向かったんですが、どこだったと思います? それが驚いたことに金輪際入りたくないと思っていた例のあの画廊ですから一瞬躊躇してしまいましたね、でも行かないわけにはいかないので入ってみると中は五、六坪くらいの広さでしょうか、真ん中にアンティークなテーブルと椅子が置いてあるだけの造りなんですが、かえって簡素で油絵が十数点も飾られていますと中々上品な雰囲気が漂いますが、ふと横に写真撮影はお断りします、と書かれた札が目に入り、あのときの思いがよみがえってきて、思わず、どうして写真撮影はダメですかとこんどはこっちが詰問口調になると、撮影した人がコピーを悪用して偽物や類似品を作って作者の著作権を侵害される恐れがあるからと、向こうの方が正論でまたまた言い負かされたように感じてしまいましたが、よっぽど禁止が好きな画廊なんだなあと悔しまぎれにつぶやきながら、女流画家から作品の説明を受けていますと、例の女性が近寄ってきて何と言ったと思います? ほかのお客様もいらっしゃいますのでお話は外でお願いします、とニコリともせずに言うではありませんか、女流画家もびっくりしたでしょうね、だって、画家自身の作品展ですよ、自分の作品の説明を外に出てしろっていうんですからね、私たちは無言で外に出ましたが、しばらくするとくだんの女性がお客様もお帰りになったので中へどうぞ、と言うではありませんか、思わず笑っちゃいましたね、私たちはその言葉を断然無視して外で話をつづけ、写真も女流画家が自作の絵の前に立って、あえて撮影許可も求めずーーあたり前ですよね、自分の作品なんですからーーあっちの絵、こっちの絵と身の軽い画家は右へ、左へとひょいひょい跳びながらそのたびに私はパシャッ、パシャッ、とシャッターを押しまくったもんです。もとより絵に対する知識もセンスもない私ですが曲がりくねった大木と天高く広がる枝ぶりにとても惹かれるものがありまして、こんな一文をブログに書きました。

『画廊に足を踏み入れたとたん、そこは森の中、曲がりくねった太い幹から広がった枝が空間を覆っています。ふっと昔、安倍奥に登ったころを思い出していました。安倍峠から山伏(やんぶし)岳へと続く尾根にたどりつくまで、暗い森の中を歩き続けていると木々の匂いや息遣いが伝わってきます。画家もそんな空気に接したのでしょうか。作品はすべて信州の山中の樹木に題材を求めたと聞きました。風雪に耐えて生き続けてきた古木に力強さを感じ取ったんでしょうね。大震災に遭った人々へ希望という思いも込めて描いたとも聞きました。』

 相変わらず長々と申しまして本題がまたまた後回しになってしまいました。実は私がわくわくするような気持で挑戦したのは、それまで個展なんて才能ある人たちの世界、自分には無縁と考えていたんですが、友人の個展を見たりプロ・カメラマンである家内の写真展に行ったりするにつけ自分でも出来るかしらんと思うようになったわけで、二年ほど前の高校OBの美術展がきっかけでしょうか、とはいってもじっくり計画したのではなく、いつもの行きあたりばったりの心で、まずは会場探しと始めた最初が例の画廊だったんですね。その後、鷹匠町界わいを歩いてみますと結構あるある画廊が、文化の香りが漂うマチなんだなあ鷹匠は、なんて改めて感心したもんでして、ちょうどそのころ同窓生の大山君が写真展をやった小和田画廊へ行ってみますとね、そこは会期中に喫茶コーナーも開いていてコーヒーの香りと芸術の香りとが一つになったとでもいうと少し大げさかもしれませんが何ともいえぬ温かい雰囲気なんですよ。それにオーナーの小和田夫人のにこやかな表情に接しながら作品を眺めているとゆらりゆらりとした気分になってくる、ああ画廊って本当は人の心を温かく包んでくれるところだと感動したのがきっかけで自分のブログ展をここでお願いしようと決めた次第で、先輩にもお越しいただいたあの画廊ですがやってよかった、というのは最終日に作品を片づけていざ支払いになると料金をどっさり負けてくれて、画廊で料金をまけてもらえるなんて考えられますか、若い小和田夫人は年金生活者の私の境遇をそれとなく察してくれたんでしょうね、初めての個展でお疲れになったでしょ、でも大成功でしたわ、と喜んでくれまして、額縁を揃えたりプリント代やら何やら費用もかさんだりで大変だったでしょう、本当にこれだけで頂けば十分ですよと、その言葉を聞いたとたん私は不意に胸がしめつけられるように感じたわけでして、ああこれだ、これなんだ、画廊って人を育ててくれるところなんだ、以前の苦い体験がどこかにとげのように残っていたのがすっかり消えてしまいました。どんなに豪華な設備を備えていたってこの人の心をぬくもりで包む気持がなければ何にもならない、所詮それはただの空間にしか過ぎない、そんな思いが一瞬にして心を巡ったものでして、この温かさに接してこれこそが探し求めていた画廊だと心底そう思い、夫人だけでなくご主人の小和田氏の穏やかなまなざしを思い出すたびに、胸がしめつけられたあのときが目の前に浮かびます。

 長々と思い出ばなしになってしまいました。早いものでもう十一月、来週初めには退院だそうですね。いつもの店でまた熱燗やりませんか。
                    山本浩三

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