もう35年も前のことになる。
場所はカルカッタのナイトラウンジ。ヒンドスタニ−ホテルだったと思う。
僕は、数人のブ−タン人と一緒に座っていた。
「ブ−タン一のプレイボ−イがあなたの世話をすることになっているから」。林業家として索道施設の指導に行った帰り、標高2700メ−トルの首都からインドの平原まで5時間の道程をベンツで送ってくれたT・リムポチェがそうささやいた。(え、どんな奴だろう。何をしてくれるのだろう)
その男、ソナム・プンツオはダムダム空港まで迎えに来ていた。プレイボ−イというので少し身構えていたのだが、顔半分にドキッとする紫色のあざがあった。ダミ声だった。ベランメエ調で早口の英語をしゃべる。確かに、いつも美人と一緒だった上にたった数日の間に一度美人を取り換えたことがあった。でも、ニヤケタ二枚目ではなかった。
僕より前に入国した京大の桑原武夫隊は、そのような男がいることは知っていた。あまり深入りせぬように軽くあしらったらしい。京大の人別帳からは、この類の人物は概ね削除されている。学術探検あるいは登山をする場合、有効且迅速に立ち働いてくれる有用人物を求める。後で人生相談を聞いてやる羽目に陥るようなとんまなことはしない。
僕の場合は、帰国後10年も過ぎてから「ナド! クレシ−タのセカンドハンドを買って送ってチョウ。ゼニは後で送金するケン」とニュ−ヨ−クから電話がかかって来たり、「成田まで迎えに来んケ、帰国途中に東京見物するデ」など、少しわずらわしいお付き合いがあった。(ナドは直人、クレシ−タはトヨタのクレスタ)
あの頃、林業を継ぐべくがむしゃらにUタ−ンを実行したのだった。我が家には、山で働いてくれる人が五〜六人居たし、伐採収入でお互いに食って行く事が出来た時代である。みんなと一緒に山仕事をした。ただ早朝に起きて田舎の世間並に努めることだけが苦手で、みんながひとしきり仕事を進めて一服している頃に弁当を持って駆けつけるというしまりの無い親方だった。まだ学生気分から抜け出ていなかった。
このままで終わりたくない。まだ何かやりたい。(それなら、なぜ帰った、ともう一人の僕が言う)僕の家には山がある。男は僕一人である。僕が継がなければ誰が継ぐ。(大学院に進学する道もある、企業に就職する道もある)でも、父も歳をとったし。
僕は26歳だった。キスリングにいっぱい本を入れて帰ってきた。中にはバ−トランド・ラッセルの「西洋哲学史」があった。昼は山に入っても夜は自分の自由になる時間である。一日40ペ−ジと決めてそれを読み始めた。大学の授業では一年かけて原書を読む量である。あせっても成果など上がるはずがないのに一念発起したつもりだった。中身が空っぽのスピ−ド感だけが残った。睡眠が不足した分だけ明け方になってから眠くなるのは当たり前である。昼間目いっぱい体を使って働く田舎の生活は夜十分に眠って体力を回復しなければ持たない。その心得をつかんだのはごく最近になってからだ。
あの頃は、趣味の登山も趣味の勉強も山仕事も渦巻きのように僕の中で混乱していたのだと思う。親方は誰よりも早く現場に出て今日一日の段取りに思いを巡らせている方が良い。従業員に引きずられているようでは立派な山ができるわけがない。それも最近分かったことだ。
真新しい砥石を持ったまま南アルプスの北岳バットレスに行ったことがある。登攀起点でサブザックに入れたままであることに気がついた。砥石は山仕事の道具だ。
週に一度は京都に出て、人類学懇話会(近衛ロンド)に参加していた。千里の民族学博物館はまだ出来ていなかったが、初代館長になる梅棹忠夫も二代目の佐々木高明も三代目の石毛直道もいつも顔を並べていた。僕はただそういう場に居る刺激だけを吸収していたにすぎない。「季刊人類学」に論文を発表するでもなく、ただ参加しているだけでは時間の浪費である。あの場に出ていた若い人はその後研究者稼業についた人が多い。
でも、その時間の浪費が僕のブ−タン行きにつながったのである。
ある日、会が終わってから米山俊直教授の部屋を訪ねた。ブ−タンに入国する方法を教えてもらえると思ったのだった。「あ、それは谷君ですよ。彼は今デリ−に行ってますよ。」
後でわかったことだが、谷泰さんはその時ブ−タン入国の許可を得るべくデリ−に二か月も滞在して果たせず、インドに来ているブ−タン人から言語の資料を収集して帰ってきた。ちょうどその間のことだったのだ。
「人違いだったのか」。谷さんなら会でよく見かけている。アイヌ人のように目鼻立ちがはっきりした人物で、「素人で何も分からないんですが」、と専門外のことでも実にやわらかく切り込んでいた人である。そういえば最近見かけなかった。デリ−に居たのか。
そのまま、僕の行動は休止状態になった。
何故ブ−タンに行きたかったのか、それを説明しなければならない。
山登りが好きな人は、郊外の山歩きから始まって次第に標高の高いアルプスにあこがれる傾向がある。僕もそうだった。そこは森林限界を超えるところであり、真夏でも残雪があるように日常では経験できない面白さにあふれている。山小屋では、ただ登って来るだけの人の世話をする生活がある。それも又興味深かった。アルピニストの気持ちはアルプスからヒマラヤへと昂まって行く。まだ見たことのないところへ行ってみたいという気持ちは、子供ならもっと強いだろうし、大人のアルピニストは子供の好奇心を持ち続ける人ともいえるのである。僕の周囲でもヒマラヤへ行った人は多い。いつか僕も、という夢があった。
