蘇我善徳
蘇我善徳(ぜんとく、ぜんとこ)(豊浦大臣)は7世紀前半の日本列島において、野蛮な倭国を、国際的に通用する文明国にした有能な政治家であった。和と仏法を基本とした寿国(地上の楽園)を建設しようとした。しかし志半ばで暗殺され、死後も政敵による史書改竄で、不当に低い評価に貶められた。
即ち日本書紀では入鹿という穢名で呼ばれ、系図を操作されて蝦夷の子に変えられた。善徳の事跡のほとんどが、用明天皇と泥部穴穂部皇女との間に生まれた、一介の皇子である別人である厩戸皇子(馬屋門皇子、聡耳皇子、豊聡耳皇子)のものとされ、厩戸皇子は聖徳太子として美化されてしまった。
【善徳誕生】580(敏達9)年、蘇我善徳は蘇我馬子(嶋大臣)と物部鎌姫大刀自連公の長男として誕生した。
蘇我氏の祖については渡来人説や葛城氏の傍流とする説もある。尚、渡来人とは中国大陸や朝鮮半島から渡来してきた人々を指すが、古い文献では帰化人という用語が使われることがある。しかし帰化人は王の徳を慕って来た人々という意味が込められている。渡来人には本国での戦争や政変を逃れてきた難民も少なくないが、倭国王の徳を慕ってきたわけではない。逆に先進技術を有する渡来人は後進の倭国では重宝された。そのため、帰化人は実態にそぐわず、本稿では用いない。
日本書紀上で蘇我氏が活躍するのは、宣化天皇の時に馬子の父である蘇我稲目宿根が大臣(おおおみ)に任命されて意向である。但し大臣は大王の家臣ではなく、元々は大王(おおきみ)と同じ意味であり、同格であったとする説もある。
稲目・馬子の2代に渡り、渡来人との結びつきを一層強め、朝廷の財政権を掌握し、外国に倣って政治機構を整える動きを積極的に進めた。斎蔵・内蔵・大蔵の三蔵を管理し、屯倉(みやけ)の経営にも関与した。加えて稲目は自分の娘を2人も欽明天皇に嫁がせることで勢力を強めた。
馬子は飛鳥川の辺りに屋敷を構え、その庭の中に小さな池を掘り、池の中に小さな嶋を築いた。嶋大臣と呼ばれたのはそのためである。但し九州王朝から派遣された大臣だから嶋大臣とする説もある。物部鎌姫大刀自連公は物部守屋の妹である。
仏教浸透に異常な情熱を注いだ蘇我氏の嫡男であり、仏教の信奉者となるのは自然のことであった。仏教信者でなかった用明天皇と穴穂部間人皇女との間に生まれた厩戸皇子が生まれながらに仏教信者となるよりも、はるかに説得的である。聖徳太子のものとしての残る早熟な説話も、朝鮮半島からの優秀な人材を得られる立場にいた蘇我氏による英才教育の賜物であろう。
【仏教】仏教受容をめぐっては、馬子の先代から崇仏派の蘇我氏と反仏派の物部氏が鋭く対立していた。財政権を抑えた蘇我氏であったが、当時は財力よりも軍事力が物を言う時代であり、朝廷においても物部氏の強硬な反対を押し切ることは困難であった。そのため、仏教は信仰したい蘇我氏が私的に行うことのみが辛うじて許されたに過ぎず、それすら廃仏派により、妨げられることがあった。
581(敏達10)年に、欽明と堅塩姫の娘である炊屋媛(後の推古天皇)は敏達に以下のように語っている。
「569年に、祖父(蘇我稲目)から『仏法を憎むことなく、捨てないように』との遺言を受けた。しかし570年に、仏法の諌止により、仏法を怠ってしまった。また、571年には、父(欽明)天皇の遺言も受けている。『仏法を憎んで捨てることのないように。今後も物欲捨て、終生仏神を祀り、自分のものにしないように』ということです。このように、二度、遺言を受けたわけです。しかし、仏法の諌止により、十余年の間、仏法を怠ってしまった」。
これに対し、敏達は「今でも尚、他の臣等は、我々と同じ気持ちにはなっていない。だから、もし仏法を行うとしたら、密かに行うべきだ」と答えた。
584年(敏達13)年9月、百済から来た鹿深臣が弥勒菩薩石像一体、佐伯連も仏像を一体持ってきた。これも朝廷でまつることができず、馬子が請けた。仏像2体を手に入れた蘇我馬子は、鞍部村主司馬達等(しめだちと)、および池辺直氷田(ひた)を四方に派遣して修行者を探させた。播磨国で還俗した高麗の恵便が見つかったのでこれを師匠とし、司馬達等の女嶋(しま)を出家させて善信(ぜんしん)尼とし、さらに漢人夜菩(やぼ)の女豊女(とよめ)を禅藏(ぜんざう)尼に、錦織壺(つふ)の女石女(いしめ)を恵善(えぜん)尼にそれぞれ出家させて法会を行った。
585年(敏達14)年3月、廃仏派の物部弓削守屋大連と中臣勝海(かつみ)連が最近国に疫病が流行するのは仏教を信ずる者がいるからと敏達に迫り、仏教を止めよとの詔を得た。そして蘇我馬子宿禰が造成した仏殿、仏塔を壊し、仏像を難波の堀江に捨てさせた。さらに佐伯造御室(みむろ)を派遣して3人の尼を逮捕して引き出し、杖刑に処した。
【日羅帰国】583年(敏達12)年7月、敏達は任那復興の意見を聞くべく、日羅(にちら)を帰国させるために、紀国造押勝(おしかつ)を百済に派遣する。日羅は火芦北(ひのあしきた)国造阿利斯登(ありしと)の子で、百済で達率という高位の官職に就いており、賢明で勇敢との定評があった。百済王は日羅を惜しんだため成功せず、再度派遣された吉備海部直羽嶋(はしま)が「百済王に対し日羅を早急に倭国へ遣わすよう大王の命令を強い態度で伝えるように」との日羅の助言によって連れ帰ることに成功した。
到着した日羅を大伴糠手子(あらてこ)連を遣わして労った。さらに、阿倍目(め)臣、物部贄子(にへこ)連および大伴糠手子連を遣わして朝鮮半島に対する国政の基本方針を質問したところ、日羅はまず国内の体制を固めることが重要で、焦って早急に軍を出すべきではないこと、また百済が九州を占領しようと企てる恐れがあり、百済に対し厳しい態度で臨むべきことを献策する。
日羅の帰還に百済から随行した恩率(おんそち)、参官(さんかん)は、帰国に際して日羅を殺すよう徳爾(とくに)、余奴(よぬ)に命じ、大晦日に身体から出ていた光が失われたので日羅は殺された。
【敏達崩御】585年(敏達14)年、善徳は5才。弟の蝦夷が生まれる。
この年に敏達が崩御する。当時、皇太子制度はなく、次期大王は群臣の議を経て選出される。皇太子の代わりに大兄(おおえ)制というべき制度が存在していた。大兄とは大王ないし大王になり得る身分の人の長子で、皇子の中でも大王位に近い存在とされた。但し兄弟相続も行われるため、同時代に複数の大兄皇子が存在することも珍しくなく、大王位継承で争いが生じるのは避けられなかった。
次期大王候補は下記の人物があげられた。
・ 押坂彦人(おしさかのひこひと)大兄皇子:敏達と広姫の子。
・ 橘豊日大兄皇子:欽明と蘇我稲目の娘である堅塩姫の子。敏達の弟。
