無断転載・引用を堅くお断り致します。
2006年2月にオリンピック青少年総合センターで行われた国総研主催のセミナーに参加した。定員を大幅に上回る700名の参加者を得て、大ホールは満員であった。
そこでの中心的な話題は
a:方法論としては「王道」が見えた。
b:これからは「中身」の話しをしていく必要がある。
c::中身の目玉は「社会性」かな?
であった。
aについては異論はない。誠にもって、早期にスタンダードとして定着して欲しいものである。何が王道で何がスタンダードなのかは、このサイトをご覧の皆様にはもはや説明する必要はないだろう。
b:についてもその通りだと思う。これまでは自閉症の障害特性に対する配慮や、指導方法に関する議論が中心であった。個人的には、この指導方法の部分が最も重要だと思っているのだが。
「中身」とは、教育課程上の「指導内容」のことである。このことについては、当サイトでも「般化が困難であることを踏まえた指導内容の選定」を提言してきている。しかし、具体化まではしていなかった。今後の課題としたい。
c:については「ちょっと待った」である。午前の全体会でも、午後の教育課程の分科会でも、文科省・国総研・研究協力校の三者が揃って、トーンの違いこそあれ、「社会性」を教育課程上に位置づけることを提言した。この瞬間、久しぶりにサイトの更新意欲が湧いたのである。
社会性とは何なのか、その中身がハッキリしないままに「社会性」という学習の枠組を設定することは危険である。ただでさえ学校の教員は「社会性」が大好きなのである。「社会性」の名の下に全国各地の(養護)学校で開かれている「我慢大会」に、お墨付きを与えることがあってはならないと思い、筆を執ることにした。
社会性をどうとらえるのか、興味深い二つの考え方がある。一つは「空気を読む」、今ひとつは「自尊と共感」である。
・空気を読む
社会性をごく端的にあらわすと、「その場の空気が読めること」だという指摘がある。イメージとしてとらえるには最も的を射た表現であると思う。しかし、「空気」って何?「読む」ってどういうこと?という点で曖昧である。
私たちが「その場」の空気を読む場合、どこから情報を収集するのだろうか。
通常は、「その場」に突然入るのではなく、何らかの予備知識を得て「その場」に入る。そこはどのような(何を目的とした場所、施設)で、そこに集まっている人は何をしに来ているのか、どんな人が集まっているのか、事前に情報を収集することができる。この情報から、どのように振る舞うべきなのかあらかじめ心積もりしておくことができる。
問題なのは、十分な事前の情報収集ができなかったり(誰かの指示で訳もわからずつれてこられる等)、こうした情報を提供されても意味がわからなかったり、もしくは情報提供側にうまく説明する技術が不足している場合である。この場合、その場にいる人の行動(服装、動き、話し方、体の向き、姿勢等々)から「空気を」読むしかない。そして、周りの人と似たような行動をすることができれば、「空気を読めた」ことになる。
・自尊と共感
もうちょっと具体的なとらえ方もある。(株)アトラクス ヒューマネージは、社会性を「相互に利益が得られる関係を築き上げようとする行動傾向」と定義し、「自尊」=「I am OK.」「共感」=「You are
OK.」の2つの因子に分解してとらえ、両者とも高水準になるほど社会性も高い、と評価する。
大変わかりやすく、クリアだ。自尊・共感とも、養護学校、否、学校教育全般において最終的に子どもたちの中に育みたい教育内容である。よく言われる「みんな違ってみんないい」にも通じる。このページを見て、我々は常に社会性を教えているのだ、と気付かされた。
「相互に利益が得られる」の手前にあるのは、ギブアンドテイクであり、こどもの世界では「とりかえっこ」である。その手前にあるのが因果応報(違うか(^_^;)、因果関係の理解、その手前にあるのが手段と目的の分化ではないかと思う。そしてこれらの土台となるのが、人間に対する根本的な信頼感であり、その第一歩が愛着関係である。
自閉症児の社会性の障害の中身は、「コミュニケーションの障害」と「目に見えないものを理解する力の弱さ」の2点から構成されている。前者は自閉症の診断基準であり、すべての自閉症児が有している。後者は診断基準ではないが、自閉症の最も根幹となる障害特性である。
