この短い文章は「追悼 土倉九三」*1に寄せたものである。
名前から分かる通り、吉野林業全書の土倉庄三郎に縁のある人物なのでそのまま転載させていただくことにした。
シラノ・ド・ベルジュラックは、人間が言葉に託す願いを「それは、もう一つの息遣いの様なものである」と我々に教えてくれた人だ。羽根飾りのついた帽子を被り、短いマントをひらめかせて、サ−ベルを腰に帯びた三銃士が活躍した頃のフランス人である。戯曲では不釣り合いに大きな鼻の巨人として描かれている。イケメンの友人が窓下で告白する恋文を代筆してやった。
十五年間も。
その言葉はロクサ―ヌの心を打つ。イケメンの死後、彼女に乞われるままに十五年分の手紙を読んで聞かせるのだが、日暮れてすっかり暗くなっても朗読は止まない。自らの気持ちを差し出した手紙だもの灯りに照らす必要は無かったのである。
そんな感動を土倉さんに重ねるつもりで書いた。
シラノ・ド・ベルジュラック
岩登りと同じように、焚火にも一級から六級までのグレ−ドがある。よく乾いた枯れ木があるときは一級。それでも雨の日は三級。雪の上で生木を燃やすと六級となり、さらに豪雨のもとではA1、A2などと言って楽しんでいたのは僕の独り善がりであったが、山での焚火を教えてくれたのはまぎれもなく土倉さんだった。「あれはな、平行メソッド言うのやで、土倉は焚火が好きやで」今西さんまでがそう言うところをみると、これはもう好き膏肓に入って、他人のあずかり得ぬ気分の高ぶりがあったのかも知れない。
焚火には大きいものがあったが、また飛びきり小さいのがあった。はるか昔酉年に湖南の鶏冠山でそれを目撃したことがある。わしはピ−クハンタ−ちゃいまっさかいなとでも言わんばかりに、いま少しで頂上というところで登山道に寝そべると焚火を始めたのだ。僕らが下りて来ると、長いからだの丁度おなかの当たりに子猫の様な火溜まりができあがっていた。ポキと爪楊枝大の枯れ枝をくべる・・・・・。その様は何かの拍子に動きだした虫を制する猫のようでもあった。
風貌魁偉、敏捷な会話。「ヒ」で始まる豪傑笑い。対しているこちらは、皮肉りまくられているような快感。身体にまとうのは、月桂樹の香りか、焼酎の残り香か。
最大の焚火は、美濃の西ケ洞で行った。中越から日永岳の鞍部を越えたのである。谷が大きく東に向きを変え、連瀑が一息つく広い河原で野宿した。一抱えもある流木を二本、一定の間隔をおいて寝かせる。これを「枕」と呼ぶ。たきぎはすべて枕と平行にくべる。平行メソッドの所以である。たとえ爪楊枝大の火床であっても平行にくべるのだ。夜になって、伐採飯場の人が遊びに来て、さげて来た一升瓶を空にすると、それをポ−ンと背後の谷に放り投げて帰っていった。僕らは、もえ残りの枕を枕にして眠った。
翌日二日酔い気味の土倉さんと、スケッチをするというH嬢を残して上流に釣り上った。京都に帰ってH嬢から聞いたことなのだが、あの日、土倉さんは、鉛筆を動かす彼女の手にキスをしたというのだ。
晩秋の、奥美濃の、シラノ・ド・ベルジュラック。H嬢も土倉さんも、もういない。
僕は、代々林業を生業にしている。それで、十津川の磨崖碑・十倉庄三郎のことはよく知っていた。そんな興味もあって、こちらから知己を得に伺ったのである。その結果、吉野林業の奥儀を学んだのでは無く、山と釣りと焚き火のおつき合いをすることになったのである。そして、僕の結婚の仲人までしてもらった。普通の仲人なら一回で終了するのに、僕の場合は街と田舎で二度も煩わすことになった。実行委員会が、公民館でもやれというのだ。障子を隔てて入場を待っていると、突然「春の海」が鳴り渡る。その時、土倉さんの「ヒ」の笑いがでた。たまりかねたように。僕も思わずブッとなった。
人は死んでゆく時何を考えるのだろうか。消滅の闇を凝視するのだろうか。どうも、それではいけないような気がする。どうせ、抗いようもなく消えなければならないのであるから、後に残る者達に元気を振りまいて行こうぜ、そう思うのだ。
一昨年の秋、亡くなる前日に大学の恩師を見舞いに行って以来そう思いつづけている。「六十三年の生涯を閉じるんですよ」そう言われてもどうにも答えようが無かった。肺に陰、見付かる。怖い精密検査を受けるか。止めときましょう、先生、今何ともないんでしょう。受ける。手術。疑い。不安。もう僕は何もかも知らされているのに。生殺しの、凋落の、一年が過ぎていた。その時思ったのだ。先生こっちを元気づけてくれよ。
本当のことは何も分からないが、土倉さんの場合は亡くなる少し前に、府立大学の近くに「芹生」という飲み屋がありまっせ。近いうちに行きまひょ。と電話をくれた。