・ 穴穂部皇子(泥部穴穂部皇子):欽明天皇と稲目の娘である小姉君との間に生まれた三男。敏達の弟。
押坂彦人大兄皇子は血筋的には申し分ないものの、病弱のため、候補からはすぐに外れた。馬子は豊日大兄皇子、物部守屋や中臣氏は穴穂部皇子を推す。蘇我氏が蘇我氏の血を引く豊日大兄皇子を推すのは当然である。
穴穂部皇子も蘇我系の皇族である。しかし蘇我宗家が堅塩姫系を重視し、小姉君系を軽視していると感じ、対抗意識・僻み意識から、事もあろうに蘇我氏の政敵である物部氏と結びついてしまった。
堅塩姫系と小姉君系の対立は以前から存在し、小姉君の長男の茨城皇子は、堅塩姫の娘で伊勢大神に仕えていた磐隈皇女を犯し、そのため磐隈皇女は斎宮の任を解かれてしまうとい事件を起こしていた。
蘇我氏は大王家の外戚になることで勢力を拡張した点で、後の藤原氏の先駆である。しかし藤原氏が栄えつづけたのに対し、蘇我氏が滅亡してしまった理由の1つには、穴穂部皇子のような蘇我系の非主流派が他氏と結んでまでも蘇我宗家に対抗するという内紛を繰り返した点があげられる。この図式は崇峻天皇や山背大兄王においても繰り返される。
穴穂部皇子は二人の大兄皇子に比べると、最も大王位に遠い存在であった。その焦りからか、天下を取ろうと敏達天皇の殯宮に押し入り、炊屋媛を犯そうとした。しかし敏達天皇の寵臣、三輪君逆が妨げたため、失敗に終わった。この事件により、泥部穴穂部皇子は王位継承レースから外れてしまう。この結果、586(用明元)年に豊日大兄皇子が大王に即位する(用明天皇)。
【用明朝の仏教】蘇我系の用明が即位することで、仏教受容が浸透していった。
即位後に善徳は早速、用明に以下のように奏上した。「仏法を破り捨てようとすれば、災いがさらに増える。だから、三人の尼を桜井道場に住まわせ、ぜひとも供養させねばならない」。用明天皇はこれを許して、桜井寺に住まわせて供養させた。
3人の尼は「伝え聞くところによると、出家者は戒を受けなければならないとのことである。しかし、ここには戒師がいない。だから、百済国に言って戒を受けたいと思う」と言う。
587(用明2)年、善徳は7才である。大王は炊屋媛と善徳に対し、「この国には尼寺だけがあって、法師寺がない。法師寺を建てる場所を定めよ」と命じた。善徳は百済からの使者に尋ねたところ、「我が国では、法師寺と尼寺は、鐘の音が互いに聞こえる距離に建てる」との返答があった。実際の場所の検分は馬子と厩戸皇子が行った。
【三輪君逆襲撃】敏達崩御時に殯宮に押し入ろうとした穴穂部皇子の評判は地に落ちた。一方、それを妨げた三輪君逆は忠臣として評判が高まり、朝廷における発言権も益々大きいものとなった。
穴穂部皇子は三輪君逆を逆恨みし、その排除を物部守屋や馬子に持ちかける。朝廷の主導権争いで対立していた蘇我氏と物部氏であったが、朝廷で大勢力を誇っていた三輪君逆は共通の敵として、その排除では利害が一致し、共に兵を出すことで合意した。しかし善徳は、寵臣殺しによる評判の低下を理由に馬子を諌め、馬子は穴穂部皇子に自重を促した。
穴穂部皇子はこれを聞かず、物部守屋大連とともに三輪君逆を襲った。泊瀬部皇子も加わったとする説もある。三輪君逆は三諸(みもろ)岳(三輪山)に隠れ、さらに後宮(炊屋姫皇后の宮)に隠れる。これを逆の同族の三輪白堤(しらつつみ)、三輪横山(よこやま)が告げ口し、三輪君逆は討たれた。
豪族の多くも三輪君逆を煙たがっていたものの、逆恨みにより殺されたとなると同情論が高まるのが人情である。そして殺された者への同情は、殺した側に対する反感となる。善徳の予想通り、寵臣を殺した泥部穴穂部皇子と物部氏の評判は落ちてしまった。
【用明崩御】587年4月2日、磐余の河上で新嘗の大祭が行われる。しかし用明は病にかかり、「自分は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思う。卿らもよく考えて欲しい」と言って宮に帰ってしまう。この発言により崇仏・排仏論争が再燃する。
鞍部村主司馬達等(しめだちと)の子の鞍部多須奈(たすな)が、天皇の病気平癒のために出家して仏像と寺を寄進すると申し出る。
用明はそのまま4月のうちに流行り病によって、崩御する。本来ならば押坂彦人大兄皇子が有力な皇位継承者になる筈だが、後ろ盾の三輪君逆が殺されてしまい、蘇我氏と物部氏の対立の中で霞んでしまった。
【対立激化】用明の病気そして崩御を契機にして、蘇我氏と物部氏の対立が激化する。押坂部史毛屎(けくそ)が守屋暗殺の企てが進んでいることを告げたため、物部守屋大連と中臣勝海連はそれぞれ退いて軍勢を集める。
物部守屋は、物部八坂(やさか)、大市造小坂(をさか)、漆部造兄(あに)を使者として群臣が自分を暗殺しようとしているので退く旨を蘇我馬子に伝える。これに対し、馬子は、土師八嶋(はじのやしま)連を大伴毘羅夫(おほとものひらぶ)連に遣わして物部守屋大連の言葉を伝え、大伴毘羅夫連は武装して昼夜蘇我馬子の守護に当たる。
中臣勝海連は、押坂彦人大兄皇子の像と竹田皇子の像を造って厭をしたところ不成功に終わり、彦人大兄皇子の水派(みまた)宮の陣営に走るが、舎人迹見赤檮(とみのいちひ)に斬り殺される。
5月、物部守屋は密かに穴穂部皇子を天皇に推す。
6月、蘇我馬子宿禰等が炊屋姫尊を奉じて、佐伯連丹経手(にふて)、土師連磐村(いはむら)、的臣真噛(まくひ)に命じ、穴穂部皇子と同皇子と親しい宅部(やかべ)皇子を殺させた。宅部皇子は宣化天皇の子とされるが、不詳である。
【蘇我物部戦争】587年7月、馬子は諸皇子と群臣を糾合して、物部守屋大連を滅ぼすことを決め、軍を起こす。蘇我氏側で参戦したのは下記の通り。
・ 泊瀬部皇子:欽明天皇と小姉君との間に生まれた四男で、泥部穴穂部皇子の弟。馬子は物部氏と結合した穴穂部皇子は許さない一方で、泊瀬部皇子に次期大王位を内々に約束することで、小姉君系皇族の支持を取り付けることに成功した。
・ 竹田皇子
・ 厩戸皇子
・ 難波皇子
・ 春日皇子
・ 巨勢臣比良夫(ひらぶ)
・ 膳臣賀柁夫(かたぶ)
・ 葛城臣烏那羅(をなら)
・ 大伴連噛(くひ)
・ 阿倍臣人(ひと)
・ 平群臣神手(かむて)
・ 坂本臣糠手(あらて)
・ 紀男麻呂宿禰
・ 春日臣
物部氏は稲城(いなき)を築いて抗戦し、蘇我軍は三度もの退却を余儀なくされた。善徳は白膠木に四天王の像を刻んで、仏に誓願し、蘇我軍勝利の端緒を作る。最終的には馬子、善徳の誓願(戦勝したら善徳は四天王寺、馬子は法興寺を建立するとの誓い)が通じたのか蘇我軍は勝利し、物部宗家は滅亡した。世人は「蘇我大臣の妻は、物部守屋の妹である。大臣は軽々しく妻の計を用いて、大連を殺した」と言ったと日本書紀に記録されている。