これら2点のうち、どちらかが達者にできれば社会性の障害は成り立たない。つまり、コミュニケーションに障害があっても、「その場の空気を読む」ことができ、まわりに合わせられれば社会的にはOKである。逆に「その場の空気を読む」ことができなくても、周りにいる人に「どうすればいいですか?」と聞くことができ、その通りにすることができれば、社会的にはOKである。ところが、両方とも自閉症の子どもにとって困難なことなのである。
つまり、自閉症児に「社会性を指導する」ことは、障害特性に真正面から切り込んでいくことに他ならない。まずこのことを確認しておきたい。
もう一つ、一般的にいわれる「社会性」は、あくまで「我々の側から見た社会性」であることを指摘しておきたい。いってみれば、非自閉症者の「俺ルール」である。「俺たち(非自閉症者)の社会で暮らす以上は、お前(自閉症児者)たちはこういう行動をしてくれよな」と言っているのである。その背景には、「能力的に正常な俺たち」と、「社会性に欠けたお前達」という発想があるといったら言い過ぎだろうか。一昔前に流行した「サリーアン課題」は、http://www2u.biglobe.ne.jp/~pengin-c/test.htmで指摘されているように、「君たちは心の理論が欠如していますね!」とも受け取れる(そんなつもりは毛頭ないと思うが)。
つまり、自閉症児に「社会性を指導する」ことは、非自閉症者(私たち大人ね)の「俺ルール」を教えることに他ならない、ということも確認しておきたい。
どの場面が社会的な場面であるのかという定義は研究者の方にお任せして、実践的に考えてみる。
場面の「名称」については、教えやすいし、自閉症の子どもも理解しやすい。学校の儀式的行事の名称や冠婚葬祭の名称は、個々の理解力に応じて取り扱っても良いだろう。「目的」は、その場面の意味を理解する上で重要な情報だが、自閉症児にこれをどのように教えるかが課題となるだろう。例えば「卒業式」の目的を絵で表すのは至難の業である。「活動内容の理解」には、式次第や本人が理解できる予定表が有効である。何はなくとも、コレさえあればその他の要素が多少不備であっても乗り切れる可能性がある。
これらの他に、どんな人が参加しているかの理解や、参加者相互の関係の理解なども関連してくるだろう。
先に述べたとおり、暗黙のルールを理解することは、自閉症児にとってきわめて困難なことである。個々の理解力にもよるが、具体的な行動様式を明文化すれば、これに従って行動できるようになり、あたかも暗黙のルールを理解しているように見えるかもしれない。
一方、いったん「この場面ではこうするものだ」という行動様式が身に付くと、けなげなまでにそれを実践する。私が知る限り、養護学校の教室で「法と秩序」をきちんと守るのは自閉症の児童・生徒である。逆に規範を遵守しようとする意識が高すぎて、あまりにも杓子定規なために「その場の空気」にそぐわない行動になってしまうこともある。
注意しなければいけないのは、行動様式を明文化して上手に振る舞えるようになっても、その意味まで理解しているとは限らないし、本人の意志でそのように行動しているのではない、という点である。「社会性」が取りざたされる場面で求められる具体的な行動の多くは、静かにするとかじっと座っているとか順番に並ぶなどの行動である。意味もわからず他人から指示されてこうした行動を(場合によっては自分の意志に反して)とる場合に、相当のストレスを受けるはずである。このことを理解した上で指導したいものである。
念のため、場面の見通しすらつかず、不安感にさいなまれているにも関わらず、ジッと我慢して何も言わずにその場に静かに座っていることだけを「自己コントロール力がある」と評価するのではないことも確認しておきたい。確かにこうした状況で「我慢」できるのも社会性の構成要素の一つかも知れないが、それこそが社会性だというとらえ方をすると、ただ単に子どもをストレスフルな状況に置けばいいんだ、という指導になりかねない。
自閉症カンファレンス2005の某分科会で、日詰正文氏が「構造化は自閉症の人とつきあう際のエチケットだ」という趣旨の発言をした。まさしくその通りだと思う。自閉症児にマナーやエチケットを教えるならば、その前にまずは教師が自閉症児と対応する時のエチケットを身につけたいものである。
現在の養護学校には、重度の知的障害を伴う自閉症児が在籍しているので、コミュニケーション指導の内容は要求・拒否・注意喚起のスキルを教えることが中心になっている。実際にやっているものとしては、これらを教えるだけで精一杯であるのが本音である。
