
私の好きな映画音楽作曲家を挙げろと言われれば、まず、外国の作曲家を挙げることになります。そもそも私が最初から映画音楽を志したのも、子供の時、アメリカ映画(作品名も覚えていません)を見て、その音楽の華麗さに何となく感激したのがきっかけです。作曲家名など勿論意識していませんでした。作曲家は意識されにくいのだ!(^_^;)。
プロになってから何らかの影響を受けた作曲家といえば、エンニオモリコーネを挙げざるをえない。マカロニウエスタン時代のモリコーネです。人造人間キカイダーの挿入歌等は、明らかにモリコーネを意識してメロディーを作りました。どこが似ているということはありませんが、モリコーネを目指したのです。今年のNHK大河ドラマの音楽を手がけておられます。溜め取りであり、日本での打合せなしでの作曲なので、必ずしも満点ではないでしょうが、テーマ音楽などには心を打つものがあります。
その他の好きな作曲家は多数になるので、何らかの影響を受けた作曲家に限りましょう。ラロ・シフリン、クインシー・ジョーンズ、ニーノ・ロータ、フランシス・レイ、ヘンリー・マンシーニなどです。
また、最近のアメリカ映画の作曲家で注目している人は、何人かいます。ハンス・ジマーなどは、作品にもよりますが、映画音楽のセンスは抜群でしょう。最近のアメリカ映画音楽の作曲家は、彼の影響もあるのか、ある意味で腕前があがっています。感心させられるものが多いのです。かつての映画音楽黄金時代のようにポピュラーなテーマ・メロディーで聴衆を惹きつけることはありませんが、SF、サスペンス、ホラー映画では、大きな効果をあげており驚かされることが多いですね。
「忍びの者」の話題が出たので、「京都撮影所の思い出」を書いてみることにする。京都に限らず、日本映画全般に当てはまる点も多いはずなので、皆さんの参考になることも多いのではないか。
京都撮影所の仕事の第1作は、東映作品、中川信夫(注1)監督、市川右太衛門(注2)主演の「八百万石に挑む男」、第2作は、大映の「忍びの者」であった。打合せは勿論、京都太秦(うずまさ)の撮影所で行なわれた。東映撮影所も大映撮影所も太秦にあった。撮影が半分くらい進行した時点で打合せが行なわれる。まだ新幹線がない時代であったが、打合せ後、日帰りしたかどうか、記憶にない。
これから、一般の場合の話しに移る。撮影所に到着すると、試写室に案内され出来上がったラッシュ(編集用のプリント)の映写を見る。薄暗いランプを灯した机のある席で台本を見ながら歯抜けだらけの映画を見るのだ。スクリプター(記録担当者)が同席してくれれば、映写中の画面に相当する台本のシーンナンバーを教えてくれる。誰も同席していない場合には、歯抜けの画面と台本を照合することがスムーズに行かない場合もあり、作曲家が知らない間に、台本が訂正されていることもあり、困惑することになる。監督は撮影、演出に夢中であり、音楽の打合せなど考えていない場合も少なくない。
ラッシュを見終わると、スタッフルームに案内され、監督が来られるのを待つことになる。私は殆どの場合、撮影ステージに入り、監督に挨拶し、撮影の状況を見ることになる。しかし、殆どの場合、照明等の準備中であり、俳優の演技が始まるまで長時間かかることが多く、私は退屈してしまい、スタッフルームに戻って、監督を待つのが普通だった。
5時で撮影がひとまず終わり、監督、スタッフが控え室に来られる。弁当を食べてから打合せをするのだが、殆どの監督は、作品の狙いを話され、音楽についても、要点を要望される。一部の監督は、「音楽については未だ考えていない」というだけで、その日はそれで終わりという場合もある。その時は頼りない感じで日帰りすることになる。帰宅して、多少とも曲の構想を練るのだが、監督の意図がわからない場合は、自分なりに方針を決め、主なシーンを想定して、曲のスケッチを書き始める。東京の撮影所であれば、監督の都合に合わせて度々撮影所へ行き監督と話し合いができるのだが、京都ではそれができない。それが、大きなハンディとなることもあるのだ。