物部守屋大連の侍者である捕鳥部萬(よろづ)は100人の兵を率いて難波の宅を守っていたが、大連が滅ぼされたと聞いて有真香(ありまか)邑に逃れて山中の篁聚(たかぶる)に籠もり、たった一人で討手を散々に悩ました末、遂に自害する。萬の飼っていた犬が主人の遺骸の側を離れず餓死したので萬の墓と並べて葬られた。
【崇峻朝】587年8月、泊瀬部皇子が馬子の意で大王となる(崇峻天皇)。妃を大伴糠手(あらて)連の女、小手子(こてこ)とし、蜂子(はちのこ)皇子、錦代(にしきて)皇女の2人を生む。「上宮記」は古弖子郎女とする。馬子の娘の蘇我嬪(そがのみめ)河上(かはかみ)娘も妃になる。
蘇我馬子宿禰は大臣のまま変わらず、群卿の位もまた元のままであった。大王といっても傀儡で、実権は馬子、善徳父子と炊屋媛が握っていた。崇峻は飾り物の地位に満足せず、両者の確執は直ぐに表面化するものの、蘇我氏の絶対的権力の前に崇峻は孤立していった。
589(崇峻2)年7月、近江臣満(みつ)を東山道の使として蝦夷の国の境を視察させ、宍人臣雁(かり)を東海道の使として東国の沿海諸国の境を視察させ、阿倍(あへ)臣を北陸道の使として越等の国々の境を視察させた。
591(崇峻4)年11月は紀男麻呂(おまろ)宿禰、巨勢猿(さる)臣、大伴囓(くひ)連、葛城烏奈良(をなら)臣を任那復興軍の大将軍に任命した。
【崇峻暗殺】592(崇峻5)年、善徳は12才。崇峻は献上された猪を見て、「この猪の首を切るように、朕が嫌う人の首を切りたい」と語った。嫌う人が馬子であることを明白である。妃の小手子は日頃から崇峻の寵愛が薄くなったことを恨んでいたため、崇峻の発言を馬子に告げてしまう。
これが馬子による崇峻暗殺の契機となったとされる。但し、崇峻は馬子が擁立した大王であり、実権も蘇我氏が握っていたため、崇峻を除いたとしても、蘇我氏にとっては自己の権力を維持伸張することにはならない。馬子が殺害を決意したのは、崇峻の発言が単に不満を口にしただけでなく、蘇我氏に対する具体的な陰謀を背景にしたものと捉えたためと推測される。
11月3日、馬子は東国の調が献上される日と偽り、群臣を倉梯宮に集めた。崇峻はこの群臣が参列する場において、馬子の意を受けた東漢直駒により、あっけなく殺害される。東漢氏は渡来系で、蘇我氏と渡来人の関係の深さが、ここでも裏付けられる。
崇峻天皇は殯の儀式もされぬまま、即日、墓穴を掘られ埋葬されてしまう。貴人の葬は殯の儀を営む風習があるのにも関わらず、である。崇峻天皇が即日のうちに埋葬され、いくら権力者とはいえ、黒幕の馬子が何等お咎めを受けずに済んだのは、馬子よりも崇峻に問題があったことを物語っている。群臣参列の中での暗殺の点でも、大王殺害も蘇我氏の独断ではなく、諸豪族の支持の下になされたと見るべきであろう。
崇峻暗殺後、東漢直駒は大王の護衛隊の追及を切り抜け、河上娘を盗んで自分の妻としてしまった。公には河上娘は東漢直駒と護衛隊の戦闘に巻き込まれて死亡したとされたが、事が発覚して馬子により東漢直駒は殺された。馬子と駒には暗殺に成功したら、河上娘を与えるという密約があったが、馬子がその裏をかいて暗殺者を殺す口実にしたとも考えられる。
【推古即位】崇峻暗殺という異常事態の中で次期大王を誰にするかが問題となった。候補は以下の二人である。
・ 押坂彦人大兄皇子:敏達の長子。
・ 竹田皇子:敏達と炊屋媛の子。
・ 厩戸皇子:用明の長子。
敏達は用明の兄であり、押坂彦人大兄皇子の方が大王家の直系である。蘇我氏の血を引く聡耳皇子や竹田皇子よりも、押坂彦人大兄皇子の方が大王家の血が濃い。しかし押坂彦人大兄皇子は蘇我氏と無縁であるばかりか、先の蘇我物部戦争においても中立を貫いている。但し押坂彦人大兄皇子はこの時点で既に没していたとする説もある。日本書紀の用明2年条以降、その名が見えなくなるためである。一方、押坂彦人大兄皇子は九州王朝の王となり、万世一系を強調する日本書紀からは抹消されたとする考えもある。
このため、血統からは押坂彦人大兄皇子であるが、蘇我氏としては蘇我系の皇族を皇位につけたい。馬子と善徳は決めかねる状態の中で、大王家の有力者である豊御食炊屋姫を推すことにした。
炊屋姫は欽明天皇の第二女で、用明天皇の同母妹である。幼少時は額田部皇女と言う。容色端正で立居ふるまいにも過ちがなかった。18歳で、敏達天皇の皇后となる。群臣は炊屋姫に大王即位をお願いしたが、辞退された。百官が上表文を奉り勧めたので、三度目に至り、遂に従われた。この三度目で受けるのは、三顧の礼に見られるように中国の慣習に倣ったものである。
日本書紀上、初の女帝ということになるが、日本書紀の天皇の系譜自体が信用の置けるものではなく、古くは魏志倭人伝にある女王卑弥呼や壱与を戴いた伝統もあり、女帝は混乱なく、受け入れられた。ここに大王は祭祀に専念し、政治は蘇我氏が行う体制が確立した。推古は豊御食炊屋姫という名をおくられたが、豊は美称、御食は神への供え物、炊屋は米などから飯を作る建物を指す。卑弥呼とは既婚者という点で異なるが、卑弥呼と同様に巫女的な役割が期待されていたと解釈することができる。
12月8日、炊屋姫は豊浦宮(奈良県高市郡明日香村豊浦)において即位する。蘇我入鹿は豊浦大臣と呼ばれるが、豊浦大臣とは豊浦宮、即ち推古朝で政務を執った大臣となり、善徳=入鹿が符合する。
【摂政皇太子】推古朝においては、聖徳太子が摂政皇太子となったとされるが、妥当ではない。まず摂政についてだが、日本書紀の記述は「よりて録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしむ」であり、摂政という言葉は動詞であり、官職名ではない。最初に摂政の職に就いたのは、藤原良房で、858年のことであり、それ以前には、摂政という官職はなかった。
また、立太子制度は689年の飛鳥浄御原令において初めて採用された制度で、それ以前はなく、だからこそ毎回、天皇の没後に後継を巡り混乱が生じるのである。法隆寺の薬師如来像の光背銘には「東宮聖徳」の文字があるが、東宮の呼称は最初の皇太子と思われる草壁皇子以降の表現と考えられ、この光背が天武・持統帝以降に造られたことを想像させる。
【推古朝】595(推古3)年、高句麗から恵慈、百済から恵聡が来朝する。二人は仏僧で、厩戸皇子が師として仰いだという。