しかし社会性を念頭に置いた場合、これらの指導に加えて、相手方の受け取り方を想像する力や、言外の意味を理解する力をどのように育てるかが重要になる。ところが、自閉症はこの部分の機能に障害がある。かなり高機能のケースでもこの部分がネックとなっているようだ。
この点に対応する指導方法としてSSTがある。SSTとコミュニケーション指導についてはこちらのサイトに詳しい。
私はSSTのことを詳しく勉強していないので、断片的なイメージに基づくコメントであるが、SSTは、重度の知的障害を伴う自閉症児に対してどのように実施するかという点と、仮に実施のノウハウができたとしても般化が課題になるのではないかと思う。
コミュニケーションスキルは大きく受容と表出に別れる。ここでは、養護学校に在籍している重度の知的障害を伴う自閉症児を念頭において指導内容を整理する。
| 受容 | アイコンタクト 呼名への反応(名前を呼ばれて振り向く、手を挙げる、返事をする) 名詞の理解(指示されたものを取る、指さす) AAC手段による指示理解 具体物を提示されて指示を理解する 以下表出の欄のAAC手段を参照 音声言語による指示理解 簡単な一つの指示を理解する(1回の声かけで指示する行動が一つだけ) 二つ以上の指示を理解する 条件付きの指示を理解する |
AAC手段 <ローテク系> 具体物(その物ズバリからパッケージの切り抜きなど) カード(絵・写真) サイン言語(マカトン法など) シンボル(PCS等) コミュニケーションブック コミュニケーションボード <ハイテク系> VOCA等の専用のコミュニケーションエイド 「あのね♪」等のポケットコンピュータの応用 |
| 表出 | 発声したり、喃語を言う ○要求 事物の要求手段の獲得 欲しい物を手差しをして要求する 欲しい物を指さしして要求する 欲しい物をAAC手段を使って要求する 大人にやって欲しい行動の要求手段の獲得 大人をやって欲しい対象物のほうに押す クレーンで要求する やって欲しい行動の対象物を指さしするなどして示す・手渡す やって欲しい行動をAAC手段を使って要求する 音声言語で事物や行動を要求する ○拒否 嫌悪を表す発声をして拒否する 手を振るなど「いやです」のジェスチャーをして拒否する その他のAAC手段を使って拒否する 音声言語で「いやです、やめてください、いりません」等と言う ○注意喚起 相手の衣服の一部を引っ張って注意喚起する 相手の身体の一部(肩など)を軽く叩いて注意喚起する 発声して注意喚起する AAC手段を使って注意喚起する 音声言語で「先生、すみません、あの・・・」等と言う ○応答 絵や写真を示されて、これを見て名詞を言う 疑問詞に答える(誰、何、どこ、何色 等) ○返事、あいさつ |
*返事、あいさつ
呼名に対する返事は、授業に参加する際に必ず求められる行動である。挨拶も、授業の始めと終わりに必ず行われる行動である。しかし、これらの行動にはこれといった意味がない。挨拶などしなくても仕事はできるし、返事などしなくても指示は聞ける。しかし現実には、「我々の」社会で過ごすには(なかんずく一般就労するには)、何はなくとも挨拶返事ができないとお話にならないというのも現実である。
これらの行動ができることは、社会性の中核といっても良いだろう。
順番としては、呼名に対する返事の方が指導しやすいし、子どもにとってもどうすればよいのか理解しやすい。朝の会などの場面を限定すれば、それほど苦労せず相応の返事の技術を習得できるだろう。教師が差し出した手に触れて返事をするという段階から、音声で「ハイと言う」段階に到達するまでいろいろな形態が考えられる。個々の子どもが楽に実行できる形態で返事をすることを教えることから始めると良いだろう。注意すべきなのは、「ハイ」という音声言語にこだわらないことである。朝の会における呼名と返事は、一日の始まりの儀式のようなもの。この時点で無理難題をふっかけてへこんだ気持ちにさせないようにしたい。
近接した位置づけの行動に「謝罪」がある。いわゆる「ごめんなさい」である。養護学校において、これほど日常生活場面で機会を捉えて指導されていることばも珍しいと思うが、どちらかというと指導する教員が自己満足するための指導(先生様である私に対して迷惑をかけたことについて謝罪しなさい、ということ)に終わっているきらいがある。かといって、「言えるに越したことはない」ことばでもある。このことばをどう指導するかを考えることは、それだけで大きなテーマとなるのでここでは割愛する。