原則としては、全撮影が終了し、オールラッシュを見てから音楽打合せを行い、本格的な作曲にとりかかることになってはいるが、現実は殆ど理想どおりには行かなかった。映画製作のスケジュールとして、オールラッシュ完成後5日くらい後に音楽録音が行なわれるのが日本映画界の常識となっていたが、原則どおり行なわれることは稀であり、ロケの予定日に雨でも降れば、撮影完了は必ず遅れ、オールラッシュは音楽録音の前日というケースさえあった。録音の5日前には音楽打合せをしなければ、作曲が間に合わないので、歯抜けだらけのフィルムを映写して無理やり打合せを行なうことも珍しくなかった。封切り日が決まっているので止むを得ないのである。
打合せ後は、京都で作曲をする。始めの頃、撮影所の紹介で岩波という古風な旅館に泊まることが多かった。電子オルガンが置いてあるのだが、半分壊れかけたようなショボイ音しか出ない楽器であった。東京から来た映画音楽家は殆どすべてここへ泊まったという。ある時は鏑木創(注3)さんとぶつかってしまい、私のほうが先約なので、彼はやむなく別の旅館に泊まったらしい。鏑木さんは、毎日、マムシの生き血を飲んで仕事をすると言っておられた。熱心な人である。
撮影が予定より遅れることは前述したとおりであるが、ひどい時には、録音前日にオールラッシュの試写が行なわれることもあった。しかも編集が未完成なのである。ホテルで作曲をしていると、夜12時頃、編集担当から電話があり、「編集が完了したので、これから見に来て欲しい」という。作曲が間に合うかどうかという状態で作曲をしているので行っている暇などない。「申し訳ないが、見に行く暇がありません。変更されたシーンの秒数を教えてください」とお願いして、それを頼りに曲の長さを調整して作曲を進めたのである。
何年か後に岩波へ宿泊の予約の電話をかけると、電子オルガンの音が出なくなったという。多くの作曲家に酷使されたあわれな電子オルガンの終わりの時が来たのである。やむなく京都ホテルなどに泊まることにしたが、やはり、楽器がないと困る。考えた末、教育楽器であったピアニカを使用することにした。ピアノや電子キーボードとは比べ物にならない。幅の広い和音が出せないのを何とか苦労しながら工夫で補い、感じを掴もうとしたことを思い出す。今なら、中型の電子キーボードがあり、運搬も容易である。時代に恵まれなかったのだとつくづく思うこともある。
京都の話で忘れられないのは、伊福部昭(注4)先生のことである。実はこの話の前に説明しておきたいことがある。私は伊福部先生著「管弦楽法」という本で、楽器法を勉強した。そこでトランペットの奏法の説明に誤りを発見したので、先生の弟子である松村禎三(注5)氏にその旨を電話でお話しして訂正をお願いしておいた。かなり昔の話である。ところが、伊福部先生はそのことを気にかけておられたらしい。大映撮影所の録音スタジオ内の指揮台でスコアの整理をしているところへ、先生がやって来られ、「渡辺宙明さんですか。私は伊福部昭と申す者です。あの本の説明の誤りは、後で気が付いたのですが、すでに印刷が終了していて何ともならなかったのですよ。すみませんでした」と言われたので、私の方が恐縮してしまった。音楽打合せのため撮影所に来られたのだが、私が録音中であることを知りわざわざスタジオまで来られて、事情の釈明をされたのである。やはり、人柄というものであろう。
日本映画での作曲家に課せられる条件は、昔から厳しかった。作曲に当てられる日時の少なさである。特に京都の場合は条件が厳しくなるのだ。今でも時間的余裕に関してはそれほど変わりはないようだが、大きく違ってきている面もある。ビデオの存在である。できた分をビデオにコピーしてもらって、作曲家は自宅でそれを見ながら作曲することができる。歯抜けであろうと自宅でビデオを見ながら作曲できるということは、作曲環境としては、極めて恵まれている。ラッシュがある程度揃ったところで撮影所から次々とビデオが届けられるというシステムになっているらしい。若い作曲家は、昔より恵まれた条件で仕事をしていることは、間違いないのだから、頑張ってもらいたいものである。
注釈作成/ともとも
参考文献/「日本の作曲20世紀」
「伊福部昭の宇宙」
「日本の作曲家たち 上巻」
(以上、音楽之友社刊)
「日本映画テレビ監督全集」(キネマ旬報社)
「地獄でヨーイ・ハイ! 中川信夫 怪談恐怖映画の業華」(ワイズ出版)
「浪漫工房 市川右太衛門と時代劇」