596(推古4)年、善徳は16才になる。11月に、馬子が発願した法興寺が完成する。法興寺は元興寺・飛鳥寺・明日香寺・本元興寺・建通寺等と数多くの名前を持つ蘇我氏の氏寺である。善徳が寺司に任命される。日本書紀の善徳についての記述はこの箇所のみである。この日から、恵慈・恵聡が法興寺に入った。
601(推古9)年、善徳は21才である。2月に厩戸皇子が斑鳩宮を作る。
5月、推古が耳梨(みみなし)行宮(奈良県橿原市木原町)に居た時に長雨が降った。
602(推古10)年11月、善徳は秦造河勝(かわかつ)に仏像を与えた。河勝は蜂岡(はちのをか)寺を建立した。この寺は広隆寺縁起によると当初九条河原里に建立され、後に太秦に移る。善徳が与えた仏像は太秦の広隆寺にある半跏思惟像と推定される。
603(推古11)年10月、小墾田(をはりだ)宮(奈良県高市郡飛鳥)に遷る。
604年(推古12年)、善徳24才。善徳は、冠位十二階を施行する。冠の色や飾りで身分を区別するために冠位と言う。これまでの氏に対して与えられる姓と異なり、個人に対して与えられ、各人の朝廷での地位を明確にした。
隋書倭国伝は「内官に十二等あり、一を大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信、員に定数なし」と伝える。日本書紀では順番が多少異なり、大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智である。
善徳が冠位十二階を施行したのならば、当時の最有力者である馬子が官位を授与されなかったことを説明できる。自分の父親をランク付けするわけにはいかないからである。
冠位十二階は、高句麗や百済にあった類似の制度を模倣したもので、日本独自の制度ではない。伝統的権威を持たない蘇我氏が、権力の頂点を極めることができたのは、彼らが渡来人とのかかわりが深く、日本と大陸の先進文化の架け橋として大きな役割を果たしたからである。冠位十二階制度の日本への導入も、仏教導入と共に蘇我氏らしい功績である。
冠位十二階の目的は氏姓にとらわれず、有能な人材を登用する点にある。蘇我氏のような有力な豪族に対抗するための聖徳太子の施策と考えられているが、逆に蘇我氏の方が氏姓に関わらず、有能な人材を登用する理由がある。
まず、そもそも蘇我氏は大和朝廷において由緒正しき氏姓ではなく、父が皇子、母が皇女である聡耳皇子よりもはるかに、氏姓で登用されることの矛盾を実感していた筈である。蘇我氏は、出自は不詳で、葛城氏の分流とも渡来人とも言われている。政治に登場するのも馬子の父の稲目からであり、大王家との外戚政策はあるものの、実力で勢力を強めた家柄である。
しかも蘇我氏は実力者になった後も一族内部に対立を抱え続けていた。後に馬子の弟の磨理勢は蘇我宗家と対立し、滅ぼされるが、対立の根は古くから内包していたと考えられる。一族に不満分子を抱えているところが蘇我氏の弱点であり、藤原氏のように栄華を誇ることができなかった理由であるが、善徳としては一族という理由だけで頼ることはできず、外部から有能な者を集める必要があった。聖徳太子と秦氏の結びつきも、善徳に置き換え、このような文脈で捉えるべきである。
さらに善徳自身、母親は滅ぼされた物部氏の娘であり、両親の身分が共に重視される時代において、身分の点では満ち足りているという状態ではなかった。そのため、氏姓制度の矛盾を認識し、それを改める政策を採用することは自然である。
604年(推古12年)4月3日、冠位十二階と同じ年に、日本書紀は「皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ」として憲法十七条が制定されたとする。「和をもって貴しとなす」から始まる十七条からなる基本法である。
この憲法十七条には後世の偽作説が根強い。有力な論拠として12条に国司という律令制の官制が登場する点があげられる。一方で、律令制的価値観とは関係の乏しい仏教尊重の記述が色濃く、律令時代に作られた全くの創作とも言い切れない。
憲法十七条の位置付けであるが、当時は豪族間の力関係で物事が動く時代であり、仮に憲法十七条のようなものが作られたとしても、法としての意味はなく、スローガンとして捉えるべきである。
その上で憲法十七条のバックボーンである和の政治や仏教尊重は、蘇我善徳が定めるにふさわしい内容と考えられる。まず仏教尊重については語るまでもない。日本書紀により蘇我氏は横暴というイメージがつけられているが、実際は諸豪族の支持の下に行動しており、和の政治を実践している。蘇我氏は滅びる時でさえ、諸豪族の支持が得られないとなると抗戦を放棄している。
【第1回遣隋使】600年は隋の年号では開皇20年である。この年、隋書倭国伝によると、倭国王から使者が派遣され、隋の都に至り、皇帝に拝謁した。倭の五王による遣宋から100年以上を隔てた外交使節の派遣である。
隋書では倭国王を「姓は阿海(あめ)、字は多利思比弧(たりしひこ)、号は阿輩鶏彌(あめきみ、おほきみ)」とする。阿海多利思比孤は天足彦とされる。阿輩鶏彌は天王または大王である。王を女帝とは記していない。しかも多利思比孤には妻がいて、「鶏彌(けみ)と号す」。鶏彌は君を指すと考えられる。後宮には女6、700人いた。
「太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふり)となす」。利歌弥多弗利の最初の「利」は「和」の誤りで、「わかみたふり」とする説が有力である。「若御通り」で「若い、御血統にある方」と解釈する。
推古は祭祀を司り、政治は善徳が取り仕切ったため、善徳を王と位置付けたと考えられる。中国は女帝を認めない国であるため、侮りを受けないために善徳が王として対応したとも考えられる。
日本の風俗を問われた日本の使者が「わが国の王は、天を兄とし、日を弟としている。天は、まだ明けない時、出かけて政務を行い、あぐらをかいて座り、日が出ればやめて、弟に政務をゆだねる」と答えたので、皇帝は「これはまったく理屈に合わない」と言って、教えてこれを改めさせた。
この記述については下記のような解釈がなされている。
・ 当時の倭国は2重の権力構造にあった。二朝並立論や九州王朝説の論拠とする
・ 日出処天子に連なる対等外交を宣言したもの。天は中華の皇帝を天子というように中国、日は太陽神アマテラスの子孫である倭を意味する。倭の使者は、隋と倭は兄弟の関係にあると説明し、これに対して皇帝は君臣関係であると改めさせた。