コミュニケーションスキルを教えることと同時に、誰とコミュニケーションするかという視点も重要である。通常は母親との関係から始まり、下図のように徐々に対人関係が広がっていく。

上の図では「行きつけの店の店員」が外周部に位置付いているが、これはコミュニケーションの相手として位置づけた場合の話である。買い物は買い物でそれ自体を早期から指導する。この場合はコミュニケーションという位置づけではなく、お金を使うこと、お金の価値に気づくこと、目的を持って歩くこと、好きな物を選ぶこと等をねらいとする。その際はコミュニケーション面で未熟であれば、そこは支援する(コミュニケーションしなくても買い物ができる補助具(文字カードなど)を利用する)部分であるととらえ、割り切って指導する。
知的障害を伴わない場合や、言語理解力がStageIII-2以上の段階の子どもであれば、「通常イメージできる社会性」(マナーとかルール)の指導内容を「通常イメージできる方法」(SSTをはじめ、説明する、ロールプレイをする、行動をあらわすカードにマルかバツかの評価をする、等)で教えることも可能かもしれない。
ところが、こうした指導方法が適さない重度の知的障害を伴う自閉症児に対して、社会性をどう教えるが問題になる。ここでは、「通常の」内容や方法の前段階にあるものを整理することで、養護学校に在籍している自閉症児の社会性の指導を考えてみたい。
先にも述べたが、社会性の第一歩は愛着関係の形成であると考える。たいていの場合、母親が関係形成の相手となる。
既に死語になったと認識しているのだが、昔「抱き癖」という言葉があったらしい(え?今も現存してるの?)。詳しくは知らないが、泣くたびに赤ん坊を抱いていると、いつも抱いていなければならなくなるので、むやみに抱かない方が良い、ということらしい。これは大きな間違いで、必要なスキンシップは必要な時期にしっかりとってほしい。必要な時期とは、幼児期である。おんぶに抱っこ、大いに結構。小学校入学を機に徐々に減らしていけば良いだろう。入学後、低学年の間に同じやり方で担任教師にも甘えられることを教え、これをベースにして別のやり方(望ましい行動をとる等)でも賞賛という快の刺激が得られることを教えていく。スキンシップの替わりに賞賛の機会を徐々に増やしていく。こうして、担任教師との信頼関係を確固たるものにしていく。ここまでくれば、ほめられることの喜びを覚え、ほめられるような行動をとるのは時間の問題だ。ここでは、行動分析に関する知見が教師に求められる。
日常の生活がほめられることをベースに快適にまわっていくようになれば、自然と周囲(の人)に対する信頼感が芽生え、「多分大丈夫だろう」という楽観的な環境の認知ができるようになる。このベースがあってはじめて社会性を教える準備ができたといっていいだろう。
逆に、いつ降りかかるかわからない災難に常に警戒を怠らないようしなければならない環境(早い話がいつ叱られるかわからない環境)下では、上記の図式とまったく逆のことが起こる。社会性を育てようとして、常に厳しく規制し、社会的に見て「おかしい」行動を徹底的に取り締まるような教育があるが、このような指導方針の下では本当の社会性は育たないと断言しよう。
社会性の芽は、手段と目的の分化であると思う。これが課題になるのはStageIの段階で、いわゆる重度の子どもたちに対しても適応可能な課題である。
この課題の次に来るのが因果関係の理解である。課題の詳細は書物を参照されたい。
指導場面としては、日常の自然な文脈と、個別の課題学習をはじめとする各種の授業場面のどちらでも可能である。StageIの段階の子どもにとっては、個別の課題学習の場面の方が、課題や場面を整理しやすく、わかりやすい指導が可能だろう。
授業に参加する、着席する、順番に活動する、指示に従う等は、日本全国どこの学校でも間違いなく行われている指導である。これらは、社会性の指導そのものといってもいい。ここでは、教育課程上に社会性に関する新たな領域を新設する前に、既にこれだけの内容が既存の枠組みの中で取り扱われている、ということを確認しておきたい。
ただし、ここで紹介する指導内容は、手段と目的の分化が十分にできていないStageIの子どもにとっては、どれも困難な課題である。このStageの子どもには基本的に個別の対応が必要である。