ネパ−ルもカラコラムも有名な山はほとんど登られてしまった。初登攀の対象は標高の低い山に向かっている。踏み荒らされて行く感じだ。
ブ−タンだけがまだ誰にも手をつけられずに残っていた。鎖国していたからである。かつてチョモラ−リ(7315m)がただ一つ登られたに過ぎない。インドと中国の両大国に挟まれてうまくやってゆくためには鎖国が賢明な方策だったのだろう。ブ−タンの東側はインドの東北辺境地帯である。そのあたりでヒマラヤ山脈が無くなると同時にインド中国間の国境障壁も無くなる。未だ国境のあいまいな処なのである。インドは北に向かって国境を出ようとする外国人に制限を設けている。インナ−ライン・パ−ミッションがそれで、なかなか許可を出そうとしない。ブ−タン側の要請があった時に重い腰を上げるとしても、過去の記録を見るととんとん拍子に運んだ例がほとんど無い。よほど強い要請があった時か、外交上止むをえぬ場合だけ通行出来たようなのである。ブ−タンにとって本当に来てほしい人であれば強い要請になるだろうし、それほどでなければ「そのうち、いずれ」と口を濁す程度で済ませてしまうのかもしれない。それは、政治的にも経済的にも援助を受けているインドへの気兼ねでもあろうし、要請を手控えることが慣行だったのかもしれない。農業技術者のように直接役に立ってくれる人ならともかく、登山や学術探検などは進んで来てもらわなくてもかまわない部類に入るのだろう。
そのようにして、ブ−タンは「秘境ブ−タン」のまま霧の奥に隠れていたのである。そうであれば、運良く入れただけでも値打がある。僕はひとりで夢を追っていた。なになに隊というような団体行動は避けていた。「単独行」の加藤文太郎やアラスカで消息を絶った植村直己に強い共感を持っていたことは確かである。でも、単独行者は非妥協的かというと決してそうではなく、一つの冒険がかなえられる時は、それを支えた多くの人の協力があったに違いなのである。その結果としての単独行だったのだろうと思う。
単独行のおもしろさは、一人の身に起こるあらゆる出来事を一手に引き受ける緊張であり、どんな些細なことまでも忘れずに残すことのできる不思議さである。
林業の現場に遅れて行くことも、うっかり砥石を忍ばせたまま山登りに行くこともあったしまりのなさを繰り返しながら、夜になるとブ−タンの文献を読み、疲れて眠ってしまうと必ずと言っていいほどブータンの夢を見た。夢の中の僕はいつもブ−タンに入っていた。そんなある日、谷さんから電話が入る。リムポチェが今京都に来ている、索道のセットを買い付けに来たのだが、林業家は小林さんしか知らないから手伝ってもらえませんか、というのである。
多分、僕の声は震えていただろう。谷さんが日本に帰ってきた。
あの時、米山教授の部屋を見当違いにノックしてから、まさか僕の願いが彼らの記憶に留まっているとは思えなかったからである。一行を案内するタクシ−が鴨川を東に向かって渡るとき、「僕が索張りのお手伝いに行きましょうか」「オ−、グッド」谷さんが通訳してくれたのと同時にリムポチェが振り向いた瞬間も今だに忘れない。
そして、ソナム・プンツオ。
薄暗い照明のラウンジを横切って、彼はピアノの弾き語りの女性にメモを渡した。彼女が歌い始めた低い短調のメロディ−がそれ以来ずっと僕の耳から離れない。
夜のカルカッタは人通りも絶えて静かだった。子供連れのヒッピ−と偶にすれ違うぐらいで、太陽に焼かれる喧噪の人間の渦がどこかへ消えていた。歩道の日陰側には延々と人間が横たわり、もしかしたらその中には死体もあったのかもしれない。ヒッピ−の西洋人は哀れだと思った。インドに人間の原点を求めて、こんな時間に子供まで巻き込んでさ迷っていると僕には思えた。
ラウンジのフロア−では真っ赤なサリ−を着た女性がビンボ−ダンスの様に激しく踊っていた。
青あざの、ベランメ−英語の、プレイボ−イ。ソナムの何処にこのような魂をえぐるメロディ−が宿っていたのだろうか。ここは、金持ちだけが時間をやり過ごしている場所に過ぎないのに。
「同定の理論」(湯川秀樹)によると、始めてみる風景に立ちながら何時か何処かで見た風景と同じだと直観的に納得する瞬間を言う。この間、NHKのア−カイブスを観ていたら、平成五年七月に打ち上げられた宇宙船エンディヴァ−をやっていた。宇宙ではいわゆる「時間」は消滅するので、打ち上げと同時にカウントを始めなければならない。宇宙飛行士に朝を告げるモ−ニングコ−ルが流れた。野口総一さんにはスマップの「世界に一つだけの花」だった。つづいて流れたメロディ−は誰のためだったか忘れてしまったけれど、それが、あのカルカッタのメロディ−なのである。ロバ−タ・フラックという黒人女性の歌だと判る。「ロバ−タフラック知ってる?」女房は知っていた。三十五年も探していたのに、僕のそばに知っている人が居る。娘も知っていた。ツタヤに同行してもらってCDを買う。
車で聴きながら、僕はほとんど涙ぐまずにいられない。
「The first time ever I saw your face」。ソナム・・・・・・。