日本書紀はこの1回目の遣隋使に触れていない。このため、この遣隋使は九州王朝やその他の豪族が遣わしたものとする説がある。一方、日本書紀は大本営発表と同じく、自国に都合の悪い結果は記述しない傾向がある。この遣隋使は第2回と異なり、成果がなかったため、記載しなかった可能性がある。第1回遣隋使の後で大陸風官制である冠位十二階が施行されている点も、この遣隋使の実在性の傍証となる。
【第2回遣隋使】607(推古15)年7月、小野妹子を通訳鞍作福利とともに隋に派遣する。この年は隋の年号では大業3年にあたり、隋書倭国伝に有名な記事が見える。隋の皇帝煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」云々との国書を渡す。598年に隋が高句麗遠征に失敗し、そのため、北東アジアにおける軍事的パートナーを見つけなければならなくなったというタイミングを見計らって、対等外交という強気の外交に出た。
当時の国際情勢においては小国である倭が中華の隋と対等である筈もなく、煬帝は当然のことながら激怒し、「蛮夷の書、無礼なるもの有らば、復た以て聞することなかれ」と言った。煬帝の怒りの理由を、隋を日が没する(落ち目である)国と形容された点に求める見解もあるが、より重要なのは小国倭の王が中華の隋と同じ天子を名乗った点にある。東夷の島国が隋皇帝と同じ天子の称号を使うことは言語道断である。
しかし、高句麗のことも念頭にあるが、東海の孤島倭国が意気軒昂なことを怪しみ、調査のために正使を鴻濾寺の掌客・裴世清、副使を尚書祠部主事・遍光高とする使者を派遣する。鴻濾寺は外交を司る役所であるが、裴世清はそこの正式な官員ではない。裴世清の官職は文林郎(秘書官)で、隋としては正式に通交するというよりも倭の実態を調査する点にあったことがうかがえる。場合によっては、傲慢な倭国の態度を叱責し、君臣関係について諭す役割も担っていた可能性もある。
【遣隋使帰国】608(推古16)年、善徳28歳。4月に小野妹子が隋使とともに帰国する。隋の正史は鴻濾寺の掌客、裴世清で、副使は尚書祠部主事、遍光高である。
日本書紀は、帰国中、小野妹子に随からの国書を紛失したとの汚名を着せている。しかし国書は後述のように裴世清が持参しているのだから、妹子が持っているはずがない。この国書紛失事件では結局何のお咎めも受けず、妹子はその後も遣隋使を務めている。
この国書紛失事件については以下のような解釈がある。
・ 朝廷の意に添わない返書を持ち帰って罰せられることを恐れたことによる妹子のでっちあげである。
・ 妹子の功績を薄めるための、日本書紀編者の創作である。
・ 九州王朝説の立場から、九州王朝宛ての国書は紛失し、又は意に添わない内容であったため紛失したことにした。裴世清が所持した国書は大和王権宛てのものとする。
日本書紀は隋が小野臣妹子を蘇因高(そいんこう)と呼んだとする。これは小妹子(しょういもこ)を字音で言い換えたものと解釈する説がある。一方、隋書には小野妹子も蘇因高も記載されていない。
朝廷は難波吉士雄成(をなり)を派遣して難波まで先導させ、中臣宮地連烏摩呂(をまろ)、大河内直糠手(あらて)、船史王平(わうへい)を接待係とした。一行は8月には京に着き、歓迎の儀式が行われる。裴世清を海石榴市に迎えて額田部連比羅夫(ひらぶ)が挨拶し、阿倍鳥(とり)臣、物部依網連抱(いただき)が先導した。
裴世清は持参した親書を差し出し、大伴齧連が迎え出でた。日本書紀は、国書は大門(みかど)の前の机上に置かれたとする。日本書紀によれば、裴世清は倭国王に会わなかったことになる。しかし、わざわざ大国隋から国書を携えて訪れた使者に対して、大王が面会さえもしないということは到底考えられない。
一方、隋書倭国伝では裴世清は倭国王に面会している。倭王は裴世清に会えたことを大いに喜んで以下のように言った。「私は海西に大隋礼儀の国があると聞いている。故に遣わして朝貢させた。私は夷人、海の隅で、礼儀を聞かない。そこで境内に留まって、すぐに互いに見まえなかった。今、ことさらに道を清め、館を飾り、大使を待っている。願わくは大国惟新の化を聞かんことを」。
裴世清は「皇帝は、徳は二儀にならび、沢は四海に流れる。王は、化を慕うの故をもって、行人を遣わして来させ、ここに宣諭するのである」と答えた。その後饗宴が行われた。王と裴世清の会話は明らかに冊封関係を前提としている。国際感覚ある善徳にとって、対等外交など最初から実現できるとは思っておらず、先の国書は自国を大きく見せるための外交的な駆け引きに過ぎないものであった。
【半島外交】善徳の朝鮮半島に対する外交方針は、前代の継承から出発した。即ち任那復興を目指し、百済と結んで新羅と対抗する。しかし国際感覚ある善徳にとって、元々先進国であり、一層急速に力をつけている半島諸国から任那を奪還することは夢物語であると十分認識していた。加えて百済が新羅と比べて格別信頼に足る相手でないことにも気付いていた。
597(推古5)年11月、難波吉士磐金(いはかね)を新羅に派遣し、同人は6年4月に帰国して鵲(かささぎ)2羽を献上した。
600年(推古8)年2月、新羅が任那の間で戦争が起きた。任那諸国は既に新羅に併呑されていたが、ここでは新羅に対して反乱を起こしたのかもしれない。推古は任那を救うことを決意し、境部(さかひべ)臣を大将軍に、穂積(ほづみ)臣を副将軍に任じて兵1万余で派兵した。
新羅は殆ど抵抗らしい抵抗をせず、倭軍は新羅の五城を抜き、新羅王は降伏を表明した。朝廷は難波吉士神(みわ)を新羅に、難波吉士木蓮子(いたび)を任那に派遣して終戦処理にあたらせた。新羅王は倭軍が攻略した五城を割譲し、長く日本に臣従・朝貢することを約した。しかし、日本が兵を引いた途端に再び任那に出兵した。任那の調を納める約束も反故にされる。
601(推古9)年9月8日、新羅の間諜の迦摩多が対馬に来た。それを捕らえて朝廷に送った。
602(推古10)年、来目皇子を新羅征討軍の将軍として兵2万5千人を九州に派遣する。しかし来目皇子は病気のため出発できず、翌年2月4日に筑紫で薨じた。そのため朝廷は土師連猪手を派遣して周防の娑婆(さば)で殯(もがり)を行った。
次いで当麻(たまき)(麻呂子)皇子を将軍としたが妻の舎人姫王が明石で薨去したために征討は中止された。このように成果のない軍事行動であったが、むしろ善徳にとって先進国新羅を相手とした泥沼の戦争は倭国の政治基盤を揺るがすだけであり、消極的方針により望ましい方向に持っていったのではないかと思われる。
10月、百済僧の観勒が来朝し、陽胡(やこ)史祖玉陳(たまふる)が暦法を、大友村主(すぐり)高聡(こうそう)が天文・遁甲(占星術)を、山背臣日立(ひたて)が方術(仙術・医術・占術など)を学んで成業した。