また、適切な態度で授業に参加できるようにするためには、理解可能でやりがいのある活動内容や、興味関心に合致した教材や、解決可能な課題の準備が不可欠である。これらの準備を十分に行った上で「授業に参加しなさい」と指導するのが筋であるのは言うまでもないが、現実には追いついていないのが正直なところである。
着席と順番の遵守は集団で授業を受ける際に身につけておかなければならない基本的なスキルの一つである。逆にコレさえできれば集団の授業に参加できたと評価されることさえある。これらの行動ができるかどうかも、活動内容や教材に大きく依存する。やりたいと思う活動があって、やるためには座らなければならなかったり、順番を守らなければならなかったりするわけである。これなくして無目的に「座りなさい」と指導しても徒労に終わるだろう。
「順番」については、予め順番がわかるようにしておく、という指導の手だてが必要である。「先生が指示する順番に従いなさい」というのでは、順番を知っているのは教師のみということになり、子どもたちにとっては降って湧いたように順番が回ってくることになる。似たようなパターンに「良い姿勢の人から順番に」とか、「今日がんばった人から順番に」などといった「順番」もみられるが、これは順番ではなく教師の指名である。なぜなら、子どもにとって自分は隣のBちゃんよりも姿勢がよいので自分の方が順番が先である、という見通しを得ることは不可能だからである。そうではなく、活動を開始する前に活動順を明示しておくことが必要である。
「順番に並ぶ」ことも、学校でよく行われる指導である。実社会においても頻繁に求められるスキルであり、社会性の中核をなす行動の一つである。「並ぶ」の意味が理解できたり、実際に「並ぶ」ことができるのは相応のレディネスが必要であるということを確認しておきたい。
StageIの段階では、たいていの場合「並ぶ」のは困難だろう。それは当然なことで、決して「ちゃんと並ばないとダメでしょう!」と叱られる筋合いのことではないのである。自閉症児の場合はStageII以上であってもどこにどう並べばよいのかわからない場合がある。「並ぶ」とは、他人の背中が見える位置に立ち、その背中はいつも同じ人の背中で、ただしそれはその場限りで、その背中が移動するのにあわせて自分も適切な位置関係と距離を保ったまま移動する、という極めて複雑な行動である。
一人で並ぶことが困難な場合は、教師が手をつないで「並ばせる」ことになる。並ぶことに補助が必要な場合に、ただ単に補助して並んだ経験をさせるだけではなく、並ぶことの意義を経験できるようにすることが必要である。通常、「並ぶ」場合は、何か自分にとってやりたい活動がある場合に並ぶことが多い(行列のできるラーメン屋で食べるなど)。もちろんそれだけでなく、やらなければならない活動を行うために並ぶ場合もある電車の切符を買うために並ぶなど。しかしこれとて「電車に乗りたい」というモチベーションが存在する)。まずは前者のパターンで並んだ後に(直接)よいことがあるという場面で経験する機会を設定する。それも、並ぶ行列の長さ(=並んでいる時間)に配慮しなければならない。はじめから10人の行列に並ばせていては、途中でリタイヤしてしまい、結果的に「よいこと」を経験できずに終わってしまう。これでは、並ぶことの意義を経験することはできない。まずは一人だけ並んでいる列を選び(作り)、立ち位置も床にマーキングするなどしてわかりやすくし、徐々に長い列を経験するように段階的に指導したいものである。
ちなみに、床にマーキングする際はビニールテープが一般的であるが、StageIの場合はこうした2次元(平面)情報が読みとれない。この場合はフラフープを使ったり、巧技台の上に立つなどして3次元(立体)化するとわかりやすくなる。ここから徐々に2次元情報に変換していけばよいのである。「社会性」が冠につくと、ついつい一般社会でよく目にする形が念頭に浮かんでしまい、強めの構造化や指導の手だてを忌避してしまいがちであるが、急がば回れである。
「順番に並ぶ」ことがクリアできたら、並ばずに順番を守るという課題もあるだろう。「整理券」や病院の会計などでみられる「電光掲示」方式も考えらる。このような順番の守り方が理解できるのは、StageIV以上で多くの経験が必要だろう。
指示に従うことも、集団で授業を受ける上で不可欠の行動である。最もありがちな問題は、「指示がわからないために従えない」ことである。特に自閉症の子どもの場合、指示が理解できると律儀にその通りにしようとする場合が多い。自閉症の子どもが指示に従わない場合は、教師の指示の仕方を改善する必要があるだろう。もしくは、「あんたの指示には従いたくないよ!」という関係に陥っていないかチェックする必要があるだろう。