土倉さんは庄三郎の孫である。評伝には父のことがこう述べられている。(家督を継いだ長男が大阪や大陸で起こした事業は人にだまされたり、杜撰な計画を簡単に大事業化するため失敗ばかりであった。・・・・・中略・・・・明治四十三年に長男の夫人が六人の子供をのこして死んだ。その後長男は、庄三郎と親戚たちの承認できない再婚をしたため庄三郎逝去の六年前から家郷にいなかった。現代なら、これほどの措置をとらなかったかも知れない。・・・・中略・・・・長男は明治四十四年の夏叔父平三郎の家を訪ねて「年寄と子供を置いて家を出ます。よろしくお願いします」と泣いて家郷を去った。四十六歳であった。それから庄三郎死去の前日までの六年間は彼との交渉は絶えたので経済的には小康を得た。)
残された六人の孫は庄三郎が慈しんで育てている。
ところで、僕の知っている土倉さんは父鶴松が家郷を去ってから十年後に生まれた子供である。庄三郎に直接育てられた孫ではない。だが、庄三郎死去の前日までと表現される限り、その日、三歳の土倉さんは父と一緒に帰郷したはずである。鶴松の日記には、(・・・前略・・・・散歩優に七町を佳く過徒せり学校に行き一番とならんことを自称して幼稚園日曜学校に必ず行かんと聲言、三歳の児童にして稀にみる才覚ありと認め得ん、然して其の体躯堂々たるものあり)、と記されている。
追悼文に幾人もが指摘する通り、土倉さんは読書家であった。家の中は本であふれていた。そのくせ、残した文章は少ない。巻末にその一部が紹介されている。その中に、強く印象に残る文章が二つある。
一つは、京都探検地理学会が発行した「探検第三号」で、昭和十七年に行った大興安嶺探検の分析である。梅棹忠夫と二人で書いている。探検の平常主義と非常主義、合成主義と養成主義の相反する側面から論考する。行程が長くなれば、食糧や生活必需品も多くなって探検そのものが阻害されかねない。本末転倒に陥らないためには、普段の生活態度を断ち切って臨まなければならない。それが非常主義である。また、学術探検の場合は特に専門分野の実績を積んだメンバ−が必要であり、成果も得やすいのであるが、反面、そのような人達は集団で行動することが不得手である場合が多い。言い換えれば、自己中心で和をないがしろにする。困難が立ちふさがる現場ではスル−(through)することが出来ない。それなら、未熟であっても柔軟性に富んだ若い研究者の卵の方が未知の状況に対処できる可能性が高い。それが、養成主義である。探検には常にこの桎梏がつきものである。
二人ともその認識は共有しているのだが、土倉さんは探検の行為そのものに生命を飛躍させる。万が一生還できなくてもいいではないか、そこに骨を埋める、デルスウ・ウザ−ラの様に。だから、梅棹忠夫のように、質素倹約に苦しんだ日本軍の非常主義をたたえて「皇軍を見よ」などと書かない。アメリカ軍をさげすんで、贅沢に染まる平常主義が負けるなどと書かない。
手柄を持ち帰って、帰国後の社会的地位向上のために役立てようとすることに何の不自然さも無く、むしろ、それもまた人間の自然である。だから、二つの人間性が仲良く一つの出来事を分析できたのだろう。
もう一つは、関西淡水魚保護協会の依頼で書かれた「今西錦司その光と陰」である。ここには、今西錦司を指して沐猴而冠という強烈な一打が加えられる。猿が人間の真似をして冠を被る有様を言うのである。文化勲章の御祝いには山の仲間が大挙して京都ホテルの大広間に集まった。僕も例外ではなかった。その時、南極越冬隊の西堀栄三郎や俳句第二芸術論で一般によく知られる桑原武夫など、京都学派の超有名人が次々壇上に上がって祝いの言葉を述べた。それを見ているだけでも刺激的だった。でも、業績の優れたごく一部の人だけが君臨する社会を、そっと、にがにがしく感じ取った気持ちを余韻に持ち帰った記憶がある。大興安嶺探検の隊長は今西錦司である。土倉さんはその時以来の長い付き合いであったのに会場に姿は無かった。家も近い。いつもの山行のようにマイカ−に今西さんを乗せてさっそうと現われなかった。
何故だろう。
光と陰を読むと、それが坦然と分かるような気がする。
生涯に1500山も登りつづけた今西さんの登山クロニクルをこれほど正確にたどれる人は土倉さんだけだと思うし、それほど身近に接し続けることができた理由もはっきりしている。
今西さんと山に登ることが楽しかったのだ。
登山は名利などとは全く縁のない恬淡としたスポ−ツである。楽しさを疎外したものがあったとすれば、それは、世間の方にも責任の一端を負わせなければならない。今西さんの知名度が上がるにつれて登山の同行者も増えて行った。鶏冠山の頃すでにサル山の兆候があったのだ。あの時、一人だけ三角点を拒否した土倉さんは、すでに今西さんから離れようとしていたのかもしれない。
追悼文で、訣別の姿勢について書いている人がいる。船乗りだった今西さんの長男である。「決然と訣別の言葉を述べたかった。述べるべきであった。姿勢を正し、ご本人の目を直視して「長い間、お世話になりました」と」誤解の無いように注釈しておくと、これは、もう生還する見込みの無い重篤な親しかった人に、空々しい励ましの言葉しかかけられない自己嫌悪を述べたものであるが、僕には、万感の思いがこもっていると思えるのだ。
土倉庄三郎の磨崖碑は十津川ではなく吉野川にある。間違っていた。
何時か、その前に、万感の思いをこめてたたずみたい。