609(推古17)年4月、筑紫大宰から百済僧道欣(だうこん)、恵彌(えみ)等が肥後国芦北津に停泊したと通報があり、難波吉士徳摩呂(とこまろ)、船史龍(たつ)を派遣して問い質したところ、百済王の命により呉国へ派遣されたが、内乱があって入国できず、帰国の途中暴風にあって漂流したとのことで、5月に徳摩呂、龍を添えて本国に送った。
7月、新羅と任那の使者が倭国を訪れ、使者を朝廷あげてもてなした。任那は既に新羅の占領するところであるので、実質的には新羅の使者であった。従来、百済寄りだった倭国外交にとって方針転換であり、ここにも善徳の優れたバランス感覚を感じることができる。
610年(推古18)年3月、高句麗王が僧曇徴(どむちょう)および法定(ほふぢゃう)を貢上した。曇徴は五経を知り、絵具・紙・墨の製造法を伝え、碾磑(てんがい。水車で動かす臼)を作った。外典(仏教教典以外の書物)にも通じていたとする(高僧伝)。
10月は、新羅、任那の使者が都に到着した。額田部連比良夫(ひらぶ)を新羅の客を迎える騎馬隊の長とし、膳臣大伴(おほとも)を任那の客を迎える騎馬隊の長とし、秦造河勝(かはかつ)、土師連菟(うさぎ)を新羅の先導者とし、間人連塩蓋(しほふた)、阿閉臣大籠(おほこ)を任那の先導者とした。使者が朝廷に入ると大伴咋(くひ)連、蘇我豊浦蝦夷(えみし)臣、232H2坂本糠手(あらて)臣、233H15阿倍鳥子(とりこ)臣が立って庭に伏し、行事が終わって河内漢直贄(にへ)に新羅の供応を、錦織首久僧(くそ)に任那の供応をさせた。
623(推古31)年、新羅が任那に侵攻したので、推古は新羅を討とうとして群臣に諮った。田中臣は「百済はたびたび豹変する国である。道路の区画さえも偽りがある。おおよその言うところ皆信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」と発言した。これに対し、中臣連國(くに)は積極論を展開すものの、結局討たないこととなり、吉士磐金(いはかね)を新羅に派遣し、吉士倉下(くらじ)を任那に派遣して事態の解決に努めた。ここでも百済寄り外交に対する警戒心が見られる。
しかし、その遣使の帰国前に、大徳境部臣雄摩侶(をまろ)、小徳中臣連國(くに)を大将軍に、小徳河邊臣禰受(ねず)、小徳物部依網連乙等(おと)、小徳波多臣廣庭(ひろには)、小徳近江脚身(あなむ)臣飯蓋(いひふた)、小徳平群臣宇志(うし)、小徳大宅臣軍(いくさ)を副将軍として新羅に出兵し、事態を紛糾させてしまった。
【推古治世後半】605(推古13)年、厩戸皇子が斑鳩宮に移り住む。この頃の首都は飛鳥であるにも関わらず、離れた斑鳩に移ったことについては、権謀渦巻く政治に嫌気がさしたからとも言われているが、彼が政治的にそれほど重要ではない一回の皇子であることを示している。厩戸皇子はそのまま斑鳩宮で暮らし、622(推古30)年、善徳42才の時に斑鳩宮で没する。
4月、推古が発願して鞍作鳥(とり)を指名して銅の丈六(高さ1丈6尺。約4.8メートル)の仏像を造らせ、翌年4月に完成し元興寺に入れようとしたが、大きすぎて入らなかった。鞍作鳥が戸を壊さずに無事に搬入して安置したので、5月に天皇が鞍作鳥に対し、その祖父司馬達等(しめだちと)、父多須那(たすな)、伯母嶋女(しまめ)の功とともにその功績を賞した。
624(推古32)年4月、一人の僧が斧で祖父を殴つという悪逆罪を犯したので、その僧およびすべての僧尼を罰しようとしたが、百済僧観勒(くわんろく)の切なる願いによってその他の僧尼を罰することを止めた。そして観勒を僧正とし、鞍部徳積(とこしゃく)を僧都とし、阿曇(あづみ)連を法頭(ほうづ)にそれぞれ任じて僧尼の監督をさせることとした。
626年(推古34年)、善徳46才。5月20日に蘇我馬子が没し、桃原墓に葬る。これは奈良県高市郡明日香村島之庄にある石舞台古墳とされる。日本書紀は「性格は武略備わり、政務にもすぐれ、仏法を敬った」と賞賛している。
一方で新しい命が生まれる。田村皇子と宝皇女の間に開別(葛城)皇子が誕生した。後に善徳を暗殺することになる中大兄皇子(天智天皇)である。
田村皇子と宝皇女の間には2男1女がいたとされる。長男は葛城皇子(中大兄)、長女は間人皇女、次男は大海皇子(大海人皇子、天武天皇)とする(日本書紀)。一方で、宝皇女は舒明に嫁ぐ前に、用明天皇の孫である高向王に嫁ぎ、漢皇子を産んでいる。大海人皇子は善徳の時代は何の活躍も見られないどころか、生年さえ不詳である。そのため、古人大兄皇子又は漢皇子との同一人物説がある。古人大兄とは吉野に隠棲したという共通点もある。
【推古崩御】628(推古36年)、善徳48才。推古天皇は病気重く、大王位の有力候補である田村皇子と山背大兄王とに遺言して没する。田村皇子には「大王となることは至難の業である。軽々しく言ってはならない」と言い、山背大兄王には「汝は若い。心に思っても口に出さず、群臣に従うように」と諭した。推古の遺言からは田村皇子が時期大王に相応しいと考えていたことをうかがわせるものの、明確ではない。大王は後継大王を定める権限はなく、新大王は群臣の推挙を待たねばならないのである。
田村皇子は押坂彦人大兄皇子と糠代比売(田村皇女、糠手姫皇女)の息子である。
山背大兄王は豊聡耳皇子と馬子の娘である刀自古郎女の子である。但し山背大兄王については、豊聡耳皇子の子ではないとする説もある。書記でも聖徳太子と山背大兄王が親子とは明記されていない。上宮聖徳法王帝説は「後の人、父の聖王と相い濫るといふは、非ず」とし、後世の人々が、太子と山背大兄王が親子ではないと噂することは、良くないことであると記述している。以下の説がある。
・ 彦人大兄皇子と推古の娘である玄(ゆみはり)皇女(桜井弓張皇女)との間に山代王という子がおり、これが山背大兄王である。
・ 山背大兄王は日本書紀が創造した人物であり、実在しない。実際、山背大兄王の墓は、どこにあるかさえもわからない。
・ 崇峻と河上娘の子。河上娘と刀自古郎女を同一人物とする。
田村皇子は敏達の孫、山背大兄王は用明の孫で、皇孫という点では同格である。但し敏達は用明の兄であり、田村皇子の方が大王家直系と言える。加えて、用明の母も山背大兄王の母も蘇我氏の出であり、田村皇子の方が大王家の血を濃く受けている。そのため、血統では田村皇子に有利だが、後ろ盾の点では蘇我氏の血を引く山背大兄王が有利である。