指示理解については、これはこれで深いものがあるので、ここでは割愛する。
慣れ親しんだ人と一緒に学校の外に出て、公共の場面を体験することは、早期から可能である。週時程の一部に、学校の外に出ることを主な活動内容とする校外学習の時間を位置づけたい。
第一歩は自宅や学校のまわりを散策することである。ここでは、外出にふさわしい服装を整えること(重点は「靴を履く」)、教師と一対一で手をつないで歩くこと、体力に応じた距離と時間をスムーズに歩けること、目に入ってくる刺激に対して極端な反応(飛び出しなど)をしないことなどが指導内容として考えられる。これらはStageI・小学部低学年から取り組むことができる。これらをクリアしたら、目的地や歩き方(友達と手をつないだり、誰とも手をつながずに歩く等)、荷物を持つ等の内容が考えられる。学校的な発想では、これらは予算執行を伴わない範囲の活動としてひとくくりにすることができる。
ここで一つ確認しておきたいことがある。数人の集団で校外を歩くという活動をする場合、何を指導内容とするか、ということである。ここは教師の価値観に大きく左右されるところである。これまで、二つの極端を経験したことがある。一つは、自由度が高すぎ、集団が縦に長く伸びすぎてしまい、安全管理上問題が生じるおそれがあった学校。一つは、規制が強すぎ、さながら軍隊の行軍のようになってしまっていた学校。いずれの場合も問題がある。安全管理を万全にしつつも、息苦しくなることが無いような歩き方の指導を行いたい。
次のステップからは、社会性の指導内容として一般的に想定されている公共交通機関を使ったり、買い物をしたり、レジャー施設を利用する等幅広い内容が考えられる。場面としては遠足等を当てることができるだろう。ただ、「遠足」は行事であり、授業として継続して取り組むことはできない。また、授業時数確保のために行事は削減される傾向にあるので、授業としてこれらの予算執行を伴う学習を計画する必要があるだろう。この種の実践は、きっと多数の実践例が各学校に蓄積されていると思われるので、ここでは割愛する。
校外学習を含めて、通常の授業の枠組みにおおむね安定して参加できるようになったら、運動会・学習発表会・儀式的行事などの全校行事や、交流学習などの場面で、いつもと違った「場の空気」を体験することも課題になる。これらの課題は一つ上のランクの課題であることを確認したい。こうした課題に取り組む場合、別の側面で支援を手厚くするとよいだろう。たとえば、低学年の児童であれば、それまで教師の膝の上に乗ることを徐々に減らしてきていたとすれば、こうした場面ではいったん元に戻り、安心できる教師の膝の上で参加することから始めてもよいだろう。もちろん、それまでと同様の対応のラインで無理なく参加できるのであれば問題ないのだが、その場合でも「この子にとってこの場面はどう映っているのかな」と考えることは忘れないようにしたい。
いつもと違った場に対する抵抗が大きい子どもの場合、Stageによって対応は別れる。
StageII以上の認知の力を持っていれば、場面を見ていることもひとつの経験である。全く切り離してしまうのも惜しいと考えるならば、「遠巻きに観察する」ことで折り合いをつけると良いのではなかろうか。
一方StageIの認知の力では、遠巻きにしていると「視線の射程距離」が足りずにこちらが意図した対象を見てくれない可能性の方が高い。この場合は潔く別の活動を行った方が有意義であろう。
以下の二つの課題が考えられる。
実態把握→指導計画立案→授業→評価という流れで指導を行う場合、社会性の指導ははじめの一歩でつまずいてしまう。S-M社会生活能力検査などで測定できる社会性のスコアは、大局的見地からのものである。授業を計画する前の実態把握として使うには、もう少し細かな視点での実態把握が必要である。これをどのような方法で行うかは、今後の課題であろう。
既に冒頭で指摘したが、一般に教師は「社会性」が大好きである。そのわりには、何を(指導内容)どう(指導方法)指導するかということは曖昧なままである。再度確認しておきたいのは、教師の言うことをきかせるだけの手だて無しの指導は単なる「我慢大会」であり、そんなものを開催しても社会性は育たないということである。
ここでの一提案をたたき台に、社会性の捉え方、指導内容、指導方法を十分検討していく必要があるだろう。