後継者争いは中々決着がつかず、善徳・蝦夷は群臣を召集して協議を行った。蘇我氏としては、近親である山背大兄皇子を推したい。しかし血統から言えば田村皇子であり、諸豪族の納得を得がたい。推古天皇の遺言にもあるように大王としての器量も田村皇子の方が備わっている。
一方、田村皇子は蘇我氏の血を引いていないが、善徳・蝦夷の妹姉の法提郎媛を妻として古人大兄皇子をもうけており、田村皇子が即位すれば将来、古人大兄が継ぐ可能性がある。善徳は優れた政治家としてのバランス感覚から田村皇子を推すと決めた。日本書紀は蘇我氏に対して独裁者的なイメージをつけようとしているが、実態は豪族間の意向に配慮する和の政治を行っている。
しかし山背大兄王はこれに不満で、蝦夷に以下のように問い詰めた。「噂に聞くと叔父上は、田村皇子を大王にしようと思っておられるということですが、自分はこのことを聞いて、立って思い、座って思っても、まだその理由が分かりません。どうかはっきりと叔父上の考えを知らせてください」。大王への野心を丸出しであり、とても聖人の言葉とは思えない。
蘇我氏の中でも馬子の弟の境部臣摩理勢は頑なに山背大兄王を支持し、宗家に敵対したので、善徳・蝦夷は滅ぼし、田村皇子が即位することになる。
【舒明朝】629年(舒明元)年、善徳は49才である。田村皇子が即位し、舒明天皇となる。百済川のほとりを宮地とし、百済宮を建て、百済大寺も建てることになる。
ヤマト政権の大王が宮の名前に他国名を使用するのは、かなり異常である。日本書紀は倭を百済の宗主国のように記述するが、実際は逆であったと思われる。実は当時、筑紫は百済に押さえられており、百済の倭国経営の拠点が太宰府、即ち百済太宰府であったとする説もある。後に中大兄皇子が百済本国の存亡をかけ、大国唐に対し、無謀にも白村江の戦いに挑んだのも、上の説に立てば理解できる。
630(舒明2)年1月1日、宝皇女を皇后とする。
632(舒明4)年、唐の使者である高表仁が来朝したが、倭国の王子と礼を争った(旧唐書東夷伝)。使節一行は国書を奏上することなく、帰国する破目に陥る。この事件は日本書紀には記述されていない。日本書紀では外交的失敗は記載しないのが流儀のようである。
637年(舒明9)年、蝦夷が背いて入朝しなかった。大仁上毛野君形名を召して、将軍として討たせた。しかし敗北し、砦に逃げたものの、囲まてしまった。
640年(舒明12)年、高向漢人玄人が唐から帰国する。
641年(舒明13)年、舒明は百済宮で没する。開別皇子が16歳で誅(しのびごと)を読む。
宮の北に殯宮を設置し、百済の大殯という。ここでも百済が名前に遣われている。よほど百済の影響が強かったと思われる。
【皇極朝】舒明の後継者選びも紛糾した。後継候補は下記の通りである。
・ 山背大兄王:推古没後の後継争いで舒明に敗れており、次こそは自分が大王になるという意識が強い。蘇我系の皇族だが、善徳・蝦夷の関係は先の後継争い以来悪化している。
・ 古人大兄皇子:蘇我系の皇族で、善徳にとって第一希望。
・ 開別皇子:兄の古人が大兄の地位を持つものの、皇后の子である。
後継者を決められない状況のため、女帝擁立の善徳は先例に倣い、皇后宝皇女を時期大王に推した。朝廷の分裂を回避する苦肉の策である。
642(皇極元)年、善徳62才。宝皇女が即位する(皇極)。開別皇子は母親が大王になることで、皇后の後継者ということで、中大兄皇子と名乗ることになる。中大兄の「中」とは兄の古人大兄と弟の大海人の間という意味とされる。
【高句麗政変】2月6日に高句麗の使人が難波津に泊った。21日、諸大夫たちを難波の郡に遣わして、高麗国の奉った金銀などと、他の献上物を点検させた。使者は献上が済んだ後に高句麗の状況を語った。
「去年の6月、弟王子が亡くなり、秋9月、大臣伊梨柯須弥(いりかすみ)が、大王を殺して、併せて伊梨渠世斯(いりこせし)ら180余人を殺しました。弟王子の子を王とし、自分の同族の都須流金流(つするこんる)を大臣としました」。ここに登場する伊梨柯須弥とは泉蓋蘇文のことである。
後の大化の改新を正当化する立場に立てば、中国の統一・強大化という国際情勢の中で倭が生き残るためには、天皇中心の中央集権体制を確立する必要があり、天皇を蔑ろにする蘇我氏は滅ぼされるべきということになる。しかし政治体制の強化が正しい方策としても、天皇中心の集権体制が唯一の解であるとも最適の解であるとも限らない。現に高句麗でも力のある臣下に権力を集中することで、国際情勢を乗り切ろうとしているのである。
643(皇極2)年、善徳は63才。この年の11月1日に山背大兄王襲撃が行われた。山背大兄王襲撃は蘇我氏の暴挙のように位置付けられているが、蘇我氏の血を引くにも関わらず反蘇我宗家の態度をとった非主流派皇族の排除という点で、馬子が穴穂部皇子や崇峻天皇を滅ぼしたことと同じ問題である。
【襲撃の謀議】山背大兄王襲撃は、これまでの蘇我氏の行動と同じく諸王族・豪族のコンセンサスの下、行われた。日本書紀では善徳(入鹿)の独断で行われ、蝦夷でさえ嘆いたとされるが、他の史料の記述と矛盾する。
上宮聖徳太子伝補闕記によると、蘇我蝦夷、蘇我入鹿(善徳)、軽皇子、巨勢徳太古臣、大伴馬甘連公、中臣塩屋枚夫ら6名が鳩首会議を開き、山背大兄王排斥を決定する。謀議メンバーのうち、巨勢徳太は軽皇子の側近である。
中臣塩屋牧夫は、中臣氏であること以外は何もわからない。大化の改新で、軽皇子が天皇に即位できたということは、軽皇子と中大兄皇子の双方と親しくしていた媒介者がいたということである。そのような人物は、中臣鎌足(鎌子)以外考えられない。そうすると中臣塩屋牧夫は、鎌足ということになる。
「藤氏家伝」にも、入鹿が「諸皇子」とともに謀って山背大兄王を殺害したと記述されている。諸皇子の同意があるからこそ、山背大兄王殺害後も善徳の立場は変わらなかったのである。
この「諸皇子」は誰かが問題である。まず上記謀議の参加者である軽皇子が最有力候補である。軽皇子は皇極の弟で、後の孝徳天皇である。大王位の有力候補が消えることで、利益を得る人物である。
次に古人大兄皇子も有力候補である。善徳が大王にしたいと考えていた人物であり、大王位継承のライバルである山背大兄王が消えることで、利益を得る。但し日本書記では、古人大兄皇子は入鹿が直接襲撃に向かおうとした時に思い止まらせたという記述があり、襲撃には賛成ではなかったようである。
しかも古人大兄皇子は後に謀反の濡れ衣を着せられて処刑されている。謀反人ならば憚ることなく、山背大兄王襲撃の共謀者と記述できるはずだが、そうしていない。実名では書けない人物だから「諸皇子」としたのではないかと疑わせる。
残る有力な皇子となると中大兄皇子になる。鎌足と中大兄皇子は自らが権力を握るために、蘇我氏内部の争いを利用して蘇我氏の弱体化を目論んでいるのである。この後も二人は同じやり方で蘇我氏の勢力を殺いでいく。即ち、蘇我倉山田石川麻呂を味方にして入鹿と蝦夷を殺害し、蘇我日向に讒言させて、石川麻呂に謀叛の疑いをかけ、自殺に追い込み、後にこの讒言が嘘であるとして日向を筑紫大宰師へと左遷する。
襲撃を直接実行したのは巨勢徳太である。これは日本書紀が明記している。もしも乙巳の変が、聖徳太子の子孫を絶滅させたことに対する正義の報復ならば、入鹿とともに、巨勢徳太も処罰されてもおかしくないはずが、実際は大化の改新後に左大臣にまで昇進している。これは謀議の参加者も同じである。軽皇子は孝徳天皇として即位し、大伴馬甘連は、巨勢徳太が左大臣になった時に右大臣となった。
【山背大兄王の最後】急襲された山背大兄王の一行は、一旦斑鳩を離れ、山中へと分け入るが、追い詰められて斑鳩寺に戻った。山背大兄王は、三輪文屋君等の将軍に対し、「吾、兵を起こして入鹿を伐たば、其の勝たむこと定(うつむな)し。然るに一つの身の故に由りて、百姓(おほみたから)を残(やぶ)り害(そこな)はむことを欲りせじ。是を以て、吾が一つの身をば、入鹿に賜ふ」と言った。即ち「自分がもし軍をおこして入鹿を討てば、勝つことは間違いない。しかし自分一身のために、人民を死傷させることを欲しない。だからわが身一つを入鹿にくれてやろう」。そして一族20人とともに首をくくって自殺した。
この日本書紀のエピソードは山背大兄王を美化するものだが、「吾が一つの身」と言いながら、一族を道連れにするのが聖人のすることか疑問である。しかも推古天皇の後継者を田村皇子と争った際は、山背大兄王がかなり権力志向の強い自己中心的で強引な人物として描かれている。一族そろっての自殺も、その場の思いつきで行動してしまう直情主義の結果と思えてくる。
645(皇極4、大化元)年、善徳は65才になった。6月12日は三韓貢進の日であり、三韓からの貢物が飛鳥・板蓋宮大極殿で皇極に奉られる。善徳も参内する。中大兄と鎌足、蘇我倉山田石川麻呂はこの日を陰謀の決行の日とし、刺客を用意した。中大兄自身も長槍を持って大極殿の脇に隠れた。鎌足も弓矢を携えて、その後ろに控えた。崇峻の暗殺が東国の調の日であったことを考えると、因果応報的なものが感じられる。
善徳は慎重な人物であったので、どんな時も太刀を肌身離さず持っていた。そこで鎌足は一計を案じ、善徳が参内する時に、鎌足が雇った道化が、滑稽な仕草をしながら、善徳をからかい、太刀を外させた。善徳は笑って太刀を渡してしまった。
皇極が出座し、傍らには古人大兄皇子が侍る。蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げる。ここで刺客が善徳を切る手筈になっていたが、上表文が読み進められても、現れる様子がない。刺客は善徳の堂々たる姿に恐れをなして、動けなかったのである。石川麻呂は上表文を読み終えようとする。恐怖で全身に汗が噴出し、声も乱れ、手も震えてしまう。不審に思った善徳は「何故震えているのか」と詰問する。
その時に、中大兄皇子自らが、剣で入鹿を切りつけた。これは皇国史観で歪められた戦前の教科書では有名なシーンで、中大兄を英雄視する。しかし中大兄は長槍を持って隠れていたと記述されており、剣で切りつけるのは矛盾である。このため、実際に切りつけたのは中大兄ではないという説もある。
この後、暗殺現場を目撃した古人大兄皇子が「韓人、鞍作臣(善徳)を殺しつ」と悲憤慷慨した。何故、韓人なのかが疑問である。以下の解釈がなされている。
・ 三韓貢進の日で朝鮮半島からの使節により殺されたと誤認したため。
・ 中大兄皇子が実は百済からの亡命皇子であるため。
【蘇我氏滅亡】善徳暗殺を聞いた蘇我蝦夷も13日に自殺し、蘇我氏本家は滅亡する。高向臣国押が蝦夷の館で戦いに反対したと言う記述が日本書紀にはある。しかし善徳が暗殺された段階では、中大兄皇子の行動はクーデターに過ぎず、諸豪族の帰趨も不明であり、蘇我氏の戦力も無傷であった。そのため、蝦夷が抗戦しようと思えば抗戦できたし、実際、中大兄皇子側もその覚悟でいた。ところが蝦夷は邸宅に火を放って自殺してしまう。
これは権力欲の強いそうな蘇我氏にとっては不可解な行動である。蘇我氏の指導者は長兄の善徳であり、彼が暗殺されてしまったため、蝦夷自身にも諦めの気持ちが生まれ、抗戦は無駄との結論に至ったのであろう。また、これまで諸豪族の支持の下に行動してきた蘇我氏にとって、諸豪族が中大兄側に集まりつつある状況も判断に影響を与えたと思われる。蘇我氏は独善的な一族ではなく、最後まで諸豪族との和を重視したのである。
蝦夷が邸宅に火を放った際、邸宅内にあった「天皇記」「国記」も焼失してしまう。これらは馬子と聖徳太子の共同編纂とされるが、原本が蘇我氏の邸宅にあり、他には写本も残っていない点から、編纂は蘇我氏のみ、即ち馬子と善徳により行われたと推測できる。
クーデター成功後、中大兄らは自分達の悪逆な行動を正当化するため、善徳に入鹿という穢名を与え、悪者に仕立て、善徳の事績は別人の聖徳太子のものにしてしまう。この方針はその後の天武・持統にも引き継がれ、日本書紀編纂に反映される。
聖徳太子怨霊説・法隆寺の怨霊封じ込め説(海原猛「隠された十字架」)も本来の聖徳太子を無念の死を遂げた蘇我善徳と解すると、怨霊とされなければならない理由が明確化する。歴史は勝者に都合のいいように作り変えられてしまうのである。
学校教育のレベルでは、まだまだ一方的な物の見方しか教えない傾向にある。しかし物事は立場を変えれば違う見方もできるわけで、教育の場でも、その辺をもう少し考慮に入れた教育をして欲しいものである。
●参考文献
川勝守「聖徳太子と東アジア世界」吉川弘文館、2002年
上原和「斑鳩の白い道のうえに」朝日新聞社、1978年
梅原猛「聖徳太子(上)(下)」小学館、1989年
門脇禎二「蘇我蝦夷・入鹿」吉川弘文館、1977年
門脇禎二「聖徳太子は大王ではなかったか」中央公論・歴史と人物1979年12月号
坂本太郎「聖徳太子」吉川弘文館、1979年
関裕二「聖徳太子は蘇我入鹿である」フットワーク出版社、1991年
関祐二「聖徳太子はだれに殺されたのか」学習研究社、1993年
高野勉「聖徳太子暗殺論−農耕民族と騎馬民族の相克−」光風社出版、1985年
田村圓澄「聖徳太子−斑鳩宮の争い−」中公新書、1964年
吉村武彦「古代天皇の誕生」角川書店、1998年
吉留路樹「倭国ここに在り」葦書房、1991年